第5話 妖怪
鴉の鳴く声で目が覚めた。
時計を見ると、午前6時だった。
紅天狗と酒を飲み始めたのは午前2時だったので、少ししか寝ていない。あんな時間に日本酒を飲んだのは初めてだったが、不思議と体の疲れはなかった。
布団に入ったまま、しばらく天井を這う蜘蛛を見ていたが、次第にあの美しい星空を思った。
紅天狗が探している星が気になった。
星と盃に関係があるのだろうかと考えたが、いくら考えても答えは出なかった。
顔を洗って外に出ると、昨日と同じように袴の人が箒で紅葉を掃いていた。僕の足音に気づいたのか箒を動かす手を止めたが、振り向いてはくれなかった。
「あっ…おはよう…」
話しかけるなというオーラを感じたが、どうしてもお礼が言いたかった。
無視されるかもしれないと半分諦めてもいたが、袴の人はゆっくりと振り向き、軽く会釈をしてくれた。
「あの…僕がお堂に引きずりこまれた時に…その…貴方が紅天狗に助けを求めてくれたって…聞いて…それに鞄も部屋に……ありがとう」
僕が喋りだすと、袴の人は僕の目を真っ直ぐに見つめてきた。綺麗な女性に見つめられて僕は妙に緊張してしまい言葉が上手く出てこなかった。
緊張しない男はいないだろう…ただ1人を除いては。
彼女の艶やかな濡羽色の髪は陽の光でさらに輝き、雪のように白い肌を際立たせた。化粧っけはないのに頬と唇はほんのり赤く色づき、魅力的な黒い瞳に僕が映っている…彼女は美しい黒…そのものであった。
袴の人は、少し口を開いた。
唇が微かに震えただけで、何も答えてはくれなかった。
紅葉の木の枝にとまり僕達を見ている数羽の鴉が、袴の人の代わりに鳴き声を上げた。
それでも僕は構わなかった。何も答えてくれなくても、無視されなかったのが嬉しかった。
だが箒を持つ手も微かに震え始めると、目の前から早く立ち去った方がいいのかもしれないと思えてきた。
「仕事中なのに邪魔してごめん。
一言、お礼が言いたかったんだ。
じゃあ、また」
僕がそう言って背中を向けると、待ってと言わんばかりに背中をつっつく箒の柄の感触がした。僕が振り返ると、袴の人は唇に手を添えながら何か言いたそうな瞳をしていた。
「……ありません…すきで…しているん…です。
それに…お礼を…言われるような事は…していません。鞄を…拾ったのは…主人様で…ワタシは…運んだだけ…です。
日も沈んで…いましたし…ワタシの責任です…から」
袴の人は小さな小さな声でそう言うと、箒を持つ手にキュッと力が入った。
朝の心地よい風が吹いて、紅葉の木の枝が揺れた。
ヒラヒラと舞い落ちてきた赤い紅葉が彼女の髪にくっつくと簪のようだった。濡羽色の髪には、華やかな赤がよく似合った。
気のせいかもしれないが、僕と袴の人との間に流れていた空気が変わったように思えて笑みがこぼれた。
「何…ですか?」
袴の人は胡散臭い男でも見るような目で僕を見ていた。
「話をしてくれたのが、嬉しくて」
僕は正直に答えた。
出来れば仲良くなりたい、もちろん友達としてだけど。
「主人様が…仲良くしろと仰ったからです。
いい子だから…仲良くしろって…。
主人様の御言葉は絶対です。
それだけ……です」
袴の人はプイッと横を向き、赤い簪をしなやかな指でとってしまった。
その横顔は「それだけ」とも思えなかった。紅天狗の言っていたとおり表情をよく見ていたら分かった。
「僕の方こそ、よろしくお願いします」
僕がそう言うと、袴の人はクルッと背中を向けた。
「主人様に…言われたからです。
馴れ馴れしく…しないでください」
袴の人は可愛らしい声でそう言うと、箒を抱きしめながら逃げて行ってしまった。彼女の後ろ姿と可憐な紅葉が舞い落ちていくのを、僕はしばらく眺めていた。
それから僕は紅天狗と歩いた道を辿った。
あの神木の下で、今日も刀の稽古をしているように思えてならなかった。同じ道を辿れば、きっとあの場所に辿り着くだろう。
錆びついたような大きな鐘の横を通りすぎると、昨日と同様に沢山の鴉達が鋭い目を光らせていた。
僕を見ても全く動かなかった。昨日の一死乱れぬ動きを見ていなければ、鴉の像とでも思ったかもしれない。
彼等は僕の視線に気付いているのだが、鳴き声を上げることもなかった。
ずっと同じ方角を向いて、目を光らせているだけだった。
今日も紅葉のトンネルは色鮮やかで、僅かな隙間からのぞく青い空が美しかった。
僕は立ち止まって手を伸ばした。掴めそうで掴めない紅葉と空を見ながら、僕は溜息をついた。
朝露に濡れた桔梗の庭園は、息をのむ美しさだった。
星形と紙風船のような蕾が可憐に膨らんで、草丈の緑が見えないほどの美しい青が広がっていた。その不思議さは、紅天狗の妖術によるものなのかもしれない。今日も澄み渡る空を散歩しているかのような気持ちになった。
心地よい風に吹かれながら、僕は一面に広がる青を見ていたのだが、一輪だけ色が違う桔梗が咲いていた。
青い桔梗の中に、儚げな白い桔梗が咲いていたのだった。
清楚という言葉がぴったりと当てはまり、粗野な男の手で汚してはならないような清純な魅力を放っていた。
儚げで美しい女性のような魅力を放つ白い桔梗から目が離せなくなった。吸い寄せられるようにフラフラと近付いて行き、触れたい気持ちを抑えきれずに、そっと手を伸ばした。
しかし、白い桔梗に触れる事は絶対に許されなかった。
「白い桔梗に触れるのは、ダメだよ」
背後から低い男の声がすると、今まで感じたこともないほどの戦慄が走った。
その低い声には感情がまるでこもっていないのだが、怒声よりも強烈に相手に恐怖を抱かせるものだった。一瞬、お堂で聞いた冷たい声を思い出したが、全身に走った戦慄はそれ以上だった。
僕の手は、白い桔梗に触れる寸前で、ピタリと止まった。恐る恐る振り返ると、紅天狗が無表情で僕を見下ろしていた。
「あっ…ごめんなさい。
白い桔梗が…あまりにも綺麗だったから。
つい…触りたくなって…」
「桔梗は綺麗だ。
だが白い桔梗に触れていいのは、俺だけだ。
白の桔梗はダメだが、青の桔梗なら部屋に飾るか?」
と、紅天狗は言った。
紅天狗の顔に何の表情も浮かばないのが恐ろしくなった。
いつものように笑うこともなく、かといって怒る様子も見せないのが、本当に怖かった。感情表現が激しいからこそ「無」なのが、怖くてたまらなかった。
桔梗の花を部屋に飾りたかったわけではないが、僕は思わずコクリと頷いた。
紅天狗は僕の顔をじっと見てから、逞しい背中を向けてしゃがみ込んだ。何本か青い桔梗を摘み、慣れた手つきで花束にしてから振り返った。
そして赤い髪を左手で何度かクシャクシャとしてから「それ、癖なのか?」と言った。
「へ?」
僕は紅天狗が何を言っているのか分からなかった。
「コクリと頷くやつだよ。
今までにも何度も見たからさ」
と、紅天狗は素っ気なく言った。
僕はなんだか恥ずかしくなった。
自分の癖なんて意識したことはなかったが、言われるぐらい何度もしているのだろう。
「そう…なのかも…しれない。
変かな?」
と、僕は聞いた。
すると紅天狗は少し微笑んでから首を横に振った。美しい白い桔梗が柔らかな風で揺れた。
「気になっただけだ。
変だなんて思ってない。
可愛いと思うし、俺はすきだよ」
紅天狗がそう言うと、僕は恥ずかしくなった。
いい子とも言われているし、紅天狗からしたら可愛いと思うぐらいの小さな子供でしかないのだろうか…?
「あんまり…子供扱いしないで欲しい。
僕は、大人の男だよ」
自分を大人の男というのも妙な感じがしたが、そう言わずにはいられなかった。
紅天狗は目を丸くして「すまん、すまん」と言った。
また赤い髪を左手でクシャクシャとし、青い空を見上げてから、右手にある青い桔梗の花束をなんとも言えない瞳で見つめていた。
*
それから僕達は軒下で、一緒に食事をした。
紅天狗は僕の大学生活の話を聞くと、何度か楽しそうに笑い「いろいろ話がしたいから、朝は一緒に食おうな」と言った。
紅天狗は食事を終えると、初めて会った月夜に頭につけていた天狗の面を懐から取り出した。木の枝や紅葉の絨毯で遊んでいた沢山の鴉がピクリと反応して、一斉に面を見つめた。
陽の光の下で見る天狗の面は、禍々しいほどに真っ赤だった。男の名の通り紅といった方がいいのかもしれない。太くて硬そうな鼻はそそり立ち、肉を食いちぎらんばかりの鋭利な牙が生えていた。
「今日は、お面をつけるの?
初めて会った時にも頭につけてたよね?」
と、僕は言った。
「あ?
そうだったな。あん時は昌景を驚かそうとして頭をグリグリしてから、また頭につけたんだっけな。
そういえば言ってなかったな。
この面が、結界橋を渡り、異界の門を開ける鍵だ。
門を開ければ、異界に閉じ込められた妖怪がウジャウジャいるぞ。
で、今日はその中でも河童の領域に行く。
昌景が、ちゃんと見ることになる、はじめての妖怪だな」
紅天狗は非常にゆっくりと言った。
僕はまだ噛んでいた硬い人参を思わず飲み込んでしまい、ゴホゴホと咳をした。
紅天狗は少し苦笑しながら「大丈夫か?落ちついて食えよ」と言い、ぬるくなったお茶をすすめてくれた。
(そうだ…僕は紅天狗の盃を取り返す為に異界に行くんだ。異界に慣れる為に…まずは河童のところから行くんだったな…)
昨日聞いていたので心の準備が出来ていると思っていたのだが、全く出来ていなかった。さらに緑ではなく赤い河童を想像すると不安でたまらなくなり、そっと視線を落とした。
渡されたお茶を見つめた。飲むことが出来なかった。湯呑みを持つ手が微かに震えた。
「昌景、手が震えているぞ」
と、紅天狗は言った。
顔を上げて紅天狗の方を見ると、僕の瞳をじっと見つめてきた。
「言いたい事があるなら、ちゃんと言えよ。
俺は相手の気持ちを考えたり、相手に合わせたりするのは苦手な性分だ。
お前は表現できるんだから、ちゃんと声に出して言ってくれないと、平気なんだと思ってしまう。そのまま俺は通りすぎてしまうぐらい、俺は自由だ。
だから俺がどう思うかなんて、考える必要はない。俺は自由なんだから、昌景ももっと楽にしろ。
俺は昌景の考えを聞きたい。昌景は俺が聞きたいその考えを言うだけなんだから、簡単だろ?
黙っていられる方が、何を考えているのか分からないから困るんだ。
俺は俺、昌景は昌景なんだから」
紅天狗は静かな声で言った。
赤い紅葉が、僕達の間にヒラヒラと舞い落ちた。
隣同士で座っていても、どんなに近くても、僕達は遠いのだ。言葉にしなければ伝わらないと分かっていても、僕は何故か黙ってしまう癖があった。それが何故なのか…よく分からないけれど。
今もついさっき大人の男と言いながら、まだ見ぬ異界と妖怪に怯えているなんて言ったら「子供だな」と笑われないだろうかと思っていた。
僕が黙っていると、紅葉が柔らかな風に揺られてそよぐ音が響いた。
紅天狗をチラリと見ると、僕を安心させるかのように微笑んだ。僕が何を言おうとも、怒ったり笑ったり馬鹿にしたりはしないような優しい微笑みだった。
「怖…いんだ。
異界も妖怪も…怖い。
両方とも…よく分からないから…さらに怖いのかもしれない。人間を殺し、或いは人間を生きたまま食う妖怪が沢山いると思うと…怖くてたまらない。
きっと立っていられなくなる。引き摺り込まれたお堂でも…僕はそうだった。
床にへばりついたまま…妖怪同士が殺し合っている音を聞いているだけだった。そうだ…震え上がるほどの冷たい声も聞いた。とても恐ろしい声だった。あの声が、今でも耳に残っている。真っ暗で何も見えなかったから、よけいに耳が敏感になっていたのかもしれないけれど。
それに…手にこびりついた感触も戻ってきそうなんだ…」
僕の声は消え入りそうなほどに、どんどん小さくなっていった。
言葉にするたびに恐怖の感情が大きくなっていき、引きずり込まれたお堂を思い出すと寒気を感じて身震いした。
右手にこびりついた血の感覚が蘇った。
ねっとりとした感覚が右手の指先からどんどん広がってくると、嫌な臭いが鼻を強く刺激して目が回り出した。
すると紅天狗は僕の肩をグッと強い力で掴んだ。
「俺を見ろ!昌景!
やめるんだ!」
と、紅天狗は大きな声で言った。僕の目が回っているのは、僕自身が頭を強く振っているからだった。
「でも…血が…右手に血が…」
僕は頭を振り続けながら、右手が真っ赤になるほどズボンに何度も強く擦り付けた。
紅天狗は僕の右手を掴んで、ソレを力でやめさせた。
「何もついてないよ、昌景。
何も、な」
紅天狗は力強い声でそう言うと、何もついていない事を確認させようと右手を目前に持ち上げた。
「昌景、何もついてないよ。
自分で自分を傷つけている。
やめるんだ」
「あっ…あっ…」
それでも僕は逃れられずに、頭を強く振り続けた。
「昌景!
俺の目を見るんだ!
深く息を吸いこんで、吐き出せ!
大丈夫、昌景なら出来る」
紅天狗はそう言うと、僕の頭を掴んだ。
銀色の瞳が僕の目前に迫ってくると、まるで妖術にかかったように僕は深呼吸をした。何度か繰り返すと、僕はようやく落ち着くことができた。
「これほどまでに侵されていたとは…すまなかった。アノヤロウ、強烈なのを残していきやがったな。
なぁ、昌景、話をしよう。昨日の話の続きだ。
河童を見てもらい異界の空気を感じてもらってからと思っていたけど、俺が間違っていた。
怖い思いをさせたな。すまなかった」
紅天狗はそう言うと、僕から手を離した。
そして、何度か両手を打ち合わせた。
その音を聞くと木の枝にとまっていた沢山の鴉が飛び立った。その場の空気をかえるかのように新たな風が流れ込み、僕の体に吹き付けた。
「いい風だ。
まとわりつこうとしたモノを吹き飛ばしてくれる」
紅天狗はそう言うと、風で舞い上がった真っ赤な紅葉を見た。力強い男の横顔は、遥かな遠い昔を思い出しているかのようだった。
地面に落ちてきた赤い紅葉を拾うと、息を吹きかけた。
赤い紅葉はクルクルと舞ったが、やがて火がついて真っ黒になり形を残す事なく消えていった。その手から離れても、男の力からは逃れられなかった。
紅天狗はゆっくりと話し出した。
「昔…といっても千年くらい前なんだが、人間と妖怪は同じ空の下で暮らしていた。
神々は人間に太陽を与え、妖怪に月を与えた。
陽の光の下で人間が歩き、月が昇ると妖怪が闊歩した。
人間とは違う見た目をし悪さをし人間を殺し食らう妖怪が、ウヨウヨしていた。人間はそんな妖怪を恐れ、夜を恐れた。
だが、夜に外に出ないわけにもいかない。
月の光に照らされながら男は女のもとへと牛車に乗って通う。闇夜に紛れて屋敷へと忍び込み盗みや殺しをする野盗もいる…言い出したら切りがない。
夜の闇は、人間の欲望を激しく掻き立てる。
そんな連中の肉は美味くて骨もしゃぶり甲斐がある。欲に塗れて魂が肥え太った人間を食うたびに、一部の妖怪はより強靭な肉体になる。だから他の妖怪を食うより、手っ取り早い人間を食いたい。
妖怪は「力」が全てだから、一部の妖怪は狂ったように人肉を求め、闇夜を駆け抜けた」
紅天狗は舞い散る真っ赤な紅葉を見つめた。
僕はその赤から人間が妖怪に食べられている瞬間を想像してしまい、背筋が凍った。
「なんで神々は…人間を食べる恐ろしい妖怪と人間の世界を分けなかったのだろう…」
僕がそう言うと、紅天狗は笑った。
「人間だってそうだろう?
人間だって、他の動物の肉を食う。
それと、同じだよ。
人間と動物の世界は分けられてはいない。
人間は人間だけが特別だと思っているかもしれないが、そんな事はない。神の下では、平等だ。それに神は…昌景が思ってるように人間に優しくはないぞ。
それにな、妖怪の全てが恐ろしいわけじゃない。
人間にも悪人と善人がいるように。
それは、分かってくれ。
ここからするのは人間を殺して食う一部の妖怪の話だ。
一部の妖怪っていうのは長いから、ここからは妖怪とだけいう」
紅天狗がそう言うと、僕はコクリと頷いた。
「妖怪に対処する為に、1人の男が帝命によって選ばれた。
その男の指揮のもと、武士と陰陽師は互いに協力して刀と呪法で退治をしていた。
人間の力では肉は斬れても骨は断てない。骨を断たねば、時がたてば、さらに強くなって再生する。肉を斬って動きを止めた後に、呪術で止めを刺していたのが陰陽師だ。
しばらくの間は…上手くいっていた。
だが人間をたらふく食った妖怪は賢しくなり考えるようになった…そう、奴等の血肉となったのだ。
奴等は、こう考えた。
武士だけなら恐れることはない。たとえ斬られても、苦痛に耐えれば体はより強靭になる。陰陽師がいなくなれば全てが上手くいくのに…と、憎悪は陰陽師に向けられた。
そこで妖怪は、力で負かした他の妖怪を囮にして退治させ、物陰から陰陽師のその後の行動を観察した。観察するうちに彼等が組織だって動いていると分かり、総力を結集して組織の頭を探し出し潰そうと考えた。
妖怪の世界では、頭を潰せば、その種は滅んでいく。
それと同じと考え、何ヶ月もかけて、頭のもとに報告に上がるのを待った。息を殺しながら、彼等の行く先を尾行した。
そして、とうとう見つけたんだ。
その頭は…白の狩衣を着て、黒の扇を手にした陰陽師だった。
陰陽師の頂点に君臨していた男だ。
帝の信頼を一身に集めていた素晴らしい黒の陰陽師だ。
黒の陰陽師の力は凄まじく、屋敷には完璧な結界が施されていたので妖怪は近づくことすら出来なかった。
そこで、妖怪は考えた。近づけぬのなら近づく事ができ、よく知る者に殺させればいい。
どういう事か分かるか?昌景」
紅天狗は横目でジロリと僕を見た。銀色の瞳が爛々と燃え上がり、少し恐ろしかった。
「妖怪ではない…者に…殺させる?
その…人間…?」
「そうだ。
妖怪ではない者、陰陽師である黒の陰陽師をよく知る者、つまり陰陽師だ。
陰陽師が、人間を、殺すんだ。
己の世界を、己で、終わらせる。
だから、神は、助けない。
その決断を、人間自らがしたのだから。
妖怪共は神の恐ろしさをちゃんと分かっていた。
そこで妖怪は、とある濁った目をした陰陽師に目をつけた。黒の陰陽師を見る瞳が、いつも嫉妬心で燃えていたからだ。人間の男の嫉妬とは、醜く恐ろしいものだな。
かつて2人は友だった。
黒の陰陽師にとっては、男は大切な友だった。
共に陰陽道を学んで励まし合い、年老いても変わることなく一緒に笑い合っていける友だと思っていた。
だが、男は黒の陰陽師が思っているような男ではなかった。
男はプライドが高く、自分本位で欲深く、さらに嫉妬深かった。
若かりし頃の黒の陰陽師は体が弱くて小さく、何をやらしても失敗が多かったから、他の者からよく揶揄われていた。
そんな黒の陰陽師を、男はいつも庇った。
だが男は心の中でほくそ笑みながら「相手を庇う」ようなクソだった。そうすることで自分に酔いしれていたのだ。
男にとって、黒の陰陽師は自分を引き立てる「引き立て役」だった。自分では出来の悪いと思っている者が側にいることで、自分が良く見えるような気がしていた。愚かとしか思えんが、優越感と安心感を得ていたのだ。
だが、ある時から、男は「妙な違和感」を感じるようになった。
自分よりも、黒の陰陽師の方が、師から褒められる回数が増えたような気がした。頑張れば師が褒めるのは当然だが、男は気に入らなかった。
男は要領がよく理解が早かったので何の努力もせずにこなしてきたが、いつかは限界がくる。
一方、黒の陰陽師は自らを冷静に分析していたので、人一倍努力をしていた。
それがハッキリとした形で現れたのは「式神」だった。
男は式神を呼び出せなかった。
だが、黒の陰陽師は見事に式神を呼び出し操った。
師は、皆んなの前で、黒の陰陽師を絶賛した。
皆んなは褒め称えたが、男は唇を噛んでいた。賞賛の眼差しを向けられていたのは今までずっと自分だったのに…と思うと、受け入れ難い現実だった。
別に誰も男を笑わなかったが、男は大勢の前で「恥」をかかされ「屈辱」を味わわされたように思った。
黒の陰陽師が笑顔を見せると、自分を笑っているのではないかと思った。
だが黒の陰陽師は、男も友の成功を自分のことのように喜んでくれていると思っていたのだ。彼はいつも友の成功を心から喜んでいた。それこそが真実の友なのだから。
だが、違った。これが、決定的な差だった。
友の成功を喜べる者と喜べない者。
男は喜べず、怒りすら感じていた。
努力をしなかった己に怒りを感じずに、自分に恥をかかせた友に怒りを感じ許せなかった。今まで散々庇ってやったのにと憎らしく思っていた。
それから男は坂道を転げおちるような人生を送ることになる。
誰でも失敗はする。
多くの者は失敗から学ぶことが出来るのに、男には出来なかった。今まで何の苦労も努力もせずに他人を馬鹿にしながら歩んできたどうしようもない男には、自分に何が足りなかったのか考えることが出来なかった。
一体どんな汚い手を使ったのだ?
俺の邪魔をしたのではないか?
とばかり考えた。
自らを省みず他人のせいにばかりしていたら、心はさらにドス黒くなった。
「何らかの力によって黒の陰陽師の隣で失敗させられる自分」を常に心に思い浮かべるようになった。すると、そうなるように動いていく。けれど、男はソレには気づかない。失敗するたびに男の自信は崩れていきプライドはズタズタになった。男が現実を受け入れて改心すれば、2人は手を取り合って帝を支えられる存在になれたかもしれなかったのに…男は自らその道を断ったのだ。
一方、黒の陰陽師はその後も努力を怠ることなく励み続け、華々しい道を歩んだ。陰陽師の頂点に立ち、名だたる貴族からも尊敬され影響力があった。立派な屋敷に住み、綺麗な妻をめとり、可愛い子供にも恵まれ、何不自由のない生活を送っていた。
それを見た男は崩れかかった荒屋で、黒の陰陽師を妬み続けた。
激しい嫉妬心は、現実を歪めた。
黒の陰陽師さえいなければ自分が手にしていたのに…
俺の方が優秀なのに、黒の陰陽師が汚い手を使って邪魔をしたからだ
黒の陰陽師さえいなければ…
と、何度も呟いた。
陰陽師が吐いた言葉だ。それは、呪詛になる。
ついに狂気は男の髪を真っ白にしてしまい、男を白髪の陰陽師と化えた。
妖怪達は舌舐めずりをしながら喜んだ。
冷たい雨の降る月夜だった。
道に迷い妖怪に追われているという壺装束を着た女が、男の荒屋に現れて助けを求めた。「供の者とはぐれてしまったのです。殺されたのかもしれません」とかなんとか言いながら、雨に濡れた市女笠を脱いだ。この世のものとは思えないほどに艶めかしい女だった。
まぁ…妖怪だからな。食った美しい女の部位を思い描きながら、化けでもしたんだろう。
濡れた瞳で上目遣いに男を見て「助けて」と男の胸に飛び込んだ。逃げ惑った風を装いながら荒い息を吐いて細い肩を震わせ、男の庇護欲を煽った。
どう考えても怪しい。怪しすぎる。
だが、それ以上に久しぶりの女の白粉の香りが堪らなかった。長くて美しい黒い髪が雨に濡れて光ると、男は堪えきれずに久しぶりの女の髪に触れた。
腕の中にすっぽりとおさまる女を感じると、男の理性は吹き飛んだ。
さらに「頼られた」という事が、嬉しかった。
女を荒屋にいれ、怯えたように震える女の肩を抱いた。女が嫌がる素振りを見せないでいると覆い被さり、紅が塗られた唇に自らの唇を重ねた。朝になるまでセックスをし、女は男の耳元で甘い言葉を囁いた」
紅天狗はそこまで言うと、深い溜息をついた。
「白の陰陽師は、一夜にして女に夢中になった。
女のあらゆる言葉が心地よく耳に響き、男としてのあらゆる自信を取り戻させた。柔肌以上に女の言葉は、骨と皮だけの男に病的なほどの生気を蘇らせた。
それは、己が願った言葉だったからだ。
貴方は素晴らしい。黒の陰陽師よりも、貴方の方が、陰陽師の頂点に立つに相応しい…と女は何度も甘ったるい声で囁いた。
誰かに言われたかった言葉…欲しくて堪らない最高の名誉と地位。
それを自分の方が相応しい男だと艶めかしい女が言ってくれるのだから、男は堪らない。
そして女は白の陰陽師の荒屋に棲み着くことになった。妖怪達にとって最高の拠点が出来たわけだ。
時折女は忽然といなくなり、また何事もなかったかのように現れると、何処から得てきたのかも分からない財を宿代として白の陰陽師に手渡した。
どう考えても可笑しい。
ところが白の陰陽師は黙って受け取った。どこからそんな財を得てきたのかよりも、明日の生活を心配しなくて良くなったことを喜んだ。
日に日に生活が豪華になっていくのが嬉しかった。
荒屋ではなく立派な屋敷に住み、美味い酒を飲み、隣には甘言だけを囁く艶めかしい女がいる。
なにより女が来てから、妖怪を面白いぐらいに仕留めることが出来るようになった。手にとるように居場所が分かり、次から次へと「1人」で退治することができた。
この女は俺に運を連れてきたと自らが望むように解釈した。「見てみろ!これこそ俺の本来の実力だ!」と雨に打たれながら大声で叫んだりもした。
今までそんな事はなかったのに「突然」思い描いていた世界が広がった。
白の陰陽師は得意げに宮中を歩き、高慢な態度で自らよりも位が低い者を見下しては罵り、傲慢に振る舞い始めた。煽てられるとすぐに自らの病的な力を見せびらかした。白の陰陽師の周りには似たような人間ばかりが集まった。薄汚い人間ばかりがな。
努力をせずに得られるものなど、何もない。
己で築いた道でなければ、すぐに道は崩落する。
だが白の陰陽師はそれすらも分からぬほどに有頂天になっていた。ただ男は喜び、欲望は飽きたることがなかった。
その度に女の妖怪に魂を吸われていく」
紅天狗はそこまで言うと、空を見上げた。
先程まで燦々と照っていた太陽の日差しが陰った。不穏な分厚い雲が流れていき、太陽が隠されようとしていた。
「黒の陰陽師が、ソレに気付かないはずがない。
他の優れた陰陽師も、そうだ。
黒の陰陽師は白の陰陽師の屋敷に見つからぬように式神を送りこんだ。女の姿をした妖怪に魂を吸われていたと式神が報告すると、分かってはいたことだが黒の陰陽師は悲しみのあまりに両手で顔を覆った。どうして…もっと早く動かなかったのかと自分を責めた。
空が白み、陽の光を見ると、黒の陰陽師は決意した。
まだ、間に合うかもしれない。処罰が下る前に、せめて陰陽師として自ら罪を悔い改めさせ、友に罪を償わせなければならないと決意したのだ。
それから何度も手紙を送り屋敷も訪ねたが、白の陰陽師に友の心が届くことはなかった。そればかりか女に吹き込まれ、黒の陰陽師が自分の成功を妬んでいると思うようになった。ポッと出てきたような女よりも、長年の友を信じねばならないのにな。まぁ…白の陰陽師にとっては最初から友ではなかったか…。
そうして、ついに、全てを失う日がやってくる。
白の陰陽師の黒い噂が帝の耳に入り、宮中に呼び出されたのだ」
紅天狗はそう言うと、もう見えない太陽を仰ぎ見た。
太陽はすっかり分厚い雲に隠されて空は淀んで辺りは暗くなった。赤い紅葉が冷たい風でザワザワと揺れ、僕は思わず身震いした。
「帝の隣には、黒の陰陽師がいた。
その姿を目の当たりにして、白の陰陽師は激高した。
自分ではどう足掻いても手に入れることが出来ない帝の信頼を得ている姿を、大勢の前で見せつけられたような気がした。
あの時が、蘇った。
師の顔が、思い浮かんだ。
黒の陰陽師が褒め称えられ、自分は大勢の前でまたコケにされるという恐怖に駆られた。
帝から冷たい視線を投げかけられると、あの時の忌まわしい全てが蘇り、黒の陰陽師にまた何もかもを潰されると思い込むと自制が利かなくなった。
白の陰陽師は訳の分からない大声を上げると、化け物のような形相で帝に襲い掛った。帝が悲鳴を上げると、白髪はさらに逆立ち、大きく開けた口からは牙のようなものが伸びて、体は大きくなった。
黒の陰陽師は、すかさず呪を唱えた。
帝の御身を守ろうとする呪だ。
だが、白の陰陽師の真の狙いは違った。
すかさず自らの牙をへし折り、人間の姿に戻ると、黒の陰陽師の体を牙で刺したのだ。
黒の陰陽師は、人間を、殺さない。彼ほどの力があれば人間を呪い殺すことなど容易いが、彼は生命の尊さを知っていた。だからこそ、陰陽師の頂点に立ったのだ。
陰陽師である彼は人間を守ることに全力を尽くしていたのだから。
白の陰陽師は、ソノコトヲ、よく知っていたのだ。
急いで武士が助けに入ろうとしたが、女と交わり続けたことで男の体に染み込んでいた体液が変化して、男のあらゆる穴から化け物が噴出した。化け物は向かってくる武士に襲いかかり、刀を持つ腕を食いちぎった。
血に染まった男の全身からは白い煙が立ち昇り、人間と妖怪の邪気が渦巻いて訳の分からない叫び声を上げ続けた。
なぁ…昌景…俺はこう思ったんだ。
黒の陰陽師は…どれほど力を手にしようが人間だった。
友情を信じていた。
いや、もしかしたら幼い頃、何度も自分を庇ってくれた背中に友情以上のものを感じていたのかもしれないな。
憧れていたのかもしれない。自慢の友だった。黒の陰陽師のヒーローだった。
その背中が忘れられず、自分のヒーローにかえってきて欲しかった…のかもしれないな…。
感情とは…複雑だな。
どうしても…感情が邪魔をする。
殺してしまえばいいのに…殺せない。全ての感情を燃やし尽くして殺してしまえば、こんなにも…苦しまずにすむのにな」
紅天狗はそう言ってから、声高らかに笑い始めた。
男の笑い声に合わせて揺れる紅葉が炎のようで、僕がギョッとした顔をすると、男はピタリと笑うのをやめて流し目で僕を見た。
「白の陰陽師は捕らえられた。
言動には責任が伴う。
犯した男は、その責任を取らねばならないな?」
紅天狗は恐ろしい瞳をしながら低い声で言った。
同意を求められ、僕は思わずコクリと頷いた。男が罪人に求める責任の取り方は、たった一つしか無い。
それを僕は…昨日…恐ろしいまでに思い知らされた。
淀んだ空がゴロゴロと音を立てた。
「白の陰陽師の最期を見せてやろう」
紅天狗は僕の瞳をじっと見てから、真っ赤に咲き誇る紅葉に視線を移した。僕もその視線の先を…追った。
赤い紅葉が滴り落ちる血のように、地面に堕ちていった。
堕ちた赤い紅葉は、もう2度と咲き誇ることはない。
堕ちた赤い紅葉に沢山の黒い鴉が群がり、鳴き声を上げながら葉脈を執拗なまでに痛めつけ軋むような音を上げるのを愉しんでから、我先に啄ばみ始めた。
あとには…何も残らなかった。
「黒の陰陽師が息を引き取ると、白の陰陽師の姿も牢から消えていた。
牢番の姿もなく、その場は血の海と化していた。
黒の陰陽師の死を哀しみ、星すらも輝きをなくした夜、妖怪の恐ろしい瞳だけが光り、不気味な声が響き渡った。
黒の陰陽師が、死んだ
もう、いない
何も、恐れることはない
もう、用無しだ
…とな。
白の陰陽師を縛りあげて連れ帰った妖怪は、生きたまま男の肉を食らった。苦しみのたうち回る姿を見て愉しんだ。
妖怪にとって、最高の夜だった。
2つ、手に入れたのだから。
最強の黒の陰陽師の死と、醜く肥え太った極上の男の肉を。
人間にとっては、絶望の夜だった。絶望の始まりだった。
帝は床に臥せられ、宮中は底知れぬ深い悲しみで包まれ、激しい動揺が走り誰も何もする事が出来ずに混乱するばかりであった。黒の陰陽師は力もさることながら精神的支柱でもあったのだ。「この御方さえいれば頑張れる。戦い続けられる」という彼等の太陽だった。
だが、太陽は沈んだ。
太陽が沈めば、闇が広がる。
人間の世界には、恐ろしい闇が垂れ込めた。
それから妖怪は混乱に乗じて、すかさず残された陰陽師に襲いかかり、殺し尽くした。
もう、妖怪は誰にも止められなくなった」
紅天狗がそう言った瞬間、何処かの木にとまっていた鴉が大きな声で鳴いた。漂う重苦しさがますます増していき、僕は押し潰されそうな気持ちになった。
「百鬼夜行は続く。
どんどん妖怪の侵攻は続いていく。
人間はみるみる減っていったが、自分達の世界を守ろうと立ち上がる者はいなかった。
残された人間は怯え震えながら、神に祈るだけだった。
だが、神は祈りだけで願いを聞いてやるような存在ではない。神達は「人間が」どうするのかを、冷たい瞳で見ているだけだった。
「助けて!
人間の世界を妖怪が蹂躙しようとしている!」
と叫んだところで、守る意志と戦う力がないのならば声は届かない。
「自らの世界を守れない者に、世界は必要ない」
とばかりに神は見ているだけだった。
人間が立ち上がるのを。
大地が震えるのを。
さもなくば大地が血に染まり、最後に残る人間が誰なのかを。
けれど人間の悲鳴が響くたびに、悲しい瞳をする心美しい女神がいた。その女神は、何もかもが美しかった。心も顔も髪も、そして…身体もな。
「人間を支援しよう」と、女神は何度も神々の集まる会議で訴えたが、誰も頷こうとはしなかった。立ち上がろうとしない人間を支援するなど、神々は許さなかった。
「何の為に妖怪に力を与え、人間に知恵を与えたのか」
と、神々は冷たく言い放った。
だが満月の夜、小さな兄弟が妖怪に追いかけられて、とある山に入り込み逃げ回っているのを女神は見てしまい、ついに救いの手を差し伸べてしまった。下界に降り立ち、直接力を行使し、妖怪を追い払った。女神が振り返ると、兄弟はもうそこにはいなかった。
この瞬間、激しい雨が降り、大地を引き裂くような雷が鳴り響いた。
神が、人間にだけ、味方をした。
人間は動物を殺す。妖怪が人間を殺す。ただの食物連鎖だ。
それなのに支援以上に、直接介入して人間を助けたのだから、他の神々は激怒した。
女神は責任をとらねばならない。この現状に、女神の力だけで、幕を下ろさねばならない。
女神は妖怪を追い払う力はあっても、それ以上の力はなかった。
そこで、女神は異界を作った。
異界の入り口をその山の奥深くに作り、二つの世界を繋ぐ結界橋と結界門を作った。そして残された力の全てを使って妖怪を異界へと追い払い、結界門を閉じて鍵をかけた。
そして結界橋の中央には、心強い女神の使いが鎮座した。
こうして女神は山の神にもなり、人間の世界には平穏が訪れた。
やがて妖怪は想像上の化け物となり、妖怪が人間を食らって多くの人間が死んだという事実は歪められた。2人の陰陽師の存在ごと消され、多くの人間が死んだのは疫病や天災などが原因だとして伝わっていくことになった。よりにもよって宮中で、帝の前で、そのようなコトがあったと記述されることはなかった。
いや、人間は忘れたかったのかもしれない。
だが、歴史は歪めてはならんのだよ。歴史は直視しておかなくてはならない。綺麗であったとしてはならない。歩いてきた道で、綺麗なものなんて何もないのだから。
妖怪が想像上の化け物となり、恐怖を忘れると、夜の闇は人間の欲望をとどまる事なく激しく掻き立てるようになった。
皮肉なものだな…昌景。
だからこそニオイが異界にまで届き、妖怪は動き出したのかもしれない。
妖怪は、どれほど何月が経とうが、人間の味が忘れられなかった。門の向こうから漂ってくるニオイが日に日に強くなってくると、ニオイのモトを食べたくて食べたくて堪らなくなった。
不満は激しい怒りへと変わり、口から涎を垂らしながら門へと押し寄せた。怒りは力になり、力で破壊しようとした。何日も何週間も何ヶ月も…何年も…奴等は力を加え続けた。門の前で、その瞬間を、待ち続けた。
ある日、その願いが聞き届けられたかのように、門に僅かな亀裂が走った。門を守るはずの女神の使いは深い眠りにつかされていて、目を開けることはなかった。
亀裂から人間の世界の光が漏れてくると、妖怪は雄叫びを上げた。
あらゆる妖怪が集結して押し合いながら亀裂を広げて門を破壊すると溢れ出し、結界橋を難無く渡って山を降りると、手当たり次第に人間を食い始めた。
別の神に呼ばれていた女神が急いで戻ってくると、妖怪を異界に追い払おうとしたが、まだ力が回復していなかった。それほど力の強い女神ではない。異界を作ったことによる力の消耗は激しかった。1人で新しい世界を作ったのだから、当然だ。
女神は言葉で説得しようとしたが、言葉など通じるはずがない。通じる連中ならば、はじめからやらない。
殺しと食うこと、そして力が全ての連中だ。
力とは、恐怖だ。妖怪を圧倒させるほどの力を示させねばならない。
女神は震えながら、妖怪に異界へと戻るように叫び続けるだけだった。溜まりに溜まった欲望が放出されたことにより、事態は異界を作る前よりも悪化した。
そこで、だ。
女神の前に、とある神様が現れた。
その神様「だけ」が手を差し伸べ、微笑んだ。
女神になりかわって自分が新たに山の神になり「人間を助けよう」と手を差し伸べて「全てを任せて欲しい」と優しい声で語りかけた。
ハラハラと美しい涙を流している女神に寄り添った。
まるで弱った女の肩を抱く男のようにな」
紅天狗はそう言うと、僕をチラリと見た。
僕が少し首を傾げると、紅天狗は今にもハラハラと散っていこうとする一際美しい赤い紅葉を指差した。
「男とは、そこまで善良な生き物ではない。
俺だって、そうだ。
欲しいモノを見つければ、何としても手に入れる。
欲しいモノを見つければ、手に入るように根回ししておく。
会議なんてもんはな、開かれる前にもう勝負はついている。座る前に、全てが終わっているんだよ。
時間をかけて追い詰めていき頼るところが俺しかいないと思わせれば、あとは簡単だ。
守らねばならないものがあるのならば、その提案を受け入れるしかないと思うだろう?
分かるな?昌景」
と、紅天狗は続けた。
舞い散った美しい赤い紅葉は側に寄ってきた一羽の猛々しい鴉によって弄ばれ、乱暴に引き破られた。紅葉は痛みに苦しみながら小さな悲鳴を上げ、真っ赤な血を流した。
「女神は、手を握った。
これで、契約が結ばれた。
契約書は目を皿のようにして読まねばならないのだが、そんな時間も心の余裕もなく、震える手でサインをするしかなかった。
こうして、山の神様は女神から男神にかわった。
次の日、山の神様は自らの庭で飼っていた「狗」を従えて、山に現れた。
獰猛に育て上げた狗の力を見たかったのと、友である海の神の狗とどちらが強いのかを競わせたかった。
人間の肉を食らった妖怪は、強い。
存分に、愉しめるだろう。
海の神も狗を従えて現れると、2匹の狗を「妖怪が恐れる者」に化えた。
人間に似た姿を与え、肉を斬り骨を断つ為の刀を与え、背中に白い翼を生やした。そして、最強の扇を持たせた。
妖怪が恐れた最強の黒の陰陽師と同じように、扇を持たせたのだ。まさに、恐怖の象徴としてな。
さらに山の神様は自らの黒い髪を一房切り取り、恐れる者に「自由に使え」と手渡した。恐れる者は四方八方に散らばっている妖怪の動きを知る為に、自由に空を飛び回れる「鳥」へと願った。
黒い髪は黒い鳥となった。そう…カラスとなった。
こうして人間を追いかけていた妖怪が今度は追いかけられる側になった。恐れる者を一目見た妖怪の多くは、戦う前に恐れをなして異界へと戻っていったが、歯向かおうとする異常な妖怪もいた。異常者だ。
そこで恐れる者は異常者の体を真っ二つに斬り裂き、燃え盛り全てが無になる前に心臓を掴み取った。心臓が無ければ目玉だ。目玉がなければ耳を。耳がなければ…というふうにな。
白い翼を紅に染め、全身から血を滴らせて臓物を握りしめる姿を見ると、異常者もついに恐れをなして異界へと帰っていったのさ。
後に残った恐れる者は殺した妖怪の臓物にまみれながら、互いに殺した数を自慢し合った。決着がつくと扇で煽って火を起こし、腐った臓物は悪臭を放ちながら燃え上がり、烈しい炎となった」
紅天狗はそう言うと、大きな右手を見つめた。
その大きな手なら、どのような物でも握ることができるだろう。男の腕は太くて血管が浮き出ている…丸太のように太い腕だ。
僕はその場に座っているのが怖くなった。
否、紅天狗の隣に座っているのが、怖くなった。
僕は自分でも止められないほどに震えていた。紅天狗の右手の中に恐ろしい幻を見ると、気持ちが悪くなってきた。
「昌景、大丈夫か?
まだ話しても、大丈夫か?」
と、紅天狗は言った。
恐ろしい物を掴み取ったことのある右手を僕の腕に置いた。今も…そうなのかもしれない。右手からは握り潰された生命の鼓動を感じた。重たくて苦しかった。
相手は妖怪だ…人間を殺し食う妖怪…けれど死と背中合わせで生きてきたことのない僕にとっては恐ろしくて堪らなかった。
「大…丈夫。
ちゃんと…聞かないと…いけないから」
僕はそう言いながらも、自分の声が引き攣っていることに気がついた。
男の右手が置かれた僕の腕はガクガクと震えていた。
紅天狗はチラリと僕の表情を確認してから、口を開いた。
「いつかまた妖怪は門を破壊して攻めてくるかもしれない。その時に備え、恐れる者がそのまま山に棲みつき門と橋を守ることになった。
だが恐怖という感情は、妖怪の抱く感情の中で最も薄い。
時がたてば、奴等は忘れていく。
漂うニオイが濃くなるたびに、門を引っ掻く爪の音が聞こえ始めた。
どうしようもない奴等だ。
だから、また門を破壊しコチラの世界に侵略を行えば、どういうことになるのかを明白に認識させることにしたんだ。
そう…爪の音がするたびに、山の神様がお選びになった妖怪を惨殺することにした。門への攻撃を受けるたびに報復する。
全て、山の神様の名の下に、殺す。
何処に隠れていても必ず見つけ出す。
恐れる者は、恐怖の象徴でなければならない。他を圧倒する絶対的な力を保持し続けなければならない。
どんなに綺麗事を言おうが、力がなければ、何も守れない」
と、紅天狗は言った。
僕は紅天狗の腰の刀を見た。
それを見ると、どんどん気持ちが悪くなってきた。
あの時、神木の下で綺麗だと思った刀が、そんな恐ろしいものであるとは思わなかった。刀とは、生命を奪うものである。それなのに僕はその事を忘れていた。
そして、ようやく短刀のようなものの正体が分かったのだった。
「だが、ただ守らせているだけではいけない。
本来は、人間が自らの手で、自らの世界を守らねばならないのだ。
それが出来ないのだから、従ってもらう。
他者に守らせているのだから、代償がともなう」
そう言った紅天狗の赤い髪が冷たい風に吹かれて揺れた。
淀んだ空はゴロゴロと鳴り続け、凄まじい光がいく筋も走り、男を恐ろしく照らした。
「妖怪が恐れる者とは誰なのか、分かったか?
答えろよ、昌景」
と、紅天狗は言った。
僕はなんとか口を動かそうとしたがうまく出来なかった。総毛立ち、唇がヒクヒクと震えるばかりだった。
悪戯に時間が流れていき、鴉が時折急かすように鳴いたが、紅天狗は黙って僕の答えを待っていた。
僕は答えなければならない。
長い時間をかけて、ようやく目の前の男の名を口にした。
「そうだ、俺だよ」
紅天狗はそう言うと、爽やかに微笑んだ。
その爽やかな微笑みに、僕は衝撃を受けた。
ゴロゴロと鳴り響く雷の音も鴉の鳴き声も何も聞こえなくなった。自分の心臓の音だけがドクンドクンと激しく聞こえるような気がした。
妖怪は確かに恐ろしい存在だ。人間を殺し食う恐ろしい存在だ。けれど、それ以上に紅天狗が恐ろしい。抑止力でありながら、この男こそが恐怖そのものだった。
僕の頭の中に宗家の人の言葉がよぎった。
「天狗様を怒らせてはならない」という言葉がよぎったのだった。
それと同時に「禍が降り注ぐ」という言葉が…心に引っかかった。
「お前はそんな俺と共に異界に行くんだ。
だから、恐れることはない。
どう思う、昌景?」
「そう…そう…だね…。
紅天狗は僕達人間にとっていい天狗…だからね…」
僕は天狗を怒らせないように言葉を合わせていた。
声は上擦り顔は引き攣り、僕は恐怖を前にして屈服するだけだった。
「俺は、いい天狗じゃない。
昌景、この話には続きがある。
ここからが重要で、複雑だ」
と、紅天狗は言った。
「続き…?複雑って…どういうこと…?」
僕が言い終えないうちに、ポツポツと雨が降り出した。
軒先から水が滴り落ちてくると、僕の足に当たった。やがて雨は絶え間なく降り出し、紅葉の絨毯の色をより鮮やかにした。
紅天狗はしばらく地面の窪みの水たまりに浮かぶ紅葉と波紋を見つめてから、荒れ狂う空を見上げた。
男はゆっくりと瞳を閉じてから、銀色に輝く瞳を開け、僕を見た。
「山の神様は、邪神だ」
紅天狗は、短く、それだけを答えた。
邪神
その言葉は、僕の心に重くのしかかった。
恐ろしいその響きは、僕にその言葉の意味を確かめるさせる勇気をなえさせた。僕はそれ以上のことは、何も聞けなかった。
「そろそろ行かねばならない。
昌景、俺の盃を盗んだ妖怪の姿は見たのか?声と感触だけか?」
と、紅天狗は言った。
「姿は…はっきりとは…見なかった。
でも、ちぎれた仲間の腕や胴体は…見た」
「そうか。
ならば、教えてやろう。隠してもしょうがないからな。
俺の山に無断で入った異常者はアノヤロウしかいない。
沢山の仲間を殺して強烈な血の臭いで黒堂を充満させて撹乱し、床板の僅かな隙間に力を忍ばせていた。
色が変わり始めたことによって山にやって来るであろう選ばれし者を、俺がいない間に殺そうとした。
それは…」
紅天狗は見たこともないような恐ろしい表情になった。
降り注ぐ雨が横殴りになって、紅天狗の灰色の翼を濡らした。
僕は、紅天狗の答えを待った。
息をするのが、苦しくなった。
僕達は、どんな妖怪から盃を取り返すのだろう?
「鬼だ。
人を食らう妖怪の中で、最強の存在。
昌景が黒堂で感じたのは、鬼の力だよ」
紅天狗は濡れた灰色の翼を広げて、真っ直ぐに僕の目を見据えた。
僕の心臓が激しく揺れた。
僕は息もするのも苦しくなってゼェゼェと肩で息をした。
右手も「鬼」という言葉に激しく反応して捻じ曲がったかのように痛くなった。激痛で顔を歪めると、紅天狗は僕の右腕をそれ以上の強い力で掴んだ。
「恐れるな、昌景。
ソレは、俺がお前に触れたことでもう取り除いた。己に負けるんじゃない。
俺が、昌景にしてもらいたい事を話す。
盃は、札が貼られた棚の中に祀られていた。
札は強力で、妖怪は棚にも触れない。仲間を犠牲にして棚の上部を引き剥がし、仲間の腕がついたまま風呂敷に包んで持って行ったのだろう。
俺もな、触れないんだ。
だからお前が札をはずし、棚の扉を開けて、盃を取り出して欲しい。
それが、お前の役割だ。
選ばれし者である人間の男の重要な役割だ。
自らの世界を自らが守る為のな。本来はそうでなければならない。自分の世界を誰かに守らせてはいけないだ。
これ以上色が変わる前に、なんとしても俺は盃で酒を飲まねばならない。
簡単に思えるかもしれないがな。これは非常に難しい事なんだ。臆する事なく、あらゆる恐怖に立ち向かわなければならない。
不屈の闘志を持って、自らを駆り立てなければならない。
心を鍛えるんだ。どこまで準備出来るかで、生死が決まる。
他の事は、俺がやる。俺の役割だ。
いいな?
お前の役割を、心に刻んどけ。
そうして、共に戦おう」
紅天狗は銀色の輝く瞳で僕を見つめて低い声で言った。
ー共に戦おうー
僕の心に、その言葉を刻み込むように。
僕の体の変化が完全に止んだのを見ると、紅天狗は翼を広げるのをやめて爽やかに微笑んだ。
「今日話しておかないといけない事は全て話した。
続きは、また今度な。
カラス、来てくれ」
紅天狗は大声を上げて、袴の人を呼んだ。
静かな足音が聞こえきたので後ろを振り返ると、袴の人が黒い布に包まれた何かを大事そうに持っていた。
「今から、昌景と共に、異界に行ってくる。
門が開くから、皆んなを下がらせろ。
カラス、お前もな。
いつもの場所に、いろ。
そこを、動くな」
そう言った紅天狗の眼光は厳しかった。
「分かりました、主人様。
こちら言われていたお品です。
お気をつけて、無事を祈っております」
袴の人はそう言うと、黒い布を手渡した。
「ありがとな、カラス」
紅天狗がそう言うと、袴の人は微笑みを浮かべてから僕達が食べていた食器がのった盆を持って立ち上がった。
「桔梗を、昌景の部屋の花瓶に頼む」
紅天狗も立ち上がると、まるで大切なものを扱うように桔梗の花をそっと袴の人に渡した。
袴の人が頷くと、紅天狗は盆と花を持つ彼女が通れるように襖を開けた。袴の人は、足早に去っていった。
しばらくすると、大きな鴉が空を舞った。
山中に響き渡るような大きな羽音がすると、至る所から鴉の鳴き声が聞こえて騒々しくなった。
「俺達もそろそろ行こう」
紅天狗は黒い布を小脇に抱え、逞しい腕で刀の柄に触れてから歩き出した。
激しく降った雨は止み、僕達はぬかるんだ道を歩き出した。
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