初夏の夜、君と出会った

その機会は突然やってきた。


 中間試験後は母が日勤だったため、和成は夜のランニングはやめていたが、6月に入ってまた夜勤で母が不在の日ができた。

 この日は父がリビングで晩酌をしていた。そう、金曜日だ。翌日は休みだと言いながら、母が作りおいていった夕食では物足りず、ビールと焼き鳥缶をあけて父はご満悦だった。おかげで、和成は父に咎められずに外出することができた。そろそろ暑くなってきたので、首にタオルを巻いて、Tシャツとスエットパンツという軽装で彼は夜の街へ走り出した。



 その日、少女を見かけた場所は、前に見かけたガードレールではなく、駅の駐輪場だった。フェンスにもたれている少女は、やはり諏訪西中の黒いジャージを履いているが、着ているTシャツはラベンダー色のケアベアのプリントが付いていて随分可愛らしい。

「そのジャージ、持ってる」

なんとも間抜けでわけのわからない声のかけ方だと思いながらも、ぎこちなく和成は少女に声をかけた。少女は呆れたような表情で、和成の方を見つめた。

「当たり前でしょ、同じ中学だったんだから」

刺のある口調だが、話しかけられるのが嫌というふうでもない。

「俺のことわかるの?」

「知ってるわよ。諏訪西中出身の、進藤、和成くん」

意外だった。認識されていたのか。喋ったこともないのに。

「逆に、私のことわかる?」

「ああ、わかるよ。諏訪西中出身の、掛川、里穂さん」

「あたり」

里穂はにやりとして、フェンスから離れた。

「進藤くんって、こんな夜中に徘徊するほど不良だったんだね」

「それはこっちのセリフ。女子がこんな時間にうろついていいのかよ」

「その質問は愚問というやつよ。うろうろするのは、うろうろする理由がある。違う?だいたい進藤くんは私のことどうこう言える立場じゃないよね」

大人しそうな女子だと思っていたが、案外弁が立つ。改めて和成は、里穂を眺めた。


 相変わらず長い黒髪を波打たせている。顔は青白いが、前に見かけたとき程ではない。唇も異様な赤みはなく、自然だ。眼鏡をかけていて美人とは言えない。どちらかといえば地味で真面目な印象だ。

(こんな声で話すのか、彼女は)

落ち着いたトーンの声で、はっきりとした話し方だ。自分は本当に彼女と中学時代三年間同じ学校に在学していたのだろうか。覚えていない。今初めて会って話すと言っても、あながち嘘とは言えない。異性に気軽に声をかけるほど軟派な人間ではない自分が、中学が同じだったというだけで里穂に声をかけるなどという予想外の行動に出ていることが、和成は我がことながら不思議でたまらなかった。里穂は首を捻って言った。

「ま、私もあんまり人のこと責められないけどね」

「掛川さんはなんでこんな時間に?暑くて寝られないとか。極度の不眠症とか」

「進藤くんに教えてあげる義理はないよ」

確かにそうなのだ。自分は、掛川里穂にとってはたまたま真夜中に偶然遭遇した、同じ高校の同級生というだけなのだ。話す義理はない。和成が黙りこくっていると、不意に里穂が言った。


「そうだな、進藤くんになら話してもいいかな」


 里穂は少しの間腕組みをした。それから、唐突に肩から下げていたかばんのようなものから、棒付きのキャンディーを取り出した。その動作を里穂がするまで、和成は彼女がかばんを持っていることに気づかなかった。

「何色が好き?」

紙の棒の先についたキャンディーは3本あった。ペコちゃんの絵がついたフィルムに挟まれている。懐かしの不二家のポップキャンディだった。和成は赤をもらい、里穂は緑をかばんにしまってオレンジのキャンディーのフィルムをはがした。

「久しぶりだな。小学生の頃はよく食ったもんだが」

「私は今でも好き。たまに買う。なんていうか、懐かしい味がするのよね」

 和成は不思議な気持ちになった。中学と高校が同じで、クラスは同じになったことがなく、ほとんど喋ったことがないがお互いに名前だけ知ってる相手と、なぜか不二家のポップキャンディを駐輪場のフェンスにもたれながら並んで食べている。里穂がなぜ夜に徘徊しているのか、5月に見たのは本当に里穂なのか、そんなことはもうどうでもよくなっていた。



「私、さ。自分でこんなこというのもなんだけど、割と優等生ちゃんで今まで来たのよね。まっすぐ、道を外れないで。でも、それは表で見せている顔。裏はいろいろあって人には見せたくない。腹黒いことも考えるし、嫉妬でギリギリしてるし、自分の嫌いなところ、いやなところもいっぱいあるってわかってる。それをうまく隠しているけど、どっかで発散したいから、半年前くらいからかな。たま~に、こっそり、家を抜け出してるの。

 別に親は、私が優等生であることを押し付けたりはしてない。反抗期はもう中学時代に散々やったから、別に親に恨みはないわけ。どっちかというと学校が居づらい、かな。男子の進藤くんにはわかんないかもしれないけど女子のグループっていろいろあるしさ」

「そうなんだ」

「諏訪西から緑台に行った女子って私だけだったから、最初はぼっちだった」

「ふぅん」

「女子でぼっちって結構キツイよ」

 言いながら、里穂はオレンジのキャンディの端をガリガリと噛んだ。

何かにイライラしているような、こんな里穂は、というか、苛立つ女子の姿というのはなかなかお目にかかれない。

「それを、なんで俺に話そうって思った?」

「さあね」

里穂は和成の前で、右手をひらひらと振った。

「なんとなく、進藤くんとはずっと話してみたい気がしてたの。でも、何もなくて話しかけられるほど厚かましくないし。進藤君も多分そういうぐいぐい?押してくるような女子って遠慮したいんじゃない?」

「なんでわかる。あたりだ」

「中学も高校も同じなのに、進藤くんってぜんっぜん私と接点無いよね」

たしかにそうだった。

「クラスも一度も同じにならなかったしな」

「部活も違うし。進藤くんの部活知ってる。バスケでしょ」

「当たり。掛川さんは確か…合唱部?」

そうだった。緑台の合唱部は、NHK学校音楽コンクール、通称Nコンの常連で時には全国迄進む強豪だった。

その次の言葉は、ハモった。

「ピアノは弾いてないけど」

同じセリフに二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。その笑顔を見て、和成ははじめて、里穂のことを可愛いと感じた。

「メゾソプラノのパートリーダーだったの。もう引退したけど」

「早いな。合唱部はNコンがあるからまだ引退じゃ」

「ふつうはね、合唱部の3年生の引退は、9月の文化祭」

里穂は目を伏せた。

「ちょっとワケありで。部長のまみにも止められたけど」

 金沢 麻弥耶(まみや)という風変わりな名前を持つ合唱部の部長のことを和成は知っていた。1年の選択授業が一緒だった。

「金沢と仲が悪いって聞いたけど」

「はぁ?誰がそんなこと…。退部するときにちょっと言い合いにはなったけど、基本、まみとは仲いいよ私」

「ピアノ上手いのに伴奏やってないんだ」

「うん。伴奏はあゆみちゃんのほうが上手いし。ああそうか、進藤くん私の伴奏聴いてるもんね」

そして、また2人の声がハモった。

「時の旅人!」

里穂は飴をガリガリかじるのをやめ、深く息を吐いた。そして、目を伏せた。

「あの曲は、いい曲だった。弾いていて気持ちよかった」

「それは歌もだ。あの年の学年合唱は一番歌いやすかった」

「ねえ、進藤くん」

里穂に声をかけられて、和成は彼女を見つめた。

「ありがとう」

その日で一番柔らかい声が聞こえた。

「楽しかった。またそのうちおしゃべりしましょう」

「ああ、そうだな。俺も楽しかったよ」

「進藤くんの話も聞きたいし」

「そうだな」

「じゃあね。また、明日」

「また、明日。飴ごちそうさん」

里穂はふわっと笑い、駐輪場を離れていった。本当にあった出来事だろうか、と、和成は思った。


 里穂は帰宅してジャージのまま自室のベッドに仰向けになって天井を見つめた。

天井は白く、うねるような地模様がある。

里穂は深く呼吸をして、窓を眺めた。青白い月が見える。月明りが見えるこの窓の景色が好きで、あえてカーテンをかけていない。今晩は半月だ、と、思った。

(まさか、進藤くんと話すなんてね)

里穂は自分が成績を抜かした男子のことを覚えていた。トータルで30点ものの差をつけたのは、国語と音楽のテストが満点だったからだ。それでも14位で悔しいと思ったが、自分のすぐ後ろにつけている男子の名前が、自分と同じく一気に順位を追い上げてきたものだと知ってなんだかおかしな気分になったのだ。

(あの頃は、進藤くんってどんな男の子なんだろうって思ってたんだっけ…)

月明りが照らす夜中の空が、里穂は好きだった。また深い呼吸をして、里穂は目を閉じた。

(いい声だった…もっと聴いていたかったな)

低めの抑えた声、落ち着いた話し方。和成の声を思い出し、ふっと溜息をついた。

 5歳からピアノを始め、その前から家にあるレコードを父にかけてもらっては聴いている里穂は、自分の音に関する感性がどうやら、音楽を聴かない人間とは異なるということを小学生の頃から自覚している。楽器で好きなのはピアノのほかにアルトサックスとチェロ。

(進藤君の声は…バリトンサックスかな)

そんなふうに考えるのがなんだか楽しい。里穂はもう一度窓をちらりと見て、満足そうにうなずいて眠りについた。


 その次に和成と里穂が夜に会うまでに2週間ほど時間があいた。

学校では姿を見ることがあっても、互いに声をかけたり、話をすることはなかった。無理もない。和成の8組は特別教室が多い「管理棟」と呼ばれている北校舎の二階、渡り廊下の横にある。対して里穂の1組は南校舎の三階。同学年であってもクラスも選択授業も異なれば、すれ違うこともない。和成は廊下や校門で里穂の姿を見かけることはあっても、特に重大な用事がないのに声をかけられるほど彼女と親しいわけではなかった。

 用事を作って里穂に会うために1組の教室を訪れるなどということも考えられない。1組は国立文系クラスで男女比が1対3(もちろん女子の方が3だ)。1組の女子はどうかわからないが、男女が話し込んでいればたちまち、恋愛脳の女子たちに全く事実ではない噂をでっち上げられるだろうことは想像に難くなかった。そして、その挙句どういう目に遭うかも。


 それに。和成は考えた。

あの日の、オレンジ色をした棒付きキャンディの端をややイラつきながらガリガリ噛んでいた里穂と、ひょんなきっかけから交流することになったその時間がなんだか貴重なものに思えたのだ。

 結局和成は、時々セーラー服のスカーフやスカートを翻して階段を昇っていく里穂の姿を遠くから目にするだけにとどめた。

(呼び止めて、何をわざわざ話す?今迄まるで交流がなかった女子と親しく話していたら、あいつらデキてると噂されるだろう。女の子の掛川さんにそういうことで気まずい思いをさせたくない)

 


  一方、里穂の方も特に自分から声をかけるなんてことはしてこなかった。彼女はたいてい昼休みは図書館にいて、宿題をやったり読書をしていた。家よりも集中できるという理由だったが、そのことをわざわざ和成に教える必要もないと考えていた。大体、すれ違うこともほとんどない。それに、真夜中に偶然和成と出会って話したことは、里穂にとっては学校とは何の関係もないことだった。だからこそ、そういう、「なんの因果関係もない交流」を大事にしたかったのだ。

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