第1話 立ちぎれ

 カラスが一羽屋根に留まる。琥珀色の目が一点を見た。

 クーパ橋方面から男が走ってくる。身なりは良いが相当慌てているらしく、ばたばたとした靴音が響いた。ワルハラの通りを抜けて、一軒の店の戸を叩く。


「ごめんください、ごめんください」


 勢いよく叩いたせいで、ちょっとおびえた様子で従業員が戸を開ける。


「……はい、どちらさまでしょう」

「ああ、アナちゃんか。僕だ、僕だ。すまん、クーロはいるか」

「若旦那!」


 ぱたぱたと今度は従業員が奥へと駆けていき、


「女将さん、若旦那が来られましたっ」

「若旦那? どちらの若旦那です」

「メオロ酒造の……」

「またそういうことを。いつまでたっても寝ぼけたようなことを言うんだから」

「いえ、ほんとなんです」

「あんたこの前もよその年増とあたし間違えて『母さん母さん』って呼んでたじゃないか」

「あれはあの人が性格曲がってそうで母さんそっくりだったから」

「怒るよあんたっ」

「とにかくほんとうに若旦那なの、ほんとにほんとだから」


 あんまり言うものだから女将が折れて玄関まで出ていく。待っていた若旦那は目が合うと気恥ずかしそうに笑い、軽く頭を下げて挨拶をした。


「ああ、おかみさんお久しぶり。事情があってしばらくこれず、申し訳ない」

「わ、若旦那」

「今日も時間がないがとにかくクーロにひと目だけ会いたくて来たんだ。いるかい?」

「……若旦那、クーロに会われたいんですか」

「会いたくて来たんだ。手紙を見て矢も楯もたまらず、顔だけでも見たかったんだ」

「左様ですか。……では、ご案内いたしましょ」


 置屋ノルンの階段をあがり、若旦那のクーロの部屋までくる。


「おかみさん、今日はまた、不思議なにおいがするね」

「ちょっと香が余りましてせっかくなので焚いております」

「おかみさん、さっきから思っていたんだけれど皆以前より落ち着いた服を着ていないか」

「そうでしょうか。百日も経ったせいではありませんか」

「僕も来るに来られないわけがあったのです」


 階段の途中で女将は振り返り、


「どういったわけです」

「店のお金を使ったのが知れまして、倉に百日閉じこめられてたんです」

「まあ、倉に」

「手紙も番頭で止められていて、いまさっき見て慌ててきたわけなんだ」


 ようやく落ち着いた様子で、若旦那は肩で息をしなくなっていた。


「それでは、来られないのも無理のないことです」

「どうにか事情だけでも知らせられないかとは思ったが」

「いえ、お店で決められたことであれば、若旦那でもどうにもなりますまい」

「手紙に『今生ではもう会えないものと思い』なんて書いてあって、もしやと思ったが」


 琴の音が響いていた。

 若旦那には聞き覚えがある。ピッキダーエというクーロの十八番である。


「……よかった。どうやらクーロは無事なようだね」

「いえ、若旦那。あれを弾いているのはクーロではございません」

「うん? では、クーロについていたあの子かい?」


 クーロの部屋へと通される。

 いつも気軽に開けていた扉が、どうにも重苦しく感じられた。それは置屋ノルン全体にただよう、どこか異質な空気のせいでもある。若旦那は自分の心臓の鼓動が早くなるのを感じた。不安であり、期待であり、恐れであり、なんともいえない混ざり合った感情がまごつかせ、戸に手をかけたまま開かせないでいた。


「クーロ、入るよ」


 戸を開ける。

 お香のにおいが強くなり、琴の音色がよりよく聞こえた。

 この香はクーロのにおいではない。それが若旦那には不思議だった。百日の間にそんなことまで変わってしまうだろうか。そう思うと不安が強まった。


「クーロ?」


 琴の音が響く。

 ピッキダーエという曲は、キツツキという意味を持つ。キツツキが木を打つように指先で弦を叩くようにして奏でる技法が用いられる。なんでもなさそうな技術であるが加減が難しく、大昔は秘法とされ勝手に演じたものには処罰が下った。そのせいで一時、

〈非業の曲〉

 などと言われて幽冥から響かせる以外にないと揶揄されたほどである。

 若旦那はそろそろと部屋に入り、ベッドへと近づいた。寝ている人物は動かない。返事もしない。心臓が早鐘を打つ。板を一歩進むごとに、呼吸が荒くなった。


「クーロ……?」


 肩をゆする。それは痩せて骨ばった肩だった。

 若旦那は驚く。百日も前にはふっくらとしていた肌が亡者のように水気を失い目元は落ちくぼんでいる。艶のあった髪は箒の先のように枕に広がっていた。

 その様は凄愴であった。

 頬に触れるとかすかな温かみが伝わった。生きている。若旦那は震える声で呼びかけた。若旦那の指先は震え、目元にはもう涙がたまり始めていた。


「クーロ、クーロ」

「……若旦那」

「クーロ、そう、僕だ。若旦那だ」


 クーロは弱弱しく布団を顔へと引き寄せる。


「若旦那、どうか、近づかないでくださいまし」

「なぜだ。僕のことが嫌いになったのか。いや、無理もない。無理もないが」

「違うのです。あたし、きっとひどい顔をしている。若旦那に嫌われます」


 若旦那はこの言葉に、クーロの心根を改めて知った気がした。

 顔を隠すクーロを掛け布団ごと抱きしめて、若旦那は謝った。


「すまない、すまなかった。倉を破ってでも会いに来るべきだった。いや来ようとはしたんだ。しかし、それでも我が身を削ってでも会いに来るという気持ちが足りなかった」

「倉に、お入りでしたか」

「ああ、今日やっと出てこられた。お前はきっと許さないだろう、恨んでいるだろう、それでもと思ってきたが、そんなやせ細って苦しんだろうに僕に嫌われたくないという」

「よいのです。こうして会えただけで、クーロは幸せでございます」

「いいや、よくない」


 若旦那はクーロと正面から顔を合わせた。


夫婦めおとになろう。僕はいま、お前の姿を見てそう決めた」

「……いけません。倉にお入りになったのも、あたしのことが原因でございましょう」

「僕はもう、お前以外に妻を持つことは生涯無いと心に決めたのだ」

「若旦那、いけません」

「僕のことを愛しく思うのならば、どうか何も考えずに頷いてくれ。どうか」


 クーロはためらいがちに目を伏せる。

 入口へ目を向けると、女将が小さく頷いていた。黙ってうつむいていると、頬にぽた、ぽたと雨が降る。顔をあげると若旦那がそこで泣いていた。

 琴が響いていた。クーロは小さく頷く。


「よかった。今生ではもう会えないという手紙を見て、間に合わないかと思っていた」

「ほんとうは、あの手紙を書いた日に、死んでしまうつもりでした」


 クーロは手を伸ばす。


「けれど、あの子が……」


 お香が立ち上り、ふわりと煙が切れた。クーロの伸ばした手の先には琴が置かれたままになっている。そこには誰もおらず、曲はもう鳴りやんでいた。


「そうだ、ずっと鳴っていた。そこに居たのかと思ったが」

「おりましたが、もう、必要なくなりました」

「そうだ、いつか彼女の最初のお客に僕がなると話したね。もうお客がついたのかい」

「いいえ、若旦那が初めてのお客様でございました」

「それなら、改めてちゃんと聞きたいが」


 クーロは首を横に振る。


「もうかないません。だって」


 窓が開く。ラティの使うはずだったお香の香りが空へと流れていった。部屋にこもっていた音もなにもかも、すべてが風に流れて青い空へと霧散していく。


「あの子のお香が、いま、立ちぎれました」


 かあ、と風に乗ってカラスが飛びたった。



                        ――第一話 立ちぎれ 了——

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