第7話 座敷童子

 

「起きろ」

 吹く風が冷たく耳元でそう囁いたように感じて、僕は目を覚ました。


 いつの間にか、僕は眠っていたのだった。

 自分の足で歩くことも出来ず、同じ男に片腕で抱えられているという現実から目を逸らしたからだろう。

 だが目を開けたところで、何も出来なかった。僕の体は石のように硬直していた。この感覚は覚えがある…白大蛇の力だろう。

 紅天狗は眠っている重たい男を片腕で抱えながらも白大蛇の攻撃を悠々とかわし、無事に山に戻って来たのだ。眠っていても鼻から白い煙を吸い込んで、全く動けなくなった僕とはまるで違う。凄まじい男の力をひしひしと感じ、僕はまた虚しくなった。


 今宵は月明かりすらもない。

 何処を歩いているのか全く分からないが、紅天狗には見えているようだった。

 力強い男の足音には些かの迷いもない。

 紅葉を踏む音と微かな口笛が合わさると、男の帰還を喜ぶように鴉が鳴く声が遠くから聞こえてきた。





「ついたぞ、昌景。

 自分で歩けるか?」

 と、紅天狗が言った。

 僕が寝起きをしているお堂まで来たのだろう。返事をしようとしたが、唇がヒクヒクするだけだった。


 風がビュービューと音を立てて吹くと、紅天狗の着物の袖が僕の顔を撫でた。


「真っ暗だから、無理だよな。

 このまま行くか」

 紅天狗は笑いながら自らの問いに答えた。

 数段の階段を上り下駄を脱いで扉を開け、お堂の中に踏みいった。後ろ手で扉を閉めるとガチャンと音が鳴った。それは安心するような音だった。暗いお堂の中をズンズンと進んで行き、檜の香りが漂う脱衣所の扉を開けた。


「疲れたな、昌景。

 体も冷え切ってるし、風呂入って、しっかり温めろ」 

 紅天狗は壊れものでも扱うように僕を優しくおろしてくれたが、僕は下を向いたまま黙りこんでいた。

 すると男もしゃがみ込んで、僕の頭を掴んで瞳を覗き込んできた。紅天狗は困ったような表情をしたが、懐から小さな袋を取り出し、僕の口の中に木の実を突っ込んだ。


「食い過ぎるのも良くないんだけどな…効果が切れるのが早かったな。

 おい、昌景、聞こえてるな?

 お前は、今から、風呂に入り、まとわりついてるモノを洗い流すんだ。

 したら、スッキリする。

 いいな?

 俺は用事があるから、もう出て行く。

 風呂から出る頃には、カラスが晩飯をお前の部屋に運んでくれてるだろう。絶対に食えよ。食い物を粗末にしたら許さないからな。

 分かったか?返事は?」

 紅天狗が厳しい表情でそう言うと、僕は消え入りそうな声で返事をした。


「よし。

 あっ、そうだ。鴉の面は、お前の部屋に置いとくわ。山に戻ってから俺が外して、そのまま持ってたんだった。

 お前の身を守る面だから、自分の手で丹精込めて磨いとけ。嘴のところに、川の泥がこびりついてるぞ。泥はやがて重くなる…良くないからな。その日に、始末しとけ」


「あっ…ありがとう。

 泥…そうだ…僕の右足にも水たまりの泥がこびりついてるから…ちゃんと洗わないと…」

 僕が独り言のようにそう言うと、紅天狗は表情を曇らせた。


「なんで言わなかった?」


「え?あ…ごめんなさい。一瞬の出来事だったし…大した事じゃない…と思って。

 あっ…あの…気をつけて歩いていたんだけど…急に耳元で虫の飛ぶような音がしたから驚いて…ごめん」

 僕は紅天狗が怒っているのかと思い、しどろもどろに言った。


「謝るな、昌景。

 お前は何も悪いことなどしていない。

 そうか…そうだったのか…俺も聞くべきだったな。

 まぁ、聞いたところで…俺の力も及ばないんだがな…乗り越えてもらうしかない。

 明日は、新月だ。

 また新たに、俺と共に、はじめよう」

 紅天狗は不思議な微笑みを浮かべると、僕の頭をクシャクシャと撫で回してから出て行った。



 河童のニオイがするような服を早く脱ぎ捨てたかったが、生地がヌメヌメして肌にこびりついているような感覚がした。普段の倍ぐらいの時間をかけてようやく脱ぐと、薄らと肌が赤くなっていた。羽交締めにされた時のだろう。河童でもこれなのだから、恐ろしい妖怪ならば僕の体は潰れていたかもしれない。

 悪寒が走ると、右足にべっとりとこびりついている泥が生きているかのようにゾワゾワと動き出した。

 どんどん泥が広がっていくのを見ると気味が悪くなり、僕は慌てて風呂場に駆け込んで行った。

 熱い湯をかけながら石鹸で右足を擦り、へばりつく泥を綺麗に洗い流すと湯船にザブンと入った。勢いよく頭も湯船に入れ、頭に残る河童の手の感触も消し去ってから顔を出した。


 何かが変わるかもしれないと…期待していた。

 何を変えたいのか答えられないが「何か」が変わって欲しかった。

 けれど僕は何もしていないのだから、何かが変わるはずなどない。僕が輝ける場所なんて…何処にもない。

 こんなダメな僕にあるはずなどない。

 僕はただ…何処にいっても変われないのだという現実を思い知る為に、ココに来たのだろう。なんとも滑稽だ。ひどく後悔しながら、波紋を描く綺麗な湯を眺めていた。優しい檜の香りに抱かれているうちに、目から感情が溢れ出していた。



 脱衣所にあった旅館で着るような浴衣を着て部屋に戻ると、着ていた服を部屋の隅にクチャクチャのままおいた。

 テーブルには温かい食事がおかれていた。

 食欲なんてなかったが、紅天狗の顔が頭に浮かんで箸を握った。

 しばらくそのまま固まっていたが、雨の降る音が聞こえ出すと、僕はその雨音を聞きながらノロノロと米を口に運んだ。

 食事を終えると、鴉のお面を手に取った。

 一塊の泥が、嘴についていた。

 泥を綺麗に落としてから、一緒におかれていた白い布を手に取りメモのとおりに磨いた。手を動かす度に、浴衣の袖から腕がのぞいた。逞しい紅天狗の腕と比べると細すぎる腕だった。河童にはさぞかし弱い妖怪に見えただろう。

 そんな事を考えながら磨いていると、鴉のお面の目から涙が一雫流れた。否、それは僕の目から流れ落ちた涙だった。今宵は、涙が止まらない。


 静まり返った暗い部屋の中で、嗚咽を漏らす男の声とシトシトと降る雨の音が響いていた。




 



 僕は目の下にクマをつくり浴衣姿のまま、戯れる鴉達を軒下で見ていた。

 紅葉の葉は濡れて光り、雫が滴り落ちた。地面の窪んだ部分には水溜りができていた。

 太陽の日差しはギラギラして、風が吹くたびに紅葉の葉が揺れて騒々しいほどに音を立てている。

 それでも、部屋にはいたくなかった。 

 クチャクチャにしたままの服から河童のニオイが今も漂っているような気がして、ソレから逃げたかった。


 僕は何度も溜息をついていた。



「おはよう、昌景」

 明るい声がした方を見ると、紅天狗だった。爽やかな笑顔を浮かべ、手には木箱を持っていた。


 紅天狗の顔を見ると、どんな顔をすれば良いのか分からなくなった。

 恥ずかしくてたまらない。

 その気持ちは、照りつける太陽の日差しのようにジリジリと僕の中に広がっていった。


「おは…よう。昨日は…ごめん」

 僕は下を向いて小さな声で言った。


 すると紅天狗はその態度に我慢ができないとでもいうかのように、僕の隣にドカッと座った。



「顔上げて挨拶しろ。

 一体誰と話をしてる?地面か?

 朝から下向いてて、どうするつもりだ?

 昨日の事は、昨日の事だ。翌日にまで引き摺るな。

 新しい陽の光が出てるのに、お前は昨日に生きててどうする気だ?」

 紅天狗はそう言うと、手に持っていた木箱を縁側の床に静かに置いた。


「でも…恥ずかしくて…昨日の僕をどう思ってるのかと考えたら。

 自分の足で歩くこともできなくて…情けない男だって…思っただろう…」

 僕は小さな声で言った。


「恥ずかしい?情けない?何言ってやがる。

 俺がどう思うかなんて、関係ないだろう。

 他人の目なんか気にすんな。とらえ方は千差万別だ。お前が、それに合わせんのか?

 俺が暗い感情を抱いてると思ってんのなら、それは違う。な?この時点で違うんだ。推し量れもしない他人の事なんか深く考えるな。

 大事なのは、お前が、どう思うかだ。歩むべきは、お前の道だ。

 お前はお前の心に従え。

 お前の目で見て恥ずかしい男にならなければ、それでいい。それが、いい。

 一応答えてやるが、訳の分からない異界で置き去りにされたのに2つの主張が出来た昌景を良くやった凄いと思った。昨日も、そう言っただろうが。

 そっからも、その思いは何一つとして変わらない」

 紅天狗はやや興奮気味に捲し立てた。


「嘘だ…そんなの…僕はダメな奴だ…」


「嘘じゃない。

 俺は嘘はつかない。そもそも嘘をついて、俺に何の得がある?

 どう思ってるのか知りたいっていうから答えてやったのに、なんなんだよ?

 ネガティブな言葉でないと信用できないのか?

 そんなに自分を痛ぶって楽しいか?

 あれから、ずっとそんな感じだったのか?

 なんでそんなに自分をダメな奴にしたがるんだ?

 もっと、自分を大切にしてやれよ」

 紅天狗は荒々しい声で言った。


「大切…に?」


「そうだ。自分を痛ぶるな。

 お前がお前を大切にしてやらないと、誰がお前を大切にしてやるんだ?自分を大切に出来ないのなら他からもそうされる。周囲に同じ感情を抱かせる。 

 なれば、昌景という男が可哀想だ。 

 河童と己と戦ったのに、その事について認めてもらえない昌景が可哀想だ。そんな事ばっかりしてたら、昌景だってヤル気がなくなるぞ。

 あっ、そうそう。俺は俺のことをいつも褒めて大切にしてるぞ」

 紅天狗は自らの厚い胸板を叩き、誇らしげな表情で言った。


「それは…紅天狗が凄いからだよ…。

 僕には…無理だよ。

 僕は紅天狗と違うから…さ…そんな風には考えられない。

 今まで…そんな風に…考えたこともないから出来ないよ…。たとえ…そんな風に考えたくても…」

 僕の心は締め付けられて、もうこれ以上考えるのが嫌になった。



 僕は太腿の上でギュッと拳を握り締めた。握り締めるだけだった。


 その場の空気すらも重苦しく感じると「昌景はダメ」と叫ぶ甲高い声と冷たい眼差しに見られているような気がした。黒い手に捕まり沼地に囚えられると、僕は動けなくなる。

「ここでも昌景はダメだったわね」

 と、非難の目を向けて、僕が前に進むことを決して許さない。

 すると沼地の泥がさらに動き出す。僕の足に絡みついて足枷のように重たくなり、絶対に逃がさないと嘲笑う。

「泥まみれな人間が大切なはずなどない、幸せになれるはずがない。

 お前にはココが似合いだ。ココで最期を迎えろ」

 蠢く泥がそう囁くと呪いの言葉となり、僕は同じ場所を何度もグルグルし泥がさらにまとわりついていく。


 だが僕が最期の時を迎えるのはココではないとばかりに手を引いてくれる者がいた。どれほど僕が泥まみれでも、男は諦めてはいなかった。

「泥は固まっていないのだから必ず抜け出せる」とばかりに、泥まみれの僕を見ながら「大丈夫」だと何度も語りかけ、深みにはまっていた僕を助け出してくれた。


 紅天狗が、僕の拳に触れていた。


「ちゃんと拳を握れるじゃねえか。

 それを振り上げればいい。振り上げてみたら、意外と簡単だ。前に進む為に、拳を掲げるんだ。そうして積み上げた壁を打ち砕け。

 そんな風に考えたいって思ってんのなら、今までの考え方を壊せばいいだけだ。

 昌景はな、真面目すぎんだよ」

 紅天狗はそう言うと、ニコリと笑った。


「考え方を変える。

 ただ、それだけだ。

 お前に天狗になれって言ってるわけじゃない。

 お前は俺にはなれないし、ならなくていい。

 刈谷昌景という男を消す必要なんてない。

 俺は刈谷昌景という名の男だと叫べるよう、在り続けるだけだ。

 大丈夫だ、深く考えんな。

 それにな、自分をダメだなんてもう言うな。その度に俺が出来ると言うから、堂々巡りになるだけだ。何度も何度も俺はお前を肯定する。

 なぁ…昌景。

 己を認めない男を、決して他は認めない。

 昌景、己で己を消すんじゃない。

 何があっても絶対的に味方でいてくれる己を信じろ。

 お前は、その信用に値する男だ」

 と、紅天狗は言った。


 信用という言葉に僕が苦笑いを浮かべていると、紅天狗は僕の丸まっている背中をトンッと軽く叩いた。


「少しずつ変えていけばいいんだよ、昌景。

 俺が昌景を信用しているように、お前も昌景を信用するようになる。

 信用できる男じゃないと、俺が選ばれし者にしねぇよ」

 紅天狗は自信に満ち溢れた表情で言った。


 その表情を見ていると、僕はなんだか苦しくなった。紅天狗を騙しているような気がしてならなかった。


「でも僕は…紅天狗との約束を破った。あんなに言われていたのに、施してくれた結界から動いた。

 信用に値する男は、約束を破らないよ」

 僕の声はかき消えてしまいそうだった。


 どうしても自分を信用できなかった。

 信用という言葉は、僕が背負うには重すぎる。守り続けなければならない最たる言葉だ。それを、こんな僕が背負っていいのだろうか?

 それほどまでに「昌景はダメだ」と言われ続けてきた言葉は強烈に僕を囚えていた。

 そう易々と変われるものではない。

 沼地の泥はしぶとくて執念深い。

 何を言われようが、僕は頑なに心を閉ざしていた。


「あ?それは、もういいさ。

 俺にも意図があったしな。

 その事については昌景は謝ってくれた。謝罪は一回で十分だ。何度もされると、かえって信憑性がなくなる。謝れば許されると思ってる男は嫌いなんだ。それから先は、行動で示してくれ。

 それに昌景は他の約束は守った。俺の手を離さなかったし、鴉の面も外さなかった。それで、十分だ。

 俺が選んだ男を、これ以上傷つけるなら俺達への侮辱ととり、許さないからな」


「許…さないって?」

 隣の男の怒りを感じ取り、僕の体はビクッと震えた。


「そうだな。

 昌景をこれ以上傷つけるのなら、節穴すぎるお前の目が覚めるように、一発ぶん殴ってやるよ」

 紅天狗は右手の拳を握り締めた。

 その拳で殴られたら、僕は目が覚めるどころか間違いなく臓器が破裂して死んでしまう。 

 隣の男から漂う不穏な空気は、どんどん色濃くなっていった。



「それだと…紅天狗が僕を殴ることになるから、少し話がややこしくなるかも…」


「あ?そうか…。

 俺がお前をぶん殴ったら、俺も俺をぶん殴らないといけなくなるのか。それは…ちょっとややこしいな…」 

 紅天狗はブツブツ言いながら腕組みをして、青い空を仰ぎ見て大きく息を吐いた。


 嫌な沈黙が流れると、僕は下を向いた。


「なー、昌景。

 お前の言葉を聞いてたらさ、とても自分自身の話をしているとは思えなくなってきた。

 誰か別の男と…それこそ何らかのクソみたいな理由があって昌景を認めたくない男と話をしてるような妙な気になってきた。昌景を痛ぶって愉しんでいる不愉快極まりない男と話をしている気になった。

 俺は昌景のことが好きだから、そんな男じゃないって分かってるから、全力で昌景を守りたくなる。いや、守らなければならない。 

 一体、何故なんだ?

 存在を否定する言葉は誰かに投げつけたくない。言われた方は、傷つくからと言ってたよな?

 自分になら許されるのか?

 違うだろう!

 昌景だって傷ついている。

 なんでそんなに自分の事はダメだとダメだと否定するんだ?

 痛みが分かるお前になら、昌景がどれほど傷ついているか分かるはずだ。

 なぁ、辛いだろう?」

 紅天狗は下を向いている僕の沈んだ顔を覗き込んできた。

 目を合わせようとしていたが、それが無理だと分かると、急に肩を掴んで後ろに向かって力を入れた。その力はあまりに強くてのけぞり、2人の固い頭がゴツンと鈍い音を立てて床に直撃した。



「見てみろ、昌景。

 空が綺麗だ…何処までも澄み渡る空に眩しい太陽。青い空を泳ぐ美しい赤い紅葉。

 本当に良い眺めだ。

 俺はお前に落ちた紅葉ではなく、咲き誇っている景色を見てもらいたい。

 下を向いてたら、見えるもんも見えなくなるぞ。

 すぐに考え方を変えるのが難しいなら、姿勢から入ろうか?

 な?昌景?

 やがて心が姿勢に追いついてくる。だから今から顔を上げよう。見える景色が変わるだろう。

 背中を丸くするのをやめて、肩の力を抜き、上を向くんだ。一歩一歩落ち着いて歩み、胸を張って生きる。

 そうしてれば、自信が湧いてくるぞ。

 自分をちゃんと確立していれば、相手の目が気にならなくなる。他人なんてどうでもよくなる。それにな、他人の考えなんてな、損得勘定が入ったりするもんなんだよ。それこそ昌景を都合のイイように動かそうとして、真面目な面して意見を述べる奴もいる。そんな奴等にイイようにされるな。

 お前の人生を、他人に支配させるな。

 お前の人生は、お前のものだ。

 それでも不安ならば、決して裏切らない己という名の強い味方と共に、お前の道を歩んでいけ。

 自分の選んだ道を歩むのだから、最高に気持ちいいぞ。最高だから、心も体も満たされる。満たされれば力になる。何者も恐れない。

 強くなれ、昌景。

 自分を愛して、大切にしてやれ」

 紅天狗は爽やかな笑顔を浮かべながら僕を横目で見た。


「ここで紅葉を共にはじめて見た時の昌景の瞳は輝いていた。

 美しいものを見るお前の輝いた瞳で、俺まで嬉しくなった。

 そんな悲しい顔よりも、明るい顔の方が似合っている。

 俺は刈谷昌景の良さを知ってる。

 だから、お前にも知って欲しい。認めて欲しい。

 その為ならば、俺はいくらでも力になろう」

 太陽の眩しい光に照らされている男の眼差しは力強く、男の言葉こそが真実であると強烈に思わせた。




 2人の僕の姿が、脳裏に浮かんだ。

 震えている僕と、ダメだダメだと呪いの言葉をブツブツ言い続けている酷い僕だった。

 その姿は、両親が僕を責めたてている姿と同じだった。

 その顔は、ひどく歪んでいて醜かった。 

 人を傷つける事で憂さ晴らしをし、支配下におく事で喜びを感じているような不愉快極まりない人間の類だ。

 冷静になって見ると、僕も同じだった。

 虐める側の人間にだけはなりたくないと思って生きてきた。

 だが、今の僕に、そんな事を言える資格はない。


 そんな人間になりたくないのなら、僕は守らなければならない。

 自分の信念を貫き通す為に、なんとしても自分を正し、守らなければならない。



 僕は慌てて、震えている僕に駆け寄った。

「止めるんだ!」と何度も叫び説得したが、酷い僕には何も通じなかった。

「お前はダメだ」という言葉の暴力を弾丸のように浴びせ続けた。

 その弾丸は形をなさないゆえに貫通することもなく、取り出すことすらも出来ないのだが、どんどん心に鉛が溜まっていく。震えている僕の体は重たくなって、地面にめり込んでいった。

 それでも、酷い僕は止めないのだ。

 言葉が通じないという事がようやく分かると、僕は綺麗事だけでは何も守れないと理解し、覚悟を決めた。

 僕は拳を握り締めると、ありったけの力を込めて酷い僕を殴り倒した。

 己の不始末は己で始末せねばならない。

 こんな酷い男を紅天狗に殴らせて、男の手を汚させるわけにはいかないと思った。

 許されるはずもないが震えている僕に心からの謝罪をすると、震えていた刈谷昌景は立ち上がった。

「待ち焦がれていたよ。

 昌景が目を覚ましてくれるのを、ずっと待っていた。

 戦う意志を持って動き出してくれると、信じていた。

 昌景が「自分自身」と戦わないのなら、僕は昌景を支える力にはなれない。力になりたいから、信じていたんだ。

 昌景が立ち向かうのなら、僕も立ち向かえる。僕は僕なのだから。戦う事を選ばないのなら、従わなければならない。

 一歩踏み出せたんだ。大きな一歩を踏み出した。

 自分と戦う拳を忘れないでいて欲しい。

 これから先も、恐ろしい影が襲ってくるだろうが、昌景の側には僕がいる。

 新たに、共に、始めよう」

 僕に明るく強い眼差しを向けながら、そう言ってくれたのだった。


 手を取り合い笑い合うことができたが、僕の目からは涙が溢れた。

 どれほど自分を傷つけていたのかを直視し、それでも許してくれたことを思うと、心が抉られそうだった。

 もう僕は自分自身をダメだとは言うまい。

 こんな瞳で僕を見てくれる男を、裏切るようなことはあってはならない。なんとしても守り抜かねばならない。

 僕が変われば、僕を守れるだろう。



 僕が拳に力を入れると、紅天狗は僕の頭をクシャクシャと撫で回した。


「けっこう痛かったな。

 こんな固い板じゃなくて、女の膝枕だったら良かったのにな。

 柔らかい太腿なら最高だった。

 なぁ?昌景も、そう思うだろう?」

 紅天狗のクシャッとした顔を見ていると、僕もようやく笑うことができた。

 紅天狗は安心したような表情になって両手を上げると声を漏らして、大きく伸びをした。

 眩しい空に向かって伸びる腕の先に、真っ赤な紅葉が青い空と光の中を嬉しそうに泳ぎ、葉ずれの音が心地よい歌のように聞こえた。


 同じ景色なのに、先程とは違う、喜ばしい景色に変わっていた。  


 僕は新たな感情を抱きながら、次から次へと湧き上がっていく力に魅せられながら、その力の源になっているだろう男を見た。


「紅天狗は強いね。

 強くて逞しくて…陽の光のように眩しく輝いている。

 凄いよ…」

 僕がそう言うと、紅天狗は寝っ転がったまま体を僕の方に傾けて真っ直ぐな瞳で見つめてきた。



「俺は最強で最高で、特別な存在だからな」



 紅天狗は優しい微笑みを浮かべた。

 風が真っ赤な髪の毛をサラサラと揺らすと、陽の光が反射して美しく煌めいた。激しく燃える赤い炎に強烈に魅せられると、僕はソレに近づきたいという衝動に駆られ、ゆっくりと手を伸ばした。


「主人様、何をされているんですか?」  

 不思議そうな顔をしながら袴の人が現れると、僕は慌てて手を引っ込めた。話に夢中になっていたから、袴の人が側に来ていた事すら僕は気づかなかった。


「紅葉を眺めていた。

 眺める角度が違えば、見える景色は変わるだろう。

 これは、これでいい。

 燃えるような紅葉が清らかな青い空を泳ぐのを見ていたんだ。

 カラスも来たから、飯にするか。腹減ったな」

 紅天狗が起き上がると、木の箱を手に取って蓋を開けた。その中には艶々と光る揚げに包まれた稲荷寿司が入っていた。


「ほら、食えよ。

 俺が作ったんだ」


 僕は一つ手に取った。

 一口頬張ると、口の中にジワーッと味が広がり本当に美味しかった。今まで食べた稲荷寿司の中でも一二を争うかもしれない。

 揚げに包まれた酢飯には、細かく刻んだ牛蒡や人参などの野菜が混ぜられて手が混んでいる。豪快な男から作られたとは思えないほどに優しく繊細な味だった。


「美味しいです…主人様」

 袴の人も笑顔を浮かべた。


「だろ?美味いだろう。

 たまには俺も腕をふるわないとな。

 なぁ、カラス…いつも俺と昌景の為に料理を作ってくれてありがとな」

 紅天狗が袴の人を見ながらそう言うと、彼女は頬を赤らめた。



 食べ終わってからも僕達は仲良く並んで紅葉を見ていたが、鋭い鳴き声を上げながら数羽の鴉が紅天狗の足元に降り立った。


「カラス、頼んだぞ」

 紅天狗がそう言うと、袴の人は大きく頷き、鴉を従えて消えて行った。


 しばらくすると、大きな鴉と数羽の鴉が連れ立って飛んでいく姿が見えた。先頭の鳥は見慣れない水色の鳥だった。その鳥を見ていると、河童の領域で見た不思議な灰色の鳥を思い出した。


「一つ…聞きたいことがあるんだけど」

 と、僕は言った。


「あ?なんだよ?

 一つと言わずに何でも聞けよ。

 答えられることは、答えてやる」

 と、紅天狗は言った。


「河童の領域で見た灰色の鳥のことなんだけど、あの鳥はどうやって僕を見つけたの?」

 と、僕は聞いた。


「俺が昌景に話した昔話があっただろう。 

 そこにヒントがある。

 当ててみろ」


 僕は頭を捻ったが全く分からなかった。その間も紅天狗は僕の顔を見ていた。なんと答えるのか楽しみにしている表情だった。


「全く分からない、ごめん」

 僕が正直に答えると、紅天狗は僕の左の胸に触れた。


「守る意志と戦う力がないのならば、声は届かない。

 自らの世界を守れない者に、世界は必要ない」

 紅天狗はゆっくりと言うと、僕の左の胸を押した。


「自らを守る意志と異界で戦う力がないのならば、音は届かない。

 自らの世界を守れない者に、生は必要ない。

 選ばれし者がその魂に炎を宿し守る価値のある者だと、昌景が示した。

 ソレが出来なければ、俺は刀を鞘から抜くことが出来ない。本来の力が出せない。河童なら腕で絞め殺せるけど、やがてはそうもいかなくなるからな」

 紅天狗は僕から手を離して、腰に差している刀の柄に触れた。最後の言葉は恐ろしい妖怪の領域にいく時ということだろう。


「笛はユラユラと揺れていただろう?

 風で揺れていたんじゃない。お前の魂の熱を感じて揺れていたんだ。

 気づいてないかもしれないが、お前のココには熱く燃え上がろうとしている魂の炎があるんだ。

 その熱を感じて木笛が揺れて音を発し、灰色の鳥はその音を聞きつけてお前を見つけ出したのだ。

 火はやがては炎となる。俺が、そうさせてやる。

 昌景、お前は強くなれるぞ。

 いいや、強くなれ」

 紅天狗は舞い落ちた赤い紅葉を右手で掴み取った。


 男の大きな手の平には数えきれないほどの紅葉がのっていた。紅天狗がフッと息を吹きかけ一枚の紅葉に火がつくと、ソレは瞬く間に広がり他の葉を燃え上がらせた。

 紅天狗の手の上で爛々と炎が燃え上がると、鴉達が飛んでいった方角から大きな鳴き声が上がった。


「異変でもあったのかな?」 

 と、僕は聞いた。


「あ?異変?

 あー、違う違う。

 今日はな、座敷童子が山に来る。

 俺のことを気に入ったらしくてな、ちょくちょく遊びに来るんだ。迎えに行ったカラス達が座敷童子に会ったということだ」

 紅天狗は炎を消し、ニヤリと笑った。


「座敷童子は…本当にいるんだ…」


「あぁ、いるぞ。

 座敷童子は悪い妖怪じゃないから、こっちの世界にいる。女神が追い払う必要がなかったからな」

 紅天狗は空になった木箱を持って立ち上がった。


「僕が洗うよ」

 僕はそう言ったが、紅天狗は首を横に振った。


「俺が洗っとくから、いいわ。

 それよりも座敷童子が来たら、昌景は俺の代役として座敷童子と遊んで欲しい。

 俺は大事な用ができてな。行かねばならない。何があってもソレを絶対に優先せねばならない。

 すまないと言っていたと伝えてくれ」


「えっ?!僕が?座敷童子と遊ぶ?」


「そうだ。よろしく頼むわ。

 座敷童子も昌景を気にいるだろう。幸運を授けてくれるかもしれんぞ」

 紅天狗はにこやかに言った。


「上手く…できるかな…」

 僕は少し不安だった。アルバイトは接客業だったから子供と触れ合ったことはあったが、その子の親がいたので遊んだうちには入らないだろう。


「大丈夫だ、昌景になら見えるし出来る。

 イタズラをすることはあっても、危害を加えたりすることはないから安心しろ。

 身構える必要はないが、気をつけなければならない事がある。

 嘘はついてはいけない。

 穢れのない純粋な瞳は全てを見透かせる。

 昌景なら大丈夫だ」


「分かっ…た。

 僕は何処で座敷童子を待っていたらいいのかな?」


「ここで待ってろ。

 これな、渡しとくわ。座敷童子の好物だ。これに吸い寄せられるようにやって来るから、瓶の蓋は開けとけ」

 紅天狗はそう言うと、ガラスの瓶をくれた。中には金平糖のような菓子が入っていた。


「ありがとう…何時ごろ来るのかな?」


「いつ来るか分からん。子供は自由だからな。

 30分後に来ることもあれば数時間後に来ることもあるから、のんびり待ってろ。昼寝してても大丈夫だ。

 来たら、すぐに分かるぞ。

 昌景、頼んだぞ」

 紅天狗はニヤニヤしながらそう言うと、僕に背を向けて歩き出した。





 しばらく青い空を眺めていたが、30分後と考えてもまだ時間があったので、僕は部屋に戻った。クチャクチャのままの昨日の服と向き合った。

 ズボンを手に取り、へばりついた泥を綺麗に落とした。明日の洗濯にまわそうとズボンのポケットを探っていると、中に何かが入っているのに気がついた。


 ソレは、僕の指をチクチクと刺激した。


 なんとなくポケットにいれた、松の枝葉だった。

 紅天狗を見た松の枝葉を庭にポイっと投げ捨てる気にもならず、どこかいいところはないかと思いながら部屋をキョロキョロと見渡した。

 床の間に目が留まった。

 青い桔梗が、優雅な花瓶に飾られていた。

 僕は吸い寄せられるように花瓶に近づき、何を思ったか桔梗と共にあるように松の枝葉を一つの花瓶に挿した。

 桔梗と松の枝葉が一つになると、不思議なことがおこった。

 桔梗が風もないのに嬉しそうに揺れ、松の枝葉に寄り添うと、松の枝葉は花の香りに満たされたかのように黒から白く色を変えたのだった。



 僕は思わず声を上げ、目を何度も擦ったが見間違いではなかった。松の枝葉に妖術でもかかっているのかなと思い、一つになった桔梗と松を引き裂こうとする僕の手が伸びると、外から鴉の鳴き声がした。

 あまりに大きな鳴き声だったので座敷童子が来たのかもしれないと思い、はめ殺しの窓から外の景色を見た。


 数羽の鴉がふざけ合っているだけだった。


 ほっと息をつくと、実家から持ってきた鞄を開いた。

 お菓子の箱と本を選ぶと急いで部屋から出て、軒下で座敷童子が来るのを待つことにした。





 読みかけだった本を読み終えても座敷童子は現れなかった。僕は欠伸をしながらゴロンと横になり、色とりどりの金平糖を見つめた。横になると降り注ぐ太陽の日差しが心地よくて、瞼が重たくなっていった。


(重い…苦しい…)

 僕は楽しい夢を見ていたのだが、急に息苦しさに襲われて目を覚ました。瓶が目に入ったが、そこにあるはずの金平糖は全てなくなっていた。


 僕のお腹の上に小さな子供が座って紅葉を眺めていた。


「あの…苦しいので、のいてもらえませんか?」

 僕がそう言うと、お腹の上で子供は軽やかにクルッと回り、こちらを向いた。

 肩で切り揃えられた黒い髪、白い肌にくりくりとした黒い瞳の可愛らしい子供だった。赤色の着物には鶴の刺繍がされ、銀色のキラキラしたものがちりばめられていた。


「あの…あなたが…座敷童子ですか?」


「そうだよ。

 君は、僕が見えるの?

 誰?」

 座敷童子は鈴を転がすような可愛らしい声で言った。


 驚いた僕が口をパクパクさせていると、座敷童子は訝しげな顔をした。


「誰?」


「あの…僕は紅天狗に…」


「誰?君は、誰?」

 座敷童子は僕の瞳をじっと見つめて繰り返した。


「僕は…刈谷昌景と申します」

 僕が自らの名を言うと、座敷童子は頷いてから縁側の床にちょこんと座った。


「紅天狗はどこにいるの?僕との約束忘れちゃったのかな?

 僕、彼と遊びたいんだけど」

 座敷童子はキョロキョロと辺りを見渡した。


「大事な用が出来たらしいです」

 僕がそう言うと、座敷童子は拗ねたように丸い頬っぺたを膨らませた。


「大事な用?

 他には何か言ってた?」

 座敷童子はピョンと地面に降りると、両手を使って子供が砂山を作るように紅葉を寄せ集めて紅葉の山を作り上げた。


「すまない…と言ってました。

 あと…何があっても絶対に優先せねばならないと」

 僕がそう言うと、座敷童子は「絶対」という言葉にピクリと反応した。


「そうか。なら、仕方がないね。

 絶対ならば、仕方がない。

 ソレは、僕よりも優先せねばならない。

 それ何だい?美味しい食べ物が入ってるなら、一つ欲しいな」

 座敷童子はそう言うと、お菓子の箱を指差した。


「あっ、どうぞ。

 チョコレートをサンドしたクッキーです」


「ありがとう」

 座敷童子はニコリと笑ってクッキーを受け取った。笑うとエクボができて、より可愛くなった。


「美味しいね。もっと食べてもいい?」

 座敷童子が目を輝かせたので、僕は箱ごと手渡した。座敷童子は感嘆の声を上げて嬉しそうに受け取った。


「ところで昌景はなんでここにいるんだい?人間だよね?よく殺されなかったね」


「僕は選ばれし者として、ここに来ました」

 僕が正直に答えると座敷童子はクッキーを食べる手を止め、風に吹かれて崩れ去っていく紅葉の山をじっと見つめた。


「そうか。

 もう、そんなに変わったのか…」

 と、座敷童子は言った。


 座敷童子は崩れかかった紅葉の山をもう一度作り直そうと、小さな手で一生懸命に紅葉を集め始めた。

 僕も一緒になって紅葉を集めると、座敷童子はニッコリと微笑んだ。先程よりも大きくて赤々とした山になると手を叩いて喜んでくれた。


 それから僕達は木の枝を使って地面に絵を描いたり、追いかけっこをして遊んでいた。動きにくい着物なのに動きは俊敏で、僕はずっと追いかける役だった。

 走り回った座敷童子の頬が真っ赤になると、いつの間にか用意されていたお茶を飲もうと軒下にちょこんと座った。


「楽しかったなぁ」

 座敷童子はニコニコしながら足をブラブラさせた。体も揺らし始めると、歌を歌い出した。童謡でもなく、聞いたこともない陽気な歌だった。木の枝にとまっていた鴉達もそれに合わせて鳴き声を上げたので大合唱となった。


 空気が冷たくなった頃に、座敷童子は歌うのをやめて本を手に取った。

 風で、本のページがパラパラと捲られた。


「読書が好きなの?

 この本、知ってるよ。昔、僕が会ったことがある人も同じ本を読んでいたよ」

 座敷童子はそう言うと、急に僕の瞳をじっと見つめてきた。


「はい。歴史小説やファンタジーが好きなんです。

 山に来たら時間もあるだろうから好きな本でも読もうと思い、鞄に入るだけ持ってきたんです」

 と、僕は言った。

 ふと開いているページを見ると、その本で最も好きな場面だった。そのこともあったせいなのか、僕は聞かれてもいないことまで話し出した。


「物語は……現実とはちがい、胸が躍るような世界に連れて行ってくれます。

 物語に出てくる名のある登場人物達は、何があっても諦めない。強い心をもって困難に立ち向かっていく勇敢な姿が好きなんです。

 だから永遠に語り継がれる。

 それに物語が終わっても、読者の心に生き続けるんです。

 特に、主人公は…憧れます。

 最初は弱くても何かのキッカケで強くなる。つまづいて叩きのめされても、必ず以前よりも強くなってかえってくる。本当に…凄いですよね。

 僕が物語に出るとしたら…名もない脇役でしょう。

 あっ…そうだ…僕の名前はとある有名な人物からつけられたんです。その方が出てくる本を読んだ事がありますが、勇猛果敢で男の中の男でした。

 名前負けしてしまいました…」

 僕は喋り終わってからハッとした。

 誰にも話したことがなかったような事まで喋っていた。それに僕自身ですらモヤモヤして上手く言葉に出来なかった思いを口にしていたのだった。


 黙って聞いていた座敷童子は小さく頷くと、僕の手を取った。

 その手は小さいのに全てを包み込むような温もりに溢れ、僕は驚いて座敷童子の顔を見つめた。

 黒い瞳がキラキラと光ると、目が離せなくなった。

 途端に座敷童子の存在が大きくなったかのように感じられ、座敷童子の顔が急に大人びた表情に変わっていった。


「貴方は、刈谷昌景です。

 貴方には貴方の物語があります。

 今も、その物語の上を歩んでいるのです。

 その上では、貴方は脇役ではなく、貴方が主人公です。

 語り継がれるような物語にできるかは、貴方次第です」

 座敷童子は口元に微笑みを浮かべた。キラキラと光る大きな黒い瞳は多くのもの見てきた深い深い色を湛えていた。


「昌景の願いは何ですか?

 僕に聞かせてください」

 座敷童子がそう言うと、何もかもが急に静かになった。


 風の音も鴉の鳴き声も聞こえなくなり、僕の心の声までも座敷童子に聞こえてしまいそうだった。


「願い…?僕の…願い…ですか?」

 僕は座敷童子の言葉を繰り返した。


「そうです。

 刈谷昌景の願いです。

 今日は新月です。新たなはじまりです。

 願いを口にすれば叶えることが出来るかもしれません。

 それに僕は座敷童子です。

 多くの人間が僕に会いたがるのは、僕が人知を超えた力を持っているからです。僕を見た貴方は、その力に触れられるかもしれません。さらに、僕が願いを叶えてあげられるかもしれません。

 もし願いが叶うとしたら、昌景は何を願うのか、僕に聞かせてくれませんか?」

 座敷童子の瞳がきらっと光った。

 眩いばかりの黄金の光が木々の隙間から射しこむと、座敷童子は煌びやかな光に包まれた。

 その光はギラギラとして、金や銀といったあらゆる財宝を彷彿とさせ、人間の内に潜む欲望を曝け出させるような力を持っていた。




 この座敷童子との出会いで、僕は選ばれし者の任を解かれ、山から降りることが出来た。

 訳の分からない特殊な力を手にして世間から称賛されるような男となっている。或いは今まで誰も発見したことのない特別な何かを発見し、人も羨むような名声を手にして僕の名前を知らない者などいない。あらゆる人々から信頼され尊敬を集め、揺らぐことのない絶対的な地位を築いている。

 はたまた大金を手にして皆んなからチヤホヤされ、高い服を着て煌びやかな時計をして目を引くような高級車に乗っている。立派な家には溜息が出るような絵画が飾られ、豪華な家具と通常では手に入らないような酒が飾られている。目が眩むような宝石をつけた魅惑的な女性達に囲まれ、あらゆる欲望に満たされる人生を送っていく…男が描く様々な幻を…僕は見た。



「僕は、変わりたいです」

 幻を見た僕は呟くように言った。


「変わりたい?どう変わりたいのですか?」

 無邪気な瞳が僕の心をさらに丸裸にするかのように大きくなった。


 その幻を現実にして欲しいと願えば、座敷童子の力ならば容易いだろう。僕は紅天狗に別れを告げることもなく山から降り、自由に豪華に欲望を爆発させながら生きていくのだ。

 男のあらゆる快楽に塗れて、何も憂うことなどない。


 僕は拳を握り締め、小さく笑った。



「昨日、河童の領域に行ったんです。

 そこで…自分を惨めに感じた出来事があったんです。現実から目を逸らしたくなるほどに…いいえ、僕は目を逸らしました。

 だから…もし願いが叶うのなら…僕は変わりたい。

 紅天狗の足を引っ張らないように…いえ、自分の足でしっかりと歩けるような男になりたい。

 そうして…いつかは…紅天狗の力になりたいんです。

 助けてもらってばかりではなく…天狗を守るなんておこがましいですが…僕も紅天狗を守れるようになりたいのです。

 多くの人々から信頼される人間になるなんて…僕には出来ません。僕は、僕自身と兄…それから紅天狗から信頼される人間でいたい。

 多くのお金があっても僕は正しい使い道など知りません。自分で把握ができるお金があれば十分です。

 それに何人もの女性と関係を結ぶよりも、愛した女性と深く愛し合いたいです」


 僕が見た幻は、あまりに甘美だった。

 強い信念がなければ簡単に男を呑み込んでしまうだろう。僕には手に余るほどの甘美さだ。僕には必要ない。


「なるほど!

 どうして紅天狗が昌景を選んだのか分かったよ!

 紅天狗がすきになりそうな男だ!

 紅天狗に会えなかったのは残念だったけど、僕にも希望が見えた!」

 座敷童子は本を顔に押し当てて声を上げて笑った後に、悲しい声を出した。



「最近の人間を見ているとね、疲れてくるんだ。

 自分の事しか考えない。他人を尊重しない。大切にしない。誰かを傷つけても平気な顔をしている。支えてくれた人達すらも簡単に切り捨てる。

 そんな人間がさ…力と富を得ようとして僕の姿を見ようとやって来る。僕が現れるのをずっと待っている。僕が姿を見せなければ落胆し憤慨し責め立てる。姿を見せたところで薄笑いを浮かべながら嘘を吐き、欲望に満ち溢れた瞳で僕を見てくるだけだ。

 僕はね、人間の内に潜む欲望が見えるんだ。昌景が見たのは、僕がみたある男の欲望だ。君のじゃないよ、安心して。

 だから僕は…もう人間に姿を見せるのはやめたんだ。

 多くの人間は欲望通りの化け物にかわるから。

 金が人間を変えるのか、人間の本性を金が曝け出させるのか知らないけど…失望することばかりだったよ」

 座敷童子の顔からは微笑みが消え去っていた。



 すると、水色の鳥がぴょんぴょん跳ねながら座敷童子の足元にやって来た。

 水色の鳥の囀りに合わせるように座敷童子が鼻歌を歌うと、夕焼けの淡い光が木々の隙間からいく筋も射し込んできた。

 ギラギラとした光ではなく、優しく温かな光だった。



「昌景、ソレは僕が叶えるのではない。

 昌景自身が、その手で叶えられる願いです。

 その手で叶えてこそ、意味がある願いです」

 座敷童子は僕を見つめると、またニッコリと笑った。



「もし昌景が名もない脇役なら、代わりとなる選ばれし者が欲しいと言ったでしょう。名もない脇役は、物語の一章でお別れをするものです。

 けれど刈谷昌景は、その願いを口にはしなかった。

 惑わされることなく、自らの願いを口にした。

 昌景はまだ気づいていないかもしれませんが、貴方の物語も激動の物語になる。勇猛果敢な物語です。

 踏み出す勇気を忘れなければ、望む姿に変われますよ」



「本当に…本当に…僕は変われるでしょうか?

 場所が変われば…何かが変わると思っていました…だけど上手くいかなくて。不安でたまらないのです」



「昌景、人間なんていくらでも変われます。

 意志さえあれば、変わることが出来るのです。

 それに神は人間が変わることができる生き物だから、百年近い寿命と広い世界と知恵を与えたのです。

 人間が変わっていく姿を見るのを、神は望んでいます。神を楽しませた者には、褒美をくれるでしょう。

 不遇な日々を送りながらも、じっと機会を窺いながら数多の戦いに挑み、焦らずゆっくりと進み続け、全てを手にした男もいます。神が与えた人生とは分からぬものです。

 昌景はまだまだ若い。あと80年近くもあります。生きてきた人生よりも、残りの人生の方が長いのです。

 急ぐ必要などありません。少しずつでいいのです。

 それに昌景は知らないと思いますが、新たな場所でよく笑うようになった者を僕は知っています。

 自分が望んだ場所で花を咲かせればいいのです。居心地のいい土地を見つければ美しい実がなるでしょう。

 場所が変われば、風向きが変わる。

 向かい風が、追い風に変わる。

 押し戻そうとする力が、一歩を踏み出す力に変わる。

 昌景が変わりたいと願い、一歩を踏み出せば、新たな風が吹くでしょう。同じではありませんよ」

 座敷童子がそう言うと、急に風向きが変わり、今まで揺れることもなかった僕の浴衣の袖が揺れた。



「もう一度、顔を見せてください。

 また昌景に会いにくるから、ちゃんと顔を覚えておきたい」

 座敷童子は僕の方に向き直った。


 空に広がり始めた神々しい金色の光が、僕と座敷童子を包み込んだ。鴉が静かに鳴き声を上げると、赤い紅葉の葉が嬉しそうに揺れた。


「刈谷昌景。

 いい名前だ。

 やがては、花も実もある男になるでしょう」

 座敷童子はニッコリと微笑むと、僕の頭を子供のように撫で回した。

 その手の感触があまりにも心地よくて、僕は目を閉じた。気持ちが和らいでいき、体が温かい光で包まれ心まで満たされるような気持ちになった。


 刈谷昌景という男を頼もしげに感じる日が、いつか来るような気がした。


 僕が目を開けると、そこにはもう座敷童子はいなかった。





 草木も眠る時、薄明かりだけをつけた部屋の中で僕は横になっていた。

 今宵は星の光もなく、はめ殺しの窓から見える景色は黒一色だった。

 不思議な座敷童子との出会いを振り返っていると、廊下から静かな足音が聞こえた。聞き耳を立てていると、その聞き慣れた足音は僕の部屋の前で止まったようだった。

 僕が布団から起き上がると、男の方から声をかけてきた。


「起きてたのか?いや、起こしたかな?

 開けてもいいか?」

 紅天狗が言ったので、僕が返事をすると男は静かに襖を開けた。


「座敷童子には会えたか?元気にしてたか?」

 紅天狗は襖の縁にもたれながら明るい声で言った。声はよく聞こえるが、暗くて紅天狗の顔がよく見えなかった。

 僕は照明の微灯を全灯にしようとしたが、手が止まった。そうすることが出来なかった。 


 僕は薄暗いままゆっくりと立ち上がると、恐る恐る紅天狗に近づいて行った。


「あっ…うん。元気にしてたよ。

 紅天狗に会えないのを残念がってたよ」

 僕は空の瓶を紅天狗に渡し、座敷童子との出来事を話した。頭を撫でられて目を開けると、座敷童子がいなくなっていたと伝えた。


「よかったよかった。

 幸運を授けてもらったか。

 よかったな。異界に行っても守られる。

 寝ようとしてるところすまなかったな。気になってな。

 俺も飯食って、風呂入って、寝るかな。

 おやすみ」

 紅天狗は嬉しそうに言った。



 男の笑い声と残り香がする廊下で…僕はしばらく佇んでいた。


 月夜に感じたのと同じ鼻をつくようなニオイが微かに漂っていた。

 そのニオイは独特だった。そしてソレに身を置いているものにとっては日常であるが、拭っても拭っても消えないニオイなのだ。

 一度異界に行ってきただけの僕であったが、一度でも異界に行ってしまうと世界が変わるのだ。

 今の僕になら分かった。

 紅天狗に殺された妖怪の血のニオイだと…分かったのだった。

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