第1話 立ちぎれ

 琴の弾き方を教えてくれたのはクーロであった。


『頭がわるい? あなた、そんな自分を卑下してはいけないわ。さ、もう一度』


 目の前に琴がある。

 ラティはその弦をゆっくりと弾いた。


『ほら、一節できた。上手。あなたは上手だわ。諦めてしまわないでね』


 深夜、二本の蝋燭の揺らめく中、クーロの部屋に妙やかな調べが流れる。

 クーロという芸者は、貧しいとはいえ騎士の家に生まれた。

 貧しい騎士階級の次男三男が芸者の手伝いをするというのはよくある。しかし、クーロは少し事情が違い、ほとんど身売りに近い状態で置屋へ来たのだという。


『……おもしろい話ではないから』


 クーロ自身から聞いたことはなく、女将が時々そんな話をする。


『芸は好き。お琴を弾いていると、すべてが忘れられる気がするもの』


 ラティ自身は、身売りされた身の上である。

 父親がギャンブルで作った借金、その返済をするために売られた。それも格安だった。赤毛で、痩せぎすで、しかも幼い。とてもではないが娼婦として稼ぐことはできそうにない。かといって読み書きもできず物覚えも悪く、他に役立ちそうなこともない。

 十ゴールドで買いたたかれた。

 相場の半額。人の値段としてはあまりに安い。

 おめえは役に立たねえな、というのが父親からの最後の言葉だった。


『あたしが仕込みますから、ここへ置いてあげてください。ね、母さん』


 母さんというのは、女将のことだ。

 置屋ノルンではそう言った。あちこち回された挙句にたどり着いたのがこの店で、ラティはここでクーロに出会った。何が気に入ったのか、クーロはラティを傍に置いた。

 叩かれたことは一度もない。

 叱られたのは、自分はバカだから愚図だからと卑下したときだけ。

 少しでも物を覚えると褒められた。

 はじめラティは怖かった。いま怒られないということは、いずれ酷く怒られるのではないか。叩かれないということは、後でもっと酷い目にあわされるのではないか。


『安心なさい』


 けれど、そうではないということがやがて分かった。

 褒められると琴を弾くのが楽しくなる。一つうまく行くとクーロが喜ぶので、次第にラティは曲を弾けるようになっていった。中でも認められたのがクーロの十八番、

〈ピッキダーエ〉

 大昔には秘曲とされたというこの幽玄な曲がうまくいった。


『もう、お客様の前で弾いてもよい腕だわ』


 クーロがそう言ったのは、八十日と少し前。

 メオロ酒造の若旦那にお聞かせしよう、と話をした。それが初めての一人前の稼ぎになるはずだった。クーロはそのころ輝いていた。初めてまっとうな恋というものを知り、ラティも一人前に近づき、これまでにないほどに順風だったのだ。


「クー姐は知らなかったと思います」


 そんなクーロを見て、ラティは。


「若旦那が来なかった日、あたしは少し、ほっとしていたんです」


 ラティは嫉妬していた。

 若旦那に惚れていた、というのではない。ラティにとってクーロは命の恩人であり、親以上に親らしい存在であり、いっそのこと神と呼んでも良い存在だった。

 そしてラティの知るクーロとは目元にいつも優美な陰があり、優しくて、物事にこだわらず、どこか諦めたような憂いの表情をただよわせる美人であった。


「若旦那が来てから、クー姐は変わりました」


 男に惚れて前日に髪を結い、眠れないと惚けるような人ではない。


『母さん、若旦那、まだ来ない』


 翌朝の早くからそわそわとしている様子を見た時、ラティはもやもやとした。


『母さん、もうお昼だわ。ねえ、母さん』


 それまでにもないではなかった。けれど、その時にはっきりした。


『母さん、あたし……振られたのかしら』


 ラティは、クーロを若旦那に奪われることが嫌だったのだ。

 それは自分の我がままだと知っている。


『母さん、お手紙、書いていい? お店の邪魔にはならないようにするから』


 渡された手紙を川に捨てようという考えがよぎったこともある。

 けれど、すべてメオロ酒造へ届けた。


『お手紙、書いていい?』


 日に日にやつれていくクーロの姿を見て、かわいそうだと思う。


『……若旦那は……』


 同時に、自分に頼り切るクーロに、ラティは暗い喜びを感じてもいた。

 これは、いけない。よくない感情だ。

 そう思った。

 クーロはこれまで苦労を重ねており、ようやく人生が華やぎ始めようというところだったのだ。難しいことだとしても、クーロが若旦那と結ばれればこんなに良いことはない。

 そう思うべきだと、頭では理解している。

 だから秘めた思いを表には出さない。口にもしない。

 ただ、思ったのは確かだった。


「クー姐、クー姐は……」


 二本の蝋燭が揺れている。

 この八十日の間に、何度も思っては打ち消してきた。

 このままクーロが亡くなったなら、永遠に自分の姐さんでいてくれる、と。

 いや死んでは元も子もない。

 わかっている。

 けれど若旦那のところに行けば、いずれにしろ自分の姐さんではなくなる。

 自分から離れ、別の誰かのものになる。

 それならば、いっそ。


「生きたい、ですよね」


 外でカラスが鳴いた。

 窓の外はまだ暗い。各店が軒先につるしたランタンの明かりだけが部屋にちらちらと入ってくる。しかし、あちこちからあがる遊びの声も絶え始めていたから、もう夜明けまで時がないことはわかった。クーロの蝋燭はいよいよ溶け、炎はいまにも消えそうである。


「クー姐」


 蝋燭が揺らめいた。

 ベッドに眠るクーロに、ラティは口づける。


「ごめんなさい」


 琴の音が滞る。

 かあ、とカラスが鳴いた。

 夜空が黒から紺へとまだらなグラデーションを描く。彼方から一条の光が伸び、窓から入って部屋を照らしていく。そこにはもう蝋燭はなかった。クーロはベッドに、ラティは琴にもたれるように横になっている。ラティの指先が弦から離れ、一音高く響いた。

 空が青い。もう夜明けのようである。

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