第10話 松の木の下で 


 目が覚めると、見慣れた天井が広がっていた。

 起き上がろうとしたが体は言うことを聞かず、長い間嫌な夢を見ていたかのように汗ばんでいた。小さく息を吐いてから視線だけを横に向け、はめ殺しの窓から見える外の景色を眺めると、弓のような形をした美しい月が見えた。


「一体どうしたんだろう?何が起こったんだろう?」

 僕は声が出ることを確かめるかのように口をゆっくりと動かした。

 答えてくれる者など誰もいない。

 けれど、心に染み渡るような美しい笛の音が聞こえてきた。


 この音色は忘れもしない。


 白の羽織を着た紅天狗が、白い蝶のように優美に舞いながら紅葉の絨毯の上で笛を吹いているのだろう。

 神々しい月や眩い星ですら男に恋をし、遠く離れた男に自分の存在を知らせるかのように明るく輝き出す。色褪せた葉の全てが男の音色に応えるかのように再び燃え上がり、お堂の上に燦然と垂れ込めていく。

 夢のような光景を思い浮かべるだけで、心が満たされ体が和らいでいった。さらに心地よい笛の音に耳を傾けているうちに、徐々に記憶が戻ってきたのだった。





「昌景、よく聞け。

 今日は面をしたまま風呂に入れ。絶対に外すなよ。

 部屋に葉を置いておくから、口元部分だけを少しずらしてから食うんだ。

 それから布団を敷いて、横になれ。

 横になってから、面を外すんだ。

 この手順、絶対に間違うなよ」

 紅天狗はお堂に戻ってくるなり強い口調でそう言い、僕の背中や腕に触れてからいなくなった。


 お面をつけたまま風呂に入り部屋に戻ると、ギザギザの葉がのったガラスのお皿がテーブルの上に置かれていた。

 ギザギザの葉からはツンとする薬品のような匂いがし、お面の口元部分だけを少しずらして食べてみると苦い味がした。

 それから僕は布団を敷いて横になった。

 ゆっくりとお面を外すと、激痛が全身に走って呻き声を上げたが、外から笛の音が聞こえてくると直ぐに眠りについたのだった。


 そうして今まで眠っていたのだろう。

 笛の音に酔いしれるように瞳を閉じると、僕はまた深い眠りについていった。





 僕の名を呼ぶ声が聞こえたような気がして目を開けると、紅天狗が心配そうに僕を見つめていた。


「おっ、起きたな。よかったよかった」

 と、紅天狗は言った。 


 窓から陽の光が差して薄暗い部屋は明るくなっていた。締め切っていた襖も開けられ、淀んでいた空気は新鮮な空気に変わっていた。


「何があった…」

 僕は肘をついて体を起こそうとしたが、全身に鋭い痛みが走り呻き声を上げた。紅天狗はそのまま崩れそうになった僕を受け止めてくれると、背中を支えながら寝かせてくれた。


「骨が数本折れていたんだ。

 よく頑張ったな、昌景。

 無理させて、すまなかった。

 葉と薬湯、おいてくからさ。ゆっくり休め。

 喋ったり色々考えたりするよりも、何も考えずに横になっていた方が楽だろうからな。

 戦ってくれて、ありがとな」

 紅天狗は優しい瞳でそう言うと立ち上がろうとしたので、僕は咄嗟に着物の袖を掴んだ。そっとして欲しい時もあるが、今は紅天狗と言葉を交わしたかった。

 紅天狗は僕の顔を見ながら少し考え込んだ。


「まぁ、とりあえず食えよ。

 なんか…話でもするか」

 紅天狗は座り込み、困った顔をしながら腕組みをした。


 ギザギザした葉を一口齧ると、痛みが消えて体があたたかくなり力が湧いてくるように感じた。重くのしかかっていた怠さも消えていくと、不意に枕元に置かれた艶やかな輝きを放つ短刀が目に入った。

 すると、悪意に満ちた一反木綿の顔が蘇った。


「正直なところ…こんな事になるなんて思いもしなかった。

 たしかに…体は痛いよ。

 けれど、心は違うんだ。

 何処か清々しいというか…そんな変な気分なんだ。

 無事にこうしていられるからっていうのもあるんだろうけど、何かに立ち向かえたっていう事が嬉しいんだ。 

 僕は…守ってもらうばかりだったから。 

 自分には何の力もなくて…抗うことも許されないような…弱いだけの存在だと思っていた。

 けれど…兄と紅天狗の姿が浮かんで「諦めてはいけない」と思った。

 たとえ死ぬことになっても…何かを守る為に…それが何なのかはハッキリとは分からないけれど…なんとしても戦わなければならないと思った。爪痕を残さなければならないと思った。

 すると、一矢報いることが出来たんだ。

 あの時の…一反木綿の顔は忘れられない。

 とても小さな反撃だったけど、戦うことが出来る男になれたような気がした。

 体は痛めつけられたけど、心は、そうじゃない。

 少し強くなったような…自分に自信が持てる日がくるような…変な気分だよ。

 ううん…変だ…熱でもあるんだろうな」

 だんだん恥ずかしくなってきて、僕は冗談めかしに言った。


「あぁ、そうだな。

 昌景に熱はある。

 ここに、たしかに熱はある。

 熱は火となり、炎となる。

 何者にも屈しない猛々しい炎だ。

 踏み出す勇気を持ち続けろ」

 紅天狗は力強い眼差しで言うと、僕の胸を小突いた。


「お前は、守ってもらうばかりの男じゃない。

 お前には、力がある。

 誰しも、抗うことが出来る。

 抗うことをやめなければ、大切なものを守れる。

 そうして、強い存在になれるんだ。

 誰かに委ねることなく、己で決定することが出来る権利を持ち続けろ。

 熱は、力になる。力は、強さだ」

 紅天狗は刀を握っている時のような真剣な瞳で言った。


「うん…分かった。

 なら…少し…運動でもしようかな…」

 僕は呟くように言った。

「強さ」という言葉から、兄の鍛え抜いた体を連想した。

 僕は細い方ではないし筋肉もあるが、兄の鍛え上げられた体からは「強さ」をいつも感じていた。高校生でありながらも迫力があり、父ですらたじろぐ程の威圧感だった。

 その堂々とした容姿のせいもあってか兄から発せられる言葉は、いつも説得力があった。


「そうだな。いいかもしれんな。

 昌景がやりやすいものから、やっていけ。

 何をするにしても体力は必要だしな。 

 異界へと繋がる道を歩いている時、昌景はいつも辛そうだ」

 と、紅天狗は言った。


「やっぱり…気付いてた?

 長くて険しいから…いつもヘトヘトだよ」


「まぁな。 

 体中に汗かいてて息も上がってたら、そりゃあ気付くさ。

 いいキッカケができたじゃないか。

 以前も…そうそう…猫又の領域に行く前にも運動してたよな。あん時から、心に思うところがあったんだろう?

 あれさ、続けていけばいい」

 紅天狗はそう言うと、布団の側に置いていた鴉のお面を拾い上げた。

 鴉のお面は艶々とした黒を取り戻していた。

 お面をしたまま風呂に入ったのだが、こびりついた泥や汚れは簡単に落ちるものではないだろう。

 僕が寝ている間に、紅天狗がお面を磨いてくれていたのは明らかだった。何度も足を運んでくれていたのかもしれない。


 紅天狗はしばらく鴉のお面を見つめたあとに、僕を優しい瞳で見た。


「続けることが力だ」

 と、紅天狗は言った。

  

 僕が言った兄の言葉を、紅天狗は覚えてくれていたのだった。


「なぁ、昌景。

 心と体は繋がっているから、体を鍛えるっていうのは心にもいい影響をもたらしてくれる。

 昌景は、心を、鍛えなければならない。

 変わりたいと思ってるだけだと、熱は消えてしまう。何かしなければ、何も変わらない。

 その切っ掛けを、昌景は自分で見つけた。

 俺が思うに自信っていうのはさ、日々の努力によるものだ。

 これだけ努力したんだと思えたら、そこから生まれる自分の力と強さを信じることが出来る。

 自分の強さを信じることが出来れば、刈谷昌景を築くことが出来る。

 誰にも揺るがすことが出来ない、確固とした己を作り上げることが出来る。

 背筋を伸ばして胸を張り、前を向いて歩くことが出来る。

 自らの足で一歩ずつ力強く歩むことで、歩みを阻もうとする泥もついてこれなくなり、ふと気付いた時にはすっかり落ちているだろう。

 なんなら、俺が昌景にあったトレーニングを教えてやろうか?」

 紅天狗は嬉しそうな顔で言った。


「え?

 僕も、紅天狗みたいな体になるの?」


「いいや、ならんならん。

 俺のような体になることは短期間には不可能だし、この戦いで、その必要はない。

 だが刈谷昌景の人生は、これからも続いていく。

 食事もな、変えるとするか。

 もっと強くなれるぞ」

 紅天狗はそう言うと、自分のことのように楽しそうに笑ったのだった。

 

 その笑顔を見ていると、僕も笑みがこぼれた。

 僕は決意が揺るがないうちに、動けるようになったらすぐに運動を始めようと思った。

 逞しい兄の体と自分の体を比較して一度は諦めてしまったが、もう一度始めよう。


 ここから始めるんだ。


 

「僕は…いつも嫌なことから目を逸らしてきた。

 以前…臭いものに蓋をする習性があるっていったけど…それは…僕自身のことだったのかもしれない。根本的な解決をはかることなく、自分の痛みにも…目を逸らしてきた。

 そうすると感覚が麻痺して、自分が爆発しそうになっていることにすら気付かなかった。気付いてあげられなかった。

 だから今回は…目を開けて、しっかり「現実」を見ようと思ったんだ。目を閉じたところで、現実は良くならない。

 知ろうと思った。学ばなければならないと思った」


「そうか。じゃあ、今回はソレもしっかり果たせたな。

 両の眼をしっかり開けておくことで、他にもなんか見えたか?」

 と、紅天狗は聞いた。


「そうだね…しっかり目を開けていたら、いろんなことが分かってきたよ。

 自分が望まなくても、戦わないといけない時がくる。

 僕と相手は違うんだ。

 自分から攻撃するのは違うけど、守り抜く力は必要だ」

 と、僕は言った。

 一反木綿の言葉が頭の中をグルグルと駆け巡った。相手は僕の都合など考えてはくれない。戦う準備が出来ていなくても、敵意をもった相手は襲ってくる。


 僕は異界に思いを巡らせながら、ガラスのコップに注がれている白い薬湯を見た。

 すると、真っ白い雪のような白大蛇を思い出した。


「白大蛇の煙は、どうしても苦手だな。

 頑張って目を開けていようと思ったけど、どうしても体が痺れていつの間にか意識を失ってしまう。どうにかならないかな?

 だけど…今回は意識を失う前に、結界門の扉が赤く爛れたような色をしているのがハッキリと見えた。毒毒しくて…身の毛がよだつほどの残酷な色をしていた」

 と、僕は言った。


「どうにもならないな。

 白大蛇様は神の使いであらせられるから、俺よりも高位の存在だ。

 高位の存在を眠らせたりすることは、絶対に出来ない。

 すまんが、慣れてもらうしかないな」

 紅天狗はそう言うと、笑った。


「慣れ…か。いつか慣れるといいな。

 あ、そうだ!

 空を飛ぶのは憧れていたけど、僕は人間だから…地に足をつけていないと緊張するね。あれも、なかなか慣れないよ。

 せっかく空を飛べたのに嬉しいというよりも、恐ろしいという気持ちが大きくなってしまう。

 だけど紅天狗が守ってくれるから、絶対大丈夫だとも思ってる。

 力強い手に掴まっていると、安心出来るから叫び出さずにいられる。

 ありがとう」

 と、僕は言った。


 すると紅天狗の顔から笑みがみるみる消えた。

 僕をまじまじと見つめてから、赤い髪の毛をかき上げた。少し小さく笑ってから「そうか」と素っ気なく答えた。


「紅天狗…?」


「すぐに戻ってくる」

 紅天狗はそう言うと、部屋から出て行った。


 しばらくすると右手に笛を持って現れ、静かに腰を下ろした。


「薬が効いている間に、眠った方がいい」

 紅天狗はそう言うと、まるで愛しい女性に口付けをするかのように木笛に唇を添わせた。

 ゆっくりと目を閉じると、優しい音色を奏でてくれた。

 紅天狗の後ろに見える床の間の桔梗が音色に合わせるかのように揺れた。ユラユラと揺れる桔梗を見ているうちに瞼が重たくなっていき、僕は深い眠りに落ちていったのだった。




 眩しい陽の光を感じて、僕は目を覚ました。

 十分に体を休めることが出来たからなのか、爽やかな気分で起き上がることが出来た。

 すっかり元気が戻ったように感じると、一刻も早く外に出て陽の光を全身に感じたくなり、布団を片付けてから洗面所へと向かった。


 久しぶりに見る自分の顔には、無精髭が生えていた。

 少し頬がこけたようにも思えたが、鏡の中に映る自分の瞳は以前よりも力があるように感じた。

「僕は、変われるかもしれないな」

 僕は鏡の中の刈谷昌景に向かってそう言うと、少し笑ってくれたように思えた。


 それから軒下に向かうと、逞しい背中をした男が座っているのが見えた。

「おはよう、昌景。

 体の調子はどうだ?」

 僕が声をかける前に、紅天狗はそう言いながら振り返った。


「あっ…おはよう。もう大丈夫だよ、ありがとう。

 普通に歩けてるし、お腹も空いてるぐらいだから」


「そうか。良かった。

 なら、飯にするか。

 いい天気だしな」

 と、紅天狗は言った。


 久しぶりに見る空は青く澄んでいた。

 きらきらとした陽の光が降り注ぐと、紅葉が明るく輝いて喜びの色を発しながら僕を迎えてくれたように思った。


 しばらく離れていてからこそ分かった。

 この場所が、本当に好きだ。この場所は優しくて、とても居心地がいい。



 今日起きてくると分かっていたのか、紅天狗は僕の分も用意してくれていた。久しぶりに食べる食事は本当に美味しくて、残さず食べれたことに自分でも驚いた。

 紅天狗はそんな僕を満足そうな顔で見ていたが、不意に口を開いた。


「今宵は満月だ。

 美しい月を見ながら、一緒に飲まないか?」


 

 断る理由はなかった。

 ここでは都会のようなギラギラした明かりはないから、宝石を散りばめたような星空が見える。

 以前、紅天狗と一緒に酒を飲みながら見た夜空は、夢のような美しさだった。はめ殺しの窓から見える夜空は限られているし遠く感じるから、もう一度夜風を感じながら見てみたい。

 それに、もしかしたら兄も見ているかもしれない。

 また会うことが出来るのならば、僕は兄の隣で酒を飲める男になっていたい。そう流れ星に願い、一日一日を生きていこう。


 二つ返事で答えると、紅天狗は嬉しそうに笑った。


「月が昇れば、迎えに来る。

 中で、待ってろ。

 夜風が冷たいからな、暖かくしろよ」

 と、紅天狗は言った。


「ここで、飲むんだよね?」

 と、僕は聞いた。


 ここではない場所で飲むような口ぶりだった。

 軒下は深く垂れ込めるような紅葉のお陰で寒くはない。冷たい風で体を冷やさないように守られていると感じるほどだった。


「いや、ここじゃない。

 前に話したの覚えてないか?」

 紅天狗はそう言ったが、僕は思い出せなかった。


「なら、より楽しみにしてろ。

 今宵は、カラスも来るからな。

 あっ…そうだ。短刀も忘れんなよ」

 紅天狗は澄み渡る青空を見ながら言った。



 紅天狗の後ろ姿が見えなくなってから僕も立ち上がった。

 部屋に戻ると鞄を開け、クチャクチャになっていたパーカーを手に取った。それから食料を詰め込んだ鞄を開け、駅の構内で買った酒の肴になりそうな物を選んだ。

 紅天狗がそれを食べるかどうかは分からない。一緒に食べてはいるが、紅天狗の好物も苦手な物も分からなかった。

 いつもニコニコしながら話を聞いてくれるから僕の話がほとんどで、紅天狗がどんな道を歩んできたのかも知らなかった。

 僕は手に取った物を畳の上に置き、ため息をつきながら部屋を見渡した。床の間が目に入ると、僕は静かに桔梗と松の枝葉に近づいて行き、ぼんやりと眺めていた。





 はめ殺しの窓から夜空の光が差し込んでくると、白の羽織を着た紅天狗が姿を現した。月が昇ると1人で出歩く事が出来ないので、夜に歩くのは久しぶりだった。

 高く聳える木々の隙間から夜空の光が差し込み、僕の足元を照らしてくれた。何処に向かっているのか分からなかったが、落葉を踏む音がカサカサと響いた。

 いくら舞い落ちても、次の日には鮮やかな紅葉が咲き誇っている。

 枯れ木になることも色褪せることもなく、この山は美しい。

 不思議な山だ。

 袴の人が言ったように、それは全て紅天狗の力によるものなのだろう。草木も落葉も全て、男の心に従っているのだろう。

 男が吹く笛の音によるものなのか、それとも男が大切に想っているからなのか…僕には分からない。

 もしかしたら…両方なのかもしれない。

 笛の音で心と体が癒されていき、僕を大切に思ってくれている男の言葉の威力の両方を僕は感じたのだから。


 ふと顔を上げ、目の前を歩く紅天狗の後ろ姿を眺めた。

 すると夜のせいなのか灰色の翼が少し濃くなったような気がした。


「紅天狗…」


「あ?なんだ?

 気分でも悪くなったか?」

 振り返った紅天狗は心配そうな顔をしていた。


「いや…その…」 

 その表情を見た僕は声をかけたことを後悔した。


「なんだよ?言えよ」


「翼の色が少し変わったな…と思って。

 灰色っていうより…黒くなりつつあるような。

 天狗の翼も…冬羽のように生え変わるのかな?」

 僕はそう言い終わらないうちに、男は天狗であり鳥ではないのだから何を言ってるのだろうと思った。

 

 すると、男の瞳は少し険しくなった。


「そうか。 

 昌景も、分かるか。急がねばならないな。

 白から灰色に化わり、全てを燃やし尽くす黒になる前に」

 と、紅天狗は言った。


「え?どういう事?」


「冬じゃない。

 蔓延る醜悪さが、俺の翼の色を化えるんだ。

 この続きは着いてからにしよう」

 紅天狗は素っ気なく言うと、また前を向いて歩き始めた。




 やがて鬱蒼とした老杉に囲まれた数百段もある長い階段が見えてきた。この階段は何度も見ている。いつも額に汗を滲ませながら上っている階段だ。

 

「異界に行くの?」

 と、僕は言った。

 いつもとは違う道だったから、今の今まで気付かなかった。


「いや、行かん。

 この先で、飲むんだ」

 紅天狗は下駄を鳴らしながら軽快に上って行った。

 

 僕は額に汗を滲ませながら階段を上りきった。

 汗を拭ってから顔を上げると、聳え立つ黒い大きな影によって美しい夜空は見ることが出来ず、辺りは不気味なほどに暗かった。


「よく…見えないね…」

 僕がそう言うと、紅天狗は右手を掲げた。



「ならば、輝かせてみせよう」

 紅天狗の言葉を待っていたかのように視界を塞いでいた立派な松の枝が大きく動き、夜空に浮かぶ大きな光が差し込んだ。

 幹が輝きを放つかのように白く色づき、それを合図に光り輝く世界が広がっていった。


「あぁ…綺麗だ」

 紅天狗は目を細めた。

 その美しさに触れようとするかのように右手を伸ばすと、夜空がさらなる煌めきを放った。


 麗しい満月が夜空に浮かび、美しい星が輝いている。

 これほど綺麗な夜空は見たことがない。

 満月は煌々と輝いているのに、宝石のように散りばめられた星の輝きもかげることはない。

 眩い満月の光は星の光を遮ってしまうはずなのに、何らかの力が働いているのか星も輝きを失わなかった。月が煌々と輝くほどに、星も美しく輝いた。

 不思議でたまらないのに、僕はその美しさに魅せられ見つめることしか出来なかった。神々しさすらも感じたからだろう。

 その力は、全てを支配している。

 僕達人間など、小さな小さな点に過ぎないのだ。



「ほら、ここにも月があるぞ」

 松の木の裏手から紅天狗の声が響いた。


 男は木橋の上に立っていた。


 透き通った池の水面にも麗しい満月が浮かび、星の輝きが映し出された金色の池の上に男は立っていた。木橋も輝きに溶け込み、僕達も煌めきとなって星空に漂っているように感じた。

 しゃがみ込んで星に手を伸ばすと、届かぬ輝きが揺らめきながらでも手の中にあるような幻を見ることができた。

 水面は美しい波紋を描いた。

 満月が揺れ、星は華麗に水の中を泳ぎ、せせらぎの癒しの音が響き渡った。


 しゃがみ込んだまま紅天狗を見上げると、僕は満月の光に照らされた男の力を見た。

 僕の目に映る男は、優雅さと烈しさを兼ね備えた特別な存在だった。

 銀色の瞳の輝きは、空に浮かぶ満月そのものだ。夜風に吹かれて髪は烈しい炎のように揺れ動き、強靭な肉体からは全てを圧倒するような力を発していた。

 陽の光の下で見るよりも満月の光の下の方が、紅天狗の美しさと恐ろしさがより烈しく目に焼きついたのだった。



「座るか、昌景」

 紅天狗はそう言うと、僕を色々と準備された松の木の下に案内してくれた。


 紅天狗は刀を地面に置き、美しい星を眺めながら大きな幹に寄りかかった。


「元気になってくれて良かった。

 俺も、嬉しいよ。

 ありがとな。

 ほら、昌景」

 紅天狗は微笑みを浮かべながら、僕に飲み物を差し出してくれた。それは酒器ではなく湯呑みだった。

 吸い込まれそうな深い黒の光沢に星を散りばめたような斑紋が美しい。空を手にしたかのように感じるほどの荘厳さだった。


「なんだよ?やけに驚いた顔してるな」


「日本酒が出てくるものだとばかり思ってたから」

 僕がそう言うと、紅天狗は笑った。


「そんな無理はさせんさ。

 そんな体で酒なんか飲んだら、また寝込むことになるぞ」

 と、紅天狗は言った。


 一口飲むと、まろやかな甘みが舌の上に広がっていった。

 華やかさを感じる香りで心も満たされると、足に触れる草がさらに柔らかく感じ、ここまで歩いてきた疲れが取れていった。


 僕達は異界について語ることはなかった。紅葉にコスモスのこと、滝や鴉のこと、共に見てきた美しい数々について語り合った。

 穏やかな気持ちで明るい話をするうちに、日が暮れてから感じ始めた怠さもなくなっていった。

 

 お茶を全部飲み干してから湯呑みを草の上に置くと、指に松の枝葉が触れた。ソレを拾い上げると、部屋に飾ってある桔梗と松の枝葉を思い出した。河童の領域に行ってから数日経つのに、桔梗は美しく咲き続けている。否、美しさは増すばかりであった。


 あの日から、僕の全てが変わったのだ。


「この松の木に、紅天狗を見たんだ」

 突拍子もなく僕が切り出したからなのか、湯呑みを口に運ぼうとしていた紅天狗の手が止まった。


「そうか。どんな風にだ?」

 と、紅天狗は言った。


 僕が話し始めると紅天狗は黙ったまま聞いてくれたので、僕は桔梗と松の枝葉のことも付け加えた。


「おかしいよね。一緒の花瓶に挿すなんてさ。

 繊細な桔梗は嫌がるかもしれないのに、どうしても一緒にしたくなったんだよ。

 そしたら枝葉の色が、白く変わったんだ。

 不思議だよね?」

 僕はそう言ったが、紅天狗は何も言わなかった。


 冷たい夜風が吹いて、何処かで鴉が鳴いた。心を抉るような悲しい鳴き声に聞こえた。

 紅天狗をチラリと見ると、男は夜空を見つめていた。男の瞳には美しい星が映っていた。


「どうしたの?」


「桔梗は…何か言ってたか?」

 と、紅天狗は言った。


 花は喋るはずもないので、紅天狗が何を言っているのか一瞬よく分からなかった。

 僕は目を丸くしながら、紅天狗を見た。

 すると男は心を落ち着かせるかのように赤い髪をかき上げてから、切なげな表情で僕を見つめてきた。


「教えてくれよ、昌景」


「どうだったかな…?

 えっと…あの…あっ!嬉しそうにユラユラと揺れていたよ!

 そう…そうだ!それから松の枝葉に寄り添っていったんだ!自分から望んで身を委ねるかのように」

 僕が大きな声で言うと、紅天狗は柔らかい表情になった。


 そして少し恥ずかしそうに笑うと、また美しい星を見つめた。


「星が綺麗だな」

 男はそう言うと、柔らかい草の上に置いていた刀に触れた。


「ありがとな、昌景。

 本当に、ありがとな」

 紅天狗は刀の柄を握りしめてから、僕を見つめた。

 満月の光が男に注がれると、銀色の瞳が煌めきを放った。息を呑むような麗しさだった。


 だが、その瞳は徐々に燃え上がるような烈しさを帯びていった。


「お前の言葉は正しい。

 この松の木は、俺そのものだ」


「え?どういう事?」


「漂うニオイが濃くなり、門を引っ掻く爪の音がするたびに、山の神様がお選びになった妖怪を惨殺する…と俺は言った。

 だが厳密に言うと、今は、そうじゃない。

 ある時から、ニオイは届かなくなった。

 俺が、ソレを望んだからだ。

 この松の木と俺の翼が、ニオイの全てを背負う。醜悪なニオイが蓄積されていくにつれ…色を化える」

 紅天狗は静かに笑い、幹の鼓動を感じるかのように瞳を閉じた。


「けれど、それでは愉しめない。

 また「タダ」で与えてしまうことになる。

 漂ってくるニオイを嗅げなくされた代わりに、一部の妖怪の頭には、松の木の色が変わっていくさまを見ることが出来るようにされた。

 それで頻繁に行かなくていいようになり、探す為の時間が出来た。

 けれど頭に命じられて「早くしろ」とばかりに爪を立てにくる妖怪がいるから、異界中に響き渡らないようにソイツらを殺しに行っている。

 白から灰色に、そして黒くなり果てた時…俺は、俺を、終わらせるんだ。

 俺は、昔の俺に、戻るだけだ」


「昔の…紅天狗?」

 と、僕は言った。



「知りたいか?」

 紅天狗の瞳が妖しく光った。その光は、僕にその覚悟があるのかを問うていた。


「は……い。

 いえ…僕は…僕は知りたい」


「ならカラスが来るまで、昔話の続きでもするか」

 紅天狗は刀から手を離し、大きく伸びをしてから幹にもたれかかった。


「はい。お願いします」

 僕は背筋を伸ばしてから言うと、紅天狗の真似をするかのように幹にもたれかかった。


 見上げた満月は、少し赤みを帯びたような気がした。





「山の神様は他の神々の理解も得られるように「元」の状態に戻されようと御考えになった。

 女神が改変した世界を「元」の状態に戻すんだ。

 恐れる者は山に棲みつき門と橋を守り、白い翼をはためかせながら結界門に爪を立てた妖怪に刀を振るった。白い翼はまるで眩しい陽の光のように、妖怪の目には映っただろう。

 陽の光の下では、妖怪は闊歩してはならない。

 それは、神の御意志だ。

 結界門が固く閉まり、恐れる者と白大蛇様が守っていることで百鬼夜行は止まった。だが、それでコトは終わらない。

 人間を食らう妖怪の姿が見えなくなり、また見せかけだけの平穏が訪れた。

 宮中の連中は、胸を撫で下ろした。

 神に祈り続けたことで「何らかの不思議な力」が発動した。夜に姿を見せるはずの妖怪がいなくなったのは「神が降りてこられ、妖怪を成敗なされた」からに違いない。説明のつかない現実を前にすると「神によって守られている」と都合よく考えたのだ。

 今まで以上に厚く信仰し、神社の保護を盛んに行って多くの宝物を寄進した。

 幾夜も過ぎ、妖怪が現れないと確信すると、歓喜の声を上げた。

 妖怪は、いなくなった

 もう、いない

 恐れることはない

 …とな。

 もう、止めることが出来なくなった。毎夜現れていた妖怪がいなくなったのだから。いなくなったら、忘れていく。そう…人間の多くは、恐怖を忘れていくんだ。

 こんな言葉があったか…喉元過ぎれば熱さを忘れるとな。いや、そうでなければ生きてはいけぬのか…そうして何度も何度も繰り返す」

 紅天狗は大きく溜息をついた。

 

「世の中の混乱を収拾し不都合な真実を完全に消し去る為に、宮中の連中は取り締まりを始めた。

 妖怪は存在すらもせず、多くの人間が死んだのは懲りることなく疫病や天災や乱などが原因であったとしようとしたが、権力に立ち向かう勢力が現れた。

 すると彼等を力で抑え込もうと考え、武士に命じて、同じ人間に容赦なく刀を向けさせた。一家もろとも惨殺にし、家屋を焼き、人心を惑わす流言を吐く者として磔にした。

 次第に人々は恐れをなして立ち向かう勇気を無くし、ついに声を上げる者はいなくなった。

 こうして宮中と武士の交流はさらに深くなり、武士は官職を得るようになり、武士の勢力は日に日に強くなっていった。

 そうして月日が流れた。

 妖怪が想像上の化け物となる頃には、人間は夜でも活発に生活をするようになった。

 一部の人間から発せられていたニオイは、多くの人間から発せられるようになり、漂ってくるニオイが強烈になると妖怪共が騒がしくなった。 

 妖怪は、人間の味は忘れない。

 人間を食いたいという欲求が抑えきれなくなり、そのニオイに誘われ、ヨダレを垂らしながら結界門に集まり、亀裂を作ろうと門に張り付いて激しく爪を立て出した。

 さっき結界門が赤く爛れたような色だったと言ったよな?

 ソレが何故なのか、教えてやろう。

 急所は外して、そのまま串刺しにしたからだ。他の妖怪への見せしめの意味も込めてな。

 結界門は女神がつくられたものだから、女神よりも下位の者は亀裂を作ることすらも出来ないし、俺の炎の巡りも遅くなる。

 妖怪は串刺しにされ逃げることも出来ず、ジリジリと焼かれながら苦悶の声を上げた。

 そうして結界門からは爪の音ではなく、妖怪の苦悶の呻き声が響き渡った。さらに断末魔が合わさり奏でられる悲鳴が、最高の音色だった。

 苦悶が扉に染み渡り、赤く爛れたような色になったんだよ。

 俺は、そんな風に妖怪が死んでいく様を見て悦んでいた。

 恐怖よりも欲に溺れ、激痛で苦しみながら炎で焼かれていく哀れな姿を見て愉しんでいた。

 ソレを見ながら、心底興奮してた」

 その光景を思い出したのか、ゾッとするような低い声で恐れる者は笑った。

 

 その言葉を聞いた僕は耳を疑った。


「えっ…なんで…紅天狗がそんな風に命を弄ぶなんて…」

 

「弄ぶ?

 俺がしてたのは蛮行だよ。

 それにな、昌景。

 俺はお前に言っただろう?

 俺は本来は獰猛な狗だ。臓物を掴んで、肉塊から引き摺り出して、その数を友と競い合ったような男だ」

 その銀色の瞳には数多の流れいく星が映った。


 恐れる者は、僕を見据えた。


「殺しを、愉しんでいた。

 助けを乞いながら焼かれていく姿が、可笑しくて堪らなかった。

 どんなに抗ったところで、恐れる者に殺される。両手を上げて降伏したところで、恐れる者は殺す為の刀を鞘には納めない。

 傷つけたくて殺したくてウズウズしていた連中が、さらなる強者によって蹂躙される。

 歪んだ瞳が、一瞬にして、恐怖に変わるんだ。

 ソレは、最高だ」


「でも…そんな…今は…」


「そうだ。

 今は、違う。

 だが昔は、そうだった。

 殺す事で、己に酔いしれていた。

 殺す事が、己の存在理由。

 それが、本来の姿だ」


「そんな…妖怪を殺して楽しんでいたなんて…」


「妖怪だけじゃないさ」

 紅天狗はそう言うと、じっと目の前の人間の男を見つめた。


「だが俺も愉悦と親切心だけで、そんな事をしていた訳じゃない。自分の労力を無駄に使って、ただ働きをするような優しい者なんていない。

 いたとしたら……その者にこそ、注意を払うべきだ。 

 な?そうは思わんか?昌景」

 紅天狗は低い声で言った。


 何処か遠くで得体の知れないモノが鳴く声が聞こえた。否、鴉の鳴き声だ。

 けれど僕には獲物を捕らえようとしている獰猛な肉食獣の鳴き声に聞こえたのだった。狙われている獲物は既に穴にはまっているのに、その事にすら気づいていない。


「対価は、支払ってもらう。

 他者に守らせているのだから…いや、本来は自らの力で守らねばならないのに、他者に守ってもらっているのだから、その者が望む値で支払わねばならない。

 自らは戦うことを放棄して他者に委ねてしまった時点で、対等な立場で意見を述べる権利はない」

 紅天狗は身も凍るような厳しい声で言った。銀色の瞳も鋭く、研ぎ澄まされた刀を握る時のような色をしていた。


 僕は少し怖くなって体を震わせたが、紅天狗は構う事なく言葉を続けた。


「百鬼夜行は止まっただけだ。 

 終わった、わけではない。

 まさに白銀に輝く陽の光で照らされているかのように…だが、太陽はいずれは沈む。

 陽の光が照らす時間が長ければ長いほどに、月もまた昇っている時間が長くなる」

 紅天狗は冷たい声で言うと、湯呑みを手に取り、大きな手の平でくるくると回し始めた。

 強者の手の平で踊らされているかのようだった。

 手の動き一つで、湯呑みは、粉々に割れてしまう。


 僕は、壊れいく幻を見た。



「あくまで人間と妖怪の戦いだ。

 終わらせるのは、俺、ではない。

 だが人間は自らの手で、その終わらせる方法に蓋をしたのだ。あの時と…同じようにな。時と認識を誤れば、もうどうする事も出来なくなるというのに。

 表側は「望み通り綺麗」になったが、裏側はとんでもないことになっていた。

 まさに昌景が言ったように…とんでもない形で増殖しながらひしめき合い、爆発する時を待ち続けていた。

 荒れ狂いながら欲望が満たされるまで侵し、放出し、食い続ける…その時を」

 紅天狗がそう言うと、風が唸りを上げるように吹き荒れた。


 夜空に浮かぶ麗しい満月がさらに赤みを帯びて放つ光が烈しくなると、ついに星々の光を遮った。

 夜空に浮かぶのは、恐ろしい巨大な満月だけとなった。


「少しだけ、見せてやろう。

 これは、現実に起こったことだ。

 これこそが炎の舞、扇によって引き起こされる百鬼夜行だ。

 昌景、目を逸らすなよ」

 紅天狗は力強い大きな手の平で、僕の両目を覆った。


 夜風が止み、水の流れる音もしなくなり、しまいには何も聞こえなくなると、僕は知らない土地で1人立っていた。






 白い鳥が鳴いている。

 やがて力尽きたかのように、地面にポトリと落ちた。

 


 息苦しさを感じるほどの日だ。  

 それでも空は晴れ渡っていた。

 太陽は照り付けているのに、突然何処からか黒い雲が走ってきた。黒い雲は恐怖を連れてきた。

 黒い雲はある地に狙いを定めて何かを吐き出し、ソレは真っ逆さまに落ちていった。ソレは凄まじい閃光を放ち、炸裂した。

 荒れ狂う紅い炎が、柱のように立ちのぼった。

 太陽のように高温で、美しい大地は一瞬にして地獄と化した。

 空が怒りに震えて蠢いて、紅い稲妻が何度も閃き、恐ろしい雷が何度も地面に向かって降り注いだ。巨大な火の玉が現れ、凄まじいほどの爆音と爆風が至る所で起こった。高温の熱線によって自然発火が至る所でおこり、溶岩のようにあたりを埋め尽くした。

 人々の体が宙に浮き上がり、四方八方に吹き飛ばされていった。

 強固な建物ですら傾きながらドロドロと崩れ落ち、生きている者は髪の毛が溶け皮膚が爛れながら逃げ惑った。目玉を失くして助けを求める声が響き、臓器が体の外にはみ出た人間が転がっている。皮膚が膨れ上がり、腕や手足が変形した人間のすぐ側には、体が炭となって男女の区別すら出来ない者が横たわっていた。


 僕の心臓は止まりそうになり、涙を流すことも叫び出すこともなく、硬直したまま立っていた。

 何が起こったのかも分からず、何もする事が出来ない。

 それこそが、恐怖だ。

 ただ立ったまま、祈るだけだった。


(どうか…誰か…嘘だと言ってほしい。

 これほど惨たらしい死に方があっていいのだろうか?いいわけない。

 僕達は、人間だ。

 これは、人間の最期じゃない)


 さらに、鐘の音が聞こえてきた。

 僕は「その鐘」を知っている。紅天狗と共に何度もその鐘の前を歩いたことがあるから、見間違うはずなどない。

 今は錆びついてしまっているが、儀仗兵のような鴉達が守っている鐘だ。

 磨き抜かれた鐘が何度もつかれて音が響き渡ると、体が重たくなって手足を動かすことが出来なくなった。



「さぁ、行くぞ!

 百鬼夜行を告げる鐘が鳴り響いたぞ!」

 血に飢えた妖怪の恐ろしい声が響き渡った。

 

 地響きのような音を立てて結界門が開かれると、雪崩のように妖怪が我先に駆け出してきた。

 そこには白大蛇の姿はなかった。

 結界橋には人間の死体が積み上げられ、黒い床版が見えないほどに埋まっていた。死体の上を踊るように進みながら、意地汚い妖怪は腕や足をもぎ取っては大きな口で頬張っていくのだった。

 血と肉の焼ける臭いがそこら中に充満し、僕は今にも気を失いそうになったが、妖怪にとっては芳しいニオイのようだった。興奮はさらに大きくなり、まだ硬直していない新鮮な肉を求め、背筋が凍りつくほどの雄叫びを上げた。


 先頭の妖怪が結界橋を渡りきると、恐ろしい紅い稲妻が閃き、紅葉の一枚一枚に火がついていき、瞬く間に山の麓まで広がっていった。


 そして果てしなく続く、炎の道を作り出した。


 その先頭を走るのは紅天狗だった。


 腰には刀を指している。

 男は、刀を握ることはない。

 右手に闇から生まれ出でたような色をした影を握っていた。影が風で靡く度に、燃え盛る炎はさらに熱量を増していった。

 

 男が手にしているもの

 それは、扇であった。


 男は燃え上がるような炎を全身に帯び、背には闇のような漆黒の翼を生やしていた。目の前に広がっていく荒れ狂う炎の道を見据えながら、何度も扇をかざしては稲妻をおこして大地を揺るがし、炎の勢いを強めながら歩みを進めていった。


 その後ろに続くのは、百鬼夜行。

 絵師が描いた絵そのものだ。子供を怖がらせるものでもなく、現実の恐怖が侵攻している。

 長い長い百鬼夜行の後方には一反木綿に猫又、河童がいた。僕が震え上がった妖怪など百鬼夜行でいうところの力の弱い妖怪でしかない。

 先頭を闊歩する妖怪は闇の色に包まれながら、恐ろしい叫び声を上げ、人間の肉を求めて大地を揺れ動かしていた。


 どんどん息苦しくなり、体が恐怖に耐えきれなくなってビクンビクンと震えると、紅天狗は僕の瞼から手を離した。





「もういいぞ、目を開けろ」

 紅天狗がそう言うと、僕はゆっくりと目を開けた。

 燃え盛る炎の中にいたかのように喉はカラカラに渇き、恐ろしさで目は大きく見開き、体の震えも止まらなかった。

 

「これが、現実だ。

 現実に起こったことだ。

 騙されることなく、その瞳で、真実を見極めなければならない。

 自らの意志を持ち、声を上げ、戦い続けなければならない」

 と、紅天狗は言った。


 だが、あまりの凄惨さに恐怖するばかりで、その言葉の意味は今の僕には届かなかった。


「人間」から何もかも奪った。

 自由も尊厳も生きる希望も…大切に積み上げてきたものを一瞬にして破壊し、絶望に叩き落とした。

 ソレは、瞬きをするよりも早かった。


「なんで…なんで…こんな事に…僕には…分からない」


「理解できないか?」

 紅天狗が僕を見ながら静かに言うと、僕は何度も首を縦に振った。冷たい風が松の木を揺らし、僕の体が芯から冷えていった。


「何故だ?

 何故、理解できない?

 俺は、天狗だ。

 人間を守る者ではない。

 俺を怒らせるなと宗家の連中にも言われただろう?」

 紅天狗の瞳が妖しく光った。

 その瞳は、一欠片の慈悲など持っていない色をしていた。

 その瞳に見つめられると逃げ出したい気持ちに駆られ、右腕がガクガクと動いた。


「でも…紅天狗は…結界橋と結界門を守っていて…妖怪が爪を立てれば報復するって…」

 最後まで言い終わらないうちに、僕の言葉を嘲笑うかのように風の唸りがさらに烈しくなった。


「報復はするさ。

 守ってやってる連中が、守る価値のある人間ならな」

 紅天狗は怖い目で僕を見た。


 僕がオロオロしながら目を逸らすと、紅天狗は大きな手でガタガタと震えている僕の右腕を掴んだ。


「目を逸らすな、昌景。

 己で、そう決めたんだろ?」

 

 風は唸りを上げたが、握られた手から強い力を感じると、僕は目の前の恐怖を見つめた。


「守る価値のない連中を、守ってやる必要はない。

 俺に妖怪を殺させながら、俺の後ろに隠れて何をしている?自ら戦おうともせずに欲に溺れて愉しんでる連中を、何故いつまでも守ってやらねばならない?

 固く閉ざされた結界門をすり抜け、俺という恐怖ですらも忘れさせるほどに腐りきった強烈なニオイを発する連中だ。

 腐肉は元には戻らない。

 悪臭を放つだけだ。

 ならば跡形もなくなるほどに燃やさねば、全てを覆い尽くすほどに充満する。

 そうなれば……もし…俺が眠っている間に結界門が開くようなことでもあれば、人間は妖怪に食われて絶滅する。

 ソウはなりたくないだろう?

 原因が分かれば、ソイツらに責任を取らせる。

 原因を作り出している一部の人間を殺せばいいだけの話だ。

 ソイツらがいなくなるまで、興奮した妖怪は鎮まらない。

 言動には責任が伴う。

 欲にまみれて肥太った人間は、その責任を取らねばならない。

 そうだろ?昌景」

 

「でも…紅天狗が…姿を与えられたのは…妖怪を追い立てて…かつてのような平穏をもたらす為なのに…」

 僕がそう言うと、紅天狗の顔からは表情が消えた。


「獰猛な狗であった俺が天狗の姿を与えられたのは、人間の世界に平穏をもたらす為ではない。

 昔話でも、そんな事は一言も言わなかっただろう?

 それに人間の世界は、もともと平穏な世界ではない。

 人間と妖怪は同じ空の下で暮らしていた。

 それなのに人間は「ただ」で、女神に与えられただけだ。

 だがな、ただで得られるものなど何もない。

 いや、ただほど高くつくものはない」

 紅天狗が激しい口調で言ったので、僕はその勢いに飲まれて黙り込んでしまった。



 吹き荒ぶ風に乗って、恐ろしい妖怪の叫び声が聞こえた気がした。さらに大きな雲が流れてきて満月を隠すと、辺りが闇に包まれて何も見えなくなった。

 誰もいないように感じると、黒堂での恐怖を思い出して、歯がガタガタと鳴り、もぎ取られ破裂した腕の一部を思い出した。

 すると僕は、僕を助けてくれる「誰か」を求めるかのように小さな声を漏らした。


「なぁ…昌景」

 闇の中で紅天狗の声が僕の心をとらえた。


「俺は、ルールを守る。

 ニオイの濃くない連中まで妖怪が食おうとしたら、雷を落とす。多少建物は壊れ、犠牲は出るがな。

 妖怪に食われて死ぬのは…一部の人間だけだ」

 紅天狗が僕の肩を抱きながら優しい声で囁いた。


 僕の心は揺れ動き、震えながら声のする方を見た。

 すると雲が流れて満月が顔を出した。男は満月のような麗しさで微笑みかけてきた。 


 僕は目の前の男が「唯一の救い」のように感じた。


「それにな、日はまた昇る。

 俺の翼は白くなる。

 俺の翼が黒い間だけ、百鬼夜行は続くだけだ。

 扇は、11枚の羽で出来ている。

 山の神様がお選びになった11人の人間を殺し終えたら、翼は白くなるんだ。

 11人殺し終えるまで、祈り続ければいい」

 紅天狗はさらに甘い声で囁いた。


 

 そうだ…男の言葉を受け入れなければ…男は結界門から去ってしまうかもしれない。

 この手を握るしかない…のかもしれない。

 他には…誰も…救ってくれる者などいない。

 多くの人間を守る為ならば…紅天狗がいうところの一部の人間だけが犠牲になれば、善良な人間は死なずにすむ。

 善良な人間を守らなければならない。


 善良…善良…?


 そんな事を考えた僕は「善良」といえるのだろうか?

 そもそも「善良」とは一体何なのだろう?


 背中を丸めながら小さく縮こまると、満月の煌めきで腰の短刀の鞘が輝いた。

 それは戦い守る為の刀だ。

 男が刀を差しながら、鞘から抜きもせずに美しい飾りとして眠らせていいのだろうか…否、いいはずがない。


「でも……僕は…」

 僕が声を絞り出すと、紅天狗は僕の丸まった背中を軽く叩いた。


「でも、はナシだ。

 しかし、だ。そっからお前の意見を言え。

 俺は好き勝手に言ってるんだから、昌景も思うところがあるなら、ちゃんと言葉にしろ。

 さもなければ受け入れたものとみなすぞ」


「しかし僕は…そんな事は望ま…ない。

 百鬼夜行も…一部の人間が死んでいくことも…僕は望まない。

 僕達人間には…罪を犯した者達を裁く為の…法がある。

 それがあるから…待ってほしい。いつかは捕まり、悪事が白昼のもとに晒されて……裁かれるだろう。

 それに罪は償わなければならないけど殺していいなんて…誰も望みもしないし頼みもしないと思う。

 誰かを犠牲にして自分が助かるなんて…そんな恐ろしいことは…僕達は「人間」だから」

 僕は「人間」という言葉を消え入りそうな声で言った。


「人間…か。

 恐ろしいことが平気な面で出来るのが「人間」なんだと俺は思っていた。

 それに人間は、真実に、一部の者達を裁いているのか?」

 と、紅天狗は言った。



 僕は座敷童子の悲しそうな顔を思い出し、僕自身が関わってきた一部の人間の顔を思い出した。

 僕は、また黙り込んだ。裁いている側が、一部の人間の側であるなんて…よくある話だ。


「それに、いつまでだ?

 いつまで待ってやらねばならない?

 いつまで守ってやらねばならない?」

 紅天狗の瞳が烈火をともしたような怒りの色に変わった。


(永遠に…)

 そんな言葉を言えるはずもない。

 そうだ…ヒーローだって、永遠には側にはいてくれないことは僕自身が1番よく分かっている。

 いつまでも側で守ってくれるなんてロボットでなければ不可能だ。否、ロボットだって、いつかは壊れてしまう。

 永遠なんてものは、何処にも存在しない。


 何の言葉も出て来ずに唇を噛むと、紅天狗は諦めろとばかりに僕の肩を軽く叩いた。

 その音が、静寂の中で響き渡った。


「そういう事だ」

 紅天狗が冷たく言い放った。

 

 僕の視界に冷酷な瞳が飛び込んでくると、そう遠くない現実のように思えた。

 翼の色は、変わろうとしている。

 僕達人間が助かる為の糸口を見つけようとして震える口を開いた。


「山の神は「人間を助けよう」って女神に言ったはずだよ。 

 それなのに…どうして紅天狗は…山の神の言葉に背くようなことをするの?」 

 恐怖を押し退け、僕はなんとか声を絞り出した。

 それが、かつての昔話に出てきた人間と同じだと分かりながらも、僕は神という存在に縋りつきたくなった。


「そうだ。

 だから、人間を助けている。

 欲にまみれた救い難い人間を、その苦しみから解き放つという意味でな」

 紅天狗は残酷な笑みを浮かべながら言った。


 その恐ろしい笑みで、僕の心臓は凍りつきそうになった。


 そして、ある言葉にたどり着いた。


 邪神


 山の神様は、心優しい神ではない。

 この世界を見守っている神は、人間の為に涙を流してくれるような優しい神ではないのだ。慈悲深い清らかな両腕で優しく包み込んでくれる女神ではない。

 雪のように真っ白な使いを生み出すのではなく、猛々しい天狗を生み出すような神なのだ。丸太のように太くて血管が浮き出ている腕に力任せに抱かれたら、骨ごと粉々に砕かれるかもしれない。

 人間を助ける為なんかじゃない。

 人間に災いをもたらすのが、邪神の意味するところだ。

 僕達は、とんでもない存在の腕の中にいる。


 紅天狗は決して人間の側についている訳ではない。

 見ている御方を存分に愉しませているだけだ。

 それなのに紅天狗が結界門を守って然るべきだと思い始めていた。

 そもそも神は人間を特別視しているわけではない。

 どれほど祈っても願いは届かないし、神達は「人間が」どうするのかを冷たい瞳で見ているだけだ。

 少しの間だけ、優しい瞳にかわっただけで、今は見るも恐ろしい瞳が僕達を見下ろしている。


 途方にくれた僕は夜空を見上げた。

 すると紅に燃える光が一つ、夜空をよぎっていくのが見えた。夜空ですら焦がす強烈な光が目に入ると、僕は思わず身震いした。


「それにな、俺は「人間」からも頼まれている。

 自らの生の為なら、一部の妖怪を殺せとな。

 分かるか?昌景」


「え?」

 と、僕は言った。

 その言葉の意味が分からなかった。


「人間は月が昇ったとしても、そこかしこに明かりをつけて我が者顔で闊歩している。

 陽の光だけでなく、与えられていない月すらも手に入れた。

 月を、妖怪から奪ったのだ。

 神は、人間には月は与えていない。

 ならば奪った者達が…その者となる。

 荒廃と退廃が世界を覆い尽くし、人間という名の皮を被った略奪者…いや、化け物達は我が物顔で月が昇っても地上を闊歩している。

 醜悪な欲望に満ち溢れながら、弱い人間を食い物にして貪り奪い殺し尽くす。

 昔は…命により…そんな連中を、陰陽師達が退治していたんだったな。

 そうだったよな?昌景?」

 紅天狗が残酷な瞳で僕にそう問いかけた。


「俺は黒の陰陽師と同じ「扇」を与えられている。

 黒の陰陽師は「化け物」を退治しに行かねばならない。刀をもった強者を従え、恐怖の象徴としてな。

 その命を下したのは帝だったか…この国を統べる帝がな。崩御されても化け物退治が終わらぬ限り、勅命は続いている。

 黒の扇を持つ者は、一部の妖怪を殺さなければならない。

 陽の光である白の翼ではなく、月夜を示す黒の翼である間に俺は命ぜられた一部の妖怪を殺す」

 と、紅天狗は言った。


 僕の背中に嫌な汗が伝っていった。

 刀を持った強者とは、牙や爪に恐ろしい妖術を使う妖怪のことだ。

 僕達は化け物じゃない。

 妖怪ではない。

 妖怪のように恐ろしいことなんてしていない……真実に…していないのだろうか?

 僕達は食べる以上に動物を殺し、そして同じ人間を殺している。終わらない戦争や紛争、殺人や暴行、略奪や強姦、差別や虐め…人間の恐ろしさを数え上げたらきりがない。

 僕達は綺麗な存在なんかじゃない。

 むしろ醜悪だろう。

 まだ狂気を隠そうとしないだけ妖怪の方がキレイなのかもしれない。

 僕達人間は真面目な顔をしながら信じてくれる人を裏切る。妬みや嫉妬から被害者を装って事実を捏造し、他人を陥れることも平気でやってのける。そういう者達ほど狡猾で、見る者の目を曇らせる。

 それに被害者になったとしても落ち度や原因を探され、被害者が攻撃される。それはたぶん加害者の方が世の中に蔓延っているからだろう。

 僕達人間の醜悪さは、妖怪よりも見分けるのが難しい。

 猫又のような悪意のある瞳の色でなく綺麗に着飾りながら擦り寄ってくる。


 僕達は…たしかに「人間」という名の皮を被った「化け物」だ。


「でも…そんなの…滅茶苦茶だよ…」

 僕は消え入りそうな声で言った。


「そうだ。

 だが、その隙を作らせたのはお前達人間だ。

 力がないのであれば、従うしかない。

 敷かれた道を歩むしかない」

 紅天狗はそう言うと、僕を見つめた。


「もう道は出来ている。

 俺達は、その分岐点にいる。

 その道に辿るのは嫌か?」


 僕も、紅天狗を見つめた。

 まだ分岐点にいる。その道に、まだ歩んでいない。まだ、もう一つの道に歩むことが出来る。

 なんとしても炎の舞を舞うのを止めるしかない。


「僕が…止めてみせる。

 その道には…歩まない。

 僕が、紅天狗に炎の舞を舞わせない」

 僕がそう言うと、紅天狗は口元に笑みを浮かべた。銀色の瞳からは残酷な色が消えて、いつもの優しい眼差しに変わった。


「ならば力を見せろ。

 他の目を向けさせるほどのな。

 守る価値のある者であり、月を手に入れてもなお化け物ではなく神々が望んだ人間であるとな。

 権利を主張したければ義務を果たせ」

 紅天狗が僕の瞳を見ながら強い口調で言った。


「百鬼夜行を止める為なら、僕はなんでもするよ。

 僕は諦めない。戦い抜いてみせる」

 僕が松の木の下で力強く宣言すると、紅天狗はいつものように笑った。


「いいな、昌景。

 その言葉が聞きたかった。

 なら、なんとしても天狗の盃を取り返さねばならないな」

 

「そんな力が盃にあるの?」


「俺の炎を鎮められるのは、あの盃だけだ。

 選ばれし者が盃を取り出し、天狗が盃で酒を飲む。さすれば炎の舞を舞わなくてもすむ。

 そうして…ここ数百年間…俺は炎の舞を舞っていない。

 あの盃で酒を飲めば、いくつかを失うかわりに、白に戻るんだ。

 だからこそ、鬼は盃を盗んだ。

 だから…なんとしても取り返さなければならない。

 俺は…約束を守り続けねばならない」


「約束?」

 と、僕は言った。


 すると、空に輝いていた大きな星が一つ流れた。紅天狗は落ちていく星を眺めてから、僕を見つめた。


「この話はまた今度な。

 まだ許しが出ていない」

 紅天狗はそう言うと、静かに笑った。


 僕は扇に視線を移した。

 扇は月の光に照らされても輝く事もなく、闇に溶け込むような黒い色をしていた。

 紅天狗は僕の視線に気付くと、ゆっくりと口を開いた。


「これは最強の扇だ。

 世界を変えるのは1人の力では不可能だが、この扇は違う。

 なぜなら山の神様によって作られたのだから。

 この扇は身につけているだけで読心、飛行、妖術、分身、変身、風雨、雷、火炎を操ることが出来る。

 扇の力は凄まじく、俺以外は意のままに操ることが出来ない。

 だが超えた力の代償は大きい。

 超えた力は、全てを飲み込んでいく。

 この扇を握る度に、俺は本来の獰猛さへと化えっていく。

 だからこそ俺は刀を握り続けなければならない。

 想いを消さないように…」

 男は見たこともないような悲しい顔をしてから、項垂れた。


「紅天狗?」

 

「あ?あぁ…すまんな」

 紅天狗は赤い髪の毛をかきあげながら顔を上げた。白い息を吐くと、空に輝く美しい星を眺めた。


「星は綺麗だな」

 紅天狗は低い声で言った。

 男はゆっくりと空に向かって手を伸ばしたが、美しく輝く星は遠く、触れることすらできなかった。

 虚しく空を切ると、男はその手の中に掴めなかった星の幻でも見たのだろう。小さく溜息をついた。




 冷たい風が男の赤い髪の毛を静かに揺らし、白の羽織をはためかせると、僕は白い翼をした紅天狗の幻を見たのだった。









 

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