別れの旋律

 センター試験が終わり、学年末試験が終わって、2月の私立受験のころになると、どのクラスも全員が教室に揃うことはなくなった。和成は行くつもりのない私立の併願の大学を1校だけ受けた。里穂と顔を合わせるのが気まずく、第二音楽室から足が遠のいた。その頃には、第二音楽室からピアノの音が聞こえることはなくなった。クラスが違う里穂とは学校でもすれ違うだけだったが、和成も夜中の走り込みをすることをやめ、受験勉強のため机に向かっていたため、夜に里穂に会うこともなかった。

 2月の11日から自由登校となり、私立大学に決まった生徒はほとんどが学校にこなくなった。授業はほぼ消化されていたから、卒業式の練習が始まる25日まで和成も家で試験勉強をして過ごした。


 卒業式の3月2日。

3年間、電車とバスを乗り継いで通ったこの学び舎もこれで最後だ。もっとも、国公立の発表があったらまた高校へ来ることはあるかもしれないが、その時はもう高校生ではない。散り散りになるクラスの仲間たちと互いに激励し合ったり、恩師と写真をとったり、男子バスケ部の後輩たちから別れを惜しまれたりしながら、和成は最後の日を過ごした。高校生にもなると、卒業式後に親と帰宅するものはほとんどいない。仕事が休みの母が式に参列したが、卒業生は最後のHRのため各々の教室に入り、親とは別行動だった。


 中学時代からあれほど好きだったバスケットボールに対する情熱は、すっかり冷めていた。どのみち、スカウトされるほどの才能は自分にはなかった。180センチの身長が無駄だなと和成は考えた。おそらくこれからは、競技者としてバスケットボールに関わることはないだろう。中学・高校時代の部活なんて所詮そんなものなのだと和成は思った。

 進路も併願の私立大学の工学部には受かったため、たとえ国立の受験がだめだとしても結局無難に「理系」ならではのものになりそうだし、自分はそんなふうに過ごしていくのだろうと考えた。それほど行きたいと希望したわけではない高校だが、無難な生活、そこそこに充実した部活、なんの問題もない。あとは進路が決まれば万々歳だ。

 和成は卒業式が終わってパイプ椅子が片付けられた体育館に足を踏み入れ、後輩たちの寄せ書きだらけのボールを取り出した。

 残っている生徒もほとんどおらず、運動場も体育館も静まりかえっていた。ここで3年間過ごした、ということが信じられないが、それは真実だった。なんの悔いもない、そう思った。

 和成はドリブルをして、ダンクシュートを決めた。練習ではばっちりだったのに、試合の時は一度もダンクシュートが決まらなかった。

(最後の試合でこれが決まってたらどうなっていたんだろうな)

それでも、全ては結果論だ。和成はボールをスポーツバッグにしまって、体育館を出た。

 

 その時。

 どこかからかすかにピアノの音が聞こえてきた。

誰が弾いているのか。和成は、音のする方向から、第一音楽室ではなく第二音楽室だろうとあたりをつけた。

 北館の廊下はもともとあまり日当たりがよくないこともあり、ひんやりとしていた。3月はじめだが、肌寒い。朝は出ていた太陽が雲に隠され、気温が少し下がっていた。和成はぶるっと身震いをして、学生服のホックをかけ直した。

 すっかり来ることのなくなった、北館の第二音楽室に至る階段を登ると、音は少しずつ近づいてきた。

 第二音楽室の細いガラス戸から覗いてみると、やはり自分の思った人間がピアノを弾いていた。

 よく練習していた、課題曲のチェルニー50番でもなく。

 受験を諦めてからも弾き続けていた市芸の課題曲のバッハのプレリュードでもなく。

 苦戦していたベートーヴェンのソナタでもなく。

 聞いたことがないような、しかし胸に迫ってくる曲だ。かなり乱暴な弾き方ではあるが。

 (あ、また音を外した。…まただ。…走ってるな…落ち着け、落ち着け)

 和成は、スポーツバッグの中からよれよれになった青い紙袋を取り出し、内ポケットに入れていたカードと筆箱を取り出した。そして、スポーツバッグを椅子代わりにしてカードに青いボールペンで何かを書き始めた。文章を書くのが苦手な和成が、珍しく筆を止めることなく文章を書き上げた。カードを一瞥すると、大きく息を吐いた。そして、カードを二つ折りにして、封筒に入れた。少し考えたあと、封筒に付属していた金色の「For You」という文字が書かれた封をするためのシールを貼って、紙袋の中に突っ込んだ。

 少し開いている第二音楽室のドアから滑り込ませようと考えたがうまくいかず、仕方なく隙間にはめ込むように紙袋を置いた。

 不意に、曲が変わった。

この曲は、和成が知らない曲。ため息のように切なく、胸を打つ悲しい曲。

12月のあの日、里穂の唇を強引に奪い、欲望に任せて彼女の胸をまさぐったことを和成は改めて後悔した。あんな行動に出た理由は今ではわかっていた。溢れる激情を抑えきれず、半ば本能に近いところから出た行為は決して相手を思いやってのものではない。自分はただただ、欲望に負けてしまった。そのことを改めて思い知らされ、頭を殴られたような気がした。


 (あの子が欲しかった。身も、心も。全部奪い取りたかったんだ)


 和成は顔をしかめて大きく頭を振った。褒められた振る舞いでないどころか、きっと相手を傷つけたに違いない。

(あんな形で、俺の本当の気持ちが分かるなんてな)

会えなくなってから、逆に思いは募った。ふと気づくと、勉強の手を止めて里穂の柔らかい笑顔や、自分の手が里穂の手に触れた時の熱や、里穂の声を思い出した。

(本当は、あのときそうなんじゃないか、って思った。確信は持てなかったけど)

 図書館の書架に里穂を押し付け、隠すように覆った時、はっきりと里穂のことを「女の子」だと意識したことを和成は思い出した。微かに香る髪。顎の下の頭。自分の心臓も激しく打ち付けていたが、制服を通して感じた里穂の胸の豊かなふくらみとともに、心臓の鼓動も愛しいと思ったのだ。あの日まで時間を巻き戻したかった。たとえそれが無理な相談だと分かっていても。

 あの時、確信していればこんなことにはならなかったのかもしれない。

 12月のあの夜に触れた里穂のやわらかな唇や、抱きしめた体の感触がふと思い出され、罪悪感とともに悶え苦しんだ。


 迷いを打ち消すためにあれから何度か、真夜中の街へ走りに出たが、里穂には会うことができなかった。いや、会えなくてよかったのかもしれない。会ってしまえば、抗えない欲情の力で彼女を傷つけたかもしれないから。それほど強い思いが自分にあることを知った和成は、迷いをずっと隠しきれなかったのだ。

 和音の動きから始まる前奏。淡々と流れる波のようなアルペジオ。胸に刻まれるメロディ。トリルがきらめき、浮かび上がる。

(なんだ、ちゃんと感情込めて弾けるじゃないか、里穂)

曲想が上手く出せない、優等生の面白みのない演奏しかできないと悩んでいた里穂の、これほど感情を込めた演奏を聴くのは、和成も初めてだった。そして彼女が自分から離れてしまった理由は自分が性急な行動をとったことが引き金ではあったものの、彼女が悩んでいることを自分には背負わせたくなかったのかもしれないと思い当たった。

 和成は目を閉じた。初めて正面から里穂の顔を見て、言葉を交わした日を思い出した。彼女は何かに苛立っていた。それは結局、自分も同じだった。

自分は、里穂の心に寄り添っているとずっと思っていた。心のわだかまりを解いて、彼女の心を開放する役目は自分だと勝手に決めていた。だがどうだ。結局自分は肝心な時に彼女の役に立たなかったじゃないか。それどころか、ひょっとしたら彼女を怒らせ、不快にさせてしまったのかもしれないと思うと、胸が苦しくなった。

(俺ってひょっとしたらすげえバカなのかもしれない)

和成は頭を掻きむしった。

 曲が終わったとき、和成の目から涙があふれた。なぜこんなにも涙が止まらないのか、和成には分からなかった。ただ、なにか大事なことが始まる前に終わってしまった気がした。和成は呟いた。

「里穂ちゃん、ごめん…」

彼はそっと第二音楽室を立ち去った。今の自分では、彼女に顔向けできないと思った。悔いなどないと思っていた高校生活最後に、実はとても大きな後悔があることを知らされ、身を削られる思いで和成は校門をくぐった。


 

 これで高校の音楽室のピアノは弾き納めだと考えた里穂は、今まで練習してきた試験曲ではない曲を弾きたくなった。

 中学のコンクールで弾いた、モーツァルトの幻想曲。

 音大なんて受けないと決め、ピアノをやめようと思った高校1年生の発表会で弾いた、シューマンの飛翔は、手がもつれてまともに弾けなくなっていた。

 そしてふと、一度もレッスンで見てもらってもいない、ショパンの遺作のノクターンを弾こうと思った。楽譜は持っていたから。

 ノクターン1番は中学の時にレッスンに持っていったが玉砕した。2番は仕上げたが、甘すぎて、里穂の好みとは言えなかった。三田先生からも「里穂ちゃんにはちょっと違うわねえ」と言われ、自分はこういう情感の出る曲は得意じゃないんだとずっと思っていた。その後、三田先生が何も言わないことをいいことに、ノクターンは勝手に封印してしまった。

 葉里音大の冬の講習会の帰りに寄ったヤマハで、ふと手に取った楽譜に入っていた、知らないノクターン、「遺作」と呼ばれる嬰へ短調の作品。「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」と呼ばれている。のちに映画「戦場のピアニスト」で使われることになる曲だ。

 弾きながら、知らないうちに涙が滲んできた。悩みながら受けて受かった、それほど行きたかったわけではない緑台高校、部活をやっていなかったから入ってみたかった合唱部。高校ではやりつくしたから悔いがないと思った。

(違う…)

違っていた。後悔だらけだった。


 (気づいたのはきっと、彼に出会ってしまったからだ)


大柄で、それでいて窮屈そうな彼は、自分のあんまり楽しいとも言えない話を黙って聞いてくれた。

聞いてくれそうな気がして、つい色々話してしまった。

話すようになったのは高校3年生になってからだったのに、もっとずっと前から一緒にいるような気持ちになっていた。男の子と他愛のない話が出来たり、悩みを相談できるなんて思ってもみなかった。そんなことができる自分に戸惑った。


 半ば強引にコンサートに誘ったのも、一人で行く決心がつかなかっただけでなく、何か口実に和成と会いたかったのかもしれないと里穂は思った。和成の横顔を見ていると切なく、心が締め付けられる。そのくせその横顔をずっと見ていたい。甘くて、苦くて、せつない気持ち。和成と話すと気持ちが落ち着き、時に幸せな気持ちに包まれた。それだけに、会えないときは苦しくなった。知らないうちに相手を求めていた。それが何を意味するのか分からなかった鈍感な自分に、里穂は呆れた。

 珍しく自分から学校祭実行委員に立候補したのも、今思えば後悔だらけの高校生活に悔いを残したくないと思ったからだ。そして、そう思ったのは和成と話をしたからだった。一緒にいると楽しかった。時間が経つのがいつも早かった。いつまでもこんな日々が続くと思っていた。


(ずっと友達だと思ってた。だけど)


 図書館の書庫で体を書棚に押し付けられ、いわゆる「壁ドン」状態になった時のことを里穂は思い出した。心臓の跳ね上がる音を和成に聞かれたくなかった。微かに思い出す、シーブリーズの匂い。逞しい胸に抱かれるのが心地よかった。たとえほんのわずかな時間だとしても。あの時里穂は自分の中の「女の子」の部分が現れたことに驚いた。自分を抱きしめる和成の腕は力強く、その身を委ねてしまいたいと一瞬思ってしまったことを思いだし、里穂は胸が締め付けられた。


(あの時は分からなかった…自分の感情をどんな言葉で表すのか、知らなかった)


自分の心を持て余し、余裕がなかったあの時。突然和成に強引に唇を奪われた。それで、初めて自分の気持ちがはっきりと見えた。

(進藤くんが、あんなエッチなことしてくるとは思わなかった)

そんな風に思っても、嫌ではなかった。不快にもならず、失望もしなかった。

 今はっきりわかった。自分は、和成に「女の子」として見てほしかったのだ。情熱的なキスを思い出すと顔が赤くなったが、やがてそれは甘く、切ない思いに変わった。

(全然、嫌だなんて思わなかった…。私の心の箍が外れてたら、ひょっとしたらもっと、もっと、って、求めていたかもしれない…)

 里穂はそっと自分の唇を薬指でなぞった。はじめてのキスは、思った以上に甘く、切なく、心が溶けそうだった。


 ただ、怖かった。突然のことで、自分が和成の気持ちを受け入れるだけの心の余裕が全くなかった。


 なぜ、今。

 なぜ、こんなときに。


混乱した気持ちのまま、落ち着こうとして和成から離れた。そしてそのまま夜に会うことはできなくなった。

 里穂も一度だけ、夜に家を抜け出してみたことがあった。だが、当然のことながら和成と会うことは出来なかった。学校でも会えず、連絡先も知らず、偶然何度もよく会えたことに改めて里穂は驚き、二人をつなぐものなんて本当は何もなかったのかもしれないとまで落ち込んだ。


 受験のことだけを考え、里穂は和成のことを考えないようにしていた。

 だが、入学試験の時、ピアノの前に座って真っ先に考えたのは和成のことだった。無心で弾いたのはあの時が初めてだった。和成が「大丈夫だ」と、自分の手を取って暖めてくれるような気がした。

 終了を告げるベルの音が鳴ってもしばらく、里穂は椅子から立ち上がれなかった。それほど没頭していたのだった。

 夢中だった。あの演奏を一番聴いてほしかったのは…


 「しんどう、くん…」


もう一度、頭を振って言い直した。


 「かず…なり…」


一度も名前で呼ばなかったその人の名前を口にすると、胸が締め付けられるような切ない気持ちに襲われた。


ノクターンを弾き終わって、休憩のために立ち上がると、第二音楽室のドアが少し開いている。なんとなくすきま風が吹いているような気がしたのはそのせいだったか。ドアを閉めようと近づいて、里穂は何かがドアに挟まれているのを見つけた。

クシャクシャによれた、青い紙袋だった。

 袋をあけて、里穂は微笑んだ。

(覚えていて、くれたんだ)

それは、イギリスのシンプキンの缶入りキャンディー、里穂が食べてみたいといっていた、ミックスフルーツ味とチョコレートミント味が1缶ずつ入っていた。

一緒に、カードが添えられていた。ルノワールの「ピアノを弾く少女」だ。どんな顔をしてこれを買ったのかと思うと、里穂は思わず笑みがこぼれた。ただでさえ悪筆と言われたその人の、乱れた文字を見た。


「掛川里穂さんへ


本当は、会って伝えたいとずっと思っていましたが、顔を見ると言えなくなってしまうと思って手紙で伝えることにしました。


 君に会えてよかった。一緒に過ごした時間はかけがえのないものでした。

俺が馬鹿な行動をとったことで怒らせてしまってすみませんでした。

あんな形で自分の気持ちをぶつけてしまうまで、自分の気持ちに気づくことができませんでした。

今更迷惑かもしれないけど、伝えます。


 里穂ちゃん


 俺は


   君が好きです


                 今迄ありがとう


               進藤 和成」


読みながら、涙が溢れてきた。


そうだ。


「…進藤君が…好き…私も…好き…なのに」


 思わず、声に出ていた。そんな自分の声に驚いた。

 これは、自分の本当の気持ち。初めて認めた正直な気持ち。


 でも、その気持ちをはっきり認めるのが怖かった。

たった18年の人生しか送っていない自分に、この先のことなど予想できなかった。どんなに情熱的に求められるのが嬉しくても、18歳の自分には持ちきれない大きな想い。受け止めるには自分はまだ子どもだと里穂は感じていた。

  ぎりぎりのところで背水の陣を敷いた状態で、受験以外のことを考えると全てが崩れてしまうような気がした。立っているのがやっとだった。だから。



 まだ、何も始まってなかったのに、彼の手を放し、扉を閉めたのは自分だ。

失うまで気づかなかった自分の愚かさを、里穂は呪った。

 自分の気持ちがはっきりした今こそ、自分の全てを彼に奪ってほしかった。あの12月の冷えた夜空の下ではなく。


「い…やだ…進藤くん…会いたいよ…」


  殴り書きのような悪筆の手紙を抱きしめ、里穂は声をあげて泣いた。

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