懐かしい場所で、君と

 進藤和成は、クローゼットの扉を開けたり閉めたりして、結局は閉めてため息をつき、ベッドに転がった。

(本格的にヤバいな、俺)

1月の終わりに、偶然高校時代の同級生だった掛川里穂と再会した。 

 高校生活の最後に、「出会った」里穂と、言葉を重ねていった。恋愛感情を抱いていたことは、互いに離れてしまうまで分からなかった。

17年ぶりの偶然の再会。その時、お互いがかけがえのない相手だということがわかり、正式に彼女に交際を申し込んで承諾をもらった。


 その、初めてのデートの前日。翌日着ていくのにふさわしい服がない。

 高校時代は散々、ジャージにTシャツとか、ゴム草履で素足とか、くだけた格好で里穂に会っていた和成であるが、それは相手を意識していなかったからだった。

 精密機器メーカーの技術職という仕事は、ホワイトカラーの設計・開発でも職場では作業着だ。設計部に所属する和成も同様で、通勤にはストレッチの効いたジーンズが3本ほど、上衣は作業着に隠れるから夏はTシャツ、冬はスエットというくだけた格好で30代半ばまで過ごしてきた。どのみち車通勤がほとんどなのと周りもそんな感じで、まともな服はたまにプレゼンや本社に行くときに着るスーツくらいだ。

(会社用のスーツしかないとか、俺学生の頃と変わらんのか)

確かに、大学時代の和成は入学式に誂えたスーツ以外の服は今と変わらなかった。さすがに社会人になって服は自分で買うようになったが、一年に何枚も新調はしない。学生の頃のようなパーカーにジーンズで現れて、以前婚活で知り合った女性が青筋を立てているのに気づかなかったほどの鈍感だ。

 30歳になった時、今は定年退職した当時の本部長から「進藤も営業のサポートで客先訪問をしてもらうので、せめてカッターシャツとスラックスくらい用意しておけ」と助言されていたが、そのすぐあと5年間、業務提携で大分の工場へ出向していた時は改まった場へ出席する機会がほとんどなく、持って行った私服で事足りてしまっていた。

「参ったな」

思わず声に出てしまった。

 相手は学生時代の同級生だといっても、初デートだ。夜中に街に出かけていたときのようなわけにはいかない。大体今の里穂がどういうファッションでやってくるかもわからない。再会したときに彼女が着ていたのはステージ衣装だ。

(彼女をがっかりさせたくない・・・)

 まさか服で悩むとは想定外だと、和成はつぶやいた。

ちらりと壁の時計を見る。まだ間に合う、と、頷き、和成は財布とスマホ片手にジャンパーを羽織って家を飛び出した。


 翌日。ターミナル駅の改札口で和成は里穂を待った。改札前の柱にもたれて里穂を待ちながら、和成は高校時代のことを思いだした。

(あの時もこうやって、俺が待っていたんだよなあ)

里穂は改札を抜け、和成を見つけてほほ笑みながら手を振った。

(ああ、あの時と、同じだ)

2週間前に再会したときから、ヘアスタイルが変わっていた。肩までのボブで、サマンサモスモスのチェックのワンピースにシルバーグレーのコートを羽織っている。足元はチョコレートブラウンのショートブーツに同系色のタイツ。手にはフェイクファーのバッグ。和成は思わず「ちくしょう、可愛いじゃないか」とつぶやいていた。

「ごめんね、待ってた?」

「そうでもないよ。1本早く電車に乗れたから、10分早く着いた」

 結局和成はサックスブルーのボタンダウンシャツに紺のセーターを着て、コートにチノパンというカジュアル系の服装にした。慌てて飛び込んだショッピングモールの初めて入る店で挙動不審になっていたのを気の毒がった店員さんに、手持ちの服と合わせてセーターとパンツを勧められた。大枚はたいたが後悔はしていない。

「今日はプラネタリウム、だっけ?」

「そう。改装したんだって、葉里市立科学館」

「うん。…私もずっと行ってない。小学校ぶりかな」

「そうか。じゃ、行こうか」

和成は里穂に左腕を差し出した。里穂は小首を傾げて和成を見た。

「里穂ちゃんが迷子にならないように」

「私、そんな子どもじゃありませ~ん」

「迷子は俺かもしれないけどな」

ふふふっと笑って、里穂は自分の右腕を和成の左腕に絡めた。


 「葉里市立科学館のプラネタリウムは日本一」の触れ込み通り、プラネタリウムは見事だった。里穂は小学生の頃の社会見学が科学館だった、という話をした。小学校が異なる和成は、「俺、県庁だ。全然楽しくなかった」と呟き、二人で顔を合わせて笑った。

「昔、夜に会ってたときとは雰囲気が違うな」

「当たり前じゃない。…何年たってると思ってるの」

「まあそうだよなあ」

和成は里穂をちらりと見て、「本当に可愛い」と呟いた。

「何歳まで”可愛い”って有効なのかしら」

里穂が顎に手を当てて考えていると、和成は「有効期間なんてないんじゃないか」と言った。

「だから、さ。俺が可愛いって思ったら里穂ちゃんは可愛いんだ」

里穂は少し恥ずかし気に目を伏せて呟いた。「ありがと」

 日曜日で科学館は混んでいたが、ちょうど実験教室と「耐寒ハウス」の時間で子どもたちがほとんどいないフロアをのんびり歩きながら、里穂は言った。

「今日の進藤くん、かっこいいな」

「お、おう」

「昔よく、ロックバンドのツアーT着てたよね」

くすくす笑う里穂に、和成は肩を竦めた。

「デートなのにガンズのTシャツとか着てきたらどうしようかって思った。バンドマンでもないのに」

「それはない。…実はたいした私服がなくてな。彼女とデートって言ったら、店員さんにトータルコーディネートされた」

「ハハハハハ‼受ける…」

「おいおい…傷つくぞ」

「ごめんごめん。…ちょっと可愛いなって思ったの。進藤くんのそういうところ好きだよ」

(おおい、そんな悶えるようなこと言うなよ…可愛すぎるぞ)

 表情筋が緩み始めた和成に里穂はそっと寄り添い、腕を絡めた。

駅へ戻りがてら、里穂がこんな提案をした。

「お昼ごはんのことなんだけど、あのさ。私、行きたいお店があるの」

「行きたい店?」

男の自分がリードしなければと気負っていた和成は、拍子抜けした。まさか里穂から昼食の提案があるとは思わなかったのだ。結局、和成はその提案に乗った。



店についてみて驚いた。ここは来たことがある。

「サンドイッチハウス…まだあったのか」

「うん。少し改装したけど。…覚えてる?」

「ああ。ローストビーフのサンドイッチが美味かった」

二人はサンドイッチ専門店の「サンドイッチハウス」へ入った。

ここへ二人で来た時のことを和成は思い出した。あれは高校3年生。里穂に誘われ、ピアノのリサイタルを聴きにいった帰りだった。高校卒業後なんとイタリアの音楽院に留学し、今ではイタリアと日本を行き来するようになった自分たちと同い年のピアニスト、佐々倉昭菜のリサイタルに行くまで、クラシックのコンサートには縁がなかった和成だ。あの時は、里穂にリードされ、初めて踏み入れる世界に戸惑っていた。だが、それが縁で和成は、大学2年の冬に大学の掲示板で見つけた第九の市民合唱団に入り、半年練習に明け暮れた。楽器が弾けなかった和成が音楽と向き合うのに「合唱」という手段を選んだのは、本人は意識していないが実は里穂の言葉があったからだった。里穂は高校時代合唱部で、声のいい和成をスカウトしなかったのを残念がっていたことがある。楽譜は読めなくてもなんとなく歌なら自分もできるのではと、和成はふと思ったのだった。留年が確実になり、ここで今迄やったことがないことをやってみようという気持ちが強い時期だったのもあった。

 苦手な楽譜を読むことを覚えた。専門の勉強で頭が疲れたのち、声を出して気持ちが解放されるのは心地よく、暮れの第九のステージでは、オーケストラのバックで歌った。それがきっかけでクラシックを少しずつ聴くようになったという話を里穂にしたところ、里穂は驚いた。そして、

「やっぱり高校時代に合唱部の助っ人に引っ張っておけばよかったな」

と面白そうにつぶやいた。



 サンドイッチハウスは、その頃とほとんど変わらぬややカントリー風の内装だった。違っていたのは、昔はテーブルクロスのギンガムチェックが赤だったのが、今は緑だということくらいだろうか。懐かしさを和成は感じた。

「何にしようかな。このチキンカツ野菜卵って美味しそう」

「欲張りだな。…このダブルメンチカツってなんだ?」

「さあ?ダブルなんだからダブルなんじゃない?ハンバーガーみたいに」

結局和成は、気になっていたそのダブルメンチカツサンドを注文した。

「懐かしいね、このお店」

「そうだな。あの時はローストビーフだったが、メニューは健在だな」

「メニューは変わっていないと思う。実は私も入るのは高校以来なの。お店やってるのはHPで調べて知ってたけど…」

里穂は水を飲んで呟いた。

「他の人とは入りたくなかったの」

「なんで」

「ここは私にとって、進藤くんとの大事な思い出の場所だった…。だから、たとえ一人で入っても、思い出してつらくなるから」

和成はそれを聞いて、水を一口飲み黙り込んだ。

 高校3年のあの頃。受験とか将来とか頭の中で考えていたけれど、多分35歳の今よりは多少無邪気だったのではないか、と思う。だから気づかなかった。自分の本当の想いも、里穂の心も。そして里穂を傷つけ、自分も傷つけた。

「里穂ちゃん」

「でもね」

里穂は顔を上げて和成を見た。

「友達と来たのは、あとにも先にも進藤くんとだけ。卒業式にも話せなくて、もう進藤くんに会えないんだなぁって思ったら、すごく悲しくて辛くって、それではじめて自分の心をしっかり見ることができた。このお店は、進藤くんとの楽しい思い出の場所だったから。だから…

 もう一度進藤くんに会うことができたら、一緒にここに来ようって決めてた」

和成が顔を上げると、里穂が眼鏡越しに和成の瞳を見ていた。

和成はもう一度水を一口飲んで、里穂を見つめた。

「あなたにまた会えて、よかった」

「俺もだ」

泣きそうな表情の里穂に、和成は微笑んだ。



 サンドイッチが運ばれてきた。ダブルメンチカツサンドはその名の通り、メンチカツが2枚挟まっている。かなりのボリュームがありそうだ。

「すごいね、分厚い」

「1つ交換しようか。そっちのチキンの方もうまそうだ」

「うん」

互いの皿から1つずつ取って相手の皿に載せると、お互いに笑みがこぼれた。

「思い出すな。あの時もこうやって交換したよな」

「和さんって人のが気になるんだよね」

言いかけて、「あ」と里穂が口を押えた。

「今、なんって」

「あ…あの、し、進藤くんのこと、どう呼んだらいいかって考えたの。で。和成だから、和さん。変、かな」

 やや頬を染めた里穂に、和成は首を振った。

「嫌じゃないよ。そう呼ばれるのって初めてで、新鮮だ」

「よかった…」

「俺が里穂ちゃんって呼ぶのはどう?」

「ん、そうね。最初はびっくりした。ずっと”掛川さん”だったから、急に名前呼びかって」

「今更”掛川さん”じゃ、彼女なのによそよそしいかなって」

「そうなのね。もちろん、最初はびっくりしたよ。だけど、和さんの゛里穂ちゃん”は、暖かくて、優しくて、ときどき切なくてきゅうって胸が締め付けられる。何言ってんだろね、私。アオハルか」

「そういうとこだよ」

里穂はうなずいて笑った。笑顔の可愛らしいところは変わっていないな、と、和成は思った。

前に来たときは夏だったのでアイスコーヒーにしたが、2月の半ばではまだ寒い。ホットコーヒーに和成は何も入れず、ブラックで飲んだ。里穂はホットのレモンティーだ。ポットが来て、2杯分入っている。

「美味いな」

「うん。美味しいね」

暖かく、静かな時間だった。コーヒーを飲み終えた和成は大きく伸びをした。

「今日、キャンディを本当に買いに行く?」

里穂は声を上げて笑った。

「あれ、本気にしてたの?」

再会した日に、キャンディを買いに行くと言われていた話を、和成は思い出した。

「別に行ってもいいよ。まだ時間あるし。成城石井だっけ」

「確かにここからそんなに遠くないけど」

「…というか。まだ時間早いし、もうちょっと君と一緒にいたい」

里穂の口が「え」という形になり、ほんのり頬が染まった。

「…ド直球で来たなぁ…」

照れ隠しなのか、わざと雑な言葉遣いで里穂は話した。心臓の鼓動が聞こえそうだ。この人はこんな大胆なことを言う人だったかと、彼女は内心驚いた。

「…ずっと考えてた」

和成は里穂を見つめて言った。

「心の中で君のことをずっと里穂ちゃんと呼んでた。本当に呼べるようになって、嬉しかった。そして、もし願ってもいいなら、俺はずっと里穂ちゃんと一緒にいたいんだ」

「それは、私だって」

「俺と、結婚…してください」

里穂は「あ」という口の形をして、和成を見つめた。まさか、まさか恋人になって初めてのデートで、結婚を申し込んでくるとは。ド直球なんかじゃない。これは変化球だ。

「…早まったか…」

和成が焦って頭を掻く。里穂を見つめると、涙が一筋零れるのが見えた。

「ご、ごめん…急だよな。悪い、忘れて」

「…そんな、言った先から取り消さないでよ…」

「え?な、泣いてる?ご、ごめん、本当にごめん」

「…そういうとこだよ…鈍感でチキン野郎なのは」

「あ…」

「言わずに後悔したんでしょ。学んだんでしょ。…私もだけどさ」

里穂は、和成を見つめた。

「もう一度。ちゃんと伝えて」

和成は、目を閉じて恐怖心と戦った。テーブルの上に載せた左手がいつのまにか握りしめられ、小刻みに揺れた。

「掛川、里穂さん」

声が裏返っているかもしれないと思った。喉がからからだ。

「君にまた会えたあの日から、ずっと一緒に…いつまでも一緒にいたいと思った。俺と、結婚してほしい」

息が詰まるほどの瞬間だった。その言葉を和成が発した瞬間。

 ふわりとした感触が起き、握りしめた左手をやや小ぶりな右手が包み込んだ。それはまさしく、里穂の手だった。

「私も…和さんと一緒に、ずっと一緒にいたいって思った。…お受けします、プロポーズ」

和成の目の前の里穂の笑顔は、美しく輝いていた。

「ありがとう」

「鈍感で土壇場チキン野郎の和さんにしてはかなり頑張ったね」

「口が悪い子だなあ。知ってるけど」

「予想外だから自分の気持ちを落ち着けてるだけだよ。はあ…」

里穂はため息をついた。無理もない、と、和成は思った。

 確かに、以前の自分からしたら、相当行動が早い、しかも今日プロポーズする予定ですらなかったのに、自分の口からそんな言葉が出てきたことに和成自身も驚いているくらいだ。

「私もコーヒー頼んでいい?」

「いいよ。俺もお代わりをもらおう」

和成は店員を呼び止め、コーヒーを2つ注文した。湯気の立つコーヒーが運ばれ、慌てて一口飲んだ和成は思わず舌を火傷しそうになった。

「ね、和さん。今日はキャンディじゃなくて、マフラーを買いにいこうよ」

「マフラー?この間俺、返したよね」

「だからよ。不便なんじゃないかなって」

「まあ…あれ以外のマフラー、持ってなかったし」

「返してもらったマフラー、結構大事に使っててくれたみたいだけど、かなりくたびれてるから…。私もお揃いで買いたいな。色違いとかでもいいし」

「お、お揃い」

「なんかね、恋人っぽいことしたいの。だめかな」

(そういうとこが可愛いって気づいてないんだな、君は)和成は里穂を見て微笑んだ。

「よし、乗った。里穂ちゃんのセンスで選んでほしい」

「ふふ。いっぱい甘い甘いラブラブなことしようねえ、和さん」

思わず赤くなった和成は、伝票を掴んで里穂の耳元に囁いた。

「うう、そんなこと言われたら俺、爆発しそう」


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