真夜中の影

 和成は中学からバスケットボール部に入っていた。高校でもそれなりに頑張ろうと考えたが、彼が進学した県立緑台高校は残念ながら、バスケ部は弱小とまではいかないが、どちらかといえば強くはなかった。

 どれくらいの位置にいるかというと、市内のバスケットボール部がある高校8校の中で運がよければ準決勝に進めるかどうか、県大会まではたどり着けないという成績だった。和成が緑台を受けたのは、公立高校が2校受けられる複合選抜という県独自の受験制度によるもので、もともとはバスケ強豪の県立島田高校が第一志望だった。だが、第一志望の島田高校には受からず、偏差値だけで選んだ第二志望の緑台高校に通うことになった。家からは私鉄とバスを乗り継ぎ40分かかる。部活をやって帰宅したらくたくただ。


  旧制の緑台中学から続く伝統校である緑台高校は、在学生のほぼ9割が大学へ進学する進学校でもあった。3年生の部活引退の時期は、国公立を目指す生徒は5月の中間テスト前の交流戦、私立や専門学校志望でもAOや自己推薦を希望する場合は同じ時期に引退する。国立理系クラスの和成は、交流戦で準決勝敗退のうえ引退というなんとなく微妙な部活の幕引きで、気持ちがくすぶっていた。


(くすぶっていたからこそ、あんなことをしたんだな)


 のちに振り返ってみたら、もしすっきりと部活を引退していたら、もっと違った出来事が起きていたかもしれないと彼は考える。だが全ては結果論であり、起きることは自分の行動が引き起こすこともあるのだから、そのことに対する後悔はない。


 和成が普段とは違う行動を起こしたのは、中間テスト直前のある夜だった。

進藤家は、和成の弟の俊介が小学校4年生になった頃から、看護師の母が夜勤を始めた。

近所の整形外科のクリニックでパートの看護師をしていた母は、車で20分の労災病院に転職した。夜勤もある正職員に転職したのは、息子2人の教育費のためだった。

 その日は、母が夜勤で夕方から出かけており、メーカーの営業部長の父は打ち合わせのため遅くに帰宅し、和成がリビングに降りたときにはレトルトカレーを温めていた。

靴を履く息子の物音に、父が顔を覗かせた。

「どうした、こんな時間に」

「いや、ちょっと勉強で詰まって。部活引退してから体動かしてないから、ちょっと走ってくる」

嘘はなかった。本当に体はなまっていたし、物理の問題に手こずっていて先に進まない。

走ってくれば少しはましかと、和成は本気で思ったのだった。相手が父でよかった。母なら、遅すぎるとか、走るなら早朝にしろとか口うるさく言ってくるだろうからだ。

「そうか。まあ気をつけろよ」

それだけ言うと、父はリビングに引っ込んだ。

 和成はドアを閉め、外に出た。五月にしては、思いのほか外はひんやりしている。気温が低いのだろうか。そういえば、翌日は雨が降ると言っていた。和成はぶるっと1回だけ体を震わせ、夜の街の中に向かって走り出した。

 部活の時と、同じペース。呼吸を乱さない。リズミカルな足取りで夜の街を走る。アスファルトを蹴りながら、角を曲がると大通りに出た。大通りの歩道はブロックが敷き詰められていて、アスファルトよりも負担がかかる。ペースを落としてランニングをしていた和成は、前方に見えるものに目を止め、そして足も止めた。


 ガードレールに腰掛けている黒髪の少女。

胸あたりまである長い髪は、うねりを見せている。水色のスエットのパーカーに、見覚えのある黒いジャージのズボン。

(諏訪西のやつか・・・?)

うつむいている少女の顔を見ようと近づきかけて、和成は体を引いた。

(あれは・・・)

不意に少女が顔をあげた。

白熱灯のせいなのか、青白い頬。茶色のセルフレームの眼鏡。それにそぐわぬ真っ赤な唇。

 和成は、少女が絶世の美少女だから足を止めたのではなかった。むしろ、異様なものを感じた。少女は、眼鏡越しに一点を睨むように見つめ、唇を噛み締めていた。この顔は知らない顔ではない。だが名前が思い出せない。少女の横顔をしばらく遠くから眺めると、不意に名前が浮かんできた。


(掛川、里穂だ・・・。なぜ彼女が、こんな時間に、ここに?)


心臓の鼓動がなぜか早くなった。急に立ち上がった少女の姿に、和成は思わず自販機の後ろに身を隠した。やましいことはないはずなのに、なぜか見られてはいけないと咄嗟に思ったのだった。里穂らしき少女は誰も見えない自販機の方を一瞥し、その場を去った。不可解なものが、和成の心に残った。


 それから2週間ほど、母が夜勤で不在になる日を見計らって何度か和成は夜のランニングに出かけたが、あの日見た里穂らしき少女には遭わなかった。偶然だし、あれは掛川里穂かどうかわからないと思いながらも、もう一度あの少女に会いたいと彼は思った。



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