ユメノカケラ(1)
次に和成と里穂が言葉を交わしたのは夜ではなかった。
昼食のパンを買いに購買に行った和成は、購買から出てなぜか北校舎に進む里穂を見つけた。緑台高校の女子の夏服は、白のセーラー服の上衣の襟に赤い二本線のライン。スカーフが赤いのは冬服と共通だ。平凡なセーラー服がその赤のラインで可愛らしく見える。その赤いラインの入った白襟と赤いスカーフが風に翻った。
購買は南校舎の1階エントランスにある。わざわざ北校舎に行く理由がないのに、不思議だと和成は思った。
なんとはなしに、気になったのだ。
あとを付けるつもりはなく、ただ彼女がどこへ行くのか、少しだけ気になった。
里穂は北校舎の階段をどんどん昇っていった。
「おいおい、4階かよ」
北校舎の4階は西側から書道室、調理室、被服室、そして東の突き当りに第二音楽室がある。
芸術教科の選択は音楽だったが、3階の第一音楽室にしか入ったことがない和成にとっては、未知の領分だった。里穂は、東の突き当たりの教室へ入っていった。「第二音楽室」と書いてある。ほかの教室のように四角いガラスではなく、長方形のガラスを縦にはめこんだ扉が引き戸になっている。ためらいながら、和成はガラス窓越しに中を覗いてみた。
第二音楽室は机と椅子ではなく、折りたたみ机がついた椅子を使っている。この日はひとクラス分おおよそ30個程度の椅子が並べられており、里穂はピアノに一番近い椅子に荷物をおいて、窓の外を眺めていた。振り向いた里穂と和成は目があった。
「進藤くん?」
里穂が近づいてきて、ドアを開けた。
「何やってんの」
「そっちこそ」
「私はピアノを借りに来ただけ。ついでにお昼ご飯を食べに来た」
「ピアノ?昼ごはん?」
「ああ、もういいから中にはいりなさいよ」
里穂は和成の腕を引っ張り、教室の中に引き込んだ。それから、紙袋とパックジュースを持って窓際の椅子に腰を下ろした。和成も仕方なく近くの椅子に座った。
里穂は、ベーカリーのチェーン店の紙袋からサンドイッチとコーンマヨパンを取り出した。パックジュースは500mlのサンキストオレンジだ。購買に里穂が行っていたのはこれを買うためだった。
里穂は、机に500mlのコーヒー牛乳を置いた和成が茶色い購買の紙袋から焼きそばパンとコロッケドッグとシベリアを取り出したのを見て呆れた。
「それを全部食べる、と」
「食う」
購買のコロッケドッグはコロッケが2つも入っていて、結構おなかに溜まる。里穂はさらに呆れて肩を竦めた。
「信じられない、男子の食欲って。というか進藤君引退してるのにまさか、部活やってた時と同じ量食べてるんじゃないでしょうね。太っちゃうわよ」
「いや、もともと食うほう。俺の弟中2だけど、俺より小柄でもっと食うぜ」
里穂は呆れた。
「進藤君の弟って」
「水泳部」
「相撲部じゃなくて?」
「それはやってねえ」
なぜ自分の弟が相撲部なんだと里穂に尋ねると、里穂は「そんな気がした」と言って笑った。
「それ、なんでシベリアっていうんだろう」
「さあ。なんでかね」
「カステラと羊羹だし。進藤くんシベリア好きなの?」
「いや、そんなに好んでは・・・。なんとなく懐かしくてな」
それからふたりは無言で、向かい合ってパンを食べ続けた。不思議な時間だった。
「進藤くんって、いつもパン?」
「いや、母親が夜勤の時だけ。うちの母親、看護師なんで」
「そうなんだ。立派な仕事だね。私はいつもはお弁当。今日は妹が朝練で早弁用のご飯もってっちゃったから」
「妹?何年生?」
「2年生。弟さん水泳部なら知ってるかも。妹も水泳部だから。瑠璃って名前」
聞いておこう、と和成は言った。それで初めて、里穂にも妹がいて、自分の弟の一学年下で同じ水泳部なのだと言うことがわかった。里穂が和成の弟の名前を尋ね、和成は「コースケ」と答えた。里穂は妹に聞いておくと言った。
「いつもここで?クラスでは食べないんだ?」
「最近はずっとここかな」
そういえば、里穂はピアノを借りに来たといっていた。パンを食べ終え、ウエットティッシュで手をぬぐった里穂はピアノの方に向かった。
「うるさくしたらごめんね。今から練習、今日は20分しか弾けないから」
青い色の紙の表紙の楽譜を開いて、里穂はピアノ椅子に腰掛け、背筋を伸ばしてピアノを弾き始めた。和成が知らない曲だった。というよりも、和成はピアノの曲についての知識がないので、何を弾いているのかはまるでわからない。ただ、随分端正な印象の曲だなぁと感じた。
里穂は、今弾いているのはバッハの平均律の4番だと言った。平均律というのはなんのことか和成には分からないが、その平均律の4番にはプレリュードとフーガという2つの曲があるのだという。かなりうまいと和成には思えたが、里穂はまだまだ全然できていないと肩を落とした。
右手。左手。両手。最初から。途中から。最後のところだけ。繰り返し。戻って。根気よく何度も同じところを繰り返す。最後にプレリュードだけを通し演奏して、里穂は息を吐いた。
「やっぱ、ダメだなぁ」
「そうなのか?」
「うん。これは課題曲だけど、全然できてない」
「課題曲?」
あ、そっか、と、里穂はつぶやいた。
「あんまり言ってないんだけど、私、葉里音大か市芸を受けようと思ってるの」
音大志望か。合唱部に所属しているなら、声楽か何かだろうかと和成は思った。だが、里穂の言葉は思いがけないものだった。
「ピアノ専攻科だから、部活推薦は使えない。だから早々に引退したの。その時、まみと言い合いみたいになっちゃって」
「じゃあ、金沢と不仲ってのは」
「多分、後輩か誰かが見て勘違いしたんだよ。前にも言ったけど、私はまみがいてくれてよかったって思ってるんだ。合唱部に入ってなかったら引きこもってたよ」
話す友達がほとんどいない里穂が話せる、数少ない友人ということだろうか。自分もそのうちの1人なのだろうかと和成は思った。
「まみは音楽教育科志望だって言ってたから、部活推薦が取れそうで続けてる。ま、部長だしね、あの子は…。多分Nコン、今年も地区大会くらいまでは上がれるでしょう。でも私はピアノ専攻にした時点で課題曲がギリギリだとついてる先生に言われて。だから退部したんだ。実質引退だけど、ね。
まみは反対したんじゃなくて、寂しがってた。第二音楽室を使えるようにかけあってくれたのもまみだった。だから、あの子のためにも、受からなきゃって思ってる」
「そうなのか。俺はそういうの、考えたこともなかったな」
「ねえ進藤くん」
里穂は和成のほうに向き直った。
「進藤くんの夢は何?好きなことは?次は、進藤くんの話を聞きたい」
和成は考えた。自分は里穂のように自分のことを話せるか。いや、彼女も自分だから話してくれたのかもしれないが。
「それなら、夜か」
「今晩は、出られる」
「じゃあ、円明公園で」
「零時くらい?」
「ああ」
楽譜を抱えた里穂は、和成に近づき、下から覗き込むようにした。
「ぞくぞくする。夜中に外に出て男の子と会うなんて、なんか悪い子みたい」
いたずらっぽく笑う里穂に、和成もつられて何かを企むような笑みを浮かべた。
「悪い子だな、掛川さんは」
「悪い子みたいなことするの、好き」
「俺もぞくぞくする」
そして、二人で顔を合わせて笑った。
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