第14話 楓 下


「ワタシは山から逃げるように…流れる雲を見ながら飛び続けました。

 羽が重たくなるまで飛び続け、ようやく海に囲まれた小さな島を見つけたのです。白い砂浜と原生林で覆われていて、上空からは人間が住んでいるような集落はないように見えました。

 ワタシは砂浜に降り立つと、大きな岩の陰で羽を休めました。青い海は太陽の光でキラキラと輝いて、泳ぐ魚も見えるほどでした。

 岩の陰で休んでから、ヨタヨタと木陰へと歩いて行き、夕日が沈んでいくのを眺めていました。山で暮らした楽しかった日々が脳裏に浮かぶと、波の音が聞き慣れた葉擦れの音や小鳥達の歌のように聞こえ始めました。それに混じって不思議な音も聞こえてくると、ワタシは暗くなってきた空を見上げました。空には、明滅する光が輝いていました。神々しいほどに美しい光でした。ワタシはすっかり警戒心をなくし、見知らぬ場所で眠り込んでしまったのです。

 悪魔にうなされて目を覚ますと、空には弓のような月が浮かんでいました。ワタシの首には見知らぬ糸が巻きついていて、糸は鬱蒼とした森の中へと続いていました。急いで飛び立とうとしましたが、物凄い力で森の中へと引っ張られたのです。

 月の光は全く射さないほどに木々が生い茂っていて、幹は苦しんでいるかのようにひどく捻じ曲がり、体に触れる草は羽を重たくさせるほどにジメジメしていました。

 空気中には邪気が渦巻き、嫌な臭いが漂っていました。

 急いで糸を噛み切ろうとしましたが、糸は細いのに丈夫で、噛んでも噛んでも決して切れないのです。

 すると周りの草がガサガサと音を上げ、嫌な臭いがきつくなりました。

『おおっ、おおっ、暴れとる、暴れとる。

 どんなに暴れても、逃げられやしないのになぁ』

『おおっ、おおっ、新たな玩具が手に入ったなぁ』

 棘のようにチクチクとした声が聞こえてきたのです。

 その声を聞いているうちに感覚が麻痺していき、全身が痺れて動けなくなり地面に倒れました。

 すると声の主が姿を現したのです。ワタシは絶句しました。

 そう…身の毛のよだつ恐ろしい生き物がいたのです。

 蜘蛛に似た…見たこともない生き物でした。

 月の光は射さないのに体はボウっと光っていましたが、色は持たない生き物でした。体は骨と皮だけで、肉が削げ落ちた顔に眼球はありませんでした。鼻をクンクンと動かし涎を垂らして不快な音を出しながら、奇妙に捻じ曲がった手足を使って這い進んできたのです。

 しかし色を持たぬ生き物は、ワタシから距離をおいて急に立ち止まり、金切り声を上げました。

 生い茂る木の幹に涎と唾を飛ばしながら、狂ったように両手両足を地面に叩きつけ始めたのです。地震のように大地が揺れ動きました。骨と皮だけしかない体からは考えられないような物凄い力でした。

『おおっ、おおっ、このニオイ…黒じゃ!黒じゃ!

 ワシらが触れられぬ色じゃ。忌々しいのぉ、忌々しいのぉ』

『おおっ、おおっ、羽を引きちぎり両足を焼いてから目玉を啜ってやろうと思ったのにのぉ』

『おおっ、おおっ、黒には敵わぬ!』

『おおっ、おおっ!御方おんかた様の黒じゃ!黒じゃ!

 八つ裂きにできぬとは!食らうことができぬとは!』

『おおっ、おおっ、だが、生まれ出づる者ではない!

 奥深くに連れて行けば、御方様の目には届かぬかもしれぬぞ!』

『おおっ、おおっ、ならば檻に入れてしまおうぞ!

 苦しみ干からびて死んでいくさまを、楽しもうではないか』

 色を持たぬ生き物は糸を引っ張り、ワタシを引き摺るようにして森の中の曲がりくねった道を進んで行ったのです。道に転がる石に激突して羽は滅茶苦茶になり、意識は朦朧としてきました。

 捻じ曲がった大木の下までくると、色を持たぬ生き物は突然立ち止まりました。幹からは枝が密接するように出ていて、太い根が奇妙にのたうち回っていました。根と根の間には黒々とした空間があり、そこには萌黄色の檻がありました。

 その檻の中にワタシを投げ入れると、色を持たぬ生き物は笑いながら鍵をかけました。ガシャリという音は、首を斬り落とす死の音のようでした。色を持たぬ生き物が去っていくと、ワタシは助けを求めて叫ぼうとしました。

 けれど…声が…出なくなっていたのです。

 暗い…静寂の中で…ワタシの…羽音だけが…響き渡りました」

 袴の人が途切れ途切れにそう言うと、紅葉の絨毯の上で遊んでいた鴉が数羽青い空へと飛び立っていった。


 静けさの中に羽音が響くと、僕は彼女が大きな鴉の姿である時に耳にする大きな羽音を思い出した。僕は一度も鳴き声を聞いたことがなかった。

 積み重なった恐怖によって、彼女の声は奪われたのかもしれない。

 人間も関係しているのだと思うと、人間である僕は左手に力を込めた。悔しくて悲しくて申し訳なかった。僕の胸は苦しくなったが、開いた口からは言葉が出なかった。

 

「さらに、その萌黄色の檻には不思議な力があったのです。

 檻の中に漂う空気は体が痛くなるほどにピリピリとしていて、檻には電流のようなものが走っていました。

 太陽の光は全く見えず、風の音も他の動物の鳴き声も聞こえませんでした。誰の目にも触れることのない見捨てられた場所のようでしたが、何より恐ろしかったのは一定の間隔を空けて聞こえてくる声でした。

『おおっ、おおっ、黒い鴉が身の程をわきまえずに、人間様にワルサをしたから、こんな事になったのじゃ』

『おおっ、おおっ、うるさく鳴き喚き、ゴミを漁り、田畑を荒らし、糞を撒き散らしたからじゃ』

『おおっ、おおっ、当然の報いじゃ、当然の報いを受けたのじゃ』 

『おおっ、おおっ、お前が、あの山に行かなければ、こんな事にはならなかったのぉ』

『おおっ、おおっ、誰も死なずにすんだなぁ』

『おおっ、おおっ、生きていても害しかない、害しかもたらさんのぉ』

『おおっ、おおっ、鴉の黒は、不吉をもたらす』

『おおっ、おおっ、鴉の黒は、死人をもたらす』

『おおっ、おおっ、絶望をもたらす死の鳥め』

 恐ろしい言葉が矢のように降り注いでくると、心は空っぽになっていき死んでしまいたいと何度も思いました。萌黄色の檻を見ながら『死にたい』と何度呟いたことでしょう。

 けれど…ワタシは死ぬのも怖くて、雨が降るたびに流れ込んでくる恵みを口にしていたのです。

 そんな日が…何日も何日も続きました。

 体はどんどん衰弱していき、もう立つことも出来なくなりました。目に映る景色は霞んでいき心に暗澹たるものが広がっていくと、萌黄色の檻がどんどん迫ってくるような幻を見るようになりました。

 ワタシは雨水を飲むのを止めました。

 何の為に生まれてきたのだろう?

 生きる意味があるのだろうか?

 生きていても何の価値もないという無に辿り着くと、死を願いながら目を閉じたのです。

 すると今まで何も聞こえなかったのに、大地を揺るがすような恐ろしい雷の音が聞こえてきました。

 びっくりして目を開けると、生い茂っていた木々が道を開け、神々しい光の筋のようなものが射しこんできました。

 長い間見ることもなかった…空から降り注ぐ光です。

 そして光は、大きな鳥をこの場所へと導きました。

 その大きな鳥は、白と赤の眩いばかりの光を纏っていました。

 見放されたこの場所が光で満たされていくと、その光を求めるかのように、最後の力を振り絞りヨロヨロと立ち上がりました。

『ここです…ワタシは…ここにいます。

 どうか…ワタシを見つけてください』

 声にはなりませんでしたが、ワタシは必死で口をパクパクと動かしました。

 光を背負いし鳥は何処かに羽ばたいていこうとしていたのに、まるで声にならない声に気付いたかのように、ワタシの方へと向かってきたのです。

 溢れる光はあまりにも神々しくて、ずっと暗闇の中にいたワタシの目は眩みました。

『見つけて…くれたのですね。ずっと…待っていました』

 と、ワタシは口をパクパクと動かしました。

『あぁ、やっと見つけたよ。こんな所にいたとはな。

 長い間、待たせたな』

 と、ワタシに合わせるように仰ったのです。

 すると次第に光は穏やかになり、ワタシにもよく見えるようになりました。

 萌黄色の檻の中にいる痩せこけた鴉を見る銀色の瞳は、とても大きく見開かれていました。

 けれど、ワタシはもっともっとびっくりしました。

 そう…大きな鳥ではありませんでした。その方は丈高く、燃えるような赤い髪に白い翼、右手には銀色に輝く刀を持たれた天狗様だったのですから。

『天狗様…鴉の主人でいらっしゃる…主人様。

 ワタシの声が…聞こえたのですか?』

 ワタシは口をパクパクと動かしました。

 銀色の瞳は驚きから険しい色に変わっていましたが、ワタシがそう言うと優しい眼差しへと変わりました。

『なんだよ?主人って?まぁ、いいか。

 あぁ、俺にはお前の声がはっきりと聞こえた。

 で、お前はそんな所で何をしている?』

 主人様は刀を鞘に納めてから、太い根の上に腰を下ろされました。

 ワタシの身に起こった事を話すと、主人様はただ黙って頷いて萌黄色の檻へと手を伸ばされたのです。

『危ないです!この檻には電流が流れています!

 お止めください!

 色を持たぬ生き物は、本当に恐ろしい生き物なのです』

 しかし主人様は萌黄色の檻に触れました。痛そうな素振りも見せず、顔に笑みを浮かべながらワタシを見たのです。

『俺には、通じない。

 奴等は、本当に哀れな生き物だ。

 奴等は、人間でもなければ動物でもない。

 欲に取り憑かれ力と富を追い求めて破滅し、全てに見捨てられた哀れな生き物。それでも栄華を忘れられずに傲慢を愛し、魂を吸い尽くされ骨と皮だけになりながら生き続けている。

 奴等は、屍人だよ』

 主人様がため息混じりに仰ると、檻にかけられていた鍵がとれて地面に音もなく落ちました。

『ここから出るか?』

 主人様はそう仰いましたが、ワタシは何が起こったのか分からずに目をキョロキョロさせるだけでした。

『望みを口にし、それを叶える為に、お前自身が行動に出るだけだ。

 大丈夫だ。恐れることはない。

 やってみると、出来るものだ。

 さぁ、どうする?』

 主人様の銀色の瞳がワタシに向けられました。

 ワタシの目には主人様しか映らなくなり、危険は過ぎ去り、ここにいるのはワタシと主人様だけのように思いました。

『出たい…です。

 けれど、行くところがありません。

 それに…出たとしても…怖いのです。辿り着いた先を…また不幸にしてしまうのではないかと思うと。

 このまま朽ち果ててしまった方が…いいのかもしれません』

『なら、俺の山に来るか?』

 主人様は力強い声でそう仰いました。ワタシは本当に嬉しく思いましたが、山という言葉にワタシの不安は強くなりました。

『主人様の山に行けば…主人様を…不幸にしてしまいます。

 ワタシは…不幸をもたらす…黒い鴉なのです。助けてもらった恩を仇でかえす…かもしれません』

 その言葉を聞いた主人様は一瞬キョトンとされてから、苦笑いを浮かべました。

『天狗を不幸に出来るほどの力が、お前にあるとはな』

 主人様がそう仰ると、ワタシはハッとしました。

『いえ…そんな…ワタシには…そのような力は…すみません』

『そうだ。お前には、そんな力はない。

 不幸を呼べる力はないし、誰かを苦しめるような奴でもない。

 もしお前が思うところの不幸がきたとしても、俺が不幸を払いのけてやる。な?さすれば、お前は俺を凄いと思うだけだ。

 不幸ですら、幸に変えてやろう。

 そもそも不幸なんてな、ありはしないんだよ。

 不幸だと感じずに面白えと思う奴もいるし、一皮剥けるための修行と思い、その身の力へとする奴もいる。考え方で変わるんだ。

 それにな、山を滅茶苦茶にしたのは、鴉ではなく毒を撒き散らかした人間だ。一部の人間の「行い」だ。

 お前は、何も、していない』

 主人様は低い声でそう仰ると、落ちているワタシの羽を拾いました。

『黒は不幸をもたらす色ではない。何者にも染まらない、自らを貫き通すことが出来る強く美しい色だ。

 黒い色を愛しておられる。山の神様の御髪と同じ色だ。

 黒い色を愛していないのは、その者の力を恐れ、理解しようとしない一部の人間だ。

 人間とはな、自らが理解できない力を持つ存在を恐れる。自らの力が脅かされることを恐れて、時には迫害する。神々が望まれた道とは逆の道だ…だから、失望された。

 そんな言葉など、信じるな。

 俺の山に来るのならば、真実の黒がどういう色であるのか教えてやろう。どれほど気高い者達が纏う色であるのかを教えてやろう。

 天狗がすまう山の鴉、神聖なる黒を纏う者達がすまう最高の山でな。

 どうだ?来るか?』

 主人様の瞳はどこまでも強くて優しい色をしていました。

 けれどワタシは「はい」と言うことが出来ませんでした。

 主人様の言葉に甘えて、その力にすがりつきたいという思いで胸はいっぱいでしたが、それでも脳裏に焼きついた残酷な光景がワタシを引き止めたのです。 

 主人様の力に敵うものなどないというのに、ワタシの心に重くのしかかった影はあまりにも色濃かったのです。

 誰かと関わって…もう誰も不幸にしたくないと思いました。最期に希望を見たという幸せな感じながら…このまま死んでしまった方がいいとも思ったのです。

 ワタシが黙ったままでいると、主人様は懐から袋を取り出しました。その袋の中からは木の実と赤い紅葉が出てきました。

『そうだ。じっくり考えろ。

 お前が歩む道なんだから。

 決定を強いることは誰にも出来ない。

 俺は俺であって、お前ではないのだから。

 自らと向き合って答えを導いて、後悔のない決断をするんだ。

 檻に施されていた低俗な呪いは解いた。捕らえた者の心を食らい、苦しむ姿を見て喜ぶクソみたいな呪いだ。

 全ては偽であり、真実はない。

 怖かったな。もう、大丈夫だ。

 この木の実を食っておけ。少し眠れば傷が癒え、空を飛べるほどに体力が回復しているだろう。夕闇が迫る頃に紅葉と共に飛び立つんだ。紅葉が案内してくれる。俺の山に来るのなら「紅天狗のもとに」と願い、そうでなければ「安全な場所へ」と願うんだ。

 どちらにせよ、夜明けと共に、出発だ』

 と、主人様は仰いました。

 ワタシは地面につくほどに頭を低く下げて『すみません』と何度も言いましたが、主人様は咳払いをしてから『もう、やめてくれ』と仰いました。

 顔を上げて主人様を見ると、とても困った顔をされていました。

『すみませんと言われたら、何か悪いことをしたような気になってくる。そうだな…すみませんと言われるよりも「ありがとう」と言われた方が嬉しい。俺は「ありがとう」という言葉が、好きなんだ。

 俺自身を誇りに思えるようにしてくれる。

 そして笑ってくれた方が、さらに嬉しい』

 主人様は優しい瞳で微笑みました。その表情は柔らかくて、ワタシも釣られるように微笑んでいました。

『そうそう、その顔だよ。

 雨が降りそうだな。まぁ、すぐに上がるだろうが。

 そうだ…雨の後はな、美しい虹がかかるんだ。

 俺は用があるから、そろそろ行くわ』

 主人様はワタシに背を向けて、何処かに行ってしまいました。

 やがて、雨がポツポツと降り出しました。

 ワタシは赤い紅葉と木の実を長い間見つめていました。

 夢とも思いましたが、紅葉と木の実は確かにそこにあり続け、目に焼きついた光は強烈でさめようもなかったのです。

 絶望の中にあっても、光は希望をつくり出すものなのですね。

 死にたくなるような日々の中で、ワタシは一条の光を見てしまったのです。

 雨が止んで、木々の隙間から陽の光が射し込んでくると、風の音も聞こえてきました。その風の音が『生きろ』という…仲間の声に聞こえたのです。

 ワタシを生かせてくれた仲間の声です。

 大切な仲間を思い出すと、ワタシは立ち上がりました。

 ワタシだけが生き残ったのには、何らかの意味があったのでしょう。ワタシは生き残った責任を果たさなければならないとも思いました。ワタシは自ら命を絶ってはならない。

 ワタシは生きているのだから、山に酷いことをした奴等が望むような全滅の道を辿ってはならない。死を望むのなら生きなければならないと思い、檻から出たのです。湿った羽を生き返らせるような、美しい陽の光を浴びにいきました。

 体中で光を感じていると、キラキラとした光の中を踊るように艶々とした黒い羽が舞い落ちてきました。ワタシが顔を上げると、木々の隙間から美しい虹が見えたのです。空に架かる7色の美しい色を見ていると、特別美しい黒い鳥が優雅に橋を渡っていきました。

 真実に美しかった。その姿に釘付けとなりました。

 諦めることなく怯えることなく、自らの黒に誇りを持ちながら堂々と羽を広げる姿は真実に美しかったのです。

 自らの土まみれの姿を見ると、ワタシはワタシをこのまま終わらせてはならないと思いました。

 その黒い鳥は、ワタシと同じ黒い鴉だったのですから。 

 ワタシは生きているのに死んでいたのだと、その時ようやく気付いたのです。ワタシは誇りをなくしてはいけなかったのです。

 急いで檻に戻り、木の実を口に入れると、すぐに心地よい眠気に襲われました。目が覚めると体には力が戻り、空には夕闇が迫っていました。

 ワタシは赤い紅葉を咥えると「紅天狗様のもとに」と願い、後ろを振り返る事なく羽ばたきました。

 けれど静寂の中では、ワタシの羽音すらも大きな音だったのでしょう。ガサガサと草が音を立てると、色を持たぬ生き物が次から次へと現れたのです。

『おおっ、おおっ、檻を開けたのか!?逃げよるぞ!』

『おおっ、おおっ、逃すぐらいならば殺してしまおうぞ!』

『おおっ、おおっ、そうじゃ!もう一度、捕らえてしまえ!』

『おおっ、おおっ、そうじゃ!御怒りは降り注がなかった!』

『おおっ、おおっ、奴は偽の黒じゃ!偽じゃ!偽じゃ!』

 色を持たぬ生き物は『おおっ、おおっ!』と荒々しい叫び声を上げながら、木々を投げ倒す勢いで追いかけてきました。

 吐き出した糸に石や木の枝が沢山飛んできましたが、ワタシに当たることはありませんでした。

 幾度となく恐怖によって羽が重たくなりましたが、赤い紅葉…そう燃える炎を見ながら、ワタシは飛び続けました。

 炎という名の光は、ワタシに飛び続ける勇気をくれたのです」

 袴の人は顔を上げて、咲き誇る紅葉を見つめた。

 その時の事を思い少し苦しい表情をしていたが、光を見出した瞳はどこまでも美しかった。


「暗い世界から飛び立った時、答えを見つけたように思いました。

 暗闇に身を潜めるのではなく光と共に飛び続け、ワタシは黒を掲げて生き続けることに意味があるのだと。

 休むことなく飛び続け、空が白み始める頃に息も絶え絶えに砂浜に辿り着きました。飛ぶ力はほとんどなくなり、赤い紅葉に引っ張られるように、大きな岩のもとへとヨタヨタと歩いて行きました。

 この島に辿り着いた時に、ワタシが羽を休めたあの岩です。

 主人様は羽織を頭から羽織り、大きな岩に寄りかかっておられました。

『主人様…逃げてきました』

 ワタシが口をパクパクと動かすと、主人様は頭から羽織を羽織られたままゆっくりと立ち上がりました。立ち上がった主人様はとても威厳があり、羽織の奥からは銀色の瞳が美しく光りました。

 ワタシが驚嘆の目で主人様を見ていると、羽織が微風ではためき澄んだ波の音とともに朝日が昇り始めたのです。この地に赤い光が注がれ、ワタシのいる場所を照らしました。

『逃げたんじゃない。新たな出発だ。

 お前の夜明けだ。

 新たな道を歩もうぞ』

 主人様がそう仰ると、遥か彼方へと続いている青がワタシを祝福してくるようにキラキラと揺れ動き美しく輝きました」

 袴の人がそう言うと、眩しい陽の光が紅葉の絨毯を明るく照らした。

 色はより鮮やかとなり優しい風で揺れると、その時に彼女が見た美しい海を思わせた。


「しかし、色を持たぬ生き物は諦めてはいなかったのです。 

 背後から激しい怒りの声が聞こえ、悪意がこもった恐ろしい気配も感じました。

『おおっ、おおっ、いたぞいたぞ!』

 その邪悪な声を聞くと、体の震えが止まらなくなりました。

 新たな希望を見たのに、絶望がどこまでも追いかけてくるのですから。辺りの木々がザワザワと揺れ動くと、ワタシを導いてくれた紅葉は風にさらわれて海の中へと消えていきました。

 守ってくれた紅葉を追いかけようとすると、主人様の力強い声がしたのです。

『自らの意志と力で、お前はここまで来た。

 これより先は、俺が、守ってやる』

 羽織の奥から見える銀色の瞳は恐ろしい色をしていました。

 色を持たぬ生き物はついにその姿を眩しい陽の光の下に現しました。暗闇で見るよりも禍々しく、全身から青白い臭気を放っていました。 

 けれど太陽から逃れて生きてきた邪悪な体は、その光に耐え切れずに、身をよじりながら苦しみました。

 怒りで我を忘れていたのでしょう。色を持たぬ生き物は、陽の光の下を闊歩してはならなかったのです。

『おおっ、おおっ、あつや、あつや!』

『おおっ、おおっ、痛い、痛い!』

 色を持たぬ生き物は叫び声を上げながら、森の中へと一目散に逃げて行きました。

『主人様…終わりました。

 ありがとうございました』

 ワタシが口をパクパクと動かして御礼を言うと、主人様の瞳には不思議な色が浮かびました。ワタシはその瞳に魅入られるように、主人様の後ろに隠れました。

 するとワタシがいた場所に大きな石が飛んできたのです。石は地面にぶつかって粉々になり、主人様の足にも破片が当たりました。主人様は破片を掴むと、羽織を取り払ったのです。

 紅に燃える天狗様が立っておられました。

 風は唸りを上げ、海は荒々しく音を立て、地面は揺れ動きました。主人様の後ろに隠れていなければ、ワタシは吹き飛ばされていたでしょう。

 空には分厚い雲が流れてきて太陽を隠し、今にも雨が降りそうになりました。赤い稲妻が閃くと、色を持たぬ生き物の恐怖の叫び声が上がりました。

『おおっ、おおっ、このニオイ…御方様の御狗様じゃ!』

『おおっ、おおっ、烈じゃ!烈じゃ!』

『おおっ、おおっ、扇じゃ!扇じゃ!』

『おおっ、おおっ、誰じゃ!誰じゃ!偽だとぬかしたのは!?』

『おおっ、おおっ、偽であることは確かじゃが、庇護のもとにあったとは!御狗様の寵愛を受けておったとは!』

『おおっ、おおっ、ワシは檻に入れるなど反対じゃったんじゃ!』

『おおっ、おおっ、この裏切り者が!』

『おおっ、おおっ、お許し下さい!お助け下さい!』

『おおっ、おおっ、ワシらが悪うございました』

『おおっ、おおっ、2度とこのような事は致しませぬ!』

『おおっ、おおっ、酷いことをしてすまなかった!』

『おおっ、おおっ、苦しめて、わるかった!』

『おおっ、おおっ、どうか!なにとぞ!』

 色を持たぬ生き物の哀れな声がいたるところから上がり、大きな声を上げて泣き始めたのです。

 天狗様が姿を隠すように羽織を羽織られていたのと、色を持たぬ生き物は目がよく見えない為に分からなかったのでしょう。

 主人様は…天狗様とは、それほどまでに特別な存在なのです。

 主人様は無慈悲な笑みを浮かべられました。

 ワタシを苦しめ続けた者達です。いなくなればいいと思ったこともありましたが、今から殺されるのだと感じるとワタシは恐ろしくなって羽をバタバタさせました。

『助けてあげて下さい。

 懺悔しています。許してあげて下さい』

 ワタシは必死で口をパクパクと動かしました。

 すると、主人様はワタシを見下ろしました。その瞳には、ワタシなど映っていませんでした。

 主人様は揺れる大地に手を置いて、最後の言葉を発せられました。

 森の木々が烈しく揺れ動く音がすると、色を持たぬ生き物の声が急にしなくなり酷い悪臭が漂ってきました。

 そう…死んだのです。

 色を持たぬ生き物は、一瞬で、死んだのです。

『また…ワタシに関わった者達が…死にました。

 ワタシが…ここに…来たから。

 またワタシが…原因で…ワタシが…主人様に…殺させたのでしょうか?』

 死のニオイでワタシがパニックに陥ると、主人様は大きな声で否定されました。

『ちがう!

 俺を攻撃したのだから、俺が、殺したんだ。

 奴等は、俺の足に石をぶつけた。

 俺を攻撃するのならば、その代償として命を失うことになる。

 あれほど酷いことをしたというのに、奴等を助けようとするなどお前は優しいな。

 けどな、優しさはお前の大切な者に向けてやれ。攻撃者を擁護してやる必要はない。狡賢い連中は哀れみを乞い、優しさを利用しようとする。そう…罰を逃れる為なら、いくらでも嘘を吐き、同情心を煽ろうと穢れた水を垂れ流す。

 奴等は自らが助かろうとして、懺悔しただけだ。

 そう…我が身可愛さでな。中身のない謝罪など、何の意味ももたん。そもそも後から謝罪するぐらいならば、はじめからするな。 

 言動には、責任が伴う。

 罪を犯した者を擁護してやる必要はない。

 萌黄色の檻には、苦しみ死んでいった者達の悲鳴が残っていた。何度も何度も繰り返したんだ。 

 2度とこのような事はしないと奴等自身が言ったのだから、その言葉通り出来なくなるように殺してやったんだ。

 生かしておけば、また罪もない生き物を檻にいれて楽しむだけだ。 

 そうして、何度も何度も繰り返す。

 屍人と成り果てた醜悪な化け物には、死の罰を与えなければならない。

 下された決定は絶対であり、誰も逆らえぬ』

 主人様がそう仰ると、雨がポツポツと降り始めました。

 昌景様から…」

 袴の人はそこで言葉を切ると、僕を見つめた。僕が頷くと、彼女は少し間を置いてから話し出した。


「あの…猫又の話を聞いた時に…主人様の言葉を思い出しながら…あの時の自分自身を思いながら…話していたのです。

 昌景様が…かつてのワタシのように…見えたのです。気持ちに…寄り添えるような気がしました」

 袴の人はそう言うと、少し恥ずかしそうな表情をした。


「主人様は雨に濡れていく赤い髪をかき上げると、ワタシの目線に合わせるようにしゃがみ込みました。

『いつまでも、こんな所にいるもんじゃない。

 降り注ぐ雨が奴等によって穢された大地を清め、漂う空気を綺麗にし元通りにしているが、嘆きの涙はそうすぐには乾かん。

 そろそろ出発するか。

 あっ…そうだ…お前、えらくボロボロだな。

 だが、よく頑張った。偉かったな。

 その勇気を讃えて、何か特別な贈り物をしてやろう。

 何がいい?』

 主人様の言葉に、ワタシはただ驚くばかりでした。自由の身となれたのに、何かをいただけるなんて思ってもいませんでしたから。

『まぁ、急に言われても分からんわな。

 俺の山に着くまでに考えておけ。

 さぁ、出発だ』

 主人様はそう仰ると、ワタシに微笑みかけてくれました。

 主人様はワタシに合わせるようにゆっくりと飛んでくださり、紅葉が美しいこの山に着きました。

 このお堂の前でワタシを皆んなに紹介してくださると、皆んなは快く受け入れてくれました。とても嬉しかったです。

 皆んながワタシに優しく話しかけてくれると、主人様はお堂の中に入っていきました。

 ひとしきり皆んなと遊んでからワタシは縁側にとまり、夕焼けが紅葉を照らすのを眺めていました。時は穏やかに流れていき、ワタシは幸せな気持ちになりました。

『綺麗な紅葉だろう。俺の自慢の紅葉だ。

 本当に、美しい。

 で、何がいい?決まったか?』

 主人様はいつの間にか戻って来られていました。ワタシに水と食べ物を用意して下さり、主人様もご自身の食事を用意されていました。

 白い器に注がれた透明な水を覗き込むと、すっかり痩せこけた艶のない黒い鴉が映っていました。

 ワタシは悲しくなって目を逸らしましたが、もう一度恐る恐る覗き込みました。そこにはやはり疲れ果てた黒い鴉が映っていたのですが、ずっと見ていると舞い散る色鮮やかな紅葉も見えました。

 赤と黄と橙色という美しい色を見ていると、ここまで辿り着く間に雨が止んでその後に架かった虹を思い出したのです。

 そしてワタシに勇気をくれた…虹を渡る美しい黒い鴉の姿も思い出しました。

 ワタシは器に映し出された自身の姿をしっかりと見つめました。

『ワタシを…大きくして欲しいです。

 美しい空に、自らの誇りである黒を掲げたいのです』

 ワタシは主人様にそうお願いしました。

 ワタシはコソコソと隠れるように生きてきました。

 いつの間にか言われるがままに自らの黒を恥じ、見つけられたくないと思い、体を小さく小さくしながら生きてきたのです。

 どうしてワタシは、ワタシを愛することを止めてしまったのでしょうか。

 どうしてワタシは、投げつけられた恐ろしい言葉を受け入れてしまったのでしょうか。

 堂々とした姿で否定して、ワタシがワタシを守り、愛さねばならないというのに。諦めの道に進み、黒を恥じたワタシにはそれが出来なかった。

 その日々を、後悔しています。

 ワタシが望んだ日々ではなかったのですから。今までの分を取り戻すように、青い空に堂々と黒を掲げたいと思いました。

 主人様はワタシをじっと見つめてから、頷かれました。

『分かった。

 他には…なんか、あるか?

 こう…欲はないんだな、お前は。

 まぁ…人間とは違うか』

 主人様はそう仰ると、良い香りのするお茶が注がれた美しい湯呑みを手に取りました。お茶を飲む主人様を見つめていると、助けてくださった主人様に御礼がしたい思いました。

 ワタシに何か出来ることはないかと考えていると『人間の姿にして欲しいです』と口が勝手にパクパクと動いたのです。

『人間の姿!?なんでた?』

 主人様はびっくりされたのか大きな声を出しました。

『助けていただいた御礼がしたいのです。

 何か出来ないかと考えました。

 ワタシに出来ること…主人様の食事を作ったり…という身の回りのお世話をしたいと思ったからです』

『俺の世話!?

 やめてくれよ。俺は何でも出来るからさ。

 礼ならば「ありがとう」の言葉だけで十分だ。何かしてくれることを期待して助けたんじゃない。俺が助けたいと思ったから、助けたんだ。

 今までの分も幸せになってくれたら、それでいい。

 もっと自分の為に、何か願えよ』

『それが、ワタシの願いです。きっと…出来るようになります』

『困ったな。本当にいいからさ』

『いいえ。それがワタシの願いなのです』

 そういった押し問答が続きましたが、ワタシが一歩も引かないでいると主人様が小さく頷かれました。

『まぁ…言い出したのは俺だしな。

 じゃあ、適当でいいからな。

 お前が納得のいく範囲で、俺の身の回りの世話をするということで、人間の姿にするか。

 なんだかな…』

 主人様は苦笑いをされましたが、すぐに真剣な表情になりました。

『本当に、いいんだな?』

 主人様の瞳には鋭いものがありましたが、ワタシは頷きました。

 そう…ワタシが恐れている人間の姿でもあります。

 その姿に、ワタシはなるのですから。

 けれどそうすることで…ワタシも人間の目線に立ち、何かを学べるかもしれないとも思いました。こういう事をしたら人間ならどう思うのか、人間にならないと分からないからです。それに恐れのままで終わらせるよりも…もっと違う感情を抱けるようにもなるかもしれないとも思いました。

 そうしてワタシは鴉の姿と人間の姿の両方をもつことになったのです。ワタシが人間の姿となった時、主人様は頭を抱えられましたけれど。

 あれから時は経ちましたが、なかなか上手くはいかないものです。主人様は何でも出来ますので、かえって迷惑をかけているだけかもしれません。

 それに…ふとした瞬間に何度も恐ろしい記憶が迫ってきて、ワタシの心は滅入ってしまい…決意は無となり、嫌な言葉ばかりを思い出してしまう。絶望の中を彷徨ってしまうのです。

 結局のところ…ワタシは…カラスにも人間にもなれない…どちらにもなれないのかもしれません。

 それに何か…大切な事を思い出せずにいる気がするのです。

 けれど、ソレが何なのかも分からない。分からないことばかりです」

 袴の人は空を仰ぎ見ながら、少し悲しそうに笑った。


「そうして山で暮らすことになったのです。

 皆んな優しくて…本当に幸せでした。

 けれど主人様の真っ白だった翼は、徐々に灰色を帯びていくようになりました。

 また…突然…この日々が終わるのではないかと思うと、ワタシは怖くなりました。

 ある日、主人様は大きな弓をもち、夕焼けの光に照らされながら黒羽の矢を放たれました。

『人間の男がやって来る。

 俺が選んだ男だから大丈夫だ、安心しろ』

 主人様はそう仰ると、ワタシを安心させるように優しく微笑んでくれました。

 そんなある日、主人様が山を留守にされている時に『選ばれし者と思われる男が、列車に乗ってやって来た』と皆んなが騒ぎ始めました。

 赤い鳥居を通過し入り口の高く伸びた草も道を開けると、皆んなは上空から男の真偽を確認する為にバタバタと飛び立っていきました。

『間違いない、選ばれし者の色だ』

 皆んなは自らの目で見定めてから、先にいる者に伝えました。

 そして主人様の妖術が施された棍棒を持つ天狗の像も、男に道を開けました。

 その男は「選ばれし者」に間違いないのでしょう。様々な試練を通過されたのですから。

 主人様の翼を白く変えてくださる、たった1人の方です。 

 主人様の大切な方です。

 何としても無事に主人様のもとにお連れせねばなりません。

 それでも…それでも…松の木にとまって見ていたワタシには…山を滅茶苦茶にしようとやって来た人間の男に見えたのです。

 ワタシの耳には聞こえるはずのない山の悲鳴が聞こえました。

 木々がそよぐ音と水の流れる音もしなくなり、泡を吹きながら横たわっていた動物達の死に顔、鳴り止まない銃声と恐ろしい人間の声が蘇ったのです。

 あの時こうしていれば…あの時もっともっと…と思うと、こちらに向かってやって来る人間の男が死を運んでくるように見えたのです。

 沢山の荷物を抱える昌景様が…あの時の人間の男に見えたのです。

 その瞬間、目の前が真っ暗になりました。

 この男が…真実に選ばれし者なのか分からない。

 もしかしたら…凄まじい妖術をかけられた…偽物なのかもしれない…皆んなの目を欺こうとしているのかもしれない。

 ならばワタシが…山を守らなければならないと思ったのです。

 ワタシよりも生まれ出づる皆んなの力の方が遥かに優れているというのに、なんと愚かなのでしょう。

 憎しみの感情は、目に見えるものを歪ませました。

 真実とは違う、幻影を作り出したのです。

「選ばれし者」と「恐ろしい人間」という2つの間で、ワタシは揺れ動き、ついには憎しみに屈したのです。

 本当に…お恥ずかしいです。

 空から聞こえてきた主人様の声で、はっと我に返り愚かな幻影は消えていきました。

 その瞬間、ワタシは自分が恐ろしくなりました。

 ワタシも…何もしていない方に…同じ人間というだけで…恐ろしいことをしようとしたのです。黒い鴉だからといって、ソコにいただけのワタシ達に酷いことをした人間と…これでは同じではありませんか。

 自らの愚かさを思い知りました。

 選ばれし者を安全にお連れし、主人様が戻って来られるまで守らねばならないのに、ワタシ自身が傷つけようとしたのです。ワタシはワタシの立ち場すらも理解していない、本当に愚か者なのです。その場ですぐに謝罪しなければならないのに、ワタシはそれもしませんでした。我に返ってからも自分が恥ずかしくなって…嫌な態度をとり続けましたし。

 ワタシは…ワタシは…本当に…すみません。

 昌景様、ごめんなさい」

 袴の人は僕の方に向きなおり、真っ直ぐに僕を見つめながら深々と頭を下げた。握られた小さな手には力が入り、全身から深い後悔と心からの懺悔が伝わってきた。包み隠さずに自らの苦しみを語ってくれた彼女に、僕も深く頭を下げた。


「僕の方こそ…ごめん。本当に、ごめん」

 僕がそう言うと、袴の人は顔を上げた。


「どうして…昌景様が謝られるのですか?」

 袴の人はひどく困惑した表情で言った。


「だって君は…人間全てを恐怖に感じるほどに怖い思いをしたんだ。

 時が…心の傷を癒せぬほどに。

 いや、時が心の傷を癒してくれるなんてないか…僕もよく知っている。時間が経つほどに、後悔や自責の念や様々な感情が複雑に絡み合うんだから。

 傷ついた心は、ずっとあの頃のままであり続ける。泥が足に絡みついて、前に進むのを阻むんだ。

 そうだ…忘れたくても…忘れられないんだ。

 苦しみを…感じてしまったんだから。見てしまったんだから聞いてしまったんだから…ずっと付きまとう。

 それこそが、恐怖なんだろう。

 簡単に拭いされるのならば、恐怖とは言わないんだろう。

 何かのきっかけで…思い出すんだ。

 ここで暮らすうちに感じることもなかったのに、僕を見て…僕という人間の男を見て…君の中で…また恐怖が身体中を駆け巡り、震え上がらせ、大切な者達を守ろうとしたんだ。

 君は今も苦しんでるんだね…よく分かるよ。

 僕にも…あるからさ」

 と、僕は呟いた。

 僕を見る黒い瞳には深い悲しみと苦しみが浮かんでいた。

 言葉以上に、表情を見ていたら分かった。その表情は、鏡に映る僕を思わせた。

 

 僕には彼女を責めるなんて出来ないし、それをするつもりも毛頭ない。僕は彼女を許すし、これから友情という名のいい関係を築いていきたい。

 忌々しい瞳は「刈谷昌景」にではなく、彼女が味わった「人間の行為」に向けられた瞳だったのだから。

 僕も、人間の男なのだから。

 それに僕だって「僕」を知っている。

 僕も同じ目に合ったら、きっと同じ事をするだろう。

 そして我に返り、自分を恐ろしく感じるのだ。

 

「それに僕は誤解してたんだよ。僕の中にも偏見があり、ひどい誤解をしていたんだ。

 語り合わないのに…自らの浅い経験で、そう思い込んでいた。

 僕も君が思う人間と何一つとして変わらない。

 偏見に満ちているんだ」

 と、僕は言った。

 袴の人のことなど何も知らないのに、自分の中でストーリーを作り出していた。男と女という浅はかな関係で結びつけ、割って入った僕が気に入らないのではないかというペラペラの考えを抱いた自分が恥ずかしくなった。

 

「昌景様、どうかやめて下さい。

 昌景様は、ワタシの知っている人間とは違います。

 それにワタシは羽音で昌景様を驚かせて追い立てました…ごめんなさい」

 袴の人がそう言うと、僕は息を切らしながら坂道を走ったのを思い出した。


「あれは…そうだ。訳があったって紅天狗が言ってたよ。

 面白半分で、僕を追い立てたんじゃないんだよね?」

 と、僕は言った。


「はい…けれど『急いで下さい』と直接語りかけることは出来ました。しかしワタシはそうせずに力に出たのです。

 闇が濃くなれば、鍵があったとしても、ワタシの力では朱色の門を開くことが出来なくなるかもしれません。

 主人様の翼の色は、灰色になられています。

 何が起きるのか…分かりません。 

 失望され、退屈されていらっしゃいますから…」

 袴の人の瞳は怯えの色に染まり、その体はガタガタと震えていた。


「それって、どういう…こと?」

 僕がそう言うと、袴の人は慌てて口を押さえた。


「あっ…すみません。忘れて下さい。

 主人様が話されていないことを、ワタシが話すわけにはいきません…すみません…。

 そう…それで…ワタシは選ばれし者とも距離をおこうと考えたのです。

 やっぱり人間が近くにいると怖い。

 何の関係もない人間に酷いことをしようとした自分自身も怖い。これから先、また憎しみの感情に駆られて何をするか分からない。

 これ以上関わらない方がいいと思ったのです。

 失礼な態度をとれば嫌な女だと思い、もう話しかけてこないだろうと考えました。

 けれど昌景様はワタシに声をかけ続けて下さいました。何事もなかったかのように優しく接してくれました。

 嬉しかったのに…怖くてなりませんでした。

 親切にしてくれたのに、裏があった人間の顔が蘇ったのです。

 もう自分でも…自分を…どうすることも出来ませんでした。

 けれど、そんなある日、にわか雨で濡れ落ちた紅葉を掃いているワタシの側に主人様が来られました。

『昌景はな、いい子だ。

 俺が選んだ男に、間違いはなかった。

 話をすればするほどに昌景の優しさが伝わってくる。

 何かを、変えてくれるかもしれんぞ。

 俺を信用して、向き合ってみないか?』

 主人様はそう仰いましたが、ワタシは黙っていました。

『大丈夫だ。俺が、側にいる。

 そんな不安そうな顔をするな。

 何かのキッカケがいるなら、言いつけだと思えばいい。

 いい子だから、仲良くしろ。

 言いつけだから…そんな気持ちでも構わんさ。

 それにな、記憶に残っている人間の顔は恐ろしい顔ばかりだろう?

 昌景なら塗り替えてくれるかもしれんぞ。恐ろしい顔を優しい顔に。悪夢を終わらせてくれる。それはきっと…同じ人間でなければできない。

 それに昌景もな、けっこう可愛いぞ』

 主人様は楽しそうに笑うと、昌景様が口にされた「ある言葉」を教えてくれたのです。

 その言葉が、とても嬉しかったのです。

 見上げた空には虹が架かり、飛んでいる皆んなの姿を見ていると、勇気を出さねばならないと思いました。昌景様とちゃんと話をして、今までの事を謝らなければならないと思いました。

 昌景様はワタシの知っている人間とは…違う。選ばれし者の任を果たす為に、恐ろしい異界に行って戦っている。恐れに立ち向かうことが出来る立派な方であり、強く優しい心の持ち主です。

 それなのに…ワタシは自分を守ろうとすることしか考えていない。強くなろうと思ったのに…あの頃のままだった。

 結局…ワタシは強くは生きられないのです。強くなろうと言い聞かせても、心は決まっていない。

 その心は見透かされ、ワタシはずっとこのままでいる。

 本当に…迷惑をかけてばかりです…主人様にも昌景様にも」

 袴の人は笑ってみせた。

 その笑顔は、涙以上に僕の胸を揺さぶった。こんなに悲しい笑顔があっていいのだろうか。

 なんとかしてコスモスのような可憐な微笑みを取り戻したくなった。袴の人には心から笑って欲しい。

 たとえ僕にそれが出来なくても、僕は男が抱く大切なものを守り抜きたいという感情を…伝えておかなければならないと思った。


「紅天狗は、君のことを迷惑だなんて思ってないよ。

 迷惑な子を、あんな風に黒龍で守ろうとする男はいないから」

 僕がそう言うと、袴の人の足元にいた鴉が立派な羽を広げた。何者も通さぬという黒の強い力を感じた。


「昌景様…ありがとうございます。

 けれどワタシは…他にも…迷惑をかけているのです。

 主人様から…大切な色も取り上げたのです」

 袴の人は悲しそうな顔で言った。


「色…?」

 僕は辺りを見渡しながら繰り返した。

 この世界は、色で溢れている。赤に黄に橙色の美しい紅葉と青い桔梗にピンクのコスモス、白い花も綺麗だった。


「は…い。

 ワタシが…歩き飛び回る範囲から、その色が消え去りました。

 紅葉が散り、美しい雪化粧へと変わり、やわらかな春を迎えた時…ワタシの体は新緑に反応しました。

 一面の緑を見て、萌黄色の檻の中にいるような錯覚に陥ったのです。唸りを上げる風が『おおっ、おおっ』という声に聞こえ、木々が四方八方からワタシを取り囲んでいるかのように思うと、ワタシは気絶しました。

 何日も何日も眠り続けたのです。

 目が覚めると、主人様が緑を目に映りにくくしてくださったのです。

 それでも主人様は『大丈夫か?』とワタシを心配してくれました。皆んなもワタシを気遣ってくれました」

 袴の人はそう言うと、少し笑ってみせた。また無理に笑ってみせる袴の人を見ていると辛くなってきて、僕の胸は張り裂けそうになった。

 僕が黙り込んでいると、袴の人はそっと青い空を眺めた。


「暗い話ばかりして、すみません。

 もう…やめましょうか。こんな話…もう聞きたくないですよね。

 そうだ。主人様は昌景様の話をされる時、いつも笑顔になられます。本当に昌景様のことが好きなんだと思います。 

 昌景がな、昌景がな…と嬉しそうに名前を口にされるのです。そんな風に名前を呼ばれる昌景様が羨ましくなり、そんな笑顔の主人様を見ているとワタシまで嬉しくなります。

 本当に…来てくださったのが、昌景様で良かったです。

 昌景様が、主人様の笑顔を増やしてくれました。

 灰色の翼をされていても、主人様はどこか楽しそうなのです。

 すみません。長々とお話ししてしまいました」

 袴の人は微笑んだ。

 その笑顔を見ていると、僕は泣きたい気持ちになった。黙っていた僕を気遣っての言葉と笑顔だろう。

 袴の人は立てかけていた箒を持って立ち上がろうとしたので、僕は「待って」と口にした。悲しい笑顔のままで話を終わらせてはならないと思い、僕の口から咄嗟に出た言葉だった。

 紅天狗が袴の人を守ろうとする気持ちが、今痛いくらいに分かった。



「それで大切な人を守れるのなら、大切な人が傷つく姿を見ないでいいのなら男はそうする。

 紅天狗はそういう男だろう」

 僕がそう言うと、袴の人は僕を見つめた。足元の鴉も賛同するように、大きく羽を動かした。僕が鴉を見ると、鴉も僕を見ながら頷いた。


「今度は、僕に話させて欲しい。

 君は僕に話してくれたんだ。今度は、僕が話す番だ。

 ありがとう。

 僕を、そんな風に思ってくれるなんて。

 僕は…君が思ってくれているような立派な男じゃないんだ。心は強くはないし、いろんな事を諦めて生きてきた。

 そもそも…ここには…こんな大事な責任があるなんて思っていなかった。天狗なんて存在しないと思っていたから…そう…山で暮らすだけだと思っていたから覚悟もなくここに来た。いや…逃げてきたようなものなのかもしれない。

 そう…僕は…ずっと…自分から目を逸らして生きてきた。

 僕の歩いてきた道は、真っ白だ。僕が望んだ道を歩んできたのではなくコロコロ転がっていたから、僕には何も無い。

 だから正直、自分が何者なのかよく分からない。

 けれど…」

 僕はそこで言葉を切り、袴の人を見つめた。僕の言葉を聞いた袴の人は驚いた顔をしていたが、そっと箒から手を離してくれた。

 僕は袴の人から咲き誇る紅葉に視線を移した。堂々と咲く紅葉の中でも、とりわけ燃えるような赤い紅葉を見つめた。



「けれど…ここに来て、僕は「刈谷昌景」なんだと分かった。

 紅天狗が、僕の名前を呼んでくれるたびに…それは知らないうちに僕の心の隅々にまで染み渡っていった。

 僕は僕であり、他の誰でもない「刈谷昌景」として歩まねばならないと教えてくれたんだ。

 僕も…君の気持ちが分かるんだ。

 僕も…消えない苦しみがある。それは不意に襲ってきて、恐ろしい泥に引き摺り込むんだ。そして歩みを困難にさせる。

 強くあらねばならないと思っても、嫌な記憶が蘇ってきて心が沈んでしまう。何度も繰り返してきた…いや、この先もずっとそうなんだろう。

 けれど、変わったことがあるんだ。

 それでも諦めなければ歩き続けることが出来るし、光を掲げれば泥は乾いていき、自分の意志を貫き通すことが出来るんだ。

 自分が「誰」であるのかを「誰」で在らねばならないのかを、紅天狗が僕の名前を呼んでくれるたびに気付かせてくれる。

 僕は、僕で、いいのだと。

 僕は、他の誰でもない僕なのだからと。

 僕は紅天狗に「昌景」と呼んでもらえることが嬉しい。

 大切な相手に…名前を呼んでもらえることが、これほど特別な気持ちにさせてくれるなんて思いもしなかった」

 僕は感謝を込めて、右手に持っていた赤い紅葉を太陽の光に掲げた。赤い色は烈しく輝いて、その男のように煌めきを放った。


「そう…なのですか?

 けれど…そう…なのかもしれませんね。

 主人様の言葉には、とても強い力があります。

 昌景様がそのように思われるのならば、きっとそうなのでしょう」

 袴の人はそう言うと、ニッコリと微笑んだ。


 その微笑みを見ていると、僕はモヤモヤしてきて「君は…カラスで…いいの?」と思わず口にしていた。袴の人はキョトンとした顔で、僕を見た。

 

「あっ…ごめん…変なことを言って。 

 僕の考えを君に押し付ける気なんてないけど、その…僕が「人間」とか「男」と呼ばれる感じなのかなと思ったりもしたから。

 君は鴉の中でも特別だから…どうなのかなって思って」

 と、僕は言った。

 

「ワタシは…特別ではありません。

 皆んな…とは違います。

 それに人間の姿ではなく鴉の姿となり…大きさも元通りとなり、何も言わずにこの山を去っていったとしたら…主人様はきっと…ワタシを見つけ出すことは出来ないでしょう。

 ワタシは特別な鴉でなく、沢山いる鴉なのです。

 主人様の瞳に、ワタシが映ることはありません」

 袴の人は僕から目を逸らし、生まれ出づる者に目を向けた。


「そんなことはないよ!

 必ず、紅天狗は君を見つけ出す!」

 僕は大きな声で叫んでいた。 

 紅葉の絨毯の上で遊んでいた鴉達が僕の声に驚いたのか、サッと羽を広げてバサバサと何処かに飛び去っていった。紅葉の絨毯の上で遊んでいる鴉はいなくなり、残されたのは袴の人の足元にいる鴉だけとなった。


「昌景…様?」

 袴の人は驚いた表情で僕を見た。


「君が思っている以上に、紅天狗は君を大切に思っている!

 僕には、分かるんだ!」

 僕がそう言うと、袴の人の頬は赤くなった。


「ありがとうございます。

 その言葉だけでも…嬉しいです。

 けれど…分かっています。

 時の流れで、ワタシは忘れ去られるでしょう。

 主人様の記憶に留まることは出来ない。

 ワタシは特別でも生まれ出づる者でもなく、沢山いる鴉です。名すら持つことがない鴉なのです」

 袴の人は僕の言葉を受け入れてはくれなかった。


「なら、紅天狗が君を見つけ出せるような名前があればいい。

 君は沢山いる鴉ではなく、たった1人だ。

 紅天狗にとっても、君はたった1人だ。代わりなんていない。

 そうだ!紅天狗は君を大切に思っているから…紅天狗が大切に思っているものの名前を…」

 僕がソレを探すように辺りを見渡していると、手元から微かな熱を感じた。生まれ出づる者がくれた赤い紅葉が輝きを放ち、自らの名を告げたように思えた。


「楓…そうだ。楓は、どうかな?

 紅葉は、楓ともいうんだ。

 紅天狗が大切に思っている美しい赤の名を、君に」

 僕はそう言うと、輝く赤を彼女の目の前に差し出した。彼女は男が大切に思っている赤をしばらく見つめていたが、ゆっくりと口を開いた。


「主人様が大切に思っているものに…名前だけでもなれるのなら…とても嬉しいです。けれど…主人様がどう思われるか…」

 彼女は不安そうな表情で黙り込んだ。


「僕から紅天狗に話しておくよ。

 君さえ良ければだけど」

 僕がそう言うと、彼女は少し考え込んでから小さく頷いて恥ずかしそうに微笑んだ。

 彼女が微笑むと、ずっと一緒にいてくれた鴉は安心したように大きな鳴き声を上げた。立派な羽を広げて青い空へと飛び立っていくと、鴉は一羽もいなくなった。


 すると箒がカタンという音を上げてから倒れ、その反動で紅葉が高く舞い上がった。こうして話をしている間にも、紅葉は沢山散っていた。


「僕も、一緒に紅葉を掃くよ」

 僕はそう言うと立ち上がり、箒を拾い上げて、彼女に手渡した。


「いいえ!大丈夫です!

 昌景様に手伝ってもらうなど」


「手伝う…じゃなくて、やりたいんだ。

 いや、やらせて欲しい。

 僕もここで暮らしているし、一緒に暮らす者として何かやりたいんだ。軒下で紅葉を見ているだけじゃなくて、この山の為に僕も何かしたい。

 願いは、叶わないかもしれない。

 けれど見ている者に、思いは届くんだ。

 紅天狗は、毎日紅葉を掃いている君を見ている。

 紅天狗に君の願いは届いていると思うよ」

 と、僕は言った。散り落ちた紅葉を集めることで、彼女の思いを僕の胸にも刻んでおきたいと思った。


「昌景様…ありがとうございます」

 彼女はそう言うと、僕に向かって微笑んでくれた。彼女の心からの笑顔を見ていると、僕も幸せな気持ちになった。

 ふと空を見上げると、先程の鴉は何処かに飛び去っていくこともなく上空の青い空を旋回していた。その姿を見ていると、先程の優雅に舞う鴉の姿と大事な伝言を思い出した。


「あっ…そうだった。

 紅天狗から伝言を頼まれていたんだ。

 大事な用があるから、今日は戻らないって」

 僕がそう言うと、彼女の微笑みがみるみる消えていった。


「大事な…用…ですか?

 他には何か…仰っていましたか?」

 その声はとても小さく、箒を握る小さな手が小刻みに震えていた。


 僕はしばらく躊躇ってから紅天狗の「絶対」という言葉を口にした。


 すると、身も凍えるような強烈な風が吹きつけてきた。


 非常な恐怖が彼女を襲ったかのようにガタガタと震え出し、箒を持っていた手がダラリと垂れた。散り落ちた赤い紅葉の上に箒が音を立てて落ちると、紅葉が箒を食いつくすようにガサガサと動き出した。

 箒は紅葉の下に沈み、その姿を消し、見えなくなった。


 すると太陽が雲に隠れたかのように辺りは暗くなり、全てのものが静まり返った。彼女は怯えた目をしながら、コクリと頷いたのだった。

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