君とピアノとコーヒーとケーキ

 それから2週間ほど。和成が自分の将来を思い悩んでいるうちに里穂と会って話をすることはなかった。期末考査が始まったからだった。その間ずっと家にこもって勉強をしており、体を動かすことのなかった和成はすっかり体がなまってしまった。

 緑台高校では、一学期の期末テスト後2年生までは球技大会なのだが、3年生は球技大会で賑やかな下級生たちの声を聞きながら補習を受けており、学校で体を動かす機会はなかった。


 終業式の日、昼少し前に、聞き覚えのあるバッハのプレリュードを耳にして、和成は第二音楽室に向かった。

 里穂はグランドピアノの譜面台の横に楽譜を積み、ピアノ椅子に座って行儀悪く足を最前列の机に伸ばしていた。

「スカートの中見えるぞ」

「ジャージのハーフパンツ履いてるから見えても平気」

「いや、問題は見えるかどうかじゃねえだろ」

「進藤くんは紳士だからわざわざ女子のスカートの中なんて覗かないでしょ」

「信頼されて喜べばいいのだろうか俺は」

和成は頭を抱えた。ダイレクトに下着が見えないからいいというものではない。思春期の男子が、ちらちらと見えそうで見えないスカートの中が気にならないと言えばそれは嘘つきか同性愛者か仙人かだ。自分はそのいずれにも当てはまらない、真っ当な高校生男子だという自覚があった。和成は紳士的に顔をそむけた。

「だって暑いんだもん。下敷きで煽ってないだけマシ」

衝撃的な発言に、和成は愕然とした。

「そんなことするのか」

「女子クラスの4組とかはもっとすごいよ。煽り方が下着見えそうなくらい…見せパンだけどね…わざとやってる。それでいて、男子がエロい目で見たとか騒ぐんだ、あいつら」

「恐れ入ったな」

女は怖いんだ、と、里穂は言った。

「同じ女の私が言うことじゃないと思ってるでしょ?頭が色恋だらけの女とは波長が合わないんだよ」

「掛川さんそういう女子苦手そうだな」

「というか、敵だな」

「おいおい、戦闘モードかよ。君は武闘派か」

里穂は足を下ろしてピアノ椅子に座り直した。

「無駄な戦いはしないさ、私だって。彼氏をそういうあざと女に攫われそうになったり、友達の男子がアホで痛い目見てたら、あざと女を潰す」

「潰すって何…あんたこえーわ」

「潰すって、力でじゃないよ。深慮遠謀、頭脳戦は得意だからね、公立文系の女子は。だいたいざざとい媚び系女子は略奪とか二股平気で周囲に迷惑を垂れ流してるから、その盲点を突くわけ」

「改めて尋ねるが、君は武闘派なのか」

「そう思うなら思っといて。自分の彼氏取られたことはないけど。今彼氏いないし。ただ、友達の男子がアホだったら、とことんやる」

 サラッと言いにくいことを言った気が、する。

「我が友人の進藤和成君はアホじゃないんだから、そういう女に引っかかることはない。…違う?」

和成はどういう顔をしたらいいのかわからなかった。やっぱりこの人は過激だ。女子が過激なのか、掛川里穂という女子が過激なのか。

「見た目で騙されるほど俺がアホだと思ってんの?」

「だって進藤くんだって男の子でしょ。おめめぱっちり、ぼんきゅっぼんのヤンジャンの表紙みたいな女子が迫ってきたら、フラフラって、しない?」

「…しねえよ…その手の女子って俺みたいなのにわざわざ迫ってきたら絶対ドッキリ大成功とかのやつだろうが。…俺はもうちょっと知的な女子がいいなあ…胸がデカければなおよし、って、すまん!失言だ!」

 里穂は大笑いした。和成はますますバツが悪くなった。

「口が滑った!そうだ、ピアノ、ピアノ弾いてくれ」

譜面台には複雑に絡み合った音の束が書いてある楽譜が載せられている。

「ここんとこ音が聞こえなかったが」

「合唱部の昼練でずっと使えなかったんだよ。今日はNコン前のホール練習で合唱部員は不在なんで、特別に顧問に頼んで第二音楽室を借りた」

里穂はのろのろとフーガを弾き始めた。前よりは少しましになったような気がするが、やはり本人は首をひねっている。

「あああ、ダメだなやっぱ」

そして、別の本を広げてばりばりと音を立てて弾き始めた。恐ろしくせっかちなテンポの速い曲だ。

「残念だけど、市芸は諦めるかな・・・まだ50番のほうがましだ」

里穂によると、県内には公立の市立芸術大学通称市芸と、私立の葉里音楽大学、そして青葉学院大学の音楽専修コースの3校がある。

 音大の受験は良くわからない和成だが、受験したい学校の先生に代わったり、ついている先生の上の先生の勤務校を勧められたり、ということが多いようだ。里穂の今ついている先生は、葉里音大に知っている先生がいるらしい。そして、一般の大学と異なりそれぞれの音大の実技試験の方法や課題曲が異なる。そのため、簡単に併願というわけにはいかないらしい。

「市芸は全国レベルですごい子が、市芸の先生に教えてもらいに来るって感じだからね。テレビにもよく出ている、作曲家の陸山明良先生とか、オペラ歌手の来栖みなみ先生とか、名だたる先生が多い。もちろん葉里の先生も、それぞれ立派な経歴がある。藝大の教授で葉里の非常勤講師とかもいる」

「ややこしいんだな」

「かもね。来週月曜日から水曜日まで、葉里音大の講習会があるから、そこに行きなさいって言われちゃった。それに、多分市芸は受からないだろうなぁ、私」

「なんで」

 和成の無邪気な質問に、里穂は顔をしかめた。

「あのねえ。市芸は県内だったら、銘林めいりんとか松里まつざとの音楽科の子が普通に受けるんだよ」

  銘林高校も、松里高校も、音楽科を持つ地元の公立高校だ。いずれも普通科の偏差値が高く、国公立進学者を多数出す進学校だ。それらの音楽科も普通科と同じとまでは言わないまでも、そこそこ偏差値が高く、名だたる音大へ進学したり海外留学してプロになる生徒も多い。そして実技系の学科は入学するのもおそらく「趣味レベル」というやつでは難しいらしいということは、和成でも何となく知っていた。里穂はつづけた。

「あの子達は全国レベルのコンクールで上位、もう中学生でプロ活動してる子もいる。佐々倉昭菜ささくら あきなって聞いたことない?テレビにも出てる天才少女」

 テストで早帰りした時に昼の情報番組のゲストに出ていた子かもしれない。演奏までは聞いていない。

「昭菜ちゃんは私たちと同じ高3、市芸の先生についてるから受けるんじゃないかとか、担当の先生のつながりでウィーンかどっかに留学かとか言われてる。そんな子と真っ向から張り合えるわけないじゃん、普通科に通ってる時点でね」

「じゃあなんで音楽科を受けなかった」

和成が尋ねると、里穂は顔をしかめた。

「中3の時はなーんも考えてなかったんだよ。進藤くん、中3で将来が全部決まってた?決まってないでしょ。私だって決まってなかったよ。ああ、島高に受かりたかったな」

「え、島高受けてたんだ。俺も落ちたよ、島高」

「あの年、島高倍率高かったしね…」

里穂は目を伏せた。自分よりずっと里穂のほうが島田高校に受かりたかったらしい。ここでも自分は、強い気持ちがないと見せつけられた。だが結果的に二人とも島田高校に合格できなかったのだから、強い気持ちがあるだけでは人生うまくいかない、ということかと和成は心の中でつぶやいた。

「どうしようもなく音大に行きたくなったのは、去年の11月の終わりだよ。親はぶっ飛んだよ。なんで今更音大なんだって」

「それ、俺も聞きたい」

「うまく説明できない。でも行かなきゃって強く思った」

 なんだそれ、と、和成は呟いた。

「見えない力に呼ばれた…ような、気が、した」

「…怪しい宗教かよ」

「あああもう、練習する気なくなった!!」

 里穂は立ち上がって叫んだ。

「練習は、しろよ…。せっかく音楽室借りてるんだから」

「じゃあ1回だけベートーヴェン弾くから待ってて。10分で終わる」

待ってろとはどういうことなのか、和成は首をかしげた。

「さ、弾くから座ってて」

 無理やり里穂に両手を掴まれ、空いている椅子に和成は座らされた。(この人はどんどんキャラ崩壊してるな・・・)おとなしくて真面目で地味な優等生って誰だよと和成は心の中でつぶやいた。ベートーヴェンのソナタが始まった。もちろん知らない曲だった。だが、ベートーヴェンといえば「運命」しか知らない和成が驚くほど、曲想は穏やかだった。講習会で弾く予定の、4番の1楽章だと里穂は言った。なんのことだか和成には全くわからなかったが。


 里穂が和成を待たせた理由は、一緒にバスでターミナルまで行ってわかった。里穂は駅ビルカフェの新しいケーキを食べたかったのだ。ひとりで入ってケーキはためらわれるそうなのだ。(食いたいなら一人ででも行くがな)和成は思ったが口に出さなかった。確かに、ひとりでカフェに入るのは入りづらい。まだラーメン屋に入るほうがましだと考える和成はやはり、高校生男子だった。

 ターミナル駅にあるケーキが美味しい店、ル・カフェはセルフサービスの店だった。里穂はアイスコーヒーと新作のレモンタルト、和成はアイスコーヒーのLだけを頼もうとして、ベイクドチーズケーキを里穂にトレイに載せられた。

(女子と向かい合ってコーヒーとケーキって、これってデートってやつじゃないのか)

 和成はそんな考えを頭で打ち消した。確かに里穂は、最近はおさげ髪ではなくポニーテールにしているから可愛らしく見えるようになった。だが、ときどき今日のように爆発する。自分だから言いやすいのか、もともとそうなのかはわからない。別に爆発されても里穂に失望したりはしないのだが。

 それでも、話は面白いし喋りやすい。ブスと言われているのは学校では真面目に振舞っているし、流行りのものには飛びつかないこと、一歩引いて物事を見ていること、成績は中学時代同様上位なのでそこだろうと思う。メガネをかけている顔が賢そうに見えるから、余計にお高くとまっているように見えるのかもしれない。

 和成は、里穂の話す内容の半分もわからなかったが、ベートーヴェンの不機嫌の話や、家ではクラシックばかり聴いているわけではないということを知り、知らない話ばかりで新鮮で面白いと思った。一方里穂の方も、和成が熱く語ってくる「SLUMDUNK」の話や、聴いている音楽の話を、新鮮に聞いていた。

「バリバリしてそうだな、それ」

レモンタルトに悪戦苦闘している里穂を見ながら、和成は微笑んだ。

「台の部分はね。でも美味しい。噂には聞いていたけど」

「それはよかった。チーズケーキもうまかった」

「それはおすすめ」

 里穂はふふっと笑った。

「すっきりした。レモンタルトも食べられたし。実はもやっとしてたのはこれが原因」

里穂はカバンから、チラシを出した。「ピアノの妖精 佐々倉昭菜ソロリサイタル」のチラシだ。

「昭菜ちゃんをライバル視する気持ちは、毛頭ないよ。あの子は中2でデビューしてる天才少女だから。でもさ、同じ年でここまで弾けちゃうひとがいるってのがね。どうせやっても無駄なんじゃないかとか諦めておとなしく自分の成績で受かる大学を受けておいたほうがいいんじゃないかとか、そういう悪魔の囁きが頭の中に聞こえてくるってわけさ」

「それを言ったら」

 和成は水を一口飲んだ。

「やりたいことも、夢も、霞んで見えてない俺はどうなるんだ?絶望だ。雲の上の人のことをあれこれ悩める掛川さんは幸せだと思うよ」

「そういうもんなの?」

「そういうもんんです」

「バスケマンガを熱く語るのに?」

「バスケは仕事には出来ない。NBAとか見てたら人間じゃねえってやつばっかだし、俺なんて地方の普通の部活少年だ。好きだけど、将来の仕事はまた別だと思う」

「そうかあ」

里穂はいきなり立ち上がった。「コーヒー、もう1杯頼んでくるけどいる?」



 帰宅してから机の上に、佐々倉昭菜のチラシを広げて、里穂はソファに寝転がって目を閉じた。

 自分は将来を嘱望されている天才でもないのに、どうして無謀にも音大を受験しようなんて思ったんだろう。公立の普通科なんだから素直にどっか大学受けとけよ、と、心の中で毒づく。でも。でも。

 里穂は、昼間強引にカフェに付き合わせた進藤和成のセリフを思い出した。

(やりたいことも、夢も、霞んで見えてない、か)

ひょっとして、普通の高校生はそんなもんなのかもしれない。自分も音大を受験することに決めたのは、ギリギリ去年の12月の暮れだった。それがなかったら、今頃どんな方面に進むか決まらずに頭を抱えていたかもしれないのだ。

 ピアノを5歳から続けて、好きな曲が弾ければよかったのに。なんで音大を受けるなんて思っちゃったんだろうと里穂は考えた。両親は、上京には反対していた。楽器を置ける下宿は大体家賃が高く、学費だけでも私立の薬学部並みなのに下宿代までは出せないと言われたのだ。もっともなことだ。アルバイトで家賃を稼ごうと思ったら実技の練習が疎かになり、何のために東京の音大に行ったか分からなくなる。大体東京の音大に受かる保証もなかった。ピアノの先生にも反対された。だから、地元の学費が安いが募集人数が少ない、レベルの高い市芸か、学費はかかるが設備がよくて少しだけ募集人数が多く、交通費が安い葉里音大か。2校の選択肢のうち、まだこれから講習会に行くが、多分自分は葉里音大にあっているんだろうと里穂は思った。

(昭菜ちゃんと張り合う気持ちなんてないと思ってるんだけどな)

大体、佐々倉昭菜とは話したこともないし、一方的にこっちが知っているだけだ。

(あの子に近づきたいだけなのかもしれない。でも)

里穂は深く息を吐いた。

(ひょっとしたら、どんなにつらい道でも、自分がどっちに向かうか見えている私は、進藤くんから見たら幸せなのかもしれないな)

 そう考えたら、さっきまで話していたのに、また進藤和成に会いたくなった。彼がどういう道を見つけるのか、それを見届けてみたいという気持ちになったのだ。

(自分を御することすらできてないのにね、何やってるんだろね、里穂)

その気持ちがどこから来るのか、自分でもわからなくて不思議な里穂だった。


 和成は里穂と別れて帰宅してから、自室のベッドに横たわり、考え込んでいた。

 自分には今まで、「絶対にこれを続けたい」とか、「好きで好きでたまらない」とか、「これしかない」と思うものはなかった。周りもそんな風だと思っていたから、それが普通だと思ってきた。高校受験の進路を決める時まではそれでなんとかなった。とりあえず大学までは行こうかなと考えていたからだ。父は大卒だし、母も看護短大を出ている。高卒で就職するのは自分の道ではないと漠然と思っていた。

 だが、受かるだろうと考えていた第一志望に落ち、併願の緑台高校に入学したら、ただ毎日学校へ勉強と部活をしに行くだけの日々となった。高校にいけば自分の道が見つかるかもしれないという淡い期待は、打ち破られた。その証拠に、いまだもって自分は進路調査票に模試でそこそこの判定をもらえた大学の名前を書きながら本当にその大学を受けたいのかわからないままだ。


 そんな時に、中学が一緒だったが今までじっくり話したことのない里穂と話す機会に恵まれた。音大を受験するという里穂に、和成はやりたいことや、進みたい道があってうらやましいと思った。だが、進むべき道が見えているはずの里穂ですら、その道が本当に進む方向なのかがわからず、迷い、苦しんでいる。

(夢ってなんなんだよ…進路って…)

誰かに教えてほしいと思うが、それはきっと教えられて得るものではないのだろう。自分の道が見えない和成は、昼間カフェで一緒にケーキを食べた里穂の姿を思い起こした。

(小動物みたいだな、掛川さんは)

大柄な自分に比べて、ゆっくり崩しながらレモンパイを食べている里穂は、ハムスターかうさぎのように思える。初めて女の子を可愛い、と思った。

(俺は、高校を卒業したらどんな道へ進みたいんだろうか…)

現実は漫画みたいにはいかない、と、和成は思った。

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