第12話 黒龍


 紅天狗がもたらす白銀の光は強烈でいて美しく、僕の心の隅々まで明るく照らしてくれた。

 その光は全てを圧倒し、僅かに残っていた小さな影をも消し去り、強烈な光に照らされた道だけが残された。

 その道は望みながらも、諦めた道だった。

 拳を握り締めて一歩を踏み出すと、今まで感じたこともないような熱い力がみなぎってきた。不思議な力に驚いて思わず立ち止まると、後ろから爽やかな風が吹いてきて背中を押してくれた。


 ゆっくりと自らの足で歩き出すと、白銀の光は消えていこうとしたので、僕は慌てて手の中に光をかき集めようとした。 


 すると、消えゆく光は僕の心に静かに語りかけた。


「これからは昌景自身が光を生み出すんだ。 

 心の内にある熱は、火となり炎となる。何者にも屈しない猛々しい炎だ。

 炎という名の光だ。

 自らが生み出す光を掲げながら、歩み続けろ。

 さすれば勇気がくじかれることがあっても、必ずまた立ち上がり踏み出すことが出来る。 

 大丈夫、お前なら出来るさ」


 最後の瞬間、光は全てを焦がすほどに紅く燃え上がり、僕の目と心に烈しく焼きついた。


 その瞬間、僕の心が震えて「願い」が生まれた。


 その光は眩いばかりではなく、試練という名の苦痛を伴うものとなるのだから、僕を夢見心地には誘わなかった。


 煌びやかな幻ではなく、現実に勝ち取らねばならない。

 麗しい月に願うのではない、流れる星に願うのではない。

 麗しい月と流れる星に誓いを立て、その輝きに見合う男にならねばならない。


 長い年月もの間、僕を優しく包み込んでくれていた月の光は変わろうとしていた。

 この光に誓い、自らの力で自らの道を切り拓くことで、その先の爽やかな陽の光を掴むことが出来るだろう。

 たとえ足が泥に塗れていようとも、僕が歩みを止めなければ、降り注ぐ光は赤々と燃え立ち、心を奮い立たせてくれる。

 そして僕は1人じゃない。

 支えてくれる者達はいて、腰には刀を差している。この刀は、自らの手で鞘から抜くことが出来るのだ。誰かの力に頼るのではなく待ち続けるのでもなく、僕自身の手で、振り上げ振り下ろすことが出来る。

 見えざる刃は、己が折れない限り、折れることはない。


 いつの日か、僕は自ら歩むべき道を選び、その先に広がる世界で、自らの意志を貫き通すことが出来るだろう。

 自分自身と大切な人を守れる強さがあるのだから。

 

 その時、僕は兄の「隣」で酒を飲める男になっているのだ。



「兄さんも…今宵の月を見ているかな。

 僕は…ようやく…分かったよ。

 ありがとう」

 僕は兄の顔を思い出しながら、流れる星を見つめた。


「あぁ、見てるだろうさ。

 昌景が兄貴を想っているように、兄貴も昌景を想っている。

 一つに繋がっている夜空のように、遠く離れていても、お前達の心は、ずっと一つに繋がり輝き続ける。

 空が途切れることがないように、空に終わりがないように。

 その想いは、永遠に、変わらない」

 紅天狗は輝く星を見ながら言った。その声色は静かながらも、燃えたぎる男の情熱を宿していた。


 ー永遠にー


 その言葉は、存在しないと思っていた。何処にも、永遠なんてものは存在しない。


(永遠という美しい言葉など、儚い夢に過ぎない。

 永遠を口にするのは簡単だが、実際は瞬きをするよりも早くに終わってしまう)

 僕はそう思っていた。


 だが僕が兄に向ける感情は、紅天狗が言うように、永遠に変わることはない。

 ならば、その言葉をもう一度信じてみたくなった。言葉とは発する者によって、真実へと変わるのだろう。

 紅天狗の言葉の力は果てしなく、存在しないと思われるものも現実に創り出してしまう。

 そして男の逞しい腕で抱き締められ、消える事なく、永遠に続いていく。


 星が燦然と輝く静けさの中で、僕は「永遠」を見、触れた気がしたのだった。



 

 紅天狗が銀色に輝く刀を鞘に納めると、身を凍らせるような冷たい風が吹いた。

 足元の草が靡き、波のように揺れ動いた。

 紅天狗の白い羽織も翼のように揺れ、赤い髪がそよそよと靡くと、全身で風を感じるかのように銀色の瞳を閉じた。


「そろそろだ。

 カラスがここに来るのは、久しぶりだな」

 と、紅天狗は言った。


 すると吹く風は穏やかになり、川のせせらぎが響き渡った。黄金に泡立つ水の流れを感じながら、僕は足に絡みついてくる草に視線を移した。

 

「袴の人も…歩いてくるの?」

 と、僕は聞いた。


 夜空は煌めきを放っているが、足元は暗い。

 紅天狗が長くて険しい道を草履を履いた女性に歩かせるとは到底思えなかったが、彼女が人の姿ではなく鴉の姿で来るとも思えなかった。

 

「いや、そんな苦行はさせんさ。

 歩くのは、異界に行き戦うことが出来る男だけでいい。

 だから異界で戦わなければならない昌景は、歩きだ」

 紅天狗はそう言うと、楽しそうに笑った。


 大きな声を上げて笑う紅天狗を見ていると、不気味な風のことなど忘れてしまい僕もつられるように笑い出した。

「僕だって嫌だ」という言葉は出てこずに、僕の中で「何か」が変わる音が聞こえた。苦しくて仕方がない道すらも、この足で歩き終えた時に「何か」を得られるような気がしたのだった。


「そうだね。

 僕は異界に行くから、頑張って歩くよ。

 彼女は異界に行ったこともないのかな?

 この山にいるからあるんだと思ってた。妖怪の事もよく知っているから」

 と、僕は言った。


「カラスは異界に行ったことはないし、これからも連れて行くことはない。

 長い間、ここで一緒に暮らしているから、妖怪の事はよく分かっている。俺の体に染みついたニオイや、全身にこびりついた血を見ることだってあるからな。

 それに退屈される時もあるからな」

 紅天狗が怖い顔で言うと、僕は男が刀を抜く瞬間を思い浮かべた。


 僕は妖怪の肉が斬り裂かれる瞬間を実際には見たことはない。一反木綿は生を感じさせない紙のようだった。

 飛び散った肉の破片と体からもぎ取られ転がった部位の全ては、黒堂での幻と想像上でのことだ。


「カラスは、異界には不向きだ。

 憧れや願いではどうにもならない現実がある。

 力が、要求される。

 なにより、カラスは足手まといだ。

 カラスにも、そう伝えてある」

 紅天狗は誰も寄せ付けないような冷たい声で言った。


「え?そんな言い方しなくても…もっと優しく言ってあげたらいいのに」

 僕がそう言うと、紅天狗は銀色の瞳を光らせながら僕にじっと目を注いだ。


「ソレは、優しさではない。

 安全な場所にカラス達が隠れるまで、俺は木橋の先の朱色の門すらも開くことはない。

 それぞれには、それぞれの戦い方がある。 

 異界に行き、刀を握る事が、全てではない」

 紅天狗は低い声で言った。


「けど、足手まといなんて…残酷な言葉だよ」

 僕は袴の人が紅天狗に向けるひたむきな瞳を思い出していた。大切な人の力になりたいと思う気持ちは、僕には痛いほど分かった。


 紅天狗は口元に笑みを浮かべた。

 その微笑は背筋が凍るほどに残酷で、銀色の瞳には今まで男がもたらした死が浮かんでいた。


「だが現実は、もっと残酷だ。

 俺には、守らねばならないものがある。

 どうしてカラスが異界で俺の力になれる?

 俺の動きを妨げるだけだ。

 理想を口にするのは簡単だが、侵攻しているのは現実の恐怖だ。

 妖怪の現実とは、惨たらしい。

 奴等は残忍だから綺麗な戦い方にはならないし、自分の身を守れない者を連れていく気はない」

 紅天狗がそう言うと、僕は腰にさした刀から熱を感じた。


 僕が見た妖怪は百鬼夜行の後ろを歩く妖怪であり、黒堂で感じた鬼は遥か先にいる。

 これから先、紅天狗ももっと恐ろしい姿に変わるのだろう。男が僕達に向ける笑顔など幻と思えるほどに…男は烈しく残酷になる。その姿と死は、僕の脳裏に焼き付いて生涯はなれることはないのだろう。


 紅天狗は紅天狗で袴の人の事をとても大切に思っている。ソレは複雑でいながらも、どこか崇高なもののように思えた。


「それに異界でカラスが危ない目に合えば、俺は本来の目的を忘れて危険を犯すだろう。

 扇を掲げようとするかもしれない。

 俺は、妖怪が恐れる者でなければならない」

 紅天狗は静かな声で言った。


 僕が横目でチラリと見ると、紅天狗は輝く星を見つめていた。その瞳は、少し憂いを帯びていた。


「俺は異界から戻ると、その扉を開く。

 そこでカラス達が、俺を迎えてくれる。「おかえりなさい」と言いながら、微笑んでくれる。

 それがあるから…俺は…」

 紅天狗はそこまで言うと、急に頭を抑えこみ苦しそうな声を上げた。


「大丈夫?!」


「すまんな…今宵は…どうも調子が狂う」

 紅天狗は顔を押さえながら指の隙間から僕を見た。

 男の額には薄らと汗が滲み、息を荒げながら胸に手をあてて何かを強く握り締めた。

 乱れた襟の隙間から透明な汗が伝っていくのが見え、その先には紫色の光が明滅していた。

 

 紅天狗は深く息を吸い込み、僕には分からない言葉で何かを呟くと胸から手を離した。呼吸が落ち着いていくと紫色の光も薄らいでいき、逞しい首筋を伝っていた汗が蒸発するように消えていった。


「心配かけたな。

 もう、大丈夫だ」

 紅天狗はそう言ったが、僕は心配でならなかった。銀色の瞳をじっと見つめていると、男はその気持ちを察したのか僕の頭をクシャクシャと撫でた。


「カラスが来て、しばらく共に過ごしたら、俺達は歩いて帰るからな。

 暗い夜道だから、転ぶなよ」

 紅天狗は冗談めかして言った。


「あっ!そうか…ここは軒下じゃなかった。

 僕は、歩いて帰るよ。

 けれど、なんだか…このまま横になりたい気分なんだ。

 フカフカの草の上で横になりながら、夜明けを見たいんだ。

 もし叶うのなら…今宵だけでもそうしたい」

 僕がため息混じりに言うと、紅天狗は腕組みをして黙り込んだ。


「今宵の満月は、本当に綺麗だ。

 夜空の星も…手が届きそうなほどに近く感じるよ」

 僕はさらに呟いた。


 はめ殺しの窓から見える夜空は、どうしても遠く感じてしまう。こんな風に夜風を感じることも出来ず、閉ざされた空間にいるような気持ちになることもあった。時折ベランダに出ては、夜風に吹かれながら月を見ていた頃を懐かしく思った。

 数週間前の事なのに、随分遠い日のように感じてならなかった。それはきっと…今まで僕が過ごしてきた日々よりも、この山で過ごす毎日が濃密だからだろう。

 それになにより紅天狗の事が心配でならなかった。

 僕が側にいたところで何もできはしないが、それでも側にいたかった。声も顔色もすっかり戻っていたが「何か」がおかしく感じてならなかったのだ。


「分かった。

 なら、共に夜明けを見るか。

 異界に行くのは、明後日からにしよう」


「ありがとう!」

 僕がそう言うと、紅天狗は優しく微笑んだ。


「俺の方こそ、ありがとな。

 心の内の半分は、言葉通りだ。

 だが、残りの半分は言葉にしていない。

 優しいな、昌景は」

 紅天狗がそう言うと、僕は恥ずかしくなった。読心などしなくても、紅天狗に僕の気持ちが分からないはずがなかった。


「袴の人はまだかな?そろそろなんだよね?」

 僕が慌てて話題を変えると、紅天狗は少し笑った。


「そろそろだ。

 そういえば、カラスの名は決まったのか?」


「あっ…それが、まだなんだ。 

 自分の事で手一杯だったから、まだ何も考えていない。

 それに…彼女に確認もしていない。

 彼女がカラスという名を気に入っているのなら、やめておくよ。これは、僕がただ…思っただけのことだから」

 と、僕は言った。

 僕が思っている以上に、紅天狗は彼女の事を大切に思っている。そんな相手から呼ばれ続けた名であるのなら、たとえ沢山の鴉を指す名であっても、特別なものに形を変えるのかもしれないと思うようになっていた。


「そうか。

 カラスが受け入れるのならば、いい名をつけてやってくれ。

 美しい名ならば、カラスも喜ぶだろう」

 紅天狗はそう言うと、美しい星を見上げた。僕も男の視線の先を追うと、不意に「ある言葉」を思い出した。


「紅天狗…」

 僕は星を見ながら男の名を呟いた。


「なんだ?」


「その…探している…美しい星は見つかったの?

 空には無数の星が燦然と輝いている。

 その中で、たった一つの星を見つけるのは…なかなか難しいよね。 

 僕は月が好きだから、すぐに見つけられるけれど」

 僕はそう言うと、紅天狗を見た。


 すると男の顔には不敵な笑みが浮かんだ。銀色の瞳には力強い意志が感じられ、僕の目は釘付けになった。


「そうだな。無数の星が輝いている。 

 だが俺にとっての輝ける星は、たった一つだけだ。他の星は必要ない。

 その星だけが、俺の全てなんだ。

 必ず見つけ出してみせる。

 そう約束したんだ」

 紅天狗が力強い声でそう言うと、空に目も眩むような光が閃いて松の木の枝葉を白く照らした。


 その不思議な光景は、桔梗が飾られた花瓶に松の枝葉をさした瞬間を思い起こさせた。嬉しそうに揺れながら松に寄り添う桔梗を思いながら夜空を見上げると、美しい星がさらに輝きを増した気がした。


「そう…だね。

 紅天狗ならば見つけ出せる。

 星も、紅天狗に見つけて欲しがっているだろう。

 地上と空は遠く離れている。けれど紅天狗には翼があるから、その美しい星を迎えに行くことが出来る。

 もう2度と空に飛んでいくことがないよう…強く抱き締めることも出来るしね」

 と、僕は言った。 


 すると、紅天狗は嬉しそうな顔で笑い出した。

 その顔を見ていると僕も幸せな気持ちになったので、松の木の下は喜びで溢れていったのだった。




 だが笑い声が止むと、何者かの訪れを告げるかのように風が唸りを上げた。木々に囲まれた薄暗い階段の方から、狼煙のような煙が一筋立ち上った。

 草が波のように揺れ動き、落葉が一斉に舞い上がると、唸りを上げる風の音以上に背筋が凍るような音が聞こえてきた。聞いたこともない音だったが、空気が振動すると命の鼓動を感じたのだった。


 荒々しく風が吹きつけてくると、木々がザワザワと激しく揺れ動き、幹がきしむような音が上がった。

 暗闇に運ばれるように鳴き声を発する生き物が迫ってきているような気がして、僕は慌てて立ち上がった。


「動くなよ、昌景。

 俺から離れるな。吹き飛ばされるぞ」

 紅天狗は落ち着いた声で言うと、ゆっくりと立ち上がった。


 その言葉を聞いた僕は息を呑んだ。

 僕自身の足の震えによるものなのか、踏みしめる大地が揺れ動いているような気がした。


 風が吹き、草木が揺れ、異様な鳴き声が響き渡っている。

 流れる時間が、とても長く感じた。


 額から流れ落ちる汗を手で拭うと、その一瞬の間に、前方が靄のようなものに包まれていた。

 頭がくらくらするような香りが漂うと、目が霞んで耳鳴りがし手足が冷たくなり、僕の心にジワジワと恐怖が広がっていった。息苦しさを感じて喘ぐように息をしていると靄は引いていき、そこから現れたものを見た僕は仰天して腰を抜かしそうになった。


 2つの紅い炎が、宙に浮いていた。

 その紅い炎は生きているかのように力強く、風に吹かれるほどに激しく燃え上がった。

 夜空は煌めいているのに凄まじい雷が鳴る音が聞こえ、輝く星々が列をなし稲妻のように見えた。

 すると炎と星の光によって、闇から放たれたような色をした蛇に似た巨大な生き物の姿が見えた。

 それは天狗と同じように、存在しないと思っていた伝説上の生き物だった。

 漆黒の生き物が頭をもたげると、2つの紅い炎も浮かび上がった。紅い炎は、双眼だったのだ。

 頭には全てを貫くような2本の鋭い角を生やし、風の音すらも聞き分ける細長い耳を持ち、一瞬で何もかもを喰らうような恐ろしい口には鋭く光る銀色の牙が見えた。

 

「黒龍…だ。

 まさか…そんな…存在するなんて…」

 僕はこの目で見てもまだ信じられなかった。 


 すると黒龍の紅い瞳が僕をとらえた。途方もなく長い胴体を見せつけるように四足を蠢かせながら、真っ直ぐに空へと駆け昇っていった。

 眩い光の中を、黒龍は優雅に泳ぎ、彼に合わせるように星は輝きを放った。


 黒龍が銀色に輝く月を抱くように、月の周りを旋回すると、僕の目が回り、月は漆黒の炎と燃え上がった。

 空から漆黒の炎が落ちてくるような恐怖に陥ると、黒龍は月からゆっくりと離れ、聞くも恐ろしい鳴き声を上げた。

 黒々とした絶望を抱かせる声から逃れようと、僕は耳を塞いで地面に体を投げ出したくなった。立ってもいられないほどに体が大きく揺れ動き、震える手で耳をおさえようしたその時だった。

 

 紅天狗の力強い手が、僕の肩に触れた。


「恐れるな、昌景。

 存在しないのなら、その瞳に映るものが何者であるのかを、俺に聞かせてくれ」

 紅天狗の瞳は夜空に向けられたまま、黒龍の動きを追っていた。落ち着き払った男を見ると、僕はハッとして波打つ心臓を撫で下ろしながら両手を下げた。


 黒龍は、また大きな鳴き声を上げた。


 鳥肌が立ち、心が重く沈んでいきそうになったが、耳を塞ぐ代わりに握る拳に力を込めて黒龍を見つめた。


 すると黒龍は地面が震えるほどの大きな鳴き声を上げ、口から煙のようなものを吐き出しながら風のように急降下してきた。


 風は轟々と唸りを上げ、松の枝葉がザワザワと揺れ動き、川の水の流れる音が激しくなった。

 その勢いは凄まじいのに、ゆっくりと時が流れているようにも感じた。迫ってくる黒龍の紅い瞳が激しく燃え上がると、紅に魅入られたかのように双眼だけを見つめた。


「綺麗だ…この山を彩る美しい紅葉のようだ…」

 僕は恐怖で頭がおかしくなったかのように呟いた。


 すると紅天狗は僕の瞼を覆い、少し丸くなっていた背中を正してくれた。


「ならば、真実を見せてやろう」

 紅天狗が僕の耳元で低い声で囁くと、瞼がじんわりと温かくなった。


 紅天狗は僕の瞼から手を離すと、逞しい右腕を襲いかかってくる黒龍へと向け、空気が震えるほどの凄まじい声を上げた。

 発せられたのは理解できぬ言葉であったが、黒龍は理解したかのように今までとは違う鳴き声を上げた。その鳴き声は、僕が軒下で聞いている声だった。


 夢から覚めたかのように僕が声を上げると、再び凄まじい雷が鳴る音が聞こえた。空に一条の光を見ると、術を解かれたかのように震えがしなくなった。

 僕の恐怖が溶けていくと、黒龍は急降下する角度を変えて、僕達の頭上を悠々と過ぎていった。


 紅天狗の赤い髪が風でなびき、白い羽織が翼のようにはためいた。


 僕は思わず声を上げた。

 漆黒の胴体は鱗で覆われているのではなく、沢山の鴉が連なり飛んでいたのだった。恐ろしい鳴き声も鴉の鳴き声が合わさったものであり、鋭い角も恐ろしい牙も黒龍と思い込んだ僕が僕自身にみせた歪んだ幻だったのだ。

 恐怖によって真実以上の姿を見、紅天狗の力によって解かれたのだった。

 

「特別なんだ。

 神聖なる黒をまとっている。

 山の神様の御髪から生まれ出づる者達だ。

 その力は、龍を遥かに超え、山を守ってくれている。

 さぁ、行こうか」

 紅天狗はそう言うと、松の木の下をゆっくりと離れた。




 黒龍は木橋を渡った向こう岸で、僕達が来るのを待っていた。木橋の中央まで来ると、僕は星の光によって黄金に輝く水面に目を移した。

 水面には、黒龍が映し出されていた。

 光の中に、龍がいる。

 僕はしゃがんで手を伸ばしたが、水は冷たく波紋を描き、手が届かない龍が水面の中で揺れるだけだった。

 その瞬間、はめ殺しの窓から赤く染まっていく空と鴉が連なり龍のように見えた光景を思い出した。あの時、この山を守っているかのように感じたのは間違いではなかったのだった。


 僕達が橋を渡り終えると、黒龍は紅い瞳を向けた。


「あっ!」

 僕は大きな声を上げた。

 紅い瞳は、この山を彩る紅葉だった。鴉達が嘴に紅葉をくわえ、それが合わさって風で揺れ動き、燃え上がる紅い瞳のように見えていたのだった。


 紅天狗は黒龍に近づき、優しく彼等に触れた。力強い男の手で愛撫されると、鴉達は心地よさそうに鳴き声を上げた。

 それが合図であったかのように術は解かれ、数えきれないほどの鴉達が夜空へ飛び立っていき、真っ赤な紅葉が舞い上がった。


 黒と赤の世界が広がっていく


 僕は、夢でも見ているような気になった。


 紅葉がヒラヒラと舞い落ちると、そこにはきらきらとした夜空の光を浴びる美しい女性が立っていた。どれほど手を伸ばしても届くこともない美しい星が目の前に降りてきたような錯覚に陥るほどに、彼女は眩い光で溢れていた。

 綺麗に結い上げられた濡れ羽色の髪には赤い花が飾られ、いつもとは違う魅惑的な化粧が女の色気を漂わせていた。シャドウが塗られた目元は黒い瞳がより際立ち、瞬きをするたびに長い睫毛に目を奪われる。

 ほのかに色づいた頬は白い肌が上気したようにも見え、濡れたように艶めく唇には微笑みが浮かんでいた。

 柔らかな風が流れると、振袖の袂が優雅に揺れた。白い振袖に描かれている花々はどれも繊細で美しく、彼女は花をまとっているようだった。

 

「綺麗だ。

 すごく…綺麗だ」

 僕は彼女の美しさに見惚れて思わず声に出していた。もっと相応しい言葉があるのかもしれないが、他の言葉が出てこなかった。否、どのような言葉も彼女の美しさを物語ることは出来ないだろう。


 その言葉を聞いた彼女は少し躊躇いの表情を浮かべ、恥じらうように顔を少し下に向けた。


「昌景様…ありがとう…ございます」

 彼女はそう言いながらゆっくりと顔を上げると、彼女の視線は僕から僕の隣に立っている男に向けられた。

 彼女は唇を少し震わせたが、その先の言葉は出てこなかった。


 紅天狗も何も言わずに、彼女を見つめるだけだった。


 星々の下では、沈黙が広がっていった。

 夜空の光は彼女に向けて降り注ぐので、静けさがさらに彼女を眩くさせた。


「……どう…でしょうか?主人様」

 彼女は袖口を指でつまみながら、少し首を傾げて恐る恐る言った。男が何も言わないのを、不安に思ったのだろう。

 首を傾げたことで、濡羽色の髪に飾られた赤い花の髪飾りが静かに揺れ、白く柔らかな頬を流れていった。赤い花は、少し心配そうに開かれた唇をなぞった。

 白い肌を流れる赤に、僕は惹き込まれそうになった。


 今宵の彼女の美しさは、男を狂わせる。


「あぁ…」

 と、紅天狗は言った。

 夢のように美しい女性を前にしても、男は自らを見失うことはなかった。その続きを言葉にすることはなく、ただ微笑みを浮かべるだけだった。

 それ以降男の口は固く閉じられてしまったが、僕には言葉の続きが聞こえたような気がした。

 その声色が、紅葉と星空を見た時と同じだったからなのかもしれない。


 男の微笑を見た彼女もまた同じように微笑みを浮かべたが、艶めく唇に触れている赤い花の髪飾りは、彼女の心を語るかのように切なげな涙を流した。

 一片の赤い花弁が、ひらりひらりと舞い落ちていったのだった。


「カラス、来てくれて、ありがとな。

 さぁ、行くか」

 と、紅天狗は言った。


「はい、主人様」

 彼女はそう答えたので、僕も黙って頷ずくことにした。


 いつもは木橋を渡り終えてから十段ほどの階段を上るのだが、紅天狗は向きを変えて反対の方向を指差した。


 異界に繋がる道を歩くのに精一杯で今まで気にもとめていなかったが、男の指差した方角には足を踏み入れる気などおきないほどに背の高い木々が生い茂っていた。

 柳の木のように広がった枝が怪物の腕のように垂れていて、弱い風でも揺れるたびにカサカサと不気味な音を立てた。

 今にもユラユラと動き出し、細く長く垂れた枝で侵入者を絡めとり、そのまま幹に括り付けてしまうような恐ろしさがあった。


 だが紅天狗が垂れ下がった枝に触れると、羽ばたいているかのように広がって道を開けた。蛇のように地面をはっていた根も地中へと消えていき、夜風にそよぐカーテンの下を歩くように道が出来たのだった。


 

 紅天狗は彼女に合わせるようにゆっくりと歩き出した。

 男が一歩踏み出すと満月の光が降り注ぎ、枝と葉が暗い道を照らす灯りのようにキラキラと輝きを放った。

 紅天狗が先を歩き、その後について僕達は歩いたが踏みしめる大地は柔らかで絨毯の上を歩いているようだった。

 しばらく歩くと、紅天狗は急に立ち止まった。

 そこは蔦が複雑に絡みつく岩壁だった。そっと手をおくと、蔦の鼓動を聞くように耳を寄せていき、瞳を閉じて何かを呟くと、蔦がシュルシュルと動き出した。剥き出しになった部分の冷たい岩壁が青白い光を放ち、やがて消えていくとそこには青い扉が現れた。


 紅天狗が青い扉を押すと音を上げることもなく静かに開き、紅天狗は先に中へと入ると扉を押さえて僕達が入るのを待っていてくれた。


「主人様、ありがとうございます」

 彼女がそう言って中へ入ると、僕もその後に続いた。

 青い扉がゆっくりと閉まると、他には何者も通さぬとばかりに再び蔦がシュルシュルと絡みつき、青い扉は消えていった。

 

 そこに広がる景色は、今までとは全く違っていた。

 幹の樹皮が白く、空にまで届きそうな2列のほっそりとした木々に囲まれた道が続いていた。

 道を歩くほどに白さが際立ち、暗い気持ちを消し去るほどの清々しさだった。時折可愛らしい丸い小さな鳥が舞い降りてきては、紅天狗の肩にちょこんととまるのだった。

 すると男の瞳が小さな子供を見るように優しくなり、小さな鳥も嬉しそうに囀るのだった。


 男の肩で甘える小さな鳥を見ながら道を進んで行くと、柔らかな光で溢れている開けた場所に着いた。

 そこには、大きな木の下に隠れるようにして可愛らしい木造家屋が建っていた。


「ここに来るのは…久しぶりだな」

 紅天狗は深く息をついた。今ここにいるというのに昔ここで過ごした日々へとかえり、深く浸っているかのようだった。


 紅天狗は縁側のガラス戸を開けると、下駄を脱いで中へと入って行った。座布団を3枚手にして戻って来ると、僕達が座れるようにガラス戸を大きく開けて、縁側に並べてくれた。


「俺は、茶をいれてくるから。

 ここからの眺めもいいぞ」

 と、紅天狗は言った。


 彼女が真ん中にちょこんと座ると、僕も右隣の座布団に座った。芳しい草の上に座るのも良かったが、座布団は疲れを忘れさせてくれるほどにフカフカしていた。

 ほうっと息をついてから景色を眺めると、僕は思わず目を見張った。

 桜のような白い花が咲いている木々が一面に植わっていた。舞い落ちた白い花は降り積もった雪のように美しく、咲いている花と共に柔らかな光を作り出していた。

 

「あの…昌景様、元気になられて良かったです」

 と、彼女が言った。 


 隣に座る彼女を夢のように感じていた僕は、彼女が口を開くとも思っていなかったのでバクバクと鳴る自分の心臓の音に驚いた。その音が聞こえてしまうのではないかと思うと、僕は慌てて口を開いた。


「あっ…ありがとう」

 僕は緊張してしまい上擦った声で答えた。

 彼女の瞳を見ることも出来ず、髪を飾る赤い花が夜風で揺れるのを見つめていた。


「遅くなってしまい、すみませんでした」

 彼女がそう言うと、僕は全力で首を横に振った。


「全然!紅天狗と色々話をしていたし、綺麗な月も見れたし、なにより君が来てくれたのが嬉しいから。

 そうだ!さっきの…黒龍に乗るなんて凄いね。

 僕は空を飛ぶのに憧れてたんだけど、実際飛ぶとなるといつも緊張してしまう。

 あっ…でも…紅天狗の手を握っているから絶対大丈夫なんだけど」

 僕は頭に浮かんだ言葉を並べ立てた。


「黒龍に乗っている間、ワタシは主人様の妖術で守られています。周りは皆んなに囲まれていますので、風を感じることも危険を感じることもありません。

 ただ座っているのと同じ…なのです…」

 彼女の瞳は他にも何か言いたげだったが小さく微笑むと、僕からそっと目を逸らした。


「あっ…どうしたの…?」

 と、僕は言った。 


 彼女の横顔は何処か悲しそうで、木々の隙間から吹いてくる風が体を凍えさせるほどに冷たく感じた。


「少し…昌景様が…羨ましいのです。

 ワタシは…主人様の手の温もりすら…知りません。

 これから先も…そうでしょう。

 それは、約束ですから。

 長い間…主人様と一緒にいますが…近くにいさせてくれますが、見えない壁に阻まれているかのように遠いのです」

 彼女は震える体を温めようと、自らの腕で細い体を抱き締めた。その姿は、見ている僕の心を抉るほどだった。


 僕は言葉を探したが、何も見つからなかった。

 薄っぺらいだけの言葉をかけて自分に酔いしれるなど、僕はしたくなかった。それに紅天狗と交わす約束の意味を、僕は十分理解していた。


 彼女の黒い瞳には、雪のように白い花が散っていくのが映っていた。夜風は白い花が散ってしまうのを知りながらも、吹き続けるのをやめないのだ。美しいはずの花吹雪が流す涙のように見えて、僕の胸は締め付けられた。

 散り落ちた白い花を見つめていると、聞き慣れた足音が後ろから聞こえてきた。


「すまんな、待たせたな。

 どうだ?月の光は降り注がないが、ここからの眺めもいいだろう?」

 紅天狗はそう言うと、彼女の左隣に静かに座った。


「ほら、カラス。

 熱いから、気をつけてな」

 紅天狗はお盆にのっている美しい湯呑みを手に取ると、彼女の手の届くところに置いた。


「主人様、ありがとうございます。

 この湯呑みは、黒天狗様からですか?」

 彼女が湯呑みを手に取ると、それはまるで彼女の美しさをたたえる為に作られたように僕には見えた。


「あぁ、そうだ。

 手紙には、カラスに使って欲しいと書かれていたんだ」

 と、紅天狗は言った。


「まぁ…こんな綺麗な湯呑みを頂けるなんて嬉しいです。

 黒天狗様が作られるものは、本当に素敵です。

 大切に使います」

 彼女はそう言うと、ほのかに湯気を上げる湯呑みにそっと口をつけた。


「美味しい…」

 彼女は幸せそうに微笑んだ。


「ほら、昌景のな。

 熱いぞ」

 紅天狗は立ち上がると、僕に手渡してくれた。


「あの…黒天狗…って前に言ってた海の神が連れてきたっていう天狗のこと?」

 僕の頭の中では黒い姿をした天狗が、湯呑みを持っている姿が浮かんでいた。


「あ?あぁ…そうか。アイツの名は、まだ教えてなかったか。その通りだよ。

 俺が赤狗で、アイツが黒狗だったからな。

 だからアイツの名は、黒天狗だ」

 紅天狗は心を許せる友を思い、嬉しそうに言った。


「昌景様、黒天狗様も素敵な御方です。

 どこまでも広がる海のような御方です。

 主人様とは違う優しさで満ち溢れています。

 主人様のように丈高くて力強く、夜の波のように低い声をされていて、透き通る海のような青い瞳をされています」

 彼女はもまた黒天狗を思い出したのか、優しげな微笑を浮かべた。その微笑は僕が黒天狗に対して抱いていた不安を少し軽くしてくれた。


 黒の光沢に星を散りばめたような湯呑みを見つめていると、恐ろしいだけの天狗にはこれほど繊細な芸術品は作れないような気がしてきた。

 紅天狗がいれてくれたお茶は温かくて美味しかったが、夜風は荒々しく音を上げて散っている白い花を高く舞い上がらせた。


「冷えてきたな。

 カラス、寒くないか?」

 紅天狗は彼女の肩が少し震えているのを見ながら言った。


「少し…寒いです。

 ショールを持ってきたら良かったです。うっかりしていました」


「そうか…風邪を引くといけないな。

 少し火を燃やそう」

 紅天狗は立ち上がると乾いた枝と葉を集め、石と使い古した道具を取り出した。火花が散ると、白い世界に優しげな炎がともった。


「妖術は使わないの?」

 僕がそう言うと、紅天狗は揺らぐ炎を見つめながら頷いた。


「ここでは…な。

 俺は妖術は使わないことにしているんだ」

 と、紅天狗は素気なく答えた。


 しばらくの間、僕達は笑い声を上げながら話をしていた。

 目の前の白と赤の織りなす世界は美しく、穏やかな時間が流れている。この時、僕は心から永遠を願っていた。これから先、いつでもこうやって幸せな時間を過ごせると思っていた。


 しかし遠くから鳴き声が聞こえてくると、紅天狗は瞳を閉じて鴉達の声に耳を澄ました。


「そろそろ時間だな。

 カラス、戻らねばならない」

 紅天狗がそう言うと、彼女は少し寂しそうな顔をした。


「そうですか…。

 楽しくて、時が経つのも忘れていました。

 では…ワタシには特別な力はありませんが、これから先の領域で…少しでも…昌景様の御力になれますように」

 彼女は隣に座る僕を真っ直ぐな瞳で見た。透き通る黒い瞳に、僕は引き込まれそうになった。


 彼女は美しい瞳を閉じると、青い青い空のように澄んだ声で歌い出した。

 僕には分からない言葉だったが、それでも耳を傾けていると紡ぎ出される音の美しさを感じずにはいられなかった。

 心は強く揺さぶられ、僕の脳裏に異界で戦った瞬間が蘇った。ぶちのめされることになろうとも、諦めずに拳を握り締め抗い戦い続け、僕自身の力で勝ち取った一瞬一瞬が誇らしく思えた。

 それは内に秘められている己の力であると、戦い抜いた男を讃えてくれているようだった。

 

 木々の隙間から僅かに見える空に、僕は一際大きな星が美しく輝きを放つのを見た。

 白い花が咲く木々の枝がソヨソヨと揺れ動き、彼女の歌に合わせるかのように幻想的な音が鳴り響いた。


 すると紅天狗も懐から笛を取り出し、この世界を完成させるかのように美しい音色を奏で始めたのだった。


 新たな道を歩もうとする僕を祝福してくれるように、彼女の歌と紅天狗の笛の音が心に染み渡った。

 体中に強い力を感じると、僕は歌を歌うことなど滅多になかったのだが、この全てを永遠に忘れることのないよう彼等の音色に合わせて口ずさんでいた。





 

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