秋風の行方、戸惑う心
文化祭が終わり、第二音楽室を合唱部が使わなくなって、里穂はまた昼休みにピアノを使うことができるようになった。受験まで追い込みの時期に入り、ハノンの全調スケールでウォーミングアップをして、課題曲のチェルニー50番とベートーヴェンのソナタだけに集中し始めた。朝和成が登校する時間に、微かにピアノの音が聞こえることがあり、(ああ、やってるな)と、和成は思った。
この頃、和成が予備校の宿題に疲れて夜に家を抜け出しても、里穂に会うことがなくなった。別に里穂に会うのが目的ではないと思い、親には「頭が疲れたから一走りしてくる」といって家を出ていたので、何の後ろめたい気持ちもなかった。ずっと机に向かって課題をやっていると体が固まるので、こんな風に体をほぐしてからまた残りの課題をやるか、体を疲れさせて睡眠に向けることが和成には必要だった。ただし、うっかり風呂に入ったあとに走りに出ると、体は冷えるが汗もすこしかき、風呂に入りなおさなければならないのだけがデメリットだった。
文化祭が終わったあたりはまだ、半袖Tシャツにジャージで走ると汗を結構かくほどだったが、そのうち、ナイロンのウインドブレーカーを羽織るようになり、やがて、羽織るものがパーカーに変わった。
里穂が夜中にどう過ごしているのか、気にならないと言えば嘘だった。
里穂は授業が終わると早々に帰宅してしまう。そもそも、里穂とは付き合っているわけではないし、同じクラスでもない。
二人のつながりを知っているものが少ないのにわざわざ帰りに呼び止めて一緒に帰るなど、4組や5組の「恋愛脳」と里穂が呼んでいる、ミーハーで軽い女子たちのカモになりに行くようなものだ。受験に集中したいのに、そんな面倒ごとをわざわざ引き起こすこともないだろう、と、和成は考えた。
里穂と会うのは昼休みの図書館。申し合わせてということは一切ない。机と椅子が窓に向かって並んでいる学習スペースに里穂がいる時は、素知らぬ顔で隣に滑り込み、学校の宿題や予備校の課題を解きながら筆談する。
逆に自分が先に来ているときは、隣が空いていれば里穂は顔色一つ変えずに隣に座る。隣が空いていない場合は、予鐘が鳴る帰り際に肩を叩いて声をかけることもあるし、そもそも相手が来ていることなど全く気付かないことだってあった。
ある時、うっかり漢和辞典を忘れて漢文の宿題に困り、書庫へ和成が回ると、里穂が金沢麻弥耶と書庫で探し物をしているのにあたった。
「よう」
「あ、進藤くんだ」
麻弥耶は社会科の資料を探しに別の書庫に行ってしまい、二人だけになった。顔を合わせて話すのは文化祭の夜以来だった。
「漢和辞典って、どこだっけ」
「ん~?多分このあたり」
「わかるの?」
「1年の時図書委員だったから」
それから二人は無言で辞書を探した。和成は比較的新しそうな漢和辞典を見つけて、書棚から引き抜いた。
(うわ、あんな高いところ梯子なしで…そうか、進藤くんがでかいんだ)
和成は不思議そうな顔で里穂を見つめた。
「どうした」
「ん、進藤くんって…でかいんだなって改めて思った。身長いくつだっけ」
「今年の健康診断で180.5センチだった」
予想以上の身長に、里穂は驚いた。
「うわ、でかっ」
「そういう掛川さんは?」
「…私153.5…」
和成はふっと笑い、里穂の頭をポンポンと叩いた。
「俺と頭1つ分違うってわけか。そうか」
「チビって言いたいんでしょ」
「女の子だろ?別に、普通だ」
そして、もう一度里穂を見て言った。
「俺はいいと思う…ちっちゃくて可愛い」
後の言葉は、そっぽを向いて早口で喋った。ちょっとだけ照れ臭かった。
和成は里穂に何を探しているかと尋ねた。里穂は「社会のレポートのネタ」と答え、それは憲法九条にに関するものだと分かった。和成は漢和辞典を探してもらったお礼に、里穂の資料を一緒に探し始めた。
レポートに使えそうな資料になる本は思いのほか多く、逆にテーマを絞って借りる本も厳選する必要があった。里穂に和成がさらに尋ねると、
「九条について自分なりの解釈を加える」
とのことで、それらしい資料用の書籍を二人で手分けして探した。貸出できるのは2週間で3冊だし、重い本を借りてしまうと持ち帰るのに苦労する。資料の選別は案外骨が折れた。進路の都合で、社会科は政経・倫社を選択していない和成は、1,000字のレポート課題が出ていると言う里穂に驚いた。
「作文は苦手、だなあ」
「作文ってかレポートだけどね」
「掛川さんそういや、読書感想文コンクール入選の常連だったな」
里穂は肩を竦めた。
「…なんで君はそゆことばっかり覚えてるの」
「なんとなく。俺もレポート課題が出たら、掛川さんに教えてもらおうかな」
書庫の角を曲がりかけて、和成は小さく「う」と呻いて回れ右し、里穂の腕を引っ張った」
「え、な…」
不審がる里穂の口を手で押さえ、肩を抱いて移動したのは、「0 総記」と書かれた棚で、年季の入った本が並んだ少々かび臭いエリアだった。和成は里穂の耳元に小さく「ごめん」と呟き、里穂の背を書棚に押し付けて自分の身体で覆った。
人気のない書庫の片隅で、里穂は押し付けられた和成の胸の鼓動が速くなるのを聞き、息が止まりそうになった。男の子とこんなに近いなんて。人が来ないからいいものの、もし見つかったらどんな言い訳をすればいいのか。それにこういう状況では頭も働かない。ウールの学生服特有の匂いに、おそらく習慣で使っているであろうシーブリーズの香りが里穂の鼻をくすぐった。こんな切迫したときにもかかわらず、甘く切ない思いが胸に浮かんできた。しっかりと抱え込まれているのに頭を振ることもできず、里穂の鼓動も速くなった。
一方和成も、自分の顎の下で抱え込んでいる里穂の頭や、制服越しに微かに伝わる里穂の胸の感触に血圧が上がりそうになった。そして、里穂が使っている制汗剤がせっけんのような香りだということも分かってしまい、ますます鼓動が速くなった。どうして自分は今、里穂を抱きかかえているのだろうか。総記の棚は死角だから滅多に人がこなくていいが、例えば金沢麻弥耶に見られたら、自分はどう言い訳すればいいのだろうか。
(やばい…掛川さんが可愛すぎる…しかも、体ちっちゃいのに胸がでかいとか俺の好みドストライクだ)
佳からぬことを考えて別の場所が反応しないように、和成はいきなり数式を連想した。
「ふぅ、もう大丈夫か」
「…な、何だったの」
息をついた里穂は和成に尋ねた。和成は顔をしかめて言った。
「今、俺はとある痴話げんかに巻き込まれていてな。…俺のクラスの三上ってわかる?」
「…バスケ部の、…確か元副部長、だっけ」
里穂は首を傾げた。顔は浮かんでくる。話したことはない
「うん。三上と、男バスのマネージャーの2年生の子が付き合ってるんだが、秘密だったらしくてな。俺が喋ったと疑いをかけられている。おまけに、三上を狙ってたらしい別の女バスの2年生からも”三上先輩はフリーだと進藤先輩に言われた、騙された”って言われてさ」
「…なんじゃその修羅場…」
里穂は呆れた。自分はそういう修羅場に縁がない。あってほしくもないが。
「三上の彼女が俺を恨んでて、さっき見つかりそうになって逃げた。すまん、巻き込んだみたいになって」
「進藤君がべらべら喋ったの?」
「…俺がそういう口の軽い男だと思う?!」
「いや…ありえんな…。弁明すればいいじゃん、”俺は無実だ”ってさ」
和成は頭を抱えた。
「それが出来れば苦労しないって。三上もちょっとげんなりしてるみたいでさ」
「…じゃ、時が過ぎるのを待つしかない?うわめんどくせー」
「めんどくせーわ、ほんと。済まんな、巻き込んで」
里穂は首を振った。「別に」
「あと、ありがと。掛川さん抱っこしてちょっと癒されたわ、俺」
「…癒されたって…ぬいぐるみかペットなのか、私は」
「いや、普通に友達だけど?ペットって言ったら、猫っぽいな。尻尾生えてそう」
「尻尾ってなに」
予鈴の音が聞こえ、二人はそれぞれ図書館を出ていった。廊下を歩きながら里穂は呟いた。
「…なんなの…どきどきするじゃん…癒されたって…」
頭の中が混乱してきた。
一方、里穂とは逆方向に歩いて自分の教室に帰ろうとした和成も廊下を歩きながら呟いた。
「…ダメだ俺、どうかしてる」
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