第11話 約束 

 

 白い翼をはためかせる紅天狗の幻を見ていると夢見心地になり、白銀に輝く世界に包まれていった。

 眩い光の世界は優しくてあたたく、全てを包み込んで癒してくれるような不思議な力があった。


 だが、夢見心地は長くは続かなかった。


 あまりにも眩い世界は音を立てて崩れていく…そう煌びやかな幻であり現実ではないのだから。崩壊する音と共に無防備となった男を吹き飛ばす強い風が、唸りを上げて吹き荒れた。

 

『ここからが、始まりだ。

 さぁ…愉しませてもらうぞ』

 唸りを上げる風が薄れつつあった呪いをより強力なものに変えようと、僕の体を包み込んだ。


 刻み込まれた呪いは、そう簡単には消えてはいかない。

 呪いとは悪意を持って絶望の淵に突き落とすものだ。簡単に祓えるのならば、これほどまでに苦しまなかっただろう。

 唸りを上げる風が呪いの言葉を口にしているように聞こえて身震いすると、さらに激しく吹き荒れた。

 心と体の奥深くまで染み渡ると、風は勝ち誇ったような雄叫びを上げた。徐々に形を成していき、真っ黒で巨大な人形ひとがたとなった。あまりにも大きな責任を背負ったことによる恐れの感情を読み取り、形を成したのかもしれない。


 人形は虚無のような瞳で、選ばれし者を見下ろした。


「お前、今まで「何か」を成し遂げたことがあるのか?

 お前のような小さな人間に何が出来ようか?

 失敗するのが目に見えている。

 そうだろう?お前自身も知っている。

 お前は何度も失敗してきた」

 恐れは、僕を責め立てる声を出した。


「お前は、何をやらしても人並み以下だ。

 なぁ…そうだろう?

 異界でも何度も天狗に助けられた。それなのにソレを忘れて自分の力だと思い始めている。

 何をやっても要領が悪いくせに、調子に乗るなよ。

 助けてもらわねば何も出来ない。普通のことすらマトモに出来ないのが、お前だ…刈谷昌景だ。

 刈谷昌信の残りで作られた、一人前の男には決してなれない失敗作だ。

 そう運命づけられている。

 それなのに…愚かな夢を見るとはな。いや、愚か者故に愚かな夢を見る。

 天狗も、いつかガッカリするぞ。

 お前には、ガッカリだ」

 恐れは父に似た声を出しながら、蔑む言葉を長々と吐き続けた。仕事から帰ってきた父が放つ言葉はいつでも情け容赦がなく、怯えれば怯えるほどに熱を帯びるのだった。


 僕の額から汗がダラダラと流れ落ちた。


「本当のお前を知っているぞ」

 と、性悪な声で嘲笑った。


「僕は戦える男だ。

 決めつけるだけで何も見てこなかったくせに、僕を語るんじゃない!」

 大声で叫び誇らしげに胸を張らなければならないのに、僕の頭の中は恐怖で真っ白になっていた。



 恐れは怯えている姿を見ると、僕の体にのしかかってきた。

「僕が」失敗したことで引き起こされる百鬼夜行が頭をよぎり、妖怪が肉を食らう姿を見ると気絶しそうになった。 

 恐れは笑い声を上げながらドロドロに溶けていき、足元の土を蠢くような泥へと変えた。さらに酷い雨が降り出した。瞬く間に濁流のようになると、僕に襲いかかってきた。

 足と手でかき分けながら這いあがろうとしたが、蠢く泥は以前よりも執念深くて色が濃く…そう真っ黒な色をしていた。


 さらに琵琶のような音が聞こえてきた。

 紅天狗の紡ぎ出す笛の音とは違い、血も凍るような音だった。抗う意志を溶かし、絶望に引き摺り込むように変化する音の調べを聞いていると、ひどい眠気に襲われた。

 手足は抵抗する力をなくし、両膝をつき泥にのまれていった。重たくなってきた瞼の隙間から見えるのは、神々しく明滅する光の粒だった。



「おい!昌景!寝るなよ!

 また明日から共に戦うんだ」

 力強い声が僕の耳元ですると、ゆっくりと泥は引いていき地面に吸い込まれていった。頭がクラクラしながら声のする方を見ると、紅天狗は前後に揺れている僕の体を支えてくれていた。


「起きたな。よかったよかった。

 昌景が寝るには早すぎる。お前は、こっからだ」


「あっ…ごめん。その…」

 僕はちらと地面を見ながら話し出そうとしたが、見えざる手に口を塞がれたかのように言葉にならなかった。

 口をモゴモゴさせていると、紅天狗は目をギラッと光らせて僕を見た。


「何があった?昌景」

 と、紅天狗は言った。


「その…恐ろしい泥の幻を…見たんだ。

 異界に繋がる道で右足に絡みついた泥を思い出させるような…恐ろしい泥なんだ。

 今回は巨人のようになって…襲いかかってきたんだ。

 幻なのに…どこか現実にも思えた…本当に恐ろしかった。

 紅天狗は…おそ…れるもの…なんてないよね。

 あるわけないか…」

 僕の目に映る男は逞しく、何一つとして恐れるものなどないような気がした。

 異界の者達は、紅天狗を恐れている。

 天狗の炎は烈しく、全てを焼き尽くし、全てを「無」に変えるのだから。


 紅天狗は風でそよぐ赤い髪をかき上げると「あるさ」と素気なく答えてから、果てしなく広がる空を眺めた。


「その名の通りだ。

 名は己を現し、その名が己を築いている」

 と、紅天狗は言った。


 僕が目を丸くしていると、紅天狗は小さく笑った。


「え?あるの?

 それは…その…鬼…?」

 予期せぬ返答に驚いた僕は異界で最も恐ろしいとされる妖怪の名を口にしていた。


「ないな。

 俺は、結界門を守っている」

 紅天狗はそう言うと、赤い髪が鬼ですら震え上がらせるほどの凄まじい炎のように靡いた。


「強者は、弱者の領域を侵犯出来る。

 俺が最強ではなくなった時、鬼の領域に自由に行く事が出来なくなる。負けはあってはならない。

 もし天狗が負ければ、鬼は天狗の領域を侵犯する。

 天狗の領域…俺が守らねばならない山をだ。さすれば鬼は山から降りるだろう。

 それだけはあってはならない。

 だからこそ、俺は最強でなければならない。 

 その為に、俺は戦い続けている。

 俺の守らねばならないモノの為に、俺は鬼すらも超え続けなければならない。

 そう…俺は守りたいモノの為なら、どんな事でもする。

 どれほど恐ろしい姿にもなれる。

 それが、俺の覚悟だ」

 紅天狗は瞳に恐ろしい色を湛えながら荒々しい声で言った。男は自らを焦がすほどの熱を帯びたまま、目の前の小さな男を見た。その瞳の威力に耐えきれなくなった僕は目を逸らした。



 すると辺りはしんと静まり返り、泥を吸い込んだ地面から得体の知れない影が現れた。



「昌景、刀を持て」 

 紅天狗は刀を手に取った。

 鞘にあってもなお凄まじい力を感じた僕は、その迫力に飲み込まれて小さく縮こまった。


「昌景、刀を持つんだ」

 紅天狗はゆっくりと繰り返したので、僕は震える手で慌てて短刀を握った。


「俺は、お前の力を最大限にまで引き出してやる。

 その名を掲げ、歩いてきた道に誇りを持てる男にしてやろう。

 なぜなら俺と共に戦い抜くと、この松の木の下で宣言したからだ。

 刈谷昌景は天狗と共に肩を並べ、鬼と戦う事が出来る唯一の男だ」

 紅天狗は力強い声でそう言うと、満月の光を浴びて輝く美しい刀の刃を少し出した。


 僕が戦い続ける限り天狗は人間と共にあると、約束してくれたのだ。

 紅天狗の誓いは、僕の心を奮い立たせ、泥よりも深く刻みこまれた。


(そうだ…何を怯えていたんだろう。

 あの扉を開けた時から僕の世界は変わったんだ…もう後戻りは出来ない。

 共に、戦うんだ。僕も、戦うんだ。

 たとえ泥の中を這いずり回る事になろうとも何度でも起き上がり、泥にまみれながら戦い続け守り抜かねばならない。

 それが、約束だ)


 僕は短刀を力強く握り締めた。

 右手を焦がすほどの熱を短刀から感じると、僕の心と体に染み渡り烈しく駆け巡っていった。この身に宿る忌まわしい呪いの全てを焼き尽くす力になろうとするかのようだった。

 僕達はそれぞれの刀の刃と鍔を打ち合わせた。

 この時、満月の光に照らされながら自らの見えざる銀色の刃を見たような気がした。


 静寂の中で、誓いの音が鳴り響いた。

 魂まで刻み込まれるほどの烈しい音だった。


「約束だ」

 紅天狗は挑戦的な笑みを浮かべながら言ったのだった。



 それから黙ったまま夜空を眺めていたが、松の枝葉をそよがす音と共に遠く離れた場所から鴉達の鳴き声が上がった。


「カラスは、もう少し時間がかかるか」

 紅天狗は独り言のように呟いた。


「袴の人に会うのは久しぶりだな。

 一反木綿の領域に行く前に会ったきりだよ」

 僕はそう言いながら、袴の人の顔を思い浮かべた。

 彼女と話をしていなければ感情の整理がつかなかっただろう。一反木綿の領域で戦うことも出来ずに死んでいたかもしれないと思うと深く彼女に感謝した。


 すると、紅天狗は目をキョトンとさせた。


「なんだ?気付いてなかったのか?

 カラスなら、何度か昌景の部屋に行ってるぞ。

 一反木綿の領域から帰ってきた日はうなされていたから、カラスが側にいたんだ。俺が異界に行っている間、俺の代わりに昌景に薬を飲ませてくれていた」

 と、紅天狗は言った。


「えっ…そんな…」 

 僕は寝顔を見られていたのだと思うと、少し恥ずかしくなった。


「心配してたよ。

 自分が余計な事を言ったのかもしれない。無理をさせたんじゃないのかと悩んでいた。昌景に謝らないといけないと言ってた…な」

 紅天狗はそう言うと、僕の顔をチラリと見た。


「そんな!ちがうよ!

 僕は自分の為に戦ったんだ。ボロボロになったけれど、それ以上のものを得られた。

 袴の人の言葉は嬉しかったんだ…あの笑顔も…忘れない」

 と、僕は言った。


「そうか。なら、そう言ってあげてくれないか?

 昌景の口から聞いた方が、カラスも安心するだろうからさ」

 紅天狗が優しい声で言うと、僕はコクリと頷いた。それほど心配してくれていたのだと思うと、申し訳ないような嬉しいような気持ちになった。


「紅天狗がいい子だと言っていたのが…分かったよ。

 彼女は優しくて、いい子だ。言葉以上に表情を見ていたら…最後に向けてくれた微笑みを見ていたら…分かったんだ。

 僕の方こそ謝らないと…いいや、ありがとうと言わないと」

 僕がそう言うと、紅天狗は嬉しそうな顔をした。


「腹減ってきたな。

 団子でも作ってきたら、良かったな」

 と、紅天狗は言った。


「え?団子も作れるの?」

 僕は少し大きな声を上げていた。

 紅天狗の口から団子という言葉が出てきたこと以上に、団子を作れるということに驚かずにはいられなかった。


「俺は何でも出来るんだよ。

 カラスが来るまで…全部してたからな」

 紅天狗はそう言うと、ハッとした顔になって口を抑えた。

 男の目は大きく見開いた後、何かを思い出そうとするかのように眉間に皺を寄せた。


「紅天狗…大丈夫?」


「あ?あぁ…すまんな。

 あれ…なんか…いま…いや、いいか。

 腹が減ってるから…かもしれんな」

 紅天狗が少し頭を押さえながら白い息を吐くと、僕は袋からサラミとチーズとチョコレートを急いで取り出した。

 

「これで良かったら、どうぞ。

 日本酒を飲むものだと思ってたから酒の肴にと持ってきたんだよ。どっちでも、好きな方を」

 と、僕は言った。紅天狗が指差したサラミを手渡すと、男はしばらくサラミを見つめてから一口齧った。


「美味いな、ありがとな」

 紅天狗は少し笑ってくれた。その瞳は、いつもの紅天狗に戻っていた。


「良かった。

 山に来る前に、駅の構内で食べ物を買い込んだんだ。

 座敷童子にもクッキーをあげたら、すごい喜んでくれたよ」

 僕は座敷童子の可愛いらしいエクボを思い出した。


「そうか。座敷童子も喜んでたか。良かった良かった。

 持ってきた鞄に、食料詰め込んでたのか?

 宗家の連中から何も聞かなかったのか?」

 紅天狗はそう言うと、サラミを口に放り込んだ。僕の脳裏に両親と叔父の顔が浮かんだ。


「黒羽の矢が刺さったのは、昌景の家じゃなかったんだよな。別の男の家だったな。

 でも運命が、お前を、ここに呼んだか。

 昌景、ここに来てくれて、ありがとな」

 紅天狗は僕の方に目を向けて、にっこりと微笑んだ。


 僕は思わず「あっ…」と声を漏らした。誰かに必要とされる事が、これほど嬉しい事とは今まで知らなかった。

 同時に苦しみを吐き出したい気持ちになった。

 夜空に浮かぶ満月があまりにも麗しくて、少しおかしくなっていたのかもしれない。約束を守る為に、抱え続ける苦しみに何らかの答えを導き出さねばならないとも思ったのかもしれない。

 どちらにせよ紅天狗ならば「僕の話」を聞いてくれて、背中を押してくれるような気がした。

 僕が今いる場所は泥で出来ている。

 簡単に崩れていくのを防ぐ為にも体中に駆け巡った熱を力とし、烈しい太陽のような光を掲げて抗わなければならない。

 僕には光が必要なのだから。

 紅天狗の瞳にはその光が宿っていて、不思議なほどに僕にも力を与えてくれる。

 

  

 

「紅天狗…あの…さ…」

 僕の声は自分でも分かるほどに震えていた。苦しい日々を噛み締めるのは勇気のいる事だった。


「なんだ?昌景」

 紅天狗は僕の表情をチラリと見ると優しい声で答えてくれた。


「あの…少し…話をしてもいいかな?」


「昌景の話しなら、いくらでも聞こう」

 紅天狗は落ち着いた声で言うと、僕の緊張をほぐすかのように背中を撫でた。


 僕は一息ついてから話し始めた。

 紅天狗はただ頷き、話しの途中で質問をするようなことはしなかった。草の上におかれた右手には時折力が入り、男の腕の血管が際立つのだった。


「僕は素晴らしい息子にはなれなかった。

 両親が自慢できるような息子にはなれなかったんだ」

 僕は最後にそう呟いた。


 紅天狗はしばらく黙って睨め付けるように僕の顔を見ていたが、やがて口を開いた。


「素晴らしいって何だよ?その基準はなんだ?誰が作った?

 お前がソイツらの基準に合わせる必要なんてない。どうせ下らない人間が作った下らない基準だ。

 自分の基準を作れ。ソレに見合う男になれたらソレでいい。ソレがいい。

 それにな、なれないし、そもそもならない。

 お前は、心のある一人の人間だ。考え戦い生きる事ができる1人の人間だ。

 それはソイツらの願いだ。

 お前の願いじゃない。

 願いを押し付けてはならないし、もしお前が願い通りに生きるのなら刈谷昌景の願いは誰が叶えてやる?お前の息子がか?

 そんな馬鹿げた事を繰り返すつもりなのか? 

 お前は夢を叶えてやる妖術師ではない。

 お前が叶えられるのは、叶えて意味があるのは、刈谷昌景の願いだけだ」

 紅天狗は何度も僕の名を力を込めて言った。

 何者でもなかった男に、自分の道が真っ白であった男に、自らが何者なのかを思い出させようとしていた。 


 子供の人生は親の人生の一部なのだから、期待に応えられないと怒られても仕方がない。

 その考えは、明らかに狂っている。

 だが僕を責め立てる両親の形相と言葉によって、いつの間にか「僕が悪い」と思うようになった。「失敗」することに過剰に怯えていった。そして「何か」を始める事が怖くなった。

 どうせ要領の悪い僕は失敗するのだから、挑戦という2文字はあってはならない。辿り着く先が「成功」ではなければ意味がない。親に恥をかかせてはならない。

 失敗すれば「終わり」で、敗者が生み出すものには何の価値もない。敗者が「何」なのかも分からずに、僕は諦めた。


 今の僕は諦め続けた日々を後悔していた。

「ここから始めるんだ」と決めたのに、不意に下を向くと地面を覆う不気味な影が僕の足下に黒々と迫ってきた。 

 影がウヨウヨと動くのを見ているうちに「今も、そこにいる」ような錯覚に陥った。

 そうなるように歪んでいるのかもしれない。

 すると滅多刺しにされ縫い合わせたはずの心の傷口から血が噴き上がった。



「出来ない事ばかりだった。

 僕が原因だったのかもしれない。

 そう…僕が悪いんだ。

 僕が悪いから… 弱くて力もないから…何も言い返してはいけない。受け入れるしかない。力もないから…戦う事は…許されない」

 僕は頭を抱えながら呟いていた。


 噴き上がった血を影が啜る幻を僕は見た。影はたらふく血を啜ると、口周りにこびりついた赤黒い血も綺麗に舐めとった。

 冷たい恐怖が心を満たすと、いくつかの妖怪と戦ったことで生まれた力も凍りついていった。




「お前、本気で言ってんのか!」

 紅天狗は空気が震えるほどの怒声を上げた。


 あまりの迫力に顔を上げると、僕の目に映るのは人ならざる天狗だけとなった。燃え盛るような紅い天狗が、怖い目で僕を睨みつけていた。



「だって…弱いと攻撃されてしまう…異界でも…痛感した。

 弱くて力がないと戦うことが出来ない。力がないと言い返しても…粉々にされてしまうだけだ。

 紅天狗だって…弱いと思われたら狙われるって言ってたし…」


「異界では、そうだ。

 視覚的な情報から自分よりも強いか弱いかを瞬時に判断して、自分よりも弱いと思われる者を攻撃する。

 それは、事実だ。

 ならば、同じか?」

 紅天狗は目をぎらっと光らせながら言った。

 

「え?おな…じ?」


「そうだ。同じ世界なのかと聞いている。

 異界とは尋常ではない異常なる力或いは考えをもつ者達が集まっている世界だ。女神が邪悪だと判断した連中が、ひしめきあっている。

 そこでは弱いと判断されれば、狙われる。

 狙う奴等が異常者だからだ。

 クソの集まりだからだ。

 薄汚いクソ共は「食い物」を欲しているから、見た目から判断した自分よりも弱い連中を狙うんだ。

 昌景が言うことが真実なら、人間の世界も異界の世界と「同じ」という事でいいんだな?

「力がないから弱いから声に出してはいけない」というのが人間の世界の「真」であると「選ばれし者」が「天狗」の前で認めるのなら、俺は刀を握れない。

 最終的に辿り着くのは、鬼の領域となるからだ。

 成れの果ての世界となる前に、滅ぼさなければならん。

 他者を虐げ、言葉と暴力で殺し犯し、食い物にする薄汚れた世界は必要ない。

 神々が願った「人間」の世界ではないからだ」

 紅天狗は険しい表情で言った。

 赤い髪の毛が熱を帯びたように立ち上がると、男はさらに大きくなったように見えた。


「ちがう。

 でも…現実は厳しくて大変なんだ。

 声に出しても消されてしまうから…言い返せないんだ…よけいに酷くなってしまうから…」

 僕は途切れ途切れに言った。

 我慢したところで状況は良くならず悪化するだけだと既に学んでいたが、その選択をした「あの頃の自分」を守りたかったのかもしれない。

 

「でもは、ナシだ。俺は何度でも言い続けるぞ。

 言い返せないと判断したのは、お前だ。

 確かに、力がなくては戦い続ける事は出来ない。

 それは、残酷な現実だ。

 しかし、全てを奪う権利まではない。

 何も疑問に思わずただ受け入れ諦めるだけなら、その者は歩みを止めてしまい従うしかない。残された道は「死」だけだ。

 だが現実を直視し、戦う為の必要な力をつける或いは考え動き出すことで、道は広がっていく。

 叩きのめされながら見違えるほどに強くなる者もいる。戦う準備を始めた者を鍛えてくれる者もいる。助けを求めた手を握る者もいる。新たな生きる道を切り開ける者もいる。

 道は、無限に広がっている。

 それは昌景自身が、よく分かっているはずだ」

 紅天狗が声を荒げると、兄の顔が脳裏に浮かんだ。

 

 僕には絶対的な味方がいた。

 兄と同じように戦う道を選び肩を並べる事を諦めなければ、いくらでも力を貸してくれただろう。鍛えてくれただろう。

 だが自ら学ぼうとしない者には道は開けない。意志のない者には続ける事が不可能だからだ。

 そうして僕は自分の歩む道を「たった一つ」だけにしたのだった。


「受け入れれば、運命となってしまう。

 だが抗い続ければ、新たな道が開ける」

 紅天狗は鋭い瞳で力を込めて言った。


 男も「何か」と戦っているのだろう。

 男の力ですら及ばない「何か」に…そう思わせる瞳だった。

 誰しも何かを背負っている。

 最強の男ですら、その力に見合った「何か」を背負わされている。

 苦しんでいるのは自分だけだと思っていた僕は下を向き、男の瞳ではなく地面を見つめた。

 すると黒々とした影が薄気味悪く動いた。

 黒い影が湯気を上げながら蠢き、肉と骨を簡単に噛み砕くほどの牙が生えた恐ろしい口が現れた。

「楽になりたいか?

 お前は、哀れを誘うほどに弱い。弱くて…ちっぽけで惨めだ」

 身の毛のよだつような冷たい声を上げながら手招きした。

 右腕がどんどん重たくなり、僕の体はひっぱられるように地面に近づいていった。


「下を向くな、昌景。

 見えるもんが、見えなくなる」

 大きな手が僕の頭に触れ、逞しさからは考えられないような優しさでグッと上を向かされた。

 僕が見たのは、同じ黒でも煌めく夜空だった。麗しい満月は僕を見下ろしている。紅天狗と同じ銀色の光だ。


「昌景は、変わった。

 昌景自身が、証明した。

 戦わない男を、俺は守ることが出来ない。

 戦う為の拳を握り、昌景の力で鞘から刀を抜いたのだ。

 その刀は、折れることはない。

 昌景は強い。自分を信じろ」

 と、紅天狗は囁きかけた。

 そよぐ風で心地良さそうに揺れる松の枝葉が目に入り、星の光でうめつくされた金色の川のせせらぎが聞こえてきた。


「輝かしいものを見、綺麗な音に耳を傾けろ。

 その方が、お前自身を美しくしてくれる。

 それにな、俺はそんな両親に昌景が好かれていなくて良かったと心から思っている」

 紅天狗はそう言うと、丸まっていた僕の背中を軽く叩いた。


「えっ…なんで…?」

 予期せぬ言葉に僕が驚いていると、紅天狗の方が怪訝な顔をした。


「お前、本当に、好かれたいのか?

 お前の両親…いや、もう両親とは呼ばん。

 ソイツらに好かれるようであれば、昌景も似たような心根の奴ということだ。同じクソみたいな心根になれば、お前を好きになってくれるぞ。

 奴等は似た者同士で領域を作る。

 そうなれば、俺はお前を選ばれし者とは認めないからな。

 そんな男と異界に行くなんて考えただけで反吐が出るから、今すぐ記憶を消して山から叩き出してやる。

 だから、いいんだよ、昌景。

 お前と、ソイツらとはな、違いすぎる。分かり合えることはないし、分かり合う必要もない」

 紅天狗は吐き捨てるように言った。



 紅天狗の言葉が胸を揺さぶったが、同時に身を切るような冷たい風が吹き付けてきた。

 途端に、四方八方から両親の声が聞こえてきた。

 僕は実家のリビングのソファーに座っていた。リビングには兄の表彰状とトロフィーが並んでいた。最高の男は輝かしい数々を手にしていたが、何もない男は何も手にする事が出来なかった。

「何もないのだから、愛されることもない」と風が耳元で唸りを上げると、僕の目の前は真っ暗になった。


  

「兄さんは…最高の男だけど…両親から愛されていた。

 僕は…何もないから…愛されなかった」

 僕は自分の言葉に驚いて口を抑えた。


(僕は…両親に愛されたかったのだろうか?

 その答えは、分からない。

 そして、生涯分かることはないだろう。

 そもそも愛とは何なんだろうか?)

 僕がそんな事を考え出すと、隣に座っている男は声を上げて笑った。



「愛?笑わせんな。

 歪んだ性癖すぎんだろ。

 ソイツらが、他人を愛せるはずなどない。ソイツらが愛せるのは、自分だけだ。

 お前もいつか…全てを捧げたくなるほどの女に出会うだろう。その時には、分かるはずだ。

 相手を利用しようとするのは愛じゃない。愛という言葉を使って騙し、都合のいい玩具としようとしているとしか思えん。

 兄貴に向けていたのはソレだ。兄貴は分かっていたから離れたんだ。そんなもの迷惑だ。それが分からないような男じゃない。兄貴はソレを分かっていたから、昌景に助言したんだ。

 だが、俺の場合は違う。

 天狗の力を利用しようとする者は許さん。

 媚を売る顔は醜悪だ。口では綺麗事を並べたてるが、その者の心は闇よりも深い。深すぎる闇には、救いが必要だ。

 だから俺は斬り殺す」

 紅天狗は冷たい声で言った。過去に何があったのかは分からないが、天狗の力を利用しようとした者は大勢いたのだろう。



 そして僕も…兄の力にすがるばかりだった。

 


「僕は…兄さんに守ってもらうばかりだった。

 僕も兄さんに迷惑をかけていたのかもしれない」

 と、僕は言った。

 兄はいつでも僕に優しかった。その優しさの陰に隠れてばかりいた弟を迷惑に思っていたのではないかと不安になった。


「昌景は、兄貴を都合のいい盾のように思ってたのか?」

 と、紅天狗は言った。


「ちがう!

 僕は兄さんが好きだ。憧れているし大切な家族だ。かけがえのない存在なんだ!ただ…その背中を見続けていたんだ」

 僕がそう言うと、紅天狗は優しい眼差しを向けた。

 

「だったら、兄貴にとっても昌景はかけがえのない存在だ。

 強い絆で結ばれていたんだろう。

 兄貴はな、昌景を守りたかったんだ。

 守りたいから強くなったんだ。

 守りたい者の為なら、いくらでも強くなれる。

 力がなければ、何も守れないからだ。

 綺麗事だけでは守れないということを知っていたんだ。

 昌景も、守りたい者が出来たら、分かるさ」

 と、紅天狗は言った。


 

「続けることが力だ」という兄の言葉が痛切に響き渡った。

 兄は何もせずに僕のヒーローになったわけじゃない。

 兄も「刈谷昌信」であり続ける為に、たゆまぬ努力をし続けたのだ。早朝に見た部屋の灯りは兄の努力によるものだったのだろう。自らの言葉に説得力を持たせるために一生懸命励んでいたのだと今になって分かったのだった。

 だが、いつからか兄が生まれながらに凄い男だと思い込み、その陰に隠されたものまで見ようとしなかった。

 何度も守ってくれた兄の背中を思い浮かべると、紅天狗が隣にいるというのに涙が頬を伝っていった。



「兄貴は昌景の幸せを願っているだろう。

 その手で守った者が幸せに生きていてくれれば、俺なら嬉しい。それだけで、十分だ。

 だから、な?

 ソイツらの言葉に囚われて、お前の歩む道をこれ以上苦しいものにさせるな。

 泥の道は歩きづらいだろう?

 明るい言葉で道を照らし、輝かしい道を歩け」

 紅天狗は夜空を見ながら、僕の肩をポンポンと叩いた。

 僕が涙したことに気付いているだろうが「泣くな」とは言わなかった。



「おかしいだろう?

 いまだに苦しんでいるなんてさ。

 男がこんなんじゃ…いけないのに…自分でも…分かってるんだ…分かってきたのに…それなのに…まだ…続いているんだ」

 僕は体を震わせながら両手で顔を覆った。

 両親の事で流す涙は枯れ果てたように思っていたが、堰を切ったように流れ出した。恥ずかしくて堪らなかったが、男の方は気にする素振りもなく、大きな手から感じるのは温かさだった。

 


「こんな事?

 ちがう。

 昌景を苦しめ続けている、恐ろしい呪いだ。

 何もおかしくなんてない。

 苦しんでいるのは、昌景なんだから。

 傷ついているのは、昌景なんだから。

 忘れろなんて俺は言えないし、言うつもりもない。

 誰かがどうこう言える話じゃない。

 俺に出来るのは、ソイツらの言葉がいかにクソなのかをお前に分からせてやることだけだ。

 泣いてもいいんだ。涙を許されているから泣くことが出来る。男だから泣いたらいけないなんて思うな。

 感情を抑え続けていたら、いつか、とんでもない形で爆発するぞ。だから吐き出しとけ。

 俺は、いつでも感情を爆発させながら生きてるぞ。

 それにな助けを求められるのはいい事だ。俺は嬉しい。昌景が俺に助けを求めてくれたことを嬉しく思う。

 それと…そうだな…俺が思うイケナイと思う事はだな…」

 紅天狗は少し黙り込んだ。

 僕の肩に置いた手に力が入ると、今度はその手から怒りと悲しみのような感情が流れてきた。


「ソイツらの前では、絶対に涙を流すな。

 ソイツらの言葉を、絶対に信用するな。

 お前が涙を流せば、ソイツらは喜ぶ。

 お前が苦しめば、ソイツらはさらに嘘を吐く。

 お前が傷ついて苦しんでいる姿を見て楽しんでいるクソの前では涙はくれてやるな。

 な?昌景? 

 お前は、もうあの頃にはいないんだ。お前は、俺の隣にいる。もう、大丈夫だ」

 紅天狗はそう言うと、僕の肩をぐっと抱き寄せた。


 夜の風が吹くと、爽やかな香りが漂ってきた。

 紅天狗を包み込んでいる香りだ。爽やかなのに烈しく、そして優しく全てを包み込むような不思議な香りに包まれると、僕の体の震えがおさまっていった。


「なぁ…昌景」

 紅天狗は心に語りかけるような声で囁いた。


「他にも聞いて欲しいことがあるんなら言えよ。言いたくないことまで言う必要はないがな。

 あるんなら、俺が受け止めてやるよ。

 言葉にすることで、気持ちに整理がつくことだってある。

 ようやく自分と向き合おうとしているんだ。

 だが昌景は他者の言葉に重きをおきすぎている。降ってくる石をいちいち拾い上げてたらキリがないぞ。

 もっと自分の事を考えてやれ。

 いつか相手が分かってくれるなんて事はない。そもそもお前に我慢を強いるような奴が変わるはずなどない。

 大切にしなければならないのは、刈谷昌景の側にずっといてくれる自分だ。それに少しばかりハメを外したところで、お前はちゃんと自分を止めることが出来る」

 紅天狗がそう言うと、何の物音もしなくなった。

 風が止むと葉ずれの音が止まり、川の水の流れる音も、鴉の鳴き声もしなくなった。他には誰も聞いてはいない。草木も川の流れも、耳を閉じてくれている。

 この場所で息づいているのは僕と紅天狗だけのように感じると、ゆっくりと口を開いた。



「僕を産むんじゃなかったと…母が誰かに話しているのを聞いたんだ。

 本当に…辛かった…高校生の時だったけど…今でも忘れられない。

 何かの拍子に同じような言葉を聞いた日には心が暗闇に包まれる。楽しい記憶が溶けていき…嫌な記憶ばかりが蘇る。

 僕を産んでくれたことは感謝してる…けれど、愛せないのであれば産んでくれなくて良かったのに…とも思ってしまう時があるんだ。

 何故産まれてきたのか?という答えのない問いをする。

 だって僕の存在は両親によって否定されたのだから…産まれてきて良かったのだろうかと考えてしまう。

 そして、妙な事を思うんだ。

 僕が僕でなければ良かったんだろう。刈谷昌景ではなく、刈谷昌信なら良かったんだ。カッコよくて強くて何でも出来る凄い存在だったら…良かったんだ。

 しかし僕は…どうやっても刈谷昌景なんだ。兄さんには…なれない。兄さんと…僕は…違うんだ。

 僕は刈谷昌景という名の1人の人間だ。

 僕は兄さんじゃない。それなのに…兄さんのようになれって…そればかりだった。

 僕の声は…どうやっても…届かない」

 僕は涙を流しながら言った。

 手で目をこすり溢れ出る涙を拭ったが、心は悲しみと苦しみでかき乱されグチャグチャになっていた。

 僕の涙が地面に落ちると、大きく伸びた影に吸い込まれていった。

 


「あぁ、そうだ。

 お前は、兄貴ではない。

 お前は、お前だ。

 何故、産まれてきたのか?

 見つけられないのであれば、見つかるまでの答えをやろう。

 天狗と共に妖怪に立ち向い、盃を取り返して、世界を救うヒーローになる為だ。

 あ?すげぇな!壮大な理由だったな!

 世界中から感謝されるぞ!」

 紅天狗は空に届くほどの凄まじい声で言った。声は木霊して、空気が震えて山の中を駆けていった。


「取り返さなければいけないけれど、壮大すぎるよ。

 それに世界を救ったとしても誰にも知られることはない。

 宗家の人達だって…実際は何をしているのかも知らないし」

 僕は涙で溢れた目をしばたたかせながら言うと、紅天狗は不思議な微笑を浮かべた。


「けれど、刈谷昌景が知っている。

 それが、いいんだ。

 お前も盃を手にした時、ソレが分かるだろう」

 紅天狗はゆっくりと言った。

 そして僕の肩から手を離すと急須を手に取り、空になっていた僕の湯呑みにお茶を注いでくれた。

 

 僕は空っぽの湯呑みが少しずつ満たされていくのを見つめていた。


「それか、あれだな。

 ソイツらの考えが、いかに愚かなのかを証明する為だ。

 強打を腹にくらわせる為じゃないか?」

 紅天狗は湯呑みを半分まで満たすと急に手を止めた。刀を取り鞘を払おうとしたが、男はそれをすることなく額に筋を立てるだけだった。

 そして地面を見る紅天狗の瞳には奇妙な色が浮かび、ゾッとするような笑みを浮かべたので僕の体を戦慄が走り抜けた。

 

「ソイツらは、昌景から「大切なもの」を奪った。

 俺は…許せんな。

 なぁ…覚えてるか?

 盃を取り返した時、奪ってしまった時間等に見合うような特別な贈り物をしようと言ったのを。

 俺が、ソイツらを、殺してやろうか?」

 紅天狗の冷酷な言葉が心に突き刺さり、僕は黙ったまま返事をしなかった。



「俺の大切な昌景をこれほどまでに苦しめている。

 それなのに何事もなかったかのように生きてやがる。

 お前を傷つけたことすら分かっていないだろう。

 心を殺すということが、まるで分かっていない。

 俺はな、殺す事の意味も分からずに、刀を振り下ろす奴には我慢ならないんだ。

 俺が同じように地獄の苦しみを与えてやりたくなる。

 もう、ソイツらは人間じゃない。

 人間の皮を被った「化け物」だ。

 ちがうか?」

 紅天狗の瞳には紅い炎のようなものが閃いた。

 男が炎をまとったまま僕の右腕に触れると、その大きな手から烈しい怒りが伝わってきた。

 その炎は荒々しく、妖怪と戦ったことで生まれた数々の決意を紅くさせた。さらに僕の全てを丸裸にすると右腕がガタガタと動き出し、押し込めていた怒りと憎しみを烈しく暴れさせた。



(そうだ…どうして…僕だけが苦しまねばならない?

 アイツらも同じように苦しめばいい。

 同じように苦しめば僕の数十年にわたる苦しみが、美しい炎によって浄化される。

 僕は死にたくなるほど苦しんだ。

 否、心は滅多刺しにされ赤い血を噴き出している。

 ならばアイツらも体を斬り裂かれて、悶え苦しみながら赤い血を噴き出せばいい。

 腐った肉塊が烈しい炎で燃やし尽くされる時間がどれくらいなのかは分からないが、僕の数十年に比べれば瞬きをするような時間だ)

 僕の中に渦巻くのは黒々しい感情だった。

 右腕の細胞がソレを悦ぶかのように蠢くと、喉がカラカラに乾いていった。



(僕がこうなったのは、アイツらが、原因だ。

 僕は、何も悪くない。

 一方的に痛めつけられてきた。

 子供を親の所有物と見なし、僕の痛みを知ろうともせずに物のように扱った。そして物に当たるように日頃の鬱憤を発散していたのかもしれない。捕まらないように体は傷つけることなく、心を滅多刺しにした。何度も僕の心を殺したんだ。

 なんて薄汚くて醜い奴等だ。

 そんな奴等が人間であるはずがない…化け物だ。

 そうだ…紅天狗も「化け物」だと言っている。ならば…確かなのだろう。天狗の翼を黒くする腐肉塊なのだから、消えて無くなればいい)

 僕がクスクスと笑いだすと、布が燃えるようなニオイが漂ってきた。

 つい最近何処かで嗅いだことのあるようなニオイだが、何も思い出せないまま嫌なニオイから逃れるように鼻を手で覆った。


 すると、耳障りな声が背後から聞こえてきた。

 後ろを振り返ると、縄で縛られたアイツらが紅天狗の足元に転がっていた。天狗を見る顔は恐怖に満ち、いろんなものを垂れ流しながら惨めに命乞いをしていた。

 僕は笑いを堪えながら近づいて行き、紅天狗の後ろに立った。

 アイツらは僕を見つけると、今にも死にそうになっていた顔が一瞬にして変わったのだった。


「昌景、来てくれたのね!やっぱり昌景は自慢の息子だわ」

「ありがとう!昌景!来てくれると信じていたぞ」

 嬉々とした声を上げ、あの時と同じように手の平返しをした。


 僕は何も言うことなく、紅天狗の様子をうかがった。

 男の太い腕には力が入り何かに触れようとしていたが、肘から先が影になっていて何も見えなかった。


(きっと…刀を握り、殺してくれるんだろう。

 そうか…僕の言葉一つで決まるのだ)

 僕はそう解釈した。自らの言葉で紅天狗の力が振り下ろされると思うと自分の力のように思い始め、得意げに前に踏み出した。


 すると、雨がポツポツと降り始めた。

 雨ですら血の復讐を悦ぶ歓喜の涙のように感じると、僕は勝ち誇ったように右手を上げた。


「見てみろ!これが僕の力だ!

 何もかもが思いのままだ!

 僕は、何をしても許される!」

 僕は興奮しながら叫んだ。

 冷たい雨に打たれると気持ちがよくなり、地面にさらに大きく伸び始めた黒い影ですら自らの力をあらわしているかのように感じた。


「助けて…昌景…まさ…かげ…」

 アイツらは間抜け面で、用がなければ呼ぶことすらなかった名を呼び続けた。

 


(そうだ…僕も少し遊んでやろう。

 僕の心を滅多刺しにしたように、今度は僕がコイツらの顔や腕や足を痛めつけてやろう。

 長年苦しめ続けた者に、今度は苦しめられるがいい。

 その身で、思い知ればいい)

 感情を昂らせながら、腰に差している短刀の柄に触れた。


 だが、柄は氷のように冷たかった。

 さらに目貫の「扇」が目に飛び込んできた。 

 それは、紅天狗の扇であった。

 扇がもたらすのは「恐ろしい死」である。

 その覚悟をもって掲げなければならない。



「僕は…一体…何を…」 

 僕は柄から手を離すと、ようやく目を覚ました。


(今のも…きっと僕なのだろう。おさえつけていた僕なのだ。

 恨む気持ちがないといえば嘘になる…)

 心の奥底では血の復讐を望んでいた自分もいたのだと思うと恐ろしくなった。 


 見上げた満月には、流れいく雲がうつった。

 血のように赤々とした不気味な雲は、その輪郭を際立たせ、めまぐるしく満月を血で染めていく。

 満月は赤々と燃え上がり、睨め付けるような真っ赤な目で僕を見下ろした。


(憎しみは目を曇らせるだけだ。正しく物事を見えなくする。

 もっとも危険な感情だ)

 軒下で紅天狗が言った言葉を思い出した。


 渦巻く憎しみが、僕の目を曇らせた。

 僕を「僕」ではなくし、恐ろしい男に変えようとしていた。

 異界で学んだはずなのに、それすらも「無」にするところだった。

 この目で見て、感じたはずだ。



 僕は半分までお茶が注がれた湯呑みを手に取り、美しい深い黒の光沢を見つめた。斑紋がキラキラと光ると、体の中に溜まった恐ろしい感情を吐き出すかのように息を吐いた。

 それからお茶を口に含むと少し冷めてはいたが、まろやかな甘みが喉を潤して体の中に広がっていった。

 すると、白の陰陽師が脳裏をよぎった。

 僕は小さく笑った。


(今の僕は…あの男と何も…変わらない。

 自分を見失った…愚かな男だ。

 それに…また背中に隠れていた。

 さらに天狗の威をかる狐であり、自らの言動の責任の全てを紅天狗に押し付けようとした最低の男だ。

 ようやく…新たな道を歩み始めようしたんだ。

 両親の影におびえることなく、僕が僕自身を語れるように。

 僕は…憎しみに支配されてはいけない。

 僕は、戦える男だ。

 坂道を転げ落ちてはいけない。

 辿り着く先は、真っ暗な闇の中だ。

 真に、自分が為さねばならない事を考えなければならない)


 僕は拳を握り締めた。

 誰かを暴力的に痛めつけるのではなく、自分自身と戦う為に力を込めたのだった。


「僕は…望ま…ない」

 僕は地面を見ながら小さな声で言った。


「あ?すまん、昌景。

 声が地面に吸い込まれたせいか何も聞こえなかった。

 俺の目を見ながら、言ってくれ」

 紅天狗は僕の足元の影を見ながら低い声で言った。


 僕は顔を上げて紅天狗の瞳を見つめた。


「僕は、望まない。

 これは、僕の戦いだ。

 ここから、始めるんだ」



「何をだ?どうするつもりだ?

 殺してしまえば、簡単だ。

 ソイツらがいなくなれば、苦しめる者が消えてなくなる。

 ようやく、終わるんだ。

 俺が、終わらせてやるよ」

 銀色の瞳はソコにあるものを飲み込むような力を放った。


「ちがう…そうじゃない…そうじゃないんだ」


「あ?はっきり言えよ。

 そうでなければ俺には分からん。

 カラスもまだ来ないから、俺達には時間がある。

 お前の答えが出るまで、次の領域には進めんぞ」

 紅天狗は満月を眺めてから、僕に時間を与えるかのように瞳を閉じた。


(消えてなくなれば…終わるのだろうか?

 否、終わらない。

 むしろ僕の苦しみは続くだろう。

 僕が殺したという事実が生き続ける。

 僕は人間だ。誰かの命を奪う権利はない。

 僕から多くを奪ったアイツらと「同じ」人間にはなりたくない。

 僕は奪うのではない。

 そうだ…僕は勝ち取らねばならない)


「僕は、自分自身を取り戻す。

 僕は、誰も殺さない」

 僕が力を込めると、紅天狗は閉じていた瞳をゆっくりと開けた。


「お前が、殺すんじゃない。

 殺すのは、この俺だ」

 全てを貫くほどの銀色の光だった。

 底知れぬほどに大きくなり、ついには空に浮かぶ満月のようになった。その光の力は凄まじく、偽りの小さな光など簡単に飲み込んでしまうだろう。


「ちがう。

 僕が紅天狗に頼むのなら、僕が殺したのと同じだ。

 それに紅天狗に…人間を殺して欲しくない」

 僕は生死を語る銀色の瞳に一瞬怯みそうになったが、なんとか自らの思いを伝えた。


「俺の手は、すっかり血まみれだ。

 紅が増えたとしても、今更どうという事はない。

 血で血を洗えば、綺麗になるかもしれん。

 望めば、振りかざしてやる。

 お前の恨みを晴らしてやる」

 紅天狗は恐ろしい笑みを浮かべながら言った。


「僕は…望まない。

 僕は…もっと両親が悔しがる方法で見返してやりたい。

 それが僕の振りかざす刃だ。

 僕が立派な男になった時に、両親は僕にもすり寄ってくるだろう。兄さんにいつもそうしているように。

 その時…僕は両親を受け入れない。

 どれほど苦しみ悩んだのかを声に出して、僕は両親の言動を痛烈に批判する。

 そして背を向けて、自分の道を…歩いて行くんだ。

 この先何があっても…両親のことを助けない。

 僕自身が関係を…ハッキリと断ち、過去にも縛られる事なく生きていくんだ」

 僕が途切れ途切れにそう言うと、紅天狗は冷たい眼差しを向けた。


「甘いな、昌景。 

 お前を苦しめた連中が、そんな事で悔しがるとは思えん。ソイツらは開き直るぞ。腐り切った連中ってのはな、お前が考えているよりも異常だ。お前に対する罵詈雑言を何も覚えちゃいないぞ。

 猫又を思い出せ。

 もともと神経が図太いから、罰を逃れる為ならどんな嘘でも吐く。そもそも嘘だとも思っていない。

 立派な男にする為に厳しく育てたとか真面目な面して抜かしやがる。何事もなかったかのように振る舞い、自分達の育て方が良かったと声高に叫ぶだろう。

 そうだな…昌景が山を降りることを選び、何を思ったか宗家の連中に報告に上がったとする。百鬼夜行がおこらないから行かんでも分かるがな。

 となればソイツらは意気揚々と邸宅に顔を出し、涎を垂らしながらすり寄ってくるぞ。

 世界を救いし、刈谷昌景という名の男に。

 自分は何もしていないのにデカい面をしながら、親戚中に自慢しにかかるだろう。

 そんな事が、平気でできる連中だ。

 罪の意識が、そもそも欠如している。

 お前は、菓子よりも甘すぎる。

 殺さぬ限りソイツらは、何一つとして、変わらない」

 紅天狗は呆れたような声を出した。

 


 僕が「選ばれし者」となったリビングでの出来事を思い出した。母の満面の笑みと声高に叫ぶ父の姿を思い出すと、紅天狗の言葉は全てが的を得ているように感じた。



「そう…かもしれない。

 何も…変わらないかもしれない」

 僕は自分の声が震えているのが分かると言葉を切った。

 もう一度強く拳を握り締め、腰に差した短刀を見つめてから顔を上げた。


「しかし、そうする事で「僕」を変えることが出来る。

 黙って受け入れ続けた僕を終わらせる事が出来る。

 僕は両親をハッキリと批判する。

 どれほど僕が苦しみ悩んだのかを声に出そう。 

 両親は宗家の人の前で…いや親戚中の前で面目を潰すんだ。それは周囲にいい顔ばかりしてきた両親にとっては明らかに恥辱になるだろう。

 それが、僕の振りかざす刃だ。

 一反木綿の悔しがる顔を見た時、僕は気持ちがスッとしたんだ。自分が戦えたことで…僕には新たな道が見えた。

 僕に殺しは似合わない。

 その道に進めば、僕自身が苦しむだろう。

 両親の肉体を殺したことで、両親の最期の姿と魂がこの目を通して…僕の中に棲みつくだろう。

 それは罰として、永遠に離れないんだ。

 僕には血で血を洗うような復讐なんて出来ない。正気に戻った時に恐ろしくなって、発狂してしまう。

 恨みを晴らした瞬間は、甘美さに酔いしれる。

 けれど人間として犯してはならない選択をした僕は…甘美すぎるが故に…やがて心も体も蝕まれる。それは…あの時に嗅いだ果実のように。

 何をしても両親の断末魔が聞こえるようになるだろう。ヌメヌメした感触が手に染み付くだろう。血の臭いが鼻に残るだろう。最後の瞬間が蘇るだろう。

 たとえ相手がどんなに狂っていたとしても…僕自身を狂わせる。

 新たな道を歩む時に、その影は残したくないんだ。

 僕は両親から本当の意味で自由になりたい。

 紅天狗は言ってくれた。

 僕が最後には夢を叶えられるような力がついていると。僕が好きになった女性が惚れるような男になっていると。

 それは真の強さだ。

 自分を取り戻せたら、あんな奴等の事なんてどうとも思わなくなる。

 僕が僕自身を絶対的に信じられるようになれたら、愛するようになれたら、僕は揺らぐことのない自分を築けるだろう。

 だから、そんな風に変わりたい。

 この手で夢を叶え、大切な自分自身といつか出逢うであろう心から愛する女性を守れるような強い男になりたい。

 それが、僕の望みだ。

 そうなるように手を貸してくれた方が、嬉しい」

 僕は紅天狗の瞳を見つめながら言った。


 紅天狗は黙ったまま、少し目を細めた。


 すると長い階段の向こうから色褪せた2枚の枯れ葉が冷たい風にのってやってきた。

 僕の頬につき、枯れ葉は容易にはとれなかった。

 カサカサと耳障りな音を立てながら、このまま温かい部屋に連れて行けとせがんでいた。


「さぁ、どうする?昌景」

 と、紅天狗は言った。


「僕は妖怪の残酷さを受け入れることが出来ない。

 ならば両親を見返す手段も、正当なものでなければならない。

 自らの主義主張の為なら、何をしてもいいという事にならない。そうなれば妖怪と同じなんだ。

 僕は、人間を、殺さない。

 ソレも願わない。

 僕は、刈谷昌景として、戦う。

 これが、僕の答えだ。

 誰かに戦ってもらうんじゃない。救ってもらうんじゃない。

 僕は僕自身の力で終わらせたいんだ」

 僕は色褪せた萎びた2枚の葉を剥がして地面に置き、冷たい目で見下ろしてから別れを告げた。


 それは何の力もなく、明日になれば虫に啄まれて、土へとかえるだろう。僕が手を下すまでもない。

 こんな枯れ葉の為に、僕の手を汚してはならないのだ。


 紅天狗は最後まで見届けると、チョコレートを手に取って口に放り込んだ。


「甘いな、昌景は。

 この菓子よりも甘すぎる。

 だが、まぁ…美味いな。

 やるか?昌景」


「やってやる。

 貫き通してみせる」

 僕がそう言うと、紅天狗は笑みを浮かべながら地面に手を置き、瞳を閉じてからひとしきり何かを呟いた。

 座っている地面が地震のように揺れ動くと、紅天狗は瞳を開けて僕を見た。

 

「今を、生きろ」

 と、紅天狗は言った。


「今を…生きる?」

 僕はゆっくりとその言葉を繰り返した。


「そうだ、昌景。

 辛かったな。もう大丈夫だ。

 これから先も何度も試されるだろうが、もう大丈夫だ。

 何度冷たい雨が降り、お前の歩む道をぬかるませて泥に変えようとも、眩しい光が降り注ぎ、道を示してくれるだろう。

 その光は、自ら生み出す光だ。

 昌景の望み通り、俺はその為の力となろう。

 ソイツらの言葉がいかに愚かで狂っていたのかを、これからの日々で教えてやる。お前がいかに凄くて特別な男なのかを、お前自身が知る事になるだろう。

 その目に焼き付けておけ。

 それにな、お前を苦しめる者はここにはいない。

 お前を大切に思う者だけが、ここにいる。

 それを、しっかり味わっておけ。

 信用出来る者と出来ない者を、見定められるように。

 一度しかない人生だ。

 お前を大切に思う者達と、共に道を歩め。

 その方が、楽しいぞ」

 紅天狗は眩しい太陽のような明るい声で言うと、草木が揺れるほどの大声で笑い出した。


 僕が生きるのは「過去」という名の檻の中であってはならない。その檻の中で自分自身を永遠に苦しめ続けてはならないとでもいうかのように鍵を開けてくれたのだ。

 檻から脱出した僕が今いる場所は明るく輝き出そうとしている。新たな道へと踏み出す勇気を持ち続ければ、きっと世界は変わるだろう。

 長い間、暗闇に隠されていたが、強烈な光に照らされて見えた道を、僕は信じたくなった。



「泥を自らの力で払いのけ、自分を取り戻した時、お前は最高の男になるぞ」

 と、紅天狗は言った。


「僕が…最高の……男?」

 僕は噛み締めるように繰り返した。


「あぁ、そうだ。

 傷つけられる痛みを知り、他者の苦しみを理解できるから優しくなれる。そして泥を払いのける戦いに勝利したのだから力がある。

 その先の、己の意志を貫ける。

 優しく、強く、そして守り抜く力がある。

 それは、最高の男だ」

 と、紅天狗は言った。


 僕は紅天狗を見つめた。

 赤い髪は満月の光に照らされて燃え上がり、全ての暗闇を消し去るような炯々とした瞳が輝きを放った。

 紅天狗は喜びと期待に満ちあふれた表情で刀を握り締め、急に立ち上がると、僕が瞬きをした瞬間に鞘は払われた。

 そして閃光のような速さで、地面に長く伸びていた影に刀を突き刺した。


 煌々と照る月のような銀色の刃に突き刺された影は、耳を塞ぎたくなるような声を上げながら消え失せていった。


 紅天狗は影が消え失せたのを確認すると、残った残骸すらも斬り裂くように空を斬った。

 そして座ったまま呆然としている僕を見下ろした。

 

「そう遠くはない、お前の未来だ。

 刈谷昌景は、最高の男になるだろう」

 爽やかな笑顔を浮かべる紅天狗は、燦々と輝く白銀の光を放っていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る