君は、友達
そんな風なので、和成は赤いラインが入っている白いセーラー服の襟と同色の赤いスカーフリボンを翻して階段を昇る里穂をたまに遠くで眺めるだけで満足していた。昼休みはなんとなく教室じゃなくてどこかに行っているのではと予想できたが、あえてそれを尋ねることもしなかった。
次に和成が夜のランニングというか散歩に出かけたのは、期末テスト1週間前に入ったある夜だった。梅雨に入り、湿った空気が部屋に充満して蒸す。リビングを覗くと、珍しく母が起きてビデオを見ていた。
「あれ、オヤジは」
「お父さんなら寝たわよ。明日早いからって」
「出張だっけ。どこだった」
「仙台」
和成の母は画面を見てため息をついた。
「はああああ~、うちの息子たちもピアノ習わせておいたほうがよかったかしら~」
画面に大写しになっている、ピアノを弾いている木村拓哉の顔を見て、和成は呆れた。
「無理無理。柄じゃねえしすぐやめてた、きっと」
「だよねぇ」
母はテーブルに突っ伏した。
「ああああ~、うちの息子はキムタクじゃないのかぁ」
和成は呆れて玄関に向かった。
「なに、和。こんな時間に出かけるの」
「暑いんだよ。アイスかなんか買ってくる」
「こんな時間にどこも開いてないでしょ」
「ローソンだったらあるでしょ。走りがてら行ってくるわ」
「言ってくれれば買い置きしておいたわよ、アイスくらい」
「しょうがねえじゃん。先週はまだ夜は寒くて、アイスって気分じゃなかったんだから。頭が疲れたから行ってくるわ。持って帰ると溶けるから食いながら帰る」
母は、ハイハイと気のない返事をした。画面の中の木村拓哉と山口智子のほうが気になるのだろう。「あんまり遅くならないように」という声を背中に聞きながら、和成は玄関を出た。そして、そういえば、掛川里穂はなんと言って家を出ていているのだろうとふと思った。
里穂に会える、とは思っていなかった。
約束をしたわけでもない。
彼女に会うのが目的でもなかった。ただ、大量に出た英語の宿題に煮詰まって、気分転換をしたいだけだ、そう、和成は自分に言い聞かせた。ただ、外に出たかった。もちろん、暑いから冷たいものが食べたいというのも本能的な理由だった。
前に里穂を見かけた、駅前の駐輪場には彼女の姿はなかった。いつも同じ場所にいるわけではないのだろう。南口のロータリーのタクシー乗り場を超え、大通りに出て、円明公園の近くのコンビニに向かった。そこしか開いていないのだ。
コンビニでは30円のソーダアイスと、500ミリリットルペットボトルのコーラを2本、ポテトチップスの袋を買った。和成がコンビニを出てくると、見たことがある長い髪の少女を見つけた。
(・・・いた)
うつむきながら歩いていた少女は、顔を上げて和成の方を見ると、驚いたのか口が0の形になった。
「しんどう、くん?」
どういう顔をしたらいいかわからない複雑な表情で、和成は右手を上げてコンビニの袋を持ち上げた。
「よう」
水色のスヌーピーのプリントがでかでかと印刷された半そでパーカーにデニムのショートパンツ、学校用ではない黒のスニーカーの里穂は長い髪を一つに束ねていて、いつもの学校で見る彼女とも、以前会ったときとも違って見えた。
二人は黙って肩を並べて、円明公園の入り口まで歩いた。口火を切ったのは和成の方だった。
「暑いな、今日」
里穂は面白くもないという表情で頷いた。「そうだね」
「アイス買ったんだけど、家まで持って帰ったら溶けるから食べようと思って。よかったら」
和成が袋から出したのは、棒が2本ついて真ん中で割れるタイプのソーダアイスだった。
「いいの、もらっても」
「この間飴もらったから、そのお礼かな」
袋から出して半分に割ったアイスの棒を、里穂は素直に受け取った。二人は、円明公園のいくつもあるベンチに並んで腰を下ろした。
それからは二人とも、無言でアイスを食べ続けた。
「あーつめたい」
無邪気にアイスの冷たさを堪能している里穂を見て、和成も愉快な気持ちになった。
「そういう顔、もっと学校で出せばいいのに」
声をかけると、里穂は固まった。
「出す必然性がないんだよ。学校は楽しいか楽しくないかと言われたら、楽しくはないからね」
「俺は楽しいかどうか考えたことすらなかったな」
「まあ、進藤くんならそうだろうよ」
アイスを食べ終わった里穂は、くくくっと笑った。
「通過点でしょ、進藤くんにとって高校は」
「掛川さんは違うのか?」
「私も似たようなもんだけどさ、多分そこが男子と女子の違いっつーの?わかんないけど、いろいろめんどくさいわけさ、女子同士ってさ」
里穂は、アイスの棒を振り回した。まるで指揮者のように。めんどくさいのは里穂なのか、里穂の周りの女子たちなのか、「男子」である和成には、女子同士のめんどくさい関係や、里穂の立ち位置などはわからなかった。が、なんとなく今夜は彼女が、そのあたりを自分に話したいのではないか、そんな気がした。
「前に言ったよね。私は優等生なんかじゃないんだって。あれさ…。今まで結構嫌な思いしてるんだ、進藤くんは知らないかもしれないけど。
いるじゃん、女子の顔に点数つけて自慢げなバカ。あたし、すれ違いざまにブスって言われたんだからね。そんな通りすがりにカッターナイフで切りつけられるようなことをずっとされてきてみ?ひねくれないわけがない」
「そんな…誰だよそんなひでえこと言うやつ」
「さあ。いちいち覚えてない。ちょっと勉強できるからっていい気になってるとか、ピアノが弾けることを鼻にかけるなとも言われたわね。だから…伴奏って嫌いだった」
和成は中学時代の里穂を思い出せなかったが、そういえば1度だけ、合唱コンクールの伴奏をやるやらないでもめていた話を聞いたことがあった。話を聞いたのは、3年生のときだ。
そうだ。なぜ里穂は1度だけ、伴奏を引き受けたのだろうか。
「進藤くんは、私の伴奏よかったって言ってくれたよね。もう卒業して随分になるけど、正直嬉しかった。でもね、本当はやらないつもりだったの、あの時」
「その話、今したい?」
里穂は頷いた。聞きたいような、聞きたくないような気がした。
「話すなら、今だっていう気がする。それに、聞いてくれるのが進藤くんなら、話せそうな気がする」
「聞かせてくれ」
「わかった」
里穂は、大きく息を吸ってから話し始めた。
小さい頃からずっとピアノを習っていた。自分では感じないが、どうやら人より上手いらしいことも、それを前面に出すとトラブルがありそうなことも、小学校4年生頃からうっすらとわかっていた。うまいといっても、地元のコンクールで入賞するくらいで、全国レベルで見たらまだまだの腕前だ。それでも、里穂本人がそう思っていなくても、周りが勝手にいろいろな憶測を交えて彼女を評してきた。
最初に伴奏でもめたのは中1のときだ。
里穂の出身小学校である諏訪北小は、中学とは真逆の小さな小学校で、里穂の学年は2クラスしかなく、必然的にピアノを習っている6年生は行事で伴奏をすることになっていた。里穂を含めて3人ピアノを弾く児童がいたが、そのうち1人は私立を受験して地元の中学には進まなかった。そして残った1人は中学に入る時にはピアノをやめていた。やめる理由がなかった里穂は続けていたが、合唱コンクールの伴奏決めで不快な経験をした。
もともと、伴奏をやりたいという気持ちは中学に入る頃には薄れていた。小五の時にやった「6年生を送る会」と、小六の時の全校集会の2回伴奏に当たり、里穂はもうそれで満足しきっていた。だから、担任からクラス伴奏と学年伴奏の二曲分の伴奏譜を渡された時には戸惑った。受ける予定のピアノコンクールの日程に近いため、断ったが断り切れず、オーディションを受けるだけでいいからと、自宅に担任からも音楽の教師からも電話がかかってきて里穂はしぶしぶ伴奏の練習をした。
やりたいと思わない曲の練習は苦痛だった。自分に当たりませんようにと願いながら、オーディション当日に「手を抜いた」つまり、責任を果たしたからと言って伴奏から逃れた、つもりだった。
「私にはコンクールのほうが重要だった。もし予選に通ると、ちょうど合唱コンの頃に地区選考会になるからそっちに力をいれたかったし、別に伴奏は自分じゃなくてもいいしっていう気持ちもあった。そしたらさ、どうなったと思う?」
和成には想像もできなかった。
「オーディションのあとに田中さんから言われた。掛川さんは卑怯だって、本当は弾けるのに手抜きしてるって。やりたい人もいるのに卑怯だ、堂々と戦えって」
「田中って、田中千穂か」
里穂は呆れたようにため息をついた。和成も心当たりがあった。中学時代伴奏の常連だった田中千穂には自分も迷惑をかけられたことがある。苦手なタイプだが多分里穂もそうなんだろう。
「私は別に伴奏をどうしてもやりたかったわけじゃない。伴奏は田中さんでよかった。それに、戦うってなに?音楽はそういうもんじゃない。でも・・・」
「言えなかったんだ」
「言わなかったんだよ。この違いわかる?」
里穂が顔をしかめ、和成は少し考えて頷いた。
「言ったって理解しないよ、”あの田中千穂”だもん。だから伴奏は金輪際やりませんのでってずっと音楽の先生にも言ってあった」
「じゃあ、3年の学年合唱の伴奏は・・・」
里穂は一瞬黙って下を向いた。
「3年で音楽の先生が変わったでしょう。1年の時もめたことが申し送りされてなかったらしい。ピアノが弾ける人リストに私の名前もあったと音楽の先生が言ってた。コンクール受けるからって断ってたのが、中3の時はもう受けないことにしてたから断れなかった」
「なるほどな」
「どんなふうに伝わっているかわからないんだけど、オーディションの当日に土壇場で田中が私は弾きませんって言ったの」
「ほう」
そんなことがあったのかと、和成は思った。
「田中の言い分はさ」
いつの間にか、里穂はまっすぐ和成を見ていた。
「学年伴奏の曲は自分なんかより掛川さんのほうが上手いんだから、1回くらい伴奏やってほしいって。泣きながら土下座されたわよ」
里穂は叫んだ。
「なんでそこで泣くんだよ!!!なんだよ土下座って。私のことさんざん罵っておいて。ブスとかバカとかちょっとピアノ弾けるからって大きな顔するなって!大体田中は成績上位50位ですらないし、バカはお前だろうが。大して上手くもない伴奏にみんな内心イライラしてんの分かってたのかな?目立つことば~っか考えて責任も取らないで、何なの田中って?っていうかなんか私が悪者みたいじゃん…」
大人しそうに見える里穂の口から、次々と罵倒する言葉が発せられた。罵りながら、里穂は泣いていた。言葉に詰まり、肩で息をしている里穂をどう落ち着かせたらいいのかわからず、和成はややぬるくなったコーラのペットボトルを差し出した。
「これ飲んで落ち着け」
目の前の男から差し出されたコーラのペットボトルを見つめ、差し出した男を見つめ、里穂は泣きながら悲鳴をあげた。
「あああああ!!もうやだ!やだやだやだやだやだやだ!!!!」
和成はとりあえず、里穂の両肩に手をおいて、ベンチに座らせた。気づいたら里穂は立ち上がっていたのだった。和成から差し出されたコーラを遠慮なく飲み、小さくげっぷをして里穂は言った。
「ごめんね。私まだ昇華しきれてなかったみたいだ」
「そうみたいだな。そんな荒れてる掛川さんは初めてだ」
「はあー」
里穂はため息をついた
「後で音楽の先生に聞いた話だけど、田中は弾かないと言ったけど本当は『弾けなかった』んだって」
和成は目を見張った。
「どういうことだ」
「あの子、中2の合唱コンのあとピアノやめてて、でも、今までやってたから楽勝って思ったらしいの。だけどさすがに3年生が歌うような曲って伴奏難しくて、結構てこずって…オーディションは最初の3ページまででいいってことだったんだけど、田中は1ページ目までも弾ききれなかったらしい…」
「さすが田中千穂だな。変に自信家のくせにいざとなるとビビりだ。俺は小5の時同じクラスだったんだが、社会見学の発表を自分がやると言い張ったのに、体育館の壇上で震えて一言もしゃべれなかった」
「そうなんだ…でも、進藤君ずいぶん田中のこと悪く言うんだね」
「当たり前だ。一言もしゃべれなかった田中の代役をやったのは俺だからな」
「おっと」
「見たことねえけど、生まれたての小鹿みたいに震えてる田中に”どけ、邪魔”って言って代わりに喋った。田中は俺のこと嫌いだと思うよ。”ちゃんとやれないなら引き受けるなよ、無責任だな”って睨んでやったから。今でも恨んでんじゃねえの」
里穂は、肩を震わせて笑った。
「…言うわね、進藤君ってそういうキャラだったの?」
「俺を毒舌キャラみたいに言うなよ、掛川さん。…自分で言うのもなんだが、俺、女の子には基本的に優しいんだけど」
「ふふ、それはわかるよ。進藤くんって紳士だよね」
和成は、笑いが止まらない里穂を見て、一緒に笑った。
「田中の言ったことは間違いだらけだ」
腰に手を当てて、和成は言った。
「なんなん」
「掛川さんはバカじゃない。バカなら、緑台に受かるわけないだろ」
「そこ?!」
「何しろ、俺を30点も引き離したくらいだからな」
里穂はその言葉に、「あ」と小さくつぶやいた。
「…覚えてたか」
「まさか女子に抜かされるとか、ちょっとした屈辱だったからな。あ、誤解しないで欲しいんだけど、あれでやる気になったんだから、実は感謝してもしきれない」
「そうなんだ。私ね、あの時に初めて進藤くんの名前を知ったの。私もあの時はかなり自信があった。その私の後ろにつけていた男子が、全然知らない名前だったけどずっと気になってた。
進藤くんが私と同じ高校だって知ったのも、高校入ってから。普段いろんな情報を私、遮断するようにしてるからさ。でも、クラスも違うし、部活も違うし、共通の友達もいないのにいきなり喋ったことない女子から絡んでいくのってさ、本人がそのつもりなくても、絶対恋愛要素だって思われるじゃん。女子から告ったとか勝手に噂巻き散らかされるのって好きくない」
(恋愛脳の女子たちに絡まれたらうるさいだろう)
和成は考えた。自分のいる8組は男子クラスなので女子はいないが、それまでのクラスにはそういう「いつも恋愛のことばかり考えている女子」が一定数いた。和成の苦手なタイプで、おそらく里穂も苦手だろう。そういう女子が変に絡んでくるのはうっとおしいと思う。
里穂はもう一度、コーラを飲んだ。和成は声をかけた。
「バカじゃないの理由は、成績のことだけじゃないんだ。俺は掛川さんと話すようになってまだ日が浅いから少ない情報だけど、多分、掛川さんのような人って周りのこといろいろ考えすぎちゃったりするんじゃないかと思うんだ」
コーラを飲んでいた里穂の顔が、だんだん真剣になってきた。和成は続けた。
「買いかぶりすぎって思われるかもしれないけどさ、そんな気がした。
だから、君と話をしてみたくなったんだ。それと」
和成は言葉を切った。
「人をブスとかいう奴は俺は嫌いだ。掛川さんは可愛いよ」
里穂は目を伏せた。しばらく何かを考え込んでいるような様子に、和成は思わず発してしまった言葉を思い出して顔が赤くなった。場合によっては告白っぽい。夜で見えないだけましだった。
やがて、里穂は意を決したように顔をあげた。
「なんかすっきりした。うん。聞いてくれてありがとう」
そして、またコーラを飲んだ。
「話せて、よかった。ごめんね、変な話聞かせて」
「いいんだ」
「コーラも飲んじゃったし」
「それは構わん。もう1本ある」
「お礼というか…。もし、進藤くんが何か困ってたら、私が助けられることがあるなら、言ってほしい。なさそうだけど」
「あるかも」
「その時は、言って」
「そんなことがなくても、また話そう」
「いいの?」
「ああ」
和成は立ち上がった。
「友達と話すのに、理由がいるか?」
にやりと笑った和成に、里穂も笑みを見せた。
和成が帰宅すると、母はまだ「ロングバケーション」の録画を見ていた。しかも同じ回を3回見ているのだと言う。
「母ちゃんそんなにキムタクが好きとは知らなかった」
「だってかっこいいじゃない。山口智子もいいし」
「山口智子は前から好きでしょ。コーラ冷蔵庫に入れるから、コースケに飲むなって言っといて。ポテチは食っていい」
まだビデオ鑑賞が終わらない母を置いて、洗面所で歯を磨いて和成は自分の部屋に入った。ベッドに仰向けに寝ると、先ほどの里穂の声を思い出した。
(掛川さん…里穂ちゃん、か。結構可愛いじゃん)
目は小さいがくりっとしている。口が多少大きいような気もするが、そこはご愛敬だ。そして、今まで全く気にしていなかったが、声も可愛らしい。小柄だし、いつも外ではジャージ姿だからよくわからないが、里穂と同じクラスだった男子が、掛川さんは結構胸があるとか噂していたことを思いだした。ほのかに香るのは、多分使っているシャンプーの香りだろう。女の子はいい匂いがするし、男と違ってきっと触ったら柔らかそうだ。そんなことを一瞬考えたら、顔が赤くなった。
(…気づかなかったのは、俺もか)
その時は、それだけだった。
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