真夏の夜の集い
やっと二人が夜に会えたのは、7月の終わりだった。
和成は学校で進学補習を受け、部活をやっていた頃と同じように毎日学校に行っていた。対して里穂はピアノの練習を自宅だけでなく、同じ門下の先輩のところの練習室を借りても練習していた。先輩といってもすでに卒業している人で、親子で音楽教室をやっている人なのでグランドピアノのある練習室を持っていた。自宅のアップライトでは譜面台の位置が違ってやりにくい。お互いにすれ違いの日々を過ごした。
なまぬるい風が吹く、蒸し暑い7月末の週末だった。お祭りで遅くまでにぎわう円明公園ではなく、線路南の諏訪公園に行く商店街を歩いていた和成は、駅の駐輪場で放置自転車を蹴飛ばしながら歩いている里穂を見かけた。
「だいぶんやさぐれてるな」
「むしゃくしゃしてんの」
「なんで自転車を蹴飛ばしながら歩いてるんだ?」
「邪魔だから」
「寄せればいいだろう」
「どうせ全部放置自転車じゃん。誰も取りに来ない」
そういう問題かよと和成はあきれた。放置自転車もそのうち、撤去されて市の預かり所に移動する。それでも取りに来ない自転車がどうなるかは里穂にもわからないそうだ。
「それにしても久しぶりね」
この日の里穂は紫のギンガムチェックのサッカー地の半そでシャツを着て、色あせたストレートジーンズに黒いスニーカーという姿だった。Tシャツにジャージの和成は、首から下げたアディダスのタオルでおでこの汗を拭いた。蒸し暑い夏の夜だ。
「ああ、そうだね」
「進学補習はどうだった?」
「最後に模試みたいなプリントをやって自己採点した。文系は1組と2組の希望者らしい。理系は7組と8組。知ってる女子は福岡さんだけだな。弁当の唐揚げをくれたからお礼にこんにゃくゼリーのブドウ味を返した。自分で弁当作ってるって言ってたけど、あの人料理上手いね」
「なんだか、お母さんが料理が下手で味音痴だから小学生の時からやってるらしいよ。おばあちゃんに教えてもらったから、今どきなものは作れないって言ってたけど」
「そうかぁ。そうそう、古文は竹内先生だったけど、1組のやつが言うだけのことはある。わかりやすい。理系クラスも古山から変わってほしいとさえ思ったね」
「古山先生って1年の時国語の授業受けたけど、何言ってるかわからないってみんな言ってたよ。私もわからなかった。よく国語教師ができるって感心した」
「ところで掛川さんは、講習会はどうだった?」
「こっわい男の先生が担当だった。黒沢先生っていう名前で、俳優の…誰だっけ?あ、役所広司か、あの人をもうちょっと神経質にした感じ。その先生に来月からみてもらうことになった」
「昼とかどうしてたの?葉里音大のあたりって飯食うとこなさそう」
「1日目はお弁当作っていった。2日目は午後だけだったし、3日目はめんどくさいからサンドイッチ買って行っちゃった。こっちは知ってる人誰もいないから一人でご飯だったしね」
お互いの近況報告をしながら歩き、二人は諏訪公園にやってきた。
「懐かしいな」
「来たことある?学区違うけど」
「小学校の時、諏訪公園の近くの習字教室に通ってた。先生がおじいさんで、私は2年生と3年生の時に習ったんだけどピアノが忙しくなってやめちゃった」
里穂はブランコに腰を下ろした。諏訪公園は遊具が点々としている小さな公園だ。習字を習わなかったせいか、字を書くことに全く自信がない和成は、少しだけうらやましかった。里穂は肩掛け鞄からポップキャンディを2本出し、和成は黄色を選んだ。レモン味だ。里穂はガリガリとメロン味の緑色のポップキャンディの端をかじった。
「いろいろ習ってたんだな」
「一応ね。進藤くんは?」
「いや、そのころは母親はまだ、近所のクリニックのパート看護師だったから時間に余裕があった。俺はめんどくさがり屋で習い事に行くより遊んでいたかったし、弟は人見知りだからマイペースにできる公文と水泳だけだったな。ああ、水泳は習った。顔もつけられなかったから、ちょっとだけ。俺、こう見えてカナヅチなんだ」
里穂はくすくすと笑った。身長が高く,程よく筋肉がついており、中学からバスケットボールをやっている和成が泳げないカナヅチだとは、にわかに信じがたかった。が、あんまり楽しくない習字教室で知らない子ばかりでつまらなくて、ピアノの練習を言い訳にやめてしまった自分と、バタ足に毛が生えたくらいしか泳げないままやめた和成は結局同じなんだなと不思議な気持ちにもなった。
諏訪公園は大型マンションの向かい側にあった。昔はなかったマンションに里穂は驚いた。幸い、公園はマンションの玄関口の側なので、誰かに見とがめられることもない。ふたりはベンチに座った。
「蒸し暑いな」
「うん」
自販機で買ったコーラは汗をかいていた。里穂は肩掛け鞄からハンカチを出して額の汗をぬぐった。
「なーんかさ、進藤くんとしゃべりたかったんだ、私」
「奇遇だな。俺も掛川さんとしゃべりたいと思っていた」
「じゃあ、会えてよかったんだね」
「そうなるな」
二人は他愛のない話をした。里穂はたびたび見る和成の私服のTシャツが全部ロックバンドのものだということが分かっておかしくなった。和成には大学生の従兄がおり、バンドを組んでいるがライブにも良くいっている。この日のTシャツはハードロックカフェ東京のロゴが入っていた。
里穂は、和成はどんな音楽を聴くのか尋ねた。和成は考えこんだのちに、ロックはよく聞くと答えた。いくつかのバンドの名前を出されて、里穂が分かるのはクイーンくらいだった。今度CDを貸すという和成に、里穂はうなずいた。クラシックは好きだが、違うものもたまには聴いてみたい。だが何を聴いたらいいのかわからなかったからだ。里穂は、以前も和成に見せたことがある、佐々倉昭菜のリサイタルのチラシを渡した。
「一緒に行く予定になっていた子が都合が悪くなって、チケットが余った」
夏休み中とはいえ、8月の平日の夕方なので、親は一緒に行かないそうだ。これは一緒に行けということだろうかと和成は思った。里穂のもやもやの原因(の1つ)である、天才ピアニスト少女のリサイタル。だが、誘われたわけでもないのに行く気になるほど、和成はクラシックのことも、ピアノのことも知らなかった。
「もし時間があれば付き合ってほしい」
なんと、里穂は自分を誘ってきた。和成は驚いた。
「いいのか、俺で」
「他にあいている人がいない。もし暇だったらでいい」
「8月5日か。時間は空いている。だがどうやって行くんだ?」
和成はクラシックの演奏会が多く開かれているカラビナホールの場所も行き方も知らなかった。私鉄の駅から都心のターミナル駅に出て、地下鉄に乗り換えるのだといわれて納得した。
「ところで知ってる曲ってあった?このプログラムで」
「英雄ポロネーズってやつは知ってる。諏訪西小の掃除の時間の曲だ」
里穂は微妙な表情をした。呆れられたか、と、和成は思った。
「なぜその曲を掃除のときにかけるし」
「諏訪西小の謎その1だな。ちなみに下校の音楽は宇宙戦艦ヤマトだった。謎すぎるだろ」
「謎だわ。まあいいや、1曲知ってるのがあればなんとかなるでしょ」
「何なの、その“なんとかなる”って」
「クラシックは予備知識がないまま楽しめるかどうかわかんないから」
そっぽを向いた里穂に、和成は複雑な気持ちになった。自分が本当に一緒に行っていいのか、疑わしくなった。確認しようとしたらたぶん里穂は怒るから、おとなしく言うことを聞いていようと和成は思った。
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