絡み合う音たち、交錯する想い
佐々倉昭菜のリサイタル当日、里穂は昼間に用事があるということで、ターミナル駅の改札口で夕方の待ち合わせになった。
早めについた和成は柱にもたれて待っていたが、改札口から出てきた相手を見て驚いた。
髪をゆるやかに巻き、両サイドはたぶんピンか何かで止めている。形の良い耳が見えた。いつもと同じなのは、細いチタンフレームの眼鏡だけだ。
水色の、ふんわりとスカートが広がったワンピースに、たぶん冷房対策のための白いカーディガンを羽織っている。素足にサンダル、籐かごの手提げバッグを下げ、楽器店の紙袋を下げていた。咄嗟に和成は、自分の服装はNGではなかったかどうか心配になってきた。
(Tシャツじゃいくら何でも…だから、シャツにしてきたんだけどな。ジャケットとか着たほうが良かったか?でもそんなん持ってねえし。ネクタイしてきたから許してもらおうか。ジャージもやめてチノパンに革靴にしてきたから大丈夫だろう、多分)
やわらかい表情でこちらを見つけてほほ笑む里穂の表情に、どきん、と、心臓が高鳴った。
(ただの、同級生なのに)
和成は心臓の高鳴りが相手に聞こえてしまわないかと心配した。
(なぜこんなに胸がしめつけられるんだ)
今までに経験したことがない胸の痛みだった。
そんな和成の様子に気づく様子もなく、里穂はカラビナホールに向かう地下鉄の駅のほうへ向かって歩いて行った。ヒールがあるサンダルで、荷物を持っているのに早足の里穂に、和成は追いつくのがやっとだった。初めての場所は慣れない。普段通学で乗っている電車の駅とは違う風景に、和成はくらくらした。それはきっと、暑いからだ、そうに違いない、と、和成は何度も心に言い聞かせていた。
時々翻るワンピースの裾から、白い素足が見える。
その肌の白さに、妄想を掻き立てられながらそれを打ち消しつつ、和成は里穂を追った。突然里穂が振り向き、もう少しでぶつかりそうになって和成は足を止めた。
「ついた!ここだよ、カラビナホール」
里穂の笑顔が眩しかった。
クラシックのコンサートが数多く開かれるカラビナホールでは、多くの催しが開かれているらしい。こういうところに縁がなかった和成は、たくさんもらったチラシの束を見て目を丸くした。ソロのリサイタル、室内楽、落語や朗読劇まである。
はじめて聴くクラシックのピアノソロの演奏が半分も耳に入らなかった。舞台の上にいる華やかなドレスの「天才少女」よりも、自分の隣に腰かけている、髪の長い女の子のことがずっと気になっていたからだ。それでも話を合わせようとして聴いた曲の中で一番印象に残ったのは、カプースチンというはじめて耳にする変な名前の作曲家の、「8つの演奏会用エチュード」という曲集の中の「プレリュード」という曲だった。ジャズかクラシックかよくわからないが、気分が高揚した。
終演後、早く終わったし小腹がすいたので何か軽く食べていこうと里穂は声をかけてきた。コンサートホールも、クラシックのコンサートも里穂の独壇場だった。
言葉をはさむ間もないまま、気づいたら和成はカラビナホールから最寄り駅の近くのサンドイッチハウスでローストビーフのサンドイッチとアイスコーヒーを頼んでいた。
ツナトマトと卵サンドをほおばり、笑顔を見せ、他愛のない話をし、アイスティーのストローをかき混ぜる目の前の女の子の姿を見て、なんだか幸せな気持ちになった。
「うまそうだな」
「1つ交換する?」
そこで、遠慮なく和成は里穂の皿からプチトマトとツナと卵焼きのサンドイッチをつまみ上げ、里穂は和成の皿からローストビーフサンドを取った。
「うまいな。卵焼きが分厚い」
「ローストビーフも美味しい。これ、私まだ頼んだことなかったんだよね。レタスとの組み合わせが絶品」
和成は、この店にはよく来るのかと尋ねた。高校生のお小遣いで毎週通うような店ではない。
「まさか。1年にそうだなぁ、行ってもせいぜい2回くらいだよ。去年の4月のコンサート以来久しぶり」
「サンドイッチがこんなにうまいとは」
「なんでも美味しいんだよね。といっても、レギュラーメニューだけで30種類もあるでしょ?全然制覇できてないけど」
「このカリカリポテトもうまい」
「人気なんだよ」
「アイスコーヒーもいい感じに苦みがあっていいな」
「進藤くん、食レポみたい」
二人は顔を見合わせて笑った。気分がよかった。サンドイッチも、アイスコーヒーもおいしかったし、里穂と話すのは楽しかった。
「ああ、面白い!久しぶりにこんな、笑ったよ」
「俺もだ。このところ塾とか、大学見学とか頭が痛いことばかりだったから」
「無理やり誘っちゃったけど、どうだった?」
「よかった。知らない世界を見られた」
里穂も笑顔で機嫌がよかった。普段の生活の場ではない場所で、夜のまだそれほど遅くない時間に和成と二人でいるということが少しだけ嬉しかった。
(今日の進藤くん、かっこいいな…。普段着じゃない、水色のボタンダウンシャツに、ネクタイなんかして。精いっぱい、おしゃれしてきたんだろうな…。チノパンに革靴が似合う…なんか嬉しい)
里穂は気づいていなかった。偶然だが、二人の服のトーンが似ていたことに。
帰りは二人で、電車にまた乗った。
(進藤くんの横顔が近い)
電車で並んで席に座りながら、里穂は心がざわめいた。自分のほうがクラシックコンサートに行くのに慣れているから誘導したというのもあるが、ずっと和成の横顔を見つめているとドキドキして顔が紅潮するのを見られたくないのもあった。
(進藤君って、こんなにかっこよかったんだ…ドキドキする)
なぜか顔が火照るのを、和成に悟られたくないと思った。心臓の鼓動が聞こえるかもしれない、と、思わず体を固くした。話し声を聞いていると心地よかった。
(いい声だ…私の好み)
ふと顔を上げると、和成と目が合った。知らず知らずのうちに微笑みが出た。
(進藤くんといるとすごく楽しいけど、時々切なくなるのはなんでだろう)
よくわからない感情に、里穂はどうしたらいいかわからなかった。
二人は気づかないうちに手をつないで歩いていた。1本ずつ指を絡める、「恋人つなぎ」という形だったが、二人とも全く意識をせず自然にそうなった。
(掛川さんの手が冷たい)
日が暮れてもまだ暑さが残る夏の夕暮れに、ひんやりとした里穂の手が心地よかった。可憐な里穂の姿。ワンピースの裾を翻して先頭に立って歩く姿。他愛のないおしゃべり。
(なんだ…胸が、熱い。苦しい。俺は一体…)
いつもの乗車駅で里穂と別れてからも、和成は余韻に身を浸していた。その感情がどこから来るのか、和成にはわからなかった。
ピアノのリサイタルに付き合った8月上旬の次に、和成と里穂が学校ですれ違ったのは下旬の登校日だった。
渡り廊下で突然紙つぶてを投げてきた里穂に驚いたが、それは折りたたんだメモだった。
「いつもの時間にいつもの場所で
ヒント 夜じゃない」
謎のメモで和成は理解した。授業が終わった後、彼がまっすぐ向かったのは、人気のない第二音楽室だった
果たして、里穂はそこにいた。
「カプースチンの8つの演奏会用エチュードが入ってるCD持ってきた」
「わざわざすまんな。こっちはクイーンのCDを持ってきた」
二人はお互いのCDを交換した。
里穂はこっそりクイーンの曲を耳コピしたと言って和成を驚かせた。里穂は、造作もないと謙遜した。聞くと、音大の受験には聴音といって、先生が弾いた曲などを聞いて楽譜に直すという試験があるのだそうだ。里穂は耳がよく、この聴音は毎回ほぼ満点なのだという。
「なんだっけ、ういー、あー、ざ、ちゃんぴょーんってやつ」
里穂はピアノの前に向かって、弾き始めた。左手は自分で勝手に考えたらしく、バラードがきれいに響いた。
「すごいな」
「原曲とは違うけど、ピアノの音を生かしたいから少し変えた。たぶんフレディも許してくれるでしょ」
この人は本当に演奏者なんだ、と、和成は思った。暗い目をして地面を蹴っていた里穂。バッハに悪戦苦闘する里穂。そして、生き生きとピアノを鳴らす里穂。どれが本当の彼女なんだろう。いや、どれも本当なのだろう。
「進藤くん、歌える?」
「何を?」
「believe」
「俺男子パートだけれども。弾けるのか?」
「たぶん。小学校の時、卒業生を送る会の伴奏の控えだったの。覚えてると思う」
そして、楽譜も出さずにいきなり里穂は、前奏を弾き始めた。一体彼女の頭の中はどうなっているのかと思いながらも、伴奏が聞こえてくると自動的に和成も歌う。小学校は違うが、彼も6年生の音楽集会でbelieveを歌っていたからだ。この曲はよく知っている。
歌詞を思い出しながら、知らず知らずのうちに和成は本気で歌っていた。
「いい声じゃん。合唱部、助っ人スカウトすればよかった」
拍手をしながら、里穂がニコニコ笑った。
「気持ちよかった。久しぶりだ、こんな真剣に歌ったの」
「進藤くんがこんなに歌えることを知ってたら、去年のNコンの時スカウトしてたよ。男子が足りなくて、混声合唱はあきらめたんだ。惜しかったな」
「俺で役立つ?」
「うん。ご存じないかもしれないけど、うちの合唱部、男子もいるんだ。ただ、去年は1,2年生合わせて男子4人だから女子とのバランスが悪くてね。進藤くん、文化祭のステージ発表なんて見てこなかったでしょう。少人数のアカペラとかもやったんだよ」
運動部の自分は1年生も2年生も、模擬店を冷やかしにいったり、クラス発表の準備をしたりして、ステージを見に行くなんてことは思いつきもしなかった。ステージで合唱部や軽音部や演劇部、有志のバンド演奏などがあるということは勿論、学校祭のしおりにも書いてあるからなんとなく知ってはいた。だが、自分の知り合いが出るとか、特に誘われるわけではない場合は余程関心がなければステージ発表には思いを寄せない。当然体育館へ出向くこともなかった。そんな話をぽつりぽつりと和成がすると、運動部の人間ならそんなもんだと里穂が答えた。
「なんか俺、2年間勿体なかったな」
「え?」
楽譜をごそごそと探していた里穂は、和成のつぶやきにふと顔を上げた。
「何か言った?」
「もっと早く、掛川さんと喋ってたら…今とはずいぶん違う景色が見られたのかもしれない、そんな風に思ってな」
「ふふ」
和成の言葉に、里穂は微笑んだ。
「もうちょっと文化祭が充実したかもしれん」
「ああ、それは私も同じ…体育祭、ほんっとにつまんなかったんだ。まあそんなに運動で見せ場もないんだけどさ、2年連続綱引きで」
うーん、と、和成は唸った。リレーなどはやはり運動部の人間が目立つところを持っていく。その他大勢は綱引きや玉入れなど、小学校とさほど変わらない競技にしか結局参加できない。学年競技はマスゲームやダンスなどあるが、正直やっていて面白いのかと言われたら和成も答えられない。
「でもさ」
里穂は笑顔を見せた。
「今年は違うかな。少なくとも、進藤くんを応援するって楽しみがある」
「俺?!クラス違うけど」
「聞いたよ、学年対抗駅伝の選手じゃん」
情報を遮断していると言っていた割には、耳が早いと和成は思った。学年対抗駅伝の選手決めは、7月終わりの登校日に選出があり、正式発表は9月の始業式のはずだった。和成は頭を掻いた。
「まいったな…何で知ってるの」
「私、1組の学校祭運営委員なんですけど」
「知らなかった…だけど予想外だな。掛川さんそういうの避けるタイプじゃなかったっけ?」
「避けてたというより、去年迄は合唱部だからやらなかっただけだよ。最後の年だしさ、くじ引きで決まって、1回くらいいいかなって」
「どういう風の吹き回しだ」
「思い出づくりよ、思い出づくり。もっとも、去年迄だったら絶対考えなかった。今年の1組は私にとってすごく居心地がいい。女子が多いけど、落ち着いてる子が多くて余計な干渉もしてこないし。音大受けるんだって言ったら、へー、そうなんだねくらいの反応。美大志望の子も2人いるし、変なクラスだよ、1組って」
「だな」
女子が多いと妙な足の引っ張り合いがあるらしいという話を聞いたことがあるが、その点1組の女子は、理系クラスの7組と近いものがあった。最近里穂の顔が穏やかなのは、クラスに馴染んでいるからだろうと和成は考えた。
「学年対抗駅伝の選手だから、私は進藤くんを心おきなく応援できる。それがなんか嬉しくてさ」
「やべえな、こりゃがんばんねえと。かっこいいとこ、見せてやるよ」
「ふふふ」
里穂は笑顔を見せた。(そうそう、この顔が見たかったんだ)
「私、練習30分くらいしてくけどこれからどうする?」
「30分か…いいぜ、待つ」
「え?!」
和成はニヤリと里穂を見て笑った。
「掛川さんと喋りたりない気がするんだ。俺のことは気にしないでどうぞ練習してください、お嬢様」
「なんだよそれ…」
言いながら、里穂も笑った。
結局その日は、二人でターミナル駅のファストフードに入った。知っている人間に全く出くわさないのがおかしいほど、誰とも会わず、二人は心おきなく大したこともない話をずっとしていた。コンサートの日のようなドキドキする胸の高まりは感じなかった。むしろ、ずっと昔からこうやって他愛のない話をすることができる友人だったような気がした。
和成が、母親が「ロングバケーション」の録画を何度も見直していて、息子にピアノを習わせなかったのを後悔しているという話をすると、里穂は笑い転げた。
「え、進藤くんのお母さんってキムタクファン?」
「いや、むしろ山口智子のファン」
「じゃあ、ひょっとしてあれも見てる?”王様のレストラン”」
「ああ、録画までして見てた」
「いい趣味してるね、進藤くんのお母さん。…進藤くんはドラマとか見る?」
「あんま、見ないけど…”古畑任三郎”は面白かったな」
「私も見てた。面白いよね」
趣味が似ていることに、里穂は喜んだ。こんなふうに、夏休みは終わった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます