第4話 死神
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「くく」
マヌエル伯爵は笑いがこみあげてくるのを感じた。
人生の絶頂期があるとしたら、それはいまである、とマヌエルは思う。この国の実権をついに握り、長年思い描いてきた改革を自由に行うことができる。もちろん、それが成功する保証などない。ないが、失敗する気が起きなかった。不安が全くない。
(大病をわずらうと、変わる人間がいると聞くが)
自分がそうだろうか、と思う。
(こんな気分は、あのとき以来だ)
ラガン城の冷たい土の上に転がったのは、もう三十年も前の出来事である。
『このようなところで、いかがされました?』
あの日感じた失望、あの日見た光。
――マヌエルにとって、それは太陽の光に見えた。
現伯爵、マヌエル・オルグはもともとラガン領の騎士階級に生まれた。算用術に優れ数字に明るく、騎士でありながら商人顔負けの商才を見せて家を栄えさせた。
『マヌエル、神童なり』
領内の学問所では、そのように評価され、やがて城に取り立てられた。
ラガン領は国内でも有数の武張った気風の土地である。経済観念に疎いため、飢饉が起きると下級の騎士が特に飢える。それでも苦しいなどと口には出さず勤めに精を出し己を鍛えるのが是とされるため、ひ弱で賢しく金のあるマヌエルは恨まれやすかった。
マヌエルは当時金貸しのようなこともやっており、騎士にも貸した。しかし、返す当てもないくせに無理に借り、返せぬとなると逆恨みする連中ばかりであった。
『人の心もない守銭奴め』
そう唾を吐くやつはまだましで、
『これが証文だな、こいつめ、隠しおって』
闇討ちをして証文を破いていくような、どうしようもないやつもいた。
ラガン領の騎士は確かに戦のある時は活躍する。しかし仮想敵もろくにいない平和な時代には無用の長物であり、それが何世代にも渡り、いまや金喰い虫でしかなかった。
『領主様へこちらの案をご覧いただきたく』
領内の政治を変えねばと、上役を通して改革案を出したこともある。
『立場をわきまえよ』
その文書は読みもせずに目の前で破り捨てられた。
マヌエルは自分の能力を把握しており、そしてそれを世のために活かさなければならないと考えていた。商人たちは同意した。農民たちは、よくわからないようだった。騎士たちは反発した。反発の理由といえば『生意気だ』というそれだけであった。
ラガン領において上下関係は絶対である。どのような理由であろうと上のものに逆らうことは悪である。発言の正しさなど関係がない。上役の言うことが絶対だった。
それでも、変えようと努力はした。
『このままでは領地が持ちませぬ。流行り病の対策も十分ではないのです』
『今年は不運が重なった。こんなのは続かん』
『来年も同じことが起こらないとなぜ言い切れるのですか』
『わしはラガン領で数十年生きておる。そのわしが言っとるんじゃ』
この翌年、流行り病の影響で収穫量が激減した。
『もういかぬところまで来ております。どうか、お聞き入れください』
『くどい。お前が言うたびに悪いことが起こる。お前が引き寄せているようだ』
『なにを、なにを言うのです!』
『お前は疫病神だ、領主様にお前の言葉など誰が伝えるものか』
『領地がどうなってもよいのですか!』
『お前ごときがラガン領を語るとは何様のつもりだ!』
たぶん、若かったからだろう。
そのころのマヌエルは、正しいことを筋道立てて説けば誰もが納得してくれると思っていた。正しいということは、間違いがないということだと思っていた。
それが違うと気づいたのは、城の隅で転がることになったときだった。
なおも食い下がって上役に意見したマヌエルは、数人がかりで殴られて追い出された。若いのに出世し、賢しげなことばかり言うマヌエルを恨むものは多く助けはなかった。
誰にも理解はされず、なにひとつ変えることはできない。
冷たい土の上に転がりながら、
(もう、よい。何をしたところで……)
マヌエルはすべてを諦めようと思った。
自分の行動に意味を見出せない。
何のために努力していたのかがわからない。
必死になって変えようと励み、そのすべてがなんの結果ももたらさない。
無駄だ。すべては……。
『このようなところで、いかがされました?』
琴の調べのような声が聞こえ、マヌエルは顔をあげる。
『ひどいお怪我……安心してくださいな、いま人を呼びますから』
『あ……』
『お任せください。すべて、わたくしがよいようにいたしますからね』
マヌエルが言葉に詰まったのは、怪しんだからではない。
その女性があまりにも美しく、人間を見たという気さえしなかったからである。それは輝いていて、どうしようもなく眩しくて、太陽のように直視できない人であった。
名を、リンド・ラガンという。領主の娘であった。
『まあ、大変。気を失われて。誰か、早くいらして』
以前から噂は聞いていた。
ラガン領の至宝とまで言われる娘である。その肌は白く髪は輝くような金。瞳は蜂の蜜を集めたような琥珀色であり、すべてが黄金律のもとに作られたように均整がとれている。
春の女神も恥じいる、と評された。
『……む』
マヌエルは理性の人であった。これまで恋だ愛だにのぼせ上ったこともなければ色町に入り浸ったようなこともない。女性に心を奪われることは生涯ないと思っていた。
『お気づきになられて? 熱は、ないようだけれど』
マウエルが気を失って、次に目を覚ました時はベッドの上であった。
額にリンドの手が触れていた。羽で撫でられているかのようにくすぐったかった。温かかった。親鳥のような温かさだった。どうしてかマヌエルの頬に涙が流れていた。
『どこか痛いところがあって?』
『ぼくごときに触れては、お手が汚れてしまいます』
『汚れたら洗えばいいのです。どうして泣いているのですか』
『ぼくは、あなた様と言葉を交わせる身分ではありません』
『あなたがどういう人かはわからないけれど』
リンドはハンカチを差し出して微笑んだ。
『わたくしという人間が泣いている人を放り出せないの。だから諦めてくださいな』
促されるまま、すべて話してしまったのは心の弱さのせいだろうか。
『……なので、騎士などやめようと思うのです』
『それは、いけません』
『いけない? ぼくが居たところで何もできない。なにひとつ変わらないのに』
『いいえ、あなたはできます』
『何を根拠に……』
『根拠なんて、そんなの、おかしいわ』
ころころと玉を転がしたようにリンドは笑う。
『わたくしが言うのです。十分でしょう』
『……ですが』
『根拠なんて、生まれてこの方、わたくしは持ったことがありません』
マヌエルは絶句する。
『信じなさい。神はそのように導かれます。かくあれかし』
想定外の人間だった。リンドはマヌエルの知る常識を叩き壊す人間だった。奔放で、自由で、それでいて自分の行いに絶対の自信を持ち、だからこそ輝いて見える。
微笑むリンドの、その笑顔にマヌエルは呑み込まれた。
『信じます』
マヌエルにとって、それは女神の微笑みだった。
それからというもの、マヌエルはあらゆる方法を用いて自分の案を通すようになった。マヌエルは本来、賄賂や縁故、金を使った懐柔や裏から手を回すようなことは嫌っていた。けれどこの時からそんなこだわりを一切捨て、目的を果たすことを第一とした。
それは、できると言ってくれたリンドを裏切りたくなかったから。
信じるといった言葉を嘘にしたくなかったから。
そして。
あの美しい姿に、少しでも近づきたかったから。
『お輿入れですか。……それは、おめでたい。いずれへ』
ただ、考えてみれば当然であった。
リンドの美しさは諸方に鳴り響いており、縁談の話は数多あった。この容色に加えて身分とて卑しからぬのだから、こうなるのも自明の理といえた。
『陛下とは、国王陛下ですか』
世の中には神に愛される人間がいる、と考える。
このころラガン領は窮地にあった。経済的に破綻しかけており、このままでは領主も管理責任が問われ領地没収となると見られていた。にも関わらずリンドと国王との縁談が進むことで新たに領地の加増があり、本拠地をそちらの領地に移した。
『めでたいことだな』
輿入れの列がラガン城下を出発するころには、マヌエルは領内の家老の側に仕えるほどになっていた。これは領内がとにかく財政難であり、マヌエルの金貸し業と商人とのパイプが活きたためである。騎士たちはみな苦しく、マヌエルはもはや甘い顔をしなかった。
『リンド様は、いずれに』
『あそこの輿に乗っているはずだ。おや、何をされているのだろう』
マヌエルが城下を発つ輿へ目をやった時、カーテンが少しめくれた。見覚えのある琥珀の瞳がこちらを見て微笑む。すくなくとも、マヌエルはそのように思った。
(終わりではない)
遠のいていくリンドの輿を見ながら、マヌエルはそう思う。
これまで世の中は商業が軽んじられていたが、今後は商業が重要度を増すと見た。すなわち、身分や物品などではなく、金と人脈がものを言う時代が来るということである。
マヌエルはその時代を駆け抜けた。
『エドモントン市へ向かってはもらえんか』
家老に言われた時、すでにもう予感はしていた。
これは運命なのだ。リンドに仕えることが運命づけられている。マヌエルは本気でそう思っていた。それはラガン領主の代行として駆けずり回るうちに確信へ変わる。
『マヌエルというのはそちか』
エドモントン城へ出向くことも増えたある日、陛下に目通りがかなった。
『王妃から話を聞いたことがある。ラガン領でも活躍したようだな』
『もったいないお言葉でございます』
『経済に明るいものは少ない。そちは国府で働くべきと思うが、どうか』
辺境の地方騎士出身者が、側衆に取り立てられた。
異常なほどに順調だった。リンドに声をかけられてからと言うもの、なにか運命の大きな流れに乗ったかのように事が進む。そうしてようやくリンドに会った時、
『……お久しぶりだわ』
彼女は、妊娠していた。
それがリンドの仕事である。大いに喜ぶべきことであり、それはマヌエルも分かっていた。けれどどうしてか、まったく言葉が出ない。心を抉られたようだった。
『わたくし、不格好かしら?』
『……いいえ、変わらずお綺麗でございます。ご懐妊を存じませんでしたもので』
『お茶をお飲みになる?』
『ありがとうございます。しかし、仕事が忙しく』
リンドは間違いなく、いまだに美しかった。
自分はその美に仕えているのだ、とマヌエルは思う。ラガン領主でもない、国王でもない、マヌエルの使える主はリンドであった。しかし、そう、しかし。
(なぜこんなに、苦しいのだろう)
自分の困惑が、自分でわからなかった。
おそらく、運命が捻じ曲がったのはこの場面であろう。
『……マヌエル、王妃が』
続く不幸は、これまでの絶頂期を裏返したかのようだった。王子は死に、王妃は死に、国王は嘆き悲しみふさぎ込んだ。マヌエルはリンドの死が信じられず、その実感をしたくなくてとにかく仕事に打ち込んだ。誰もが悲嘆に暮れている間に誰よりも働いた。
べつに出世がしたかったわけではない。
マヌエルは目標を失い、ただがむしゃらに走り続けた。爵位が与えられ、大臣にまで上り詰め、ラガンを領地として与えられた。旧領主は娘の死後、病に倒れていた。
『マヌエルよ、もはやそちだけが……』
陛下に仕え、国が栄えるようにひたすら働き続けた。
どこか空虚だった。心のなかに埋まらないものがあり続けた。ふとした時に思う。それは眠る前、湯浴みをするとき、あるいは病気で寝ついているときなどに。
(陛下が、リンド様を殺したようなものだ)
それはたぶん、嫉妬であった。
もはや若くない。それが嫉妬だと認められるようになった。けれど、では笑い話にできるほど達観したかといえばそうではない。夢にリンドの姿を見て跳ね起きることがいまだにある。出会った時の無垢な姿、妊娠した時の姿、葬儀の時の姿。
夢を見たくないから、嫉妬に燃えることが恐ろしかったから、だからひたすらに働いた。いつしかマヌエル自身が思うようになった。自分は国のために働いている、国の発展が自分のすべてであり、生涯をかけた夢であり、陛下に仕えることが喜びだ。
それが嘘だということから目を背けていた。
リンドが好きだった。
陛下が憎かった。
いまでも。
いまでもそうなのである。
妻がある。息子がいる。
そして数十年経った。
それでも。
「陛下がお呼びに?」
「はい、急ぎ出仕するようにと」
「先日はそれで蝋燭が切れたと言われたぞ」
「この世のすべてはマヌエル伯爵しか知らないと思われているようです」
「側衆の連中はなにをしている」
「暇を出されています。マヌエル伯爵と比べて気が利かぬと」
「貴族出身の若造と余を比べても仕方がなかろうに……」
王妃の死後、国王陛下は無気力になられた。
その分、マヌエルが活躍できたのだが、最近は何事もマヌエルを呼び出すようになっていて困ることもある。特にこのところは些事で呼ばれることが増えていた。
「すぐに向かう。側衆は雇い直せ」
「わかりました」
「陛下の御相手も困ったもの……少し待て」
もしも、と思うことがある。
「側衆はいないのだな」
「はい」
「……こちらで手配する」
自分に対してあまりに無防備な姿を見せる相手に対して、いまならば、その喉もとに刃を突き立てられると思うことがある。実際には行わない。しかし、思うことがある。崖に立ち風景を眺める人間の背を見て、その背を押せば殺せるのだと思う人間がいる。
マヌエル伯爵の妻は公爵家であり、王族の血を引いている。
「こちらで手配をする。任せておけ。それと……すぐに行く」
もしも、陛下が倒れることがあれば。
王位継承権を持つものは少ない。遠い縁を頼ることとなるだろう。
「すぐに行くとも」
マヌエルには癖がある。自分を凡庸な人間だと思い込もうとする癖だ。
ドラマチックな行動や、ロマンチックな心理などないと考える。損得で物事を考え自分に利があることを選んでいると思っている。それは間違いだ。
一目見た令嬢に憧れて張り切ることが損得の行動か。
身分違いの恋に浮かれるのが現実主義者の行動か。
俗的な方便で誤魔化しながら、マヌエルの本質は夢想家である。絵空ごとを浮かべる芸術家たちと変わらない。彼が特別だったのは能力が理想に追いついたことである。
マヌエルの背中を押したのは、恐らく。
「……余を殺せるものは、王の御子以外には、か」
もっとも現実に即さない言葉であった。
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