夏のはじまり

 とはいうものの、それから里穂は和成としばらく会うことはできなかった。


里穂は、週明けから始まった3日間の葉里音大の講習会に出かけた。ひどく暑い日だった。

知っている人間が全くいない、しかも自分が受けるかもしれない「音楽大学」というところに足を踏み入れた里穂は戸惑っていて、周りの受講生がみんな自分よりも上手くて大人びているように見えた。理論やソルフェージュのテキストをもらうので、1日目はデイパックに筆箱と受講票、財布、昼食持参の指示があったためおにぎりと水筒を入れて、ふと考えてミルキーの缶を忍ばせた。中身はミルキーではなく、あさくまのデリシャスミントというミントの小さな飴だったが。それだけで、少し緊張がほぐれた気がした。


 1日目は座学で、何事もなく、だれとも話さずに終わった。翌日はピアノの実技レッスンの日だった。ピアノレッスンの担当は神経質そうに見える男性の先生で、黒沢と名乗った。

 レッスンは3人の時間枠、一人あたり持ち時間20分だ。里穂の時間帯は、一人が他県の音楽高校に通う1年生の男の子で、ショパンのエチュード1番ををバリバリと音を立てて弾いた。里穂は上手いと思ったが、黒沢先生はずっと歯になにか挟まっているような顔をしており、その学生の演奏が終わったあと

「あなたの先生それでいいって?」

と尋ねた。学生が戸惑っていると

「テンポなんて書いてあるの」

と畳みかけるように質問し、

「Allegroです」

と恐縮しながら答えた学生に

「あなたの演奏はPrestoだよ。Prestoは4番。あなた何弾いてるか僕には分からない。音も汚いし」

と、顔色一つ変えずに言い放った。里穂は怖いと思った。

 里穂はベートーヴェンの4番のソナタの1楽章を持っていき、

「弾いているとき、時々呼吸が止まっている」

と指摘された。褒められはしなかったが、

「丁寧にまとめているけど1楽章だけ?ほかの楽章も弾いたほうがいい」

と言われた。勉強不足ということか。怒られなかっただけましだと里穂は肩をがっくり落とした。

 もう一人の女の子は高校3年生だというのに、「ソナチネアルバム」に入っているモーツァルトのハ長調のソナタ1楽章をしばしば止まり、あるいは前に戻りながら弾いた。

「〇〇さんは何年生だ。副科か」

と黒沢先生に呆れ顔で尋ねられたにもかかわらず、その子は高らかに

「3年生でーす。ピアノ専攻でーす。葉里と大阪芸術学院大を受けます」

と言い、里穂が密かに「バリバリ君」と名付けた高1の男の子がドン引きしていた。

 あまりにもすごすぎる演奏と高らかにピアノ専攻だと告げるその女の子は、心臓に毛が生えてるんじゃないかと思った里穂は、絶対ネタにしてやろうと心に誓った。

 黒沢先生は激昂するようなタイプではなさそうだが、言われたこと全て自分が意識できていなかったり、自分が習っている三田先生から指摘されていることばかりだった。この日はレッスンのみだったので落ち込んだまま帰宅し、夜まで自分の部屋で眠ってしまった。疲れる一日だった。



 最終日は進学相談や見学会、ソルフェージュのレッスンを受けて修了式だった。結局誰とも話さないままだったなと里穂は思った。講習会の報告を三田先生に電話すると、黒沢先生と知り合いで、繋いであげると言われた。翌週までに詳細を連絡してくれることになった。葉里音大の雰囲気はこぢんまりとして悪くなかったが、自分が受かるのかどうかが分からず、不安に駆られてしまった里穂は週末までピアノにずっと向かう日々を過ごした。


 その週末、里穂は福岡友紀子に付き合って青葉学院大学のオープンキャンパスに参加した。音大じゃない大学の雰囲気をただ知りたかっただけ、という緩い理由だった。一応音楽科があるから覗こうという下心もあった。

 二人は偶然、合唱部の松代あゆみと出くわした。あゆみは友紀子とは中学が同じで、高校では一度も同じクラスではないという、まるで里穂と和成のようなパターンだった。

「あれ、あゆみちゃんだ」

「掛川ちゃんと福ちゃん!青葉受けるの?」

 あゆみが尋ねると、友紀子は肩を竦めた。

「まさか。高校行く時も揉めたのに。女に学問は要らん、大学なんて遊びに行くところだっていうあの親父が青葉の学費を出してくれるわけないじゃん」

「相変わらずだなあ、福ちゃん父。でもさ、分かってると思うけど福ちゃんは高校卒業したらあのお父さんから離れたほうがいいよ」

 そういえば、友紀子の父は学歴コンプレックスと女性差別がひどく、高校受験でもすったもんだしたという話を以前里穂は友紀子から聞いたことがある。事情をもっと詳しく知っているらしいあゆみは、心配そうに友紀子を見た。

「わかってるよ、松代さん。実家に居たら確実に私の心は死ぬから。青葉は返却不要の奨学金があるらしいから、その話を聞きに来た」

「だったらいいけど…。掛川ちゃんは青葉受けるの?」

「いや、今日はゆっちゃんの付き添い。まみに聞いたかもしれないけど、私も受験は音楽系だし、一般大の音楽科の雰囲気を見たかった」

「そっかあ…。青葉の推薦勧められたけど、私もちょっと合わないかな」

みんな進路は悩んでいるんだなぁと、あゆみと別れてから里穂は思った。


「やっぱ青葉はチャラかった」

オープンキャンパスのあと、ロッテリアに入った友紀子はいちごシェーキを飲みながら言った。

「確かにね。あゆみちゃんも悩んでるみたいだったし。ゆっちゃんはどこ受けるの?」

「そうだな、高校受ける時も散々お金のこと言われて、公立単願だったからな。国公立か…防衛医科大?」

「えっ」

「冗談だよ」

友紀子はズズっといちごシェーキをストローですすり、ニヤリと笑った。真面目な彼女にこんな一面があるのは、2年半の付き合いで初めて知ったと里穂は驚いて、バニラシェーキが逆流しそうになった。

「学費が安いか、奨学金を受けても返せそうなとこにする」

友紀子はチキンを1つつまんで口に放り込み、もぐもぐと食べて息を吐いた。

「話したかもしれないけど、うちの両親ってず~~~っと不仲でね」

友紀子は渋い顔をして話し始めた。それは、初めて聞く話だった。


 友紀子の母親は高校を卒業すると同時に父親と結婚した。親が決めた縁談だった。仕事をした経験がなく自分の貯金もなく、専業主婦なのに不器用で家事能力が恐ろしく低い母親は、しばしば弁当が全部醤油味だったり、ぞうきんを絞れず廊下が水浸しになった。見かねた友紀子の祖母が家事全般を友紀子に仕込んだ。暮らしが楽にならず、意に添わぬ結婚生活に母親は不平不満ばかり言っていたが、生活力ゼロで自活する見通しが立たないから離婚するあてもないと友紀子は踏んでいた。だからこそ、自分は家を出ようと考えていると友紀子は語った。


 友紀子の父親は家庭の事情で高校を中退して働き始めたため、少ない給料を増やすために夜もパチンコ店の清掃のアルバイトをするという生活を長く続けてきた。自分の給料が上がらないのは高校中退だからと愚痴をこぼし、思い通りにならないと妻やこどもに暴力をふるう父親は、学歴コンプレックスがあって「大卒なんて」とよく言っていた。そのくせ男尊女卑で「女に学は必要ない」と豪語し、おまけに酒癖が悪い父親を友紀子は嫌っていた。

「私もう少しで中卒のまま働きに出されるところだったんだよ」

「…中卒で就職…?」

「うん。縁故以外の就職は苦労する、友紀子さんは成績もいいし、高卒のほうがいい就職先が見つかるからって中学の担任が説得して、せめて高校出てからって話になった。成績はよかったから公立推薦が通って緑台にね。情けない話だけどうち、親がしばしば授業料以外の教材費とかを滞納しててね。父親は無駄金を出したくないって言うし、母親はお金の管理ができない人。修学旅行はお年玉を貯めたところから出した」

「えっ?!」

今どきそんな人いるのかと里穂は思った。

「お年玉は親戚に預けて貯金してもらってたんだ。服はその親戚がやってる服の工場から型落ちのとか在庫処分のをただで分けてもらってて、下着とか靴は通販の安いの。多少流行とずれてるけど、とりあえず新品だからいいや」

「制服とか教科書代はどうしてるの」

「おばあちゃんがお金出してくれてる。…お母さんのことで苦労かけてるから、せめてもの罪滅ぼしだって。対局の時の着物とかもおばあちゃんが買ってくれたもの」

「ゆっちゃん」

「そんな顔しないでよ。体が元気で頭がそこそこならなんとかなるって。

 高校卒業したら、その親戚の人に保証人になってもらって家から出る。将棋が続けられればどんな進路でもこの際いいや」

 友紀子は親とうまくいかないという話を以前していたが、そこまで壮絶だったとは知らなかった。体育で水泳をやらないのは、習ったことがなくて泳げない他に、右肩に父親から熱湯の入った薬缶を投げられてやけど跡があるのを見せたくないという話も、里穂は聞いていた。まさかとは思うが、水着が買えないとかそういう理由じゃないだろうなと里穂は思った。

「大学じゃなくてもいいかも。手に職つけて自活しようって。ま、将棋が続けられるならどこでもいいかな」 

「将棋は続けるんだ。1年の時、家に帰りたくないし部費が安いし頭使うから入ったって言ってたけど、段まで取ってすごいじゃん」

 そんな動機で入部しても、友紀子はそこそこ強くて部長にまでなった。周りは男子ばかりだ。中には、一見小柄で愛らしく見え、人当たりもいい友紀子に淡い想いを抱いたものもいるのかもしれないが、友紀子自身が自分の恋愛に全く興味がないのは両親の不仲のせいだろうかと里穂は思っていたが、。友紀子は、真面目で実力もあり女子部長なら対外的にもいいだろうと前部長からバトンを渡されたのだ。

「うん。ここまでハマれるとは私も思ってなかった。プロとかは別の話だけどさ。私、緑台に入ってよかったことがある」

「何?」

「趣味が見つかったのと、友達ができた。里穂ちゃんと友達になれてよかった」

友紀子は里穂を指差して、ふふふっと笑った。いじめられていたわけでもないが、友紀子は本当の意味で一匹狼で、誰とも深く交わってこなかった。あゆみは同じ中学だったこともあり、話すことはよくあったが、特別仲が良かったわけでもない。将棋部に入るまで好きなことがなく、習い事は月謝が払えなくなってやめたり、児童館の安い1日講座ばかりやっていた。友達を作るのが苦手だそうだが、里穂は友達らしい。

(不思議だな)

里穂は思った。

(進藤くんなら、どうするかな)

いつの間にかそんなことを考えているのに気づいて、少しおかしくなった。


 

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