ユメノカケラ(2)
その日の夜。
円明公園に里穂はやってきた。ついうっかり第二音楽室であんな約束をしたものの、和成が本当に来るわけないと思っていた。ただ自分が悪い子になったみたいに、夜の外出をしたいんだと自分に言い聞かせた。
(私は、全然、いい子じゃない)
たまたま知的好奇心が強かったから、勉強することが苦痛じゃなかった。たくさん勉強して、テストでいい点を取ると周りに褒めてもらえた。でもそれを当たり前のような顔をして話すことはしないほうがいいということを、里穂は小さい頃に学んだ。勉強も。ピアノも。
妹がいたから?
6つ下の妹の瑠璃の顔を思い出した。確かに「お姉ちゃんだから」と言われたことは少なくないが、瑠璃は自分とは性格も違うし、外見も違う。長い髪を切りそろえるだけだった里穂と違い、瑠璃はショートカットだ。瑠璃もピアノを習っていてそこそこに上達したはずだが、中学に入るときに「お姉に追いつける気がしない」と、あっさりやめてしまった。それくらい似ていない姉妹だ。
合唱部に入ったのはなぜかわからない。もっとゆるい部活でもよかった。そう、あれは・・・。
(まみが声かけてくれたからだ)
金沢麻弥耶とは、進藤和成と同様高校三年間で一度も同じクラスにならなかった。
麻弥耶は1年生の時、選択授業がよく重なった。「掛川」と「金沢」で出席順が近かったことで、体育のペアを組んだり、家庭科の調理実習の班が同じだったりして話すことが多かった。そこで、麻弥耶から「合唱部においでよ」と誘われたのだ。何と言って誘われたのか。
(ああ、そうだ。”掛川さん綺麗な声だからさ、メゾに行けるよ”だっけ)
今でこそ「まみ・りほ」と呼び合う仲だが、最初はそういえば敬語だったなと里穂は思い出した。
麻弥耶の美しいソプラノの声、堂々とした指揮っぷりに、里穂は少し嫉妬した。自分は声量がなく、合唱はできるが声楽は無理だ。麻弥耶はその点、向いている。どうして自分は声が出ないんだろうと思ったことも何度もあった。
合唱部ではピアノを習っていることを告げたのは麻弥耶以外には伴奏ピアノをしていた松代あゆみだけだった。あゆみに伴奏について尋ねられた時には、
「習い事でやってるから、あえて歌うほうをやりたい」
という理由を告げた。
結局、紆余曲折あって里穂は音大を受けることを密かに決めたが、その決断には少なからず麻弥耶の存在と合唱部が関わっている、と、里穂は考えていた。
(歌には自信がない。だから、音大を受験したいと思った時、真っ先に小さいころからやってたピアノでって思ったんだ)
そんなことを考えていると、靴音が聞こえた。顔を上げると、長身で筋肉質の進藤和成が近づいてきた。
(本当に来たよ、この人)
里穂は驚いた。Tシャツにストレートのジーンズ、コンバースの黒のバスケットシューズ。いつものジャージじゃないのはなぜだと彼女は思った。
「待たせたか?」
和成は、コンビニの袋を下げていた。里穂の前に立ってみて、彼女が思ったより小柄なのではないかと思った。
(いや、俺がデカいのか)
高校生女子の標準的な身長がどのくらいかはわからないが、自分が180センチで里穂のつむじが見えるということは、おそらく150センチ台だろう。そして、何度か見かけているうちに、なぜ下校後の里穂の髪が波打っているのかもわかるようになった。学校では校則で、肩についた髪は結ぶことになっている。里穂はいつも二つわけの三つ編みを垂らしているから、学校の外で会っても最初はわからなかったのだ。下校後はほどいているらしい。
「そうでもない。本当に来ると思ってなかったし」
「約束は、守る」
だろうな、と、里穂は相手を見上げて思った。言葉だけで調子のいいことを言っているかどうかくらいは見定められる。これでも、人を見る目はあるのだ。進藤和成は、自分が知っている中では比較的変な奴だが、少なくとも誠実さについては信頼するに値するだろうと里穂は考えた。
案外こざっぱりしている和成の私服を見て、里穂は一瞬自分が気張りすぎたかと焦った。
ノーカラーのレースの白いブラウスに、水色のギンガムチェックのサッカー地のフレアスカート。ブラウスは物持ちのいい叔母のお下がりだし、スカートもそうだ。別に新品じゃない、普段着のはずだった。それでも。
(まるで彼氏に見せるみたいな服着てるんじゃん、私)
たかが同じ学校のたまにしゃべる男子に、よく見てもらいたいと見栄を張っているような気分になって里穂は気恥かしかった。
「立ち話もなんだから、座ろ」
そんな気恥かしさを隠すかのように、里穂は和成を追い立てた。その時はじめて、里穂は和成の首から、アディダスの黒いバスタオルが下がっているのが目に入った。
(ちょっとはかっこいいかなと思ったのに、台無しじゃん、進藤くん)
そしてそこが多分、進藤和成の変なところだと里穂は納得した。
一方、和成もジャージではない里穂を見て内心驚いていた。足元は普段のスニーカーなのに、私服がジャージじゃないとこんなに違うのか。
おそらく彼女にとっては、ただの普段着なのだろう。だがジャージか制服姿しか見たことがない和成には眩しい存在に思えた。
そんな、両者のそれぞれの思いは別において、ふたりは空いているベンチに座った。もっとも、円明公園にはベンチがあちこちにある。無人の真夜中ならどこでも座り放題だ。
和成は、コンビニの袋から缶コーヒーを2本取り出した。黒いラベルのブラックと、ずんぐりした白い缶のカフェオレだ。里穂は考え込んだ。缶コーヒーは苦手だ。普通の缶コーヒーは妙な甘味があるし、ブラックはただただ苦い。そして、プルタブをあけた飲み口の金属が口に当たるあの感触が里穂は苦手だった。だが、せっかく買ってきてくれたものに文句を付けるほど、彼女も野暮ではない。選択肢はカフェオレしかなかった。甘いほうがましだ。
「俺の夢はなんなんだろうって、昼に掛川さんから聞かれてからずっと考えていた」
唐突に、和成は話しはじめた。
「答えは、わからん」
そうかもしれない。そんなに、将来の夢がはっきりくっきり見えている高校三年生なんて案外少ないのかもしれないと、里穂は和成の横顔を見ながら考えた。
「進藤くん、8組だよね。国立理系クラス。ああ、理系なんだって思った」
「そうだな。俺は社会はどの分野も壊滅的に苦手だからな。地理だけ多少ましで」
「そうだっけ?」
「必修の世界史は赤点だ」
「やばっ」
和成は苦笑した。あまり褒められた話ではない。
「英語もあんまり得意じゃないけど、国語はましなのが古文しかない。それより地学と物理のほうが点数が取れる。文系科目で点数稼ぎができるほど得意なものはないから、消去法だ」
「そんなんでセンター大丈夫なの?」
「さあな」
具体的にやりたい仕事がなく、行きたい大学も特に決まっていない場合は成績と偏差値で選ぶ。そこには夢も何もない。たいていの緑台高生はそんなものなのだろうか、と、里穂は思った。自分はまだ希望がはっきりしている分やることが決まっていて楽なのかもしれない。
「掛川さんは1組か。国立文系クラス。音大ってとこはどんな試験があるんだ?ピアノ弾くって言ってたけど」
「うん、市芸ならセンターあるよ。公立だし。葉里音大もセンター利用あるから、使えるなら使ったほうがいいって担任に言われた。葉里音大は学科は国語と英語がある。あと小論文」
「げっ、論文か」
「苦手そうだよね、進藤くん」
くっくっと笑う里穂の姿を見て、そういえばこの女は読書感想文コンクールで毎年入賞しているんだということを和成は急に思い出した。
そうだ。彼女は、ほかの文系クラスの女子のようなふわふわ、きゃぴきゃぴしたところがない。国公立や公務員試験を受ける、比較的落ち着いている女子が多い1組にいるのも当然なのかもしれない。女子の交友関係はあまりわからないが、里穂が一緒にいるのは2組にいる合唱部長の金沢麻弥耶か、おそらく帰る方向が同じで仲良くなったであろう、7組の「変わり者」と言われている将棋部部長の福岡友紀子くらいだった。
「そういえば、ゆっちゃんが進藤くんの字がひどくて読めないって言ってた」
「ゆっちゃん」
そう呼ばれても心当たりのある女子はいなかった。
「福岡友紀子ちゃん。7組の。割と仲いい」
「ああ、福岡さん。数2と物理の選択で同じだ。あの子か。女子がなんか変わってるって言ってた。そういえばバス停でよく一緒になる。同じ方向だって言ってた」
「どうせ変わってるって言ってるのって、4組とか5組の女子なんでしょ。将棋部って女子福岡さんだけなんでしょ~、紅一点狙ってるの~意外とあざとい線行くのよね~とか」
里穂は嫌味を含んだ口調で、声色を変えた。よっぽど嫌なのだろう。
「相当嫌なんだな」
「あいつらの脳内、だれとだれがくっついたとか別れたとか、イケてる男子でだれを狙うとかしかないみたいなんだもん。男子だらけの将棋部でゆっちゃんが部長になっただけであざといんですってよ。私は学年内でゆっちゃんが一番段位が高かったからって聞いたけど。別にあの子も「オタサーの姫」気取りなわけじゃないみたいだしさ。私がゆっちゃんと仲良くなったのも、2人ともいわゆる女子なことってあんまり興味ないから。・・・最もこんな格好してる私に言われてもなんの説得力もないか」
「いいじゃん、似合うし、女の子って感じだ」
自然にそんな言葉が出た。里穂は赤くなった。
「ほ、褒めても何も出ない~今日は飴も持ってきてない」
「とにかく、俺の字が汚いのは事実だ。福岡さんには悪いことをした。物理のノート貸したら、メモが挟まって返ってきた。”数式じゃなくて字が読めませんでした”って」
その様子を想像して、里穂は声を上げすに笑った。見たことはないが、あの福岡友紀子がはっきりメモをつけてよこすくらいだから、相当汚い字なのだろうと思った。
「ゆっちゃんも困っただろうな」
「福岡さんから聞いてない?」
「私が進藤くんと同じ中学って、ゆっちゃんは多分知らないと思うよ。あんまり人のこと気にしてない子だから」
だろうなと和成は思った。
「ゆっちゃんの話はともかく、進藤くんは何か好きなことないの?バスケは?」
「好きだけど別に上手いわけじゃねえしな。緑台は強豪校でもなかったし。実業団からスカウトとか、うちの学校でそんな奴いねえよ。
中学の頃はなんにも考えないでバスケをやってて楽しかった。でも、強豪の私立からのスカウトなんか来ないし。すごく行きたかった高校ってなかったんだ」
和成は目を伏せた。そう。自分はいつも、「これが絶対やりたい」ということがうまく見つけられていない。
「バスケのために私立に行くのは、親から止められた。大変だって。部の中でついていくのもそうだし、多分遠征とかお金がかかるのも親としては避けたかったんだろう。弟もいるし。
成績が大丈夫で、バスケ部があるっていうと、島田か緑台か城北工業かってとこだけど、城北工業は割と不便だし、がっつり工業系だからな」
「確か、地下鉄の駅から一時間に2本しかないバスで30分とか?」
「そうそう。まあ部活のためだけに高校に行くわけじゃないんだけど、島高は落ちたしな。緑台は強かったのは15年くらい前で、今は全然だし、引退の時の交流試合も準決勝で負けたし」
少し目を伏せ遠くを見るような様子を見せた和成に、里穂は静かに微笑んだ。
「もやっとしてるんだ」
「そうだな…。スッキリとはいかないだろうな」
「スッキリ、ねえ。私も今年のNコンまで部活にいる予定だったんだけどな、去年の今頃は。今年は男子がいるから混声の方で出られるって話だったし」
「なんだ、掛川さんもスッキリしてないんだ」
「うん…。そっか、ちゃんと引退しても、やっぱりスッキリしないんだね…」
里穂の言葉を聞きながら、和成は遠くを眺めた。缶コーヒーの中身は空になっていた。
円明公園からは、併設の円明浄水場が見える。和成はため息をついた。
「なんでこんな話しちゃったんだろうな」
「進藤くんにも、昇華できてないことがあったってことだよ、それは。そうか、みんなそうなのかもね」
「ああ、俺も気づかなかったな」
そして、まだ「やりたいこと」も、「夢」も、「自分がどうなりたいか」も自分にはない。音大を受けるという「やりたいこと」がある里穂が羨ましいと、和成は思った。
そういうものはどうやったら見つかるんだろう。自分には金輪際そんなものは見つけられないような気がした。それでも、夢のかけらを拾い集められているはずの里穂の表情もスッキリしないところを見ると、悩んでいるのは自分だけではないのかもしれない、と、少しだけ和成は安堵した。
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