冬の夜空、すれ違う心
和成と里穂が次に夜に会えたのは、結局12月の末だった。
終業式も、クリスマスも過ぎていた。
会えなかったのには理由があった。和成は予備校の冬期講習、里穂は葉里音大の冬期講習会に出かけており、スケジュールが合わなかった、という単純な理由だった。冬期講習の帰りに、和成は里穂に会って声をかけた。
「夜は暇か」
と。
里穂は左手の親指だけを立て、和成はそれを了承の合図と取った。
前の晩から雪が降り、冬の風が冷たく吹く日だった。
里穂は長かった髪を肩で切り揃えていて、和成を驚かせた。願掛けかと尋ねる和成に、里穂は冬になると乾かすのに時間がかかり、中途半端に乾かして寝ると風邪を引きやすくなるから、リスクを減らしたいのだと告げた。加えて、この髪型だと朝起きてブラッシングをしてそのまま登校できるから楽なのだと言った。
肩までの髪型も似合うが、長い髪を見慣れていた和成はなんだか奇妙な印象を持った。
「なんでじろじろと…変?」
「別に…慣れないだけだ。いつ切ったんだ?」
「え、昨日。まだ私も慣れないんだ、実は」
「思い切ったな」
「うん。中学の頃から長かったんだよね。毛先は揃えていたけど、ここまで切ったのは随分久しぶりだなあ。美容院の帰りにまみに会って驚かれた」
「だろうな。俺も驚いたわ」
「…ね、変じゃ、ない?」
不安げに和成を見上げる里穂に、和成は微笑んだ。
「変じゃ、ない。本当に…慣れてないだけだ」
「本当に?」
「…俺は、似合うと思う」
それでも不安げな里穂に、和成は小さな声で呟いた。
「…何したって、可愛い」
その声は里穂には届いていなかった。
「星が見える」
円明公園の中で少し丘のように盛り上がった場所は芝生広場になっている。芝生の上に座り、里穂は夜空を眺めた。すぐ近くに商店街があるような都会なのに、広い公園があるのは不思議だと和成はいつも感じていた。その話を和成がすると、里穂は自分も不思議だとずっと思っていたと答えた。
吐く息が白い。本格的に、冬なのだと里穂は感じた。ぶるっと身震いをする。
「進藤くん、ノクターンって知ってる」
「のく、たーん?くるくる回るのか」
「…そっちのターンじゃない」
里穂は頭を抱えた。冗談なのか真面目なのかわからない。
「ノクターンとは、夜想曲ともいう。ジョン・フィールドという人が始めたらしい。ショパンのノクターンが有名ね」
「夜想曲…夜の音楽ってことか」
「そう」
和成が夜空を見上げると、里穂は呟いた。
「私、そういう曲って苦手なんだよね…うまく弾けたためしがないというか」
深い溜息が聞こえる。得意も苦手もあるのかと和成が尋ねると、里穂は考え込んだ。
「私の演奏…呼吸が止まってるときがあるって。綺麗にまとめているけれど、感情の吐露のようなものが感じられないと」
「先生に、言われたのか」
「うん…。技術的にはかなり頑張って、いいところまで来ているらしいけど」
里穂は大きく息を吸って、瞼を閉じる。
「真面目な優等生な演奏だと」
「…」
「…真面目、いい子ちゃん、優等生…ちっちゃい頃からそんなんばっか。もういいよ、そういうのは」
和成は夜の月明りの中で青白く照らされた里穂の横顔に、苦悩の色があらわれていることに気づかなかった。吐く息だけが白かった。
「真面目過ぎて面白くないとかさ、優等生で型にはまっているとかさ、散々聞かされてきたよ。どうせ堅苦しいよ、私の演奏は」
「やさぐれんなよ。真面目なのは悪いことじゃないだろう」
和成がなだめるも、里穂は首を振った。
「君は本当に音楽が好きだと胸を張って言えるか、なぜピアノを弾き続けているんだ、なぜ音大を受けようと思ったと先生に尋ねられた…」
「それで。掛川さんは」
里穂の、息を呑む音が聞こえた。しばらく沈黙が流れ、吐き出すように里穂が答えた。
「答えられなかった」
目を伏せ、頭を抱えている里穂の横顔に、和成は何も声をかけることができなかった。自分には何もかける言葉がないことに気づいて和成は軽くショックを受けた。
芝生にごろんと寝ころび、里穂は空を眺めた。冬の夜は空気が澄んでいて、星が見える。これからの入試への不安が募った。冷たい外気に触れ、里穂はまたぶるっと体を震わせた。
「面接でそういう質問されて、自分なりの答えを持ってなかったらアウトだってさ」
「面接、あるのか…」
「うん。音大だからさ、教科書通りの答えなんて求められてないってさ」
(真面目な優等生…違う。私そんないい子ちゃんなんかじゃない…)
里穂は心の中でつぶやいた。
どうして、胸を張って先生に自分の気持ちを答えられないんだろう。自分はなぜ、音大を受けたいのだろう。受かりたいのだろう。ピアノを弾くことって自分にとってなんなんだろう。入学したらどうしたいのだろう。その先は?そもそも音楽の道を志すってどんなことなんだろう。頭の中で思考がぐるぐると回った。それに、自分の心の中でどうしてもわからないことがひとつだけあった。
「ああ、なんで音大受けるなんて言っちゃったんだろうな」
想いが声に出て、里穂は思わずぎょっとして身を起こした。反対に和成は芝生に寝ころんで、空を見ていた。聞こえただろうか。
「進路変更なんてもう遅い…よね」
「掛川さんは進路変更したいって思ってるの」
のんびりした和成の声に里穂は考え込んだ。
「それは…」
考えても答えが分からない。里穂は泣きたくなった。
(前を向いても、振り返っても、道がない…なんで…私、こっちに来てよかったのかな…)
そんな考えが頭をめぐり、里穂の体に震えが走った。
「分からない…分からなくて、怖いよ」
「みんな、迷うんだよこの時期は…俺だってセンターの出願迷った。本当に受験校ここでいいのかって。しょうがないよ、悩むのは」
和成は里穂に聞かせるというよりも、自分に話すように空を見ながら呟いた。気の利いたことは言えなかった。
「そう、かな…」
それでも答えを出せないことに、里穂は焦りを感じていた。
(間に合わないかもしれない)
突然、自分の進む道がいきなり暗闇になったような気持ちになり、里穂はまた震えた。震えながら、この震えは寒いからだと言い聞かせる自分が情けなかった。
「今更だけど、こっちの道へ来てよかったのかなって思っちゃって。ピアノは好き。音楽が好き、大好き。だけど…試験曲で煮詰まったりしてると、嫌になる。つらいし、逃げたい。そんなんで本当に音大なんか受けていいのかな、って」
「掛川さん」
「ごめん。進藤くんにこんな話しても困るよね。初心貫徹しろって話だよね。…今から音大以外の大学を受けるのは、私立文系ならいくつか推薦もとれるみたいだし、一般入試でもそこそこ行けるって担任は言ってたけど…他の進路考えてこなかったし、推薦取れそうな大学は興味がある学部じゃないし…。黒沢先生に今更音大受けるのやめますとか言えないし、絶対怒られるし…。学費も学費以外もかかるの分かってて、親に頭下げて受験させてくれって頼んでおいて今更…」
冬の外気に当てられ、すっかり冷え切った頬に自分の手を当てて、里穂は呟いた。
「今更進路変えるったって…。だって私、音大受験やめたら本当に、やりたいことなんてひとつもないんだもん」
和成は里穂の言ったことを考えていた。自分だって迷っている。本当にこの進路でいいのか。特に「やりたいこと」があるわけではない。自分に有利に事を運ぶための志望校だが、それと割り切ることもできなかった。
「考えて答えが出ないなら、動くしかないんだろう」
そう言って、和成は立ち上がった。里穂もあとについて歩いた。考えなければならないことだが、考えても明確な答えが出ないのはつらい。
(答えがないこと…いや、答えが複数予想できることに向かっていくことって、こんなにしんどいことだったんだろうか)複雑な気持ちだった。和成に向かって、ピアノが好きだと、音楽が好きだと告げることができたのに、自分で自分の言葉を疑ってしまうほど、里穂は迷っていた。
(こんなことで、進藤くんに甘えちゃいけないんだ…。進藤くんだって、進路悩んでるんだもん…)
それでも、ただ和成に傍にいてほしいというこの気持ちはどこから来るのか、迷っている里穂には分からなかった。
和成は先に立って歩き、里穂が小走りでその後を追うようにして、無言で公園の中を歩いた。芝生エリアから浄水場側のベンチまでひとことも言葉を交わさないまま移動し、二人は座った。
自販機で買うコーラとキリンレモン。こんな冷たいもの冬場に飲むものじゃない、と、いざ飲み物を買って自販機の口から取り出した後に和成は後悔した。12月の暮れの夜は寒く、冷たい風が吹いていた。前の晩から降っている雪が今は止んでいて、人が入らないエリアだけうっすらと雪が積もっている。だが、また雪が降りそうな空だ。芝生エリアの自販機で買ったペットボトルを少しずつ飲みながら歩いて移動すると、ベンチに座ったころには中身はすでに半分以下になっていた。ベンチに並んで腰かけて、二人は飲み物を飲み切ってペットボトルをごみ入れに捨てた。
「センターがあるから気が抜けんな」
「私も実技があるから、風邪とか引いていられない」
確かにそうだった。12月も下旬。これからどんどん寒くなる。この夜も、和成はダウンジャケットにセーターを着こみ、ジーンズ、足元はバスケットシューズ、里穂はニットのグレーのワンピースに黒いタイツ、足元はブーツ。紺のダッフルコートを着て、白黒の鍵盤柄のマフラーを首に巻いていた。
「なんだか、心配になってきた…最善は尽くすけれど、私は実技の方は五分五分だと言われている。浪人を許す余裕はうちにはないし、もしだめだったらって考えるとね」
「俺も…センターの結果によって安全圏になるかどうか変わる。併願の私立が絞り込めてない。国立に受かるかどうかも怪しいんだが」
「…怖い」
里穂は肩をすくめ、自分の身を抱き締めた。
その姿を見ていると、不意に、強い言葉にできない思いが込み上げてきた。理由もなく、強い衝動が和成を突き上げた。
和成は小さく「里穂ちゃん」と呟き、里穂の背中を抱き、顎を引き寄せ、戸惑いの表情を見せる彼女の唇に自分の唇を重ねた。さっきまで里穂が飲んでいたキリンレモンの味が微かに感じられた。唇のやわらかい感触が、和成の体を熱くした。里穂は突然のことに、抵抗する暇もなく何が起こったのか分かっていないようで、ただ固まっていた。
長い沈黙の時間が流れた。静かな夜の公園で、お互いの胸の鼓動だけが聞こえる。実際は、ほんの数分だったのかもしれないが。
顔を外した和成は、もう一度、今度は前より強く里穂を抱きしめ、唇を奪った。舌で無理やり唇をこじ開け、激情に任せて逃げ惑う里穂の舌を絡めとった。静まりかえった公園に、ちゅ、という口づけの音が微かに響く。抑えきれない衝動が突き上げ、コートの上から里穂の胸を掴んだ。分厚いコートの上から敏感な先端を指で探り、弄び、そのたびに今までに経験したことがない興奮が和成の体を突き抜けた。腕の中の冷えた体の女の子を、暖めたかった。里穂の苦しみを、唇から自分が受け取って逃し、軽くしたいと思った。2回目に顔を外して改めて里穂の顔を見ると、息を切らし、青ざめた表情が目に写った。
「あ…」
「ごめん、私、帰るね」
まだ力を込めているはずの腕を、里穂はするりと抜けた。そして、自分が巻いていた鍵盤柄のマフラーを和成の首に一巻きして、微妙な笑みを浮かべた。
「じゃあね、お休み」
自分から離れて歩き出す里穂に、和成は叫んだ。
「か、かけが…里穂っ!」
振り向いた里穂は、泣き出しそうな顔で微笑んだ。
「お、俺は、」
里穂は小走りに戻ってきて、自分の右手人差し指を立て、和成の口に当てた。和成がそれでも口を開こうとすると、里穂は首を何度も激しく横に振った。両方の瞳から、一筋ずつ涙が零れていた。掠れた声で、里穂は言った。
「お休みなさい」
「ひとりで、」
遠ざかる里穂の背中に、和成は呼びかけた。
「ひとりで、帰るのか」
声が震えた。里穂は振り返った。悲しげな複雑な表情に、和成ははっとした。
「今更なによ。いつも私一人で帰ってるじゃない」
気づかなかった。こんなやり方で自分の激情をぶつけるくらいなら、どうして公園で別れたりせず、もっと早くから彼女を家まで送り届けなかったのか。ちゃんと里穂の顔を見て、素直に自分の想いを告げ、受け入れてもらうことに心を砕くべきだったのだ。だが、今の今迄和成は自分が本当は里穂をどう思っているかわかっていなかったのだ。
(畜生、俺は…あの子を…本当は…)
自分はなんて鈍感な奴だったんだと和成は自分を呪った。里穂はまた顔をそむけた。普段より一段低い声がした。
「…気づくの、遅いっての」
「…ごめん」
「いつも、独りで帰るの寂しかったよ」
「…ごめん」
同じ謝罪の言葉しか繰り返せない自分は愚かだ、と、和成は頭を抱えたくなった。里穂の表情は見えないが、くぐもった涙声から、おそらく深く傷ついたのであろうと和成は感じ、自分の頭を殴りたい衝動にかられた。
「ほんとに、…寂しかったんだよ…」
消えるような里穂のつぶやきが、冬の空に消えた。
今度は里穂は振り向かなかった。トーンの低い不機嫌な声がした。
「ばいばい、またね、進藤くん」
背を向け、目を合わせないまま右手を振って、里穂は去っていった。
さっき飲んだコーラの味が苦く口の中に広がった。
(やらかした…)
里穂が去ったあとしばらく、和成はそこに立ち尽くしていた。体が冷え切るまで気が付かないほど。またちらちらと雪が降り始めた。
真夜中に和成が里穂に会えたのは、それが最後になった。
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