アラディア、あるいは死神の物語

甚平

序章

「ごほっ、ごほ……」


 乗合馬車の中へ風が吹いてきた。砂ホコリの混じった風で、乗り合わせた者たちは一様に目を閉じる。そのなかでも一人、咳を続ける若者がいた。


「ごほっ、失礼、失、ごっほごほ」


 背を丸めて耐える若者に、声がかかる。


「……お薬を一つ、どうぞ」

「あ、これは、ごほっ、すみません、しかし、えっほ、持ち合わせが」

「薬の商いは先用後利せんようこうりと申します。どうぞ」


 声をかけた者は、大仰な行李こうりを抱えた薬屋である。

 くすんだ花浅葱はなあさぎ色の旅装に革の黒羽織をつけており、声からするとまだ子供、それも少女のようであった。白い指が薬の入った包み紙を男に渡す。


「これは、どうも……んっ……ああっ、おや、楽になってきた」

「ようございました」

「いや、助かりました。値はいかほどになりますか」

「持ち合わせがないと知って渡したのです。また会った時で結構でございます」

「それでは商いにならないでしょう」

「置き薬屋でございますから、私どもの商いでは利益が半年先など当たり前で」


 この薬屋は乗合馬車に乗ったときから、乗客たちの注意を引いていた。薬箱の大きさと背格好の不釣り合いさ、もう春だというのに旅装の暑苦しさもそうであったが、


「さようですか。それは、かたじけない。いずれ必ず」

「はい、いずれ」

「ところで、聞いてよいものであればだが、その顔はどうなされた」

「顔? ……ああ、これですか」


 薬屋の顔は布で覆われており、琥珀色の瞳だけが表に出ていた。


「業病というもので、少し顔が崩れております。お見苦しいものですから」

「モアグレン郷のわずらっていたというあれですか」

「はい。しかしご心配なく、感染する類のものではありません」


 乗合馬車がアーチをくぐり、長い橋を馬蹄ばていがカッポカッポと音を鳴らす。運河の栄えるエドモントンの街並みは橋が多く、橋の下を小舟がいくつも行きかっている。

 川沿いにはプラムの花が咲いており、その白い花弁が水面に映る様は見事で馬車の乗客たちは首を伸ばし、子供などがはしゃぎだしたせいで馬車が揺れた。


「薬代も払えぬと見下されたくはないですが、僕にもいろいろと事情がありまして」

「ほんとうに、いつでも構いません。あなたは出世なさる」

「なぜわかります」

「そういう相が出ています」

「占いもされるのか」

「いえ、ただ私は、そういうものが見えるのです」


 琥珀色の瞳は、春の日の加減か蝋燭の火のように揺らめいて見える。


「さようですか」

「嘘です。その腰のものに剣片喰の紋章がついておりましたから騎士の出身であろうと」

「嘘をつくのはよくない」

「それにずいぶんと修行されているようにお見受けいたしました」

「あてずっぽうですか」

「あの薬を飲むと、お強い方は目が赤色に変わるのです」

「なにっ」

「嘘です」

「嘘をつくのはよくないなっ」

「薬を受け取られた手が、コチコチに固まっておりましたので」


 狐のように薬屋が目を細めるので、若者は舌打ちをしてぷいと横を向いた。

 揺れる馬車はやがてエドモントンの降車場につき、薬屋は編み上げのブーツで石畳の床を踏む。重そうな薬箱を背負うその背中に、若者が改めて声をかける。


「僕はウッドロウ、ケイプ・ウッドロウという。支払うときのために屋号でも教えてくれ」

「ああ、真面目な方ですね。黙っていれば得をするというのに」

「そんな不義理な真似はできない」

「私はアラディアと申します」


 そう言って頭を下げたとき、一陣の風が吹いた。顔を覆っていた布がふわりとめくれあがり、その下の顔が露になった。不純物のない金色の髪と白い肌、春の女神も恥じ入ると謳われたディアナ王妃のように美しい。ウッドロウが声を失うほどだった。

 薬屋ははっとして、慌てたように顔を覆い直す。


「これは……はしたないところを。ともかく、私はアラディアとだけお覚え下さい」

「あ、うむ、そうか、またいずれ」

「はい、また」


 数歩進んで、ウッドロウは振り向いた。


「もしや……」


 声の先には、もう誰もいない。

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