最後の文化祭

 二学期に入ってから、校内は学校祭の準備のため賑やかになった。

第二音楽室は合唱部の昼練習で使えなくなり、里穂は学校での練習をあきらめてまた図書館へ通うようになった。図書館の入り口で、和成と鉢合わせた。

「あれ、ピアノは」

「文化祭のステージ発表の練習で、第二音楽室は使えなくなった」

「ああそうか…」

和成は問題集を抱えていた。一応予備校に通い始めたという。分厚い問題集は予備校の宿題だった。里穂は楽典の問題集を取り出し、問題集には書き込みせず、音楽ノートに調判定の答えを書き始めた。自習コーナーでは声を出せないので、隣に座った和成はレポート用紙を一枚破ってシャープペンシルで何か書いて里穂に見せた。


”直接書き込まないのか”


里穂はそれをちらりと見て、和成の字の下に自分で何か書き込んだ。


”何度も繰り返し解くのが意味があるから、ノートに答えを書く"


"その問題何”

”調判定っていって、問題の楽譜から、どういう調かを当てるという問題”

”わけわかんねえな”

”分からないとまずい。結構配点大きいから”

”ご苦労さん”

”進藤くんほんとに字が下手だね”


 和成は何とも言えない表情になり、里穂は笑いをかみ殺した。


”そんなに読めない?”


”ぎりぎり読めるけど。ゆっちゃんが困るはずだ”


”福岡さんには謝っといた”


和成の文章に、里穂はまた笑いをかみ殺した。これでは集中できない。里穂はあきらめて、図書館を出ようと思ったら予鐘が鳴った。





 県立緑台高校の学校祭は「みどり祭」と言い、例年9月の半ばに行われる。前半が体育祭、後半が文化祭という構成だった。

 この年は、プール工事が夏休みで終わる予定が延び、みどり祭は9月下旬に変子になった。

 体育祭では、実行委員の里穂はほとんど競技には出ず、競技をじっくり見ることもなく、ただ学年対抗リレーだけは仕事を外れたので、心おきなく和成をーというか、3年生チームを応援することができた。自分が出たのは学年対抗の大縄跳びで、準決勝まで行ったが2年生女子チームに敗れてしまった。

 いっぽう和成は、学年対抗リレーの中継ぎというなかなか責任重大な役目だった。この学年対抗リレーは体育祭の中でもドラマが生まれる見ごたえのある競技で、男女別に学年選抜チーム8人のリレーを行う。

3年生男子は2年生男子に勝ち、1年生男子に負けて準優勝となった。このリレーの1週間前から毎日走り込みをして、責任は果たした、と和成は思った。体を動かすことは苦痛ではないが、これを例えば仕事にするのはしんどい、と、初めてそんなことを和成は考えた。

(結局、自分にとって運動することは”趣味”なんだ)

体育祭が終わった時、和成はそんな風に考えた。自分は職業としてのアスリートじゃないことを痛感した。



 里穂は合唱部でステージ発表に出るため、去年までは文化祭はほとんどクラス発表くらいしか見たことがなかった。運動部と文化部の違いだ。今年は引退しているので、合唱部の発表に行っている麻弥耶とは回ることができず、クラス発表の掲示や模擬店を冷やかしに一人で回っていると、和成に会った。

「こんにちは」

「あれ、一人?」

「ゆっちゃんとフライドポテト買うのに待ち合わせてんだけど…それ、まさかと思うけどミッキー?」

へたくそなお絵描きせんべいの絵を見て、里穂は呆れた。

「…悪かったな」

「進藤くん一人なの?」

「残念ながら一人です」

「そうですか。寂しいねえ」

含み笑いをした里穂に、和成は言った。

「それはお互い様だろ。女子ってこういうときつるんで…あんた普通の女子じゃなかったな」

「悪かったな。そうだ、小腹が空いたからフライドポテトおごれ。そしたら一緒に回ってやる」

「しょうがねえな。フライドポテトやってる店2つあるけど、どっちに行くつもりだ」

「2年5組。合唱部の後輩がいる。そこで待ち合わせなんだ。塩とサラダとカレーが選べる。ベースは塩だけどね」

決まりだった。


 合唱部の後輩というのが男子だということを知って、和成は驚いた。しかもこの男はどこかで見た気がする。名前は出てこない。ひょろひょろした真面目そうな男子生徒がバリトンの美声だという話を聞いても、にわかには信じられない。男子と一緒に模擬店に来た部活の先輩を冷やかすこともなく、淡々と注文を聞いているその後輩に和成は好感を持った。

「あ、掛川さん。ごめん待った?」

 黄色い単衣の着物に紫の袴姿の友紀子がすれ違いざまに声をかけてきた。対局の準備で着替えてきたという。普段の制服姿を見慣れている和成は、その変化に驚いた。148センチと小柄な友紀子には、着物がよく似合っていた。

「ちょっとだけね」

「それじゃ、申し訳ないんだけど、うちに焼きそば買っといてくれない?お昼一緒って思ったんだけど、これから1年生の子の着物を着つけしてあげなきゃいけなくなっちゃって」

「わかった。将棋部に届ければいい?ついでにゆっちゃんの対局見ようかな」

「あ、それでいいや。お金あとで返す」

「福岡さん、俺がおごってもいいか」

身長の高い和成と、ミニサイズの友紀子が向かい合うと漫才のようになった。

「へ?そんな、後で進藤くんにお金返すけど」

「大丈夫大丈夫。先週物理の教科書借りたお礼」

「ああそうか、進藤君には貸しがあったね。わかった。じゃあとで」

 袴姿の友紀子はするりと人波を抜けて行ってしまった。

「フライドポテトと焼きそばのセット3人前」

「何味にしますか?ポテトは塩とサラダとカレーですけど」

「じゃあ、サラダ2つ、カレー1つ」

「まいどあり~」

 注文を取っていた里穂の後輩が、和成の顔を見つめた。何事かと思った。

「ひょっとして、進藤和成先輩ですか?」

「…知ってるのか俺のこと」

「知ってます。進藤先輩も里穂先輩と同じで諏訪西中ですよね」

「そうだが…」

相手は自分を知っていて、自分が相手を知らないことなど山ほどある。ましてや諏訪西中はマンモス中学だ。後輩のことなど部活が違ったらチェックしない。

「僕、水泳部にいました。大垣正則です。…弟さんいますよね」

「コースケが何か」

「同じスイミングクラブでした」

「まさか…つばめスイミングクラブ?」

自分は半年でやめたが、弟の孝介がずっと通っていた。弟がまだ平泳ぎをやっていた時に、育成クラスに大垣君という子がいて、速いんだと聞いたことがある。その大垣君はこの大垣君ということなのか。

「コースケまだ泳いでますか」

「水泳部に入った。しかし俺はつばめに入って半年でやめたのに何で知ってる?」

「先輩、コースケを何度か迎えに来たことあったでしょう。だから顔と名前だけは一応」

 里穂に大垣君と自分のつながりを話すと、里穂も驚いた。世間は狭いと里穂は呟いた。

「お待たせしました~」

 和成は3人前のフライドポテトと焼きそばを受け取って、食券を出した。

「いいよ私の分は」

「食券今日の分使い切りたいんだ。余らせても仕方がないし。福岡さんにも言ったけど、ここはおごるから」

「悪いね」

かえって気を遣わせたか、と、里穂は心配したが、その後ちゃっかり和成は購買で1リットルペットボトルのコーラを里穂におごらせた。食えない奴、と、里穂は呟いた。

里穂は友紀子に焼きそばとフライドポテトを渡しに将棋部の部室へ向かい、和成もついでについて行った。

その日は将棋部の友紀子の対局を見て、それから休憩スペースで和成と一緒に焼きそばとフライドポテトを食べた。和成のカレー味のフライドポテトをもらって食べると、やたらと辛くて口から火を吹きそうだった。和成は慌てて、ペットボトルのコーラを紙コップに入れて里穂に渡した。

「余計辛いじゃん」

 里穂に言われて、和成がフライドポテトを食べたが大して辛くはなかった。

 体育館で合唱部の発表を見て、有志のバンドも見て、ほかにも模擬店を冷やかして終わった。自分がステージで歌っていないことが不思議に感じられる里穂だった。何となく寂しいような気がして、隣の和成の腕にそっと捕まった。

「どうした」

和成は小声で尋ねた。

「…私の場所はもうあそこじゃないんだなって思って」

寂しそうな里穂の横顔を見ながら、和成は言葉を失っていた。里穂にとって、合唱部は本当に「居場所」だったのだ。それを失って、彼女はどこに行くのだろうと和成は思った。最後の試合で、フリースローをいれられなかった自分の気持ちがよみがえった。吹っ切ったつもりだったが、吹っ切れていなかったのかもしれない。

(こんな風に思い起こすなんてな)

里穂は和成の腕を掴む力を強くし、泣いているのを悟られないように頭をもたせかけた。誰かに見られた時、「後輩が成長したのを感じて嬉しかったんだ」と言い訳できるように。和成は黙って、里穂の気が済むまで彼女の頭の重みを感じていた。




 文化祭の最後、ファイヤーストーム。里穂はなんとなく疲れた気持ちで、ストームからは離れていた。この日は購買が夜まで開いていたので、飲み物を買いに北校舎のそばまで行くと、ジャージを着た和成が所在なさげに立っていた。

「どうしたの」

「暇だなと思って」

「購買まだ開いてる?」

「開いてるけど、パンは売り切れたそうだ。飲み物はある」

「私、飲み物買ってくるけど、進藤君暇なら付き合ってよ」

断る選択肢はなさそうだった。和成もぶらぶらとあとをついていき、結局予定していなかった500ミリリットルのコーヒー牛乳を買った。里穂はオレンジジュースを買って、二人はまたぶらぶらと歩いた。

 小さなビニールの温室がある中庭は、まだ秋口だというのにひんやりとした空気をまとっていた。緑台高校の伝説として、ファイヤーストームで告白するとうまくいくというジンクスがあり、それを狙う生徒たちはここには来ない。すでにカップル成立している場合は、体育館の裏や武道場のほうに行ってしまう。

 どちらでもない2人は中庭へ行った。同じことを考えている人間がいたとしても、別に後ろめたくないさと和成は思ったが、静まり返った中庭には誰もいない。いつもは煌々としている職員室の電気も、ファイヤーストームのために防犯用の常夜灯に代わっていた。先生たちも職員室にはおらず、静かだった。里穂はたるみすぎたルーズソックスを少し引き上げ、どうしようかと迷 っていると、和成が池の方へ手招きした。少し座りたいがベンチなどない。ジャージの和成はともかく、制服のスカートが土埃で汚れるのを里穂は気にした。その様子を見て、和成は肩からかけていたジャージの上衣を袖を折りたたんで広げた。

「ないよりましだろ」

なんでジャージなんだと思いながら、里穂は仕方なく座布団のようになった紺のジャージの上に腰を下ろした。和成も横に座った。

「リレー、見た。…進藤くん、速いね。かっこよかった」

「おう、ありがとう。…1年に負けたけどな」

「なんかいろいろ終わっちゃうねえ」

「終わるな。残りは試験ばかりだ」

「結局、進藤君は進路どうするんだったっけ?私その話聞いたかな」

和成は迷っていた。特に強くやりたいと思うことは見つからない。理系クラスだし、今更文系、特にあまり得意ではない国語や、興味がまるでない日本史などをやるのはセンター試験だけにしたかった。

「県外に出るほどの余裕はうちにはないし、地元の葉里工大を第一志望に出しているけど、まだ全統模試C判定なんだよな。併願は創明技術科学大にした。こっちはA判定だから多分いける」

「そうなんだ。音大は全統模試の結果なんて参考にならないからな」

「そうなのか?」

「全統模試にソルフェージュや楽典の試験はないでしょ」

それもそうだ、と、和成はうなずいた。里穂のおかげで、音大の受験については少し詳しくなった。

「私は葉里音大単願だから、先がないんだ。…ダメなら音大は諦めて、二次募集してる短大かどっか受けるかも」

「実技、相当絞られてるのか」

「まあね。学科は安心」

 里穂は国立文系クラスの1組でも成績上位だから、そっちは心配ないんだろうと和成は考えた。国語は学年トップだ(ということを、和成は不覚にも模試で知った)し、英語も社会も成績がいい。逆に文系だから物理は苦手だと以前里穂は話していた。市立芸大を受けることをやめたことは、かなり前に吹っ切ったと里穂は言った。

「担任の話だと、学科の推薦もとれるそうだけど、そうなると1月初めにもう実技試験が来ちゃうから、逆にベートーヴェンが間に合わない」

「前に弾いてた4番ってやつ?」

「ううん、変えた。変えたほうがいい、今から仕上げなさいって言われた。16番の1楽章。そうだな、11月のはじめくらいに一回通して弾くから聴いてよ」

文化祭が終わると、合唱部の昼練習は1月半ばまでなくなる。その間はまた第二音楽室を借りるのだと里穂は言った。

「まさかと思うけど今飴持ってる?」

「あるけど。食べるの?」

「コーヒー牛乳飲んじまったからな。口が暇だ」

 里穂は笑って、財布をいれて持ち歩いているスヌーピーのポーチからミルキー缶を出した。缶の蓋をあけて、和成が差し出した手に載せたのはサクマの「れもんこりっと」というキャンディだった。

「なんだあ、初めて見るなこれは」

「レモンの味だよ」

嬉しそうに笑う里穂の顔が可愛いと和成は思った。れもんこりっとは、包み紙にレモンのイラストが描いてあり、三角で口に入れるとレモンとミルクの味がした。

「いちごみるくの親戚。いちごみるくはちょっと甘いからね…」

「こんなの売ってるんだ。ほんとに掛川さんて飴マニアだな」

「だからぁ、飴って言わないの~~~」

「飴じゃん。買ってハズしたやつとかってあるの?」

里穂は首を捻ってしばらく考えていたが、やがて手を打った。

「大玉キャンディは危険だな。おいしいんだけどね、口がふさがるし、水分が奪われる。危険」

「なんだそりゃ。飴だろうが」

「昔、いとこのお兄ちゃんが、確か5歳の時だって言ってたけど、大玉キャンディがのどに詰まって救急車呼ばれたんだってさ」

「うえっ!飴のくせに凶器かよ」

「小さい子にはままあるらしい。って、なんの話してるんだ私は」

「大玉は危険なわけだな」

肩を震わせている和成に、里穂は「そんなにおかしいか」という顔をした。なんということもない他愛のない話が気楽だった。和成と話をしている時だけは、上手く弾けない課題曲のことや、試験のことや、本当に音大に受かるのかとか受かってからどうしたいのかなど、考えることから逃れられた。文化祭が終わってしまうことがこれほど名残惜しいのは、今年が初めてだと里穂は感じた。

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