第4話 笛
美しい桔梗が咲く庭園を通り過ぎると石畳の道となったが、ここには天狗の像はなく、燃えんばかりの紅葉のトンネルが続いていた。
見上げれば1枚1枚の葉がくっきりと陽光に浮かび、赤と橙と黄色、そして空の青色が迫ってくるようだった。
立ち止まって綺麗な紅葉のトンネルを堪能したい気持ちに何度も駆られたが、紅天狗はズンズンと進んでいくので、僕も歩き続けるしかなかった。天狗の歩みを止めることは、僕には出来なかった。
途中、錆びついたような大きな鐘があった。
沢山の鴉達がその鐘を守るように目を鋭く光らせていた。紅天狗の姿を見ると一斉に鳴き声を上げた。
紅天狗が片手を上げると、鴉達は儀仗兵のように一死乱れぬ美しい動きをした。
しばらく歩くと、ひっそりと佇む木造のお堂のような大きな建物が見えてきた。その建物の屋根を覆うように垂れ込める一際大きくて美しい真っ赤な紅葉の木の下で、紅天狗は立ち止まった。
「あぁ…綺麗だ」
紅天狗は目を細め、まるで愛しい女性に囁きかけるかのような声色で、男もまたその美しさに見惚れていた。
「着いたぞ。
この部屋、気に入ったか?」
と、紅天狗は言った。
僕は一瞬キョトンとしたが、ここは僕が寝ていた場所だった。
昨夜は薄暗い月明かりの下だったので分からなかったが、陽の光の下で見ると、垂れ込める真っ赤な紅葉によってお堂が守られているかのように感じた。
「あっ…はい…。
いい…部屋でした。すごく…」
僕は上擦った声で答えた。天狗に対してまだまだ緊張していた。
紅天狗はそんな僕を見ると、苦笑いをした。
「おい、大丈夫か?もっと楽にしろよ。
ほら、座ろうぜ。
紅葉が、一番綺麗に見える場所を教えてやるよ」
紅天狗はスタスタと歩いて行き、軒下にドカリと座ると、片膝を立てて手招きした。
「来いよ、昌景」
紅天狗は優しく微笑んだ。
軒下で、紅天狗と共に見る紅葉はさらに色鮮やかで、風にそよぐと、火花をあげて燃え上がる美しい炎のようだった。先程はじめて外に出て感じた時よりも、強烈にそう感じた。
咲き誇る赤の紅葉は、情熱的で狂おしい。それでいて、見ている者をあたたかく包み込むような強さがあった。
僕も「こうなりたい」と思った。僕も情熱的な感情を抱きながら「何か」と戦わなければならないと思ったのだった。
紅天狗の隣で見る紅葉は美しいだけではなく、僕の心に様々な感情を抱かせた。圧倒的な男の力を側で感じ始めたことによって感化され、この瞬間、微かに火がともったのだった。
赤の紅葉が風に吹かれて高く高く舞い上がると、それに合わせるかのように黒い鴉が楽しそうに飛び交った。
「ここで食うのが、一番美味い」
紅天狗は嬉しそうに言った。
(こんな景色を見ながら食事をするなんて…、本当に贅沢だ)
僕は何と言ったらいいのか分からず、目を輝かせながら深い深い溜め息をついた。
言葉にしなくても、僕の心の内は紅天狗には分かっているのだろう。この山に来てから、本当にいろんな事に驚かされるばかりだ。この先も、きっとそうなのだろう。
何も遮るもののない特等席で、僕達は紅葉を見つめていた。散った紅葉も、美しく荘厳な絨毯を作っていた。
しばらくすると、衣摺れの音が聞こえてきた。
音のする方を振り返ると、袴の人が盆に食事をのせ、紅天狗の背中を見ながら微笑んでいた。
袴の人は膝を折って座り、静かに盆にのせていた皿を置くと、少し顔を赤らめながら紅天狗の方をチラリと見た。皿にのせられていたのは、崩れかかったオニギリ4個と胡瓜の漬物のようなもの、焼きすぎて茶色くなった卵焼きだった。
(これなら…僕の方が上手かも…)
兄のように彼女に料理を振る舞えるような腕ではないけれど、携帯でレシピを見ながら僕も料理をしていた。よく作っていたメニューは今も頭に残っているから、レシピを見なくても作ることができる。袴の人が料理が苦手ならば、僕に出来ることが見出せたように思った。
この山で一緒に暮らすのだから、僕も何かしないといけない。「僕が作りましょうか?」という言葉が思わず出てしまいそうになった瞬間、紅天狗が口を開いた。
男の口から出てきたのは、感謝の言葉だった。
「いつも、ありがとな」
紅天狗が袴の人を見ながら優しくそう言うと、袴の人はさらに赤くなった顔を盆で少し隠しながら嬉しそうに微笑んだ。
魅力的な瞳に、さらに輝きが増した。
その瞳が何を物語っているのか、男ならば誰もが気付くだろう。否、気付かないはずがない。
だが、その笑顔を見ても、紅天狗は全く変わらなかった。
一方、僕はその笑顔を見ていると、先程の僕の考えは「違う」と思えてきた。袴の人は「仕事」ではなく、喜んで「紅天狗の為に」料理を作っているのだろう。
それに、ここに来たばかりの僕が「そんな事」を言ってはいけないように思えた。
2人の間のことなど、まだ何も知らないのだから。紅天狗のことも…何も知らないのだから。
「美味いな、カラス」
紅天狗は卵焼きを一口食べると、袴の人に優しい声で言った。その表情は、女性を喜ばせようとする感情から出るものではなかった。心から思っているからこそ、出た言葉だった。
途端に、僕もお腹が空いてきた。
昨日列車の中で朝食を食べたきり、何も食べていなかったことに気がついた。食べ物を入れていた鞄は失くしてしまい、食糧庫を開けてもいいと言われたが、何が入っているのかと思うと開けられなかった。天狗が食べる物が、人間と同じ物なのか僕は怪しんでいたのだった。
「ありがとう」
僕もそう言ったが、袴の人は無表情で僕を見つめて去って行った。
「カラスに何かしたのか?」
と、紅天狗は言った。
(思い当たる点など全くない。
話しかけて恨まれるのならば…悲しすぎる。
紅天狗との生活に割って入るようにやってきたのが気に入らないのかもしれない…。
あの時の…忌々しい者を見るような目つきは…きっと…そうなのだろう…?)
僕は少し悲しくなりながら、紅天狗の横顔をチラリと見た。鼻筋の通った端正な横顔、銀色の麗しい瞳は前だけを見つめていた。
分からないはずがない。
けれど、男の表情からは何も伺えなかった。
昨日の言葉から察するに、紅天狗は袴の人の気持ちを受け入れる気は全くない。自分に好意を向けている女性の気持ちを利用して適当に女として抱き、欲望を満たす類の男ではないのだから。
僕がそんな事を考えている間に、紅天狗はお腹が空いているのかオニギリを1個食べ終わっていた。
「何もしてない…と思う。
してない…してない…よ」
「なら、いい。
一緒に暮らすんだから、仲良くしろよ。
あ?なんだ?その顔?
何か思うところでもあんのか?」
紅天狗はそう言うと、僕の顔を見ながら胡瓜の漬物のようなものを口の中に放り込んだ。
(叶わぬ恋なのだろう…。
優しさじゃないのかもしれない。
ハッキリと線を引いているであろう男は、断るだろう。でも…せめて…)
「鴉じゃなくて…何か…いい名前ないのかな?
他にも鴉は沢山いるから、ちゃんとした名前をつけてあげた方がいいんじゃないかな?」
と、僕は言った。
「あ?なんだよ?
カラスはカラスだろう?
カラスも不満は言ってないぞ」
と、紅天狗は言った。
「そうかも…しれないけど…。
名前をつけてあげたら、袴の人も喜ぶかも」
僕はあくまで食い下がった。
天狗相手に、どうしてここまで強気に出れたのかは自分でも分からなかった。
「じゃあ、カラスに聞いてみろ。
カラスが欲しいって言ったら、昌景が、いい名前をつけてやれ。
俺は、名前は、つけないから」
紅天狗は素っ気なく答えた。
「うん、分かった」
僕がそう言うと、紅天狗は2個目のオニギリを食べ終えてから、皿を僕の目前に持ち上げた。
「お前も、食べろよ。
カラスが一生懸命作ったんだ。
見た目は悪いが、美味いぞ。
この卵焼きなんてな、焦げがだんだんクセになってくる。
毒も入ってないから、安心しろ」
紅天狗はそう言うと、茶色の卵焼きを食べた。
(あ…、それで先に食べたのか…)
僕はオニギリを手に取った。
三角でも丸でもない不思議な形をしたオニギリだったが、一口食べると、たしかに塩加減が絶妙で美味しかった。紅天狗への想いが込められているからだろう。
「な?美味いだろ?」
紅天狗はそう言って、笑った。
その笑顔は少年のようだった。
知れば知るほど、紅天狗は不思議な男だった。
見た目は麗しいのだが、何処か恐ろしくて、そして優しい。
適当なところもありそうだが、正直で、人間でいうところの裏表がない。
いつも自信に満ち溢れていて、少し眩しいぐらいだった。
紅葉の隙間から、太陽の光も燦々と差し込んできた。
辺りはさらに明るくなってポカポカとし始め、紅葉の色がより鮮やかになった。
心地よい風が流れ、そよぐ葉の音を聞きながら、僕はオニギリを頬張り、目の前に広がる優美な風景を眺めた。
美しい紅葉を見ながら、風の音を聞き、ゆっくりと食事をする。こんな風に、ゆったりとした気持ちで食事をするなんて久しぶりだった。
いつも目には見えない何かに追い立てられながら、携帯を片手で見ながら食事をしていたのだから。
それが今では天狗の横で、咲き誇る赤と橙と黄色の紅葉を見ながら食事をしている。
美しい紅葉の絨毯にも目を移すと、小さな鴉が戯れていた。
フカフカの絨毯の上で戯れる2羽の鴉はとても楽しそうで、兄を思い出し、僕の顔に笑みが浮かんだ。
「どうした、昌景?」
不意に笑った僕を見て、紅天狗は不思議な顔をした。
「あの鴉達が楽しそうで、僕まで楽しくなってきたんだ。
仲がいい兄弟なのかな?可愛いよね」
「昌景は、カラスの事を、そう思ってくれるのか?」
紅天狗は驚いた声で言った。
「え?どういう事?」
「不気味或いは不吉とは思わないのか?」
と、紅天狗は言った。
「確かに…そう言ってる人も多いけど、僕は不気味とか不吉とかは思わないかな。マズイと思ったことは…つい最近あったけど。
昔は、神様の使いとか言われてたぐらいだし。
僕は、どっちかっていうと神様の使いだと思う。
鴉は賢いからさ。
あんまりよく知らないのに、皆んなが言ってるからって不気味とか不吉だとかは言いたくないな。
存在を否定する言葉は、僕は誰かに投げつけたくない。
言われた方は、傷つくから」
と、僕は呟いた。
僕の脳裏に両親の顔が鮮明に浮かんだ。
思わず両の拳に力が入った。耳元で、甲高い母の声と蔑む父の声が響いていた。
今でも…僕の心は傷ついていた。
大人の男になった今でも僕は逃れられなかった。両親から離れ、この山に来ても忘れることはなかった。
あの時、僕は両親のことを「狂っている」と思った。
でも、そんな狂った両親から毎日のように投げつけられた言葉は、僕の心を囚えていた。ずっとドロドロの沼地で苦しんで、抜け出せずにいる。
狂っているのだから、その言葉は明らかに「間違い」だ。
けれど…何かのきっかけで、今のように僕は昔に返るのだろう…。僕は、項垂れた。
すると、紅天狗は僕の肩をがっしりと掴んだ。
苦しい思い出よりも、遥かに力強くてほとばしるように熱い紅天狗の手の感触で、僕は我に返った。
紅天狗はおもむろに立ち上がって歩き出し、お堂の中の薄暗い奥の部屋と消えていった。
しばらくすると紅天狗は湯呑みを持って戻ってきた。
乳白色の白磁に、赤と橙色の見事な紅葉が描かれていた。
一人暮らしの部屋で使っていた湯呑みとは格がちがう。デパートで売っているような高級品に見えた。うっかり割ってしまったらどうしようかと思いながら、僕はしばらく柄を眺めていた。
(盃も探しているし、焼き物に並々ならぬこだわりがあるのだろうか?)
「茶は、嫌いか?
これな、美味いぞ」
僕がなかなか飲まないでいると、紅天狗は口元に微笑みを浮かべた。
「あっ、ありがとう。
お茶は…好きだよ」
湯呑みを割らないように気をつけながら恐る恐る口に含んだ。甘みがあって、まろやかな味わいが広がり、本当に美味しかった。
「俺の好きな茶だ」
紅天狗が自慢げに笑うと、白い歯が光った。
「このお茶は誰がいれたの?」
僕がそう聞くと、紅天狗は湯呑みをおいた。
「誰って…?俺だよ。
不味かったか?」
と、紅天狗は言った。
「え?紅天狗が、お茶を…」
僕がそう言うと、紅天狗は不思議な顔で僕を見た。
「茶ぐらい、自分でいれれるだろう?
昌景の口に合わないのなら、別の茶にかえるがな。
沢山貰ったからな」
「いや…そうじゃなくて。
本当に美味しいから、びっくりして。
もしよければ…今度は、僕がいれようか?」
僕はおずおずと言った。天狗に茶をいれさせているなんて…恐れ多い。
すると、紅天狗はまじまじと僕を見つめてきた。
銀色の瞳が大きく見開かれ、鋭く光ったかのような気がした。
「その…客人のように…何もしないのが…申し訳なくて…さ。
お茶は好きだから、いれるのは自信があるよ」
僕は下を向きながら言った。
自信があると言いながら、これほど上手くはすぐにはいれれないだろう。温度を確かめ時間を計ってからいれても、すぐにこの絶妙な味が出せるとは到底思えなかった。
紅天狗は何も言わなかった。
奇妙な沈黙が流れると、僕はゆっくりと顔を上げた。男は妙な目で僕を見ていた。
「やめてくれ。
茶ぐらい、自分でいれれる。
俺はな、なんでも出来るんだ」
紅天狗はそう言うと、湯呑みを強く握り締めながら茶をグイッと飲んだ。太い腕の血管に力が入り、繊細な湯呑みが割れてしまいそうだった。
男は僕から目を逸らすと、ハラハラと舞い落ちる紅葉を見つめて、髪をクシャクシャとしてから黙り込んだ。
僕は何か気に障るような事を言ってしまったのかと思ったが、男は怒ってなどいなかった。
男は湯呑みをクルクルと回していた。
力強い男の手で弄ばれるモノを、悲しい瞳で見つめていたのだった。男の気が変われば、簡単に粉々にされるだろう。
見ている者の方が、切なくなるような表情だった。
(感情表現が激しいので、どうしたらいいのか分からなくなる。慣れるのには、時間がかかるかもしれないな…)
僕も男に弄ばれながらクルクルと回り続ける湯呑みを見ていたが、突然その動きが止まった。
「昌景、いろいろ聞きたいことがあるだろう?
俺は、嘘はつかない。
答えられないことは、答えない。
聞けよ。
一方的な計画を立てる前に、俺はもっとお前と話をしたくなった」
紅天狗は湯呑みを置くと、静かにそう言った。
少しだけお茶が残っている湯呑みの中に、小さな小さな紅葉が舞い落ちてきて、沈み、揺れていた。
「えっ…その……」
確かに、聞きたいことは沢山ある。
けれど沢山ありすぎて、何から聞いたらいいのか正直分からなかった。順を追って聞いていった方がいいのだろう。
しかしその順というものすら今の僕には分からないので、頭の中に浮かんだ事から聞いていくことにした。
「どうして18歳を過ぎた男なの?」
「この山では、自らの言動には、責任がつきまとう。
それに俺は男だ。体は、人間の男と一緒だからな。
あとは…そうだな…ニオイがそれほど濃くなってないから」
と、紅天狗は言った。
咄嗟に僕は腕のにおいを嗅いだ。
昨日は疲れて風呂に入らずに寝てしまったのを思い出した。
紅天狗は臭いに敏感で、もしかしたら臭っているのかもしれないと急に不安になった。
そんな慌てている僕を見て、紅天狗は笑った。
「そういう意味じゃない。
人間ってのは、人間の世界で暮らすうちに妖怪が好むニオイが濃くなっていく。隠れていても見つけやすいほどに。
傲慢に強欲、色欲に嫉妬、あらゆる醜さが渦巻いて、妖怪が人間を喰らう時に美味いスパイスになるんだとよ。欲に塗れて魂が肥え太った人間の方が断然美味いし、血肉になる。
俺は人間の肉を喰ったことはないから、よく分からないけどな。
この山で俺と暮らすなら危険も多い。
だから、若い男にしてる」
と、紅天狗は言った。
「そうなんだ…。
妖怪は…人間を食うのか…。
そうか…紅天狗は人間を喰わないなら…安心だよ」
途端に僕は怖くなって、そう言うのがやっとだった。
紅葉の美しさで浮かれていたが、僕はとんでもないところに来たのだった。
「だろ?俺は、人間の肉は喰ったことはない。
俺が食べるのは、人間の男と一緒だ」
と、紅天狗は答えた。
やや含みのある言い方だった。
そういうことなのだろうと、僕でも分かった。
だがそれ以上に淡々と答える紅天狗がだんだん怖くなってきたので、早々に話題を変えることにした。
「僕が来る前に…別の男が来なかった?」
僕は叔父さんの息子について聞いてみた。
「あ?別の男?
なんで別の男が、昌景よりも先に、ここに来るんだ?
俺は見てない。カラスからもそんな報告は受けていない。
俺は、お前の家に向けて黒羽の矢を放ったんだぞ。だから、お前はここに来たんだろ?何を言ってる?」
「え?ちがうよ。
黒羽の矢がささったのは、僕の家じゃない。
別の家だよ」
と、僕は言った。
紅天狗が変な顔をしているので、僕は全てを話した。全てを正直に話したのだった。
すると、紅天狗は腕組みをして眉を顰めた。
「そうか…。
邪魔が入ったか?それとも望んでいるのか…?
マズイな…時間があんまりないな」
紅天狗の表情は、どんどん険しくなった。
「時間?」
「そうだ、時間がない。
今はまだ言えないが、とにかく別の男は来ていない。
選ばれし者じゃないんだから、山の入り口の草も道を開けない。イバラのように突き刺さる。
それで、ビビって帰ったんだろう」
と、紅天狗は言った。
僕は道を開けてくれた草を思い出した。
あの草が、そんな事になっているなんて思いもしなかった。
「もし…選ばれし者以外が、山に踏み込んだらどうなるの?」
「殺すさ。
俺が、ちゃんと、殺してやる」
紅天狗は身も凍るような声で言った。
「え?殺す?
冗談だよね?嘘だよね?」
僕は自分でも驚くような大きな声を上げ、紅天狗の顔を見た。
紅天狗も、僕の瞳を見据えた。その銀色の瞳は今までとは違って刀のように鋭くて冷たく、僕の背中に嫌な汗が流れた。
「俺は、嘘はつかない」
紅天狗は低い声で言った。
「だって…踏み込んだだけなのに…」
「入山禁止、生命の保証なしって書いてあっただろう?
それが分かってて入ったんだ。
当然だろ?」
僕は平然と言ってのける紅天狗が恐ろしくなった。
「でも…話し合いとか…した方がいいんじゃないかな。
殺すなんて…さ。
反省してるかもしれないし、かわいそうだよ」
「カワイソウ?」
紅天狗はせせら笑うように言うと、僕の方に体ごと向き直った。屈強な男を取り巻く空気が変わったように感じて、僕は思わず身構えた。
「反省するような奴は、はじめからやらない。
言動には責任が伴う。
俺は刀を振り下ろし、死という形で、犯した責任をとらせる」
「そんな…そんな…心から謝っても、殺すの?」
僕はみるみる青ざめていったが、紅天狗は僕の言ってる事がさっぱり分からないという顔になった。
「人間ってのはな、自分を守る為なら、いくらでも嘘がつける。
人間の謝罪ほど薄汚くて醜いものはない。
謝るのなら、するな。
それに謝まっても、ほとぼりが冷めれば、また山に来るさ。
一度犯した奴は、何度も何度も繰り返す。
俺は、その度に、ソレに付き合ってやれるほど暇じゃない。
昌景だって、そういう連中を知ってるだろう?お前だって、20年も生きてるんだ」
紅天狗は冷たく言い放った。僕は何も言い返せなかった。
(確かに、知っている)
僕の口が開いたままでいると、紅天狗はさらに言葉を続けた。
「昌景、お前に言っておこう。
俺は人間じゃない、天狗だ。
ここには、ここのルールがある。
俺の山に踏み込んだんだ、ソレには従ってもらう。
俺が不在にしていても、必ず、殺す」
僕はその言葉を聞くと、山伏の格好をした天狗の像を思い出した。
あの像が持っていた棍棒は道を示すだけでなく殺す為に振り下ろされるとでもいうのだろうか…?僕は、その事について聞かずにはいられなかった。
「そうだ。
俺の妖術を施している。
俺が山を不在にしている時には、奴等に守らせている。
勝手に侵入してきた異常者を殺す為だ。
俺の山に許しなく入れば、出しはしない。
俺は、守らねばならない」
紅天狗は力強く言った。
そして、力のこもった瞳で僕を見据えた。
「俺は、紅天狗だ。
肉を斬り、骨をたてば、肉塊が燃え上がる。
紅く紅く燃え上がり、全てを無に化える。俺は、何も残さんさ。
骨のない妖怪も、体を真っ二つに斬り裂けば同じことだ」
と、紅天狗は言った。
その瞬間、赤い紅葉が冷たい風に吹かれて舞い上がった。赤い紅葉が渦を巻くように舞い上がると人の形を為したが、次の瞬間には虚しくバラバラになって散っていったのだった。
そして真っ赤な髪の毛をした男の足下でクシャクシャになった。紅天狗が足を動かすと、小さな火が付いて消えていった。そのあとには…何も残らなかった。
僕の腕が微かに震え出した。
「昌景、俺が怖くなったか?」
紅天狗はそう言うと、僕の微かに震えている腕にそっと手を置いた。
僕は何も答えられなかった。
「心を読む気はない。
お前自身の言葉で、ちゃんと答えろ」
と、紅天狗は言った。
僕は口を開いたが、口がカラカラに渇いて言葉をなすことが出来なかった。その代わり、僕の震える腕は、人を殺し、殺し続けている男の熱を感じとったのかガタガタと激しく揺れ出した。紅天狗の手の感触によって、その手で殺した人間の存在を感じ取ったのだろう。自分の腕なのに…震えを止めることが出来なかった。
「俺が、怖いか?
だがな、お前という人間を食おうと襲ってくる妖怪が沢山いる異界は、もっと恐ろしいぞ。
お前は、俺と共にそこに行くことになる。
俺の盃を取り返す為に」
紅天狗は、ヒラヒラと舞っている赤い紅葉を掴み取った。
紅天狗の手の平の上で、その紅葉に火がつき、嫌な臭いをあげながら燃え上がっていった。
紅天狗の手も炎に包まれたが、何も感じないのか、それとも自ら燃え上がらせた炎のせいなのか、全く熱い素振りは見せなかった。
「人間を殺し、或いは人間を生きたまま食う妖怪が沢山いる。助けを乞う叫び声に興奮する妖怪もいる。
言葉なんて、通じない。
弱い者は舐められ、強い者の肉となるだけだ。
力が、全てだ。
俺はまだ人間に似た姿をしているが、一目見ただけで震え上がるほどの恐ろしい姿をした妖怪もいる。
お前はそんな妖怪を見ても、恐れることなく立っていられるか?」
紅天狗はさらに続けた。
答えは、ノーだ。
昨夜の自分の姿が脳裏をよぎった。腰を抜かして、地面に這いつくばるしか出来ないだろう。
「細い腕だな」
ゾッとするような低い声で紅天狗は言った。
さらに何の感情もこもらないような瞳で、僕の腕を見た。
僕は細い方ではない。筋肉もあるが、紅天狗の腕と比べると少年の腕のようだった。
(もう…やめて欲しい。
どうして…こんなに脅かすのだろう…?)
「怖いか?
言えよ。
お前の思いを、言葉で言え」
「少し…怖い」
僕は何処を見るともなく一点を見ながら、カラカラのかすれた声で言った。
「俺を、見ろよ。
俺の目を見て、言え」
紅天狗は厳しい顔でそう言うと、僕の顔を片手で掴み、怯え切った瞳をじっと見た。
僕はその瞳に耐えきれなくなって、目を瞑った。顔を掴む手の力は凄まじく、ピクリとも動かすことは出来なかった。
まるで尋問されているように怖かった。
僕と紅天狗の間に、冷たい風が吹き抜けた。
僕の全身がブルっと震えたのだが、それは風の冷たさによるものなのか紅天狗への恐怖によるものなのかは分からなかった。
この数分の間に、紅天狗に抱く感情は様々に変化して、僕の心も体もついていけなかった。
しばらくの間、紅天狗は待っていたが、僕が何も言う事が出来ないと分かると顔から手を離した。
僕は何か嫌なことがあると黙り込んでしまう。自分の感情も言えなくなってしまう。どうしてなのかは分からないけれど…。
「昌景、河童は知ってるか?」
急に、紅天狗は明るい声を出した。
僕はようやく目を開けた。紅天狗は先程食事をしていた時の表情に戻っていた。
「かっ…ぱ…?
河童なら知ってるよ。
頭に皿がのってて、亀のような甲羅を背負い、全身が緑色の妖怪だろう?」
「そうだ。ただ全身は赤だがな。
はじめは…河童にしとくか。
比較的穏やかだし、親切なところもある。
恐怖というのは「慣れ」で克服できる。
慣れてはいけないモノもあるがな。
恐怖が小さいものから立ち向かっていこう。
だがな人間にも気性の荒い連中がいるように、悪さをする奴等もいるから気をつけろ。
水辺に連れ込まれたら、溺死させられるぞ」
「分かった。気を…つける」
「よし!
昌景なら出来るさ」
紅天狗はそう言うと、笑った。
紅天狗が何を根拠にそんな事を言っているのか分からないが、どこまでもポジティブだった。
「心配すんな!
俺が、昌景を異界に連れて行くんだ。
何かあっても、俺の言う事をちゃんと聞いてたら、全力で守ってやる!」
紅天狗は大きな声で言った。
「あ…、ありがとう」
と、僕は言った。
「そして異界に慣れてもらって、異界のニオイを昌景の体にもつけさせる!」
「へ?臭い?
昨日、紅天狗からしたような?」
「あー、あれは違う違う。
人間の鼻のレベルだと分からないから、気にするな。
盃を取り返すのに必要なんだよ。
今日は、ここまでにしておこうか?」
と、紅天狗が言った。
「でも…計画が全然たってない。
聞きたいことも、まだ沢山ある」
僕はそう言ったが、いろいろ想像してしまい頭が少し痛くなっていた。
「計画は、俺の中で、今、立った。
出発する前に、俺もいろいろと準備をせねばならなくなった。
それに、これ以上話したところで、俺の言葉は今の昌景には届かない。頭に何も入らん。
お前の瞳は、恐怖に支配されている。
俺を見る瞳が、完全に怯えている。
今日は、もう休め」
と、紅天狗は言った。
すると終わりを告げるかのように、数羽の鴉が大きな声を上げて鳴いた。
僕の体がビクッと大きく震えると、紅天狗は僕の背中を軽く叩いた。
「この中を案内しよう。
ゆっくり風呂にでも入れ。心も体も、さっぱりする」
と、紅天狗は言った。
僕がコクリと頷くと、紅天狗は僕のその様子を横目で見てから立ち上がった。
僕は食器を持って、立ち上がった。
今になって気づいたが、皿は艶やかな白磁に美しい花が描かれて、黄色い花びらが舞っていた。
「食器は、僕が洗うよ。
皿も湯呑みも割らないように気をつける。食事も出してもらって洗い物までしてもらうのは申し訳ないから」
僕がそう言うと、紅天狗は僕の背中をバシバシ叩きながら笑った。
「割れても気にすんな!
手を切らないように、気をつけろ。
台所から案内しよう。
ありがとな、昌景」
紅天狗は優しい声でそう言うと、くるっと背を向けて歩き出した。
台所に食糧庫、便所に風呂などを案内してもらった。
お堂の中は何処も綺麗に掃除されていて、僕が寝ている部屋以外にも幾つか部屋があった。外で見るよりも中は広かった。
「んじゃ、俺は用事があるから出かけて来るわ。
昨夜、俺と交わした約束を忘れんなよ。
あっ、そうそう、お前が落とした鞄も拾っといたからな。
襖が開いてたから、そのまま部屋の中に入れたらしいぞ。入られたくないなら、ちゃんと閉めとけよ」
と、紅天狗は言った。
「僕の鞄を?!ありがとう!
色々あって、ちょっと驚いて、投げ捨てちゃって」
と、僕は言った。
「あー、カラス達に追い立てられたか?
まぁ…あのまま歩いてたら日が暮れるからな。
それは、それでマズイ事になってたからな」
紅天狗はそう言うと、僕の頭に手を置き、子供の頭を撫でるかのように僕の頭を撫でた。
「追い立てたのには訳があったんだ。
カラスはいい子だよ。なかなか上手く言えないだけでな。たとえ喋らなくても表情を見てたら分かる。それでいいんだよ。
お前を助けるように、カラスが俺に伝えてくれたんだ。
引き摺り込まれたって、カラスが、知らせた。
だから、間に合った。
あれがなければ、ヤバかった」
紅天狗は眉間に皺を寄せた。
「じゃあ、俺はそろそろ行くわ。
話の続きは、また今度な」
紅天狗はそう言うと、風のようにいなくなってしまった。
僕はこの時、紅天狗が急いで戻ってきてくれたから、昨日は少し着物が乱れていたのだと分かったのだった。
紅天狗が出て行くと、僕は食器を洗ってから風呂へと向かった。恐怖で少し頭が痛くなっていたのは何故かマシになっていたが、体もスッキリしたかった。
風呂場のドアを開けると、そこには大きな窓と美しいヒノキの風呂があり、ホッとするような湯気をあげていた。すると昨日歩いた長い道のりを急に思い出し、疲れた右足を温かい湯の中に入れると、ジンワリと心地良い感触が広がっていった。そのまま左足も入れ、ザブンとお湯に浸かると、もろもろの疲れが体から流れ落ちていくような気がした。
ヒノキならではの芳しい香りに包まれ、風呂に入りながら紅葉を見るという贅沢は極上だった。
僕は肩まで温かい湯に浸かると、大きく息を吐いた。全身が温かい湯に包まれ、綺麗な湯を両手で汲み上げ、指の隙間から湯がサラサラと流れ落ちるのを見ていた。
この時、僕は、ただ…幸せ…を噛み締めていた。
紅天狗が、今、何処で、何をしているのか?
この時の僕は、考える事もなかったし、想像もつかなかった。
男が背負っているもの
男が何としても守ろうとしているもの
その為に、「最強」であり続けなければならない
その為に、「刀」を握り、立ち向かい続けている
男が化わり扇を掲げ舞う時に、僕達人間を待ち受けている恐ろしい運命がある事を…僕は知らなかった。
紅葉のような赤で僕の全身も染まり、両手が血にぬれて指の隙間から生命が流れ落ちていくとは…今の僕は夢にも思わなかった。
風呂から出ると、僕は鞄をあけて持ってきた荷物を広げたり部屋でゴロゴロしたりと、ゆったりとした時間を過ごした。
そうしているうちに日は沈み、はめ殺しの丸い窓から見える景色が、だんだんと暗くなっていった。
赤く染まっていく空には黒い鴉が行き交い、大きな声を上げて鳴いていた。鴉が連なって飛ぶと、紅天狗がいない時にこの山を守る黒い龍のように見えたのだった。
何故そう思ったのかは分からない…けれど、僕はそう感じたのだった。
それから僕は部屋の隅に置かれていた布団を敷くと横になり、目を開けたまま、はめ殺しの丸い窓から色を変えていく景色を眺めていた。
赤い空が漆黒になると、紅葉も見えなくなっていった。
今宵の月は細長く、星の光も朧だった。
黒い龍は夜空に溶け込んだのか見えなくなり鳴き声も聞こえなくなると、僕は心地よい眠りに落ちていった。
夢を、見た。
誰かが何かを探している夢だった。
必死に探し回る後ろ姿が悲しくて、僕はその男に声をかけようとしたが、突然響き渡った笛の音にかき消された。
笛の音がどんどん大きくなっていくと、僕は紅天狗の力を感じて、ハッと目を覚ました。
時計を見ると、午前2時をさしていた。
目を覚ますと、夢の中にいた時よりも一層心地よい笛の音が外から響いていた。聞いたこともないような音の調べだったが、僕の耳と心に心地よく広がりながら無限に変化し、これほど美しい音は聞いた事もないように感じた。
僕は立ち上がって、はめ殺しの丸い窓に近づいて行った。
見てはいけないものを見てしまうような気持ちに襲われながら、部屋の中にいるのだが息を殺して覗いた。
白の羽織を着た紅天狗が、軽やかに踊りながら笛を吹いていた。その姿は灰色の翼を持った力強い天狗ではなく、紅葉の絨毯の上で舞う優美な白い蝶のようだった。
美しい笛の音は木々の隙間から、雲で隠れていた細い月にまで届いたのか、細い月が笛を吹く男を見ようと美しい顔を出した。
朧だった月の光は神々しいまでに眩しくなり、星々も燦然と輝きを放った。
紅天狗の奏でる音色は夜空を美しく変え、漆黒の空を煌めきと変えたのだった。
そして、深く垂れ込めていた紅葉が赤々と燃え盛るように真っ赤に染まった。この1日で色褪せた葉の全てを再び燃え上がらせ力強くも堂々たる色を放ち、僕のいるお堂の上に燦然と垂れ込めていったのだった。
僕はこの時、忘れ難い夢をみたような気がした。
現実とは思えないほどに美しかった。
僕が思わず息をのむと、音色が止んだ。
その光景をこっそり見ていた僕を、紅天狗がとらえたかのように。
紅天狗は懐に横笛をなおし、口元に笑みを浮かべると、足元の赤の紅葉が舞い上がり、紅天狗を包み込んだ。
「あっ!」
僕が思わず声を上げた次の瞬間には、紅天狗はもうそこにはいなかった。
「昌景、入るぞ」
紅天狗の声が聞こえてきた。
さっきまで外にいたはずの紅天狗は中にいて、僕が返事をすると襖を開けた。
紅天狗は外にいた時と同じ白の羽織を着ていたが、手にはガラスの酒器を持っていた。
「飲めるか?」
と、紅天狗は言った。
「は…い」
と、僕は答えた。
「夜空を見ながら、飲まないか?」
紅天狗がそう言ったので、僕達は昼食を食べた軒下に場所をうつし、そこで日本酒を飲むことになった。
僕が1人で見た時とはちがい、満点の星だった。
星の光は明るく輝いて、紅天狗を照らしているようだった。美しい笛の音を紡ぎ出す男に恋をした女性のように綺麗に輝いていた。
今まで僕が見た中で最も美しい星空だった。
何度か星が流れた。
冷たい夜風が僕の頬を撫でたが、それすらも心地よく感じた。葉ずれの音がサワサワと聞こえた。
左膝を立てて紅天狗は座っているのだが、その側にある一升瓶がやけに似合っていた。
「なかなか美味いぞ」
紅天狗は手にした酒器を時折口に含み、それ以上は何も言わずに酒器を眺めていた。
紅天狗の手の中にあるガラスの酒器は月の光を浴びてキラキラと輝いた。透明なガラスの酒器は青と紫の色を重ね合わせて大きな花を描き、心を惑わせるほどに艶やかであった。
僕も手にすると、ずっしりとした厚みと重さがあった。酒は華やかな香りがし、口の中に豊かな甘さが広がった。
「綺麗な星空だね。
紅天狗の笛の音で、星の輝きが増したように感じるよ。
僕も、笛の音で、紅天狗が側にいるような気がした。
毎夜、吹いているの?」
と、僕は聞いた。
紅天狗は苦い顔をしながら酒を口に含み、満点の星を見上げた。
男の瞳は星空を彷徨った。
「この時間が…もっとも強力になるんだ。
そして、綺麗なんだ。
俺を導いてくれる美しい星を、探すんだ。
笛の音が、好きで…な。
毎夜、吹くようにしている」
男の瞳は優しく穏やかになった。
銀色の月のような麗しい瞳で、たった一つの美しい星を探していた。
そして、大切な思い出に浸っているかのように甘い吐息をついた。
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