第6話 河童
僕の前を歩く紅天狗は頭にお面をつけ、前方だけを見ながら異界へと続く道を突き進んで行った。
雨は止んだが空はまだどんよりとして肌寒く、木々の間をすり抜けて吹く風が恐ろしく響くので、僕は気を紛らわせようと紅天狗の後ろ姿を見ていた。
男の背中は広くて分厚く、足を踏み出す度に地面に散らばっている赤い紅葉が舞い上がった。男の両側で真っ赤な炎が燃え盛り、男は炎の道を歩いているかのようだった。
すると僕は何故か兄を思い出した。揺らぐことなく己の道を突き進んでいく兄の背中を思い出したのだった。
異界へと繋がる道は遠かったが、横目でチラチラと見る景色は同じで色鮮やかな紅葉が咲き乱れていた。
道を知る者がいなくては迷路のようなもので、1人では決して目的地に辿り着けないだろうな…と思っていると、紅天狗が突然立ち止まったので僕はがっしりとした背中に勢いよくぶち当たりよろめいた。
「ちゃんと付いて来てるな?」
「あっ…はい。大丈夫…です」
僕はたどたどしく答えた。紅天狗に向ける感情は恐ろしいと頼もしいが激しく交差していた。
「なんだよ?それ。逆戻りしてるじゃねぇか」
紅天狗は頭につけていたお面をとり、初めて会った時のように僕の頭にグリグリと天狗の鼻を押し当てた。
「あっ…ちょっ…痛い」
僕が痛がると、紅天狗は声を上げて笑い出した。
「ちょっ…本当に痛いから」
「そうそう。それで、いいんだよ。
こっから道が変わる。紅葉とはお別れだ。
水たまりに、はまんなよ。ちょっと特殊だからさ。
必ず、俺の通った後を通れ」
紅天狗は赤い髪の毛をかきあげてから、もう一度天狗のお面を頭につけた。
色鮮やかな紅葉は忽然と消え去り、黒い木々が鬱蒼とはえていた。
身に迫ってくるような迫力がありギザギザした葉は黒い刃のようで、妙な動きでもしようものならナイフのように飛んできそうな凄みがあった。緊張しながらそこを通り抜けると、広い窪地に辿り着いた。
先程の激しい雨のせいなのか、沢山の水たまりができていた。
紅天狗はその大きな体からは考えられないほどに、ヒョイヒョイと軽快に水たまりを飛び越えて行った。
僕は慎重に歩いたが、耳元で虫が飛ぶような音がすると、そっちに気を取られてしまい水たまりに右足を突っ込んでしまった。急いで足を引っ張り上げたが、泥は生きているかのように蠢いて靴の中に入り込んでいった。
それは、一瞬の出来事だった。
それから暫くの間はクネクネと伸びる薄暗い道を歩き続けていたが、次第に高い木々の隙間から光が漏れ始めた。
道が明るくなると、サラサラと流れる水の音が聞こえ出した。
「滝が見えてくるころだ。
疲れも癒されるぞ」
紅天狗は優しい表情を向け、僕の体を気遣ってくれた。
水の音に導かれるように歩き続けると、光り輝く銀の糸が流れ落ちていると見紛うほどの神秘的な滝が見え出した。
途端に空気が爽やかにかわったように感じられ、滝に辿り着くまでにゴツゴツした岩がいくつもあったが僕の足取りは急に軽やかになった。
「滝の裏側に回れる。
滑りやすいから気をつけろよ、昌景」
紅天狗は静かに言った。
滝の裏側は涼しい風とともに幻想的な虹がかかっていた。
優しく流れ落ちる水の音は僕の心に染み渡り、足の疲れすらも癒してくれた。木漏れ日がきらめくと滝の裏側から見る景色がより優美に感じられ、苔むした岩ですら特別なものに見えた。冷たい水しぶきで僕の全身が濡れたが爽快な気分だった。
「この滝水は、体にこびりついた穢れを祓うんだ。
浴びるほどに、人間のニオイを清めてくれる」
と、紅天狗は言った。
滝を抜けて、しばらく歩くと紅天狗は僕の方を振り返った。
「この階段を上るぞ」
紅天狗は軽やかな声で言ったが、僕は目眩を起こしそうになった。
目の前には鬱蒼とした老杉に囲まれた数百段もある長い階段が続いていた。この山に足を踏み入れた日にも嫌というほど階段を上ったが、この山は階段が多すぎる。
少し休憩を…と言いたくなったが、紅天狗は下駄を鳴らしながらあっという間に数十段上っていた。
僕は額に汗を滲ませながらなんとか階段を上り、両膝に手をつきながらハァハァと息を荒げた。地面にポタポタと流れ落ちる汗を見ながら、これで最後にして欲しいと心底思った。
「昌景、よく頑張ったな。
もう、すぐだよ。
見ろよ、俺の自慢の松の木だ」
紅天狗は僕の肩をポンポンと叩きながら、穏やかな声で言った。
額の汗を拭いながら顔を上げると、目の前に聳え立つ立派な松の木に度肝を抜かれた。
不老長寿であるかのような決して枯れることのない偉大な力を、その松の木からひしひしと感じた。幹囲は6メートルを優に超えているだろう。陽の光が燦々と降り注ぐと、見る者を平伏させてしまうような圧倒的なオーラを放った。
紅天狗はゆっくりと松の木に近づいて行き、茶色の幹に手を触れると瞳を閉じ、ゆっくりと額を寄せた。紅天狗よりも少し高い位置で2本に分かれている主幹と支幹は、両方とも幹囲3メートルほどある堂々としたものであった。
紅天狗は僕に背中を見せながら、松の木に寄り添い、無防備なほどに体を預けていた。
すると、僕はその松の木に紅天狗を見た。
幹が背中であり、主幹と支幹は男の両翼である。光の加減なのか、ここから見える松の枝葉が、緑ではなく灰色に見えたからなのかもしれない。
それは、男の翼の色と同じに見えた。翼が少し揺れると、松の枝葉がポトンと落ちてきた。僕が拾うと、針のような灰色の枝の先端が黒く色を変えたのだった。
色を変えた不思議なその松の枝葉をじっと見ていたが「少し休めたか?昌景」と僕を気遣う紅天狗の声でハッと我に返った。
「あっ…うん。ありがとう」
僕はそう言うと、その松の枝葉を捨てずにズボンのポケットにしまいこんだ。
「では、進むぞ。
池に架かる橋を渡る」
紅天狗は幹から離れ、また歩き出した。
大きな松の木の裏手には、透き通った池に架かる木橋が架けられていた。
池は驚くような透明度で、木橋の上からでも水面下にある水草をはっきりと見ることができた。松の木も水面に反射し、息を呑むほどに幻想的だった。
「凄く美しい池だね。まるで鏡のようだよ」
僕がうっとりしながらそう言うと、僕の前を歩く紅天狗は木橋の上で立ち止まり優しい微笑みを浮かべながら振り返った。
「満月の夜には、池の水面に美しい月が映る。
酒でも飲みながら、共に月を愛でるのもいいかもしれないな」
紅天狗は優しい声で言った。
木橋を渡り終えてから十段ほどの階段を上り、砂利の上に敷かれた延段を歩いて行くと、陽の光を浴びて紅に輝く朱色の門が佇んでいた。
「なぁ、昌景」
紅天狗は朱色の門の扉に手を触れながら僕の名を呟き、不思議な瞳で僕を見つめてきた。
「この扉を開ければ、世界が変わる。
この先に結界橋と結界門がある。
もう後戻りはできない」
紅天狗の銀色の瞳が妖しく輝いた。
男もまた人間に似た姿をしているが、人間ではないのだ。
この先に足を踏み入れる僕が、妖怪が食いたくてたまらない唯一の「人間」であるという事を感じさせようとするかのような瞳だった。
「覚えておいてくれ。
妖怪は、俺を攻撃しない。
なぜなら俺には戦っても勝てないと分かっている。いや、分からせているからだ。それでも俺を攻撃するとしたら、それは異常者だけだ。
俺は戦わずして多くの妖怪に勝てるが、お前はそうじゃない。
俺が側を離れた時に、敵意を持ち或いは腹を空かせた妖怪はお前を襲おうとするだろう」
紅天狗は扉を押す手に力を込めた。
僕では到底動かすことの出来ない扉が簡単に動いた。すると扉の向こう側の冷たい風が吹き込んできて着物の袖が揺れ、男の筋肉質で逞しい腕があらわになった。
「昌景、あとでお前の面を渡す。
面をつけた昌景は、妖怪の目に人間だとは映らない。
人間とは映らないが、今の昌景は、細くて弱い妖怪として奴等の目に映る。俺は妖怪の姿を与えられるが、そこからどうするかは己次第だ。
異界における力の判断基準は、まずは見た目だ。
これは、どうする事も出来ない。分かってくれ。
視覚的な情報から、妖怪は自分よりも強いか弱いかを瞬時に判断する。
肉体的な強さをはかり、戦って勝てるかどうかを判断するんだ。
人間でもそうだろう?自分よりも強い相手に喧嘩は売らない。薄汚い連中ほどそうだ。クソは自分よりも弱いと思われる者を瞬時に嗅ぎ分けて攻撃する。
そんなクソ相手に話し合って分かってもらおうなんて考えたら、次の瞬間には首が胴体から離れている。クソ相手に話は通じない。
自分が望むと望まないとに関わらず、戦わないといけない時が必ずやってくる。昌景も、いつかはソレに気付くだろう。
さぁ、開くぞ!
共に戦おう!」
紅天狗の隆々とした腕にさらに力が入ると、地響きをあげるような音を出して門が大きく開いた。
「刈谷昌景、紅天狗に選ばれし者だ!!」
紅天狗は吹き付ける風にも劣らぬほどの凄まじい声で叫んだ。
「暗い…ね」
暗い静寂の中で僕は呟いた。
結界橋と結界門しかない空間の中で、僕達は佇んでいた。
今まで見てきた景色とは違い、それ以外には何もなかった。
そう…何もなかった。
光もなく、音もなく、まるで「無」に近い。
暗い不気味な空間の中に黒い橋があり、その先の霧がかかった場所に結界門があるのだろう。
紅天狗が頭につけている面を手に取ると、黒い橋に一筋の光が差した。
光の粒はキラキラと神々しく明滅しながら、結界橋の黒い床版に降り注いでいった。幻想的で美しいのだが…何かが違う。身も凍るような恐ろしい光だ。あの光に触れてはならないのだろう。
光は焦げついたような床版の黒を僕に見せつけると、消えていった。
「結界橋は…床版は…黒い…ね」
と、僕は言った。
「橋の床版は、結界門を破壊して押し寄せ逃げ帰って行った妖怪によって黒く色を変えたんだ。
アレは、焼け爛れた妖怪そのものだ。橋の上で踊らされたんだよ。
何者も神の許しなしに通過してはならない。山の神様の許しが降りるのは「その時」だけだ。
侵してはならない場所に足を踏み入れたのだから火遊びではすまん。足元から燃え上がり全身に広がり、この橋を彩る黒となる。
昌景も、気をつけろよ。絶対に床版を踏むな。
お前は俺が選んだ選ばれし者だが、神が選んだわけではないからな」
紅天狗がそう言うと、床版から黒い湯気のようなものが湧き上がった。焼かれ苦しみもがく断末魔の叫びが聞こえたような気がした。僕の右手がピクピクと痙攣した。
「黒堂で感じた…鬼達も?」
僕は恐る恐る聞いた。
「そうだ。まぁ…あれはちと特殊だがな。
だが鬼は、鬼だ。
他の妖怪を捕らえて奴等を投げ飛ばし、苦しんでいる声を聞きながらも平気な顔をして踏みつけ、橋を渡った。
自らの目的の為なら誰かを踏みつけにする、そういう事が平気でできるのが鬼だ」
と、紅天狗は言った。
紅天狗は懐から黒い布を取り出した。中から出てきたのは、鴉のお面だった。
「お前の面だ。コレを被れ。
さっきも言ったがコレを被っている間は妖怪の目に人間とは映らないが、昌景の目には昌景の姿として映るから安心しろ。不意に見た己の姿に驚かないようにソウしてある。妖怪になった姿なんて見ない方がいいからな。
俺がいいと言うまで、絶対に外すな」
と、紅天狗は険しい顔で言った。
「分かった。
紅天狗がいいと言うまで、絶対に外さない」
僕は鴉のお面を被った。
鴉のお面はひんやりとして冷たかったが、サイズを測ったかのように密着して変な違和感もなかった。顔を上下左右に動かしてみたがズレることもなく、お面を被っていることを忘れるぐらいだった。
「なかなか似合ってるぞ。
そう心配そうな顔をするな。面を被っていても俺にはお前の表情が見える。
お前には、俺がいる。
俺の言葉を守っている限り、安全だ。
俺も面を被るとするか」
紅天狗がそう言ってお面を被ると、結界橋が豹変した。
軒下で聞いたような轟くような雷鳴が鳴り響き、橋が今にも決壊しそうなほどの凄まじい音を立てて上下に揺れ動いた。
白い煙が橋の中央からモクモクと立ち上がると、目を開けていられないような突風が吹いた。その瞬間、紅天狗は僕の前で立ち塞がってくれた。
鉄壁のような強固さで僕を守ってくれると、紅天狗は深々とお辞儀をしてから後ろを振り返った。
「昌景、そこにいらっしゃるのが…」
紅天狗は興奮した声で言った。
僕は紅天狗より前に出て見ようとしたが、男はそれ以上前に出るなと言わんばかりにがっしりと僕の腕を掴んだ。
暗い静寂の空間が、明るくなっていた。
漆黒の闇の中に高く聳え立つ神々しいほどに美しい雪山が、結界橋の中央に鎮座していた。真っ白な輝きは四方八方に反射して、その美しい体躯によって辺りを燦然と輝かした。
だが冬の美しい雪山は厳しく生半可な気持ちで足を踏み入れてはならないように、それもまた恐ろしい危険を孕んでいた。
凄まじい音を立てながら、雪山が崩れ始めた。
目の前が真っ白になりこのままでは雪崩に巻き込まれると思い、思わず後退りをすると、紅天狗が逃げるなとばかりに腕を握る手に力を込めた。
そう…それは雪山ではなかった。
恐ろしい雪崩が起きたのではない。眠りについていた方が目を覚まされたのだ。
神々しいまでの白い雪のような体躯は女神の美しさそのものであり、輝く美しさで他を魅了するような力を見せ、優雅にとぐろを巻いていたのだった。
だが夕暮れの空のような荘厳な赤い瞳は、怒りを含んだように燃え上がった。
「白大蛇様だ。
女神の使いである神聖なる蛇だ。
俺も刀を向けることは許されていない。
白大蛇様の御力に触れぬように気をつけながら進まねばならない。
その先に、結界門がある」
紅天狗は自らの体よりも何倍もある白大蛇を前にしても冷静な口調で言った。
「どうやって…?歩けもしないのに」
僕は触れるもの全てを焼き尽くす結界橋の床版を見ながら言った。
「俺の手を握ってろ。
俺には翼がある」
紅天狗は灰色の翼を勢いよく広げた。
「待って…やっぱり心の準備が…」
僕は慌てふためきながら、逃げ場所なんて何処にもないのに後ろを振り返った。
「今さら、何を言う?
待ては、ナシだ。もう後戻りはできんぞ。
行くぞ!」
紅天狗は僕の手を握り、橋めがけて凄まじい勢いで走り出した。
白大蛇はゆっくりと鎌首をもたげ、眠りを妨げた侵入者をとらえようとするかのように赤くて細い舌をチロチロと出した。口から白い煙のようなものを吐き出すと空気と混ざり合い、頭を締め付けるような音が鳴り響いた。
白大蛇がどんどん迫ってくると、紅天狗の地面を蹴る下駄の音が大きくなった。赤い瞳が恐ろしく光った。僕の心も体も恐怖で支配され、叫び声も出なかった。僕はただ紅天狗の手を強く握り締めた。
「そう、そう、それでいいんだよ」
紅天狗は武者震いのように体をゾクゾクと震わせた。間違いなく…紅天狗はこの状況を愉しんでいる。
「たまんねぇな。
何回やっても、この瞬間がめちゃくちゃ興奮する」
紅天狗は嬉々とした声を出して、フワリと舞い上がった。
白大蛇は男の熱を感じ取ったのか、尻尾をブルブルと震わせながら床版に何度も打ち付けて脅かすような大きな音を出した。結界橋が壊れるかのような凄まじい音がした。
僕は目を閉じた。このまま目を開けていると、いつか紅天狗の手を離してしまいそうだった。
視覚を遮断すると他の感覚が敏感になり、妙なニオイが鼻を刺激した。恐らく白大蛇の口から出ている煙なのだろう。それはどんどん濃くなっていく。頭を締め付けるような音が大きくなり、体を凍り付かせるような寒気も感じた。
僕の歯がガタガタとなると、紅天狗は僕を腕の中に抱き寄せた。
「俺につかまってろ。
絶対に守ってやる」
紅天狗は低い声で囁いた。
恐ろしい音を聞きながら白い煙を吸い込む度に、僕の体は痺れていった。弱まっていく意識の中でうっすらとまた目を開けると、紅天狗が赤く爛れたような結界門の扉に触れていた。
力強い腕で扉を押しながら男が何かを叫ぶ声を聞いていると、僕はついに意識を失ったのだった。
心地よい風と頬を撫でる草の感触で目を開けると、紅天狗が心配そうな顔で僕を見下ろしていた。紅天狗はお面をとっていて、いつものように頭につけていた。
「おっ、起きたか。
白大蛇様の煙にやられたかな?
妖怪の動きを封じ込めるヤツだから、昌景は人間だからイケると思ったんだけどダメだったか。すまんすまん。
大丈夫か?動けるか?」
僕は何も答えられなかった。石になったかのように全身が硬直していて、動かす事が出来るのは目線だけだった。
「ちょっと刺激が強かったかな。
いい薬がある。
苦いが、すぐに効くぞ」
紅天狗は懐から小さな袋を取り出した。袋の中からは、どんぐりのような木の実が出てきた。
紅天狗は僕のお面をずらして口に入れてくれた。それは噛まなくても、すぐに口の中で溶けていった。なんとも言えない苦みが口の中に広がると、ゴホゴホと咳が出た。恐ろしいモノを体外に出すようにしばらく咳を繰り返していると、体の感覚が戻ってきた。
「ありがとう。もう…大丈夫」
僕は上体を起こしたが、紅天狗は心配そうな目をしていた。
「紅天狗にも襲ってくるんだね。
異界から攻めてくる妖怪だけにしてくれたらいいのに」
僕がそう言うと、紅天狗は笑った。
「俺の場合は、俺の力が試されているからだ。
白大蛇様と遊べないような天狗は必要ないってことだ」
と、紅天狗は言った。
「え?必要ない?」
「そんなことより絶景だぞ。
美しい川だ。ここも綺麗に紅葉している。
ほら、俺につかまってろ」
紅天狗は僕の問いに答えることなくそう言うと、肩を貸してくれた。
僕は紅天狗のがっしりとした肩につかまりながらヒョコヒョコと歩いた。
「昌景、しゃがむぞ」
紅天狗がそう言ってゆっくりとしゃがみこむと、男は手を伸ばして目の前の生い茂っている丈の高い草をかき分けた。
紅天狗は僕の方を見ながら下を指差し、それから人差し指を唇に縦に当てた。
目線を下に向けると、目を見張るようなセルリアンブルーの川が流れていた。
岩肌をくねくねと流れ落ちる清らかな滝。それを包み込むように色鮮やかな紅葉が咲き乱れている。舞い散った紅葉も青い川を優雅に漂っていた。きらめく太陽の光の加減で水がキラキラと光り紅葉の濃淡も変化するので、川面は様々な表情を見せた。
「大きな岩の上に河童がいるぞ。
ほら、あの赤い奴だ。
今、川に1匹飛び込んだ。昌景、分かるか?」
紅天狗は岩肌を流れ落ちていく滝の近くの大きな岩を指差しながら言った。
岩の上に子供のような真っ赤な生き物が立っていて、嬉々とした声を上げ、ヒラリと飛び込んでいくのだった。
「俺は確かめたい事と用があるから、しばらくココを離れる。
俺が戻ってくるまで昌景はココにいろ。
ココから絶対に動くな。動かなければ安全だ。
あんまり音を立てるなよ。静かに河童を見とけ。
奴等は耳がいいから、大きな音を立てたら気付かれるぞ」
紅天狗はそう言うと、僕の瞳をじっと見た。
「なぁ…昌景、もう一度言おう。
河童は比較的穏やかな妖怪だが、全員が全員そうではない。
気性が荒くて悪さをする連中もいるんだ。
妖怪の力を舐めてはいけない。人間の男の腕力でも敵わない。
それにな、河童は大人になっても子供の姿をしているから区別ができない。異界にきたばかりの昌景では善か悪かの判断もつかない。
悪い大人の河童はな、子供を装って同情心を利用し、水辺へと言葉琢磨に連れ出して溺死させようとする。
迷ったら、心と面に従え。お前が生きてきた中での経験が無意識に動いて、危険を教えてくれる場合がある。
いいな?
何を言われても、絶対にココを動くな。
何かあれば俺が戻るまで待て。急な事など、この世にはそれほどない。
自分の身を守る術を身につけろ」
紅天狗は首にぶら下げていた何かを外した。それは紫のネックレスではなく、木の棒のようなものだった。
「念の為に、笛を渡しておく。
危なくなったら笛を吹くか、強く握れ。
何処にいても、すぐに駆けつける」
紅天狗は僕の手を取ると、その木笛をポトンと手の平に置いた。
「俺が作ったんだ。なかなか良い出来だろう?」
紅天狗は自慢げにニヤリと笑うと、スクッと立ち上がった。
立ち上がった紅天狗は恐ろしいオーラを全身に纏っていた。戦場に向かう男のような気迫を感じられ、普段よりもさらに大きく見えた。
「じゃあ、行ってくる」
紅天狗は灰色の翼を広げると、音も立てずに青い空へと風のように飛び立っていった。
太陽が男を迎えるかのようによりいっそう眩しく輝いた。紅天狗の行方を目で追い続けることは出来なかった。
1人残された僕は急に不安に駆られた。初めての異界なので、紅天狗はずっと側にいてくれるだろうと思っていた。だが男は颯爽と飛び立っていってしまった。
小さく溜息をつきながら木笛を見ると、細い紐が付いていたので失くさないように首から下げた。すると紅天狗の爽やかな香りが鼻腔をくすぐり、お守りのように感じた。木笛は風に吹かれると、不思議なほどにユラユラと揺れるのだった。
しばらくすると鷲に似た鳥が空から舞い降りてきて、僕の胸元で揺れる笛を見ながら小さく鳴いた。瞳は紫で頭は白くて嘴は赤く、灰色の羽毛をした珍しい鳥だった。こんな鳥は、今まで見たことがない。
河童もそうなのだが本当に異界に来たんだな…とつくづく感じた。
それから僕は川で遊ぶ河童を静かに観察し続けた。
仲間と戯れる姿は無邪気で何の害もない妖怪に見えた。
川の水を仲間同士で掛け合ったり、頭の後ろで手を組みながら川の流れに身を任せているのを見ると、僕の緊張は徐々に和らいでいった。
水遊びをしてはしゃぐ姿を見ていると、幼い頃に兄と2人で行った家の近くの川とプールを思い出した。夏には花火も上がり、その時ばかりは川のまわりが人でごった返した。兄は小学校からプールを習い、大きな大会にも出るほどだった。
清らかな水の流れる音と美しい葉ずれの音を聞きながら、あたたかい日差しに照らされているうちに強い眠気に襲われた。
地面の草も陽の光でポカポカしてくると誘われるように草の上に横になり、直ぐに目を閉じてしまったのだった。
僕は夢を見た…大切な兄の夢だった。
大学1年の時に、南国の離島に旅行に行った時の夢だった。
白い砂浜と陽の光を浴びてキラキラと輝く海は、夢のような美しさだった。深く潜らなくても珊瑚礁と色鮮やかな魚を見ることができ、時間の経つのも忘れて夢中になって遊んでいた。水平線まで続く青いグラデーションは波で揺れるたびに色を変え、どれほど見ていても飽きることはなかった。
夕日は沈みながら海を黄金色にかえる。その美しさはどんな宝石も敵わない。まさに至上の美だ。
そんな景色を憧れの兄と一緒に見れたのが嬉しかった…自慢の兄がすきでたまらない。
男から見ても惚れ惚れするような兄は、僕の視線に気づくとニッコリと微笑んだ。「昌景、珈琲でも飲むか?」と兄は言った。僕がコクリと頷くと「ここで待ってろ」と言い、風のようにいなくなった。
兄を待つうちに、月が昇った。
暗い海から吹く風が冷たくなると、人っ子一人いなくなった。兄を疑いたくなかったが流石に妙に思い、携帯に連絡してみると繋がらなかった。
駐車場を見に行くと、そこに車はなかった。
街灯の明かりも、ジッーと音を出しながら消えてしまった。
「何処にいるの?!兄さん?」
僕は暗闇の中でそう叫び、右も左も分からないのに走り出した。
よく分からない場所に置き去りにされた恐怖でひどく混乱し、ソレに合わせるかのように地面がグラグラと揺れ動いた。
途端に僕は仰向けに倒れた。右足がビクンとなって跳ね上がり、地面に大きく叩きつけた。そうやって僕がもがき苦しんでいると、何処かで見たことのある珍しい灰色の鳥が胸元に舞い降りてきた。
「目を覚ませ、昌景!
お前が今いるのは異界だ。
今ので、奴等が音に気付いたようだ」
灰色の鳥が何度も低い声で繰り返すと、僕はようやく悪夢から目覚めた。フカフカの草の上で寝っ転がっている僕は汗まみれで、右足がとても痛かった。
酷い夢だ。
あの時兄は駐車場の自販機で珈琲を買い、すぐに戻って来てくれた。それなのに兄が僕を置き去りにする夢を見るなんて…どうかしている。兄に申し訳なくて仕方がなかった。
「ありがとう」
心配そうな瞳をしながら僕を見下ろしている灰色の鳥にそう言うと、鳥は胸元から飛び降りた。僕がフラフラしながら立ち上がると、背後から聞き慣れない声がした。
「ねぇねぇ、何してるの?」
ひどくしわがれた声だった。
灰色の鳥は瞳を鋭く光らせてから小さく鳴き、何処かに飛び去っていった。
「あれー、聞こえてないのかな?」
と、別の甲高い声が言った。
「近づいてみようか?」
「近づいたら、危ないよ」
「なら、石を投げてみようか?」
「みよう、みよう」
声の主達は僕に向かって石を投げつけてきたが、石はあらぬ方向に飛び散っていく音がした。
その正体が分かっている僕は恐る恐る振り返った。
そこには全身が赤い鱗に覆われ、亀の甲羅のようなものを背負い、頭の上には丸い皿がのった河童が立っていた。
ギョロッとした魚に似た異様な目が、僕に向けられていた。
「あっ、こっちを向いたよ。
ワシらの声はちゃんと聞こえていたんだね、安心したよ」
大きな河童がしわがれた声で言った。
細長い腕に長い枝を持っていたが、枝は濡れて色が変わりシナシナになっていた。
「安心した、安心した」
小さな河童も甲高い声で言った。
河童は水を滴らせながらゆっくりと近づいてきた。
僕の腰ほどの背丈しかないが全身真っ赤な河童が近づいて来ると、僕は思わず後退りした。足で枝でも踏んだのかバチンと音がすると、大きな河童は急に目を見開いて歯を剥き出し、僕から距離をおいて立ち止まった。
一瞬見せた表情だったか、その顔は悍ましかった。
大きな河童は何事もなかったかのように笑顔を見せた。
「ねぇねぇ、こっちに来てよ」
と、大きな河童は言った。
「そうだよ、こっちに来てよ」
小さな河童も繰り返したが、僕は顔を引き攣らせながら首を横に振った。
「こっちに来てよ。
お願いだよ。助けて欲しいんだ。
川で遊んでいたら、岩と岩の間に大切なモノが挟まってしまったんだよ。木の枝を使って取ってみようと頑張ったけど、ダメだったんだ。
アレがないと、ワシら怒られてしまうよ。
助けておくれよ」
大きな河童はシナシナになった木の枝を振り回してから、ポイっと地面に投げ捨てた。
「助けておくれよ、怒られてしまうよ。
見捨てないでおくれよ」
小さな河童も繰り返し、ボリボリと腹を掻いた。
僕は何も答えなかった。
すると河童は膝をついてシクシクと泣き始めた。
僕よりも小さな相手が目の前で泣く姿を見ているうちに、僕の心は痛んできた。
「僕では力になれない。
友達に助けを求めたら…どうかな?
きっと助けてくれるよ」
と、僕は呟くように言った。
すると両手で顔を覆いながら泣いていたはずの河童はパッと顔を上げた。
「ダメなんだよ。
ワシらの腕の長さじゃ、とても届かないんだ。
アンタはワシらよりも随分大きいし手も長い。アンタなら出来る。
本当に困ってるんだ。助けておくれよ」
大きな河童はすがるような目をしながら言った。
だんだん可哀想になってきた。僕よりも小さな河童が困っている…道で泣いている子供をそのまま見捨てるような罪悪感に駆られた。
だが、同時に紅天狗の言葉も思い出した。
動いてはならない。嘘をついているかもしれないと思い直し、僕は河童から目を逸らした。
「ここを動くわけにはいかないんだ。
申し訳ないけど、力にはなれない」
「そこを何とかお願いだよ。
力を貸しておくれよ。助けておくれよ。
一度見てから考えてくれよ。
見て無理そうなら、またここに戻ってくればいいよ」
と、大きな河童は言った。
それでも僕は首を縦には振らなかった。ここは心を鬼にして断らなければならない。
すると大きな河童は小さな河童に手を伸ばし、互いに震えながらひしっと抱き締め合い、わんわん泣き出した。
「ワシら、仲間に叩かれてしまうよ。
木にくくりつけられてギラギラした太陽の光にさらされて、頭の皿が割れてしまうかもしれないよ。
死にたくないよ、死にたくないよ
アンタ、河童殺しだ。
アンタが手伝ってくれたら、ワシら死なずにすむのに。
ワシら、アンタに殺されたんだ!」
会ったばかりの僕にたいして、あまりにも酷い言い方だ。
そもそも仲間を木にくくりつけるなんて、どうかしている。そんなの仲間じゃない。
でも…人間だって、同じ人間に拷問が出来る。
否、人間だから出来るのかもしれない。小さな河童が人間の子供に見えてしまうと、可哀想に思えてならなかった。もし…もしも悪い河童じゃなかったらと思うと…目の前で困ってる者を見捨てることが……出来なかった。
この地と河童をよく知っている紅天狗が戻って来るまで待とうとは思わなかった。その考えは頭から消えていた。
その地には、その地のルールがある。
親切心につけ込んで路地裏に連れて行かれて恐ろしい目に遭わされるなんて、人間の世界でもありふれている。身ぐるみ剥がされるならまだいい方だ。後遺症が残るほどの暴力を受けたり、隠し持っていたナイフで刺されて殺されたりもする。相手を痛めつけること自体に興奮する連中だって沢山いる。
そんなニュースを見るたびに、何故ついて行ったのだろうかと不思議に思ったりもした。
だが自分の身になってみると、冷静な判断が出来なくなったりもする。
冷静になって考えたら誰の目から見ても危険だと分かるのに、自分は大丈夫だという気持ちがあった。何かあったとしても、こんな小さな河童が相手ならば逃げられるという気がしていた。
よく分からない過信、知らない地では命取りになるかもしれない恐ろしい過信が、この時僕を支配していた。
僕よりも細い腕をしている河童を見ているうちに、あんなに警告してくれた紅天狗の「人間の男の腕力でも敵わない」という言葉も薄れていっていた。
それに目の前でシクシクと泣き「弱き者」を演じている小さな河童を見ているうちに、警戒心が薄くなっていったのかもしれない。
それは、全て計算されていた。嘘泣きなんて、誰もが出来るのに。
「少しだけなら…いいよ」
と、僕は言った。
すると河童は両手で顔を覆いながらわんわん泣いているはずなのに、水掻きの薄い膜から鋭利な歯がギラリと光った。
「ワシら、アンタに感謝するよ。
アンタ、ワシらの命の恩人だよ。
今すぐに行こう!早く行かないと流されてしまうから!」
鴉のお面がギュッと締まり、心が激しく警鐘を鳴らした。
(ついて行くな、昌景)
お面と心が、僕にそう知らせたように感じた。
今になって危機感を感じたが、一旦了承した僕は「やっぱり止めておく」と言えなかった。その言葉を飲み込むと、お面がさらに顔を締め付けたように感じた。嫌に感じながらも、ついにソコを動き、河童に挟まれながらノロノロと崖を降りて行った。
木々が鬱蒼と生い茂り、風が通らないから空気が淀み、陽の光も届かない陰気な場所に連れて来られた。崖の上とは違い、鳥の声も聞こえない。
ここにいるのは、僕と2匹の河童だけのようだった。
風が何かで倒れた細い老木が、いくつも川面に浮いていた。
大きな岩が幾つもあり、岩に流れがぶち当たる度に大きな飛沫を上げた。崖の上から見ていた川とは違い茶色く濁っていて、川面に顔を近づけると嫌な臭いがした。
「ほらほら、あそこだよ」
河童は倒れた老木の上に座り、岩と岩の間を指差した。その間に大切な物とやらが挟まれているらしい。影になっていてよく見えないが、どうやら丸いボールのようだった。
僕は岩の上に座り込んだ。滑り落ちないように細心の注意を払いながら身を乗り出し、拾った木の枝を握る手を伸ばした。ボールに触れているはずなのに、いくらやっても全く手応えがなかった。
「なかなかだね。
どうしてだろう?」
と、大きな河童は言った。
「本当だ。なかなかだね」
と、小さな河童も繰り返した。
河童はヒソヒソと話し合った後、座り込んでいる僕の背後に軽やかにジャンプをして着地した。その動きは、驚くほど俊敏だった。
「もっと体を乗り出したらいいよ。
岩と岩の間に体を突っ込むぐらいやってみたら取れると思うよ。
ワシらもやったんだよ。アンタもやってみておくれよ」
大きな河童がしわがれた声で言った。
「そうだよ。
ワシらもやったよ。怖くないよ」
小さな河童も繰り返した。
僕の顔色がサッと変わると、大きな河童は大きく口を開けた。ギザギザした鋭利な歯が光り、ニタニタと笑い出した。
その薄汚い笑みは、残忍な者が他者に危害を加える際にみせる笑顔そのものだった。
拒絶をすれば酷い目に合わされるだろうが、従ったとしても傷つけられるだけだ。こんな相手に話は通じないと痛感した。
その瞬間、胸元で揺れる木笛の熱を感じ、僕は「戦わなければならない」と思った。
「僕は…やりたくない。もう…嫌だ」
僕は思いを口にしたが、自分の耳に聞こえたその声はか細くて弱かった。
だが、この暗い場所に光の筋が差した。
風も通らないはずなのに木々がザワザワと揺れ、大きな魚が川面に跳ね上がった。
その変化に河童は気付くことなく、薄汚い笑みを浮かべ続けた。
大きな河童は耳障りな笑い声を上げると、僕に襲いかかってきた。軽やかにジャンプをして僕の背後に回り、ヌメヌメした体で僕に抱きつき羽交い締めにしてきた。僕はジタバタしたが、河童の力はその見た目からは想像もできないほどに強かった。そのまま岩を滑り、動きを封じ込められたまま川に落ちていった。
河童は腰に回していた足を解き脇から腕を離すと、僕の髪の毛を掴んで何度も川に沈めた。
「簡単に騙されたな。
見てみろ!馬鹿な奴だ!」
大きな河童がしわがれた声で言った。
岩と岩の間に挟まっていた大切な物は消えていた。マヤカシで、初めからそんなものは存在しなかったのだ。
「お前、何処からやって来た?
何故崖の上から隠れてワシらを見ていた?
変わった見た目とニオイだが、何処の領域に住む妖怪だ?
無断でワシらの領域に侵入しよってからに!」
大きな河童のしわがれた声が、みるみる野太い敵意に満ちた声へと変わり、僕の首を締め上げ始めた。答えさせる気などさらさらない。
ヌルヌルした河童の腕を掴んで必死で抵抗すると、小さな河童は面白がって囃し立てた。
「そうだ!そうだ!
あれほどの妖術を施していながら、そのザマはなんだ?
アニジャ、早く殺してしまおう!」
小さな河童は甲高い声で、早く殺してしまえと騒ぎ立てた。
大きな河童は僕の首から手を離し、頭と背中を掴んで物凄い力で川に沈め続けた。暴れるほどに押さえつける力はますます強くなっていき、僕は限界になった。
水を飲まないよう息を止めていたが、さすがに苦しくなって口を開けてしまうと、すぐに気管に水が入りパニック状態になった。
なんとか顔を出そうとしたが、河童の力に敵うはずもなく水を飲んでしまうだけだった。
その度に、小さな河童の笑い声が大きくなった。
もうダメだ…と諦めかけた瞬間、河童の笑い声に混じって鳥がけたたましく鳴く声が聞こえた。
あの灰色の鳥の声だった。
その声を聞いた僕は諦めてはいけないと思い、汚い水の中で目を開けて笛を探した。
笛は、僕の目前でユラユラと揺れていた。
腕は抑えつけられていないので、力を振り絞って手を伸ばし、笛を強く握り締めた。
死にたくない…僕はまだ何もしていないとひどく後悔をした瞬間、僕を押さえ込んでいる手の力が弱まった。
恐怖に駆られたような河童の叫び声がし、川の中にザブンと飛び込む音が聞こえた。つんざくような叫び声は、流れいく水の音にかき消されていった。
溺死させられそうになっていた僕は、強い力で引っ張り上げられ、そのまま岸に運ばれた。
四つん這いの体勢で口から水を吐き出すと、鼻からもいろんなものが垂れ流れてきた。濡れた手には砂利がびっしりこびりついたが、その汚れた手でひどい顔を拭った。
自分を惨めに感じ、騙されてついて行ったことを悔やんでいると、見慣れた下駄が僕の視界に入った。
その瞬間、鳥肌が立った。
四つん這いの濡れ鼠を、どんな表情で紅天狗が見ているのかと思うと、恐怖に感じた。
(騙されたのではない。
あれほど警告してくれたのに、僕が守らなかったのだ。
危険な目に合うと予想ができたのに、ついて行ったのだ。
自分は大丈夫という何の根拠もない過信からだった。そもそも僕にもっと強い意志があれば拒絶出来ただろう…。
僕は…ダメだな…)
自分自身をダメだと痛感して深く項垂れた。河童に押さえつけられた背中がジンジンと痛んだ。髪についていた何かが落ちてきてブラブラと揺れると、ヌメヌメして腐った卵のような臭いがした。
嫌な臭いを感じとると、嫌な感情も沸々と湧き上がってきた。
「昌景、大丈夫か?
髪に水草がついてんぞ」
紅天狗はそう言ったが、僕は男の顔を見れなかった。
「ほら、とってやるよ」
紅天狗が僕の髪についている水草をとってくれた瞬間、辺りが騒々しくなった。こちらに向かって何かが迫ってくるような大きな足音がし、不気味な叫び声も響き渡った。
紅天狗は水草をポイッと投げ捨てると、僕の腕をひっぱりあげた。
「仲間の叫び声を聞いて、他の河童共が動き出した。河童を殺すのは簡単だが、今回は、やめとくわ。
走るぞ、昌景。
お前は前だけを向いて走り続けろ。
振り返るなよ」
紅天狗は楽しそうに言うと、さぁ走れとばかりに僕の背中を叩いた。
こうして僕達は河童に追いかけられることになった。
僕は必死になって走ったが、僕のすぐ後ろを走る紅天狗の足音は軽やかだった。途中何度か足音が止んだ。どうやら時折後ろを振り返っては、立ち止まっているようだった。紅天狗が立ち止まる度に、後ろから恐怖の悲鳴が湧き起こった。
やがて河童の足音は聞こえなくなった。自分達が追いかけているのが、恐れる者だと分かったからなのだろう。
「昌景、大丈夫だ。
河童は追いかけて来なくなった」
と、紅天狗が言った。
僕は肩で息をしながら立ち止まろうとした。山に来てから、自分の体力のなさを実感させられた。
「急に立ち止まんなよ。余計に疲れるぞ。
スピードを落として歩け」
「ごめん…天狗が河童相手に逃げるなんて…」
僕は息を切らしながら言った。
「あ?違う違う。逃げたんじゃない。
時折俺は振り返ってただろう?
したら、逃げたっていうことにはならないんだよ。
その証拠に俺が振り返るたびに、追いかけている対象が天狗だと気づいた河童は逃げ戻って行った。
な?俺は戦わずして勝ってるだろ?
んなことより体は寒くないか?つっても、タオルも何もないけどな」
と、紅天狗は言った。
(寒くはない…違う意味で、体は震えてしまいそうだけど)
「でも…あの時…僕があそこを動かなければ…」
僕が下を向くと、それまで笑っていた紅天狗は咳払いをした。
「こっちに来い」
紅天狗は急に道を左にそれていくと、大きな岩にもたれかかった。
「昌景、でもはナシだ。
でもっていったところで過ぎ去った時は変えられない。ただの無意味な時間の浪費だ。そんな事を言うぐらいなら、次はこうしたいという話をしてくれ。その方が、俺も聞いてて楽しい。
それにな、俺は本当に楽しかった。
河童に追いかけられるなんて、初めてだったからな」
紅天狗は明るい声で言いながら、下を向いている僕を励ますように曲がっている背中をポンと叩いた。
「笛も…失くしたみたい…」
背中を叩かれた僕は、胸元で揺れるはずの笛が失くなっていることに気がついた。きっと何処かに流されたのだろう。
(本当に僕は…ダメだな…)
僕はそう思うと、両親の顔を思い出した。
「あ?笛?
あんなのはいくらでも作れるからさ、気にすんな。
笛を失くしたことについては、怒っていない」
紅天狗は素っ気なく答えた。
その言葉の意味を感じとると、僕は怖くなった。
夕暮れの斜めの陽が差し込んできて紅天狗の無表情の顔を照らすと、僕の体は震えた。また下を向いた。地面には大きな影が落ち、両翼がユラユラと揺れていた。男の顔を直視できなくなった僕は、影を見るだけだった。
空気が冷たくなり、周りの木々の揺れる音が異様に大きく耳に響いた。
男の沈黙が、怖かった。
「あの…妖術…使ってくれてたんだ?」
僕は下を向いたまま話を逸らすように言った。
「あぁ。
一人でおいていくんだから、当然だろ?
河童がお前に危害を加えないように妖術を施して結界を作り、灰色の鳥にも見張らせていた。俺の妖術は凄いからな。河童の方からは近づくことすら出来ない。
だがお前から出れば、話は違う」
「なんで…教えてくれなかったの?」
僕は小さな声で聞いた。なんとも滑稽な問いだ。
「なんでだと思う?」
紅天狗は厳しい声で聞き返した。
僕は答えなかった。否、答えられなかった。
「答えろ、昌景。
お前の考えを、俺に言え。
それに俺と話がしたいなら顔を上げろ。お前は誰と話をしている?」
紅天狗に強い口調で言われても、僕は顔を上げずにいた。
しょぼくれて曲がっている背中のまま何も答えないでいた。答えられるはずもない。そもそも男の前から逃げ出したい。
すると紅天狗は物凄い力で僕の頭を掴んだ。男の指がメリメリと僕の頭に食い込んでいき、そのまま乱暴に引っ張りあげた。
「いた…」
僕は思わず声に出したが、男の険しい表情を見ると歯がガタガタと鳴った。掴まれている頭の痛みを感じなくなるほどに、その爛々と燃えるような銀色の瞳は恐ろしかった。
「昌景という男を、知りたかったからだ」
紅天狗は低い声で答えた。
冷たい風が僕の体に吹きつけた。
「あっ…あの…」
体を斬り裂かれるような冷たさから逃れようとして、僕は言葉を探した。
目をキョロキョロさせながらモゴモゴ言い始めると、紅天狗は僕の頭をクシャクシャと撫で回した。
その手は大きくて「自分を貶めるようなことは言うな」という熱を感じた。
僕がコクリと頷くと、男は少年に向けるような微笑みを浮かべてから手を離した。
「昌景、俺はお前という人間を確かめねばならなかった。
河童の領域は比較的安全だから、ここを選んで置き去りにした。
俺がいないところでお前がどのように振る舞うのかを知ることが、昌景という人間を知る1番てっとり早い方法だと思ったからだ。
俺がいたら、お前はお前ではなくなる。
それに妖怪とは如何なる者かを、痛感して欲しかった。妖怪を知るということが、自身の身を守ることになる。
俺が側にいれば、妖怪は俺を恐れて寄ってこない。
となれば、意味がない。危険な領域に行くまでに、お前は何も学べない。だから、俺はお前を1人にして離れた。
異常者…つまり尋常ではない異常なる力或いは考えをもつ者達は、お前が泣こうが喚こうが嫌がろうが、己の主義主張を押し通す。
お前は自らを守る為に、それに対抗できるだけの力を備えていて、襲ってきても抗える力を持つ者だと奴等に示さねばならない。
お前が自身を守ってこそ、俺も本来の力を出せる。
それでも押し通す気なら、俺が、どういう事になるかを奴等に思い知らせてやる。
そうだな…もしお前が結界から出なければ、河童は別の方法を使っていただろう。別の方法をな。ならば、俺は奴等を殺していた」
と、紅天狗は言った。
「ごめんなさい。
困ってる…河童が可哀想で…放っておけなくて…」
と、僕は言った。
「そうして生命を失うのはお前だ。
一つ一つの決断が、道を変える。取り返しのつかない道にも歩ませることもある。
昌景はとにかく優しい。
だが、その優しさにつけこむ輩がいるんだ。
奴等の口上は何処か可笑しかっただろう?
それにお前を騙そうと思い、薄汚い笑みを浮かべていたはずだ。
優しさでは守れないものもあるんだ。
お前も心が警鐘を鳴らすのを聞いたはずだ。俺が渡した面も危険を知らせただろう?きつく締まったはずだ。
お前は、お前の心に従え。
お前は自らの行動の全てに責任を持たねばならない。
その行動を決定したのは自分なのだから、責任を誰かに押しつけるな。
危機感を感じていた。嫌だった。ちがうか?
お前の心と体は誰のものだ?」
紅天狗は険しい顔をした。
「ダメだな…僕は…」
僕は深くため息をついた。
すると、紅天狗は右手で赤い髪をクシャクシャとした。
「俺は、昌景に死んでもらいたくないだけだ。
自分がダメだなんて思わせる為じゃない。そんな風にとるな。
ちょっとキツく言い過ぎたな。
ごめんな。
けどな俺がここまで言ったのは、昌景ならやってくれると信じているからだ。無理な奴には言わないさ。俺も疲れるだけだから。
選ばれし者を置き去りしてヤッた方が簡単だ。俺の黒くなりつつある部分はそれを望んでいるのかもしれない。それが、あのザマだ」
紅天狗は苦い顔をしながらそう言うと、夕暮れの空を仰ぎ見た。赤い空を見慣れない大きな鳥が何羽か飛び交い、遠い彼方へと消えていった。
「異界に来たのは初めてなんだ。
思う通りにいかなくて、当然だよな。
向こうの世界にいるのと変わらずに出来るはずないよな。
早く帰ろう。
体が冷たいだろう?あつい風呂にでも入れ」
紅天狗はそう言ってから笑ったが、僕は笑えなかった。
「ごめん。
もっと僕が…ちゃんとしてたら…。
ダメだな…僕は…何も出来なかった」
僕はもじもじしながらダメだダメだと繰り返した。
(紅天狗は僕の事を誤解している。
僕はきっと何処に行っても変わらないだろう)
「本当にそう思ってるのか?」
紅天狗は笑うの止めて、窘めるような口調で言った。
「うん」
「少し長くいすぎたか…異界の空気に触れすぎたかな?
それとも水でも飲みすぎたか?
まー、どっちにしろだ。昌景。
どうして、そんなに自分を責め立てる?
どうして、そこまで自分自身を痛めつける?」
紅天狗は苛立ちを含んだ声で言った。
「分からない…そう思うからだとしか…言えない」
僕はつっかえながら言った。
重たくて暗い日々が脳裏にチラついて、ソレから逃げるように視線を下に向けると、自分の手が震えているのに気がついた。
何かに失敗してしまうたびに思考が勝手に反応してしまう。
大人の男になった今でも…心がどうしてもあの頃に戻ってしまう。
「常識的」に考えて「時間が経過した」し「大人の男」ならば乗り越えていて「当然」だと多くの者は言うだろう。
けれど、ソレは違う。
常識とはソレを経験したことのない者にとっての常識であり、ソレの恐怖を知らない者の残酷な言葉の刃でしかない。したり顔をしながら常識という刃を振り翳し、簡単に誰かの心を斬り刻んでいく。
常識なんてものは見る景色が変われば一変する。
人間の世界の常識が異界では通用しないように。
そう…僕の領域は「常識」ではかれぬほど損傷されていた。損傷された領域は無防備だ。防波堤を築いても地盤が緩んでいるから全く役に立たずに、すぐに崩れていく。
僕に酷いことを言った者が、どれほど狂っていて本当にクソだと分かっていても、僕は何かに失敗するたびに必要以上に落ち込んでしまう。
僕の心は、僕自身ですらどうしようも出来ないほどに「複雑」だった。
何かの拍子に迫ってくる黒い手は、僕みたいなダメな人間が新しい場所で自由に生きる事を許さないとでもいうかのように嘲笑いながら迫ってきて、囚えようとしてくるのだ。
お前はダメだダメだと…存在そのものを否定する。
しかし僕の目の前の男が大きな声で「違う!」と叫ぶと、僕の襟首を掴もうとする黒い手は恐れをなして逃げていった。
「お前はやれる!お前なら出来る!
勘違いすんな!俺は一言もダメだと言ってない!」
紅天狗はまるで自分の事のように怒り出した。
「お前にして欲しい事を、お前なら出来るだろう事を、その身を持って教え込んだだけだ。
昌景なら出来るさ。
何も出来なかったと思ってんのなら、俺がソレを否定してやる。
お前はこの訳の分からん地に天狗に連れて来られて置き去りにされたのに、出来た事が2つもある。
最後にはやりたくないと言い、生きたいと願い笛を握れたことだ。
これは立派な主張だ。
だからこそ俺は昌景という「人間」を助けた。
凄いことだ。その事はちゃんと分かってると思ったから、俺はわざわざ口にはしなかった。
なぁ…昌景…お前は少しばかり真面目すぎるな。もっと楽に生きろ。
2度と同じ事を繰り返さない為には、自分の行動を省みるのは大切な事だ。
だがな自分が出来た事にも、ちゃんと目を向けてやれ。そして最後には自分を褒めてやれ。自信に繋がるぞ。
ほら、猫背になってんぞ」
紅天狗は優しい瞳でそう言うと、僕の腹を左手でコツンと叩いた。その手は何かを持っていて、僕の腹に突き刺さった。
「いた…」
「あ?すまんすまん。
コレ持ってたの、忘れてたわ」
紅天狗は胡瓜のようなものを左手に2本持っていた。
「それ…胡瓜?」
と、僕は聞いた。
「あ?胡瓜?
あー、似てるけど違うな。
俺はコレを探しに行ってたんだ。河童が育てている美味い果実なんだ。
秋の収穫の頃だから、そろそろ出来るかなと思ってたんだよ。
あっ、砂金をおいてきたから盗んだんじゃねぇよ」
紅天狗はそのうちの1本を僕の鼻先に突き出した。
たしかに良い香りが漂ってきた。南国のフルーツのような独特の香りだったが、見た目はどうみても胡瓜だった。
その香りを嗅いでいると、河童に押さえつけられた背中の痛みが引いていった。
だが最後に残ったある感情までは、どうしても鎮まらなかった。自分の愚かさをひどく悔やみ、自分の意志のなさを責めずにはいられなかった。
紅天狗に言われた言葉も、僕の心に虚しく響くだけだった。
強すぎる男から言われた言葉は、ちっぽけな僕には遠く響いていた。
そう…僕の目に映る紅天狗はあまりにも大きかった。
男の僕から見ても惚れ惚れするような肉体と強い言葉…畏怖される存在…。
こんな男の隣で僕はやっていけるのだろうかと思うと、体の力が抜けて立っていられなくなった。もっと相応しい男が側にいる方がいい…なんで僕はノコノコ来たのだろう…光が強すぎて目が眩み、それすらも思い出せなくなった。
「おい、昌景。
大丈夫か?立てるか?」
紅天狗は地面に崩れ落ちようとする僕を抱き止め、力強い腕で優しく支えてくれた。
でも、僕は立ち上がることが出来なかった。全てを諦めた男のようにグッタリとし、両足に力を入れることが出来なかった。
すると紅天狗はもう何も言わずに僕の体を軽く抱き上げて小脇に抱え、全く重そうな素振りも見せずに歩き出した。
それが逆に悲しかった。
紅天狗の無言の気遣いが、ひしひしと伝わってきた。
(足を引っ張ってばかりだ。
僕よりも兄の方が良かったのではないのだろうか?
こんな風に男を担ぎ上げずにすんだだろうに。
兄は紅天狗と似ている。異界に向かう道で見た紅天狗の背中に兄を見るほどなのだから…兄ならば紅天狗の力になれるだろう。
僕とは違い…ちゃんとした力に…なれる。
キッパリと断り、毅然とした態度で立ち向かっただろう。
兄ならば…そうだな…)
僕の心に、再び両親の言葉が強く響き渡った。
夕暮れの冷たい風が、容赦なく僕の体に吹き付けてきた。
地面を見ていると「昌景は、ダメだ」という両親の言葉が真実のような気がしてきた。
川にさしかかると、黄金に輝く川に逞しい男の片腕で運ばれているちっぽけな男の姿が映った。逞しい男に抱えられているその姿は…荷物のようで…ひどく無様に見えた。
僕は虚しくなって、自分の姿から目を逸らした。
場所が変わったところで何も変わらない…だって僕は何処に行っても「僕」なのだから。
僕は…両親の言うように…ダメな男…なのだから…
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