第3話 百枚金貨
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「そなた……」
マヌエル伯爵のベッドサイドに、湯薬が置かれる。
アラディアのほかには誰もいなかった。扉の外にはもちろん待機しているものの、この寝室にはマヌエル伯爵とアラディアの二人きりである。
「余が最初に倒れたとき、ウッドロウが言うておった。そなたがいずれ来ると」
「通りで、話が早いと思いました」
「なぜ、余が体を壊しているとわかった。医者も気づいておらなんだのに」
「私には、人の命が見えるのです」
伯爵は笑った。しかし、声はすぐに咳へと変わる。
これはまだ世には伏せられていることであったが、伯爵は病を抱えている。何度か倒れることがあったが、幸いにもいずれも自身の屋敷内のことである。王城への出仕時間を減らしていたが、時には血を吐くこともあるほどであった。
「……余は、もういかぬのか」
「さて、それは伯爵ご自身が決めることです」
「余が? 馬鹿を言うな、そうであればとうに治っておるわい」
「治って、なにをなさいます」
「まだ国の財政は立てなおっておらん。陛下もこもったままだ。他の役人どもは頭が固く、金を使わなければ金は溜まると思って居る。馬鹿が、金を使わねば発展もせぬ」
感情が激したのか、また咳をする。
「国の先が不安だ。余の息子も冴えない。経済を回せる人間が皆無なのだ」
「伯爵は、まこと烈士でございますね」
「おだてたところで何もならん。余が死ねば、すべては」
アラディアの手が伯爵の額に触れる。
微熱が続いているようだ。これでも昼は出仕しこれまで通り仕事をこなしている。自宅でも気を抜ききることはできず、このベッドの上だけが安息の場所であった。
「……若いころを思い出した」
ぽつりと伯爵が言う。
「すまんな、年を取り体も弱ると、余計なことを言いたくなる」
「どうぞ、そのままお話しください」
「昔から嫌われる性質だったのだ。頭でっかちで、口が回り、強情だったからな。同僚や上司に闇討ちを食らったのも一度や二度ではない。気を失う羽目になったこともある」
「この熱の出方は、おつらいでしょう」
「目を覚ました時、貴族の御息女が額に手を当てていた。美しい人だった。春の女神のように。ベッドに寝かされていて、白湯をもらった。心が安らぎ、余は泣いていた」
「すこし、香りをおつけします」
「あの方に近づきたくて、そんな下心で一層努力した。なんでもしてきた。やがて陛下に目をかけていただき、思っていた改革をはじめられた。それもまだ途上だというのに」
伯爵の額に置かれた手が、目元へ降りて視界をふさぐ。
不思議な香りがただよう。
アラディアはパイプを吸っていた。煙があたりに充満し、香草の匂いに包まれていく。人の感情も目に映るものもなにもかも、ぼんやりとさせるような匂いだった。
「もしも」
いつの間にか、ベッドサイドに蝋燭が立っている。
「もしも、伯爵が陛下を助け、国を発展なさるなら、いずれ王権を手にするでしょう」
「なにを、夢のような……」
「誓ってくださりませんか。生涯、陛下の忠臣であり続けると」
伯爵は咳をしてから、声を低くしていった。
「余がこれまで、何十年陛下に尽くしてきたと思う。侮辱する気か」
「では、陛下を助けていただけますね」
「くどい。余がこの地位に就いたのも陛下のお陰だ。頼まれずともそうする」
一本の蝋燭は短く揺らめている。
もう一本の蝋燭は、長く太く、まるで宝石のようにきらめいていた。
「それを聞いて、私も決心がつきましてございます」
湯薬を渡すと、伯爵はそれを口元へ運んだ。
伯爵の目はそちらにだけ注がれる。
「蝋燭を、替えさせていただきます」
二つの炎が交錯した。
湯薬を飲み終えた伯爵がアラディアに器を渡す。そのころにはもうパイプは咥えておらず、あたりから煙も消え去っており、ベッドサイドに蝋燭などなかった。
「おや」
寝ていた伯爵が身体を起こし、自分の胸元に手を当てる。
「もう効いてきた。胸が苦しかったのだが、なんともない」
「それはようございました」
「いや、これはすごい。本当に、咳一つ出ないではないか」
伯爵は立ち上がり、体を自由に動かしたが痛みさえしないようだった。
「まるで魔法だ。そなた、なにをした」
「私は薬屋でございます。舶来の、貴重な品がなんとかご準備できました」
「そうか、うむ、そうか。いや、助かった。そなた、名医である」
手を叩いて従者を呼びつけると、すぐに二人入ってくる。
従者へアラディアの功を伝え、特別に遇するようによく言い聞かせる。またこれを紹介したウッドロウへも褒美を出すように伝えると、アラディアへ向き直る。
「……食事などで気をつけるべきことはあるか」
「何を召し上がってもよろしゅうございます。ニシンのパイなどいかがでしょう」
「余はあれが嫌いなのだ」
「ハイラ地区では栄養がある料理としてウナギのゼリー寄せなども」
「それも、ちょっとな。スフラ国の料理人に任せることにする」
従者へ指示を出し終えると、伯爵はベッドサイドに座る。
「そなたもどうだ、聞きたいこともある」
「ありがとうございます。しかし、少し予定が詰まっておりまして」
アラディアは頭を垂れたまま続けた、
「卑しい話となりますが仕入れの費用が嵩み、お代だけお先にいただいても」
「もちろん構わぬ。いくらだ」
「五十ゴールドでございます」
伯爵は眉をぴくりと動かしたが、なにも返さずに新たに従者を呼んだ。
「ゴールドで五十持ってまいれ」
「は……わかりました。帳簿には何とお付けいたしましょう」
「薬代だ」
「薬代……薬代に五十でございますか。薬代に、五十は……いくらなんでも」
「お前は分からぬだろうが、舶来の品とはそういうものなのだ」
「なんという品でございますか」
「なんという品だ?」
ひょいとアラディアへ質問が来た。
「タイサイという百年に一度見つかるかどうかという植物を用いています」
「なるほど。それほど貴重なものであれば仕入れで難儀したであろう」
「はい」
「ほかに購うものもおらんほど貴重だな」
「はい」
伯爵が改めて従者へ言う。
「それ見たことか。はやく持ってまいれ」
「ですが五十ゴールドというのは少し過剰ではございませんか」
「ふむ、すまんが薬屋よ、答えてやってくれるか」
またひょいと話がアラディアへ来た。
言いたいことはわからないでもない。実際に命が助かった手前、伯爵からは言えないが値段が法外ではないか、値切れないのか、と言っているのだろう。
伯爵はケチである、という市井の噂は外れていない。
「仕入れるまでの間に人が何人も入っております」
「うむ。遠方からの高価な品だ、運搬、護衛、さらには買い付けるまでの仲買もおるか」
「はい」
「人件費は確かに削れぬ。なるほど、五十ゴールドでも安いくらいだ」
「はい」
「あれほど効くのも道理だ。うむ、うむ……一服の量で五十ゴールドだな?」
まだ続きそうだ、とアラディアは思った。
荷物を少し探して粉末の薬を取り出す。それを特別に多く包んで伯爵へと渡した。
「お値引きはできませんが、こちらをオマケとしてお付けいたします」
「これは?」
「先の薬は常用するには強すぎますので、こちらを食後に一服お使いください」
「おお、では、五十ゴールドはあれきりか」
「はい。あとはこの薬を一年も飲めば再発することもありません」
「そうかそうか。いや、ならばよい。ならばよいというのもおかしな話で、余は初めから五十ゴールドを持って来いというておったが、これでこやつも納得するであろう」
のう、と背中を叩かれた従者が部屋を出ていった。
「……こほっ」
「む、そなたも体調を崩しておるのか?」
「はあ、染屋の白衣装というものでございましょう」
「客ばかりではいかんぞ。余はそなたを買って居る、養生せい」
「ありがとう存じます。エドモントンでの商いが終わりましたら」
やがて五十ゴールドが運び込まれ、アラディアはそれを行李へしまい込む。
「ところで、いまさら言うのもおかしな話だが」
「……はい。なんで、ございましょう」
「顔を見せてはくれぬか。いずれ商いを任せるかもしれぬ、知っておきたい」
「……いえ、それは……やめておいたほうがよいでしょう」
「なぜだ」
「伯爵様にとって、私の顔は忌みものでございます」
「これでも地方騎士の出だ。腐れた死体くらい見てきておるぞ」
「伯爵様」
顔を覆う布にアラディアは手をかける。
「金の卵を産む鳥の、その腹には
「たかが顔ではないか。余の隠し子でもあれば分らぬでもないが」
「わかり、ませんよ。因果は回るものですから」
アラディアの琥珀色の瞳をマヌエル伯爵はじっと見た。
この色は稀であるが、伯爵の故郷では比較的多い。その色だけを見れば隠し子というのもないとも言い切れない。伯爵の妻は公爵家の出であり醜聞は控えたい。
「わかった。聞かんでおこう」
「はい。それでは失礼させていただきます」
「うむ。困ったことがあれば余の名前を出せ。便宜を図ってやろう」
「その際は、よろしく、お願い申し上げます」
額から汗の流れるのをアラディアは感じた。
屋敷を出ると凍るような風が吹いている。けれどアラディアは革羽織の前を合わせもせずに歩き出した。風にあおられて、ばたばたと裾が音を立てる。
アラディアは背中を丸めた。
「ごほっ……」
顔を覆う布、その口元が赤色に染まる。アラディアは汚れた布をはぎ取った。月は雲が覆い隠し、伯爵の屋敷から届くほのかな灯りだけがその顔を照らした。
あるいは、月はその顔を見て、己を恥じて隠れたのかもしれない。かすかな灯りでさえ反射してきらめく金色の髪、透けるように白い肌、瞳は二つの太陽のようで。
「……まこと、春の女神のようですね」
屋敷の扉が開く音がして、声がかけられた。
「あなた様は、いつも居てほしくない時におられる」
「伯爵から褒美まで頂いたのです。挨拶もせずにおくわけには」
顔を覆い直そうとするアラディアの手を、ウッドロウは軽く押さえる。
「アラディア……殿、あなたはもしや」
ウッドロウが続ける前に、アラディアはそっぽを向いて言う。
「何を仰るつもりか存じませんが、言わないほうがよいことというものがあります」
「その顔は、美しすぎる」
「騎士様が女性を口説くには、このようなところはふさわしくありません」
「僕は直に見てはいませんが、その顔は、まるで……」
「手を、おはなし下さい。力がこもっております。痛い、のです」
はっとして手を放すウッドロウから抜け出すと、アラディアは再び顔を隠した。急に動いたせいか、また、ごほごほと咳をする。ふらついて屋敷の壁にもたれかかった。
「……具合が悪いのですか? まるで伯爵様のご病気のような」
「たいしたことはありません。半年は生きる命です」
「その先は……」
「さて、人間五十年、神々の時間とくらべれば、夢幻のごとくと申します」
パイプを取り出し、アラディアは震える手で火をつける。
「まだ二十年も生きてはいないでしょう」
「あるいは、数十年生きられるかもしれない。しかし、望み薄でしょう」
「伯爵へ申し上げれば、何か手立てを打って下さるかもしれない」
「あなたのせいで、時間をかけすぎた。あの運命をお金で購うには、もう」
「なにを仰るのか……」
かあ、とカラスが鳴いた。
「あなたは、悪運がお強い」
「そんなことはない、はずだが」
「あります。なぜなら、あなたは私の顔を見たのですから」
白煙があたりを覆い、濃い霧のように視界を遮っていく。
「私の運命が、それを許さなかった。そのはずなのに、あなたは捻じ曲げた」
「それは、たまたま……」
「あなたもまた、死神にとりつかれているのです。あの先触れが証拠だ」
カラスの羽音が響いた。周囲は煙に覆われて見えなくなっていく。
「私を殺すものがあるとしたら、それはあなたの悪運だ」
「僕は、あなたを助けこそすれ殺しなど決してしない」
ぬう、と煙の中から袋を持った手が現れた。
「では、購いましょう。あなたはその言葉に誓って、私を三度見逃してください」
「金などいりません。僕の信義にかけて、あなたに必ず味方します」
「私はそれを信じられない。だから、これを受け取ってください」
「しかし……」
「受け取らないのであれば、私は二度とあなたには近づきません」
ウッドロウはそれを耳にすると袋をすぐに掴んだ。
ずしりと重い。中をあらためると、驚くほどの金貨が入っている。ウッドロウの予想をはるかに超えている金額であり、慌てて返そうと顔を上げる。
「あ、アラディア殿、どちらに……」
あたりを夜の闇が覆い、白い煙はどこかへと消えている。
アラディアの姿もなかった。カラスの羽を打つ音が彼方へと消えていく。袋を抱えてウッドロウは駆け出した。後に残ったのは屋敷から漏れるほのかな灯りだけ。
その灯りが、アラディアのもたれかかっていた壁を照らしていた。そこだけが奇妙にも赤く色づいている。しかし、その赤さえも美しく色づいており。
月は、まだ顔を隠していた。
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