第9話 一反木綿
朝の爽やかな風が吹き、軒下で座っている僕の浴衣の袖を揺らした。
顔を上げると青い空が広がっていた。陽の光があまりにも眩しくて右手をかざすと、指輪のように絡みついた猫又の被毛の幻を見た。
猫又の領域から戻ると真っ先に風呂に入り、一心不乱に手を洗った。指に残る被毛の感触を洗い流したかった。
さらに檜の香りに包まれることで、全身を覆っている煙のニオイも消し去ってしまいたかった。
だが僕を凝視した猫又の瞳と感じ取った最期の瞬間を記憶から消し去ることは出来なかった。
「俺は妖怪を殺す」
紅天狗から何度も聞いていたから分かっていると思っていた。
だが実際に感じた「死」は想像とは全く違った。重たくて恐ろしくて、受け止めきれない。
自分が猫又によって殺されていたかもしれないのに、僕は消え去った命で頭が一杯になっていた。
紅天狗が助けてくれたということよりも、紅天狗が猫又の命を奪ったという事の方が恐ろしく感じてならなかった。
それが、あまりにも簡単だったからなのかもしれない。
力のある者の腕が動けば、一瞬だったからなのかもしれない。
初めて感じた死は、整理できない複雑な感情を抱かせるばかりだった。
死についてばかり考えていると、降り注ぐ太陽の日差しが実際よりも烈しく感じられ、だんだん気持ちが悪くなってきた。
両手で顔を覆うようにして下を向いていると、何処からか楽しそうな声が聞こえてきた。
顔を上げると、紅天狗と袴の人がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
紅天狗は遠くからでも分かるほどの大きな荷物を抱えていたので手伝わなければならないと思ったが、男の隣を歩く袴の人の嬉しそうな顔がふと目に入った。それを見ると邪魔をしてはいけないと思い、縁側から立ち上がることが出来なくなった。
彼女はコスモスの花束を抱えていた。
赤とピンクと白のコスモスの花は可憐だった。だが彼女の美しさには敵わない。その瞳の先に、紅天狗がいるからだろう。
柔らかな風に吹かれている彼女は優しい瞳で男を見つめながら、嬉しそうな笑い声を上げていた。
「おはよう、昌景」
紅天狗は僕を見ると、いつものように爽やかな笑顔で言った。
「あっ…おはよう…」
なんとか顔を上げて挨拶をすることは出来たが、男を通り越して後ろに見える赤い紅葉を見ていた。
「昌景、いい茶が手に入ったぞ。
飲むか?」
紅天狗は快活な声を出した。
「そう…。そっか…よかった」
僕が掠れたような声で答えると、紅天狗はキョトンとした顔をした。
昨日の猫又のことなど何もなかったかのように、男の態度はいつもと変わらなかった。紅天狗にとっては日常なのだから、当然なのかもしれない。
僕達の間を、妙な沈黙が流れた。
紅天狗は抱えていた荷物を縁側に置いた。怪訝な顔をしながら口を開こうとしたので、僕は慌てて口を開いた。
「荷物、持つよ」
僕はようやく立ち上がり、荷物に手を伸ばした。
「おっ、ありがとな。
それ、けっこう重いぞ」
「大丈夫だよ」
僕はそう言ったが、紅天狗のように軽々と持つなんて到底不可能な重さだった。力を入れたが、持ち上がりもしなかった。
「けっこう入ってるからな」
紅天狗はそう言うと、荷物に手を伸ばした。
すると伸ばされた紅天狗の手に驚いて、僕は思わず飛び退いてしまった。
「あっ…ごめん…なさい」
自分が何に謝ったのか分からなかった。
荷物を持てなかったからなのか、それとも誰かを殺した手が恐ろしいからなのか…分からなかった。
「昌景、大丈夫か?」
僕を心配する紅天狗の声を聞くと、僕は命を助けてくれた男に対して何をしているんだろうという感情がフツフツと湧いてきた。
けれど僕にも僕自身をどうする事も出来なかった。
そこに誰かが死んでいるのだから…僕はまだアリモシナイ道があったのではないかと考えていた。手放しで喜べなかった。
自分一人ではどうする事も出来ない迷路の中を彷徨っていた。
強い風が吹くと、真っ赤な紅葉が揺れた。足元に散らばる赤を見ると、僕は少しクラクラした。
「荷物、開けてくるわ。
今回も良い出来らしい。
カラス、ここで待っててくれないか?
飯作ってくるからさ、新しい綺麗な器で食おうじゃないか。昌景も腹を空かした顔をしてるしな」
紅天狗は荷物を軽々と持ち上げると、僕と袴の人を残してスタスタと歩いて行った。
紅天狗がいなくなると、僕は力が抜けたかのように縁側にヘナヘナと腰を下ろした。
「昌景様」
紅天狗の足音が聞こえなくなると、僕の名を呼ぶ女の人のはっきりとした声がした。
「あっ…えっ…?」
僕は間の抜けた返事をした。
昌景様なんて言われたことなんて一度もない。
くすぐったいような感覚がしたが、それ以上に袴の人の話し方に驚かずにはいられなかった。
「浮かない顔をされていますね」
「えっ…あの…」
「どうしました?」
袴の人は目を丸くしている僕をじっと見つめてきた。
「話し方が…変わったなと思って…」
何度か言葉を交わしたが、袴の人との会話はいつも辿々しかった。それなのに今は人が変わったかのように滑らかな口調だった。
「主人様に、ご相談したんです」
袴の人はそう言うと、僕の隣にちょこんと座った。
しばらくの間、僕達は黙ったまま軒下で座っていた。
葉ずれの音が響き、咲き誇る赤い紅葉をただ眺めていたのだが、不意に袴の人がまた僕の名を呟いた。
そして澄んだ黒い瞳を僕に向けて静かに口を開いた。
「どうして主人様にあれほど怯えていたのですか?
ワタシで良ければ…その…お力になれるかもしれません」
袴の人はそう言うと、少しぎこちなく微笑んだ。
僕は袴の人の心遣いを感じると、猫又の領域で起こった事をポツリポツリと話し始めた。
猫又を助けたと思ったが少し間を置いてから木の枝を拾い上げて殺した事、自分を助けてくれたのに紅天狗に対して恐怖を感じている事も打ち明けた。
「そうでしたか…」
と、袴の人は言った。
「紅天狗からは…僕と猫又の事について…何も聞かなかった?」
「はい。
先程していたのは荷物とコスモスの話です」
袴の人はそう言うと、その華奢な腕の中にあるコスモスの花束を僕に見せてくれた。
「綺麗だね。コスモスも桔梗も紅葉も…みんな綺麗だ」
「主人様が大切に想われていますので、花も美しく咲き誇ります。大切にすればするほど…花は美しく咲くのです。
この花は、岩の上に立つ天狗様が守られている道に咲くコスモスですよ。
昌景様も、一度、ご覧になられていますよ」
今度はニコリと微笑んでくれた。
僕はその言葉を聞くと、棍棒を持った山伏の天狗の像の後ろに続くコスモスの散歩道を思い出した。
あの時は、何もない山で静かに暮らすと思っていた。
少しオカシイとは感じていたが、こんなに恐ろしい世界が広がっているとは思いもしなかった。
「昌景様、ワタシの考えを申し上げてもよろしいでしょうか?」
袴の人はボッーとしている僕の顔を覗きこんだ。
「えっ…あっ…お願い…します」
僕は少しあたふたしながら答えた。
「たしかに主人様は猫又を助けました。
一瞬の死という形で、猫又を助けたのです。
ソレが、主人様の優しさでもあります」
袴の人がそう言うと、周りにいた鴉達も賛同するかのように鳴き声を上げた。
「異界とは恐ろしい世界です。
昌景様はご存じですか?
猫又は、共食いをします。
水に濡れたが最後、それは死を意味します。
毛皮を着ているようなものですから体は重たくなり力も出せなくなるので、他の猫又に見つかれば、濡れた猫又は食べられてしまいます。
猫又は他の猫又を生きたまま食らうことで、その猫又の全てを得ることができます。猫又が着ているものは…自然に死んでいったものでも、毛を刈ったものでもありません。猫又は死んだものは… 筋肉も毛も硬直してしまう為…嫌うのです。
あのまま見逃したとしても…水の道標が出来ていますので、他の猫又に捕まるでしょう。
そして他の猫又は、昌景様には想像すら出来ない方法で濡れた猫又を殺します。
首輪を掴んで木に吊るし、何度も木の枝で叩いては痛めつけ、2股ある尾をさらに引き裂いて、生きたまま皮を剥いでいくのです。
そうして得たモノを、身につけているのです。
残虐な方法で得たモノだから…より迫力があるのかもしれません。ワタシには見ているだけで…悲鳴が聞こえます。
主人様は、その事を、分かっておられます。
主人様は一撃で殺します。命を弄ぶようなことは決してなさりません」
と、袴の人は言った。
僕は想像するだけで気持ちが悪くなった。
そんな残虐な方法で得たもので着飾り、喜んでいる猫又を恐ろしく感じた。
「それが妖怪なんです。
これでも…まだ…始まりにすぎません。
最後に辿り着くところ…鬼は…もっと惨いです」
袴の人の表情が暗くなると、僕は月夜のお堂での出来事を思い出した。右手がピクピクと痙攣した。
「妖怪に慈悲などかける必要はありません。
か弱い羊のように見えたとしても、その皮の下は獰猛な獅子です。次の瞬間には食らいつかれています。
末路が可哀想に思えたとしても、もっと酷いことを奴等はしてきました。いろんな者達から、あらゆるモノを奪ってきたのです。そうしながらも平気な顔で生きているのが、妖怪なのです。
けれど、力があるが故に、奴等を裁く法がないのです。
それに力があれば、いくらでも逃れられる道があります。
平気で嘘をつき、涙を流して懺悔をして、哀れみを乞おうとします。
嘘で塗り固められた世界で生きているのですから、奴等にとっては嘘ではなく手段なのです。罪悪感もなければ後悔の気持ちもない。
奴等はいくらでも化けの皮を被れます。
その名のとおり…化け物なのですから。
奴等の思い通りにさせてはなりません。味をしめ、さらに攻撃的になっていくだけです。
欲望は果てしなくとどまることを知らない。
何も信じてはなりませんよ」
と、袴の人は言った。
彼女の真剣な瞳を見ているうちに、僕は猫又の瞳と紅天狗の瞳の両方を思い出した。
嫌な目つきと真っ直ぐな銀色の瞳
どちらが真実なのかは、明らかだ。
「誰であっても、どんな理由があったとしても、裁きは受けねばなりません。
理由があれば落ち度があれば、犯してもいいということにはなりません。狡賢い妖怪に理由を与えてはなりません。奴等は幾らでも理由を作るでしょう。そういう事に長けているのですから。
力のない者が苦しめられ、力のある者達だけが闊歩する世界は間違っています」
袴の人はそう言うと、僕を見つめた。
僕は同情心を揺さぶられただけだった。
罰から逃れようとする姿を勘違いして、可哀想だというフィルターをかけていたに過ぎない。
猫又は何度も誰かを苦しめたのだろう。その結果が、あの艶々とした被毛だ。
それなのに自分の番が回ってきたら逃げようとした。逃げようとした誰かを何度とらえて弄んだのだろうか。
誰かを苦しめていながら「可哀想」だなんて、ありえない。
断じて懺悔ではない。全ては己の為だ。
僕は「真実」をちゃんと見ていなかっただけだった。
「僕は…なんて事をしてしまったんだ。
何もせずに…ちゃんと見もせずに…勝手な事ばかり言って。
そんな世界だと何度も聞かされていたのに…何も分かっていなかった。
甘いだけの男だ。
守ってくれた紅天狗に対して礼も言わず…あんな風に…」
僕は自分を守ってくれた男の背中を思い出した。
さらに猫又を紅天狗に殺させたのは、僕だったのかもしれないと思った。紅天狗に殺させながら綺麗事を吐いていたのだと思うと、自分が恥ずかしくなった。
「甘いのではありません。何もしていないわけではありません。
優しい方なのです。その優しさに悪い妖怪がつけこんだだけです。戦わない男を主人様は守ることは出来ません。
昌景様の根本的な部分を変える必要なんてありません。主人様も大切に思われています。その時々の戦い方を身につけられたらいいだけです。
主人様は誰かれ構わず殺しているわけではありません。
主人様はルールを守る…だからこそ最強なのです。
妖怪に向ける優しさは、そんな主人様に向けられたらいいと思います」
袴の人はゆっくりとした口調で言った。
見た目は僕と変わらないが、随分大人の女性に思えた。
彼女とこんな風に喋ったのは初めてなのに、もう何年も前から知っている…それこそ気心の知れた優しい女友達と話をしているような気持ちになった。
ゆっくりとした穏やかな口調が、迷路の出口に導いてくれた。僕の心を落ち着かせ、冷静にしてくれたのだ。
あのまま紅天狗と話したとしても恐怖という感情が先立って、男の言葉は僕の心に届かなかっただろう。
「それに…主人様が猫又を遠くへ連れて行こうとしたのは、昌景様に妖怪を殺す瞬間を、まだ見せたくなかったのかもしれません。
昌景様は死と遠い日々を生きてきました。
主人様は誰よりも殺すことを…知っておられます。
主人様の背中は広くて、刀はとても重いのです」
と、袴の人は言った。
「紅天狗に…謝らないといけない。
異界の事を何も知らないのに…僕は紅天狗に酷いことを言ってしまった…」
僕が呟くように言うと、袴の人は首を横に振った。
「異界に行かれたのは、数回です。
それは普通のことだと思います。
簡単に妖怪の死を受け入れられるような方であれば、昌景様は選ばれし者にはなっていないでしょう。
主人様が必死になって守っておられる者達が命の大切さを分からない者達ばかりなら…主人様も刀を握ることを止められるかもしれません。
守りたいと思えないからです。
昌景様のような優しい人間がいることを…主人様は喜んでいます」
袴の人がそう言うと、美しい髪とコスモスの花が風で優雅に揺れた。ほのかに香る優しげな香りが僕を包み込んだ。
彼女は乱れた髪の毛をそっと手櫛で直した。
「次の領域に行かれるまでに、主人様としっかりお話をされた方がいいと思います。ワタシとの話も、主人様にしていただいて構いません。
主人様は、ちゃんと話を聞いてくださいます。
答えられることは、答えてくれます。
信頼関係なくして、異界で戦うことは出来ません。そんな生易しい世界ではないからです。
お2人で無事に戻ってくることを、ワタシは祈っています」
袴の人はそう言うと、僕を見つめた。
その瞳は優しくて、以前僕を見た時のような色は消え去っていた。
「主人様は昌景様に謝られるよりも「ありがとう」と言われた方が、喜びますよ」
彼女はコスモスのような可憐な微笑みを浮かべた。
「すまんな、待たせたな!
美味い飯が出来たぞ」
大きな声がして振り返ると、そこには嬉しそうな顔をした紅天狗が立っていた。
男が持つお盆には、美しい皿と黒の上品な土鍋がのっていた。
土鍋の蓋をとると白い湯気があがった。お腹が鳴ってしまいそうなほどの良い香りが広がり、鮭とイクラという見た目も美しい贅沢な雑炊だった。
「主人様、ありがとうございます。
ワタシが…」
袴の人がそう言うと、紅天狗は首を横に振って皿を手に取った。
「俺がやる。
熱いからな、火傷でもしたら大変だ」
紅天狗は鍋つかみも使わずに素手で土鍋に触れ、3人分よそってくれた。
「ありがとうございます、主人様」
袴の人は満面の笑みを浮かべた。
軒下で並んで食べ始めたが、僕は取り皿を持ったまま蓮華も持たずに固まっていた。お腹は減っているし、こんな豪華な雑炊は2度と食べれないだろう。それなのに手が動かなかった。
そればかりか僕は2人とは数キロ離れた場所にいるような感覚に陥っていた。紅天狗と袴の人が何やら楽しそうに話をしているが、会話の内容も全く耳に入ってこなかった。
袴の人が食べ終わる頃、遠くから鴉の大きな鳴き声が上がった。
「カラス、見に行ってくれないか?
昌景が食い終わったら異界に行ってくる。
門が開くから、皆んなを下がらせろ。
いつもの場所に、いろ。何があっても、動くなよ」
紅天狗がそう言うと、袴の人はペコリとお辞儀をしてから鴉の鳴いた方角に向かって行った。
すると、あとに残された僕達の間に流れる空気が急に重苦しくなったように感じた。
紅天狗は咳払いをした。
「雑炊でも、喉を通らんか?」
その言葉に僕はハッとした。
男の声色は深くて、僕の心の内はすっかり見透かされているかのようだった。
「食えよ。腹を空かしてたら、まともな考えも浮かばんぞ。
それに次の領域に行くのが遅くなる。
日が暮れだすと、奴等の力がどんどん強くなる」
と、紅天狗は言った。
僕は手を動かそうとしたが、蓮華が石のように重たく手にのしかかった。どうしても口に運ぶことが出来なかった。
「昌景、何を考えている?
考え事で胸が一杯で食事が喉を通らない。俺を見ることも出来ない。
俺は、昌景の心を読む気はない。
お前の言葉で、ちゃんと言え。
ソレがしっかり出来る様になってもらわないと困るんだ。俺に出来ないのなら、他にも出来ない。
なぁ…昌景の考えを聞かせてくれ。
小さな蟠りは積み重なり、やがて爆発する。
ちゃんと話をしておかないと、俺がお前を守れなくなる時が必ず来る。
今度は、昌景が、死ぬことになるぞ」
紅天狗は低い声で言った。
死
紅天狗から出るその言葉は、大袈裟でもなんでもない。男は誰よりも死を知っている。
地面に広がる赤い紅葉が血の色に見え出すと、僕はようやく口を開き、僕の思いと袴の人との会話を口にした。
紅天狗はただ黙って聞いてくれた。
「死を…こんなに強く感じることなんてなかったから…心がついていかなかった。守ってくれた紅天狗に対しても…恐ろしいという感情を持ってしまった。ついさっきまで…恐ろしく感じていたんだ。
それなのに…紅天狗は僕の事をこんなに考えていてくれて…何もなかった言わなかったかのように振る舞い、謝ってもいないのに食べるなんて出来なくて…さ。
恩知らずな男だよね…僕は」
僕がそう言うと、紅天狗は声を上げて笑った。
「なんだ?悩み抜いた挙句の答えがそれなのか?
食えよ。お前は恩知らずじゃない。自分の事をそんな風に言うな。
それに謝る必要なんてない。
俺は天狗だからな、恐ろしくて当然だ。
猫又を殺したのには、他にもいろいろ理由がある。
知りたいか?」
紅天狗は低い声でおどかすように言った。怖い目でジロリと見てきたので、僕はサッと目を逸らして縮こまった。
「僕が…紅天狗に猫又を殺させた…のかな…?」
「違う。
猫又が、判断を誤った。
猫又が、その決断をした。
猫又はな、力が強くないから妖術も命懸けだ。
妖術を施して獲物に被毛を絡ませたのだから、次に食うのはソイツでなければならない。被毛を絡ませておきながら、他も食えるのならば被毛を絡ませた勝ちになる。
被毛を絡ませたことで、他の猫又にソイツは食うなという唾を付けたのだから当然だ。
だが昌景は俺と共に山に戻る。猫又の領域には2度と来ることはない。
次に行くのは、猫又よりも力のある妖怪の領域だ。
妖怪にとって領域侵犯は大罪だ。
強者が弱者の領域に行くことは可能だが、弱者が強者の領域に行けば死しかない。
よって猫又は餓死するしかない。
奴の辿る道は、死しかない。
お前に妖怪の命をどうこう出来る程の力はない」
紅天狗はそう言うと、片手で僕の肩を抱いた。グッと力を入れて、丸まっている僕の背をしゃんと伸ばした。
「猫又の領域で昌景はよく戦った。
お前はお前の戦いをした。
誇らしげに胸を張れ。
それにな、俺がお前の「頼み」で猫又を見逃したとする。
そうなれば、どうなるか?
強者は、弱者の領域を侵犯できる。
俺の動向をどこかで見ている者がいるかもしれない。そうだ…いないとは言い切れない」
僕が紅天狗に目を向けると、その目からは強い戦意を感じた。
「そうなれば、お前は俺にとっての弱点となってしまう。
絶好の狙い目だ。
お前が頼めば天狗は何でもホイホイ聞くと判断されれば、外にさらされている穴から得体の知れないものが入り込んできて、内側から食われるぞ」
紅天狗がゾッとするような声を出すと、僕の右手の指がピクピクと動いた。
「まぁ、そうならないように面を被らせてるんだがな。
口と鼻は完全に覆われてるし、面の紐が耳に接している。
俺の力の方が、奴等よりも強い。
面を被ってる間は、大丈夫だ」
「その為にお面をくれたの?」
「それだけじゃないさ。
まぁ、ソレについてはいつかは自ら気付くだろう。
俺が答えることではない。
話しは戻るが、そうなれば妖怪は昌景を狙う。
本人に手出しができなければ、矛先を家族或いは女や子供に向けるなんて、人間の世界でもよくある話だろう?
だからこそ、俺はその倍以上の報復をする」
紅天狗の目が冷たく光り険しくなった。散り落ちて地面を赤く彩る真っ赤な紅葉をじっと見つめた。
「ごめん…。
僕は異界の事を何も知らないのに…」
僕は小さな声で言った。
「知らないから聞くんだ。当たり前だろう!?お前が異界を理解してたら、その方が怖いわ。
俺だって分からないことは聞く。
何も疑問に思わなければ、俺が順を追って連れ回している意味がない。考え、それを言葉にする事に意味があるんだ。
それに俺はもっと昌景のことを知りたい。
最後の領域である鬼の領域に行くまでにな」
紅天狗がそう言うと、僕の心は暗くなった。袴の人からも鬼の話を聞いて、鬼の領域を恐ろしく感じたからだろう。
すると僕の心のように晴れ渡っていた空が曇ってきた。
「妖怪を憎めたら…もっと…楽なんだろうな」
僕は独り言のように呟いた。
「それは違うぞ、昌景。
憎しみは目を曇らせるだけだ。正しく物事を見えなくする。
もっとも危険な感情だ。
俺も誰かれ構わず殺しているわけじゃない。それは、許されない。
俺は昌景の優しさを完全に捨てろとは言ってない。
異界では異界の戦い方がある。戦い抜く為には武装せねばならない。
お前が守りたいものを守る為にな。
お前の優しさは大事にとっておけ。
妖怪ではなく、他の誰かに向けてやれ。
カラスや、この山にいる他の皆んなに向けてやれ」
紅天狗は袴の人と似たような事を言った。
紅天狗はしばらく黙っていたが、不意に僕に目を注いだ。その瞳は少し悲しげだった。
「俺は妖術で大概のことが出来るが、一つだけ出来ないことがある。なんだと思う?」
僕はその言葉にしばらく黙り込んだ。
男の逞しい腕を見てから腰の刀を見、そして異界でこうも僕の為に時間を割いてくれていることを思った。
「誰かの心を…思い通りにすることかな…?」
すると、紅天狗は小さく笑った。
「そうだな。
だが俺は読心ができる。
心を読むことができるから、相手の考えを知り、上手く利用することが出来る。
少し手間と時間はかかるが、それは思い通りにするのと一緒だ。
それに恐怖で抑えつけることも出来る」
紅天狗はそう言うと、真剣な瞳で僕を見た。
「俺に出来ないこと、それは…生き返らせることだ」
急に辺りが暗くなった。
眩しい太陽は雲で姿を隠し、凍え死んでしまいそうなほどの冷たい風が吹いてきた。雷鳴が響き渡り、稲妻が走ったような閃光がひらめいた。
「どうやったって生き返らせることはできない。
それは神の御技だ。
だから死ぬなよ、昌景。
俺が盃で酒を飲む時、隣にいてくれ。
共に月を見ながら、酒を飲もう。
映し出される輝きは、この上もなく美しいぞ」
紅天狗がそう言うと、蠢く空が静かになった。
雲が流れて太陽が顔を出すと照り輝く空が広がり、キラキラした光の粒が降り注いで紅葉の赤い色をより鮮やかにした。
「空の力は偉大だな。俺では、どうする事も出来ない。
ほら、飯が冷めるぞ。っても、もう冷めてるかもな」
紅天狗は苦笑いを浮かべながら言った。
「あっ…ありがとう。
海鮮の雑炊なんて、はじめて食べるよ。山で海鮮が食べられるなんて思いもしなかった」
「あ?あぁ…アイツは海の近くに住んでるからな。
カラスがすきなの知ってるから、喜ぶ顔が見たくて持ってきたんだろう」
「アイツって…紅天狗の…友達?」
「そうか、アイツの話はしてなかったな。
俺がした昔話を覚えてるか?そん時、俺と妖怪を殺した数を競った男だよ」
「海の神が連れてきた…その…天狗?」
「そうだ。天狗だ。
会ってみたいか?昌景」
と、紅天狗は言った。
会ってみたいという気もしたが少し怖い気もした。僕が苦笑いを浮かべると、紅天狗も笑ってくれた。
「まぁ、そのうち会うことになるだろう。
鬼の領域に行く時には、アイツの力も必要だからな…」
紅天狗は呟くように言った。
「あの荷物、凄い重たかったけど、食料が入ってたの?」
「半分はな。残りの半分は焼き物だ。
俺が使ってる陶器のほとんどはアイツがくれたやつだよ。暇だからってな、いろいろ作ってるんだわ」
と、紅天狗は言った。
「探している盃も、その人が作ったものなの?」
「いや、ちがう」
紅天狗は短くそれだけを答えた。
「この話は、また今度な。
今からしてたら次の領域に行く時間がなくなる。
今日は一反木綿の領域に行く。
少しばかり刺激が強いぞ。
昌景、共に戦おう」
紅天狗は力を込めて言った。
「紅天狗…」
僕は紅天狗の方に向き直り、しゃんと背筋を伸ばして銀色の瞳を見つめた。
「なんだ?」
紅天狗は不思議そうな顔をした。
「ありがとう。
猫又の領域で、僕を守ってくれて」
僕がそう言うと、紅天狗は僕に微笑みかけた。
「どういたしまして。
俺も、ありがとな。
もうしばらくしたら、行くか」
青い青い空を見上げる紅天狗は嬉しそうな表情をしていた。
※
「おっ、起きたな。よかったよかった」
紅天狗は木の実を左手に、右手にも何か見慣れぬモノを持っていた。
「一反木綿の領域についたぞ。
大丈夫か?」
紅天狗が木の実を口に入れてくれると、感覚がだんだん戻り、背中からはゴツゴツとした感触が伝わってきた。
僕は岩にもたれるようにして座っていたのだった。
辺りは伸び放題の茶色い草や見たこともない丈の高い黄色い植物が生えていた。草の匂いが漂い、虫の鳴き声と鳥の囀りも聞こえてきた。
灰褐色の背の高い木々がひしめき、太陽の光はボンヤリと流れ込んでくるだけの薄暗い灰色の世界に僕達はいた。
「ありがとう…いつもより…マシみたい」
僕はゆっくりと息を吐いた。
全身が硬直したような感覚はいつものことだったが、今日はいくらかマシだった。
目を開けていようと結界橋を渡る前に決めたことで、いつもより長く意識があったからなのかもしれない。
「そうか。良かった。
少し、慣れてきたかな?
なら、コレを渡しておくわ」
紅天狗の手には短い刀剣が握られていた。
「えっ!それ、短刀だよね!?」
僕は素っ頓狂な声を上げた。
「どうかな?
昌景自身で、確かめてみろよ」
紅天狗はそう言うと、短刀にしか見えないものを僕に握らせた。
「刀だと思うのならば、刀を握り、鞘から抜けばいい。
刈谷昌景の答えを導き出せ」
紅天狗は僕にそう囁きかけた。
急に物音ひとつ聞こえなくなり、聞こえるのは僕の心臓の音だけになった。
神木の下で、陽の光を浴びてキラキラと輝く紅天狗の刀を見た時、その美しさに心魅かれた。
だがその美しさを背負うには、信念と覚悟がいる。
誰かの手の中にあると、それは命を奪う為のものとなる。
そして奪った命は、決して元には戻らない。
僕は人間だ。誰かの命を奪う権利はない。
僕は紅天狗とは違う。紅天狗は山の神の名の下に殺している。
僕は、その道に、歩んではいけない。
僕が握れるのは…握っていいのは、僕の望みを形にしてくれる釣竿ぐらいだろう。
僕は、刈谷昌景として、戦わなければならない。
僕は右手で柄を持ち、左手で鞘を握った。
すると短刀は不思議な光を発し、僕の顔を明るく照らした。
ゆっくりと鞘から抜くと、そこにはあるはずの刀身がなかった。柄と鍔と鎺はあるが、刀身がない。
僕は不思議な短刀をまじまじと見つめた。
銀色の柄を華やかに彩る飾り金具である目貫は、扇のデザインだった。
鍔は透鍔の丸形、大振りで厚みがある。紅葉の文様の線や繋ぎ目も太く、重厚感があって力強かった。
銀でつくられた鎺にも、扇の装飾が施されていた。
「それが昌景の刀だ。
いずれは名刀になるだろう。
主人を支える大きな力がある。
俺の妖術を施しているが、それを引き出すのは俺じゃない。
お前は、俺に助けを求めるだけの男じゃない。
自分で考え動く事が出来る男だ」
紅天狗は強い眼差しでそう言うと、腰に巻いて差げることが出来るベルトもくれた。僕は不思議な短刀を鞘に戻し、柔らかくしなやかなベルトを腰に巻き付けた。
「似合ってるぞ」
紅天狗はそう言ってから、僕の耳元で囁いた。
「見せねばならないものがある。
しばらく山の中を散歩でもしてろ。
用が済んだら、すぐに戻って来る。それまで自分で何とかしろ。
暗闇に取り込まれるなよ。
光を、求めるんだ」
「分かった」
僕はコクリと頷いた。
陰気な雰囲気が漂う灰色の森を見渡してから、自分を安心させるかのように護身用の短刀を見つめた。
僕の前に立っていた男がいなくなると、木の間をすり抜けて吹く風が急に冷たくなったような気がした。1人で歩いていくと思うと不安でたまらないが、ココでグズグズしているわけにもいかない。
木々のもつれあう灰色の世界を、僕はヨタヨタと歩き始めた。
しばらく歩いていたが、虫と鳥の他には生きているモノの気配を感じなかった。風が吹く度に、丈の高い草がソヨソヨとなびくだけだった。
だが足が疲れてくる頃、景色が少しずつ変わり始めた。
木の葉は濡れて光り、雫が滴り落ち、時折僕に降り注いだ。
足元の草も冷たい露を帯びているせいか、ズボンの裾が少し濡れて嫌な感触がした。むき出しになった根っこに躓かないよう下を向きながら歩くうちに、どんどん陰気な道に進んで行ったのだった。
灰色の木々はどんどん高くなり、光を遮り一段と暗くなった。
夕暮れ時のようになると、両側の木々が動き出して迫って来るように感じ、喉がカラカラに乾いていった。
すると突然後ろから大きな音がした。
驚いて後ろを振り返ると、さっき歩いた時にはなかった捻じ曲がった太い枝が地面に突き刺さっていた。
直撃していたら、即死だっただろう。
僕は驚きと恐怖の小さな声を上げ、2、3歩後ずさった。
すると、そんな僕を嘲笑うかのような奇妙な声がした。
僕は大きな木の下に走り寄り、太くて立派な幹に身を隠した。苔むした幹からは土のにおいがし、長く垂れた枝がカーテンのようにユラユラと揺れた。
だが木は、木である。
一時的に身を隠すことは出来ても、僕を守ってくれる存在にはならない。今ここで僕を守れるのは、僕しかいない。
「いるぞ、いるぞ。近くにいるぞ」
こちらに向かってくる奇妙な声が、どんどん大きくなってきた。
(目を閉じてはいけない…現実を…しっかり見るんだ。
目を逸らすな)
何度も自分にそう言い聞かせ、なんとか立ち向かう勇気を奮い立たせた。
幹から離れると、僕の胸は早鐘を打ち額から汗が流れ、ジットリとした右手で柄を握り締めた。
だが、遅かった。
布が風でなびく音が聞こえ、僕の体に白い布が巻きつき、後頭部から奇妙な声がした。
「オヌシはここで何をしているんじゃ?
すっかり暗くなっているというのに巣にも帰らず、ワシらの山の中をほっつき歩いている。
帰り方を忘れたのか?
ワシが連れて行ってやろうか?
震えているだけでは分からんではないか?
何とか言ったらどうなんだ?憐れな妖怪め」
そう言い終わるやいなや、白い布が目前にぬっと現れた。
その白い布には向日葵の種のような黒い目と真っ赤な口があった。
一反木綿はガタガタと震えている僕を見ると、種のような目が満足げに細くなった。
「なぜ、そんなに怖がっている?
ワシが親切に言うてやっているというのに、その顔はなんだ?
ほれ、笑わんかい。
ワシの感情を逆撫でするな。
そんなシケタツラをしているのなら絞め殺してくれようか。そんな顔は必要ないからな」
一反木綿は声を上げて笑い出した。その拍子に巻きついていた布が波打ち、スルスルととれた。
僕は腰に差しているものも忘れて相手に背を向け、全力で走り出した。足はガタガタと震えていたので歩いているのと変わらないスピードだっただろう。
だが一反木綿は笑い声を上げながら、逃げる兎を痛ぶるようにゆっくりと追いかけてくるだけだった。必死になって逃げる姿を見て、愉しんでいるのだった。
僕は突き出した太い根っこに足を取られて、そのまま前のめりに倒れ込んだ。地面はぬかるんでいて嫌な臭いがした。
あちこちから水が湧き出している不思議な場所だった。手にはグチャグチャの泥がこびりつき、お面も服も泥まみれになった。顔を上げると、仄暗い空間の中で、一旦木綿が薄笑いを浮かべながら僕を見下ろしていた。
「オヌシ、もう逃げないのか?
どうせ逃げられやしないのに、必死になって生にしがみついている姿を見るのは、愉しいな。
よいの…よいの…。
ガタガタと震え、恐怖という感情に満ちた血を啜るのは、格別だ。美味くなってきたな…いいな…。
もっと…もっと…美味くなれ。
さぁ、立て、走れ。
走らぬのなら殺してしまうぞ。走らぬ足から食うてしまおうか」
一反木綿はそう言うと、僕の下半身を見ながらノコギリのような歯を剥き出しにした。
体が凍りつきそうになったが、側の太い幹に寄りかかるようしてなんとか立ち上がった。足が震えているので、何かに寄り掛からなければ自分1人で立っていることも出来なかった。
「僕は…何もしていません。
ただ歩いていただけです。
貴方に危害も加えていない。僕には貴方と争う理由がそもそもありません。
それなのに何故こんな事をするのですか?
殺そうとするのですか?」
僕の耳に聞こえた自分の声は細くて、何の威力もなかった。むしろ自分の弱さを露呈し、相手の残虐的な欲求を刺激しただけだっただろう。
一反木綿は嫌な笑い声を上げ、情け容赦のない目で僕を見た。
「何となくだ。
ただ歩いていたからだ。ソコにいたからだ。目に入ったからだ。
オヌシを食うのに、適当な理由がいるのか?」
一反木綿は冷ややかな声で言った。
(言葉なんて、通じない。
弱い者は舐められ、強い者の肉となるだけだ。
力が、全てだ)
紅天狗の言葉が頭をよぎった。
「何もしなければ襲われぬとでも思い、ワシらの領域に来たのか?何故ワシが、ソレに合わせねばならぬのだ?オヌシは馬鹿なのか?えらくノホホンとした愚かな妖怪だな。
オヌシに戦う理由がなくても、ワシには食う理由がある。
ワシの目に入ったオヌシを食いたいという理由がな」
一反木綿はゾッとするような視線で僕の全身を眺め回し、真っ赤な口を赤い舌で一舐めした。
「抵抗しないのは、怖いからだ。
武装しないのは、力がないからだ。
戦う意思を放棄したのだから、命も放棄するだけよ。
さぁ…どこから食ってやろうか…」
鴉のお面が痛いくらいに締まり、僕の頭の中に残酷な映像が浮かんだ。
一反木綿は僕の体に巻きつくと空高く浮かび上がり、そのまま無慈悲にも地面に向かって叩きつけた。
落下の衝撃で顔は判別出来なくなり、手足は折れ曲がってグニャグニャになっていた。折れた骨が皮膚を突き破っているのを見ると、山中に響き渡るような笑い声を上げた。
赤い口を窄めながら突き破った骨を吸い出した。そこからグチャグチャになった内部が溢れ出すと、血と臓物を貪り食い出したのだった。
一反木綿の白い体は赤黒く染まり、口から夥しいほどの血を垂れ流しながら満足げにゲップをし、最後に妖術を唱えた。
命を食らったことで一旦木綿はより長くなり、無慈悲なまでの白となった。
一反木綿が軽快に飛び去っていくと、笑い声を聞きつけて潜んでいた腐肉あさりのモノ達が草むらから我先に駆け出してきた。虫が飛び交う中を散乱している肉の破片と骨を求めて奪い合った。肉は食い尽くされ骨は噛み砕かれ、そこには何一つ残らなかった。
だだ短刀だけが、血の海で浮いていた。
この瞬間、僕はようやく目が覚めた。
紅天狗が言っていた「妖怪」を感じ、どれだけ守られていたのかを痛感したのだった。
戦わなければ、それは幻ではなく、現実になるだろう。
そして現実とは、幻以上に、残酷だ。
現実は惨たらしく、あり得ないことなんて何もない。
僕にとってはあり得ないだけで、相手にとってはあり得るのだから。
この真っ赤な口からは、多くの者達の血のニオイがする。
「や…めろ…」
恐怖で歯がガチガチと音を立てると、一反木綿はさらに面白がり嫌な声を上げて笑うだけだった。
「止めさせることが出来るかは、オヌシに力があるかどうかよ。
だがオヌシにはそんな力はない。
震えながら、助けを乞うだけの弱い妖怪だ。
そして助けはやってこない。
なぜなら戦わずに震えているだけの者に、救うだけの価値がないからだ。救う価値もない者を、誰も救わない。
オヌシは自分自身でその価値を作れなかった」
一反木綿の冷たい息が僕の顔にかかった。
モヤがかかったかのようにボンヤリとし始め、僕を馬鹿にするようにグルングルンと回る一反木綿を目で追い続けた。
「こうまで時間をもらっていながら、オヌシは願い逃げるだけで、何もすることが出来なかった。
弱いだけでなく、考える事も出来ない馬鹿な妖怪だ。
止めろ止めろと言うだけで、止めさせる方法が見出せない。
止めさせたければ、力を見せなければならないのに、オヌシは何も出来なかった何もしなかっただけの「馬鹿」な妖怪だ」
真っ赤な口が僕を飲み込むように大きく開いた。
白いパウダーを塗り赤いルージュを引いた顔を思い出すと、全身が硬直したように動けなくなった。
何度も何度も言われた言葉だった。
「お前は馬鹿なのか?」と言われるたびに、自分を諦めて暗い気持ちになっていった。
僕なりに一生懸命にやっていた。
でも、それではダメなのだと思い知らされる。
兄のようでなければならない。そうでなければ頑張っても価値がない。
素晴らしいなんて言われたかった訳じゃない。ただ…認めてほしかった。
僕は…兄じゃない。
刈谷昌景という名の1人の人間だ。
それなのに同じものを求められる。同じレベルを求められる。それがどれほど辛いものなのか、比べる側には分からないだろう。刈谷昌景という名の男は、両親の目に映ることはない。もともと存在すらしていないかのように。
同じでなければ馬鹿で、同じでなければ失敗作だ。
「1人の人間だ」という言葉は、言い訳でしかない。
認めて欲しければ、死に物狂いで努力しろ。
「それが出来ないのであれば、生きている価値がないから食われてしまえ」
黒い影が僕を囚えて首に手を回し、耳元で囁いた。
さらに追い討ちをかけるかのように「昌景なんて産むんじゃなかったわ」という母の言葉も思い出した。
灰色の暗い世界の中で完全に光を見失った。
紅天狗の言葉も闇に溶け込むと、グルングルンと目が回ってヘナヘナと膝をついた。
両親は僕に言った言葉を覚えていないだろう。
傷つける側は、傷つけた言葉を、覚えてなんかいない。突発的で、相手を苦しめることに快感を覚え、相手の思考を叩き潰して支配できたら目的は達成するのだから。
そこに深い意味はない。
ならば、より残酷な方がいい。
より相手を滅茶苦茶に出来る方がいい。
だからこそ傷つけられた者は、一生覚えているのだろう。忘れることなんて出来ずに、僕をいつまでもいつまでも苦しめる。
「オヌシ、何故ワシに何も言い返さない?
そうか…分かったぞ。
全てが真実だと、オヌシ自身が認めているからだ。
オヌシには何も無いなぁ。
オヌシは薄っぺらいなぁ。
ワシの体よりも薄くて、風に吹かれたら飛んでいくような紙切れのような妖怪だ。
オヌシのような何の価値もない妖怪は生を諦め、ワシの血肉となった方がよっぽど価値がある!」
一反木綿は声を荒げた。
「真実だ。真実だなぁ」
そう言って回り続ける一反木綿から僕は目が離せなくなった。
(そうだ…そうなのかもしれない…何も言い返せない。
それこそが、真実だ。
自分の居場所も望む場所、夢や希望も分からないのだから。
自分の事が「何も」分からない、薄っぺらい男なのだから。
僕が歩いてきた道には何もない。
何も…言い返せない)
僕が降参したかのように両手をダラリと下げると、一反木綿は僕の体に巻きついて締め上げ始めた。
その力は恐るべきもので、体が捩れるような痛みが走り呻き声を上げた。すると一反木綿は締め上げる力を弱め、僕の体を近くの木に叩きつけた。
僕が立ち上がれないでいると、また同じことを繰り返し、吐血して苦しむ姿を見て愉しんでいた。
頭から幹に激突すると、僕の思考は完全に鈍くなった。
立ち上がることもできず、ぬかるんだ地面の汚い土にまみれながら泥だらけの右手を見つめた。
体中が痛くて拳を握り締める力もなかった。風が身を切るほどに冷たく感じた。
終わりは遠くない。
僕の物語は、ここで終わりだ。
どこまでもどこまでも情けない、泥まみれの男だ。
どんなになっても…結局は抜け出せない。
今更戦おうなんて、今更抗おうなんて、出来るはずがない。僕はそうしてこなかったのだから。
戦うことが出来るのは、恐怖に打ち勝ち、訓練してきた者だけだ。
鍛え抜いた屈強な心と体がなければ、こんなふうに悲惨な現実を知るだけだ。
理想は理想でしかなく、現実にはならない。
努力しなければ、現実は変えられない。
だが僕はその努力を怠った。
これ以上現実を思い知らされて、ボロボロになるぐらいならば早々に諦めてしまった方がいい。骨が折れていないことが不思議なくらいだ。その方が楽だろう…辿る道が決まっているならば。
一反木綿は笑い声を上げながら僕の腹部に巻き付くと、少し高く浮き上がり今度は地面に叩きつけ始めた。
その衝撃によるものなのか、頭上高くから大きな音がした。木々が揺れ、葉がザワザワと揺れる音が騒がしくなった。
その音は、一反木綿の笑い声を飲み込み、僕の意識を一反木綿から少し逸らさせた。
(さっき見た幻が現実になろうとしている…。
もう諦めよう…僕はその程度の男だ…。
兄さんのようにはなれなかった…あきら…)
兄を思いながら目を瞑ろうとした時、つんざくような鳥の鳴き声を聞いた。
聞き慣れぬ鳥の声だった。
灰色の暗い空間の中で顔を上げると、赤く見える枯れ葉が燃えるような弧を描いて舞い落ちてきた。
僕は泥にまみれた右手を広げた。
すると、それは僕の手の中に落ち、赤々とした光となった。
鳥の声と赤い光は朦朧としている頭を正気に戻し、兄と紅天狗の顔を鮮明に浮かび上がらせた。
(本当に諦めていいのだろうか?
諦めたところで、現状は何も変わらない。
兄なら諦めない。
一反木綿に抗うことを、決してやめないだろう。
だから兄は刈谷昌信となったのだ。
そうだ…僕も刈谷昌景にならねばならない。
たとえ紅天狗が戻ってくるまで、僕は生きていなくても、こんな妖怪の思い通りにさせてたまるか…こんな妖怪に僕の何が分かる!分かってたまるか!
叩き潰されようが爪痕は残さなければならない。思い通りにならない者もいるのだという事を思い知らせてやる。
そうすれば僕は生きたということになるだろう。
泥の道は楽には歩けない。だが固まってはいないのだ…僕が諦めなければ歩き続けることが出来る。
僕は、諦めない)
僕の中で、燃え上がりそうなほどの力がようやく目覚めた。熱は力となり、腰にあるモノを思い出させ、戦う為の拳を握り締めた。冷たい風ですら、僕の目を覚まさせ勇気づけてくれるものに感じ始めた。
一反木綿が僕の首に巻きつこうとした瞬間、その白い布を掴んだ。
「楽しいですか?
可笑しいですか?」
「何?」
一反木綿は少し驚いたような声を出した。もう僕は死んだものと思っていたのかもしれない。
「必死で生きようとしている者が、そんなに可笑しいか!?
笑って楽しいか!?
お前こそ、どうしようもない妖怪だ。
僕は今まで戦うことも抗うこともなく、ただ諦め、全てを受け入れてきた。本当の意味で生きようとはしてこなかった。
自分にはソレが似合いだと思うことで、苦しんでいる自分から目を逸らした。
自分の為に戦おうとはしなかった。
圧倒的な力を持った誰かが現れ、助けてくれると期待していた。
結果は変わらないし、我慢すれば終わると思っていた。
けれど、それは違う。
自分で戦わなければ、何も変わらない。何度も何度も繰り返すだけだ。自分で終わらせなければ終わりはやってこない。
のたうち回って惨めに苦しんでも、そこから学び考え動き出すことで戦うことが出来る男になれる。
それが生きるということなんだ。
僕はようやくその事が分かった。僕はその道を、これから歩んでいくんだ。
痛みも苦しみも分からないヒラヒラした者に、僕の新たな道を邪魔されるなんて我慢できない!語られるなんて許せない!
僕を語れるのは僕だけだ。
今こそ、僕は諦めない!」
僕はそう叫ぶと、ヒラヒラした布を握る手に力を込めて下から引っ張り、自分が起き上がった。背筋をしゃんと伸ばすと、僕に代わって泥にまみれている一反木綿を見下ろした。
「馬鹿にしていた者と同じ泥まみれになったな。
今、一体どんな気分だ?
苦しめられる者の気持ちが分かったか?」
一反木綿はびっくりしたような目で僕を見たが、その赤い口元には徐々に人を馬鹿にするような笑みが浮かんだ。
「これで勝ったつもりか?オヌシ」
一反木綿は憎悪の籠った目で僕を見ると、口を大きく開けながら空高く浮き上がった。
「ワシの体を泥で汚した罰を与えてやる。
ワシの歯で細切れに刻んでから、ゆっくりと時間をかけて食ってやるからな」
一反木綿が耳をつんざくような叫び声を上げて襲いかかってくると、僕も短刀を鞘から勢いよく抜いて向かい合った。
それは眩いばかりの光を発してから、燃え盛る松明となった。
「これ以上、近づくな」
僕はあらん限りの大声で叫んだ。
本当は燃やすつもりなどない。
松明を掲げながら、一反木綿からゆっくりと遠ざかり、陽の光を求めるつもりだった。
紅天狗に暴力的な意味で戦うなと言われたことがある。
異界の事をよく知り尽くしている紅天狗の言葉を聞かなかったから、何度も恐ろしい目にあったのだ。それを思い出して心を落ち着かせ、守る事と攻める事を混同してはならないと自分に言い聞かせた。
一反木綿の動きが燃え盛る火で一瞬止まったが、すぐにニヤニヤと笑い出した。
「そうか、そうか。
ちっちゃくて可愛い火だな。
だがワシらを燃やせるのは、地獄の業火のようと伝えられる天狗の炎のみだ。
オヌシのソレでは何も燃やせぬよ。
天狗の炎……見るも恐ろしい炎だがな」
一反木綿は口を大きく開けて息を吹きかけ、松明の火を一瞬で消し去った。
「どうだ?
また可愛らしい火を見せてくれぬか」
一反木綿が叫び声を上げて僕に襲い掛かろうとした時、突如として僕と一反木綿の間に真っ直ぐな太い枝がすさまじい速さで空から降ってきた。
「ならば、その天狗の炎とやらを、お前に見せてやろう」
空から鳴り響くような恐ろしい声がした。
雷鳴のようなその声は、山全体に響き渡るほどに凄まじく、肝も潰れるほど威圧的だった。
黒い大きな影が僕の前に地響きを上げるかのように降り立った。
唸りを上げるような風が吹き、空高く生い茂っていた木々ですら道を開け、暗い空間の中に光が一気に降り注いだ。
目の前に立つのは、光を背負った男だった。
灰色の翼をはためかせた屈強な男は、赤い髪を燃え盛る炎のように靡かせた。
紅天狗は刀を鞘から抜いた。
刀は銀色の光を放ち、燦然と輝いた。
一反木綿はおののき立ち向かうこともせず逃げようとしたが、稲妻のように閃く銀色の刃が素早く振り上げられ振り下ろされた。
紅天狗が一反木綿を斬り裂くと、そこから燃え盛るような炎が上がり、踊り狂うように全てを包み込んだ。
僕の目の前で、白が、赤く赤く色を変えていく。
一反木綿は生を感じさせない、紙のようだった。
あまりに烈しい地獄の業火は一瞬で全てを焼き尽くした。そこには何も残らなかった。
紅天狗の刀が鞘に納められるまで、僕は目を逸らすことなく見続けた。
紅天狗は僕のボロボロの体を見ると、赤い髪の毛をクシャクシャとした。
「大丈夫か?昌景。
えらくボロボロだな」
紅天狗の顔を見ると急に力が抜けて、ヘナヘナとその場にしゃがみ込んだ。
「かっこよかったぞ、昌景」
と、紅天狗は言った。
「見てたんだ…もっと早く…助けてよ…」
「お前は、俺に助けを求めるだけの男じゃない。
それに今回は見せねばならないものがあるといっただろう?」
「えっ…?」
「初めてだからな、優しくしておいた。
次は、焼け爛れていく肉塊を見ることになる。
暗くなる前に山に戻るか。絹織物も手に入ったしな」
紅天狗はそう言うと微笑みを浮かべ、僕に手を差し出した。僕はその大きな手を見つめてから力強く握り締めた。
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