第8話 猫又
はめ殺しの窓から朝の眩しい光が差し込んできて、僕は目を覚ました。今日は絶好の洗濯日和だ。大きく伸びをしてから起き上がり、布団を綺麗に片付けてから洗濯物を手に取った。泥の汚れはシミすら残らないほどに綺麗に落ちたので、ホッとして胸を撫で下ろした。
キラキラするような陽の光の下では、袴の人がいつものように紅葉を掃いていた。
箒を動かす度に、色鮮やかな紅葉がフワッと舞い上がる。
肩にかかる濡羽色の髪が風で波のように流れ、ひらひらと舞い落ちてきた赤い紅葉が美しい髪を華やかに飾りたてた。
耳を澄ましていると、風にのって、澄んだ歌声も聞こえてくる。
その澄んだ歌声は鴉達を呼び寄せ、紅葉を集めた袋を掴むと青い空へと飛び立っていった。
彼女が掃いた地面は綺麗になったが、風が吹くたびに紅葉がまた舞い落ちるのだった。
それでも彼女は懸命に紅葉を集め続けた。
僕はおずおずと2,3歩前に進み、朝の挨拶をした。
すると彼女はビクッと体を震わせ、歌うのを止めてしまった。
振り返った彼女は少し恥ずかしそうな表情を浮かべていたが、去っていくことなく会釈をしてくれた。
「あの…天気がいいから、洗濯物を外で干そうと思って…」
僕がそう言うと、彼女は黙って物干し竿があると思われる方向を指差した。
「あっ…向こうなんだね?
ありがとう。
それに、ごめんね…邪魔しちゃってさ」
僕がそう言うと、彼女は黙って首を横に振った。
会話は続かずに、僕達の間を、風が流れていった。
「そうだ…座敷童子が来た時…お茶を出してくれたんだよね?
遊んでたから、気がつかなくてさ。
ありがとう」
「……主人様の…大切なお客様ですから」
袴の人は小さな声でそう言うと、箒をキュッと握り締めた。
彼女は黙り込んでしまったが言葉を返してくれたので、僕は嬉しくなりもっと話がしたくなった。
「この山の紅葉は本当に綺麗だね。
それに、燃えるような力を感じるんだ。
紅葉にも力が宿っているような…。いや、紅葉だけじゃない。森全体に燃えるような力が宿っているような気がしてならない」
僕がそう言うと、袴の人の表情が一瞬沈んだように見えた。
「この山は…天狗様の御力に…よるものです。
天狗様が、主人なのです。
草木の全て…光も水も落葉も…ワタシも…主人様の御心に従います。
ワタシは…食事の支度が…ありますので…これで」
袴の人は赤い紅葉の簪をつけたまま、僕の前から風のように消え去って行った。
洗濯物を干し終わると、僕はいつもの軒下で座っていた。
この数日間の事を思い返していると、異界へと繋がる道を歩いた時もそうだったが自分の体力の無さを感じることが多かった。
すこし体でも動かそうと柔軟体操をしていると、前から紅天狗が歩いてきたので、僕は慌てて直立不動の姿勢になった。
「おはよう、昌景。
食事はまだだし、俺はそこで横になって休んでるから続けてていいぞ」
紅天狗は疲れのない、爽やかな笑顔を浮かべた。今日も上半身裸で刀の稽古をしていたのだろうが、着物に乱れはなかった。紅天狗は軒下にドカッと座り、肩肘をついて縁側に横になると目を閉じた。
僕は少し乱れた浴衣の衿を直し、そそくさと紅天狗の隣に座った。
「もうやめんのか?
声かけない方が良かったかな」
紅天狗は片目を開けて僕の顔を見てから起き上がり、両腕を上げて伸びをした。
「紅天狗の前で運動って…やりづらい」
「なんだよ?それ?」
「昨日、ここで昼寝をしていて目を覚ましたら、お腹の上に座敷童子が座ってたんだよ。
本当に、びっくりした」
追求される前に僕が話題を変えると、紅天狗は笑った。
「な?
来たら、すぐに分かるって言っただろう?」
「紅天狗にも…何か悪戯するの?」
「あぁ。それが挨拶みたいになってる。毎回変えてくるから、なかなか楽しいぞ。
俺も、けっこう腹の上や背中にのられてるわ」
紅天狗が陽気な声を上げたので、僕はもっと紅天狗の口から座敷童子の話を聞きたくなった。
「どうやって出会ったの?」
「ん?知りたいか?」
紅天狗がそう言うと、僕はコクリと頷いた。
「昌景が生まれるよりも…ずっと昔のことだ…」
紅天狗は遠い目をしながら語り出した。
紅天狗が山から降りた帰り道に、大きな木の上で座っている座敷童子と目が合ったらしい。同じ星を見ながら男は笛を吹き、座敷童子はその音色に合うように歌を口ずさんだ。
それから山にも遊びに来るようになったということだったが、あまり深くは語らなかった。
「まぁ、そんなとこだ。
座敷童子は思っていた通りだったか?
河童は色が違ってたんだろ?」
と、紅天狗は言った。
「うん…その通りだった。肩ぐらいの髪に着物を着ている座敷童子の絵を本で見たことがあってさ。
実際に会ってみた座敷童子は妖怪っていうよりも、不思議な力を持っている小さな人って感じだった。
他の妖怪の絵は……けっこう強烈だったな。
僕が小学生の頃に、兄と行った図書館で、たまたま妖怪の本を見つけて開いたんだ。数百年前の絵師が書いた絵なんだけど…でっかい骸骨や首が伸びている女の人の絵が本当に怖くてさ…他にもいろいろ…。
今でも、鮮明に覚えているよ。
本のページから出てきて動き出すんじゃないかって思うぐらいに生々しかった。その日は何度も思い出して…怖くて眠れなかった。
その本を開いたことを、心底後悔したよ」
と、僕は言った。
「そうか。その時から
紅天狗は空を見上げながら言った。
「え?」
僕が聞き返した瞬間、空から鴉の大きな鳴き声がしたので、その声はかき消されてしまった。
「絵師達は、実際に妖怪を見たんだ。
だが言葉では禁じられていたから、絵として書き残したんだ。絵師達は、絵師達の方法で戦ったんだ。そうまでして後世の人間に何かを伝えようとした。
まさに魂の絵だ。だからこそ、見ている者の魂を揺さぶる。
昌景、今ならその絵に何を思う?
お前は実際に妖怪に触れたのだから」
紅天狗はそう言うと、銀色の鋭い瞳を僕に向けた。
しばしば僕に考えさせ、意見を述べさせようとしてくる。
今まで僕は自分の意見はなるべく口に出そうとはしなかった。大学生活やアルバイト先では、波風を立てない方が過ごしやすい。
だがここでは流されるだけでは許さないとばかりに、黙っていると迫力のある瞳が迫ってくるのだ。
存在していた2人の陰陽師…消されてしまった
月夜に闊歩していた妖怪… 想像上の化け物となってしまった
人間に渦巻く欲望…とどまることをしらない
恐怖という感情…忘れ去られていく
それらは、あまり気持ちのいい話ではなかった。
僕の頭の中で妖怪の絵がグルグルと回り出した。様々な絵が折り重なると、絵の中の妖怪は力を得て飛び出してきて行進し始め、もとの絵の中に戻すのは困難になった。
僕は頭を振って、なんとか追い払い、息を吐いた。
「僕達は…臭い物に蓋をする習性がある。
でも蓋をしただけで何も解決していないから、ソレは目に触れないところで発酵し続け、とんでもない形で増殖していたりもする。
少し蓋がずれてしまうと、中の液体やら物体やらが爆発して…僕達人間は跡形もなくなってしまうのかもしれない。
そして…全てがおわると…何も残らないのかもしれない」
僕はそう言い終わると、慌てて口をふさいだ。
自分が何を口走ったのかまるで理解できないかのように目を大きく開けて、口を覆う手が震えていた。
「なんで…僕…こんな事…」
自分自身が恐ろしくなったが、隣に座る男は僕の言葉を受け入れた。
「そうかもしれんな」
と、紅天狗は言った。
ギョッとしながら紅天狗を見ると、明らかに不快な表情を浮かべていた。それが何故なのかは今の僕には分からなかった。
僕が言葉を失っていると、背後から袴の人の声がした。
「お待たせしました、主人様。
どうか…されましたか?
お食事…おそかったですか…?」
紅天狗が不快な表情を浮かべていたので、袴の人は心配そうな声を出した。
「いや、違うよ。
妖怪が描かれた絵画の話をしていたんだよ」
紅天狗がそう言うと、袴の人は表情を曇らせながら静かにお盆を置いた。
「美味そうだな。
今日も、ありがとな」
紅天狗は優しい声でそう言った。
美しい白い湯呑みを手に取って中を覗くと、男の表情がみるみる明るくなった。
「この、かりがね茶は美味いぞ。
見ろ、茶柱も立っている。
今日は良いことがあるかもしれんな」
紅天狗は僕に笑いかけてから、袴の人を見た。
「そうだ、カラス。
今日は、アイツが来るんだった。茶の香りで思い出した。
山の麓の小屋に荷物を運んでくれるから、鍵を開けておいてくれ。よろしくな」
「かしこまりました」
袴の人はニコリと微笑み、僕達の目の前からいなくなってしまった。
紅天狗は勢いよく食べ始めたので、僕は誰が来るのかと気になったが、なんとなく聞きそびれてしまった。
僕もお腹が空いてきたので、箸に手を伸ばした。
「これって、河童の領域に行った時に持って帰ってきた果実?」
皿にのっているのは見た目は間違いなく胡瓜だが、僕はあの果実を思い出していた。鼻腔をくすぐるような独特のいい香りも蘇ると、頭が少しフワフワした。
紅天狗はそんな僕を横目でチラリと見ると、ゆっくりと箸を置いた。
「これは胡瓜だ。お前が何度も食べたことのある瑞々しくて美味い胡瓜だ。
異界の食い物ではない」
紅天狗はキッパリと否定した。
「そっか…あの果実さ…すごい良い香りがしたから、どんな味がするのか気になって」
僕がそう言うと、紅天狗は僕の瞳をじっと見た。
そして、真剣な瞳で僕に語りかけた。
「俺が悪かった。すまなかった。
アレは鎮痛薬みたいな作用を持っているが、依存性があって非常に危険なんだ。口にすれば最後、人間の体を蝕んでいく。一度口にすれば、また欲しくて堪らなくなる。
ソレしか考えられなくなる。全てを狂わせる。
お前の体を内側から喰らいつくし、人ではなくさせる。
あれはな、一部の妖怪が、美味い美味いといいながら貪り食うモノだ。正気な者が食うもんじゃない。
俺も、あんなモノは絶対に食わん」
紅天狗が眉間に皺を寄せると、風もないのに紅葉がザワザワと揺れた。
「異界の食い物に興味を持つな。
それと、約束してくれ。
異界では、俺以外から渡された食い物は、絶対に食うな。
あるいは俺がいいと言ったもの以外は、絶対に食うな。
もし無理やり口にいれられるような事があったら、全力で吐き出せ」
紅天狗の口調が非常に厳しかったので、僕は少し未練を感じながらも頷いた。
だが、男は揺れている僕の瞳を見逃さなかった。
「昌景、食い物とはなんだ?」
と、紅天狗は僕に問いかけた。
「体を…つくるものかな」
僕は短くそう答えた。
「そうだ。
食い物が、お前を、つくる。
異界とは、深く関わるな。
俺とお前との約束だ。
俺は、昌景を信用している」
紅天狗は真っ直ぐな瞳でそう言うと、僕の肩に手を置いた。
地面を彩っていた紅葉がフワッと舞い上がり、赤と橙色が輝きを放ちながら広がると、あの香りが消えていった。
異界の食べ物を食べてしまったら、僕はソレしか考えられなくなる。こんなに美しい景色を感じられなくなると思うと、興味が薄れていった。
どうかしていた…何を迷っていたのだろう。
紅天狗を裏切ってまで得られるものなんて何もない。
裏切りは、失うものが、あまりにも大きすぎる。
僕を見る瞳を変えたくない。
僕も、僕自身を、許せないだろう。
「約束するよ」
今度は力強くそう言うと、紅天狗は嬉しそうに「おう」と言い僕の肩から手を離して、かりがね茶をグイッと飲んだ。
男の手の中にある今日の湯呑みも惚れ惚れするように美しい。ぬけるような白い白磁に、桔梗が透かし彫りで咲き誇っている。
男は湯呑みをうっとりするような目で見つめた。光にかざして眩いほどの美しさを堪能してから、盆の上に静かに置いた。
「昌景はな、ここで生き抜く為に、本来以上にある力が発達した。この山は絶妙なバランスをとっている。
本人が望むと望まないとにかかわらず、超えた力の代償は、大きい。
発達した力はお前を守るが、見つけられやすくもなっている。力が倍増したことで、抱く恐怖も大きくなった。より敏感になったのだからな。
異界に足を踏み込んだことで、さらに大きくなった。
外側が、異界の風に包まれた。
だが、内側は、変えてはならない。
異界の力は、強く激しい。
闇の中では、特にな。
そうだろ?」
「え?」
「俺はな、暗闇でも、はっきりと見える。
伏せがちな瞳が恐れを抱いていた。
俺の体に染み付いたニオイを感じ取ったからだ。
分かったんだろう?俺が昨日何をしてきたのか」
と、紅天狗は言った。
僕はビクッとなった。
男には僕の微かな感情の変化すらも分かってしまう…読心するまでもなく隠し事など不可能だ。
何と答えるべきかと思いしばらく言葉を探したが、あまり良い言葉が思い浮かばなかった。
「妖怪を…殺しに行ってたんだと思った。
それこそ結界門に爪を立てた妖怪を…殺しに行ったんじゃないかと」
「そうだ。
俺は妖怪を殺してきた。
俺は、全身に生命を浴びている」
僕の心臓がドクンと震えた。紅天狗への恐怖によるものなのか、右腕も痙攣したようにビクンと動いた。
「今日行くとこ決めたわ!猫又の領域に行こう!」
紅天狗が明るい声を出したので、重苦しくなり始めた空気が吹き飛んでいった。
「え?ネコ?」
僕は驚いて聞き返した。
「そうだ、猫だ。猫又だ。
だが、お前が知ってるような可愛い猫じゃない。
足元に戯れてくるような可愛い猫を思い浮かべていたら仰天するぞ」
「化け猫…みたいなものかな?
人間に取り憑いたり、人間の血を飲んだりするような…」
「その区別は曖昧だ。俺にも分からん。
まぁ、どっちにしろ、血を好む。
大丈夫だ、昌景。
俺が、守ってやる」
紅天狗は僕を励ますように言ったが、僕の頭の中は人間の血を啜っている化け猫の絵で一杯になり血の気が引いていった。
すると、紅天狗は僕の浴衣の袖をつまんだ。
「浴衣、気に入ったのか?」
「え?あっ…うん、けっこういいなって思って…」
「そうか。
慣れたら動きやすいぞ。
風も通るし、気持ちいいだろ?」
「そうだね。ここに来るまでは温泉旅館でしか着ることがなかったけど、けっこう動きやすいと思う。
たしかに…ここに座っていると、風を感じる。
袖口と襟の隙間から心地よい風が入ってきて気持ちいい。
それに僕だけ洋服だと浮いてしまうし…なんだか…この方が家族みたいでいいなと思ってさ。
同じような服を着て、一緒に食事をして笑って暮らす、あたたかい家族のようでさ」
僕は思わず口をついて出てしまった言葉に驚き、そして恥ずかしくなった。
「その…家族って言ったのは…大切に思える存在ってことで…。
あの…紅天狗は僕のことを大切に思ってくれてるし…」
僕はしどろもどろに言った。
時折、紅天狗の背中に兄と同じものを感じるからなのかもしれないが、まだ数日しか一緒に過ごしていない。それなのに「家族」だなんて、僕はどうかしている。
「家族…か…」
紅天狗は素っ気なく答えてから、赤い髪をクシャクシャとした。
「昌景は、家族が、恋しいか?」
僕は少し黙り込んだ。
「兄さんは…ね。
兄さんとは…仲が良かった。
カッコよくて優しくて強くて…何でも出来る自慢の兄さんなんだ。
それに、いつも僕を守ってくれる…ヒーローみたいな存在だった。
本当に、凄い男なんだ。
兄さんはどんな困難に直面しても決して諦めなかった。
勉強も運動も途中で投げ出さない。難しく思えても、やり続けて、最終的にはモノにする。「続けることが力だ」とよく言っていた。
いつもその大きな背中ばかり見ていた。
同じ男なのに…遠い遠い憧れの存在だよ」
僕の声はどんどん小さくなっていった。
すると兄を押し退けるように、両親の顔がチラチラと浮かんだ。
家族とは何だろう?という疑問が浮かんだ。
僕を生んでくれたことについては感謝している。
けれど…物心ついた時から辛かった。その思いに囚われるように下を向き始めると、紅天狗は咳払いをした。
「そうか、そんな男がいるのか。
俺みたいだな。
兄貴の話、またいろいろしてくれよ」
紅天狗はそう言って、僕に優しく微笑みかけた。
その笑顔は眩しい太陽のように輝いていたので、僕の心に広がり始めた恐ろしい暗闇をも明るく照らしてくれた。
「そうだ、昌景。言い忘れていたことがあったわ。
俺が盃で酒を飲み、新しい札を貼ってくれたら、山を下りてもいいぞ」
「え?」
「なんだよ?その顔。
ソレで、お前の役目は果たしたんだから、残りの人生はお前の好きなように生きろ。
俺が、ここに繋いでおくことは出来ない。
自分の歩きたい道を歩むんだ。
その頃には、刈谷昌景を築けているだろう。
自由に生きろ、昌景。
あの連中から、既に金は貰っているんだろう?前払いの成功報酬をな。金があるんだから、山から降りても困らない。
誰かの事を考える事なく、自分の心に従い、自由に生きるんだ」
紅天狗は雲一つない澄み渡る青い空を見上げた。
男の視線の先には、自由に空を飛び交う鳥がいた。
自由を謳歌する鳥を満足げに見てから、目を丸くしている僕を見ると、男は苦笑いを浮かべた。
「やけにびっくりしてんな。
俺がお前の足に紐でもくくりつけて、役目が終わっても山から下りられないようにするとでも思ってたのか?」
「山に行ったら最後、帰ってきた者はいないって聞かされてたから。
この山で一生暮らすのだと思ってた」
「あ?なんだよ、それ?
残った奴もいるし、下りて行った奴もいる。
まぁ…一生ここで暮らしたいのなら、このまま俺が食わしてやるけどさ。
全ては、お前次第だよ。
昌景が決めろ。
俺はその決定には何も言わん。
それにな、帰ってきた者はいないっていうか、もとの場所には帰らなかっただけだろう。
自分の望む場所で、自由に生きたんだ」
紅天狗はそう言うと、目を丸くしている僕の背中を叩いた。
「山を下りたら兄貴に会えるぞ。お前の顔を見たら兄貴は喜ぶ。
好きな女がいるのなら会いにいけばいい。女が惚れるような男になっている。
叶えたい夢があるのなら叶えればいい。夢を叶えられるような力がついている。
昌景の好きにしろ。
大学を辞めさせたのはすまなかったが、夢や希望まで根こそぎ奪いたくはない。
俺は、昌景の幸せを願っている。
お前の居場所…お前の望む場所で生きればいい。
そん時には、ここで過ごすことによって、俺が奪ってしまった時間等に見合うような特別な贈り物をしよう。
どうだ?
これで盃を取り返すのに全力を尽くしたくなっただろう?」
そう言った紅天狗は太陽の日差しでキラキラと輝き、爽快な表情をしていた。
一方、僕はモヤモヤした気持ちになった。
僕には自分の望む場所が分からなかった。
大学に少し未練はあったが、今となっては同じ大学でなくてもいい。そもそも関西の大学を選んだのは両親から離れたかったからだ。
自分の居場所も望む場所すらも、僕には分からない。
夢や希望…それについても分からない。
僕は自分の事なのに「何も」分からなかった。
自分をダメな人間だと思ってきた僕は、ただ毎日をやっとの思いで生きてきた。
自分自身と向き合ったのは、昨日が初めてだったのだ。
刈谷昌景という名の男が歩んできた道は、限りなく白に近かったのだった。
僕が黙り込んでいると、紅天狗はまた僕の背中を押すようにポンっと叩いた。
「そんな真剣に考えんなよ。
深く考えるよりも心の奥底から感じるものなんだ。それこそ女を愛するようにな」
そう言った紅天狗の横顔は、男の表情をしていた。
僕は…本当に…紅天狗のことを知らない。
紅天狗は急須を手に取って湯呑みにお茶を注いだ。トクトクとお茶が注がれると、いい香りが立ち込めて白い湯気が上がった。
「昌景、着替えて準備しろ。鴉の面を忘れんなよ。
俺はここで茶を飲みながら待ってる」
と、紅天狗は言った。
※
紅天狗と僕は結界橋の前に立っていた。
先を照らさぬ暗くて不気味な場所だ。
鴉のお面を右手に取って眺めると、少しカタカタと揺れていた。
僕は恐れを抱いていた。
その存在以上に、猫又も河童のように自分の直視したくない部分に触れてくるのではないかと思うと、右目もピクピクと痙攣した。
僕は、沢山のものに蓋をした。そうやって、生きてきた。
次はどの蓋が開かれて飛びかかってくるのだろうかと思うと、口元が引き攣り右足もズシリと重たくなった。
深くため息をつき、お面を被ろうとすると、紅天狗が僕の右腕を掴んだ。
「昌景」
紅天狗は低い声で僕の名を呼んだ。
「行く前から震えているなんて…僕は…臆病者だね…。
妖怪と戦わないといけないのに…」
と、僕は呟いた。
けれど男はその言葉は聞こえないとばかりに、不敵な笑みを浮かべた。
「なんだよ?武者震いか?」
紅天狗が冗談めかした声で言ったので、僕の緊張が少し和らぎ口元が緩んだ。
すると、紅天狗は僕の右腕から手を離した。
「恐れることはない。
恐れはあらゆる負の感情を呼び寄せ、動ける体を動けなくしてしまう。
昌景、お前の瞳に宿る力は強くなった。
俺は、そう感じた。
今日のお前の瞳には、昨日までとは違う力を感じたんだ。
お前は、強くなれる。
なぜなら、お前は逃げ出さなかった。
座敷童子と会うまでに時間があったのに、お前は俺が不在と知りながらも、山から逃げ出さなかった。
本当の臆病者は自らに課された役目を放棄して、背を向けて逃げ出す者だ。
何かに立ち向かおうとするお前は、強き者だ。
お前を包み込む風が変わろうとしている。
この好機、絶対に逃すな」
紅天狗は力強い口調で言った。
「分かった…だけど…どうしたら…」
その言葉は嬉しかったが、一体どうしたらいいのか僕には分からなかった。
「異界に行く前に、毎回小さくてもいいから目標を立てろ。
目標を達成する為には、今までの自分を打ち破らねばならない。
その努力が積み重なり、大きな力となる。
お前を支える、鍛え抜いた強い心となる。
強い心は、恐れを打ち砕く。
お前の戦いを忘れるんじゃない。
暴力的な意味で、妖怪と戦おうなんて、この先何があっても、決して考えるな。
お前は、その道に、歩んではいけない。
いいな?忘れんなよ」
「分かっ…た。
でも…僕に…出来るかな…」
僕は項垂れていった。
「でもは、ナシだ。
あぁ、出来る。
お前は俺が選んだ男だからな。
俺の目に狂いはない」
紅天狗は大きな声でそう言ってから、下を向いている僕の頭をクシャクシャと撫で回した。
「あー、そうだな。
もし不安に襲われたら、兄貴を心に思い描け。
そうすれば視点が変わる。
兄貴は、お前のヒーローなんだろ?
憧れのヒーローを感じる気持ちは、必ず力になる。憧れの存在として、強く感じるんだ。
決して諦めない。決してやめない。
どんな苦境に陥っても希望を胸に抱き、やり続けることで勝利を手にする。
そんなヒーローに憧れたのは、自分もそうありたいという思いがあるからだ。
それにな、昌景。
お前のヒーローは超人的な力を持った天狗ではなく、人間だ。人間の男だ。
そして、お前も、人間の男だ。
同じ人間の男なのだから、お前に出来ないはずがない。
同じ人間の男に出来ることなのだから、お前も出来る」
紅天狗は力強く言った。
「出来る」という言葉は、時に重くのしかかることもある。
だが、僕は信じてみたくなった。
同じ言葉でも、それを言う者によって、言葉は魔法のように変わるのかもしれない。
僕を心から思ってくれている紅天狗の力強い言葉は、僕の心を激しく揺さぶった。
自分の可能性を信じてみたくなった。そうだ…諦めるには早すぎる。
それに僕自身が僕を見ている。また悲しませるわけにはいかない。
紅天狗はニコッと微笑んでから、僕に時間を与えるかのように結界橋の方に向き直った。チラリと見たその後ろ姿は、兄の背中を鮮明に思い起こさせた。
僕は自分を守ってくれる背中を何年も見続けた…見続けていたのだ。
どうして戦う前から、自分には力がないと諦めたのだろうか?
どうして背中ばかり見ていたのだろうか?
どうして肩を並べようと思わなかったのだろうか?
僕自身が拳を上げて戦わなければ、僕は自分をなくしてしまうというのに。
(はっきりと言わないと、これから先、お前には、何を言ってもいいと思われるぞ)
僕は兄の言葉を思い出した。
黙って従ったところで、相手は満足しない。
いつかは終わるなんてことはなく、怯えている姿を見て喜び、より攻撃的に残酷になっていくだけだった。
「いつか」なんてやって来ない。そうして永遠を生きられない僕達人間は後悔を抱いたまま死んでいく。
だから兄は警告してくれたのだ。戦い方を知らない僕に、その身をもって戦い方を教えてくれたのだ。
だが僕はヒーローに全てを委ね、何の力も持たなかった。持とうとしなかった。
僕自身の手で守らなければならないものを、守ろうとはしなかった。自分の手では何も守れない男にしてしまった。
守れない男は従うしかない。
奪い取られ、ただ生きているだけの生を歩むことになる。そこには自由も希望もないのだから、耐え忍ぶだけで夜明けはこない。全てが奪い尽くされた絶望の道を歩み続けられるほど、僕は強くできてはいない。
一歩間違えれば、僕は死の道に歩んでいたのかもしれない。
否、あの時、兄が僕を外に連れ出してくれなければ、その道を歩んでいただろう。
願っているだけでは、決して届かなかった。
僕は嫌だと思いながら自分では叫ぼうとはせずに、いつも自分に我慢を強いていた。それは我慢強いということじゃない、戦うことに怯えていただけだ。
だが僕は苦しんでいた。傷ついていた。我慢強さは、もう十分身についた。
そろそろ僕は自分を守る為に、立ち上がらなければならない。
叫ばなければならない。
もし辿る道が同じでも、叫ばなくて後悔するより、叫んで後悔した方がいいだろう。爪痕は残せる。
何も変わらないかもしれないが、叩きのめされるかもしれないが、それは自分が戦ったからだ。
自分も戦える男だという自信には繋がるだろう。
そうして僕は戦うことを学べるだろう。
簡単でちっぽけな事に思えるかもしれないが、ソレをしてこなかった僕にはとても勇気がいる事だった。
僕は兄の背中に隠れて諦めた一つ一つを取り戻そうと決意した。ヒーローが掲げてくれた光…それは強烈に覚えている。今度は僕が、僕自身の手で、光を掲げてみせる。
この新たな場所で、僕は自分自身を取り戻す。
覚悟を決めると拳をギュッと握り締めた。自分と戦う為の拳を握り締め、顔を上げた。
「決めたよ」
「おう」
そう言って振り返った紅天狗は微笑んでいた。頭につけているお面を手に取り「行くぞ」と言って、天狗のお面を被った。
暗い景色が変わり始め、目の前には真っ白な存在が現れた。
今日の僕は、その白い輝きに、神々しい新たな光を見たのだった。
※
遠くで僕を呼ぶ声が聞こえたような気がして、薄っすらと目を開けると、紅天狗が僕を見下ろしていた。
無事に猫又の領域に着いたのだろう。紅天狗の背後には空が広がっていた。
「おっ、起きたな。よかったよかった」
紅天狗は安心したような表情を浮かべ、僕のお面をずらして木の実を口に入れてくれた。苦味が口の中に広がり、ゴホゴホと何度か咳が出ると、ようやく手がピクピクと動いた。
「ほら、見ろ。
葦の茂みに囲まれた池のど真ん中に俺達はいる」
と、紅天狗は言った。
ゆっくりと起き上がってみると、四方八方が葦の茂みに囲まれていた。ぼうぼうと伸びている丈の高い草は、茶色と色褪せた黄色で侘しさを漂わせている。見ているだけで気が沈むような葦の向こうには、鬱蒼とした森が見えた。
河童の領域とは違い、目の前に広がるのは荒れた不毛の土地のように感じた。
池の水面には、ゴツゴツした灰色の石が所々顔を出していた。それを見ていると、僕の手にもひんやりとした冷たい感触が伝わってきた。
手元に視線を映すと、無加工で表面がゴツゴツした黒い巨大な石の上に座っていることに気がついた。灰色の石よりもはるかに大きいので岩といった方がいいかもしれない。
「俺は用があるから、ココをしばらく離れる。
昌景はココで釣りをしておいてくれ。ココは、ただの岩だ。誰にも断りなんかいらない」
紅天狗はそう言うと、釣竿のようなモノをくれた。
「さっき作ったんだ。
俺の妖術がかかってるから折れたりはしない。何かあった場合には、昌景が望む力になるかもしれん。
よろしく頼むわ」
紅天狗はニヤリと笑った。
「え?でも、釣りなんてしたことないよ。
釣竿だって初めて握るのに」
突然のことに僕は驚き、紅天狗が何を言っているのかよく分からなかった。
「いや、たぶんデカいのが釣れるだろう。
食らいつく力は強いからな、引きずり込まれないように気をつけろよ」
紅天狗はそう言うと、僕を見た。男の銀色の瞳が僕を試すかのように光った。
その瞳が言っているのは、魚のことじゃなかった。
「分かった。僕はココで釣りをする。
デカいのが釣れたら、学んだことを生かしてみせる」
と、僕は言った。
紅天狗は頷くと、鋭い目で注意深く辺りを見渡した。
急に男はしゃがみ込んで、長くて逞しい腕を伸ばして優しく水面に触れた。水面は美しい波紋ができ広がっていった。
「猫又は泳げないわけではないが、水を嫌がる。
奴等の被毛には意味があり、濡れると致命的だ。
他の者から残酷に奪い取ったもので体を大きく見せている。中身は空のまま見てくれだけを着飾るから、実際は何も身についていない。水に濡れると化けの皮が剥がれるし、乾くまで長い時間がかかる。体は重たくなり、動きも鈍くなるから力が半減する。
その間に他の猫又に襲われたら一貫の終わりだ。
猫又はな、共食いするんだよ。
ココは四方八方が水で囲まれているから安全だ。
猫又の下半身の筋肉ではジャンプをしてもココまで来れないし、ましてや俺のように空を飛べる翼はない。
そこまでしてココに来るのなら、その覚悟があったものとみなす」
紅天狗はそう言うと、ニコッと笑った。それは恐ろしい笑みだった。
「ココにいたら、安全だ。
何を言われても、冷静でいろ。
お前が何を学んだのか、俺に見せてくれ」
紅天狗は僕の肩をポンと叩いてから、ゆっくりと飛翔していった。小さな黒い点になり見えなくなるまで、僕はずっと見送っていた。
紅天狗がいなくなると、空虚な静けさが訪れた。
風も吹かないので、葦の葉もそよがない。
見ている景色は物悲しい絵のように、何一つ変わることはなかった。葦の茂みには様々な生き物が住んでいそうなのだが虫の鳴き声すらもしなかった。
僕は空を見上げた。
薄青い空が広がっていたので、心細くなるばかりだった。
視線を落として前方を見たが、やっぱり何も変わらない。釣竿もピクリとも動かない。僕は右手で釣竿を持ちながら、後ろを振り返った。
後ろも葦の茂みに囲まれてはいたが、水上に浮くように花が咲いていた。
清純さを思わせる白とハッと目を引くようなピンク色をした美しい花で、先端が尖った花びらは絵画などで見たことのある睡蓮を思わせた。
僕は睡蓮のような花から目が離せなくなった。
美しいものを見ていると、心が和らいでいく。
やわらかな風が吹いて水面を揺らすと、ピンク色の花弁が一枚ひらひらと落ちていき、花弁は水面で風と踊るように漂い始めた。
くるくると楽しそうに水面を躍る花弁を目で追っていくと、不気味な影がうつりんだ。
影に飲み込まれるように花弁は水中に沈んでいくと、次はお前を飲み込むぞとばかりに、その影が縦に大きく伸びていった。
びっしりと葦が生えているというのに、その影は音もなく忍び寄っていたのだった。
恐る恐る顔を上げると、僕は驚きのあまり釣竿を落としそうになった。
艶々した白い被毛で覆われ、尻尾が2股ある猫が2本足で立っていた。
獲物をみるような嫌な目つきをしていて、長い髭がピクピクと揺れると口が少しだらしなく開き、噛み付いたら骨をも砕くぐらいの立派な犬歯が見えた。
猫というよりも、立ち上がった獅子のような迫力だった。
「オマエ、そんなところで何してるニャ?
この辺では見ない妖怪ニャ。何処からきたニャ?」
猫又は濁った太い声で言った。喋ると、太い首に巻かれている金のネックレスのような首輪が見え隠れした。
「何をしてるニャ?」
猫又は繰り返した。
それでも僕は何も答えなかった。
すると猫又は苛立ったように足を踏み鳴らし、足元の石を拾うと力いっぱい投げつけてきた。だがどの石も決まって勢いを無くし、ポチャンポチャンという虚しい音を立てて水中に沈んでいった。
「イライラする奴ニャ!
何度も同じ事を言わせるニャ!その顔は聞こえている顔ニャ!聞こえているのならば返事くらいするニャ!」
猫又は今にも飛びかかってきそうな勢いで捲し立てた。
「釣りをしている…だけです」
僕はようやく口を開いた。
「ソコは、猫又の聖域ニャ。
よそ者がそんなところにいてはいけないニャ。早くどくニャ」
僕が返事をしたことで猫又の顔に隠しきれない残忍な笑みが浮かんだ。
鴉のお面がキュッと締まった。ただの岩なのだから聖域なんて嘘だ。そもそもしめ縄もなければ何もない。紅天狗よりも目の前の猫又の言う事を信じる気などおきなかった。
「聖域とは…知りませんでした。
けれど僕もココを動けないのです。座っているだけですので、迷惑はかけません。しばらくすれば帰ります」
僕が冷静に言うと、猫又は唸るような鳴き声を上げた。
「何を言ってるニャ!座ってるだけで迷惑ニャ!勝手にソコに居座るニャ!身勝手なことを言うニャ!
こっちに来るニャ!」
「そっちに行ったら…僕を…どうするつもりですか?」
河童の時とは違って、僕は少し落ち着いていた。
困っている子供を装った河童とは違い、僕の目に映るのは思い通りにならないと暴れる類の者だった。それに本当に聖域ならば、聖域をソコとは言わないだろう。
「オレ様の前で跪いて謝るニャ。
オマエは猫又の聖域を犯したニャ!誠意を見せるニャ!
聖域から離れるニャ!」
猫又は怒声のような声で尾を逆立たせて膨らませ、さらに地団駄を踏み出した。
僕はハッとして、拳を握り締めた。
これは猫又との戦いであるが、僕にとっては自分との戦いが始まろうとしていた。
少し前の僕なら、相手をこれ以上怒らせないように言う事をきいていたかもしれない。
だが、心が激しく警鐘を鳴らしていた。
従ったら最後、何をされるか分からない。
僕に出来る毅然とした態度で立ち向かわなければ、猫又はさらに僕を弱い妖怪と判断して攻撃してくるだけだ。退いてはいけない。
一定の距離は確保しておかなければならないが、それは既にできている。自分を安心させるかのように、清らかな水をぐるっと見渡した。
「聖域とは…貴方方が信仰する神が特別に創られた場所なのですか?」
僕は震えている右手を見られないように背中に回した。
「ニャ?」
「それとも…神聖な者が祀られているのでしょうか?
もしココが真実に聖域ならば、僕は貴方ではなく、その御方に祈りを捧げます。
僕はココから動く気はありません」
僕はキッパリと言った。
後ろで隠している右手がガタガタと震え、背中に冷たい汗が流れていった。
猫又は自分よりも弱くみえる妖怪が抵抗をみせるとは思っていなかったのだろう…口をポカンと開けた。
そして、激怒した。
「オマエのような弱い妖怪はオレ様に従うニャ!
黙って言う事を聞いていればいいニャ!
言う事をきかないと、どんな目に遭うか分かってるのかニャ!
何度も何度も同じ事を言わせるニャ!」
白い被毛がしまっていた爪を剥き出しにした。威嚇するように全身の毛を逆立たせながら、両腕を上げた。
「こっちに来るニャ!今すぐに来るニャ!
来ないなら、こっちから行くニャ」
猫又は叫び声を上げながら、助走をつけてジャンプをした。
「あっ!」
僕は思わず声を上げた。
大きな猫がこちらに向かって来る。それはもう猫ではなく、獰猛な獅子だった。
だが呆気なく失速し、大きな鳴き声を上げて池の中に落ちた。大きな水飛沫が上がると、僕の髪の毛をも濡らした。猫又はなんとか浮上してきたが、バシャバシャと水面を叩き、もがき苦しむばかりだった。
すると池の奥底から妙な音がし始めた。水は泡立ち、怒り狂ったように渦を巻き出した。
猫又は助けを求めるかのように手を伸ばした。僕にはそう見えた。
このままだと猫又は間違いなく死ぬ。
助けるか…見殺しにするか…
僕はそのどちらかを選ばなければならない。
命の選択を迫られた。
猫又が死んでいくのをただ見ていたとしても、誰も僕を責めないだろう。殺そうとした者が殺される。簡単な話だ。
ましてや、ここには誰もいない。
僕が話さなければ、誰にも知られることもない。
誰かを見殺しにしたことなんて誰にも知られやしない。
そもそも僕はヒーローじゃない。
自分の身を危険に晒してまで、こんな猫を救う価値があるのだろうか?ないに等しい。
そうだ…見ているのは「僕」だけだ。
さっさと背中を向けて、音がしなくなるまで耳を塞いで目を閉じていればいい。そうだ…僕に危害を加えようとした奴を、どうして助けなければならないのだろう?
何事もなかったかのように背中を向けていればいい…誰だって…そうする…
(…クソッ!)
僕は釣竿を握り締めた。
頭だけで考えたら助けてやる必要はないが、体が勝手に動いていた。
「これに、つかまれ!」
僕は猫又を助けたいという願いを込めて、釣竿を投げた。
「その釣竿につかまっていれば沈んでいかない。
大丈夫だ!
だから、それにつかまったまま戻って!」
僕はそう叫んだ。
不思議なことに釣竿が水面に触れると渦が弱まった。
猫又は必死になって釣竿をつかみ、こぼれ落ちそうなほどの大きな瞳で僕を凝視した。
そして釣竿を浮き具にしながら、こちらに向かって泳ぎ出した。
「お願いだ!戻って!」
僕はがむしゃらに叫んだ。
猫又への恐怖というより、猫又が死へと向かって突進してきているような気がしてならなかった。
釣竿によって、あの渦が発生したのは紅天狗の力だと感じた。僕を守る為に妖術を施してくれていたのだろう。
猫又が岩に触れたら最後、また渦を巻き、猫又を逃しはしないだろう。
だが、猫又は岩から一定の距離をとって止まった。
「ありがとうニャ。すまなかったニャ。
酷い事を言ったのに助けてくれるなんて、お前は優しいニャ。
これ、返すニャ。
本当は泳げるニャ。驚いてパニックになっただけニャ」
猫又は僕に向かって釣竿を差し出した。急に優しい目になり穏やかな声にもなったので、僕は少し驚いた。
「分かっ…た。
釣竿は…そこに浮かべてくれてたらいいよ」
僕はそう言って、猫又から直接釣竿を受け取ることは拒んだ。
猫又は僕をじっと見た後で釣竿から手を離し、僕に背を向けた。灰色の石に手を添えながら、ゆっくりと戻っていった。
猫又が十分遠ざかったのを確認してから、僕は腕を伸ばして釣竿を掴もうとした。木笛を失くし、さらに釣竿も失くしてしまうと思うと、僕は紅天狗に申し訳なく感じていた。
しかしその瞬間、猫又は驚くべき速さで体をねじらせて、訳の分からない言葉を叫びながら僕の腕を掴んだ。
そして強引に握手をするように、僕の手を握った。
「ありがとうニャ。
またニャ」
と、猫又は言った。
猫又は握っていた僕の手を離すと、また背中を向けた。その背中は震えていた。
僕の手には猫又の被毛が握らされていた。被毛はウヨウヨと動き出すと、指輪のように僕の人差し指に絡みついた。
ギョッとするのと同時に、鴉のお面が強く締まった。
「ニャー!」
その瞬間、猫又の絶望混じりの悲鳴が上がった。
大きな鳥が舞い降りてきて、猫又の行く手を阻んだのだった。
水面が激しく波紋を描いたが、それは猫又の体の震えで水面が激しく揺れていたからだった。
その大きな黒い鳥が一瞬にして猫又の悪意を見破ったからなのか、強く締まった鴉のお面はすぐさま緩んだ。
「ソイツは俺の連れだ。
優しさにつけこんでんじゃねぇよ」
紅天狗は険しい表情で言い放ち、水面の上に立つかのように仁王立ちになった。
猫又の頭を掴むと、容易に水面からデカい体を引きずり出した。
猫又は少し小さくなったようだった。否、少しではない…半分ぐらいの大きさになっていた。
本当に毛皮のようだった。見てくれだけを着飾った者達が引っ剥がされたら貧相な者になるように惨めだった。さらに本物を前にすると、偽物の無様さが余計に曝け出された。
紅天狗のような威厳もなければ何もない…毛皮に頼った哀れな生き者がいるだけだった。
猫又は怯えきった子猫のように泣き始めた。
そこにいるのは、無力な猫だった。
「許してニャ。
悪ふざけが過ぎただけニャ!
悪かったニャ!
もうこんな事しないニャ。
天狗様、天狗様、ゆるしてくださいニャー」
猫又は震えながら、滝のような涙を流した。
その涙は憐れを誘うものだった。
だが妖怪を知り尽くしている男の前では、涙など通用しなかった。その涙が男の感情を逆撫でしたかのように、猫又を見下ろす銀色の瞳に怒りの色が走った。
「穢れた水を垂れ流すな。俺には通じない。
お前を赦すことができるのは、俺ではない。
赦しを請いたいのなら、俺が神の元まで送ってやる。
今すぐにな」
紅天狗はそう言うと、猫又の首輪を掴んでから水面を歩くようにして岸に向かった。ジャブジャブと水をかきわける音が響き渡り、首輪を掴まれて引き摺られる猫又の苦しそうな表情が僕の目に飛び込んできた。
「待って…待って!殺さないであげて!助けてあげて!
僕は何もされなかった!
だから、助けてあげて!」
それを見た僕は咄嗟に立ち上がって叫んだ。
どうしても…どうしても…受け入れられなかった。
紅天狗が猫又を殺す
目の前の誰かが殺される
その両方が恐ろしくて、僕はどうしても止めたかった。
それでも猫又が引きずられていく音は鳴り止まなかったが、岸に到着すると、紅天狗は振り返ってくれた。
「お願いだ!助けてあげて!」
紅天狗は必死で叫び続ける僕にじっと目を注ぐと、首輪から手を離した。
猫又の頭が、鈍い音を立てて地面にぶつかった。
悲痛な鳴き声を上げながら両手で頭を抑えてゴロンゴロンと転がったが、猫又はいつまでもボヤボヤしてはいなかった。
転がりながら距離を取り、紅天狗が上空を飛び交う鳥が鳴いたのを見上げると、男の手が伸びてこないうちにと、さっきまで苦しんでいたとは到底思えないほどの勢いで猫又は走り出した。
被毛は全く乾かないまま、葦を踏み荒らし、そこらじゅうを水浸しにしながら森めがけて走りに走った。
そこには濡れた猫又が何処にいるのかを示す道がくっきりと出来ていた。
「紅天狗…ありが…」
僕がそう言いかけた瞬間、紅天狗は何も言わずに地面に落ちていた木の枝を一本拾い上げた。助走こそしなかったが腕を大きく振りかぶって槍投げのように木の枝を投げた。
走り去っていく者を決して逃さないとでもいうかのように、物凄い勢いで死すべき者を追いかけた。まさに恐ろしい死の枝であった。
僕は顔を背けて、目を閉じた。
それが、いけなかったのだろう。
お前はことの顛末を知っておけとばかりに、視覚以外の感覚が敏感になり、猫の断末魔の声と共に地面が震えたような気がした。本当に、そんな気がした。
猫又は、死んだのだ。
逃げれられると思い必死になって走ったのに、後ろからは物凄い勢いで死が追いかけてきた。
死の枝が体を刺し貫くと、そのままの勢いで木の幹に体が串刺しになったかもしれない。或いは地面に倒れ込んで肉と骨を貫通し、地中深くまで刺さったかもしれない。
自分に一体何が起こったのかも分からないまま心臓は動きを止め、事切れたことだろう。その目には最後に何が映ったのだろうか。
あの艶々した白い被毛は、自らの真っ赤な血の色に染まっている。水と血を滴らせながら、死んだのだ。
初めて誰かの死の瞬間を感じた僕は思わず身震いした。
この先に、魂が抜けて空になった肉体だけが転がっている。
紅天狗は飛翔すると、水面を漂っている釣竿を掴み、僕のいる岩の上まで戻ってきた。
そして「死んだな」と言った。
その言葉にギョッとして男の顔を見たが、その表情からは何も汲み取れなかった。つまり、いつもの紅天狗だった。
男にとって死とは日常のことであり、何一つとして変わらなかった。
僕は再び紅天狗に対して恐怖を抱き、ヘナヘナとその場に座り込んだ。その恐怖は、天狗は人間とはちがう生き物だといわんばかりに強烈に僕の体を駆け巡った。
決して同じではない。
決して理解する事はできない…否、理解してはいけないというかのようだった。
僕のままでいなければならないとでもいうかのように、恐怖の感情を時折強烈に抱かせる。あまり深入りするなとでもいうかのように、紅天狗に傾いていく心にブレーキをかけるのだ。
紅天狗の着物の袖が風に揺られて僕の顔に触れると、僕の頭はさらに混乱していった。
僕が顔を上げると、空は赤く染まろうとしていた。
夕日の赤い光で、男の真っ赤な髪の毛も、さらに爛々と燃え上がった。
「何も…殺さなくても…てっきり見逃したのかと…」
「見逃す?そんな事はあり得ない。
自ら死を望んだ相手には、死を与えてやらねばならない」
紅天狗の銀色の瞳が冷たい光を湛えた。
紅天狗は眉間に皺をよせ、僕の右手首を掴んだ。
あまりの強い力に顔を歪めて目を閉じると、紅天狗の指が僕の指に絡みついた。
「見てみろ、昌景」
大きな手の中には、白い毛があった。さっき指輪のように僕の指にまとわりついた猫又の毛だった。
紅天狗は忌々しいモノを見るような目つきをしながら小さく口を動かすと、先端から火がつき爛々と燃え上がった。
「行ってくる」
紅天狗は飛翔し、深い森の中へと入っていった。
ほどなくして前方から何かが焼けるような音がした。
ニオイも漂ってくると、死んだ猫又が焼かれている姿を想像してしまい吐き気をもよおした。
全てが「無」になった。
あの猫又が生きた証は何も残らない。
骸もなければ、灰もない。
そして猫又は共食いをするのだから仲間意識もなく、誰の記憶にも残らないだろう。
自分の存在がハジメから無かったことになるようで…それはとても残酷に思えた。
少し風が冷たくなり、僕がようやく立ち上がれるようになると、紅天狗が戻って来た。
「暗くなる前に山に戻るか。干物も手に入ったしな」
紅天狗は何事もなかったかのようにそう言うと、掴まれとばかりに僕に手を差し出した。
だが僕はその手を握ることが出来なかった。
「懲らしめる…だけじゃあ…いけなかったのかな?
命を奪うまで…しなくても…」
僕は呟くように言った。
猫又は僕に背を向けて岸に戻って行こうとした。
ならば殺す必要などなかったのではないかと思えてならなかった。
紅天狗はじっと僕を見つめた。
「俺には俺のルールがある。
従わなければならない」
紅天狗は低い声で言った。
「あの猫又は…いろいろ言われたけど…結局は何もしなかったし…僕の目の前から去っていこうとした…」
僕がそう言うと、紅天狗は首を横に振った。
「俺はお前よりも妖怪を理解している。
お前が考えているような妖怪は、こっちの世界にはいない。
何もしなかったんじゃない、これからしようとした。その準備をしただけだ。
お前に背を向けた猫又は声を出さないように、体を震わせながら笑っていたよ」
紅天狗がそう言うと、僕は衝撃を受けた。
「猫又は、お前に、妖術を施していた。
あの指に巻かれた白い被毛は、お前と猫又とを結びつけるものだ。
猫又はな、自分よりも弱そうに見える妖怪の姿をした昌景が、自分に口答えをしたのが気に入らなかった。プライドだけは高いクソみたいな猫だ。それを傷つけられたんだから、なんとしても食い殺したくなった。
お前を食い殺して血肉とし、自分の毛並みがさらに艶々になるのを想像すると、水を前にしても我慢できなくなった。
腹も空かしていたのかもしれない。
怒りと空腹で理性を完全になくし、全力でジャンプをすればなんとかなると思った。だが俺の妖術に阻まれて、真っ逆さまに落ちていった。
水が渦を巻き出すとパニック状態になった。必死にもがいていると、獲物であるはずのお前が助けてくれた。
感謝し改心する者もいるかもしれない。
だが、ここは女神によって邪悪だと判断され、追い払われた妖怪共が住む異界だ。
邪悪な者の考え方は、お前とは正反対だと知るべきだ。
猫又は感謝ではなく、情けをかけられたことに憤慨した。自分よりも弱い妖怪に哀れみをかけられたことが許せなかった。
この瞬間、お前は猫又を助けた者でありながら、猫又にとっては自分の惨めな姿と弱みを知っている者ともなった。
なんとしてもお前を殺さなければならないと思った。
だが被毛が濡れてしまっている。力が半減していることは猫又自身も分かっている。それに池の水がまた妙な動きでもするかもしれないと考えた。
ここではマズイと思った。
だから準備をしたまでだ。
お前の腕を掴み、指に被毛を絡ませた。被毛からは強烈に自分のニオイがする。嗅ぎなれた自分のニオイだ。それを辿っていけばいいのだから、簡単だ。
被毛が乾くまで、何処かでじっと隠れているつもりだった。まぁ、あんなに濡れたんだから無理だがな。怒りは判断能力を鈍らせる。
被毛が乾いてから、ニオイを辿ってお前の巣穴を見つけ出して、ゆっくりと食い殺すつもりだった。
ここはな、そんな連中の集まりなんだよ。
異界にいる妖怪が口にする謝罪や御礼の言葉に、真実はない。奴等は、異常なる考えを抱く者達だ。
これで分かっただろう?
幻想は捨てろ。
捨てなければ、お前が命を捨てなくてはならなくなる時が来る」
吹く風が、肌寒く感じ、葦の葉がザワザワと揺れ動いた。
水上の花は眠るように花弁を閉じ、空から舞い降りてきた白い鳥達が物悲しい声で鳴き出した。
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