キャンディ缶の約束
試験曲のベートーヴェンのソナタの形ができたので、一度聴いてほしいと頼まれ、和成は弁当と飲み物を抱えて第二音楽室へ行った。
里穂は、窓に近い机に小さなチェックの手提げと、500mlのグレープフルーツジュースの紙パックを置いて、外を眺めていた。
「来たね。お弁当食べちゃおう」
里穂はチェックの手提げから緑のバンダナに包んだ弁当箱を取り出し、包みをほどいた。
「弁当お母さんが作ってるの?」
「半々かな。大体は前の日に余分におかず残してもらって、詰めるだけなんだけど」
和成の弁当箱の大きさに、里穂は呆れた。父親でもそんなでかい箱じゃないという里穂に、和成は答えた。
「多分もうこのサイズで慣れちゃってるんだよ。部活引退するまでは、早弁用の弁当も持ってきてたけど、これでも前よりご飯の量は減らしてる」
「大変じゃないの、進藤くんのお母さん。看護師さんでしょ」
「そうだな…。夜勤の日は食事を作って出ていくから、冷凍食品もよく使う。俺はカレーとラーメンと焼きそばしか作れないけど、まさかラーメンは弁当に持っていけないし」
「聞いたことないわ、ラーメン弁当なんて。汁吸っちゃうじゃん。その3つの中なら焼きそばかな?」
「ご飯と焼きそばの弁当とかなんでそんな炭水化物責めな弁当を…」
里穂はくすくす笑った。なかなかに毒舌な口もきくが、笑っているときの里穂の表情は可愛いと和成は考えていた。母親が不在だと、弟と父と男3人で食卓を囲むのがなんとも色気がない。里穂と弁当を食べるのが楽しいのは、彼女がとにもかくにも女の子だからなのだと和成は思う。ただ、「可愛い」と思っていても、何となくそういうことを伝えるのは難しい。冗談に取られる危険性もあるからだ。
「進藤くん、葡萄好き?」
「?ああ、何で」
「親戚から送ってきた。たくさんあるから食べていいよ」
里穂が別の小さなシール容器を取り出した。巨峰が一粒ずつばらされ、8個入っていた。
お互いに巨峰を1粒ずつつまんで口の中に入れる。甘いような酸っぱいような葡萄の味が口に広がった。ふと、二人の指先が触れあって、和成は少しどきん、とした。それを顔に出さないために、わざわざ葡萄の粒を2つ口に放り込んで和成はむせた。
「ほらほら、まだあるんだから落ち着いたら?」
「がっ、げほげほ、た、種飲み込んだ」
「はいはい」
里穂に背中をさすられながら、さっきのどきん、って 何だったんだろうと和成は考えた。だが考えれば考えるほど変な表情になりそうで、考えるのをあきらめた。
「さて、弾くけどとりあえず最後まで聴いて。感想はそのあと」
弁当を食べ終わり、弁当箱を片付けて里穂は立ち上がった。今日の本題はこっちだった。
ピアノの前に座り、暗譜が不安だと言ってヘンレ版の青い電話帳のような楽譜を開いた里穂は、大きく息を吸いこみ、弾き始めた。
ベートーヴェンピアノソナタ16番ト長調 作品31-1、第一楽章。滑り込むようなト長調の下行スケールから始まる。軽快で元気で比較的試験向きの曲だ。だが里穂は呼吸がだんだん乱れるのを感じた。そして、最後は崩壊してしまった。
「ああ、だめだこれ…絶対黒沢先生に叱られる」
里穂はがっくりと肩を落とした。和成はコーヒー牛乳を飲みながら、率直な感想を伝えた。
「何というか…息苦しい。何に焦ってる?そんな弾き方だったか?」
「…そうか、やっぱわかっちゃうか…」
里穂は戻ってきて椅子に座り、反り返って伸びをした。
「テンポを上げたいって気持ちが先立つんだよねえ」
「…俺は音楽専門じゃねえからわからんけどさ、その曲、そんなに速く弾かなきゃダメなわけ?」
里穂は頬杖をついた。
「もともとテンポは速い曲なんだよね…、だから、速く弾きたいって思っちゃうのかなあ」
「でもさ、なんか聴いてて何かに追われてる気がしてくる…んだよな。例えると、ハムスターが回し車で必死に走ってる、とか?」
「そっかぁ、どうしてなんだろう…」
里穂は首を捻っていた。入試が実技というのもそれはそれで厳しいんだなと、和成はぼんやり考えていた。和成は気づかなかったが、里穂はこの頃から追い詰められていた。普段のレッスンよりもかなり掘り下げたところで様々なことを理解して演奏しなければならない、しかもミスは許されないという、厳しい状況に、心が悲鳴を上げていることを里穂自身も気づいていなかったのだ。
その後、里穂は和成に一度も「演奏を聴いてほしい」と言わなくなった。その代わりいつも昼休みにはベートーヴェンが第二音楽室から微かに聞こえるようになった。図書館の学習スペースで勉強する和成とは、学校でもすれ違い言葉を交わさなくなってしまった。
夜に会わないかと里穂から誘われたのは、そんな十一月半ばの、まだ期末試験前のある日だった。下足箱で声をかけられ、和成が返事をする前に靴を履いてさっさと校門を出ていってしまった。
急に夜冷え込むようになった日だった。二人は駅前のバス停で待ち合わせて、円明公園まで歩いた。
和成は全く趣味ではない、AC/DCのツアーTシャツ(いつもらったかわからない、従兄のおさがりだ)の上に紺色の綿入りジップパーカーを引っ掛け、部活で使っていたジャージに足元はゴム草履という緩い恰好をしていた。思った以上に寒いので、(失敗した)と和成は思った。素足にゴム草履はまずかった。晩秋の風は冷たく、和成は足元から冷えてくるのを感じた。
里穂は髪を1つに束ね、紺のキルトのジャケットにキャメル色のフードがついたロングTシャツのようなジャージのワンピース、足元はソックスにスニーカーで震えながら、相変わらずポップキャンディをガリガリ噛んでいた。このころになると、里穂が棒つきキャンディの端を齧るのは癖だということが和成にもわかってきていた。
「食べる?」
里穂はポップキャンディを差し出した。
「いや、いい」
和成の返事を聞くと、里穂は赤をショルダーバッグにしまい、黄色のキャンディの包みを剥きはじめた。
「まだ食うのか」
「物足りない。頭が疲れたから糖分を補給しなきゃ」
そんな小さなキャンディの糖分なんて大したことないだろうと和成は思った。里穂は家を出てくるまでの間、宿題の漢文の問題集をやっていたらしかった。
「そういや掛川さんってどう言って家を出てくるんだ」
「内緒」
ガリガリとポップキャンディの端を齧りながら里穂は答えた。
「内緒?」
「うちの裏庭には扉がついていて、南京錠がいつもかけてある。そのカギは私が持ってる。私の寝室は一階で裏庭の傍だし、靴をこっそり部屋に隠しておいて裸足で外に出てから履く。帰って来る時も南京錠を開けて裸足で家に入る」
「用意周到だな」
もうこれは確信犯だ。
「もう慣れた。1年くらいやってるから」
「そもそも…なんで夜の街へ出ようと思ったって話、俺聞いたっけ」
和成の質問に、里穂は顎に手を当てて考えた。
「きちんと話したことはないかもしれない。私にも実はよくわかっていない、どうして夜中に外に出たいのか」
闇が深い話なのかもしれなかった。家族との関係が悪いわけではないらしいので、そっちの理由ではなかった。
「きっかけが何だったのか覚えてるか?」
和成が尋ねると、里穂は首を傾げてしばらく考え込むように口をつぐんでいた。
「もしかしたら」
囁くような声で里穂が呟いたので、和成は一瞬戸惑った。
「何?」
「もしかしたら。…進路調査票を出せって担任に言われて、いざとなったら何も書けなかった、あの時からかもしれない」
その里穂の言葉を聞きとがめ、和成は思わず里穂の横顔を見た。里穂は険しい表情で、公園の街灯を睨んでいた。
「何も、書けなかった?」
「あのね、進藤くん」
里穂は和成に目を合わせず、言った。
「音大を受けると決めるまで、私には何もやりたいことがなかったのよ」
その険しい里穂の表情を見て、和成はちくん、と心が痛んだ。そうなのだ。里穂は最初から目標が決まっていたわけではなかったのだと、自分と同じだったことがあるのだと気づかされてしまった。
「進藤くんも」
里穂が言葉を切って和成を眺めた。
「なんで夜ふらふらしてんのって聞かれて答えられる?」
答えられなかった。ふと、和成は最初に里穂を見かけた春の夜を思い出した。あれは本当に里穂だったのか。それは、彼女に問いただせなかった。
「ね、それが答えだよ」
「わかんねえなあ」
「わからなくていいんだよ。そういうもんだよ」
里穂はにやにやした。里穂にも本当のことは実はわかっていないのだろう。和成が分からないのは当たり前のような気がした。
夜風の冷たさに、里穂は震えた。
「寒いね、今日」
「ああ、ゴム草履は失敗した」
「なんでゴム草履しかも裸足なの」
「いやぁ…家で靴下とかあんまり履かないし」
里穂は笑った。確かに、和成は家の中で年中裸足なんじゃないかと思う。
「寒い」
夜が更けて、風が出てきた。里穂は肩を竦めて身震いした。
「俺といるとあったかいぞ。体温高いから」
和成は自然に腕を広げ、里穂の肩を抱き寄せた。里穂も自然に寄り添い、くすくす笑った。
「どういう理由?ま、私は低体温だけどね」
「風邪引いたらヤバイからさ、もっとくっついていいぞ」
「では進藤くんのご厚意に甘えましょう」
何の躊躇もなく自分の腰に腕を回してきた里穂を抱き寄せながら、和成は暖かな気分に包まれた。(やっぱり、可愛いな…)ドキドキはしなかった。ただ、ずっと前からこんな風に自然に触れあっていたような気がした。里穂も機嫌よく笑顔を見せた。
「なんかあったかいもんでも飲む?」
「そうだな」
二人はコンビニの前に来た。和成はパーカーのフードを頭からかぶり、先に立って中に入った。一瞬悩んで、なぜかコーンスープを選んだ。
「なんでそれ」
「温かいかなと思った。しるこドリンクよりましだろ。あれはダメだ。粒つぶが出てこない」
里穂は呆れた。飲んだことあるのか、この人は。
「コーンスープだっておんなじじゃん。缶入りはさ。コーンの粒つぶ出てこない」
「そうかなぁ」
里穂はますます呆れた顔で、ミルクティのホットを取り出し、レジに向かった。
二人はコンビニを出て、円明公園のいつもの芝生広場のベンチに座った。
「そういや、全然別の話だけど、掛川さんっていっつも飴食ってる気がするんだが」
「常備してるからね」
「そんなに好きか、飴が」
「飴って言わないの。いろいろあるのよ。キャンディマニアだからね、私は」
「ポップキャンディしか知らんぞ、あとあれだ、この間もらったレモンなんとかと、スーっとする、焼き肉食いにいくともらえる」
「これかな?あさくまのデリシャスミント」
里穂はミルクティの缶を置き、肩掛けかばんの中からミルキーの缶を取り出し、中からあさくまのデリシャスミントを取り出して見せた。
「ああそれだ」
「気分転換にちょうどいいのよ。講習会の時も持って行った」
「飴常備なんて、大阪のおばちゃんみたいだな」
「大阪のおばちゃんやで~。飴ちゃんあげよか~?」
「もらうわ」
二人は顔を合わせて爆笑した。里穂はミルキー缶からデリシャスミントを取り出し、和成の手に載せた。
(小さい手だな。こんな手であのベートーヴェンを弾くのか)
和成は里穂の手を見て思った。
「そういやさ、掛川さん誕生日いつ」
「もうとっくに終わっちゃったよ。なんで」
「女子ってプレゼント好きなんだろ?なんかあげるよ」
「そうだなぁ、それなら…」
里穂は腕を組んで考えた。
「進藤くん、“シンプキン”ってとこのキャンディ缶が欲しい
「シンプキン?」
「うん。先週ソニプラに行ったら、私が欲しいのが売り切れてて入荷待ちだって」
「ソニプラか…」
あることは知っているが、ソニプラーソニープラザには入ったことがない和成は、躊躇した。
「シンプキンはイギリスのキャンディやさんなの。輸入食品扱ってるって、ここらじゃソニプラかルミナシティの明治屋くらいしかないでしょ。ルミナシティまで行くの大変だし」
「なんだ、俺はお使いかよ」
「ううん、お使いじゃなくてプレゼント。クリスマスまで待っててあげるよ」
「しょうがねえなあ。その、シンプキンとやらはどんな飴なんだ」
「缶に入ってる。欲しいのは2種類。チョコレートミントとミックスフルーツ。大丈夫…輸入食品と言っても高いものじゃない…高校生のお小遣いで十分買える…」
「ほんとかよ」
「友達に高いものなんかねだったら罰が当たる。彼氏なら、もっと違うものをねだる、多分…わかんないけど。私、いわゆる普通の女子高校生っぽくないらしい。去年、まみにクリスマスプレゼントのリクエストをしようとして困った」
それは相手も困るだろうなと和成は思った。もっとも和成は男なので、女子高校生が一般的に何を欲しがるのかはわからない。
里穂はポップキャンディを食べ終えて、紙で巻いた棒を飴が包まれていたセロファンに包んでショルダーバッグにしまった。
「2つ合わせてもそうだな、1000円ちょっとってところかな」
その値段なら、心おきなく小遣いで買える。彼女にティファニーのオープンハートとやらを買うためにこっそりバイトしてる奴の話を聞いていたから安いものだと思った。もっとも里穂は自分の彼女ではないし、だからこそあんまり高価なものをねだるのも気が引けるのだろうと和成は考えた。里穂は肩掛け鞄からスヌーピーの絵柄がついたメモ帳を取り出し、「シンプキンのチョコレートミントとミックスフルーツ」と書いて1枚破り、手渡した。
そのメモに、和成は角ばった字で「あめ」と書き足して自分のジャージのズボンに入れた。
「12月にもう一回ベートーヴェン聴いてもらおうかな。ハムスターの回し車からは脱してきたから。人前で弾くと試験の練習になるしさ」
だがこの約束は、クリスマスに果たされることはなかった。それは、和成がジャージのズボンに入れたメモをなくしたからでも、二人が喧嘩したからでもなく、ただクリスマスに会うことができなかったからだ。
そして、事件が起こった。
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