第3話 百枚金貨

「女将さん、すみません、女将さん」


 戸が叩かれたのは、アラディアが置屋ノルンで薬を補充していたときだった。

 季節はめぐり、春である。プラムの他に黄色い花がよく咲いている。花曇りの空のせいでいくぶん気温は低く、すこし冬の残り香のような風も吹いていた。


「はい、どちら様でございましょう」

「すみません、マルタ横町の左官屋、ロングフェローの娘でございます」

「マルタ横町の左官屋……ああ、ロン親方の娘さん。お世話になっております」

「あの、すみませんが、女将さんおられるでしょうか」


 この日は常備薬のほかに、化粧品を頼まれていた。交易都市リュテスで仕入れた商品はまだ見せておらず、置屋の従業員たちはこれを見るのを楽しみにしていた。


「すまないが、ちょっと待っておくれでないかい」


 来客を告げられた女将が、立ち上がりながらアラディアに言う。


「構いませんが、後日にいたしましょうか」

「ま、ちょっとゆっくりしておいき。たいした要件じゃないだろうさ」


 女将が来客へ出ると、代わってアナと呼ばれている少女がお茶を持ってくる。


「粗茶ですが」

「ありがとうございます」

「ね、ね、化粧品、あたしが先に見ていい?」

「いけません。抜け駆けは皆様に怒られてしまいますよ」

「だいじょぶだって。ね、いいでしょ。どれがとっとときなの?」

「いけません」


 肩をゆすぶられ、耳元でおねだりしてくる。このアナという少女は置屋で働いているものの中でも天真爛漫で妙に距離が近く、容赦なく人の懐に入ってくるところがある。


「じゃ、薬屋さん、自分ではどれを使ってるの?」

「染屋の白衣装といいます。私は使っておりませんよ」

「そういえば、どうして顔を隠しているのかしら」


 顔を覆う布に手をかけてきたので、アラディアは身を引いてかわした。


「これは病によるものですから、ご勘弁ください」

「だいじょぶだいじょぶ」

「いけません」

「へいきへいき」


 この少女、人の話と言うものを聞かない。

 最終的には力ずくで見ようとしてくるのをアラディアが力ずくで止める態勢になり、重い荷を担いで諸方を渡るものと芸に励む者の鍛え方の差が出ようとしていたが、


「なんだって!」


 女将の荒げた声が聞こえるなり、少女はアラディアから興味を移した。

 置屋全体が静かになる。少女は壁へとすすすと近寄って耳を当て、アラディアを手招きした。一緒に盗み聞きしようということらしい。しかし、寄らずとも聞こえる。

 さきほど訪ねてきた来客との会話のようだ。


「ティナちゃん、本気かい? 自分の言っている事、わかってるのかい?」

「おとっつぁん、根は悪い人じゃないの。それに女将さんも腕は良いってほめてくれていたもの。いまは借金だらけだけど、道具さえ取り戻せばきっとまた働いてくれる」

「だからって、自分を売るだなんて」

「あたしなんて、大したお金にならないと思うけど、それでももう、これしかお金を作ることができないから。ね、女将さんお願い。あたしを買って、お金をおとっつぁんにあげてください。それでまた働くよう説教してやってください。あたし、がんばりますから」

「それで……それで本当にいいのかい?」

「はい。おっかさんも……義理のおっかさんだけど、それだけに毎日おとっつぁんに打たれてるの見て、辛いんです。お金さえあれば、きっとあの家はよくなりますから」

「ティナちゃん、お前さんまだ子供じゃないか。なんだってそこまで……」

「親を思うのは当然じゃないですか。育ててくれたおとっつぁんとおっかさんなんです」


 決心の硬そうな言葉であった。

 厳しい時代である。子供を売るというのはそこまで珍しい話ではない。けれど、子供が自ら自分を売りに来て、お金を親へあげて、叱ってくれと頼むなど、めったにない。


「ここは芸者を置くとはいえ、春をひさぐのもないではないよ。わかってるのかい?」

「わかってます。あたし芸なんてないから、そのつもりです」

「この世界の女の一生はろくなもんじゃないよ。妙な病を受けることもある」

「女将さん、ありがとう。でも、これ以外に借金なんて、あたしが返せますか」

「そういうことじゃないだろう?」

「どうか、おとっつぁんを助けてあげてください。女将さんしか頼れないんです」

「ティナちゃん、自分の幸せってもんを考えないのかい」

「あたし、おとっつぁんたちに仲良くしててほしいの。そしたらあたし、幸せなの」

「あんた……」


 すがりつくような物音がした。


「お願い、お願いします。どうか、あたしを買ってください、なんでもしますから」


 すすり泣くような声が続く。身売りをしようと言う女の子が泣いているのではない。女将さんが泣いているのだ。気づけば壁に耳を当てたまま少女も涙を流していた。


「わかった、あいわかりました。ティナちゃん、あとは全部わたしに任せな」


 少し涙声で女将さんは言うと、手を打って人を呼んだ。


「はい、はいはい! このアナさんがティナちゃんをお世話します」


 一瞬の間も開けずに扉を開けて少女が突っ込んでいく。


「盗み聞きしてんじゃないよ、はしたない!」

「母さん、こんなに孝行な良い子はいませんよ。聞いてるだけで泣けてきちゃった」

「あんたの馬鹿がうつりそうで嫌なんだよ。誰かほかの」

「おっとそうは問屋が卸さぬ。こんな話をお腰につけて、いざ、各々方討ち入りでござる」

「誰かほかにいないのかい!」

「あいや待たれよ拙者親方と申すは五十里上方妻ごめに、八重垣作るぞその八重垣を」

「……もういいよ、連れておいき」

「じゃ、あたしが着付けてくるね」


 女将さんは深くため息をつき、身売りの少女に向き直った。


「ティナちゃん、こいつ馬鹿だけど悪いやつじゃないから、とりあえずついてっておくれ」


 深々と頭を下げ、少女二人は部屋を出て行った。


「……おや、そうだった。長く待たせてしまって、すまないね」


 思い出したように女将がアラディアのもとまでやってくる。


「構いません。お忙しいようですから、化粧品はまた後日にいたしましょうか」

「すまないねぇ埋め合わせはきっとするから」


 荷を畳んでアラディアは階下へ降りていく。あちこちの部屋で芸者たちが目元を拭いているのが見えた。どうやら盗み聞きしていたのは一人二人ではないらしい。

 いま、あの少女は着付けをしているらしく会話が漏れてくる。


「……で、母さんは怖そうだけど情にもろいからね、どうせ店には出さないよ」

「それでは、困ります。ただで置いてもらう訳には行きません」

「操を立てたい人とかいないの?」

「そんな……」


 身売りの少女が言いよどむと、すかさず詰問きつもんしている。


「え、いるの? だれだれ、どんな人? いやあ、うちのクー姐も身請けされて」

「いません、そんな人」

「えー、隠さなくたっていいじゃん。あたしとあんたの仲じゃない」


 会ったばかりのはずだが。

 アラディアが玄関をくぐろうとするとき、か細い声が耳に入った。


「……もう、終わったことですから」


 置屋ノルンを出ても、まだ空は花曇りであった。

 エドモントン市に特徴的な刺すような乾いた風が黒の革羽織に吹き付ける。春とはいえ花浅葱はなあさぎの旅装だけであれば震える寒さであったが、革羽織の存在が助けてくれた。

 天下のエドモントン市といえど、こんな日は人通りも少ない。日が暮れだすとすぐに暗くなり、もう各店が軒先にランタンを出し始めていた。


「ん……?」


 こんな日は、景観に優れるクーパ橋もとっとと渡ってしまうに限る。

 なのに、橋の半ばで立ち尽くしている男がいた。


(身投げか……ただ)


 欄干らんかんに男は手をかけており、その指先が震えている。

 顔は真っ青で血の気がない。いまにも飛び降りようという様子だ。


「無駄なことはおやめになられたほうが」


 アラディアが声をかけると、男はびくりとして振り向いた。まだ若く商家の下働きのようである。唇も真っ青で、目はおびえきり、思いつめた表情をしていた。


「と、止めないでください。ぼくは……」

「別に止めは致しません。あなたはどうせ、そんなことでは死ねない」

「え……?」


 川から吹きあげる冷たい風がアラディアの羽織を打って音を鳴らす。


「人にはそれぞれ運命というものがある。死ぬときは死にますが、死ねないときは、これもまた死ねないものです。川に落ちれば船に拾われる、木で首をくくれば枝が折れるといった具合に、この運命というものには逆らえない。ですから無駄なことはおやめなさい」

「そ、そんなわけがないでしょう。飛び降りれば、ぼくは」

「死にませんよ。私もいろいろと見て参りました。橋や塔から飛び降りた人も一人や二人ではない。しかし、死ぬ運命にないものはいずれも生き延びてしまいます。老衰で死なないものはいないように、運命に抗うことのできる人間はいないのです」

「あんたは、あんたのいうことは、まるで死神だ」

「それはよい。なるほど、生と死を知ったように語る、たしかに私は死神のようだ。そこで一つお聞きしたい。あなた、どうして死にたいと思うのです。どうしても死ななければならないのであれば、あなたのその運命を、私にあきなわせていただきたい」


 吐く息は白く、あたりはますます暗くなっていく。

 男はまだ欄干に指をかけたまま話し始めた。


「商う、とは……?」

「あなたの命を、私が買いましょう。そうすれば、あなたは死ぬこともできる」

「か、買う……い、いくらです」

「いくらご入用ですか」


 肩で息をしながら、男は答えた。


「ご、五十ゴールド必要です」

「五十?」

「そ、そうです、五十ゴールドです」

「ずいぶんと大金だ」

「どうです。も、もし手に入るなら、ぼくの命なんて、いくらでも」

「事情をお話しください。その金額には理由があるのでしょう」


 男はアラディアを疑わしそうにじっと見た。顔は布で覆っており、商売道具は背に負った行李こうりである。とても五十ゴールドも持っているようには見えないだろう。

 それでも意を決したように男は話し出す。


「ぼくは……ウェストンテン地区の貴金属店シェラインのファルゼと申します」

「反対側の地区にある、大きいお店ではありませんか」

「今日、ぼくは、は、初めて旦那様から大金を任されました。得意先から大金を預かってくるというもので、ええ、こんな仕事、普通は小僧に任せるものではありません。ぼくは早くに親を亡くし、親戚の縁をたよって旦那様のところで働かせてもらっているんです。旦那様はぼくを不憫に思い、だからでしょう、目をかけて頂いていたんです」

「それで、その大金が」


 アラディアの言葉に、男は頷いた。


「得意先で捕まって、お相手をしてから出ると日は下がり、慌てて帰る途中に人とぶつかったと思ったら、もうなくて。盗られたんでしょう、五十ゴールドが失せていました」

「お店にはなんと話しました」

「話せるわけがありません。旦那様は、ぼくを信用して任せてくれたんです。お世話になっているのに、その信用を裏切るような真似をして、会わせる顔などないではありませんか。だから、ぼ、ぼくは、せめてものお詫びに、この命で償おうと……」


 橋の下を流れる川へ、男は目をやる。


「そこへ、私がこうしてやってきたわけですね」

「そ、そうです。五十ゴールドをお店へ返せれば、もう未練はありません」

「ははあ。それは、潔いことですね」

「ほんとうに、五十ゴールドもらえますか」


 男は唇を震わせながら言う。


「ええ、あなたのお命と引き換えに。ただ、もう一度お聞きいたしましょう」


 アラディアがパイプを咥え、煙をくゆらせる。

 あたりの闇は濃くなっていく。香草の匂いを乗せた白煙だけがはっきりとした色をもって描かれる。いつの間にかアラディアの手元に一本の蝋燭が現れていた。


「死ぬ瞬間というものは、勢いが失せます。川に飛び込むなり首をくくるなり、いずれの死を選んでも、その瞬間に恐怖が襲ってくるのです。死にたくない、と誰もが最期に思う」


 アラディアが蝋燭の火を指でつまむと、その炎が一瞬消える。


「ぐっ、うっ……」

「失礼。この蝋燭が、つまりあなたの命であり、その苦痛こそ死の苦痛です」

「こんな、なぜ……」

「死とは恐ろしく、理不尽なものです。いくら値を積もうと逃げられない人もいる」


 指を離すと再び火は燃え盛り、男は苦痛から解放された。


「その価値が五十ゴールドにあるとお思いですね?」

「……もちろん、もちろん、旦那様への不義理のほうが、よほど恐ろしいのです」


 肩で息をしながら男は頷いた。


「金を返して、それで死ねれば、それが本望です」

「死ぬのが、本望ですか」

「ぼくは、ぼくの命にかえても、お金が必要だった……」


 パイプから灰が落ちた。


「よろしい。では、しばらくお待ちください。五十ゴールドをお持ちいたしましょう」


 あたりから白煙が消えていく。

 アラディアの姿も消えていた。もう完全に夜になっており、男は夢を見ていたような心持がした。クーパ橋の下をのぞき込むと深まった暗闇のせいで川は黒い流れを湛え、ひんやりとした墓場のような冷気をただよわせている。


 ――ああ、ぼくは死ぬのだな。


 男はそう思ったようだった。なにかボタンを掛け違えたように、運命の位置がずれてしまったような気がする。橋の下をのぞきこむうちに、ワルハラからの足音が聞こえた。


 ――まだ、帰るには早い時間だ。


「おめえ、なにしてんだ」


 声をかけてきた男を見て、ぎょっとした。その男は奇妙なことに、この寒いのに下着の上に女物の上着をはおって泣きはらしたように目元を真っ赤にしていたのである。


 ――ああ、夢の続きか。

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