後悔なんて役に立たない
卒業式の日のことが心の奥に溜まっていた和成は、その後もそれを引きずっていた。
4月になり、和成は本命の国立大学に落ちて、行く予定ではなかった併願の私立大学に通っていた。センター前の模試の結果が思いのほかよかったため、少し調子に乗っていた。だが前日の不快な経験の影響もあり、センター試験では自己判定ギリギリ、ダメ元で受けた国立大学は結局力及ばなかった。学費が高いことに母からは文句を言われたが、和成には浪人してまで国公立を目指す気持ちはもうなかった。
(あれほど国公立にこだわっていたのはなんだったのだろう)
受験が終わり、行先が決まってみれば、それが最初から自分の道だったような気がした。
和成は自宅通学生として大学生活をスタートさせた。入学した工学部電子工学科は毎年、1年生で何割かは留年する。その後も留年は当たり前で、休学する者もいるし、ついていけなくなったり休学から復帰できずに結局退学する学生もいる、ハードな学科だということを入学してから知った。事実、現役合格した30名ほどの同期以外にも本来は卒業しているはずの先輩が留年していたり、急に登校しなくなってそのうち所在が分からなくなった学生が複数いたり、ということは珍しくなかった。
新入生オリエンテーションで、和成は高校の同級生だった竹原悟と偶然隣り合わせた。二人とも後期日程に賭けず、併願の私立に行ったことになる。学科で女子学生がたった2名しかいない電子工学科に進んでしまったことで、悟は
「これで女子との縁はなくなった」
と言っていた。実験があり時間に制約があるため、合コンに行く時間もあまりないし二人とも行く気もなかった。もっとも和成は里穂の件を引きずっていて、悟も似たようなものだったが。
和成は中学生の数学の家庭教師を2本持った。教えるのが上手いと言われても、教職は取らなかった。和成は2年で留年し、なんとか中退はせず卒業した。
あるとき、和成は見覚えのある顔の女性に声をかけられた。
「やっぱり進藤くんだ」
見たような顔だ。名前が出てこない。
「覚えてないか。高校で一緒だった、金沢です。金沢、麻弥耶」
それで思い出した。
「合唱部の?部長だったよね」
「よく覚えてるわね」
私服で、髪は緩く巻かれており、うっすらメイクもしているから一瞬わからなかった。高校時代のおかっぱ頭の真面目そうな麻弥耶とはイメージが変わっている。女子は男子よりも大きく変わると、和成は思った。
「知ってる顔だなッて思って。元気?」
「ぼちぼち。金沢さんは」
「なんとかやってる」
金沢麻弥耶はどこの大学に進んだかなと、和成は考えた。麻弥耶は、自分は葉里音大の声楽科を卒業したと言った。
ピアノ専攻の里穂とは科が違い、1年の一般教養の時はいくつか授業が重なったが、科が違うと、選択授業の時間も異なり、たまにしか里穂とは顔を合わせなくなったと麻弥耶は言った。
麻弥耶は葉里音大の大学院に進んでオペラ研究室というところに所属していた。里穂の近況を尋ねると、麻弥耶は卒業後は連絡を取っていないからわからない、と答えた。逆に麻弥耶からは、和成の方が里穂の近況を知っているのではと言われたが、和成は首を横に振った。
「ねえ、進藤くんてさ、そのマフラーなんで持ってるの?」
「これ?」
麻弥耶は和成が首に巻いているマフラーを指さした。白黒の鍵盤柄のマフラーだった。
「それ、私が前に里穂にクリスマスプレゼントであげたやつなんだ」
そうだったのか。だから知っているのだ。だが、同じようなマフラーは探せば別の店にもあるだろう。和成が不可解な表情をしていると、麻弥耶は言った。
「鍵盤柄のマフラーってたいてい買う人は鍵盤弾く人だよ。しかも女子。男子が巻いてるのは珍しいから気になったんだ。
里穂はあのマフラーをすごく気に入ってて、受験にも持っていくって言ってたのにお正月明けに“ごめんまみ、あれ、なくした”なんて。随分うっかりさんだなと思ったけど、それからもあの子、お気に入りのマフラーを探す素振りもなくてなんだかなって思ってたの」
まあそうだろうなと和成が思っていたら、麻耶弥は不思議なことを聞いてきた。
「進藤くんって…まさかと思うけど、里穂の彼氏だっけ?」
全然違った。悩んだ挙句、和成は麻弥耶に高3の年末のいきさつをかいつまんで説明した。
「あああああ、それ、進藤君やらかしたわ」
「や、やらかしって…」
麻弥耶は呆れた顔で和成を眺めた。
「告る前にいきなりちゅーした?」
「か、金沢さん声がでか」
「ほかにもなんかやったんでしょ。ありえん。進藤君そういうキャラじゃない」
「…キャラって何…」
しょげている和成を見て、麻弥耶は呆れたように首をすくめた。
「他になにやらかしたのか、お姉さんに正直に吐きなさい」
「う…ちょ、ちょっと…掛川さんのおっぱいをこう、むにっと…巨乳が好きだからつい…あ、ふ、服の上からなんで、あの、その」
茶化したつもりが、麻弥耶からは余計に白い目で見られてしまった。
「なーにやってんだよ。全く男子ってやつはエロいことば~っか考えて」
「…うっ」
今ならわかる。自分はやってはいけない最悪のことをやらかしてしまったのだということを。麻弥耶に指摘されるまでもなく。
「進藤くんがそんなエッチな男だとはね。幻滅だよ」
「うう…金沢さんひどい」
「冗談だよ」
面白くもなさそうな顔で返す麻弥耶を見て、とても冗談を言っているとは思えないと和成は思った。
「そういえば受験直前だったっけ。あの子に芸術と恋愛の両立ってどうすればいいんだっけって深刻な顔で相談された」
里穂らしいといえばらしい。
「それで」
「それでって」
「金沢さんはどう返したんだ」
麻弥耶はため息をついて肩を竦めた。
「何も言えんわ、そんな哲学的な質問。…オペラやってるからわかるけどさぁ、里穂の質問って古今東西答えが難しい質問なんだよ。声楽やってたって当時の私は恋愛のれの字もなかったしさ。今同じ質問されたって…答えなんか、出せないよ」
そんな質問、自分も困るが、さぞ麻弥耶も困惑したに違いない。麻弥耶は困惑したような顔で肩を竦めてみせた。
「今は多少ね…。残念ながら成就してない恋愛ばっかだけどさ」
「そんな自虐的な金沢さん、初めて見た…。いつも自信満々で指揮振ってたイメージしかない」
「進藤くんは私を何だと思ってんだよ…」
麻弥耶は大きくため息をついた。だが、高校時代の和成には、麻弥耶が堂々としていて揺るぎない人格にしか思えなかった。今のゆるふわ髪の麻弥耶を想像できなかったように。
「金沢さんはなんで俺が掛川さんの彼氏って思ったの?」
「進藤くん、サンドイッチハウスに里穂といたでしょ、高3の夏休みに」
「あ」
偶然だが、麻弥耶は和成と里穂の姿を見かけたのだそうだ。里穂に声をかけようとして、隣が和成だったので一瞬ためらったが結局そのまま帰って来たのだった。
「いい雰囲気で、お邪魔しちゃ悪いかなって遠慮したんだけど」
「ご期待に添えず申し訳ないんだが、いわゆる付き合ってたと言うのとは違うんだ…」
和成が肩を落として溜息をつくと、麻弥耶は「ほう」と言って和成を見た。
「サンドイッチハウスで見かけた君たちは、どう見ても恋人同士にしか見えなかったよ」
「いや、…。そんなんじゃなかった。ただ楽しく話ができる、友達…だと、思ってた」
「友達、…そうかあ」
麻弥耶も溜息をついた。和成はマフラーの端を引っ張って言った。
「これを彼女が俺に貸してくれた理由もわからない。大体俺は卒業式前からずっと、掛川さんに会えていない」
麻弥耶は唇をかんでしばらく考え込んでいた。
「私の勝手な想像だけどさ、進藤くんと里穂って要するに“両片思い”ってやつだったんじゃないのかな」
「さあ、どうだろうなあ」
「そういえば私、前に里穂に好みの男性のタイプ聞いたことあるけど、まさしく進藤くんだったよ。背が高くて、声が良くて、優しくて、話してると楽しいって」
「ほんとにそれって俺のこと?別の理想の誰かじゃなく」
「あの子、第二音楽室のピアノを使ってたでしょう?小坂先生と話したことがあるんだ。里穂のピアノ」
「小坂…副担任の?ああ、合唱部の顧問だっけ」
音楽の小坂先生は3年7,8組の副担任だった。
「準備室で時々聞こえてくる里穂のピアノの音が、ある時からぐっと変わったって、先生言ってた。それまでの、真面目で几帳面で堅い…そう、まるで普段の里穂みたいな音が、柔らかく、しなやかになったって。あの子は、気づいてないみたいだけど」
和成は頬杖をついて考えていた。(俺が泣いたあの音の兆しは…)
「なに、その顔。進藤くんのそんな顔見たら、あの子どう言うかしら。…里穂ってさあ、結構意地っ張りだし、変なところ鈍感だし。だけど私、進藤くんと一緒にいる里穂を見て…お似合いだって本当に思ったんだよ」
笑顔を見せる麻弥耶に、和成は戸惑った。
「そ、そうかあ?」
「うん。里穂があんなに可愛いところがあるんだって…びっくりした。3年も友達やってたのに。部活でずっと一緒だったのにさ。…その表情を引き出せたのは、進藤くんなんじゃないかって、私は思ってる」
それを聞いても、自分にまだ望みがあるとは思えなかった。大体高校を卒業して随分経つ。今更なんだ、もっと早く来いと怒られて追い払われるんじゃないかと和成は思った。
「ちょっと悔しかったな」
全然悔しくない表情で、麻弥耶は答えた。
「ま、こういうのってご縁だからさ」
麻弥耶に慰められ、和成は落ち込んだ。
(ああ、俺はやっぱり本当に大事なものは手に入れられないんだ)
気づいたら駅のベンチで話し込んでいた。
麻弥耶には結局、里穂の連絡先を聞かずに別れた。もし聞いても、どんな顔をして今の里穂に会えばいいのか、和成には分からなかった。何を話せばいいのか、それも分からなかった。
麻弥耶に会って話した内容を悟にしたら
「そういうとこだよ、進藤、お前は」
と呆れられた。更に、
「いつまでも土壇場でチキン野郎だと、ほんとに大事なものを受け取れない人生のままだぜ」
などと分かった風な口をきいてきた。和成は一瞬むっとしたが、そういえば悟も自分と五十歩百歩だったことを思いだし、自分に話しているつもりで実は悟自身に言い聞かせているのではないかと思った。
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