第2話 月夜

 

 

 列車の揺れる音と振動で僕は目を覚ました。

 実家に帰った疲れが出たのか、はじめての寝台列車なのによく眠れたことに自分でも驚いていた。

 窓からは清々しい朝の光が光線のように降り注いで大地を美しく照らし、青い空を自由に飛び交う白い鳥が見えた。鞄から珈琲とパンを取り出し、雄大な景色を眺めながら朝食を食べることにした。

(なんて贅沢な時間なのだろう…)

 これほど時がゆっくり流れていくのを感じるのは、久しぶりのことだった。


 寝台列車を降りると、賑わう駅の構内で日持ちのする食べ物と飲み物を沢山買い込んでから、次の列車に飛び乗った。

 僕はリュックを背負い、大きな鞄を2個持っていたのだが、そのうち1個は食料をいれる為の何も入っていない鞄だった。

(どうやって、食べていこうか…?)

 それが一番不安だった。

 叔父さんに聞いても首を傾げるだけだったので、食料を持てるだけ持っていくことにした。数日その食料で食いつなぎ、現地でどうするか考えるつもりでいた。


 その次に乗り込んだ列車は2両編成で、片手で数えられるぐらいしか人はいなかった。

 窓から見える景色は、ビルや商業施設から緑と黄色がおりなす穏やかな田園風景へとかわっていき、遠くに広がる青い海もキラキラしていた。


 幸先の良いスタートに思えて嬉しくなったが、長いトンネルを抜けると晴れ渡っていた空は一雨きそうな空模様にかわっていた。

 白い鳥の姿も見えなくなり、黒い色をした鳥が群れをなしていた。高い所を飛んでいるからはっきりとは分からないが、おそらく鴉だろう。

 少し遠くに見える森に雲がかかりだすと、窓から見える景色は灰色となり雨が激しく吹きつけ出した。


 次第に何も見えなくなったので、僕は目を閉じた。




 けたたましい鴉の鳴き声で目を開けると、列車に乗っているのは僕だけになっていた。

 次が、降りる駅だった。

 大きく伸びをしてからリュックを背負って、重たくなった荷物を持った。

 窓に吹きつけていた雨は止んで、太陽もすっかり顔を出してはいるのだが、飛び交う鴉の数が異様に多かった。その数はどんどん増えていき、まるで僕を見に来たように列車の上空を旋回するのだった。


 無人の駅に降り立ち回収箱に切符をいれてから、リュックから宗家の人が用意してくれた地図を取り出した。

 しばらく歩いても人の姿を見ることは一切なかった。

 人っ子一人いない。民家すらもなく、もちろん食料を売っている店もなかった。

(食料がなくなりそうになったら、その度買い出しかな…。野菜を育てるしかないか…)

 僕はそう思ったが、何故こんな場所に駅が残されているのか不思議でならなかった。


 いろいろ考え事をしながら、黄色い花が咲く一本道をひたすら歩いて行くと、目の前に地図に描かれている赤い鳥居が見えてきた。鳥居の東側を見ると慰霊碑があったので、歩いてきた道に間違いはなさそうだ。

 輝く太陽が赤い鳥居を照らすと、神々しい光を放った。

 鳥居にとまっていた数羽の鴉がカァカァと一斉に声を合わせて鳴くと、まだ数メートル先の僕が暮らす山に沢山の鴉が集まり旋回を始めた。

 その鴉の大群によって、山頂付近が黒い色に染まって見え、まるで黒煙を上げているかのようだった。


 その光景に度肝を抜かれて、僕は立ち止まった。

 目を何度も擦ったが、その光景は変わらなかった。

 あんな場所に行くと思うと、足が急に重たくなった。


 すると早く歩けとばかりに鳥居にとまっていた鴉達がけたたましく鳴き出したので、僕はビクビクしながら歩き出した。歩き出さねば、次の瞬間には鴉の嘴につつかれそうな気がしていた。

 僕が歩き出すと、鳥居にとまっていた鴉達も後ろをついてきた。

 鴉に見張られるようにして、山の入り口と思われるそこだけ木々がなく草がボウボウと伸びている場所まで辿り着いた。


 そこには、真っ黒な看板が立てられていた。

 雨で濡れてはいたが、生い茂る木々の茶色の葉から雫がしたたり落ちると嫌な音を立てた……ように思った。


「入山禁止

 危険につき、生命の保証なし

 選ばれし者以外、ただちに、この地を去れ」


 看板に赤い字で書かれていたのは、ゾクリとするような警告文だった。

 その文言を声に出して読むと、冷たい風が吹いて、僕の体を凍えさせた。「正式な」選ばれし者ではない僕は、一歩後ずさりをしてしまった。


(そう…僕は…「ちがう」のだから…)


 正直なところ、逃げ出したくなった。

 なんで、こんな所に来てしまったのだろうと後悔した。

 けれど、引き返してはならない。自らが背負うと決めた荷を放り出して、背中を向けてはならないのだ。

 僕は「兄さん」に誓ったのだから。

 兄さんを裏切るようなことはあってはならない。

 背中が丸くなりながらもリュックのストラップを握りしめて心を決めた。息を大きく吸ってから吐き出し、ゆっくりと一歩を踏み出した。


 高く伸びた入り口の草は、僕が近づくとお辞儀をするかのようにカサカサと音を出しながら道を開けてくれた。通り過ぎると、「他の者の侵入は許すな」といわんばかりに、また真っ直ぐに伸びていき道を閉ざした。


 一本道が続いていた。

 太陽は燦々と照りつけているのだが、生い茂る木々が光を弱めてくれていた。この山の木々の葉は中に入って見てみると、緑でなく、多くが茶色あるいは別の色だった。

 暗く湿っている陰気な道もあったが、立ち止まる方が不気味だったので、ひたすら歩き続けた。それに立ち止まってしまったら、もう歩き出せなくなるようにも感じていた。

 額から流れる汗を拭って水分補給をしながら、「天狗の像」とやらを目指し、ひたすら山道を登って行った。


《天狗の像が入り口だ

 坂道をのぼり、階段を上がって、門を開け、中に入れ》

 と、天狗がよこした手紙に書いてあったらしい。


 天狗の存在を信じてはいなかったが、徐々にいるかもしれないと思い始めた。僕の中で少しずつ何かが変わろうとしていた。

 それは、高い木々の枝にとまっている鴉が、僕がオカシナ行動をしないように見張っているように思えたからだった。

 否、間違いない。

 ずっと僕は鴉に見張られているのだった。

 時折カァカァと鳴く声が互いに言葉を交わし、先に待ちうけている何者かに「僕の情報」を届けているかのようだった。



(この鴉達は、僕の知っている鴉とは違う。

 黒いつぶらな瞳は、注意深く、鋭い。

 列車のトンネルを抜けた時から、ずっと…そうだったんだ。

 ずっと僕を見ていた。

 天狗の使い…なのかもしれない)

 僕は体中に感じる視線を恐ろしく感じると、冷たく嫌な汗が背中を伝っていった。



 だんだん道は悪くなっていった。

 ねじ曲がりながら浮き出た木の根につまずかないように、注意深く歩かねばならなかった。

 木々はさらに密になり、鴉の鳴く声が急にしなくなると、辺りは静かになった。

 すると木の葉に残っていた雨の雫がポトッポトっと落ちる音が、耳に大きく響いた。そんな小さな音なんて本当は聞こえるはずもないのに、僕はすっかり臆病になっていた。



 次第に足が棒のようになっていった。

 先の見えない道のりは辛くてたまらなかった。もうすっかり暗くなってしまったのではないかと思ったが、顔を上げてそれを確かめる元気はなかった。

 背中は丸くなり、顔すらも上げれないが、歩みを止めてはならないと足を動かすだけで精一杯だった。僕は左手で鞄を両方持つと、地面におちていた太くて長い枝を拾い上げ、右手で握り締め杖代わりにして歩き続けた。 


 しばらくすると急に空から大枝が「ボトン」という大きな音を立てて落ちてきた。


「うわぁ!」

 地面ばかりを見ていた僕は思わず大声を上げて顔を上げると、赤茶色の杉の木に囲まれた場所についていた。


 そこには、巨大な岩があった。


 岩の上には、今にも襲いかかってきそうな真っ黒な恐ろしい天狗の像が立っていた。

 鴉のような嘴をもち、太い眉のしたにはギョロギョロとした厳しい瞳、立派な翼を広げながら、山伏の格好で棍棒を持っていた。

 木々の隙間から漏れてくる光が力を与えるかのように像に降り注ぐと、棍棒が残酷なまでに光った。数多の生命を喰らいつくしてきたように陽の光を浴びて紅に輝いたのだ。


 僕の心は折れそうになった。 


 他に道はないか探したが、他に道はない。

 天狗の像の後ろにのみ、道が続いていた。


 覚悟を決めねばならない。


 ゆっくりと道を塞いでいる天狗の像に近づいていくと不穏な霧がかかった。

 霧に包まれた天狗の像の首が動いて、僕を見下ろした……ような気がした。

 否、ギョロギョロとした恐ろしい瞳は、たしかに僕を見下ろし、近づいてきた男の全てを見るかのように上から下まで眺め回した。


 そして最後に、天狗の像は僕の目を見据え、恐ろしい棍棒を振り上げた。

 

「あっ!」

 僕は殴り殺されると思い叫び声を上げながら、両腕で頭を覆って目を閉じた。頭を覆ったところで何にもならず、棍棒が振り下ろされれば確実に死んでいるのだが…


 だが、棍棒が振り下ろされることはなかった。


 僕が恐る恐る目を開けると、天狗の像が横に動き、塞いでいた道をあけてくれたのだ。

 さらに霧は晴れ渡り、その先に続いている坂道を登れとばかりに棍棒を向けていた。

 天狗の許しがおりた…かのように。


 その道は、曲がりくねりながら続いていた。

 道の両側には大きな杉の木々が立ち聳え、赤とピンクと白のコスモスの花が綺麗に咲いていた。まるで誰かの為に咲き誇らせているかのような見事な美しさに、僕は息を呑んだ。


 恐ろしい天狗の像から一刻も早く逃げ出したかったので、疲れも忘れて小走りに駆けて行った。後ろで天狗の像が動く音がしたが、僕は怖くて振り返れなかった。


 コスモスの道に僕が足を踏み入れると、光が降り注いだ。

 下を向いてばかりいたので分からなかったが、久しぶりに顔を上げると、青い空がまだ広がっていた。


 僕はコスモスを見ながら進むことにした。

 コスモスの花の美しさといい香りを体の中に取り入れることで、心と体が軽やかになっていった。

 否、そう思おうとした。

 花の香りなんて、よく分からない。そもそもコスモスは香りの強い花ではない。全ては思い込みに過ぎないのだが、そう思うことで少し元気が出たのだった。

 色鮮やかなコスモスによって僕の心は明るくなり、前方を照らす明るい光も、いつまでもそこにあるような気がした。


 しかし、しばらくするとコスモスの花は僕に別れを告げ、両側の杉の木が身に迫ってくるように道が狭くなった。

 青かった空も、すっかり色を変えようとしていた。

 木の隙間から見える空が赤く色を変え始めると、けたたましい声で鴉が鳴き始めた。

 その声は「急げ!急げ!」と言っているかのようだった。


 その鴉達をチラリと見てから、早足で坂道を上り続けていくと、大きな松の木が立っているのが見えた。

 針のような葉は黒かった。

 その松の木の枝には、大きな鴉がとまっていた。

 今まで僕を見てきた鴉とは違い、その鴉は通常の倍以上の大きさだった。

 赤くなった空に映える闇のような黒さだった。

 立派な嘴は鎌のように見え、人間の生死を司る力を与えられているかのように僕には感じた。


 その大きな鴉が立派な翼を広げてバサバサと羽音を出すと、松の木の枝が凄まじい音を立てて道に落ちてきた。

 すると他の木の枝にとまっていた鴉達も合わせて羽音を出した。


 僕の心臓がドクンと揺れ動き、恐ろしくなって顔が青ざめると、大きな鴉はニヤリと笑った…ような気がした。

 それだけでは終わらずに、大きな鴉は他の鴉達を引き連れて立ち尽くしている僕に向かっていっせいに飛んできた。

 今まで鴉を不気味だと思った事は一度もなかったが、これはマズい。

 僕は手に持っていた鞄を2個ともその場に投げ捨てて、急いで坂道を走り出した。


 鴉に追い立てられるなんて…なんでこんな目に合うのだろうかと悲しくなった。

 日はどんどん沈み、空は真っ赤に色を変え、後ろから鴉に追い立てられながら全速力で走っている僕はさぞ滑稽に見えるだろう。

 コスモスの道をのんびり歩いていたのが嘘のようだった。


 やがて目の前に真っ赤な階段が見え、その先には堂々とした朱色の門が佇んでいた。

 僕はそのまま全速力で階段をのぼり、息を切らしながら閉ざされている朱色の門の扉を押した。

 だが立派な門の扉は重く、男の僕の力でもビクともしなかった。


 歯を食いしばりながら押し続けていると、鴉の羽根が1枚ハラハラと舞い落ちてきて、朱色の門の扉にピタリとはりついた。

 僕が顔を上げると、先程の大きな鴉が朱色の門の上にとまり、僕を見下ろしていた。


 大きな鴉と目が合った…ような気がした。

 否、確かに目があった。


 大きな鴉は、僕の目を見据えながら翼を広げてバサバサと大きく羽音を出した。

 すると、先程までビクともしなかった朱色の門の扉が大きな音を上げながら開いた。大きな鴉が、朱色の門を開ける鍵であるかのように…。

 開くと、その先には老木に囲まれた数百段もある長い階段が僕を待ち受けていた。


 僕が目を丸くしながら大きな鴉を見ていると、大きな鴉は「早く入れ」と言わんばかりに僕を睨みつけた。

 僕が慌てて中に入ると、大きな鴉はまた翼を広げて大きく羽音を出した。

 すると、朱色の門が大きな音を立てて閉まった。

 今までの生活と完全に別れを告げる音のように、僕には聞こえた。


 長い階段をじっと見つめていると、大きな鴉が舞い降りてきて、大きな黒い瞳で僕を見据えた。


『名は、なんという?』


「あっ!えっ!」

 びっくりして僕は目を丸くした。

 大きな鴉の声は頭に直接響いているかのようだった。


『名を申せ。礼儀を知らぬ男よ。

 申さぬのなら、これより先は一歩も通さぬぞ。

 狭間で、朽ち果てるがいい』


 大きな鴉は空を見上げた。

 すると、赤焼けの空を埋め尽くすほどの鴉の大群が現れ、大きな渦を巻くかのように旋回を始めた。

 空が掻き回されるような光景を見ているうちに目が回り、足元がグラグラとしてきた。

 僕の立っている地面だけが泥沼にかわっていた。足がはまって抜け出せずに膝まで泥にはまり、泥が生きているかのように僕にまとわりつきだした。


「えっ…あっ!助けて!」

 僕は大きな鴉に必死に助けを求めたが、大きな鴉は僕を見ているだけだった。質問に答えようとしない男を助けるつもりはないとでも言うかのように…。


「あっ…あの…刈谷昌景と申します!

 助けて!」

 僕はなんとか声を振り絞ったが、体は恐怖で震えていた。


『貴様が、選ばれし者か?

 何故、震えている?

 嘘は許さぬぞ』

 大きな鴉の声が頭に響いた。


(こんな事をされて怖がらない者がいるのだろうか?!)

 僕はそう思ったが、余計な事を言って大きな鴉を怒らせてはならない。


「あっ…あの…すみません。

 僕は…その…選ばれし者の代わりとして、ここに来ました」

 と、僕は正直に答えた。


 僕を飲み込んでいこうとする泥の勢いが少し弱くなった。


「助けて…ください…」

 僕は、もう一度そう懇願した。


 大きな鴉は、ただ、僕を睨みつけた。

 忌々しい者を見るかのような瞳をしていた。


 泥の勢いはなくなったが、どんどん体は沈んでいき、ついには腰の辺りまで泥に浸かって身動きがとれなくなった。足を上げようとしたが、両足首を誰かに掴まれているかのように動かせなかった。

 

(このまま…ここで死んでいくのか…)

 僕がそう思った瞬間、大きな鴉はパッと赤い空を見上げた。


「それくらいにしておけ。

 妖術を解いてやれ、カラス」

 突然、低い男の声が空から響いた。


『かしこまりました。主人様』

 今までとは打って変わり、大きな鴉はうっとりするような目をして頷いた。


 男の言葉通り、大きな鴉は妖術を解いてくれた。


 僕の服も体も泥で汚れてなどなかった。

 全ては妖術による、幻覚だったのだ。


「階段を登れ。

 穢れを、洗い流してくれようぞ」

 空からまた低い男の声が響いた。


 すると、しとしとと雨が降り始めた。

 僕の体にまとわりついている人間の世界の穢れを洗い流すかのように、冷たい雨が僕の体に打ちつけた。

 

 僕は、鬱蒼とした老木に囲まれた数百段もある階段を登りだした。

 階段を一段登るたびに足は重くなっていった。坂道を登っていた時よりもしんどく、どんどん歩みは遅くなっていった。

 そして、まるで走馬灯のように僕が今まで過ごしてきた日々が脳裏に現れては過ぎ去っていった。

 今の僕を形作っている出来事や感情が溢れてきた。

 僕の全てを曝け出させようとするかのように、その階段は僕を真っ白にしたのだった。


 階段を登りきると、黒色の門が見えた。


 僕の額からは汗が流れ落ち、荒い呼吸を繰り返していた。


 黒色の門の扉は、音もなく開いた。


「黒門だ。

 恐れることはない、中に入れ」

 空からまた低い男の声が響いた。


 僕は呼吸を整えてから、黒門に一歩足を踏み入れた。

 その瞬間、正面から凄まじい風が吹き付けてきた。

 足を踏ん張っていなければ、そのまま登ってきた数百段もする階段を真っ逆さまに転がり落ちていくところだった。

 ほどなくして風が止むと、重たくなっていた両足の疲れがなくなった。


 黒門をくぐり中に入ると、地響きのような凄まじい音を上げながら黒門の扉が閉まった。


 数百段もある階段を登っているうちに、日はすっかり沈んで夕闇が帳のようにおり、僕には周りがどうなっているのかよく分からなかった。

 音もない静かで暗い世界にきてしまったのではないかと思ったぐらいだった。

 

 僕が途方に暮れていると、大きな鴉が僕の目の前に現れた。


『もうすぐ主人様が戻ってこられる。

 ついて来い』

 大きな鴉の声がまた頭に響いた。

 そうするしかない僕は大人しくついて行くことにした。

 それ以降、大きな鴉は羽音を出さなくなったので、僕の足音だけが静寂の中で響いていた。



 しばらく歩くと、周囲の木の枝が風で激しく揺れ動きだし急に辺りが騒がしくなった。

 静かだったその場所に葉擦れの音が響き渡り、合わさった音は叫び声のように聞こえ出し、地面が揺れ動いた。


 大きな鴉は僕に何か知らせようと慌てて振り返ったが、突風のような風に吹き飛ばされ、一瞬にしていなくなってしまった。

 一方、僕は風に巻かれて高く舞い上がると、見えざる手に捕まったかのように体の自由を奪われ、なんらかの暗い建物の中に引きずりこまれていった。

 乱暴に床に叩きつけられると、大きな音を立てて建物の扉が閉まったような音が聞こえた。

 

 僕は何の灯りもない建物の中で横たわっていた。叩きつけられたせいで体が痛かった。

 骨が折れていないのと血も出ていないのが、せめてもの救いだった。


 締め切られた暗い建物の中で僕は横になったまま目を凝らしたが何も見えず、不穏な空気だけが流れていた。


 しばらくの間、僕はそのまま身動きもせずに聞き耳だけを立てていた。  

 僕の目には見えないが、もしかしたらこの建物の中に誰かがいて、僕を見ているのかもしれないと思った。

 物音がしたら、それとは別の方向に向かって、すぐに逃げないといけない。

 

 しかし、建物の中から物音が聞こえることはなかった。

 その代わり、建物の外から扉を叩く音がした。

 音は次第に大きくなり、扉を壊そうとするかのようにドンドンと凄まじい音が鳴り響いた。叩く音に混じって、獣のような恐ろしい吠え声も聞こえてきた。

 吠え声がどんどん大きくなっていくと、恐ろしい叫び声も加わり、火薬でも使ったような爆音と共に煙のような臭いが充満した。

 

 建物の中になだれ込んでくる沢山の大きな足音を聞くと、僕は小さく縮こまった。

 今すぐにでも立ち上がって逃げなければならないのだが、本当に恐ろしい出来事に遭遇すると人は何も出来なくなるということを、この瞬間はじめて味わった。

 体の震えが止まらなかった。

 何もせずにいれば、なだれ込んできた何者かに殺されるかもしれないが、恐怖に支配され何も出来なかった。


 しかしなだれ込んできた者達が、僕を見つけることはなかった。まるで、僕がそこに存在していないかのように。


「どこだ?」

「どこにある?」

 大声を上げながら、何かを必死で探しているようだった。


 何かを探し回る耳障りな大声が、建物中に響き渡った。

 苛立ちからなのか滅茶苦茶に物を壊す音、壁を引っ掻くような奇妙な音、暴れ回る音が響いた。


 その音はしばらく続いたのだが、ついに狂ったような男の笑い声が響き渡った。

 その瞬間、建物の中がとても寒くなった。ひどい吹雪の雪山にいるかのように、男の笑い声は何もかもを凍らせた。


「見つけた!見つけた!

 だが忌々しいことに、我等が決して触れられぬ札がついておる。 

 はて、どうしたものか…」 

 身の毛のよだつような恐ろしく冷たい男の声だった。


 その冷たい声は、僕をさらに縮こまらせた。

 見つからないよう、冷たい床に体がくっついたのではないかと思うほど、僕はジッとするしかなかった。全身を震撼させるような恐怖を感じた。


 それを感じていたのは…僕だけではなかった。


「お許しください!お許しください!」

 突然、泣き叫ぶ声が上がった。

 そしてガタガタと揺れ動く音、軋む音、何かが潰れるような音がした。


「何をなさるのですか!」

「おやめください!」

 あちこちから悲鳴と呻き声が上がり、逃げ回るような足音が響いたが、潰れるような音は一向に止まず、建物の中は鼻につくような嫌な臭いが充満していった。


 嗅いだ事もない臭いだった。

 嗅いではいけない臭いだった。


 その音と臭いは、強くなるばかりであった。

 それが強くなると、逃げ回る足音はどんどん小さくなっていった。


「最後に残ったのは、お前か。

 これこそ、鬼ごっこだな。しかし、この鬼ごっこは捕まれば死だ。

 なんだ?その顔は?  

 我の役に立って死んでいくのだ。名誉なことではないか?そうだろ?

 ソコに、手をついて引き剥がせ。先に逝った奴等と同じように」

 冷たい声の主がそう言うと、恐怖によって歯をガタガタと鳴らす音が聞こえた。


「どうか…お許しください…どうか…」

 命乞いをするかのような悲痛な声が響いた。


 すると、ピチャピチャと何かを踏みつける音が聞こえた。その度に嗅いではいけない臭いが充満した。

 僕は吐きそうになった。

 もう何の臭いなのかは見当がついた…これは、血の臭いだろう。


(この建物の中は死体と血にまみれているんだろう…。

 誰か…誰か…助けてくれ…こんな所にいたくはない)

 僕は「誰か」に助けを求めた。 

 いつもそうだったように……僕を助けてくれる「誰か」を求める事しか出来なかった。


 すると怒りに満ちた男の声が上がると同時に、耳を塞ぎたくなるような叫び声も上がった。


「腕が!腕が!!」

 ゾッとするような叫び声と共に、さらに臭いが充満した。 


 僕は体の中のものを全部吐いてしまいそうになった。

 暗闇の中で、何が起こっているのか推測した。

 恐ろしく冷たい声の主によって、他の足音を立てていた者達全員が殺されていたのだ。ガタガタと揺れ動く音は逃げ回る音、軋む音はむんずとつかんだ音、潰れる音は殺した或いは体が破裂した音だったのだろう。


 そう思うと、何かが右手に触れた感触がした。

 冷たくて、悍ましく、ヌルヌルとして、嫌な臭いを発しているモノだ。

 恐る恐る顔を上げると、真っ暗で何も見えないはずなのに白いモノがぼうっと見えてきた。

 それは形をなさぬほどにもぎ取られ破裂した腕の一部だった。


 建物の中は、ちぎれた腕や潰れた胴体が漂う血の海と化していた。


「やったぞ!ようやくだ!

 ようやく盃を手に入れた!」

 冷たい声の主が叫ぶと、僕は骨の髄まで凍る思いがした。



(今、ここにいるのは、この声の主と僕だけだ…。

 夢中になって探していた盃を手に入れたのだから、やがては僕にも気付くだろう。

 その場合、目撃者は殺される。生かしておく理由がない。

 酷い最期だ。

 よく分からない山の建物の中で、惨殺される。

 こんなのあんまりじゃないか…僕はまだ「何も」していない。

 何も…何も…ならば逃げなければ!

 死にたくない!)

 僕は震えて何も出来ない自分と戦わなければならないと思った。今こそ、戦わなければならない。

 何もせずに死ぬぐらいならば、最後の足掻きをしなければならないと思うと、体を持ち上げることができた。

 僕は扉があると思われる方向にむかって全力で走り出した。

 壊されたと思っていた扉は固く閉まっていた。

 僕は体当たりをするかのように扉に突進して、重たい扉を力尽くで開けた。


 すると、その勇気を讃えるかのように、輝く月の光が建物中を一気に明るく照らした。


 その光は、僕をさらに奮い立たせた。

 何が起こっているのかを推測ではなく、この目でしっかりと見なければならないと思い、後ろを振り返った。


 そこには何もいなかった。

 何もなかった。

 ただのガランとした、お堂だった。


(幻覚…幻覚だったのか…?)

 だが、ねっとりとした血は、右手にしっかりとこびりついていた。


「うわぁ!」 

 僕は服になすりつけたが、ソレは擦っても擦っても全くとれずに、右手から漂う悪臭がどんどんと酷くなっていった。


「すみません!

 何処にいるんですか?!

 すみません!」

 僕は必死になって先程の大きな鴉を呼んだが、大きな鴉の頭に響くような声は聞こえることはなかった。







 その代わりに、月の光が僕を優しく照らした。

 もうすぐ新月だから照らす光は微かなのだが、それでも眩しく輝いていた。

(満月ならば、どれほど美しいのだろう…)

 こんな時なのに、僕は何故かそんな事を思ってしまっていた。

 優しい月の光に照らされているうちに、僕の気持ちは和らぎ、先程の恐怖と右手にこびりついた血のことを…何故か…忘れてしまったのだった。

 まるで誰かに守ってもらっているかのように…僕の気持ちは落ち着いたのだった。

 


 冷たい夜風を全身に感じながら、木々の葉がそよぐ音を聞いていると、僕は気持ちがよくなってきて目を閉じた。

 先程の恐怖心もどこへやら、幻なのだから、朝になるまでこうやって月の光に照らされているのもいいかもしれないと思っていた。いろんな事が一気に起こりすぎて、僕はすっかり麻痺していた。

 そうして目を開けた次の瞬間だった。


 空気が震えて、周りの木々の枝がいっせいにザワザワと揺れ動いた。

 そして、大きな黒い翼を持つ奇妙な者の影が、月をよぎったのだ。


「あっ!」

 僕は小さな悲鳴を上げた。

 その奇妙な者の影は激しい羽音を出しながら、僕の背後に舞い降りたのだった。


 背中に悪寒が走った。

 落葉を踏む音が、のほほんとしていた僕を連れ戻しにきた死の音のように聞こえた。先程の恐怖が一瞬にして甦った。 

 流れる雲が月の光を隠し、僕を照らす光が消え失せると、僕は完全に現実に戻った。


(殺…される…。さっきの男か…?)

 僕の体がガタガタと大きく震え出した。


 背後に立っている者は少し小さく笑ってから、僕の肩に手を置いた。

 チラリと見たその手は大きくて力強い。男の僕の手すらも、小さな少年の手のように思えるほどに。


「俺の盃、盗られちまったか。

 あの盃じゃないと、マズイんだよな。

 あー、困ったな。探さないと、マズイわ。

 お前にもさ、責任があるから、一緒に探してくれるんだよな?」

 ゾクリとするような低い男の声が、真っ黒な闇の中に響き渡った。


(こっちの方がマズイ…僕の苦手なタイプだ)


「何がマズイんだよ?

 俺は、お前の苦手なタイプですかい?

 よく知らないのに、それはないだろう?」

 男は大きな声で笑った。


 男が笑うたびに、僕の頭部をグリグリと何か細いモノが突いてきた。冷たくて固くて温かみのない恐ろしいモノのように思えた。


 僕は動かずに、答えもしなかった。

 否、動けずに、答えられなかった。


(怖い…ダメだ…)


「怖がんなよ。何にもしてないだろ?

 ダメなことないよな?

 なぁ、なんか言えって。

 あー、俺さ、キレちまいそうだ」

 と、男は低い声で言った。

 僕は慌てて声のする方に向き直って、「すみません」と言いながら深々と頭を下げた。


 沈黙が流れた。


 今度は身を斬るような冷たい風が吹いた。

 雲がさらに流れて、月が顔を出したのだろう。舞い散った木の葉が地面の上を踊っているのが見えた。


 月の光は、僕と声の主を照らした。


 木の葉が高く舞い上がると、男は声を上げて笑い出した。


「いやー、わりぃな。

 空からカラスとお前のやりとり見てたらさ、ちょーっと面白くなってきてな。

 俺も、ヤリ過ぎたわ。

 お前は悪くないんだから、謝んな。

 顔、上げろよ」

 と、男は言った。


 僕は恐る恐る顔を上げた。


「あっ!」

 僕は男を見ると思わず声を上げた。

 そして、2、3歩後ろに下がった。


 

 燃え上がるような赤い髪、僕を見下ろす銀色の瞳は煌々と輝く月のように美しかった。それでいて非常に鋭く、全てを見透かすかのような恐ろしい光を湛えていた。

 全身から溢れ出している自信と圧倒的なオーラが、2メートルは越えているであろう男をさらに大きく見せた。

 僕が目をぱちくりさせるたびに、溜息がでるほどに大きくて美しい灰色の翼をはためかせた。その両翼で包み込めば、何もかもを男の色に染め上げてしまうのだろう。

 男が着ている着物は少し乱れてはだけているのだが、それでも不思議と清潔感と色気があった。風によって乱れた着物がなびき、そこから見え隠れする上半身は筋骨隆々であった。

 

 男は、僕が存在しないと思っていた存在「天狗」だった。

 頭には天狗のお面をつけ、腰には長い刀と短刀のようなものをさしていた。


「おっ…と危ない。

 それほど俺が怖いか?」

 男は逞しい片腕で今にも崩れ落ちそうな僕の腕をがっしりと掴みながら言った。


 僕がまじまじと男を見ると、急に輝きを増した眩い月の光が男を照らした。



「紅天狗だ。

 よろしくな」

 紅天狗はそう言うと、爽やかに微笑んだ。

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