ふたたび、響きはじめる心たち

 そして。

               

 和成が大学を卒業してから、10年以上の月日が経った。偶然だが、高校、大学時代の同級生だった竹原悟が就職先も同じだった。悟は大学3年生で単位を落として留年したので、結局和成と卒業年度も同じになった。

 部署は違うが同期会でたびたび会う。それまで自分と同じ技術センター勤務だった悟は5年前に本社勤務となった。技術が分かる営業ということで異動になったのだ。異動のタイミングで結婚し、それからも年賀状のやりとりと同期会のつながりは続けていた。


 離れている間に、地元はすっかり変わってしまったと和成は思った。たかだか5年、されど5年。

 新幹線口の待ち合わせ場所は「東壁画前」ではなく、「イーストビジョン」。東口のKIOSKはコンビニのようになっていた。

 思いがけず早いのぞみに乗れたので、本社に戻るにはまだ時間の余裕がある。昼食を食べ損ねたため、腹ごしらえをしようと地下のラーメン横丁を探すと、改装工事で入口が閉鎖されていた。途方に暮れた和成は、小さなイベント用のうちわを不意に渡された。


「駅サイティング音楽祭?」

駅とエキをかけているらしい。5年前にはこんなイベントはなかった。歩きながらうちわを眺める。時間帯によって駅のあちこちでライブを行っているようだ。

柱のサイネージを見ると、レインボーゲートタワーという商業施設が入っている駅ビルの12階にレストラン街があることがわかった。和成はエレベーターで12階に上がった。

 平日だが昼時でどこもそれなりに混んでいる。その中で、看板写真の「でかっ!大盛り海老天丼ランチ 980円」の文字が目に止まった。大きな海老天が2本、丼の上で泳いでいる。これに赤だしと漬物、デザートがついてこの値段ならなかなかだ。人気メニューのようで、店に入ると店員が大盛り海老天丼を運んでいる姿が見えた。

 カウンター席に案内されて和成は水を飲み、ネクタイを少し緩めておしぼりで手を拭いた。

(戻ってきた・・・)

30歳の時にいきなり、大分への出向が決まった。和成のチームが手がけているプロジェクトでの知識が必要で、県外への出向に支障がないのが彼だけだったのだ。

 いや、実際には大モメした。当時、紹介で出会って半年交際した女性との結婚をうっすらと考えていた。だがその女性は、出向の話を伝えると表情が曇った。彼女の表情を見て、和成は喉元迄出てきた「結婚してついてきてほしい」という言葉を呑み込んだ。

 「交際を終了したい」と、出向の話を告げた翌日に相手の女性からの申し出があった。続けていくことに大きな不安を感じるというのが理由だった。

 その時に、相手に言われた言葉が心に刺さっている。

「進藤さんって本当に私のこと好きだったんですか」

意味が分からないと和成が首を捻っていると、相手の女性はさらにこう告げた。

「気づいていないかもしれませんが、進藤さんの心の中に私の知らない人が住んでて、それがずっと嫌だった」

 意識してないかもしれないけど比べてませんでしたかと言われ、和成は何も返す言葉がなかった。

 去っていった元の交際相手が今どこで何をしているかは知らない。最後に会った時に本人の前で連絡先を全部消してくれと言われ、携帯に登録していた番号もアドレスも、メールの履歴すら消した。不思議と寂しいとか悲しいという感情がわかず、ただ事務的に消去作業をする自分に和成自身が驚くほどだった。


 それからもう5年になる。その間に、地元に戻ったのは年始の2回だけだから本当に久しぶりになる。


 大きな海老天が2つ盛られている天丼をかきこみながら、改めてうちわを見た。

15:50から、アトリウムコンサートというのがあるらしい。場所はこのレインボーゲートタワーの15階、展望アトリウムだ。

携帯に着信があり、折り返し電話をかけると、上司からだった。報告を今日の定時後に受ける予定が、定時後に会議が入ったので翌日に一度本社へ寄るように、という伝達で、和成は急いで社に戻る必要がなくなった。

時間は十分ある。暇つぶしでもするか、と、和成は思った。

海老天は大きく食べ応えがあり、赤だしは美味しかった。デザートの林檎だけ固く、それだけ残念だった。


 12階から15階は、専用エレベーターがあった。エレベーターを降りると、人だかりがあった。アトリウムの真ん中にグランドピアノが置いてある。コンサート用の大きなグランドピアノだ。

 時間になると、肩まであるセミロングの女性が出てきた。水色のレースのドレス。女性はマイクを持った。

「こんにちは。Chapeau Blancの掛川里穂です。いつもはクラリネットの高塚真子と一緒に演奏していますが、真子ちゃんは明日のクラリネットアンサンブル「リーフグリーン」で出演するため、私ひとりで今日は頑張ります。最後までごゆっくりお聞きください」

 名前と、そして声に聞き覚えがあった。(まさか)

女性は、ユニット名の「白い帽子」のとおり、白いつば広の帽子なので顔があまり良くわからない。座って弾きはじめた曲は、「Close to you~セナのピアノ」だった。母がよく見ていた、キムタクのドラマの主題歌だ。

不意に、高校時代に夜、家を抜け出して走り込みに行っていたことを和成は思い出した。

(この曲は知っている…モーツァルトの幻想曲だ…その次は…ビートルズ。Hey Jude…。そして…Believe?懐かしいな、小学校の時歌った…)

 都会の喧騒を離れた、展望アトリウムの簡易ステージにピアノの音が響く。(これは、ドビュッシー…亜麻色の髪の乙女…)暖かく優しい音に、聴衆はみな聞きほれているようだった。

「聴いていただきまして、ありがとうございました。

  私には、これまでの人生の中で忘れられない出会いをした人がいました。

最後の曲は、いつかその人に聴いてもらおうと思っていた曲です」

帽子をとった彼女は、人だかりの中にいる和成ひとりに向かって微笑んだような気がした。

「聞いてください。We are all Alone」

 ボズ・スキャッグスの名曲をジャズピアニストの小曽根真が編曲した難易度の高いアレンジだ。この曲について里穂と話題にしたことがある。その時に、英語の詩の解釈をめぐって意見が割れたことがあった。

ふたりだけ、という最初の邦題通りだという和成に、里穂は「みんなひとりぼっちだ」と主張していた。演奏を聴きながら、ガリガリとポップキャンディを齧っていた姿や、二人しかいない第二音楽室で里穂のピアノを聴いたことなどを思い出した。あの時はまだ完成していない、と、さわりしか聞かせてもらえなかった。


 高校時代の、意志の強いまなざし。面影は17年という月日を経ても残っていた。今は年を重ねた分、柔らかなものをまとっている。

不意に、和成は自分が今首に巻いているマフラーを見た。鍵盤柄のニットのマフラー。最後に言葉を交わしたときに、彼女が自分の首に巻いていったもの。なんとなく捨てられずにしまい込んであったものを、出向に行くときに荷物の中に入れて持って行った。これを、覚えていてくれたのか。まさか。こんな遠くで分かるわけがない。



 あの日の偶然は、自分に必要なものだった。

もし、言葉を交わさなければただの中学・高校の同級生のままで終わっていただろう。

だが、自分は彼女と出会ってしまった。そして、すれ違ってしまった。


もし、あのとき衝動的にならずに時を待つことができたなら、隣に彼女がいて一緒に歩く人生があったのかもしれないと和成はずっと思っていた。だが、直接里穂を探して会いに行く勇気はなかった。拒絶されるのが怖かった。

(俺は変なところで意気地なしか)

和成は「We are All Alone」を聴きながら、あの日始まる前に終わってしまったかもしれないものを思い出した。

 いつの間にか、大勢集まっていた人は散り散りになり、自分の周りには誰もいなかった。

ステージから降りてくる里穂の姿が見えた。

「どうして…」

思い出に浸りながら俯いている和成にはその声が聞こえなかった。

「私たちはまた出会ってしまうんだろう」

里穂は下唇をぐっと噛みしめた。寒さと空気の乾燥と歯で噛みしめたことで、傷がつき血の味がした。

「忘れるつもりだったのに」

わざわざ探すことをしなかったのは、時が経てば綺麗な思い出に浄化できると思ったからだ。だがそうではなかったようだ。

「どこかで元気でいてくれればいいって思ってた。もう二度と会えなくても」

それは本心か。それとも、自分のつらさから逃げるために思い出に蓋をしていただけなのか。

「そんなの嘘。きれいごと。だって始まってもいないのに勝手に終わっちゃうとか、ありえない。許せない」

 里穂のかすれた声が聞こえた。

「ずっと気になっていた人と、偶然出会って話した。…友達って言ってくれて嬉しかった。最初は…。だけど、でも、いつの間にか、知らないうちにただの友達なんて思えなくなって…自分の気持ちもその人の気持ちも…分からなくて怖くて」

 静まり返ったアトリウムに、里穂の息をする音だけが聞こえる。

 ヒールの音がカツ、カツ、と鳴り、近づいてくる。

「苦しかった。分かんない気持ちだけ膨れ上がって…。自分のことだって分からないのに、相手の気持ちなんて読み取れない…会えなくなって、やっと気づくなんて」


高校時代の、あの先が見えない焦燥感が自分の身を包んでいたあの頃。心からやりたいことも、奪われたくない大切なものも、確かな夢も自分にはないと思っていた。やりたいことも夢もあるはずなのに、自分よりももっともどかしい苛立ちを抱えている里穂との時間が、自分にとってはかけがえのないものだった。確かに、里穂の言う通りだ。自分も、なくしてから本当に大事なものに気づくただの間抜けなのだ。

(ほら、俺はいつも本当に欲しいものややりたいことがわからない、後から気づいても取りに戻れない)

 あきらめたわけじゃない。忘れようと思った。どうせもう会えない。

だが、そこにいるはずのない人を、気づかぬうちに探し、求めていた。そのことにすら気づかなかった。

(本当に、始まる前に終わったのか?始まってもいねえじゃねえか、和成。だったら)


「やっぱり、進藤くんだ」

 和成が顔を上げると、少しだけ大人びた表情をした里穂が目の前に立っていた。

「まだ、マフラー使ってるんだ。手紙を…ありがとう」

「読んだ、のか」

 和成の問いに、里穂は表情を変えず小さくうなずいた。

「キャンディは全部食べた…缶はヘアピンとか入れて使ってる」

里穂らしいなと、和成は思った。

「そういや、飴が好きだったな」

「一緒に食べたい人がいないのに飴だけ残って…味気なかったよ」

(一緒に食べたい人って誰のことだ?)和成はその言葉がひっかかった。

「そうか?飴は飴だろ」

里穂は和成の言葉が耳に入らないかのように言った。

「次はコーヒーとストロベリー&ラズベリーがいい」

「おいおい、また俺に飴をねだるのか…」

「だーかーら」

里穂は眉を吊り上げた。

「飴って言わないって言ってるでしょ」

 ああ、この台詞、この声色。全然変わっていない。本質は同じだ。

「飴だろ。俺に最初にくれたのは不二家のポップキャンディ。掛川さんは…たいてい俺に飴をくれたが、俺からあげられたのはあのキャンディ缶だけだったことが今も心残りでな」

里穂はふんと鼻を鳴らした。ただ風邪気味で空気が冷たいからだけなのかもしれないが。

「で」

「次があるなら、直接渡したい。あんな伝言ゲームみたいな方法じゃなくて」

(伝言ゲーム、ねえ)里穂はその言い回しがおかしかった。

「自分で買ってきたなら知ってると思うけど、普通のお店じゃ扱ってないよ」

「ソニプラはもうないんじゃないのか」

 自分が高校生の時に勇気を出して入ったソニプラは、駅前ビルの再開発で郊外のイオンに移ってしまった。

「ターミナルプラザの成城石井で見つけた」

にやりと笑う里穂の表情に、和成は呆れた。

いや、わかっているのだ、彼女の本当の望みは、キャンディ缶を一緒に買うことではない。今度は間違えてはいけない。和成は気を引き締めた。

「せ、成城石井か。そ、そいつは気づかなかった」

声が裏返る自分が滑稽だ。

「くれるのはキャンディだけ?」

「ち、違う…そうじゃない…」

和成の声が震えた。全く自分は肝心な時にチキン野郎かよと心の中で悪態をつく。だから大事なものをしっかり手に入れることができないんだ。このまま同じことの繰り返しで一生を終えるのかと、和成は自分の心に問うた。


 アトリウムの冷たい空気で鼻の頭が赤くなった里穂は、次の言葉を待ちながら体を固くした。和成は何を言いたいのだろう。予想がつかない。一度分断された関係の相手の気持ちは、直接相手から聞くよりほかないのだ。

 和成は、自分の巻いていた鍵盤柄のマフラーを外して里穂の首に巻いた。

「ずっと預かってたから、返そうと思って」

「それで、飴を渡してさようなら?」

「なんでそうなる」

和成は顔をしかめてアトリウムの大きな窓のほうを眺めた。アトリウムは日没の夕日に染まり始めていた。

「始まっていないものは、終わってもいない」

先程の里穂の言葉に呼応するかのように、和成は言葉を紡いだ。

「それなら。ここから始めればいいんじゃないか。違うか?」


里穂の唇が震えた。言葉にならない思いを引き取ったのは和成だった。


「もう一度会えてわかった。俺は君が好きだ。ずっとずっと、好きだったんだ」


泣くまいとこらえていた里穂の瞳から、一筋の涙が頬を伝って落ちた。


「…寒い」


微かな声で里穂は呟いた。夕暮れのアトリウム。ガラス張りのフロアの空気は冷え切っていた。


「俺といたら暖かい。俺は体温が高いから。掛川さんは確か、低体温だっただろ」

「よく覚えてたわね」

「覚えてて当然だろ」

和成はゆっくり近づいて里穂を抱き寄せた。

「もっとくっつけ。風邪、引くぞ」


「進藤、くん」


里穂は和成の腕の中で顔を上げ、呼びかけた。


「私も…あなたにもう一度、会いたかった…。ずっと、会いたかったけど、怖くて…探しに、行けなかったの」

「その気持ちは分かるさ。俺もだ」

「でも、また、会えた」

「うん」

「…私も、もう一度進藤くんに会えて分かった。進藤くんが、す…」

 和成が里穂を抱き寄せる腕の力が強くなった。

「…最後まで、言わせて」

息を切らしながら、里穂が呟いた。

「今度は、ちゃんと、伝えたい。もう、後悔したくないの」

「里穂ちゃ…」

里穂は和成を見上げた。そのしぐさがたまらなく愛おしいと、和成は感じた。

「進藤和成くん。私は、あなたが大好きです。ずっとずっと大好きでした」

「うん…やっと、分かった」

「…やっと…言えた…」

「はは。今度はちゃんと、許可取るよ。前みたいに勝手にしないで」

「勝手に?何を」

「里穂ちゃん、キス、してもいいか?」


和成の言葉に、里穂は頬を染めて和成の胴に両手を回し、抱きついた。

和成は里穂の顎を引き寄せ、唇を重ねた。


 新しい日々が、始まる予感がした。

                      

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