第15話  鵺


 次の日、僕は不意に目を覚ました。

 朝日が昇っていれば部屋に光が射し込んでいるのだが、部屋は暗くて何の明かりも射してはいなかった。

 もう一度目を閉じて眠ろうとしてみたが、妙に目が冴えていて眠ることが出来なかった。

 微灯をつけると、ゆっくりと起き上がった。

 畳の上を静かに歩き、はめ殺しの窓からそっと外を見た。少し好奇心に駆られていたのかもしれない。

 満月に見える月は雲に隠れていたのだが、雲の隙間から僅かに漏れる光によって、ウヨウヨと泳ぐ黒龍の姿が見えた。鴉達は龍に姿を変えていて、辺りは静まり返っていた。

 耳を覚ましていると、風の音さえも聞こえるようだった。それに雨が降っていたのだろうか。ポトンポトンと雫が落ちる音も聞こえたような気がした。

 他には動くものの気配すらも感じない。草木も眠る時間なのだろう。時折聞こえてくる笛の音もしなかった。


 しばらくの間、僕は夜空に浮かぶ雲と黒龍を眺めていた。

 だが急に寒気がして、この静けさを恐ろしく感じるようになった。誰もいないはずなのに、誰かにじっと見られているような不気味さを感じたからかもしれない。

 僕は窓から離れると、布団の中にもぐり込んだ。

 身動きをせずに聞き耳を立てていると、風が騒がしくなった。

 風で枝が揺れ始めた音が「昌景」という僕の名を呼ぶ声に聞こえた。さらに枝が激しく揺れ出すと「外で待っている。早く来い。今すぐにだ」という急かすような声に聞こえてきた。

 紅天狗の声に似ているような気もしたが、どこか冷たくて妙な声色だった。

 僕は戸惑いながら、布団から顔を少しだけ出した。

 するとギラギラした光が射し込んできて部屋が明るくなり、部屋の壁が透けていき、外から僕に向かって手招きをしている男の姿が見えた。僕はギョッとしたが、その手の動きを見ていると「早く起き上がって、外に行け」とばかりに右足がビクンビクンと跳ね上がり歩き出そうとした。

 

 すると床の間の掛け軸が、風もないのにカタカタと動き出した。

 それに応えるかのように、地面を揺るがすような大きな黒龍の鳴き声が上がった。お堂に垂れ込めている紅葉がガサガサと動いて妙な声をのみ込むと、布団の側に置いていた短刀の目抜きの扇がぼうっと光り出した。

(夜に、お前を外から呼ぶようなことは絶対にないからな)

 紅天狗の言葉を思い出すと、僕は息を深く吸い込んで吐き出した。

(ここには、俺の力が宿っている。

 ここにいる者を守る力が、この建物には強く働いている)

 僕は短刀を手に取り、御守りのように握り締めた。

 右足がもぞもぞとしたが、短刀を左手で握りながら右足を押さえつけると大人しくなっていった。


 右足が静かになると、妙な声も聞こえなくなり部屋も暗くなっていった。黒龍の鳴く声が遠ざかり紅葉の揺れ動く音もしなくなると、雨がしとしとと降り出す音が聞こえてきた。


 時計を見ると、まだ午前2時だった。

 この時間に光が射すはずもない。

 僕は短刀から手を離したが、すぐに握れるようにまた布団の側に置いた。短刀を見つめながら雨がだんだん激しくなっていく音を聞いていると、ようやく瞼が重たくなっていったのだった。


 ※

 

 鴉の鳴き声で目を覚ますと、部屋には陽の光が射し込んでいた。

 布団を片付けて朝の支度をすますと、僕は軒下へと向かった。紅天狗が座っているかもしれないと期待したのだが、そこには誰もいなかった。


 雨に濡れて雫を垂らす紅葉は艶めかしかったが、その色は昨日に比べたら寂しげで元気がないようにも思えた。

 ふと地面に目を向けると、水たまりがいくつも出来ていた。

 ひんやりとした風が吹く度に紅葉はヒラヒラと散っていき、水たまりに浮かぶ紅葉はどんどん増えていった。先に沈んだ紅葉からクシャクシャになり色が褪せて水も濁っていくと、地面にポッカリと黒い穴があいたようになった。

 その変化は、あまりにも恐ろしかった。

 急いで靴を履きに行くと、昨日もらった箒等を手にして黒い穴へと一目散に走っていった。


 この数分の間にも侵食は進み、黒い穴はどんどん大きくなっていた。


 僕は慣れない手つきで変わり果てた紅葉を集め始めた。濡れた葉を掃くことがこんなにも難しいと思わなかったが、この変わり果てた景色をこのままにしてはおけなかった。

 黒く変わっていく姿は、どこか紅天狗の翼を思い起こさせたのだ。

 手を一生懸命動かして袋がようやく一杯になると、数羽の鴉がバラバラと舞い降りてきた。鴉達は僕の顔を見ると「任せろ」と言わんばかりに袋を掴み、青い空へと飛び立っていった。風が吹く度に嘴で紅葉を掴み、水たまりに沈むのを阻止してくれたりもした。

 そうして僕達は紅葉を集め続け、袋がなくなる頃に黒い穴も姿を消した。地面は箒の跡が幾つもついて汚くなってしまったが、黒い穴があるよりかはいいだろう。心なしか鴉達も喜んでくれているような気がした。


「ありがとう」

 僕がそう言うと、鴉達は「どういたしまして」と言うかのように鳴き声を上げた。


 色を変えた紅葉が取り除かれ、鴉達が水たまりの周りに集まると濁りも不思議なことに消えていき、陽の光が反射してキラキラと輝いた。水面に映し出される鴉の姿は、この上もなく美しかった。

 元の美しい景色が戻ったように感じると、僕は軒下に座った。箒を立てかけると、両手を頭の後ろに回してゴロンと横になった。

 少しの疲れと達成感を感じながら青い空を眺め、鴉達の楽しげな声を聞いていたのだが、それに混じって男の声が聞こえるとガバッと起き上がった。


 足音は全く聞こえなかったのに、紫色の布に包まれた縦長の大きな荷物を抱えた紅天狗が立っていた。


「おはよう。

 運ぶの手伝おうか?」

 と、僕は言った。


「大丈夫だ。ありがとな。

 昌景の部屋に置くんだ。

 今から、いいか?」


「あっ、もちろん。いいよ」

 僕はそこで靴を脱いで部屋へと戻って行くと、その大きな荷物が入るように襖を開けた。


「おっ、ありがとな。

 昌景、閉めてくれ」

 紅天狗が部屋に入ってくると、男の体から独特のニオイが漂った。

 何をしてきたのかは聞かないでも分かった。怯えることはもうなかったが、何度嗅いでも慣れることはないだろう。

 紅天狗は部屋の隅にその荷物を置くと手招きをした。僕は襖を閉めてから畳の上を静かに歩き、紅天狗の隣に立つと光沢のある美しい布を見つめた。


「贈り物だ」

 と、紅天狗は言った。


「これ…何?」

 と、僕は言った。


 その言葉に答えることなく紅天狗は僕の肩に手を置いて紫色の布に触れた。

 軽やかに取り払われると上品な香りが漂い、透き通った鏡があらわれた。神秘的で美しく、穢れも清らかさも何もかもをありのままに映し出す鏡だった。


 だがその鏡を見ていると、心も体も丸裸にされるような気がして落ち着かなくなった。鏡が光ると、鏡の中に引き摺り込まれるような恐ろしさも感じた。引き摺り込まれたが最後、僕は死ぬまで彷徨い続けるのだろう。

 

「鏡なら…洗面所にあるから」

 僕が独り言のようにそう言うと、僕の肩に置かれた紅天狗の手には力が込もった。


 鏡には、2人の男が映っていた。

 紅天狗と僕だ。

 紅天狗は微笑みを浮かべていたが、僕の表情は硬かった。


「毎日、頭のてっぺんから爪先まで見るんだ。

 自分を見つめられるように」

 と、紅天狗は静かな声で言った。


 透き通った鏡に布がかかると、僕は胸を撫で下ろした。

 紅天狗は僕に鏡を磨く道具を手渡すと部屋から出て行ったが、すぐにまた戻ってきた。その手の中には、小さな木の箱があった。


「昌景、もう一つ贈り物だ」

 紅天狗がそう言うと、僕は箱の中を覗き込んだ。


 箱の中には、鈴が入っていた。

 鈴は黄金のような輝きを放っていて、鈴を括りつけている紐は深みのある紫色だった。紅天狗は鈴緒を手に取ると、静かに振ってみせた。なんの音もしなかったが、外で鳴いている鴉の声が急に凄みを増した。


「昌景、振ってみろ」

 と、紅天狗は言った。


 大きな手から渡された鈴は、とても小さくて軽かった。

 僕は紅天狗がしたように振ってみせたが、どんなに振っても振っても音はしなかった。


「音がしないけど、壊れているのかな?」

 僕は首を傾げながら、しげしげと鈴を見つめた。


「俺には聞こえる。

 その者によって、響く鈴の音色が変わるんだ。

 昌景の音色、しっかりと聞かせてもらった」

 紅天狗は僕の目をじっと見つめた。その銀色の瞳には不思議な色が浮かび、僕は動くことが出来なくなった。


「これより先、異界に行くのが辛くなれば、鈴を振れ。

 終わらせることが出来る」

 紅天狗は僕の目を見ながらそう言った。

 

 僕は口をポカンと開けて、自分の耳を疑った。紅天狗から発せられた言葉とは到底思えなかった。

 僕が何も言わずにいると、手の中にある鈴がずしりと重たくなった。その存在を、僕の心に強く焼き付けようとするかのようだった。


「そんな事をしたら…百鬼夜行が起こってしまう。

 盃を取り戻さないといけないのに」


「あぁ。

 盃を取り戻さなければ、百鬼夜行は起こる。

 だが、これは贈り物だ。

 受け取れ」

 紅天狗の銀色の瞳はじっと僕に注がれた。覚悟と勇気を問いかけているかのようだった。


「鈴を振るのならば、鈴を持ったまま山を降りろ。

 俺に伝える必要はない。何処にいても、俺にはその鈴の音が聞こえる。

 この鈴を鳴らせば昌景に寄ってくる妖怪は祓われ、災厄からも守られる。

 刈谷昌景は、妖怪に食われることはない。

 その御力は、俺を遥かに超える。

 俺が巻き起こす扇の力も及ばない。

 妖怪の恐怖を味わうことはない」

 と、紅天狗は言った。

 僕は何も言わずに紅天狗の手を掴むと、今や鉛のように重たくなった鈴を返した。この時、僕は言葉が出なかった。

 紅天狗は不思議な瞳で僕を見た。

 その大きな手で僕の頭をクシャクシャと撫で回してから鈴を木箱にしまい蓋をすると、木箱を両手で恭しく持ちながら床の間へと向かった。

 紅天狗は正座をすると、黙ったまま掛け軸を見つめた。

 すると絵の中の逞しい右腕が動き出した。驚くことに本紙の外から沢山の鴉が舞い降りてきて男を包み込むと、墨で描かれた掛け軸は黒い霧のようになった。


 紅天狗は美しい布を広げてから木箱を静かに置くと、深々と頭を下げた。外で鳴いていた鴉の声がしなくなると、何一つ聞こえるものもなくなり静まり返った。

 部屋に射し込んでいた光も薄くなり紅天狗も全く動かなくなると、時が止まっているかのように感じた。


 僕も黙ったまま、紅天狗の広くて逞しい背中を見つめていた。


 紅天狗はゆっくりと顔を上げると、桔梗と松の枝葉が飾られている花瓶に目をやった。その表情は遠い日々に思いを馳せているかのようだった。男は逞しい腕を伸ばして桔梗に優しく触れてから静かに立ち上がると、襖の方へと歩いて行った。


「飯にするか。 

 昌景、さっきの所で座って待ってろ。

 カラスには用を頼んでいるから、今日は俺が作るわ。

 飯を食べたら、準備をして出発だ」

 紅天狗はそう言うと、襖を開けた。

 体についたニオイは落とさずに異界に行くのだろう。つまり、今日は、そういうことなのだろう。

 

 返事をして鴉のお面を取りに行っている間に、紅天狗は姿を消していた。僕は襖をそっと閉めながら、床の間をチラリと見た。

 すると松の枝葉が桔梗を守るように掛け軸に向かって一歩踏み出した。何者にも折れるはずのない松の枝葉が、鈴を前にして深く垂れ下がっていった。

 それは、まるで頭を垂れているようだった。



 僕は軒下に腰を下ろすと、元気のない紅葉と青い空を眺めながら待っていた。時折ひんやりとした風が吹いたが、鴉達が水たまりの周りで遊んでいるおかげなのか、黒い穴は一つもなかった。

 しばらくすると紅天狗は沢山の食材で作られた食事を持って戻ってきた。色鮮やかな野菜に美味しそうなお肉、味噌のいい香りがする汁物に温かい御飯だった。短時間で作られたとは到底思えない食事だった。紅天狗は本当に何でも出来るのだろう。僕が驚いていると「ほら、食えよ」といって箸を渡してくれた。どれも本当に美味しくて、掃き掃除をしてお腹が空いている僕は黙々と食べ続けた。


「昨日は、ゆっくりできたか?」

 紅天狗は僕が食べ終わると口を開いた。


「うん。ゆっくりできたよ。ありがとう。

 それに、昨日から運動を始めたんだよ。

 良い天気だったし、体を動かしたら心も体も軽くなったような気がしたよ」


「そうか。良かった。

 何かを、始めたか」

 紅天狗はそう言うと、空っぽの僕の湯呑みにとくとくと温かいお茶を注いでくれた。茶柱がたち、いい香りが漂った。一口飲むと、そのかりがね茶の味は過去を思い起こさせた。


「ありがとう。このお茶、やっぱり美味しいね。

 そうだ…以前も…茶柱が立ったんだ。あの日はいい事なんてなかったと思ったけど、分かるようになった事がいい事だったのかもしれない。

 たしか…あの時は…彼女がいれてくれたんだった。

 そうだ…昨日、彼女といろいろ話をしたんだ。

 紅天狗が言ってたように、いい子だったよ。

 もっと仲良くなれたらいいなと思う」

 僕がそう言うと、紅天狗は目を細めて頷いた。

 風が吹いて水たまりの水が小波のように揺れ動くと、遊んでいた一羽の鴉が顔を上げて僕を見た。

 鴉の違いなど分からないが、昨日僕に紅葉をくれた鴉のように思えた。

 紅天狗に彼女の名前の話をするのは今だと思った。

 異界から戻ってきた時、僕がどのようになっているのか僕自身にも分からないのだから。


「そうだ…あの…彼女の名前についても話をしたんだ。

 楓は、どうかな?

 彼女は気に入ってくれたみたいだけど」

 僕がそう言うと、自身の湯呑みにお茶を注いでいた紅天狗の手の動きが止まった。


「楓か。

 いい名だな」

 紅天狗はそう言うと、お茶を半分しか注いでいないのに急須を置いた。コトンという音と共に、一枚の美しい紅葉がひらひらと散っていった。鴉達も顔を上げ、舞い散る美しい紅葉を見たが動き出そうとはしなかった。

 美しい紅葉は、地面に舞い落ちることはなかった。

 山の奥深くから冷たい風が吹き、見えざる手に掴み取られたかのように連れ去られていった。


「で、なんで楓にしたんだ?」

 紅天狗はそう言ったが、その目は僕を見ることはなく美しい紅葉の行方を追っていた。


「たまたま手に持っていた赤い紅葉が輝きを放って、自らの名前を告げてくれたんだ。

 その美しい赤の名前を彼女に…と考えたんだ」

 僕がそう言うと、紅天狗は横目でジロリと僕を見た。

 その鋭い瞳に見つめられると、包み隠さずに全てを話さなければならないと思った。


「それに…紅天狗は紅葉を大切に思っている。

 彼女も大切な存在だろうから…その…そう思ったのは、彼女を黒龍で守ろうとするぐらいだからさ。

 彼女は大切で特別な存在なんだろうと思った。

 同じ大切なものの名前を彼女に…」

 僕はしどろもどろに言った。

 とても気まり悪く感じて、自分がひどく軽はずみな発言をしたように思えてきた。


「特別な存在…か」

 紅天狗はその言葉を繰り返した。


「カラス…いや、楓は大切だ。

 楓だけでなく、この山の全ての者が俺にとっては大切な存在だ。

 もちろん、昌景もな」

 紅天狗は湯呑みを手に取り、お茶を飲み干した。

 空になった湯呑みを大きな手の上でクルクルと回すと、描かれた名前も分からない花がクルクルと回った。

 勢いはだんだん早くなり、ついに男の手の動きに翻弄されて転がり落ちた。

 

「あっ…」

 僕は思わず声を上げたが、紅天狗は地面スレスレのところで掴んだ。


「この山に楓を連れてきたことが正しかったのか、俺には分からない。

 だが俺は、これから先は守ってやると言ったんだ。

 その言葉は守らねばならない。

 楓が笑ってくれるように…な。

 嫌いなんだよ。頑張れ頑張れというだけの奴は。そういうのは何もせずに相手を苦しめているのと同じだ」

 紅天狗はそう言うと、湯呑みを置いた。

 僕を見ていた鴉が飛び立っていくと、紅天狗は青く澄んだ空を見上げた。


「しかし、特別な存在ではない」

 と、男は言った。

 銀色の瞳には青い色だけが映っていて、他のどの色も男の瞳には映らなかった。


「俺にとって、特別な存在とは、たった一つだけに向ける言葉だ。

 二つあるというのならば、それは、どちらも特別な存在ではない。

 特別な存在とは、俺の全てを捧げる唯一の存在だ」

 男の声には燃えたぎる情熱が宿っていた。

 その炎はあまりにも烈しく、その身を狂おしく焦がし、捧げる者をも燃やしつくしてしまうかもしれない。


「すべ…て…」 

 その瞳を見ていると僕の体も熱くなっていった。


「そうだ。全てだ。

 俺の何もかもを捧げるんだ。

 永遠にな」

 と、紅天狗は言った。


 すると鴉達が鳴き声を上げて、空へと飛び立っていった。いまや鏡のような輝きを放つ水たまりには、逆さ紅葉が映り込んだ。映り込む紅葉をしばらく見ていると、波紋が立ち一枚の紅葉が船のように漂い始めた。紅葉はクシャクシャになって色褪せ、しばらく漂ってから岸へと辿り着いた。


「今日は、紅葉に元気がないんだよ。

 強い風が吹けば、全部散り落ちてしまいそうだ」

 僕は立ち上がって岸に辿り着いた紅葉を拾い上げ、縁側にそっと置いた。


「あぁ。そうだな。

 さっき戻ってきたから笛を吹く時間がなかったからな」

 と、紅天狗は言った。


「笛?」


「そうだ。

 笛の音は風に乗って山の端から端まで駆け抜ける。

 時の流れによって色褪せる葉の色を、俺の思いのとおりに色付かせている。

 自然の色をな、操ってるんだ。

 いつ見ても、美しいように」

 紅天狗はそう言うと、色褪せた紅葉を男の手の上でねかせた。このままでは枯れ果ててしまうだろう。

 紅葉は一瞬びくりと震えたが、男が優しく指で触れ始めると静かに身を委ねた。男の指は濡れて柔らかくなった葉脈をなぞり、徐々におりていくと水音が上がった。

 男は儚げな紅葉を切なげな眼差しで見つめながら「綺麗だ」と囁くように言うと、命を取り戻したかのように美しく色づいていった。


「俺は、神ではない。

 人間にも…こう…出来ればいいのだがな」

 紅天狗は沈んだ顔でそう言うと、目をぱちぱちさせている僕にその紅葉を手渡した。


「今日は、鵺の領域に行くぞ」

 と、紅天狗は言った。


「え?ぬ…え…?」


「そうだ。鵺だ。

 昌景は知らんか?」

 紅天狗がそう言うと、僕はコクリと頷いた。


「猿の顔、鶏の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇だ。

 だが個体によって様々だ。どの獣とセックスしたかで、生まれてくる子の顔や胴体、手足が変わる。

 不思議な声で鳴き、黒煙で姿を隠している。

 弓矢を怖がる得体の知れない妖怪だ」

 と、紅天狗は言った。

 その言葉通りに動物の体を繋ぎ合わせようとしたが、頭に浮かぶのは猿の顔だけだった。猿の顔と鶏の胴体とをかけ合わせることは難しかった。


「弓矢を怖がるっていうのは…どうして?」


「あ?あぁ…そうか。

 まだ人間の世界を闊歩していた頃のな、とある鵺が味わった恐怖だ。弓矢の名手に射抜かれたんだよ。

 矢で射抜かれた痛みは凄まじく、その声は同胞の耳に焼き付き、語り継がれて恐怖だけが残った。

 奴等は記憶がいいからな。

 それを、今も覚えている」

 と、紅天狗は言った。


「記憶がいいなら…恐怖を忘れずに…静かに暮らしていてくれたらいいのにな」

 僕は思わずそう呟いていた。


「記憶がいい。だから、人間の味も忘れない。

 俺が炎の舞を舞えば、弓矢が飛んでくる心配はないからな」

 紅天狗は真っ青になっている僕の顔をチラリと見てから立ち上がった。転がっている木の枝を掴み地面に向かって投げると、弓矢のように突き刺さったのだった。



 僕達は異界に繋がる道を黙々と歩いていた。

 地面は茶色い水がちょろちょろと流れ、靴にまとわりつくような泥となっていた。一夜にしてより悪路となり、強い風が吹いていたのか太い枝がダラリと垂れ下がり、そこら中に折れた小枝が散乱していた。下を向いて歩かねば、ぬかるみに足を突っ込んだり転んでしまいそうだった。

 黒い木々の群れの間をすり抜ける時は、空気がさらに淀んでいて雨と泥とが混じり合った嫌な匂いがした。気持ちが沈んでいくと、クネクネと伸びる薄暗い道がいつも以上に長く感じられるのだった。

 高い木々から何度も雫が落ちてきて体を濡らし、至る所から滴り落ちる水の音がしていたが、水の流れる音が次第に大きくなってきた。


 美しい滝が心に浮かんでパッと顔を上げると、暗い景色は過ぎ去っていた。前を歩いている紅天狗の赤い髪が陽の光に照らされてキラキラと輝き、ゴツゴツした苔まみれの岩も水に濡れてエメラルドのように光っていた。

 足についた汚れを手で払い除けると、息を弾ませながら光り輝く銀の糸のような滝へと向かって行った。


 滝の裏側を歩いていると、目にした恐ろしいものも嫌なものも清らかな水によって流れ落ちるように思えた。涼しい風が頬を優しく撫でてくれる。

 変わることのない景色にほっとしていると、紅天狗は急に立ち止まってゆっくりと振り返った。


「これから先、俺は刀を抜いて妖怪を斬ることになる。

 妖怪の部位が散乱する光景を見ることになるかもしれない。ソレが昌景に向かって飛んでくるかもしれない。血の海を這いずり回らなければならない日がくるかもしれない。

 吐き気をもよおし、夢にまで見て眠れなくなるほどにな。

 震え上がったとしても、それは当たり前のことだ。

 それこそが、現実の戦いだ。

 本当の恐怖を味わうことになる。

 真の醜い姿を見ることになる。

 ソレは、昌景から全てを奪おうとするだろう」

 紅天狗は鋭い瞳を僕に向けていた。


 その言葉は大袈裟ではない。険しい表情を見ているだけで分かった。

 流れ落ちる滝の水飛沫が耳と目にかかると、黒堂の中で聞いた恐ろしく冷たい声が蘇ってきた。水の優しい音が、轟々とした嘆きの悲鳴へと変化した。流れ落ちる透明な水は徐々に赤く色づいていき、腹を斬り裂かれて流れ落ちる血の色となって襲いかかってきた。

 全身にぞくっとした震えが走り、開いた口の中は鉄のような味が広がった。息がとまるくらいにびっくりしたが、同時に指先が短刀に触れた。柄は血に濡れた滑りもなく、冷たい水によってひんやりとしているだけだった。


 はめ殺しの窓から外を覗いてから、奇妙な幻ばかりを見てしまう。

 柄に触れたまま聞く滝の水の音は、心を洗うように清らかで何も変わらない。変わったのは、僕の方だった。

 僕は手を伸ばして、冷たい滝の水に触れた。

 滝の水をすくって顔を洗うと目が覚めていき、そのまま口にも含むと喉が潤い舌に残っている鉄の味は消えていった。


 顔を上げると、陽の光に照らされて滝の水がキラキラと輝いていた。絶えず色を変化させ、優しくて美しい色を作り出していた。


「そう…なるかもしれない。

 しかし…約束したんだ。

 僕は諦めない。戦い抜いてみせる。

 紅天狗に刀を握らせる。扇を掲げる天狗にはさせない。

 自分の意志で、共に戦い続けることを望む。

 盃を取り戻し、紅天狗が盃で酒を飲む時、僕は隣にいるよ。

 また、一緒に満月を見よう。その時は、楓さんも一緒に。

 それが…僕にとって…」

 僕はそこで言葉を飲み込んだ。僕にとってソレが一体何なのか分からなかった。


 すると紅天狗の顔には微笑が浮かび、僕の頭をクシャクシャと撫でた。


「ありがとな、昌景。

 俺を、動かすんだ」

 紅天狗は声を上げて笑った。


(紅天狗は…ずっと明るい顔をしていたのかもしれない)

 僕は喜びに満ちた銀色の瞳をじっと見た。

 そして手の平についている滝の水をギュッと握り締め、体に染み込ませた。


 紅天狗が歩き出すと、僕は横目で流れ落ちる滝を見た。

 滝壺は泡をつくり、何処からか飛んできた美しい紅葉を容易く飲み込んだ。その力に抗おうとしたが、水はさらに激しく降り注いで叩きつけ、紅葉は水面に顔を出すことはなかったのだった。



「鵺の領域についたぞ。

 大丈夫か?」

 紅天狗がそう言って、いつものように木の実を口に入れてくれると感覚がだんだん戻ってきた。僕は片腕をついて上半身を起こし周りを見渡した。

 

 鵺の領域は、不思議な場所だった。

 ヒューヒューと冷たい風が吹き、ゴツゴツとした大きな岩がゴロゴロと転がっている。太陽の光は薄くて重苦しく、見上げた空がとても遠く感じられた。

 紅天狗が指差した方向を見ると、くねくねと続く緩やかな坂道が見えたのだが、その両側をいくつもの岩が積み重なっていた。地面には薄らと岩の影が伸びていて、不安をかき立てるような道だった。

 さらに岩は生きているかのような圧迫感があり、今にも動き出して迫ってくるようだった。ゴツゴツとした岩は目などないが何らかの憎悪と敵意に満ちていて、道を歩む者の動きを注視しているようにも感じられた。


「大丈夫か?昌景」

 紅天狗はそう言うと、いつまでも座ったままの僕に手を差し伸べた。コクリと頷いてその手を掴むと、引っ張られるようにしてようやく立ち上がった。


「昌景、この先に岩が積み重なってアーチ型のようになっている場所がある。

 そこに、行け。

 それをくぐった先にいれば、鵺は襲ってこない。歩いて5分もかからん。俺は自由に行き来出来るが、鵺はくぐれんし、お前はくぐれば戻ることは出来ん。

 俺は、しばらくここを離れる。用が済んだら、すぐに戻って来るから、アーチをくぐった先で待ってろ。

 鵺は、獰猛だ。

 そして、愚かで間抜けだ。他者を見下し、自らを過信している。

 そこが、狙い目だ」

 と、紅天狗は低い声で言った。


「分かった。その…アーチを目指すよ。

 岩が襲ってきそうだし…なんなら…走ろうかな」

 僕はそう言ったが、獰猛という言葉に足が反応してブルブルと震えていた。紅天狗は僕の頭をクシャクシャと撫でてからニコッと微笑んだ。


「そんな不安そうな顔をするな。

 大丈夫だ。岩は、昌景を襲うことはない。

 この道には、アーチの先まで逃げきれずに死んでいった者達の怨念がこもっているだけだ。そうそう…怨念がな。恨みは晴らしたいだろうな。

 薄暗くなり妙な鳴き音が聞こえてくると、鵺がやってきた証拠だ。

 昌景なら、すぐに分かるだろう。

 一反木綿と戦った時の事を思い出せ。

 お前は、戦える男だ。その力がある。勇気を持て。

 全力で走り抜けるだけだ」

 紅天狗は真っ直ぐに僕を見つめて力強い声で言うと、指先を地面に向けた。


「靴の紐が解けてる。結び直しとけ。

 危なくなったら、俺の名を口にするんだ。

 俺の名が、鵺の動きを止めるだろう」

 紅天狗は僕の耳元で低い声でそう言った。僕は慌ててしゃがみ込んで、解けた靴紐を結び直した。


「ありがとう…気付かなかった」

 僕が立ち上がると、そこに立っているはずの紅天狗はもう姿を消していた。


 僕は、緩やかな坂道を見つめた。

 踏み出すことを躊躇っていると、積み重なった岩が急にバランスを崩し、凄まじい音を上げながら僕をペシャンコにしようと転がってきた。


(ちがう!幻だ!

 現実以上に、幻を恐ろしいものに変えてはならない) 

 心臓は激しく音を立てていたが、自分自身にそう言い聞かせた。滝の水で清めた手を見つめてから両の瞼に手を置き、心を落ち着かせてからゆっくりと一歩を踏み出した。


 岩と岩の間の緩やかな坂道には小さな砂利が敷き詰められていて、歩く度にジャリジャリという音がした。

 岩は崩れはしなかったが軋むような音を上げた。地面に伸びる岩の影がどんどん濃くなってくると、この道が果てしなく続いているように思えた。


 少し歩くと、バラバラと小さな石が降ってきた。

 鴉のお面がキュッと締まり、足元だけでなく徐々に辺りが暗くなっていった。

 

 突然、鳴き声が聞こえてきた。

 はじめはブツブツと呟くような声だったが、次第に高くなっていき甲高い声となった。苛立ちを含んだような声に変化したかと思うと、微かに笑っているような響きが加わった。急に物寂しくなったかと思うと、ゾッとするような低い呻き声へと変わった。

 掴みどころのない声を聞けば聞くほどに得体の知れないものへの恐怖が生まれ、何かが頭上をかすめていく気配を感じた。

 薄暗さにも少しずつ目が慣れてきたが、はっきりと見えないのが恐ろしかった。

 それでも鵺の方は何処からか見ているのだろう。視覚以外の感覚は敏感になり、微かに音がするたびに背中に冷たい汗が伝っていった。


 小さな石のようなものが背中に当たると、後ろから岩を引っ掻くような嫌な音がした。

 僕は立ち止まり、後ろを振り返った。

 さっき通った時には何もなかったはずなのに、黒い煙が見えた。鳴き声は、その黒い煙から発せられているようだった。

 

 僕は前を向いて歩き出すことが出来なくなった。

 徐々に迫ってくる不気味な黒い煙を目の当たりにして体は強張ってしまい、見つめるだけしか出来なかった。


 黒い煙は空高く浮かび上がると、すぐさま降下して、襲いかかってきた。薄気味悪く光る2つの目を見たような気がした。それは獲物を狙う肉食獣のギラギラした目だった。黒い煙は獲物に覆い被さり、右腕をひどい力で押さえつけ乱暴に口を塞いだ。

 自由になっている左手でどんどんと叩いたが、それは何の抵抗にもならなかった。むしろ自らの非力さを黒い煙に知らせるだけだった。


 黒い煙は不気味な笑い声を上げた。 

 右腕を粉々に砕こうとするかのように力を強めてから緩めるという動作を繰り返した。口も同様だった。息が止まりそうになったら塞いでいる手のようなものを緩めるのだ。

 そう…苦しんでいる獲物を見て、楽しんでいるのだった。

 黒い煙の正体は鵺なのだろうが、その姿すらも見ることが出来ない。自分を殺そうとする相手の顔すらも分からないまま事切れるのだろうか。

(息が…出来ない…くる…しい)

 黒い煙が鼻先まで迫ってくると、頭が痛くなるようなニオイがした。ヨカラヌものを含んでいるのだろう。それを鼻から吸い込む度に、恐怖と諦めがどんどん広がっていく。

 目に映るものは黒い煙で、背中には硬い石の感触がする。

 何処にも逃げ場がない。

 背中にあたる石の感覚がどんどん鋭くなり、尖った石が背肉に食い込んでくると、体がじんじんと熱くなってくるのを感じた。


 それは、怒りだった。

 コイツは、痛めつけるのを楽しんでやがる。

 その痛みの感触が、僕を支配しようとしていた恐怖を怒りに変えたのだ。


(生半可な覚悟では燃やし尽くされるぞ)

 その言葉が、諦めようとしていた僕に力を与えた。

 両足をバタバタと動かすと土埃があがり、柄が砂利に当たってガチャガチャという音がした。


 このままでは食われる。鵺は肉を骨ごと食らい、砂利と岩に血の跡が残るだけだ。紅天狗の翼は黒く染まり刀を握ることなく扇を掲げ、楓さんの願いを無にしてしまう。


(僕は…口だけの男か…何度も何度も口にしていながら出来ない。

 そのことを…鏡と鈴は見抜いていたというのだろうか…?

 コイツは口ばかりで、結局は何も出来やしないと?

 デカい口を叩きながら、最後には諦めて鈴を振り山を降りて行くのだと?

 ならば、あの時の…あの瞳は…?)

 左手に力を込めていくと尖った砂利を掴み取り、手の中にさらに痛みが広がっていった。


(紅天狗との約束も守れず、楓さんに涙を流させ、世界を炎で包み込む。兄さんを…危険な目に合わせてしまう。

 全ては…僕次第だ…)

 絶体絶命の状況であっても共に過ごした日々が力をもち、一反木綿と戦った瞬間を思い出すと萎えかけていた勇気も目を覚ました。

 僕の心が決まると、腰に差した短刀が男の覚悟に応えるかのように熱を発した。熱は烈しく燃え上がり、鞘が眩いばかりの赤い光を放った。


 黒い煙は「あつや!あつや!」と叫び声を上げた。

 僕の右腕を押さえつけていた力が弱くなると、自らを奮い立たせる叫び声を上げながら黒い煙を押し除けて短刀を鞘から抜いた。

 たぎるような熱を放つ柄頭に残っている力の全てを注ぎ込んで、黒い煙にぶつけた。次はない、この一撃に全てを込めた。

 

 黒い煙は低いうめき声をあげて僕から飛び退くと、積み重なった岩がゴロゴロという音を上げた。地面に伸びていた岩の黒い影が消えていくと、辺りは少し明るくなっていき黒い煙がどんどん薄れていった。


「いたい…いたい。

 あつや…あつや…」

 低い唸るような声を上げながら姿を現したのは、鵺だった。

 猿の顔、鶏の胴体、虎の手足を持つ鵺は、僕の一撃が当たったであろう腹をさすりながら性悪な目を向けた。


「オマエ…許さんぞ!

 その腕をへし折ってから、生きたまま食ってやる」

 鵺の顔は怒りに満ち、熱を帯びてさらに真っ赤になっていた。


 僕は側の岩に手をつきながら立ち上がった。

 岩は死人のように冷たく体が崩れるように小石がパラパラと降ってくると、性悪な目が残酷な色に染まりくもったような笑い声を上げた。


「そうだ…そうだ。

 面白いことを思い出したぞ。

 そうやって岩に手をついて、高い所に逃げようとした妖怪の脚を潰してやったんだ。首に噛みついて胴体と切り離し、頭部を蹴り上げてやったこともある。目を剥いて口をぽっかり開けながら…喜んでいたな。

 岩によじ登ってしがみつく手の指を一本一本潰してやったこともある。下を向いても怖くないように目玉をくり抜いてやったんだ。首に私の尻尾をまきつけてから…」


「やめろ!」

 僕は大きな声で叫んだ。

 鵺が笑いながら自らの恐ろしい所業を並べ立てるたびに腹の底から怒りが込み上げてきた。鵺に押さえつけられていた右腕がズキズキと痛んだ。


「なんで…そんな事が出来るんだ…どうして…そんな酷い事が…」

 僕が怒りで震えていると、薄汚い鵺は歯を剥いてニタニタ笑いかけてきた。


 鵺は、醜い顔で笑っていた。

 何も、面白くない。本当に、クソだ。


「楽しいからだ。

 面白い。笑けてくる」

 鵺はゾッとする言葉を吐いた。何も面白くないのにケタケタと笑い始めると、鵺の首に巻かれている毛糸の襟巻きが揺れ動いた。黄色に橙色に茶色にと様々な色で溢れているが、その色は僕が知っている色とは違った。喜びに満ち溢れた色ではなく、苦しく悲しげな色をしていた。

 鵺は僕の視線に気づくと、得意げな顔で襟巻きに触れた。

 毛糸を撫で付けながら匂いを嗅いで舌で舐め、うっとりとした目で見つめていた。


「オマエも、じきにこうなる。

 これはな、私が殺した者達の髪や体毛だ。

 死体から引き抜いたんだ。

 オマエ、見たこともない妖怪だが、綺麗な髪をしているな。少し変わったニオイをしているからか?

 まぁ、どうでもいいか。

 それほどまでに綺麗な髪ならば、欲しがる鵺は沢山いるだろう。高く売れるぞ」

 鵺は興奮した声を出し、目はギラギラと輝いた。

 鵺は追い詰めた獲物を捕らえるのを楽しむようにジリジリと近づいてくると、鋭い爪を剥き出しにしながら飛びかかってきた。

 僕は恐怖を感じたが、同時に鵺によって無惨に殺され残酷に飾られている遺髪を思うと激しい怒りで震えていた。

 僕は柄を握り締め、身構えた。

 すると動くはずもない岩が動いて、鵺の頭ほどもある大きな石が降ってきた。

 それは飛びかかってきた鵺の頭に落ち、僕は運良く助かった。僕の頭に落ちていたら、戦う前に即死だっただろう。

 鵺は砂利の上に倒れ鈍い音が響き渡り、落ちてきた石は喜びの声のようなものを上げて粉々になった。


「オマエ……運が良かったな。

 だが、次はないぞ。

 今度、私が飛びかかったら、最期だ。

 その腕をへし折ってやる。

 何も出来ないオマエごときが…オマエごときが…」

 鵺は怒りの言葉を並べながら、力強い虎の腕の力で体を起こして立ち上がった。

 落ちてきた石がよほど痛かったのか、先程までの勢いがなく足元はフラフラしていた。


(走り出すなら、今しかない)

 僕は短刀を鞘に納め、アーチに向かって全力で走り出した。


「オマエ、逃げるのか!?

 待て!戦え!弱虫め!」

 後ろから鵺の怒鳴り散らす声が聞こえてきたが、僕は構わず走り続けた。


 粉々になった大きめの石を掴み、全力で頭を殴り続ければ僕でも致命傷を与えることが出来るかもしれない。

 けれど戦ってぶちのめすことが、僕の戦いではない。

 僕は暴力的な意味で戦ってはならない。

 鵺の目の前で、アーチをくぐる。

 それが僕にとっての戦いであり、勝利だ。


 だが、そう易々と勝たせてはくれない。鵺が長い間のしかかっていたせいか、両足は上手く動いてはくれなかった。

 フラフラしていても虎の足の方が速く、ほどなくして虎の腕が僕の足を掴んだ。


「やめろ!離せ!」

 と、僕は叫んだ。

 目の前には聳え立つようなアーチが見える。

 勝利はもうすぐだというのに、鵺は僕の右足を掴み上げて宙吊りにした。


「あと少しだったのになぁ…オマエは馬鹿だ馬鹿だ馬鹿ものだ。私の獲物であるオマエは何も出来ない。

 兎のように逃げていく姿は、滑稽だったぞ。

 この前、殺した妖怪を思い出した。

 あの妖怪も、最後には、いろんなものを垂れ流しながら助けてくれと叫んでいたな。

 私から逃げられると本気で思ったのか?馬鹿な妖怪め」

 鵺は赤い顔を僕の顔に近づけながらそう言うと、力任せに僕を地面に叩きつけた。骨が砕けるかと思うほどの音がしたが、不思議と痛みはなかった。それ以上に命をなんとも思っていない鵺に対して、激しい怒りを感じていた。


「なんだ?その目は?

 まぁ、いい。

 反抗的な目が、そのうち嘆きに変わる。

 涙を垂れ流しながら、生きていることを後悔するようになる。そうしてオマエには生きる価値がそもそもなかったということを思い知るだろう」

 鵺がそう言うと、僕は勢いよく短刀を鞘から抜いた。


「おっ?どうする気だ?

 生を諦め、自ら死を選ぶか?

 そんな事はさせぬ。

 もう腹が減って腹が減って死にそうだ。

 そろそろ、食ってやろうか」

 鵺がそう言った瞬間、僕は短刀を振りかぶって投げつけた。

 見えざる刃は矢のように形を変え、ヒューという風の音を立てながら鵺の顔スレスレを飛んでいった。


 その瞬間、鵺は素っ頓狂な声を上げた。


「なんと!矢とはな!

 いやいや、幻だ…オマエは弓など持ってはおらぬ。

 矢を放てるはずがない」

 鵺は僕を睨んだが、その目にはありありと恐れの色が浮かび出した。


「オマエ…オマエ…食ってやる」

 鵺は忌々しそうな声を出したが、僕に襲い掛かってくるのを躊躇っているようだった。


「それ以上は、近づくな!

 近づいたら、さっき放った矢が戻ってきて、今度は腹に突き刺さるぞ。脅しじゃない。僕の事を馬鹿だ馬鹿だと見くびっていた間に準備をしていたんだ。

 これが、僕の妖術だ」

 僕は大きな声で叫んだ。


 もちろん、嘘だ。妖術など、使えない。

 鵺に当たらないように放った短刀は何処にいったのかすら分からない。

 それでも堂々と言い放つ事で、鵺が尻尾をまいて逃げていってくれることを期待した。もし逃げていかないのなら今度は鞘を投げつけて、鵺が怯んだ瞬間にアーチをくぐり抜けてやる。

 アーチは目と鼻の先だ。こんなところで死んでたまるか。僕は取り戻さなければならない。


 しかし鵺は逆上して、訳の分からない事を叫びながら鋭い爪を剥き出しにして尻尾を地面に叩きつけた。

 僕も負けじと雄叫びを上げると、両側の岩が烈しく震え出した。今にも崩れ落ちそうなほどに凄まじい音が鳴り響き、石がバラバラと降ってきて足元の砂利が揺れ動いた。

 獲物に飛びかかろうとしていた鵺の動きが止まった。

 重苦しい空に稲妻のような恐ろしい光が走り凄まじい音が鳴り響くと、鵺は恐る恐る空を見上げた。

 すると光に照らされながら鵺を死へと誘う一本の矢が降ってきた。鵺は叫び声を上げ、ガタガタと震えながら尻餅をついた。

 矢は、鵺の腹に突き刺さった。

 肉をえぐるような音と共に血飛沫が上がると、両側の岩がこれ以上はないほどに大きな音を上げて揺れ動いた。

 鵺は目を剥いて口を開け、死んだように動かなくなった。砂利が、赤く染まっていく。僕が後ずさると、その音を聞いた鵺の指先がピクリと動いた。


「あぁ…いたい…いたい。

 痛くて…たまらん…」

 鵺は腹と口から血を垂れ流しながらも、ヨロヨロと起き上がった。

 鵺が動くたびに砂利の上にはポタポタと血の跡がついていき、生臭いニオイが漂った。

 鵺は矢を引き抜こうとしたが、血に濡れた襟巻きが矢に絡みついて離れなかった。鵺は苦しみの声を上げた。

 それは僕には、死者の復讐に見えた。

 殺した者達で作った恐ろしいものが、自らの流す血で染まっていく。弄ばれて死んでいった者達が遺髪に込めた呪いであり、無惨に殺された恨みを晴らそうとしたのかもしれない。


 血を撒き散らしながらようやく矢を引き抜くと、鵺はゼェゼェと息を吐き血走った目で僕を見た。


「オマエ…許さんぞ。

 オマエが痛がっている姿を見れば、この体の痛みが和らぐだろう。悲鳴を聞けば、痛みを忘れることが出来るだろう。

 まさか本当に矢が戻ってくるとはな…だが…次はもうない。

 オマエはもう矢は放てない。

 許さん…許さんぞ」

 鵺は血で重たくなった襟巻きをぞんざいに投げ捨てた。鵺は足で踏みつけたが、襟巻きは鵺の手から離れたことを喜んでいるようだった。


 僕は踏みつけにされ血でぐちゃぐちゃになった襟巻きをしばらく見つめてから、口からいろんなものを垂れ流している鵺を見つめた。


「そうだ。僕は矢は放てない。

 その矢は、紅天狗が放った矢だ」

 僕がそう言うと、鵺の動きがピタリと止まった。


 恐れる者の名を聞いた鵺の目がみるみる大きくなっていき、その場に崩れ落ちた。

 斬る者が、斬られる。簡単な話だ。

 だが痛めつけるばかりだった愚か者は、自らがソウなると分かるとガタガタと震え始めた。

 

 鵺が恐怖で動けなくなっているうちに、僕はアーチを目指した。

 両側にはゴツゴツした黒い大きな岩が聳え立っていて、その上を横に長い岩がのしかかっている。足を踏み入れると身を斬るような冷気を感じたのは、このアーチを前にして死んでいった沢山の者達の叫び声を聞いたからなのかもしれない。

 アーチをくぐり抜けると、緑豊かな草と黄色い花が沢山咲いていた。柔らかな風が吹いていて花の良い香りがする。へとへとに疲れた僕は、その場にぺたりと座り込んだ。

 僕はアーチを眺めた。

 歩いてきた道は真っ暗で何も見えない。鵺の姿は見えないが、弱々しく啜り泣くような声が聞こえてきた。


「お願いだ、助けてくれ。

 私は、やらされていたんだ。

 ここを通る奴を懲らしめるようにと…そう、周りに言われたんだ。

 私だって、本当はやりたくなかった。

 それなのに…周りに言われて…仕方なかった。

 だから、私が悪いんじゃない。

 このアーチの周りに住まう鵺は、そうしないと生きていけない。どうにもならないんだ。私が悪いんじゃない!この領域のせいなんだ!

 これからは、そんな事はしない。

 それに…そう…順番があってな、私がそんな事をしたのは昔のことだ。昔のことなんだよ。今、じゃない。

 後悔してるんだ…悔やんでも悔やみきれない。

 ほら、信じてくれよ」

 鵺はそう言ったが、僕は何も答えなかった。


「頼む!信じてくれよ!

 左腕を痛めつけたのは申し訳なかった!

 でも、折らなかっただろう?

 私はそういう鵺なんだ。

 本当は全部作り話だったんだ!誰も傷つけたりはしてないんだよ!

 許してくれよ!」

 鵺がそう言い終わると、僕の手に黄色い花が触れた。


 その花は美しく、これから先も陽の光を浴び風に吹かれながら喜びに満ち溢れ続けるのだろう。

 一方、その側には、手折られて萎んでしまった花があった。悲しみに暮れるかのように花弁は散っていった。

 同じ花なのに「誰か」によって辿る道が変わってしまった。悪戯で無慈悲で惨いのだ。それなのに当人は、その事すら覚えていないのだろう。

 その涙に暮れる花を、僕は両手に包み込んだ。だが僕には紅天狗のような力はない。花はビクビクと怯えるように、男の手から滑り落ちていった。


「僕は、君を助けることは出来ない」

 と、僕は答えた。


 アーチの向こうから風が吹き、鵺の血のニオイを運んできた。これからさらにニオイは強くなるのだろう。

 僕は右手を強く握り締めた。腕には、まざまざと痛めつけられた跡が残っている。


「君が痛めつけたのは、僕の右腕だ。

 今も、その跡はくっきりと残っている。

 君は、自分が痛めつけた部分がどこなのかすらもハッキリと覚えていない。

 なぜなら、それは君にとっての日常だったからだ。

 非日常のことならば、絶対に忘れやしないだろう。

 作り話なんかじゃない、全部真実の事だ。

 君にとって嘘は手段だ。だから、滅茶苦茶だ。

 謝罪は、全部嘘だ」

 と、僕は言った。


 黄色い花が刻み込まれた痛みを和らげようとするかのようにサワサワと腕を撫でてくれると、僕は立ち上がり一歩前に踏み出した。


「君の言葉は真実に思えない。

 今までの悪事を働いたことを自慢していた君の目は輝いていた。

 本当に心から後悔しているのなら、そんな話など出来やしないだろう。

 それに僕は誰かを傷つけていながら自分は楽しくやろうなんていう気持ちがそもそも理解できない。君は多くの者から、かけがえのないものを奪ったんだ。

 君の言葉には、決定的に傷つけられた者の側の気持ちが欠如しているんだ。

 君は一生背負って生きていかなければならないのに、もう終わった事のように思っている。罪は、消えやしない。罪を、犯したんだから。

 それを言えるのは、君じゃない。

 開いた傷口は、前のようには塞がらないんだよ。

 それに…そう…本当にやりたくないのなら、断るべきだ。さもなければずっと逃れられない。

 それなのに君は、そうしなかった。

 拒絶すれば君はコテンパンに殴られるかもしれない…けれど…君は誰かをコテンパンにしなくてすんだ。君の抱える背景なんて、傷つけられた僕にとっては何の意味もないんだから。

 皆んな何かを抱えながら生きている。

 それなのに君はそうやっていつも誰かのせいにして生きてきたんだろう。そうやって誰かを傷つけながら生きてきたんだろう。

 僕は君が笑っている間も、苦しみ続けていた。

 君がして忘れている一つ一つの恐ろしい事だって、ずっと覚えている。その時、殺していなくても、それが原因で死んでいった者達もいただろう。辿る道が180度変わった者もいただろう。少し考えたら分かることなのに、傷つける側の君にはそれすらも分からないんだろう。

 君は、間違いなく、誰かを殺したんだよ。

 今の君の目を見ればわかる。

 君はやったことを後悔したと言ったけど、それは嘘だ。君は自分がしたことの罪の重さをはっきりと分かっていない。

 紅天狗に見つかったからだろう。自分の立場が危うくなるから悔やんだだけだ。傷つけたことを後悔なんてしていない。

 これから先も、そうするんだろう。

 どうにもならなかったんじゃない。

 仕方がなかったんじゃない。

 道は、他にもあった。その道を、暗くしたのは君だ。

 誰かじゃない、それを決断したのは君なんだよ。

 僕は攻撃者を助けるつもりはない。

 君の言葉には嫌悪感しか感じない。

 君は、誰かの人生に暗い影を落としたということを分かっていない。泥の中に引き摺り込んだことも。

 君は、君がした攻撃に見合うだけの罪をちゃんと償うべきだよ。

 僕が君を許すのは、それからの話だ」

 と、僕は言った。


 吹いていた風が止み、静まり返った。

 鵺ではない、もっと力強い男の足音が聞こえてきた。その足音が大きくなってくると、鵺の叫び声が聞こえた。


 鵺に下された、見合うだけの罪は「死」だった。

 刀が鞘から抜かれ、死の罰が振り下ろされる。

 自分がそうしたように、今度は自分が苦しむのだろう。

 荒れ狂う炎が、その身を覆うのだ。

 生きたまま焼かれて償えと、男が声を発したのが聞こえた。


 僕は力が抜けていきストンと腰を下ろしたが、柔らかい草が守ってくれた。そのまま良い香りだけを嗅ぎながらこれから起こる事に目を閉じて両手で耳を塞ぎたくなったが、僕は顔を上げてアーチの先を見つめた。


(そうだ…僕も自らの言動の責任はとらねばならない。 

 最後まで…知らなければならない)


「助けてくれぇ!助けてくれぇ!」

 鵺は狂ったように何度も何度も叫び続けていたが、急に何の声もしなくなった。


 そして次の瞬間には、耳を塞ぎたくなるような声が聞こえてきた。

 その声は、長く尾を引いた。

 アーチの向こうから何かが飛んできて、僕の頭にぶち当たって地面に落ちた。あまりの衝撃に脳が震え、全身に震えが走った。

 さっきまで見ていた鵺の腕だった。

 斬り離されても指先は、まだピクピクと動いている。草を握り締め生にしがみつこうとしていた。内部が丸見えになり、蜘蛛のようにクネクネと回るたびに血を撒き散らし、黄色い花と緑を赤く染めていった。

 

 さらに鵺のくぐもった悲鳴が聞こえてきた。血のニオイがさらに濃くなり、肉が焼けるニオイが漂ってきた。

 蠢いていた腕もドサリと倒れ込んだ。生から斬り離された指先が僕に向かって最後にピクピクと動くと、薪のように燃えていった。

 それでも漂うニオイは、木の燃える匂いではない。肉の焼けるニオイだった。


 僕の人生を決定づける瞬間だった。

 死のニオイだ…それは、体にこびりついて離れることはない。





「終わったぞ、昌景」

 紅天狗はそう言いながら現れた。

 右手に血に濡れた刀を持ち、着物は殺した者の血で染まり、真っ赤な髪を靡かせながら僕を見下ろしていた。左手には、僕の短刀が握られていた。


「運が良かったんじゃない。

 自分で運を引き寄せた。

 自分を信じられない者には、運はやって来ない。

 座敷童子がもたらした、幸運だ。

 さもなくば、昌景がこうなっていた」

 紅天狗は燃え盛り何も無くなった鵺の腕があった場所を見つめた。

 あれほどまでに炎は烈しかったのに燃えたのは鵺の腕だけで、黄色い花と草は無事だった。


 紅天狗は右手を地面に触れると口を小さく動かして妖術を唱え、その場に残っていた全てを消し去った。鵺の腕によってグチャグチャにされた花と草は元通りとなっていた。

 

「他の鵺が集まってくる前に帰るか。

 卵も手に入ったしな」

 と、紅天狗は言った。


 僕は短刀を受け取ると鞘に納め、フラフラとしながら自らの足で立ち上がった。そのまま崩れ落ちて、意識を失ってはならない。

 僕は、僕の足で、歩いて帰らなければならない。

 鴉のお面についた鵺の血を拭おうと右手で擦ると、右手に赤黒い血がこびりついた。今の僕は、ソレすらも分からなかった。

 僕に助けを求めて蠢いていた指先を思い出した。膝が悲鳴を上げるかのようにガタガタと揺れると、紅天狗は腕を伸ばして僕の体を抱きとめた。


「そうだ。それでいいんだ、昌景。

 お前は、人間だ。

 この状況に、決して慣れるな」

 紅天狗は崩れ落ちそうになった僕を抱き締めた。僕は血に濡れた胸に抱かれながら、その男の鼓動を強く感じていた。






※ 源頼政の伝説を参考にしました。






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