第3話 読心


 僕は何も答えられずに、ただ口をポカンと開けていた。

 目の前の紅天狗に対する恐怖と本当に存在していたという驚きで言葉を失くしていた。

 紅天狗の腕の力は凄まじく、僕は腕を掴まれたまま中腰のような体勢になっていた。


 一方、紅天狗は不思議な顔をしながら首を傾げ、何も答えようとはしない僕の心を探るかのような瞳になった。


「まさかげ、聞こえてるか?

 おい、大丈夫か?」

 紅天狗が腕の力を弱めると、全身の力が抜けている僕はそのまま地面にストンと座り込んだ。


 紅天狗は僕の腕から手を離すと、両膝に手をつきながらしゃがみ込み、放心状態になっている僕の顔を覗き込んだ。

 僕は口をポカンと開けながら首を縦に振った。

 すると紅天狗は僕の肩に手を置いて、僕の目をじっと見ながら顔を近づけてきた。目の前に月のような瞳が迫ってくると、僕はそれに飲み込まれて小さくなったように感じた。


「縮こまってんな、昌景」

 紅天狗は僕の耳元で囁いた。

 

「えっ…あっ…」


「何も恐れることはない。大丈夫だ。

 昌景、俺はお前に危害を加えるつもりはない」

 と、紅天狗は言った。


「えっ…あの…はい…。

 えっ?なんで…僕の名前…」

 僕はかすれた声で答えた。

 大丈夫だと言われようが、人ならざるものを初めて見たのだから怖くて仕方がなかった。けれど紅天狗の囁きで僕は感覚を取り戻したかのような妙な気持ちにもなっていた。


「お前、カラスに自分の名を言っただろうが」

 紅天狗はそう言いながら笑みを浮かべ、僕の震えている体を眺めた。


「そんなに怖がんなよ。

 お前は、殺さないからさ。

 しっかし、マズイなー」

 紅天狗はさらっと恐ろしい事を言ってのけてから、難しい顔をしながら頭を捻り、何度も「マズイマズイ」と言っては時折流し目で僕を見た。


「あの…マズイって…?」

 僕は小さな声で言ったが、僕の目は紅天狗が腰にさしている刀を見ていた。「危害を加えない」「殺さない」と言われたところで、時代劇で見るような刀をさしている男は恐ろしくて堪らない。ましてや「天狗」だ。怒らせでもしたら、次の瞬間には気が変わって刀を抜かれているかもしれない。


「あの盃でな、そろそろ酒を飲まねばならない。

 それなのに、盗まれてたとはな。

 いやー、マズイ。マズイ。

 あの盃でないと、何の意味もない」

 紅天狗は低い声で言った。


「あの…どういう事なんですか?

 僕…盃について…よく知らなくて…。

 マズイって…その…美味しくないってこと…ですか?」

 僕は低く変化した声色が恐ろしくなって、よく分からない事を口走っていた。そんな訳ないだろうと自分でも思ったが、そう答えるのがやっとだった。


「あ?なんだよ?それ?

 んな訳ないだろうが」

 紅天狗は僕の顔を見て笑い出した。


 よく笑う紅天狗だった。

 紅天狗の笑い声は辺りに響き渡って、夜空にも響き渡り、月も一緒に笑い出したかのようにさらに明るくなった。


「すみません。

 なんか…その…僕のせいでしょうか?

 僕が…その…もっと早くに来てたら…すみません」

 僕はその屈託のない笑顔を見ていたら、ようやく気持ちが落ち着いてきた。


「だから、謝んなって。

 お前は、何も悪くない。

 俺は9月末までに来いって書いたんだ。

 お前は、期日よりも、かなり早くここに来てくれた。

 盃が盗まれたのと、お前は、何も関係がない。

 お前が謝る理由はないだろう?

 お前にも責任があるって言ったけど、そういう意味じゃないんだよな。人間としての責任って事でさ」

 紅天狗はそう言うと、また僕の顔を覗き込み、じっと瞳を見つめてきた。相手に「はい」と言わせるような力強さがあった。


「は…い。

 でも…」

 そう言われると逆に僕は申し訳なくなった。

 苦い顔をしながら俯いた僕の顔を紅天狗は乱暴に掴んでから引き上げ、その大きな手を僕の肩に置いた。


「でもは、ナシだ。

 あー、そうだな…俺も心が痛んできたから正直に話すわ。

 あの盃な、本当は、8月に盗まれてたんだよ。

 もっと早くに盗まれてた」

 紅天狗はそう言うと、ニヤリと笑った。


「え?8月に!?

 でも、僕…さっき…」

 僕は先程見た恐ろしい光景を思い出した。


(あれは…そういえば何だったのだろう?

 あの妙に生々しい…そうだ…血!)


 僕は、右手を見た。

 すると、右手にこびりついていた血は跡形もなく消えていた。

 その代わり、紅天狗に握りしめられた感触だけを右腕にジンジンと感じたのだった。まるで上書きしたかのように…恐ろしい何者かの血の臭いも感触も完全に消え去っていたのだった。


「あの…血が…」

 僕はそう言ったが、紅天狗はその言葉を無視して話し出した。

 


「俺が自分で選んだんだけどさ、お前の反応がなかなか面白かったから、ちょっと遊んでしまったわ。

 ホント、すまなかったな。

 でも、お前は素直でいいわ。

 よかった!よかった!

 俺が見た色に間違いはなかった。

 俺、昌景のこと、すきになりそうだわ」

 紅天狗は大きな声で言った。

 あまりに紅天狗の声が大きかったので、木の枝に隠れるようにして僕達の様子を見ていた鴉達が驚いて飛び上がる音が聞こえた。


 感情表現が激しい…僕はそう思った。

 それに選ばれし者は叔父さんの息子なのに、一体どうなっているのだろう?


 紅天狗はゆっくりと立ち上がると、腰が抜けたまま立てないでいる僕に向かって手を差し出した。


「ほら。大丈夫。

 お前は、立ち上がれるさ」

 紅天狗はそう言うと、今度は優しく微笑んだ。 


 その微笑みは、僕の紅天狗への恐怖をさらに和らげた。

 その微笑みで、何故か兄を思い出したのだった。

 両親の恐ろしい言葉で傷つけられ俯いている僕に向け続けてくれた微笑みと、同じ優しさを感じたのだった。


 僕は、紅天狗の手を握り締めた。

 そして、立ち上がった。


(あったかい…な。

 そこまで怖い天狗ではないのかも…?)

 

「だろ?

 昔は、けっこう気性が荒かったんだけどな」


(それも…分かる気がする…)


「そうか、分かるか?

 今は、俺も、落ち着いてるよ」

 紅天狗はニヤリと笑った。


 僕はその悪そうな笑顔を見ていると、何かがオカシイという事にようやく気が付いた。


(あれ…?

 声に出してないのに…会話が…できてる)


「ようやく気付いたか?

 俺はな、人の心が読めるんだよ。

 だから人間が悪い事を考えてたりしたら、すぐに分かるわけ」

 紅天狗の銀色の瞳が恐ろしく光った。

 夜空から人間の行動の全てを見ている月の光のように。その光は、全てを見透かし逃しはしないだろう。


「人間が、天狗を騙そうとしても無駄なんだよな。

 その力を利用しようとして、嘘をつこうとしても、俺にはすぐに分かる。

 そういう薄汚い人間は、嫌いなんだよ」

 紅天狗は何かを思い出したかのように語気を強めると、地面に落ちている葉がフワッと舞い上がった。紅天狗に簡単に散らされる生命のように、ソレは真っ赤な色をしていて、男の周りを逃げ惑いながらも虚しく散っていった。


 僕の体がブルっと震えた。

 これから先、僕が考えている事の何もかもを知られると思うと恐ろしくなった。知られたくない事も簡単に知られてしまう…心を読まれてしまう…。


 すると、紅天狗はまた笑った。


「体に触れて、俺が心を読んでやろう思っている時だけだ。

 俺が信用できない人間にはそうするようにしている。

 俺にとっての悪だと判断すれば、抜刀する」

 紅天狗は険しい顔をしながら刀の頭に手を触れた。


 僕の口から小さな悲鳴が漏れた。

 僕の生命は、簡単に目の前の男に握られている…。


 紅天狗は少し表情を緩めた。


「大丈夫だ。

 昌景は、俺が選んで、ここに呼んだんだ。

 お前が悪に染まらなければ、俺は刀を抜くことはしない。

 俺という男を簡単に教えたかっただけだ」

 紅天狗がそう言うと、冷たい風が吹いて男の赤い髪が風に靡き、灰色の翼が揺れた。


「俺も急いで帰ってきたから、疲れたわ。

 盗られた盃は、取り返せばいいだけだ。

 明日、計画を立てるとして、今日はもう休もうぜ。

 ついて来い。

 俺から離れるなよ」

 紅天狗はそう言うと歩き出した。


 僕は紅天狗から離れないように後ろをついて行った。背が高いので脚も長く、歩くスピードが異常に速かった。

 急に月の光が弱まったので薄暗くなり、辺りに何があるのかは僕には分からなかったが、紅天狗には全てが見えているようだった。

 後ろを歩く僕は大きな背中に隠れて、冷たい夜風を感じることもなかった。

 紅天狗の乱れた着物が風に吹かれて揺れると、鼻をつくようなニオイが漂ってきた。背後から見ていると翼が一部汚れていて、着物も少し破れていることに気がついた。


「あの…服…少し…破れてますよ」

 と、僕は言った。


「あぁ?そうか…。

 どこかで、ひっかけたのかもな」 

 と、紅天狗は素っ気なく答えた。


 それからは特に会話もなかった。

 薄暗い月明かりの下を僕達は黙ったまま、ひたすら歩き続けた。2人の足音と落葉を踏む音が響くと、時折「おかえりなさい」というような鴉の鳴き声が響くだけだった。




 突然、紅天狗は大きな木の下で立ち止まった。

 目の前には木造のお堂のような大きな建物がたっていて、紅天狗はそのお堂を指差した。

 

「あれが、お前の寝起きする場所だ。

 すきにつかえよ」

 紅天狗はそう言うと、数段の階段を登り、下駄を脱いでお堂の中に入っていった。外で見たよりも中は広くて幾つかの部屋があった。紅天狗はスタスタと歩いて行き、扇の模様が描かれた襖を勢いよく開けた。

 

「お前の部屋だ」 

 と、紅天狗は言った。

 畳の落ち着いた和室で、机と衣装棚があり、フカフカの布団が敷かれてあった。

 敷居を跨ぐと部屋の中は伽羅の香りがし、僕は少しフラフラとよろめいた。


「大丈夫か?」

 紅天狗がそう言うと、僕はコクリと頷いた。

 紅天狗は何故か目を見開いたが、僕が紅天狗をじっと見ると男は目を逸らした。

 

 そして僕の背中にそっと手を置いてから、低い声で囁くように言った。

  

「約束してくれ。

 俺が側にいない夜は、ここから絶対に出るなよ。

 日が昇るまで、俺が側にいなければ一歩も出てはいけない。日が昇れば、自由に出てもらって構わない。

 ここには、俺の力が宿っている。ここにいる者を守る力が、この建物には強く働いている。

 中では、何をしてもいい。

 便所もあるし、風呂もあるから、すきにつかえ。腹が減れば食糧庫もあるから何でも勝手に食っていい」

 紅天狗はそう言うと、僕の瞳をじっと見た。


「忘れるな。

 俺は、自由に出入りができる。

 夜に、お前を外から呼ぶようなことは絶対にないからな」

 紅天狗はさらに低い声で言い、僕の心に刻み込んだ。


 僕はその言葉にコクリと頷いた。


 その様子を見た紅天狗はまた目を逸らした。


「俺は体が臭うから、風呂入って寝るわ。

 お前も…って、そんな気力はなさそうだな。

 じゃあな、おやすみ」


「おやすみなさい」

 僕が部屋を見渡しながらそう言い、チラリと横を見ると、もうそこには紅天狗の姿はなかった。


「疲れた…」

 紅天狗がいなくなると、力が抜けてヘナヘナとその場に膝をついた。


(天狗が…存在していた)

 僕は這うようにして布団に向かい、体を投げ出して目を閉じるとそのまま眠ってしまったのだった。






 鴉の鳴き声で目を覚ますと、見慣れない天井板が広がっていた。部屋の中を眺めると、障子の上の欄間には扇が彫られていて、床の間には花が一輪飾られていた。

 掛け軸には紅天狗らしき男の後ろ姿と、沢山の鴉が描かれていた。


(そうか…昨日のは…夢じゃなかったのか…)


 僕はゆっくりと起き上がった。

 背伸びをし、はめ殺しの丸い窓を見ると、高く聳え立つ木の隙間から燦々と降り注ぐ陽の光が見えた。

 僕は昨夜の紅天狗の言葉を思い出し、盃を取り返す計画を立てるんだったなと思って、紅天狗を探しに出かけた。


 外に出ると、今まで僕が住んでいた場所から感じていた以上に陽の光を強く感じた。

 眩い陽の光が全身を包み込み、強い力に守られているかのようにあたたかくなった。



 昨夜の月明かりの下では、景色は分からなかったけれど、9月上旬なのに辺りの木々は赤と橙と黄色に美しく色づいていた。


 燃え上がるような、美しい紅葉が広がっていた。

 血をたぎらせるような情熱的な色だった。


 僕は、その美しさに言葉を失った。

 言葉では表現することが出来ない。

 ただ溜息をつきながら見惚れているだけだった。

 心地よい風が吹くと、美しい紅葉が音を奏でるようにそよそよと揺れ、炎のように舞い上がっては散っていった。

 赤と橙と黄色の情熱的な世界の中で、僕は生きているような気になった。広がる情熱的な色は、僕の中で眠っている「ある感情」に火をつけてくれそうだった。

 遠い昔に…僕が諦めた感情を…もう一度呼び起こす力。

 その感情が何だったのか記憶を辿ろうとすると、何処からか箒で紅葉を掃く音が聞こえたので、僕はハッとして音のする方向に顔を向けた。


 袴姿の小柄な人が、箒を持って掃除をしていたのだった。


「すみません、紅天狗が何処にいるのか知りませんか?」

 僕は今しなければならない事を思い出し、その人に近づいて行って声をかけた。


 その人は、ゆっくりと振り返った。

 陽の光が降り注ぎ、爽やかな風が吹いて、その人と僕の間にハラハラと美しい紅葉が舞った。


 その人の容貌の美しさに、僕の心は大きく高鳴った。

 今、2人の間に舞った美しい紅葉が、さらにその人の美しさを際立たせた。


 雪のように白い肌に、ほんのりと色づいた赤い唇が艶めかしい。

 濡羽色の肩にかかる髪は揺れる風で艶めき、僕を見上げる長い睫毛に縁取れた黒い瞳は透き通っていた。あまりに魅力的な瞳は、男の頬を簡単に染め上げた。


(なんて…綺麗なんだ…)

 

 年齢は僕と同じぐらいで20歳を過ぎたような年頃だった。

 その人の声を聞く事に期待したが、透き通るような黒い瞳は僕を見上げると「忌々しい者」でも見るような目つきにかわった。


 その人は声を発することなく、紅天狗のいる方角を指差した。


 そして、すぐにまた後ろを向いて、掃き掃除をはじめた。

 その忌々しさがこもった瞳を何処かで見たような気がしたが、全く思い出せなかった。

 こんな魅力的な瞳をした綺麗な子を忘れるようなことは、絶対にないはずなのに。


 もう一度声をかけようとしたが、その人の後ろ姿からは「2度と話しかけるな」というオーラが出ていた。


 そこまで強気になれない僕は話しかけるのを諦めて、その方角に向かって歩き出した。

 

 紅葉のトンネルのような道を進んで行くと、石畳の道に差し掛かった。

 石畳の道には真っ赤な紅葉だけが舞い散り、その上を歩くたびにカサカサと嫌な音を立てた。

 道の両側には、天狗の像が一定の距離をとって立ち並んでいた。どの天狗の像も厳しい顔で大きな口を開け、手には見慣れない武器を持っていた。今にも恐ろしい声が聞こえてきそうな気がして、僕は徐々に早足になっていった。

 だが恐れの気持ちはあっても、天狗の像から目を逸らすことが出来ずに、僕はその一体一体を横目で見続けた。

 刀を振り上げて人間を斬り殺している恐ろしい像が目に入ると悪寒が走ったが、僕を最も怖がらせたのは、その次の最後となる天狗の像だった。

 その天狗の像は、武器ではなく扇を掲げていた。

 天狗は空高く扇を掲げ、何も残らないほどにグチャグチャになった「何か」を踏み潰していたのだった。

 ただそれだけなのに、僕は恐ろしくてたまらなかった。その顔は、血に飢えた猛獣だった。生命を弄び、喰らい、全てを無に化えていく…「恐ろしい天狗」そのものだった。


 僕は、その像を見ていると、何かを思い出しそうになった。

 僕が忘れている…或いは忘れさせられている…何か非常に「大切な事」を思い出しそうだった。

 

 だが、頭がひどく痛みだし、全身が燃え上がりそうなほどに熱くなっていった。

「まだ早い」とばかりに、その思い出さねばならないという感情ごと、全てが塵となってまた消えてしまったのだった。

 

 僕は頭を抑えてしゃがみこんだが、「早くこの場所を去れ」とばかりに見えない強い力に引っ張られて、石畳の道を抜けた。

 不思議な事ばかりが起こっているのだが、天狗の存在によって僕は多少のことでは驚かなくなっていた。




 探している男の声が微かに聞こえてきたので、その方向に吸い寄せられるように歩いて行った。


 樹齢数千年以上の神木

 神木という名が相応しいような素晴らしい木が立っていた。


 僕がこの山で見てきた中で最大の幹幅を誇り、隆々と盛り上がる瘤を持ち、盤踞する根と深く刻まれた皺が素晴らしい巨大な杉のような木だった。

 僕が知っている杉と違うのは葉の色が漆黒であり、巨大な影のようでもあった。

 

 その神木の下で、紅天狗が腰の辺りまで着物を脱いで刀の稽古をしていた。

 この神木を守る天狗のように…男は華麗に刀で空を斬っていた。恐ろしい夜の闇が連れてきた澱んだ空気を斬り裂き、新鮮で清らかな空気だけを神木に届けているように感じた。

 男が握る刀は長くて鋭く、刀身は陽の光を浴びる度にキラキラと輝いた。刀の描く孤が空を切り裂き鋭い音が鳴ると、男が描く孤の残像が僕にも見えたかのような錯覚に陥った。


 日陰と日向…影と陽の間を颯爽と行き交う度に、灰色の翼が美しく煌めいた。明るい灰色が恐ろしい漆黒の翼となり、狭間で靡き揺れていた。

 筋肉が入り組んでいる逆三角形の背中は逞しくて、多くを背負える男の背中だった。目の前の男は背負ったものを何があっても守り抜くのだろう。


 僕は声をかけることもせずに、また見惚れていた。

 美しい紅葉に、袴の人、そして紅天狗…陽の光の下で見るものは美しさで溢れていた。


 


「よぉ、昌景。

 疲れて夕方まで寝てるんじゃないかと思ってたけど、早かったな。よくここが分かったな」

 刀の稽古が一区切りついたのか、紅天狗は振り返った。


 鍛え上げられた男の体は凄まじく、厚い胸板に汗がほとばしり、盛り上がった上腕二頭筋が美しかった。体の一部のように刀を振るう男の体はこうまで逞しいのかと、羨ましくなってしまった。

 過酷な訓練をものともしない特殊部隊の隊員のように強くて逞しく、自分の生命を危険に晒しながらも誰かの生命を守る肉体の強さと精神力を兼ね備えた屈強な男の体だった。

 思わず上半身をマジマジと見てしまうと、下腹部あたりがアザなのか刺青なのか分からないが肌色ではなく変色していた。

 妙に気になったがあまりジロジロ見ると、局部を見ていると思われても嫌なので僕はそっと目を逸らした。


「はい。

 袴を着た人に教えてもらいました」

 と、僕は答えた。


 紅天狗は首を傾げた。

 その太い首には紫色の宝石がついたネックレスを下げていた。宝石に詳しくない僕には何の石なのか全く分からなかったが、陽の光を浴びてキラキラと輝いた。

 雫のような汗を流しながら前髪をかき上げる姿に、僕にはない大人の男の色気というものを感じた。汗をかいてはいるのだが、昨日嗅いだようなニオイはしなくなり、爽やかな香りがするだけだった。


「あぁ…カラスのことか。

 それはさておき、よく眠れたか?」

 紅天狗は刀を鞘に納めながら言った。


「えぇ…はい。

 眠れ…ました」

 と、僕は言った。


 紅天狗は少し苦笑いをして着物を整えた。昨日のような乱れた着方はしなかった。


「かしこまんなよ。

 もっと普通に喋れ。

 そんなんだと疲れるぞ。

 カラスが飯を作ってくれるから、朝飯でも食いながら色々と話をするとするか。

 ついて来いよ」

 紅天狗は空を仰ぎ見ながら手を叩き、「カラス!飯だ、飯!」と叫んだ。


 すると、何処からともなく先程の袴の人が現れた。


「お呼びですか?主人様」

 袴の人は満面の笑みを浮かべていた。その声は鈴を鳴らしたかのような可愛らしい声だった。

 紅天狗の隣にいる僕を見ることもせずに、袴の人は紅天狗だけを見つめていた。


「おう!カラス!

 飯だ!

 俺と昌景の2人分な。軒下に飯を運んでくれ」

 と、紅天狗は言った。


「かしこまりました、主人様」

 袴の人はまた可愛らしい声で答え、僕を見ることなく紅天狗に微笑みかけて走り去って行った。その麗しい瞳に、僕を映したくないかのように。


「あの…さっきの人なんですけど…鴉なんですか?

 どう見ても人の姿をしてるんですけど…」


「かしこまんなって言ってんだろ。

 昨日デカいカラスが、お前をここまで案内しただろう?

 あのカラスだよ。

 俺の身の回りの世話をしてもらう為に人の姿にしたんだ。

 いろいろ、してもらってる」

 と、紅天狗は言った。


 最後の言葉に一瞬あらぬ想像をしてしまうと、紅天狗は僕の肩に触れた。


「そういうコトは、シナイから。

 だから俺は人間も男を呼んでるんだよ」

 と、紅天狗は笑った。


 僕は大人の男の余裕を感じて、恥ずかしくなった。


「綺麗な人…ですね」

 僕はそう言ったが、紅天狗はその言葉には何も答えなかった。



「飯な、少し時間がかかるから遠回りしよう。

 カラスは、料理は苦手なんだよ。

 散歩がてら…そうだな…庭園でも歩くか」

 紅天狗はそう言うと、僕が歩いてきたのとは別の方向に向かって歩き出した。


「いつも、ここで稽古をしてるんですか?」

 前を歩く紅天狗の大きな背中を見ながら僕はたずねた。


「もちろんだ。

 刀を握るのだから、訓練はかかさない」

 と、紅天狗は言った。


 紅天狗が歩くと、鴉の鳴き声と紅葉のそよぐ音が響き渡った。


 庭園には、美しい青い花が一面に咲いていた。

 花に詳しくない僕には名前が分からなかったが、まるで澄み渡る青い空を散歩しているかのように感じた。


「花が好きなんですね」

 と、僕は独り言のように言った。


 前を歩く紅天狗は何も答えなかった。



「いろんな所に花が咲いてるんですね。

 ここに来るまでにも綺麗なコスモスの花を見ました。赤や白やピンクの色で溢れていて、僕の心が明るくなったんです。

 まるで…コスモスの散歩道を歩いているようでした。

 この花は、なんですか?」

 と、僕は言った。


 紅天狗は突然立ち止まり、妙な顔をしながら僕を振り返った。


「なんだよ?それ…。

 コスモスの…散歩道って…」

 紅天狗は小さく呟いた。

 そして何度か髪の毛をクシャクシャとしてから、腰の短刀のようなモノに触れた。


「もっと楽に喋れよ。 

 今からそんなんだと疲れるぞ。

 言い直したら、花の名を答えてやるよ」

 と、紅天狗は言った。



 だが、しばらく間をおいてから、男は首を横に振った。



「いや、当ててみろよ。

 この花の名を」

 と、男は言った。

 


 僕は少し躊躇いながら、紅天狗を見た。

 すると、男は優しく笑った。

 一面に咲く青い花の中で、男は僕を見て笑ったのだった。



 僕達の間に吹く風が心地よく、僕の心と体を青い花の香りで包み込んだ。

 それでも…僕には…分からなかった。

 男の求める答えは、僕には出てこなかった。


 

「僕は花には詳しくないから、分からない」

 と、僕は言った。


 すると、男は青い花を見渡した。

 その瞳は、遠い遠い青を見ていた。


 ゆっくりと紅天狗は口を開き、「桔梗」と、素っ気なく答えた。

 

 

 

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