第16話  僕の愛する魂(マブイ)

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 楽しかった時も日付をまたぐ頃に、宮里さんが首をこくりこくりと船をぎだし眠たそうになった。

「それじゃあおひらきにしましょうか」

 と、僕が言い、良夫さん夫婦はもう少し飲みたがっている様子で僕は引き止められたが、宮里さんへのもう一つの思いがあって断ることにした。

「おふたりは、これからご夫婦でお酒を美味しくやって下さい」

 と言い、僕は眠たそうな宮里さんに声をかけ、二人で外に出た。

 そんな僕の後を、良夫さんが暖簾のれんから顔を出し、僕に袋を手渡した。

「仲村さん、これ僕の気持ちですから持って行って下さい。少し残ったウヰスキーは僕に下さいね。仲村さんは、まだ飲み足りなさそうだから……」

 と、彼から受け取った袋の中には、缶ビールが三つ入っていた。

「良夫さん、ありがとうございます。今日は沢山ご馳走ちそうになり、その上お土産まで貰っちゃって、いいんですか? それなら、気持ちよく頂きます。ありがとうございます。しかし、今日は僕と宮里さんの貸切になっちゃいましたね?」

「嫌え、いいんですよ。校長先生には内緒ですよ。実を言うと、今日、孝子が怒っていたことが、校長先生にもばれてんじゃあないか、て僕の悪友たちが、今日校長先生が来るんだったら、また長い説教になるから、って……それで、みんな今日は家で休肝日に、てなっちゃたんですよ」

 と、僕に耳打ちした。

「それじゃあ、仲村さん、今日は本当にありがとうございました。またこの島に来た時は、絶対顔を出して下さいね。それじゃあ、気をつけて……」

「アッ、こちらこそ、沢山のご馳走、美味しかったです。本当にありがとうございました。絶対、またお邪魔します」

 お互い笑顔で会釈を交わし、良夫さんは顔を中に引っ込めた。

「仲村さん、それじゃあそろそろ私たちもこれでお別れしましょうか? 今日は、本当に楽しかったね。まだ話は尽きないが、私はもう十分いい心持ちになってしまった。また今度、このような機会がある時までの楽しみにしておきましょう」

「エエ、僕こそ本当に、今日は楽しかったです。それと、宮里さん、今日はすみませんでした。無理に煙草をやめさせたりしてしまって」

「イイヤ、いいんだよ。あれは……最近、昔の教え子たちが、私の体を心配して、みんなには私に煙草をやめろ、とずっと言われていて……私も、どこで踏ん切りを着ければいいのか、考えていたからね」

「エッ、でも宮里さん、結構悩んでいた様子に見えましたけど……」

「いやなに、あれはだね、私があまりにもに安易あんいに答えを出しちゃうと、良夫の奴との約束が軽くなっちゃうから……軽く見られると、良夫がまた無碍むげに約束を破るかもしれないから、その為だよ。仲村さんには、要らない気を使わせちゃったね」

「アッ、僕のことは気にしないで下さい。でも、そういうことだったんですか? また勉強になりました。ありがとうございました」

 僕はお辞儀をし、顔を起すと宮里さんと目が合い、お互い笑わずにはいられなかった。


 僕は、宮里さんと別れ、民宿へと海沿いの道を缶ビールの入った袋をぶら下げながら歩いた。さすがにこの時間となれば島民の姿はどこにもなく、僕の歩く道を今宵の月は満月で、月は明るく照らし、僕の影がはっきりと見えるほどだ。

 潮の香りのする夜風に体を預け僕は歩き、いつしか民宿の門の前に着いたが、もう少しこの風を感じていたくて、僕は更に民宿を通り過ぎ、思いのまま歩いた……そういえば、この先にビーチがあったっけ? 確か、前に僕が勝手に名前を付けて、志緒梨に話したことのある〝星の降る砂浜ビーチ〟だ。

 僕は、かなり以前の記憶をたどりながら道路沿いの木々の間の狭い小径を《こみち》探し、そこから海に向かい入って行くと、満月に照らし出されたあおい海がきらきらと僕を迎えてくれた。潮騒の音が僕を包み、僕の前には果てしなく穏やかな海が広がっている。

 ビーチの砂の上に腰を下ろすには、丁度よいちた大きな木が横たわっていて、僕はその木の真ん中に腰掛け、お土産に貰った缶ビールのプルトップを引き上げた。少し歩いたせいか、ビールがまた美味しく喉をつたって胃に落ちて行く。目の前に広がる景色に、僕はポケットから携帯を取り出し、カメラモードに切り換え、満月の海を撮った。

 二、三度、光度の調整をして、偶然にも快心のショットが撮れた。携帯に納まった海が、月に蒼い幻想的な砂浜とが絶妙なコントラストをせていた。

 僕は、そのショットを志緒梨にメールと一緒に送った。

 件名〔僕の愛しいひとへ・・・〕、本文〔 眠りの中にいる僕の愛しい君へ……余りにも満月の海が綺麗だったので、写メを送ります!。

 僕は ぃちゃんと、この世界にいることに感謝をします!……ぃちゃん、この世界にいてくれてありがとう!!。

 僕は、ぃちゃんがいるっていうだけで、とても幸せです!。

 多分、今は夢の中にいる僕の愛しい ぃちゃん、おやすみなさい!……また、明日ネ!!〕。

 僕は、志緒梨に写メを送った後、ビールをゴクゴクと喉を鳴らし一気に飲み干し、思いっ切り両の手を宙に突き出し伸びをした。僕は、心の底からこの世界に志緒梨といることに、感無量となっていた。

 出来るのなら、今、見ている景色を志緒梨と一緒に観ていたい。今は無理でも、彼女の体調がよくなって、彼女が何処へでも行けるようになれば、此処にだって来れるし、これからふたりは沢山の想い出を作れる。僕は、ただ志緒梨の傍にいるだけで幸せだ。しかし、もっと僕にとって大切なことは、僕と志緒梨のお互い一緒に観たり感じたりしたふたりだけの記憶、想い出がなにより大切だと思う。後々、僕たちふたりが昔を振り返った時に、あの頃も幸せだったね、とお互い語り合う日がきっとくるはずだ……その時、マナーモードにしていた携帯電話が突然振動した。ディスプレーには仲間部長とあった。志緒梨からだ。

「もしもし、どうしたの? こんな時間に、驚いちゃったよ。急に電話が着っちゃって……ぃちゃん、まだ寝ていなかったの? 大丈夫?」

「私は、今日もずっとベットの上だったから、夜も眠りが浅くて、仲村さんからのさっきのメールで目が覚めっちゃた」

「アッ、ごめんね。起しっちゃった? 海を見ていたらつい感動しっちゃって、写メを送っちゃった」

「エッ、違うのよ。別に怒ってるんじゃなくて、私も浅い眠りの中で、仲村さんの声が聴きたかったから……嬉しかった」

「本当に? よかった。僕も、いつだって ぃちゃんの声が聴きたいよ。ところで、僕からの写メ見てくれた? 此処はほんとに、とても綺麗だよ。出来れば ぃちゃんとこの場所にもう一度来てみたいなって思ってね。ぃちゃんが、退院して落ち着いたら一緒に来ようね? この場所にふたりで……」

「嬉しいわ。其処そこって、前に仲村さんが言っていた、星の降る砂浜ね? 私もそこで、貴方が言っていたように、星の光のシャワーを受けてみたいわ。仲村さん、約束ね。私をその場所に連れて行ってね」

「ウン、約束だ。絶対、ぃちゃんをこの場所に連れて来るね。それと、ふたりだけの想い出も沢山作ろうね」

 ぃちゃんも、病室から同じ今宵の月を観ているのかな? 電話を通して潮騒の音は送れているといいけど、出来るのなら殺風景な病室にいる ぃちゃんのところへ潮の香りも送れるのならいいのに……。


 僕は、三日間の伊平屋の視察と営業活動を終え、日常の営業へと戻っていた。

 一ヶ月半は、伊平屋の農家での視察で僕なりのどう微生物を有効活用し、安全で安心な農作物と、更に生産を如何いかに高められるか、集めたデータを分析し、それから得たものをその都度伊平屋の商工会と農家に伝え、その分析結果資料を見た農家から必要とされる資材は商工会を通じ粗方あらかたは送り込み終えた。

 伊平屋から帰ってきて、その日の夕方には僕は志緒梨の傍にいた。しかし、僕がいない間、彼女の体調はよくはなく辛いままのようだったらしい。それは、彼女なりの思い遣りで、伊平屋に行く前、僕に笑顔を見せたのは、自分のことで伊平屋で僕の活動に差しさわってはいけないから、と僕についたウソだったようだ。そんな彼女を僕は痛いほど健気けなげに思えてならない。その分、僕は彼女の傍にもっといてやりたい、と思ったが、今、僕に出来ることといえば、以前と変わらず彼女の背中を摩ることとただ抱き締めてやることだけだった。僕は、何も出来ない自分が嫌で、そのことに目をそむけるように伊平屋からの仕事に気無理やり持ってゆき、そして集中した。それでも毎日、日曜だろうと関係なく僕の空いている時間はいつも彼女の傍にいた。彼女の気分のいい日は病室を出て、僕のE・Vのウインドウガラスの黒フィルムで中の見えずらい後部座席でふたり時間の限り抱き合ったり、病院の建物の少し離れた所に展望台があって、そこでふたりは手を繋ぎ、僕たちの未来を語り合った。

 そんな或る日、横目に過ぎる北中城きたなかぐすの町の中を僕はE・Vを走らせ、営業先の具志川へと向かっていた。午前十時半、NHKのラジオ放送からリスナーの投書をパーソナリティの村上アナウンサーが読んでいた。その中の一通の葉書に、僕は心を揺さぶられた。その内容はこうだった。『私は乳癌を発症し、手術を受けることになり、その前日に、私は旦那と一緒に風呂に入り、これで貴方の好きだったこの膨らみももうなくなるの』と最後の日を、その夫婦は過ごしたのだという。僕にも、志緒梨のあまりある方ではないが、その膨らみがなくなるなんて僕にも考えきれないことだ。その夫婦はその晩、どう夜を過ごしたのだろう。旦那にとってはどんなに愛おしい膨らみであっても、愛する人を失うことと比べるとなると、答えはおのずと決まってはいても……唯、その旦那の出来ることとしたら、今ある膨らみのその感触を手に記憶させることだけなのだろう。僕の頬には勝手につたって落ちる熱いものがあったが、僕はぬぐう気にもなれず、ただ風にさらしたままにした。

 その日も僕は一通り得意先を廻り、午後五時過ぎには志緒梨のいる病室へと向かった。しかし、僕を待っていた志緒梨は、いつもの笑顔で僕を迎えてはくれなかった。ベットに横たわりずっと僕に背中を向け、僕の問いかけにも返事は殆んどなかった。僕は彼女の背中を撫でるしかなく、時間も夜九時を過ぎ、僕が帰るまでの間、ふたりには重い沈黙が流れ続け、ただ彼女が僕にいってくれたのは、今日から本格的に治療が始まり声を出すのも息をするのでさえ苦しいのだと消え入りそうな声で訴えていた。

 そんな治療が二週間も続き、志緒梨は主治医から一泊の外出許可を貰い、僕と志緒梨は何処かへ行こうと計画を立てたが、ただ彼女が僕の傍にいられるのなら何処だっていいと言うだけだった。だが、彼女の体調を考えるととても遠出は出来そうになかった。僕たちは、何も計画もないまま僕のE・Vに乗り、少しのドライブをし、結局病院から少し離れた中城なかぐすくの海辺に車を止め、そこで一夜を明かした。しかし、その日は宵の口から大雨となり夜半には雷が朝方近くまで鳴り響き、とても話などは出来なかった。大粒の雨が車体を打ち続け、寒いと体を丸める志緒梨に、僕は何も毛布とか用意してなかったことに悔やみながらも彼女を厚手のジャンパーで包み朝まで抱き締めていた。

 雨も小降りになり、辺りが薄っすらと明るくなてきて、僕たちは病院へ戻る途中、ジェフ(二十四時間営業のバーガーショップ)に行きハンバーガーとサンドウィッチを買い、病院の駐車場で朝食を取ったが、やはり彼女はとても辛かったのか、なにも口にはしなかった。それから志緒梨はそのまま病室へ戻って行った。そして、僕はそのまま会社へ行き、そしていつもの仕事をこなした。そして昨夜のことが僕には自責の念として残り、その日一日を長く過ごした。

 昨夜は、志緒梨に悪いことをした心配で、夕方五時を待たずに僕は彼女にこれから行くとメールを送り、病院へと向かったが、病院の近くまで来た時、彼女からの返事のメールが届き見ると、これから志緒梨の母親が来るので今日は来ない方がいいとあり、僕は仕方なく家へと帰ることにした。

僕は、本当に彼女、志緒梨のためになることをしているのだろうか……。


 志緒梨との嵐のような一晩を過ごした日から一週間が経ち、また彼女の二回目の治療が二週間続き、その間も僕は志緒梨の背中を撫でるだけで言葉も殆んど交わせず治療が終わり、三日目頃からやっと話しが出来るようになり、僕も落ち着いて仕事も出来るようになった。

 それから僕たちは、また僕のE・Vで密かな時(車の中で抱き合ったり、キスをしたり)を過ごし、また天気のいい日は展望台でふたり頬に風を受けながら手を繋ぎ話をした。まだ彼女の体調はよくなった訳ではないが、でもまだ数日前に比べると、彼女のころころと笑う笑顔が見られのは僕には十分なほどに幸せな時間だった。

 しかし、幸せな時は長くは続かなかった。程なく彼女の体調が安定してきた頃に、今度はラルスとかいう放射線治療が数回に渡り続いた。ラルスという治療は全身麻酔をし行うらしいのだが、彼女は治療から戻ってきてもボーとしていて、それは一週間に一回から二回のスパンで行われた。もともと僕は、その治療においても知っていたはずなのだ……僕は以前、志緒梨の入院中、彼女を支えていた筈なのに、今回はお互い全てを分かり合え、お互いが直に心の中に踏み込んでいたせいなのか、前回よりも僕は何も出来ないでいる自分に苛立いらだ悶々もんもんとした日々をおくった。

 しかし、僕たちには長かった辛い日々は無駄ではなく、彼女の体調も徐々にではあるがよくなってきていた。これで志緒梨の治療の大半は乗り越えた。後一週間程したら体調も落ち着き退院が出来る。そして、徐々に体をならしながら会社に出てくる日も近いはずだ。志緒梨の身体が少しづつではあったが、よくなって行くのを僕は見ていてとても楽く思えた。お互い語り合う時間も長くなってきて、何より僕は、彼女を思いっ切り抱き締めることが出来るのだ。

 彼女が入院し、半年近くの月日が過ぎ、彼女はいよいよ出社の日にとなった。彼女の最初の仕事は、前のように店舗周りは未だ体が心配だから、と午前中の短い時間、事務処理だけの仕事をしてもらった。僕は課長という手前、志緒梨が数店舗の統括総本部長という重荷のサポートとして手助けをすることを命ぜられていた。そんな最中、店舗の一人の欠員があった。本来、その辞めた人は二ヶ月も前から辞職の意は出していたが、僕が、部長である志緒梨の退院するまでは待って欲しいと頼んでいたので、この時となった。

 僕は、志緒梨が少し遅く出社して落ち着いた頃合いをみて、求人に対しての話をし、午前中でまとまった内容を求人の広告社に連絡を取り、話しは大体済ませておいた。

 二週間して求人広告が出た。その頃には、志緒梨の方も会社の時間に合わせ出退社が出来るまでに体はなっていた。

 僕と彼女は、朝から求人の面接依頼の電話に追われ、昼食もふたりは交互に取る始末だった。その日は、多忙に追われあっという間に終わり、先に志緒梨が退社をし、僕は時間を少しずらして彼女の家の駐車場へ行き、話をし僕は家へと帰った。

 翌日は、十時前から面接の人が来はじめ、僕と志緒梨は面接を行った。今回の求人は、今の店舗の平均年齢五十五才から少し若くしたいと、三十から四十五才の人を求人の対象とした。勿論、接客に対してのその人となりも考慮の上でのことが第一なのはいうまでもないが……求人の面接には色々な人たちが来てくれた。求人誌に年齢を入れることが出来ずに、二十才から六十過ぎの幅の広い面接となった。

 面接二日目、つまり水曜日の午後の三時過ぎに、一人の求職者からの電話を僕は受けた。名前は松本まつもと小夜香さやかといい、電話の声からはとても面接依頼というテンションとは思えないほどに妙に声のトーンが暗らった。しかし、何故か僕には何処かで逢ったことのある懐かさを覚え、つい僕は次の日の午後一時に日程を組んだ。

 翌日、松本小夜香という女性は一時半を過ぎても現れなかった。流石に求人の面接も三日目ともなると、来る人も少なくなり、僕と志緒梨は面接に来てくれた人たちの履歴書をテーブルに並べ、どの人にしようかと話しをしていた頃に、松本小夜香は現れた。

 時計を見ると三時を過ぎていて、志緒梨は僕の顔を覗き〝こんなに時間にルーズで、もし遅れて来るのであれば連絡の一つもないのはね〟というような呆れ顔で、「でも、来てくれたんだから面接をしてあげないとね」と言って、松本小夜香を面接のテーブルにいざなってくれた。

 松本小夜香、彼女は僕が受けた電話での低いテンションのままにただポツンと椅子に腰掛、自分を売込むこともなく、給与や勤務時間も聞かず、こちらから質問をしても、ただ此処で仕事がしたいと言うだけだったが、それには志緒梨も、何も面接に来ていながらその態度はないのではとうんざりした感の空気は僕にも感じとれた。僕は、志緒梨の傍で彼女を見ていたが、僕は昨日の彼女の何処に懐かしさを感じたのか探してみたのだったが、何も見つけることは出来なかった。年齢は二十八だという。見た目は髪が長く顔立ちも整っていて、とても綺麗な人だった。しかも、肌は陽に当たったことなんてないのではと思わせる程に白かった。しかし、こんなに綺麗な人でも世の男性の殆んどは敬遠をしてしまうだろうと思うくらいに暗いし、体つきだって、もしかして今病院を抜け出して来たのかも、と想像してしまうほど余りにも細い。僕としても迷うことなく不採用の判を押すだろう。でも、何故だろう逢ったこともない筈なのに僕には何処とはなく彼女の全身から強くではないが、懐かしさを感じる……何故だろう。それと彼女と会って、僕はずっと彼女からの視線を感じるのだが、僕が目を向けるとなぜか彼女はずっと俯いたままだった。それもすごく不思議な感覚だ。だが僕は面接の途中から、彼女のある部分が目に入ってしまい気になり、勝手な推察が頭をもたげ落ち着いてはいられなかった。

 松本小夜香は、自己アピールもしないまま十分程して帰って行った。彼女を、志緒梨は玄関まで見送り、テーブルに戻ってきて思いっ切り大きなため息をいてうつ伏せた。

「ああ、どっと疲れがきちゃった。どうして、求人の面接なんかに来たのかしら。彼女を見てると、別に仕事をしなくていいようなのにね」

「エッ、どうして? 仲間部長は見ただけで、それが分かるんですか?」

「だって、彼女の身に着けていた物は、全てそこそこいい物ばかりだったから。それに、あんなに色が白いなんて、殆んど家から出ないんだと思うわ」

 と言い、急に顔を僕に向けて睨むように言った。

「仲村課長、いい目の保養になったでしょう? さぞかし、もう面接どころじゃあなかったでしょうね?」

「エッ、仲間部長、何言っているんですか?」

「また知らばくって。見惚みとれていたわよね? 彼女の胸元に目が釘付けで……私見てたのよ。課長の視線の先を」

「エッ、本当に何言ってんですか? 僕は、彼女の胸元なんて見てなんかいないですよ」

「いいのよ、別に。目に入るのに見るな、なんて言えないものね……それにしても、どうしてあんなに体は細いのにバストが豊かなのかしら。あれって、Fカップはあると思うけど、もしあれで体が一般の人並みだったら、凄いわね。もう、まるで何処かのなんとか姉妹よね?」

「本当に僕は胸なんか見てなかったですよ。唯、ひとつだけ気になったのは、彼女の手首なんだけど……」

「それ、どう言うこと?」

「やっぱり、部長は見ていなかったんだ? 彼女の袖先を……彼女は余りテーブルの上には手を置かなかったよね。でも、ほんの少しチラッと胸元で手をやった時に見えたんだ。彼女の長袖の袖先の奥に、シャツと同じ白い包帯がね。こんな、まだ暑い日に長袖のブラウスなんか着てさ。最初は日焼けを気にしているのかなって思ったけどね。でも、彼女は日傘を持っていなかった。ってことは、やっぱりアレかなってね」

「仲村課長、あれって何? もったいぶらないで早く言ってよ。私は彼女の包帯に気づかなかったから……また課長は胸ばっかり見ていて、それをただ誤魔化そうと、そんなありもしないことを言っているんじゃあないの?」

「もう何で、僕は胸なんですか? 僕が思うには、彼女の包帯の訳はリストカットが原因じゃあないかなって……だったら、何でなんだろうね? もしかして精神的、心のやまいなのかもね?」

「エッ、なに? そのリストカットって」

「リストカットっていうのはね。最近の若い人が生きている実感がなくて、自分の手首とか体を傷付けて血を出して痛みとか血の温もりで、自分は生きているんだと実感をしたりする自傷行為のことなんだよ」

「ヘエー、そうなの? そんなことをして……ウソ、ヤダ、痛そう。私なら絶対駄目だ」

 少し離れていた所から、くすくすと笑い声が聴こえてきた。経理の計算をしていた嘉数かかずさんだった。

「ウフフ……もう、仲間部長も仲村課長も、何だかいいわねー。ふたりは同じ年だから、いいお友達どうしで……微笑ほほえましいっていうか、なんだか羨ましいわ」

 僕たちの話を聞いていて、笑っていたようだ。

 その晩、僕は志緒梨の家に行って、彼女の子供たちの梨緒と一哉を交えて、初めての食事を一緒にとった。名目は、志緒梨の退院祝いと称して、料理の八割は僕が作った。志緒梨はサラダをまだ小学校五年生の幼い梨緒とデコレーションを楽しみながら作り、僕の料理は握りの寿司と、例のイタリア風のグラタンに竹輪と青梗菜の炒め物、そしてデザート代わりにクラコットとレモンのチーズと蜂蜜を食卓に並べ、四人で志緒梨の退院を祝った。

 梨緒に一哉は最初、僕の訪問に〝どうして、会社の人が来るの?〟というような目で見ていたが、料理がテーブルに一つひとつと並び終える頃にはことのなり行きに馴れてきたようで、調理をしていた僕の傍にきて手伝いもしてくれた。

 僕としても、志緒梨の子供たちとこんな風にテーブルに着くのはとても気をつかった。これからこの子たちは思春期に向かう年頃で、最初の入口で二人の心をじってしまうと、後はどんなに捻じれた心を元に戻そうとしても、悪くすればトラウマにさえなってしまうほどにナーバスな、僕には大事な挑戦チャレンジに近いことだった。しかし、テーブルに着いて二人の表情を見て、僕は安堵あんどのため息を覚えた。

 僕と志緒梨は、食事を取りながら一本だけビールで乾杯をし、次に赤ワインを楽しみ、夜も十時をまわり子供たちは二人の部屋のベッドに向かった。そして、僕と志緒梨はふたりでベランダの丸いテーブルにワインにチーズとクラコットを移し、それからふたりの時間を楽しむことにした。日中は暑かったが、今は季節も秋を迎えようとしている。志緒梨の家のベランダは、ワインに少し酔った頬には心地の好い風が吹いていた。

「仲村さん、今日はありがとう。気を遣ったでしょう? お疲れ様」

「ウン、最初はどうなるか心配をしたけど……よかったのかな?」

 志緒梨は静かにうなずいた。そして僕は彼女を抱き締めて接吻キスを交わした……僕たちに安らかな時が流れている。僕は、もうこれで本望だ。これからは、このかけがえのない時を忘れずにいつまでも志緒梨という幸せをこの腕の中に抱き締めていたいと願う。

「ネエ、仲村さん、昼間の面接に来たをどう思う?」

「エッ、面接のこって?」

「ホラ、細くて、色白で、何より仲村さんの大好きな胸の大きな娘」

「アアー、何でー? 未だそんなこと言うか、このー」

 僕は志緒梨の背中にまわしていた右手で、彼女のタンクトップの胸元の大きく開いた隙間うなずから手を突っ込み彼女の乳房をまさぐった。

「アアー、もうまたインチキー」

 僕は彼女の入院中にも、僕のE・Vの中で彼女の胸に触れた。その時も、彼女はインチキーと僕に言った。以前、この世界に戻る前にだって、今より若くない志緒梨の胸を触らせて貰ってはいたが、その時は今より少しだけふっくらとしていたせいで、初めて触れた若い志緒梨のその胸は小さく思えた。彼女には、胸に少しのコンプレックスがあるのだろう。だから、彼女は僕が触れたことで、思わず彼女から出た言葉なんだと思う。それから、E・Vの中でのインチキー以来、僕から胸の話は禁句タブーとなったのだが、決まりごとを作った筈の彼女は、ほんとに勝手ないい気なものだ。

「もう、本当にー」

「 ぃちゃん、いいじゃあない。今だけ、少しこのまま……」

「ネェーエ、仲村さん……仲村さんは、こんな胸でいいの? 昼間の彼女のようにりっぱな胸の方がいいんじゃあないの?」

「何言ってるの? ぃちゃんはバカだなー。僕は姿や形で ぃちゃんを好きになったんじゃあないよ。僕は、ぃちゃんの全て、っていうより、ぃちゃんのマブイかな? ぃちゃんの魂を好きになったから、この胸だって、僕は ぃちゃんの魂に一番近いところにあると思うから、少しでも近いとこに触れていたいと思うから……大好きだよ。ぃちゃんのおっぱい」

「ウーン、でもねー。彼女は綺麗で、見た目は少しだけ痩せすぎだけど、私から見ると、とてもパーフェクトなんだけど……そんな人に、仲村さんは告られたりしたらどうお?」

「 ぃちゃん、本当にもう嫌だなー。僕が好きなのは、この世に ぃちゃんだけなんだから……それに、何だか彼女には魂がないような感じがしてさ。僕はどんなに綺麗でも、魂のない人形のような人を愛せるなんてことないよ」

「それじゃあ、仲村さんは私の魂がこの体でなく別の、例えば見た目が余りよくなくても、私を愛してくれる?」

「アア、勿論だよ。もし ぃちゃんの魂がこの体を抜けて何処かへ行ったとしても、僕は絶対捜し出すからね。ぃちゃん大好きだよ……愛してる」

「嬉しい。私も仲村さんのこと愛してる」

 雲間に隠れていた三日月が顔を出し、僕たちをやさしく照らしてくれる。僕たちはまた接吻を交わした。


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