第4話 死神

(今夜か)


 アクア・アルタの夜、マヌエル伯爵はワインを飲んでいた。

 眠気はない。伯爵の頭の中に様々な思いが浮かんでは消える。昔のことから最近のことまで、喜びや怒り、悲しみや楽しみ、浮かんでは消えていく思い出のなかで感じるのは、


(なぜ、こういう結末を迎えた)


 そんな思いであった。

 しかし、その理由は分かり切っている。誤魔化しても誤魔化しきれない。リンドの妊娠した姿を見た時点で、マヌエルは許せなかったのだ。自分にとって仕える主、自分にとっての神を穢されたのだから。そのリンドを死という形で失ったことで結末はわかっていた。

 許せないという気持ちが凝り固まっている。

 けれど、陛下への親愛の情もないわけではない。

 愛憎入り混じった思いである。結局のところ、それらの問題を単純化するために国王を変え名実ともに実権を握るだの、いずれ国王の子が自分を殺すだのと理由付けをしているに過ぎない。言葉で正当性を飾りながら、その本質は感情の問題でしかない。

 それでよいのか。

 そういった思いが浮かぶたびに、もう止められないと言い聞かせた。ワインを飲み、頭に浮かぶ様々な反論を飲み下す。酔いがすべてを解決してくれればいいと思った。


「お注ぎいたしましょうか」


 ふいに、声がかかった。


「おお、薬屋のアラディアか。どうした、誰からも訪問は聞いておらぬが」

「出立の御挨拶に参りましたが、ずいぶんと酔っておられるご様子」

「余が、声かけに気付かなかったのか?」

「さようです。従者には私を賓客として扱うよう話されていたようですね」

「あ、それは、そうだ。だから追い返せず、こうしてきたわけか」

「はい。それにしても、伯爵様。どうしてそのように酔いつぶれておられるのです」


 アラディアは相変わらず顔を布で隠している。


「今日はアクア・アルタだ。酔いつぶれるにはよい夜だろう」

「さようでございますか」

「アラディアもどうだ、これほどの酒は、そうそう飲めまい」


 煙があたりに広がる。

 アラディアはパイプを吸っていた。酔ったマヌエル伯爵の目がそうさせるのか、あたりの風景がぼんやりと歪んでいく。目元を拭ったマヌエルは不思議なものを見た。


「この蝋燭はなんだ」

「伯爵様、あなたは私と約束をいたしました」

「約束?」

「陛下の忠臣であると、陛下を助けると、そうおっしゃいました」

「もちろん。余はいまでも陛下に忠義を誓っている」

「ではなぜ、殺そうとするのです」


 マヌエルのワインを飲む手が止まった。

 顔は動かさず、目だけでアラディアのほうを見る。


「何を言っている。馬鹿げたことを申すな」

「忠臣であるというのは、嘘だったのですか」

「ふざけるな。何を根拠に申している」

「私は、あなたこそがこの国の次代を担う方だと、そう思ったのに」

「いい加減にせよ!」


 ワインの盃が放り投げられ、その中身がアラディアの顔にかかる。赤黒く濡れた布をアラディアはゆっくりと外していった。アルコールの匂いが立ち上る。

 マヌエル伯爵はアラディアを指さし、


「図に乗るな、薬屋風情が余を強請る気か。お前なぞ……」


 その姿勢のまま、絶句する。

 蝋燭の灯りがアラディアの顔をうつし出す。太陽のように輝く金色の髪、透けるように白い肌、宝石のような琥珀の瞳、完璧なまでに美しく、それは記憶通りの姿。

 それは我が主君、我が女神。

 初めて会った時のリンド・ラガンに瓜二つであった。


「リ、リンド様……そんな、馬鹿な」


 腰を抜かすマヌエルに、アラディアは蝋燭を差し出した。


「伯爵様、この蝋燭をごらんください」

「ありえない。死んだはずだ。この目で見た。間違いなく」

「この蝋燭が、あなたの本来の運命の蝋燭、本来の寿命です」

「リンド様……」


 消えかけの蝋燭をマヌエル伯爵は受け取った。


「もうすぐあなたは死にます。私はそれを告げに来ました」

「……余は、王の子以外には、殺されないと」

「伯爵様、あなたは知っているはずだ。あなたが命じたのですから」

「余が、なにを」

「覚えているはずです」

「なにをしたというのです!」

「王女を、川に流すようにと、あなたがお命じになった」


 それは十数年前の記憶。

 運命が捻じ曲がったあの日。出産、王子の死、王妃の死、国王の嘆き。あの日、マヌエルは確かに命じた。流すようにと。激しい水流に必ず死ぬように、川へ流すようにと。

 女神の穢れの象徴を、王の失敗の象徴を、国家の不要物を。

 王女を、殺すようにと。

 伯爵は何度も首を横に振る。


「馬鹿な、馬鹿な、そんな、そんな運命があるものか」

「あなたは死にます。今夜、この場で。それが運命です」

「馬鹿な、これが運命だと? こんなものが」


 いまにも消えそうな蝋燭の炎をマヌエル伯爵は凝視した。


「余は、この国にとってなくてはならぬ存在だ。この国に奉仕してきた。この国を発展させてきた。だというのに、死ななくてはならないのか。よりによって、あなた様の手で」


 伯爵がアラディアを見上げる。

 アラディアはそれを見下ろす。


「たしかに、伯爵様の業績は素晴らしいものです。多くの人を救った」

「そ、そうでございましょう。ですから」

「ここに、もう一本蝋燭があります。この蝋燭と、運命を交換できれば」


 卓の上に新たに蝋燭が浮かんだ。


「伯爵様の寿命は延びることでしょう」


 マヌエル伯爵は、その蝋燭へと手を伸ばした。


「伯爵様、一つご注意を」

「は、はい」

「炎が消えたら、死にます。あなたの蝋燭も、そちらの蝋燭も」

「向こうの蝋燭も死ぬとは、いったい……」

「あれは、伯爵様のご子息の運命の蝋燭でございます」


 愕然がくぜんとして、マヌエル伯爵は肩で息をしだす。


「よ、余に、息子を殺して、生きろと……」

「仕方ありません。誰かが生きるには、誰かが死ななくては」

「よりにもよって、そのような」


 赤々と燃える蝋燭に伸ばす手は震えている。

 荒い呼吸が響き渡った。その息で火が揺れるので、伯爵は口を閉じた。それでも歯を噛み鳴らす音が響き、何度も蝋燭へ手を伸ばしたり、また引っ込めたりを繰り返す。


「蝋燭が消えますよ」

「余は、死ぬわけには、し、死ぬわけには、いかぬ。いかぬのだ」

「消えたら、死にます」

「ここで死んでは、なににも、何にもならぬ。余の生涯、余の人生は」


 蝋燭へ手を伸ばした。

 息子の運命をその手に掴む。

 そのとき、マヌエル伯爵はアラディアを見た。それは一瞬のようでも、また長い時間のようでもあった。伯爵は蝋燭から手をはなし、アラディアへと笑いかけた。

 晴れやかな表情だった。


「その顔の前で、情けない姿は見せられぬ。ずいぶん遅れ申したが」


 ふうっ、と自らの蝋燭に息をかける。


「いま、参りま……」


 床に倒れる音が屋敷に響いた。

 従者たちが驚いてやってくる。その部屋はいつも通りのマヌエル伯爵の書斎であり、蝋燭もアラディアの姿もない。ただ床に倒れている主人の姿を見つけて従者は仰天し、すぐさま知らせ回った。その報はどこよりも早く、真っ先に王城へと届いたのである。

 アクア・アルタの夜、出歩くものは少ない。


「アラディア殿!」


 冠水した広場の上を、小舟が渡っている。


「これは、ウッドロウ様」


 ウッドロウはその小舟を追って水の中を歩く。


「伯爵が死んだ」

「左様でございますか。まこと、人生とは異なものです」

「あなたが殺したのですか」

「私にそのような力はありません」

「伯爵は、自分を殺すのは王の子だけだとおっしゃっていた!」

「では、誰にも殺すことはできないでしょう」

「あなたはできる! そうでしょう、あなたはできるはずだ!」


 小舟は水路へと入り、そのまま離れていく。

 雲が動き、月が顔を見せた。冴えた月明かりが二人を照らす。アラディアは王妃に瓜二つの美しい顔をさらして見下ろし、ウッドロウは肩まで水に浸かりながら見上げる。


「これが最後です。あなたは私を、見逃さなくてはならない」

「こうなることが分かっていたのですか」

「ウッドロウ様」


 煙が夜空に舞う。アラディアはパイプを口に咥えていた。


「私は神ではない。全ての運命を見通すことができるなら、こうはならなかった」

「けれどあなたは、運命を知る力がある」

「そんな大それたものではありません。私が知っているのは、人の死だけです」


 月を映す水面を小舟は進み、ウッドロウは近くの柱によじのぼった。


「もう、あなたとは会いたくありません」

「僕はそうは思わない」

「さようなら」

「また、いずれ」


 雲が風に流れる。また月が陰った。水面にオタクサの花が浮かび、小舟と一緒に流れていく。ゆっくりと小舟は冠水した街を流れていく。それをウッドロウは見送った。

 ウッドロウの登った柱の天辺に、二羽のカラスがいる。


「いずれ」


 アクア・アルタの夜、二羽のカラスは鳴きもせずに空へと羽ばたいた。

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