第13話  これは夢かも?

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 デパートのイベントも終わり、月も変わって四月も既に後半となっていた。

天気は時折雨が降る日がつづき、僕の心も仕事をしている時などは取り留めることに思いを深めることもないが、それ以外の時は志緒梨のことを思うたびにどうしても常にしめり気味になってしまう。志緒梨とは、相変わらずメールのやり取りをしていたものの、僕は彼女への芽生えた嫉妬心というものを隠しながら、彼女は彼女で僕から早く病院へ行くことをうながす返事にはいつも、今はイベントの後始末で売り上げの整理、今はショップのことがあって、ああだこうだと言い訳をし、答えを曖昧にしかわし続けていた。

しかし、そんな最中さなか、イベントの終わった翌週の土曜日に、僕は志緒梨と初めて(僕の時系列はややこしい。若い志緒梨とふたりだけというのは、これが初めてとなる)お酒を飲みに行った。

 何故、ふたりで飲みに行くことになったかというと、イベントが終わり、本来ならその週に僕の退院祝いをかねてイベントの慰労会をする予定が、何かと会社の業務が多忙だとの理由でお流れになってしまったのだ。志緒梨がそれでは余りにも僕が不憫ふびんと感じたのだろう。そういった経緯けいいだと思うが、僕を誘ってくれたのだった。

 場所は、いつもの通り僕の行き付けの板長の国吉さんのいる居酒屋でカウンターに席を取り、お酒を飲んだ。

 彼女は、最近お酒を飲みに行く機会がなかったらしい。それで、結構楽しそうだったのだが、僕はというと何故か楽しめなかった。それは、彼女にからむ相手がまったく判らない漫然とした僕の勝手な嫉妬心からで、この前まであんなに志緒梨と一緒に酒が飲めることを楽しみにしていたのだが、結局二軒目に行ったカクテル専門のラウンジ・バーで彼女に「どうして、今日は沈んでいるの? 何だか、楽しんでいないみたい」と言われ、僕は、それが彼女に対する嫉妬心からともいえず。彼女が「もしかして仲村さん、家のことで何か悩みでもあるの?」と言われ、僕はそのといに、他に気の利いたことが見つからず、そうだと答えてしまった。

 そこで、僕は今の自分のウチにおける状況を彼女に打明けたのだが、二軒目に入った、この店には夜の十一時手前だったこともあり、志緒梨の子のまだ幼い小学生の梨緒りお一哉かずやから十分おきに電話が志緒梨の携帯に入って着た。その度に彼女は子供たちに早く寝るようにと伝えるのにやっきで、周りのお客からは〝なんだ? この男は子持ちの女を口説くどいて、子供はウチでお留守番ってか?〟というような視線を僕たちは背中に感じる始末で、全然いきなデートとはならなかった……僕は、嫉妬心という厄介やっかいな感情が足枷あしかせとなって、楽しめなかったという訳だ。

 その僕の厄介な嫉妬心というのは、前の世界での僕は志緒梨と一緒になるまで、僕は彼女へたいし疑うというような思いはひとつも持ったことはなかった。ただ、僕と彼女が定年を迎えての勇退式の日(僕が彼女に、僕以外他に意中の人がいるのではと、思い込んだ日)以外でのことだ。でも、今はイベントの時に仲田を車で送って行った……何も、僕は彼女と仲田のヤツの思いだけではなく、僕の中には、志緒梨はヤツだけではなく他の人というか、男たちともこれまでに何人かの人と一緒に車でドライブとかをしていんだろうか? 嫌それどころか、この時代に彼女にとってとても大切な意中の人がいたのでは、と思うと何だかやり切れない思いに駆られどうしようもなかった。

 まあ志緒梨からしても、彼女は一度は結婚をし、今は子供たちがいて、それでも今は一応誰にもとがめられることのないフリーな立場なんだし、他の男たちとのドライブに行ちゃあ駄目だ、なんて今の僕にだって言えない。この前だって、彼女に最近出血するの、て言われても僕には彼女の手を取り無理やり病院に連れて行く権限もなかったから、それはできなかった。

 彼女が、僕と一緒になるまでの間ちょっとしたアバンチュールだってなかったとはいえないし……でも、前の世界での僕は、志緒梨に対してそんなことは一切考えず、何も疑うことなんて何もなかった。でも、今は……。

 ここ最近の僕は、独りになり時間さえあると、いつも気がつけばこういう風にもの思いにふけてしまう。車の窓を叩く雨のせい? この湿った天気のせいなのだろうか?。今、僕は具志川の電力発電所の近くの海沿いに来て、遅い昼食に弁当を食べ終えたところだった。僕は、リクライニング・シートを深く倒していたが、突然フロント・パネルに置いていた携帯に会社からの電話が入った。着信音にドゥビー・ブラザースのホワット・ア・フール・ビリーブスが、鳴り出した。着信音は、イベントの翌日に換えていた着メロだ。手を伸ばし、電話に出ると志緒梨だった。

「仲村さん?。お疲れ様です」

「アッ、ハイ、お疲れ様です」

「アレッ、仲村さん?」

「エッ、エエー、仲村です。どうしたんですか?」

「エッ、アッ、なんでもないです。けど……えぇと、アッ、業務報告です。今度、ゴールデン・ウィークに沖縄市の方で、この前のMデパートと同じような商品の即時販売のイベントがあります。っで、仲村さんは五月一日の販売担当になりました。実を言うと、私も仲村さんと同じこの日になったので、ご報告をと……って、仲村さん聞いてる?」

「エッ、エエ、ハイ、聞いています」

「そうお? なんだか仲村さん、私、なにか迷惑ですか? 今なら、まだ変更出来ますよ」

「アッ、嫌、迷惑だなんて、全然です。イエ、嬉しいくらいです」

「そうお? なら、いいですけど。変更はしないで、そのままにしておきますね。それでは、業務連絡は以上です。仲村さん、午後のお仕事も頑張って下さい……プツッ」

 本来なら、志緒梨からのサプライズの電話に跳び上がるほど嬉しいはずなのに、どうしてこんな応対をしてしまたんだろう。僕は電話が切れた後も、また物思いの森に入り込んだ。

 僕の物思いの森は、別名迷いの森ともいい、一度足を踏み込いれると僕の気性としては、出るのはかなり時間がかかり、一苦労な想いをする羽目になる心の闇の場所なのだ。そこには毎回、答えとなる出口は変わり、地図もない。悩む深度によりそこが広いのか狭いのかさえわからない。僕はこの森を果てしなく入口から遠ざかって行っているのか、それともすぐ側に出口があって、その近くをグルグルとまわっているのかもしれない。でも、本当はそこから出るのは簡単なことで、僕が決心としてできるような答えを唯ひとつ択べばいいことなんだ。ただ、答えがひとつだけというのが難題だ。

 何せ、大体の人は答えを既に持っていて悩むのだから、その悩みは答えがひとつなら問題なんて最初からないが、やはり問題なの答えが二つ以上あってどれにするのかで悩むんだ。しかし、最初からその人は気づいている。どの答えを択べばいいのかということを知っている。それは勿論、僕は今の状況をすべて受け入れ、志緒梨のプライベートなことなどには思いを馳せない、ということだ。

しかし、しかしである。僕たちは人である以上、情というものがあって、情というものがこの時、足枷となる。人は機械ではない、スイッチを切り換えるだけで済むようなことではない。例えば、今の僕の問題を考えてみても、僕はここの世界、前の世界での僕の思いは志緒梨に何も疑いのない一途な想いだけでいた。ついこの前までその思いは変らずにいた。だが、しかし一度芽生えた僕の志緒梨に対する嫉妬心という名の迷いは、簡単には消せはしない。出来るのなら、そんなのはただの気の迷いだから、紙屑かみくずみたいにグチャグチャと丸めてゴミ箱にポイッと投げ入れればいいのだ。だが、それが割り切れないというのが情で、それが僕たち人間なんだと思う。

 どしてなんだろう? また、こんな哲学めいた意味のわからないことまで考えだしてしまって、もしかすると僕は森の中の、もっとも深く、深層となる今まで入り込んだことのない所にまで踏み込れてしまったのだろうか? でも、今、僕が悩んでいることはとても大事なことだ。何故なら僕は、どうして此処に来たのかを思い起こせば、僕はもう一度志緒梨の傍にいたい。ずっと離れないで傍にいたいという念いが、僕に奇跡を与え、僕はこうして志緒梨のいるこの時代にやって来たのだから、僕は、嫉妬という気の迷いになんかに負けるもんか、って思うんだけど……アッ、また会社からの電話だ。ホワット・ア・フール・ビリーブスが鳴っている。

「ハイ、仲村です」

「アッ、仲村課長、僕です川平です」

「何だ、川平か、どうした?」

「アッ、用っていう訳じゃあないですけど、課長、仲間部長に、何か言ったんですか?」

「なんだよ。何かって? 俺は、何も言った記憶はないけど」

「そうですか? ただ、部長の機嫌が悪くて、僕に何だかあたるような感じで、それに、何だか急にひとり落ち込んだりしているような、まだ体調がよくないんですかね?」

「なんだ、そんなことで俺に電話してきたのか? 仲間部長だって、それは彼女なりに大変なんだろう。会社でのこととか、ウチに帰れば帰ったで、何かとわずらわしいことが色々とあるんだろうよ」

「そうですね? アッ、そうだ課長、あのー……ですねー。先月イベントの時に、佐和田さんが課長につばさちゃんをあげる、て言ってましたよね? それで、課長はつばさちゃんになんか言ったんですか?」

「なんだよ、何かって? 俺が、つばさちゃんに何を言うんだよ?」

「なんかって? なんかプロポーズみたいな? とか、なんていえば……」

「オイ、川平、俺がつばさちゃんにプロポーズって? アハハ、笑う気にもならないな。川平、お前はバカか、言う訳ないだろ。俺が……」

「アッ、そうすよねー? そりゃそうですよねー。課長みたいなおじさんが、つばさちゃんのような若い子に……」

「オイ、川平。お前、俺に喧嘩を売ってるのかよー、エーオイ」

「エッ、まさか僕が課長に? でも、課長ありがとうございました……プツッ」

「オイ、何だよ。急にヘラヘラ笑いやがって……オイ、オイ」

 電話は切れていた。意味の分かんないヤツだ。それより、志緒梨が落ち込んでいた? 僕との電話のせいかな? やっぱ気になるからメールを送ろう。何か気の利いたヤツを、っと……。

 件名〔お疲れ様です!〕、本文〔先程は、嬉しい業務報告をありがとうございました!。

 僕は、お昼ご飯を食べたばかりで、お腹がいっぱいになり、ついうとうとしていて、折角の仲間部長からの電話に素っ気ない風な返事をしてしまって、ごめんなさい!。

 僕は仲間部長との、今度のイベントを一緒に出来ることを、とても楽しみにしています……だから、お互い頑張りましょう!!。〕と送った。

 しばらくして、志緒梨からメールの返事が着た。

 件名〔私も楽しみです!〕、本文〔さっきは、ごめんなさい!。

 仲村さん、本当はお昼寝をするところだったんですか? もし、お邪魔をしたのでしたら、本当にごめんなさい!。

 仲村さんは、先程は何か不機嫌なのか、それとも私が何かしたのか気になっていましたが、分かりました。それで、だったんですね?。

 今度のイベントは、私も頑張ります!……私も、とても楽しみにしています。

 午後のお仕事も頑張ってね!!。〕とあった。志緒梨の機嫌も直ったようだ、これでよしっと……。

 車の中から見る景色は、フロント・ガラスに打ち付ける雨で煙っている。いつもなら左手に石川いしかわの町、右手に与勝よかつの海中道路、正面には金武きんの町が、海をへだてて遠くに見えるのに……僕の心も、未だ森から抜け出せていなでいるようだ。何故か、心が騒いでいる。多分、心の中でまだ嫉妬の嵐が吹き荒れているのだろう……一体、僕の嫉妬の対象となるヤツは誰なんだろう。ウーン、ふさぎ込んでいても始まらない。どうせ降った雨なんだ。止まない雨はないっていうから、今は暴れている心が寝るまで待つしかないのだろう。

 ふさぎ込んでいても始まらない。それじゃあ、気晴らしだ。久しぶりに山城さんのところへ行って、今日は苺の土作りをして、気を紛らわせることとしよう。


 今日は五月一日、ちまたでは G・W (ゴールデン・ウィーク)が始まっている。

 だが、僕たちアース・フーズの従業員は少人数の会社なので、そうはいかない。日を割り振っての休みとなり、まともなG・Wとはならない。

 沖縄市のJA主催の農業に関するイベントで、僕は今、割り振られた建物と建物の間にある駐車所のようなちょっと広い処の一角で、この前のイベントと同じ野菜中心に並べたブースの中にいた。この日は、志緒梨と僕の二人だけなのだが、僕の心境はどうしようもなく複雑だ。今日一日志緒梨が傍にいてくれて嬉しいはずなのだが、そうも行かない。僕は、さっきから挨拶に来る人たちにたいして、懐疑的かいぎてきな眼で見てしまっている。

 それは、来るヤツほとんどが、挨拶を志緒梨にしてくる。何せ、僕は課長なのだが彼女は僕より長年この社にいてなにより部長なのだから、彼女の方が僕より偉くて、彼女の顔の方が僕より断然顔も広い。それは仕方のないことだ。

 アーアッ、また来ちゃった。今度のヤツは結構若い、まだ二十四、五歳ってとこかな? 手を振ってやがる。ンッ、彼女も彼女だ、両腕を思いっ切り前に突き出し手を振って愛想よくなんかして、なに応えてんだよ。もう見てるのも嫌になっちまう。まさか、志緒梨はあの若いヤツとも関係が……まさか、まさかだ。そんなことなんてある訳がない。でも、来るヤツみんなが、本当に怪しく見えてくる。坊さん憎けりゃ袈裟けさまでもっていうけど、今の僕には此処にいる奴等みんながかたきに見えてくる。

 アーアッ、こんな風にお客にこびを売ってへらへらしてなんかしていられない。出来れば彼女の前に立って誰も近づけないようにして……そうだ、チューリップの〝心の旅〟って歌のように、誰にも彼女の姿が目に入らないように僕のポケットに入れて、どこか誰も知らないとこへ……って、何を僕はメルヘンチックしてるんだろう。何だか、ずっと心が締め付けられ、そんな思いをしていたら、いつの間にかふところの狭い男になっちゃったよ……ポケットだけに。

 もう、僕の嫉妬心も火が点いてボウボウだよ。あーあっ、彼女はまた、これでもかっていうくらいのとびっきりの笑顔なんかしちゃって、なんだか楽しそうに、相手もまあ見ちゃあいられないなー。両手でオーバーにジェスチャーなんかしちゃって……オッ、志緒梨が戻って来た。にこにこなんかしちゃって、僕に手を振ってる。ウインクなんかしちゃって……か、可愛いなー。ンッ、なんか照れちゃうなー。

「ただいまっ、今の彼ね。昨年もここのイベントで、私たちと一緒に参加していたんだよ。仲村さんはその頃は、確か何処か離島で違うイベントだったわよね? っでね。去年は、彼女と二人で出店していてね。彼女は? って聞いたらね。去年の夏に彼女と結婚して、彼女妊娠して、今お腹が大きくて、今年はウチにいるって……なんだか幸せそうでいいわねー」

「アッ、そうなんだ。彼は、もう父親になるんだ? それは羨ましいね」

「本当よね。私も、もう一人欲しくなっちゃった。子供が」

「エッ、そうお? な、なら僕が……」

 僕が、言葉を言い終わらない内に、また彼女は挨拶に来た同業者の人に顔を向け、僕にはきびすを向け喋り始めていた。アーアッ、今日の彼女は忙しくて、おかげで僕はろくに話しも出来やあしない。

 しかし、お昼が過ぎ、お客もまばらになって落ち着いた頃に、志緒梨が両手でお盆に発泡スチロールの器に入った沖縄そばとパック入りのジューシー(沖縄の炊き込みご飯)を載せて来た。

「仲村さん、私たちもお昼にしましょう。ハイこれ……」

 僕たちは、出店の内側で、彼女から手渡されたものを受け取り昼食をとった。

 美味しかったが、僕はなんていえばいいのだろう、来世以来? 未来以来? まあどうでもいいか? この場合。彼女が若いから、初めてのふたりでのランチの味は分からなかった。彼女は、美味しいそうに頬張っている。そんな、幸せそうな彼女の顔を見ていると、僕もたとえようもなく幸福感に包まれる。たまに、僕に美味しい? って訊く度にこちらを見る彼女の瞳が、笑顔が、全て僕には愛おしい。だが、時間は残酷だ。楽しい時、幸せな時ほど時は早く過ぎて行く。

 僕たちがランチを終える頃から、小雨がパラパラと落ち始め、それ以降のお客の足はまばらとなり、四時過ぎに早めに店仕舞いをし、僕は志緒梨に名残り惜しいが、お疲れ、とことばを伝え、そのままお互い会社には戻らず自宅へと帰って行った。


 ウチに帰ってきて、風呂から上がり。早々ベランダに出て、缶ビールのプルトップをプシュッと開け、一口つけた。

 ンー、旨い……ベランダの外は小雨がまだシトシトと降り続けていた。

 例のごとく、愛猫のミュウが、開いてる端の窓からトンッと降りて来て、僕の足元に顔をすりすりしている。

「ミュウ、わかったよ。これあげるから、ちょっと待ってなっ……」

 と言って、袋からチーズを取り出し、ミュウの顔の前でチラつかせた。ミュウは、この前のようにまた聞き分けたかのように「ニャンッ」と一声鳴き、僕の足元で前足を両方揃え、僕がチーズを千切って与えてくれるのを待っている。

「ホラ、いいよ。食べても」

 ミュウがチーズを食べるのを見て、それから僕は用意していた小皿にもチーズを千切ったものを幾つか載せ、ベランダの隅に置いた。

 そこには、四年程前まではシェリーという雌のミックス犬がいた。ミュウより、一、二年先に飼っていた犬だ。十年は飼っていただろうか? 四年前の今頃に、僕が会社に行っている時に、娘の麻美が朝シェリーに餌をあげようとして、シェリーが息をしていないことに気づいた。ということだったが、っということは、麻美が家にいたとすると、もう少し早い時期の、麻美の学校が春休みの頃だったろうか? 嫌違う、夏だったような。今となっては僕の記憶も曖昧あいまいとなっている。何せ、僕の記憶の中では、もう二十年以上の時が経っているんだ。

 僕は小皿を、そこにいた筈のシェリーに置き、目を閉じ手を合わせ、シェリーの面影に念いを送った。気がつくと、ミュウも僕の傍で、じっと前足を揃えていた。

 そうか、コイツもウチの家族になって、もう十数年の年を迎えるんだ。二匹の仲は、余りいい方ではなかったように見えたが、シェリーはお姉さんのように、いつもきかん坊の弟に接するようにミュウの悪戯いたずらに吠えもせず、ただ黙って受け止めていたっけ……本部の玉城のオジーがいうように、失ってから人は大切だった、と失った存在の大きさに気づかされるんだ。コイツも今になって、そう思っているのだろうか? 僕はミュウの頭を撫でてやった。

 昼間は複雑だったが、幸せな時を過ごした分、今は余計に寂しさが募る。ウチに帰る途中、具志堅に携帯で電話をした。今夜飲みに行こう、て誘うつもりだったが、もう既に傍には絵美ちゃんがいたようで、彼女の声が電話のむこうから聞こえていた。彼は僕の誘いを無下に断れず。言い難そうにしていたから、僕はそれじゃあまた今度ゆっくりしような、と電話を切った。

 今、薄幸はっこうの中にいる人ほど、他の人の幸せを感じることで、自分の寂しさの大きさを比べることが出来るものなんだ、と気づかされる。昼間に、志緒梨との複雑ではあったが、幸せな時を過ごした。しかし僕の心は、いまだ迷いの森の中を彷徨さまよい続けていた。

 具志堅との電話を切り、彼と居酒屋へ行くのを諦め、今日は独りウチで飲むことを決め、スーパーに行ったのだが、そこで肴になるものを選んでいる最中に志緒梨からメールが届いた。見ると、今日のお疲れの意と、これから家事に取り掛かるので、また十時以降にメールを送る、とのことだった。

 ンッ? 僕の膝に、前足を乗せて「ニャン」とミュウが鳴き、もっとチーズをくれと催促さいそくしてきた。僕は、ミュウにまたチーズを千切ってやった。それから、キッチンに行き。冷蔵庫から、かなり前に買っておいた季節外れの春キャベツとマヨネーズを持って来た。それと、ポータブルのCDプレーヤーと、CDを数枚束になったものも一緒にテーブル代わりの板に置いた。

 キャベツを一枚はがし、マヨネーズを付けバリバリとチーズと交互に食べた。ヘッドフォンを頭に装着し、CDをセレクトして、プレイのボタンを押した。選んだ曲は、映画の〝ときめきに死す〟のサントラ盤のメインテーマだ。

 この、映画のときめきに死すというのは、監督は森田芳光もりたよしみつ沢田研二さわだけんじ主演の映画だ。宗教を母体とするそこのトップの政治家が、る小さな村にやって来る。そこで、沢田研二演じる主人公が、とある謎の組織に依頼され、その政治家を暗殺しようとするストーリーなのだが、面白いのは主人公は幼い頃から歯を鍛えられて育ち、ある組織に殺人の為の道具としてあつかわれ、訓練を受け育ってきた。そのせいで感情が全然面に出てこない。寡黙かもく的で、まるで殺人マシーンの彼の〝ときめき〟とは依頼を受けそれを遂行すいこうし、なし遂げる、その時だった。彼は、その時まで、唯ひたすら人を殺す為の武器を磨くかのように、我が身を鍛え貫き、その時までを生きてきた。

 僕はこの映画では彼のその生き方にシンパシー(共感)は全く感じることは出来なかったが、映画のオープニングの配役の名前がクレジットされる時に流れた曲が、僕の心に残った。そして、たまたま中古レコード屋さんで見つけたサントラ盤を買い、僕はパソコンを持っていなかったので、具志堅のところへレコードをかけるターンテーブルを一緒に、わざわざ持って行き、CDに落とした程に、気に入っている曲だった。

 ちなみに、ときめきという言葉は、物事のピークとかさかりのことを指していい。たとえば、よく使う言葉に、意中の人に、突然出逢い、胸がときめいたという、ときめきがそれだ。僕は、その言葉の意味を後で知ったのだが、それがゆえに、この曲が特別心に残った。

 映画で、この曲が流れるオープニングはそうだたと思うが、たぶん青色のモノトーンで結構ぼやけた画面で、森の中をカメラは彷徨ほうこうをするように木々の間をスローに動きまわる。まるで、今の僕の心の中とがシンクロしているかのように、ヘッドフォンを通し聴こえる音は頭の中で響き、いつしか感情移入してしまう。僕は、その森で彷徨い、探しているのは一体なんだろう? それは、やはりこの僕が、この世に戻りたいと願い、志緒梨の傍にいつまでもいたい、と思う念いが強くあって、そのために僕は戻ったのだ。それなら答えなど、もう考えなくてもそこにある。そうだ、僕は志緒梨の傍にいたい、唯それだけで答えは充分な筈だ。そうだ、僕は志緒梨に念いを告げるという、そのときめきのために、何も迷う必要なんてない筈なんだ。それなのに、何故に僕はこんなにも……ッン!? ミュウがチーズではなく、ビールの缶をコンコンと小突いている。

「何だよ。お前、ビールなんて飲めないだろう? まさか、お前もシェリーのように、俺に付き合うっていっているのか? ンッ、やっぱり違うか。そうか、僕にいちいち意味のないことは考えず、飲めっていっているんだな? ウン分かった。飲もう。今日は酔うまで飲むぞ……お前も、今夜は僕に付き合えよ」

 僕は、またキッチンへ行き、小皿を二枚と、ミルクを持ってきた。小皿にミルクを注ぎミュウにあげ、もう一方の皿にビールを入れて、先程、チーズを載せた小皿の側に置いた。

 以前はよく、今傍にいるミュウと、今はいなくなってしまったシェリーと、僕は此処でビールをよく飲んでいた。シェリー、今はもう天国で幸せにしているんだろうな? 本当なら、僕もお前の傍に既にいて、多分その頃にはミュウも傍にいて、以前のように飲んでいただろうに……もう少し待っていろよ。寂しいだろうけど、僕たちもお前がいなくなって寂しいよ、っと心の中で唱えた。

 宵もだいぶけ、僕の酔いもかなりまわってきた。携帯の時計のデジタル表示は、十一時二十一分を表していた。志緒梨からのメールは、今日の疲れで、もう彼女は寝ちゃったのかなと思い、ほぼあきらめに変わっていた。何せ今日、彼女には沢山の人が来て、挨拶に追われ販売どころではなかった程で、多分今頃は気疲れで、床にいているんだろう、と思っていた頃、彼女からメールが届いた。

 件名〔こんばんは・・・〕、本文〔今日は、本当にお疲れ様でした!!。

 販売の方は、仲村さんにだけ任せてしまい、本当にごめんなさい!……仲村さんは、疲れたでしょうね?。

 もしかして、仲村さんはお酒を飲んでいて、今はもう寝ちゃってはいないですか?。

 もし、そうでしたら、すみません!……メールが遅れたことを、謝ります。

 仲村さん、寝ているのでしたら。今日は、そのままおやすみを言います。ちなみに、私はまだ起きてテレビの推理ドラマの〝ポアロ〟を観ています。

 それでは、仲村さん、おやすみなさい!!。〕とあった。

 彼女は、勝手に僕がもう寝たと決め付けているようだ。僕も、返事を送らなければ……。

 件名〔僕は、まだ起きていますよ!〕、本文〔仲間部長こそ、今日はお疲れ様でした!。

 僕は、部長の推察通り、今ビールを飲ンでいるところです!……流石に、推理ドラマを見るだけに、なかなかな推理ですネ?。

 もし、出来るのなら、僕が、今何を考えているかを、部長のお得意の推理で当てて視て下さい!……怪盗ミュウより!。〕と勝手にミュウの名前を拝借はいしゃくして使い、メールを送った。

 志緒梨からの返事は、五分程で返って着た。

 件名〔ウーン? 何だろう・・・?〕、本文〔怪盗ミュウ君、なかなかな挑戦状ですね?。

 ウーン、何だろう?……今日は疲れて、もう寝たい?……違うかな?。

 それとも、もしや怪盗ミュウ君は、誰か想い焦がれる程の恋をしていて、意中のひとのことを考えると、眠れないとか?。

 何だろう?……もし、ミュウ君が、本当に誰か、意中のひとがいるのなら私に教えて下さい!!。〕という内容だった。

 僕は、ビールを飲みながら読んだが、後半の内容にビクッとして口に入れていたビールを吹きこぼしそうになった。

 これは、彼女からの僕への、逆の挑戦状だ。僕は、何てメールを送り返せばいいのだろう? 酔った頭脳をフル回転させると、余計に目が回り酔いが増した。挙句あげくの返事は……。

 件名〔なかなかですね!・・・マドモアゼル・ポアロ〕、本分〔なかなかです!……外れてはいないです!。

 ビールを飲み、こんなにも酔っているはずなのに、なかなか眠れないのは、そういうことなのでしょうか?。

 何だか胸がいっぱいで、熱く込み上ってくるものが……これって、いったい何だろう?。

 親愛なるマドモアゼル・ポアロ。判るのなら、教えて欲しい!!。〕と送り。

 僕は、トイレに駆け込んだが、熱く込上げてきたものは、ただの大きなゲップだった。

 てっきり、僕は空きっ腹に飲んだビールのせいで、吐き気を模様したのだと思い、トイレに駆け込んだのだが、未だいけるようだ。ゲップをしたら落ち着いたようで、喉が渇いてきた。

 ベランダに戻り、ビールを飲み直していると彼女からメールが届いた。

 件名〔わかります!・・・その気持ち!!〕、本文〔ミュウ君にも、意中のひとがいて、苦しいんですね?。

 私にも、その気持ち、よく分かります!……その人のことを想うと、胸が絞め付けられるように辛いですよね?。

 もし、そのひとへの自分の想いを打明けることが出来れば、どんなに楽になるんだろう、と思えるのに。

 その想いを告げれば、その人を失ってしまって、もう逢えないんじゃあないか、て心配で、心配で、耐え切れない思いなんですよね?……私も、今とても苦しいです!!。〕とあった。

 そうなんだ? 彼女も苦しいんだ。誰かのことを想、い……って、誰だ?。

 志緒梨のことを苦しめているのは、いったい誰だ? あんまりだ、余りにも僕には辛い。一体、彼女は何処の誰に想いをおくり、苦しんでいるんだろう。

 件名〔僕にも分かります。その気持ち!!〕、本文〔仲間部長にも、意中の人がいて、そンなにも苦しい程にしているとは、知りませンでした!。

 仲間部長の言われるように、その人のことを想うと、苦しいですよネ?……僕にも、よく分かります。僕も今、その人のことでいっぱいですから!。

 やはり、僕もその人に告白をし、そのひとが離れて行くンじゃあないかと心配で、僕にも打明ける勇気がなく、苦しい思いをしています!!。〕と送った。

 志緒梨からの返事は、数分も待たずにすぐに届いた。

 件名〔 無し 〕、本文〔仲村さん、誰?……仲村さんの想う、意中の人って誰なんですか?。

 お願いですから、教えて下さい!。

 私も、それを聞かないと、苦しくてたまりません!……ですから、教えて下さい!!。〕と、あった。

 僕は、悩みに悩んで、返事を送るのに時間が掛かかった。自分の正直な気持ちを、彼女に送っていいものか、もし送って彼女とは、もう二度とメールのやり取りもなくなり、逢うことさえも出来なくなれば、僕は、僕はいったいどうすればいいのか、と迷い一時間も掛けてメールの返事を打った……これが、最後だ。これで、僕のこの物語も終わるのかも知れない。

 件名〔これが、最後かも知れませン!!〕、本文〔僕の、想い焦がれて已まない意中のひとは貴女です!……仲間部長。いいえ、志緒梨さン。僕は、貴女のことに想い焦がれ、苦しンでいます!。

 もう、自分の気持ちに逃げることなく、貴女に伝えます……志緒梨さン、貴女のことが好きです!。大好きです!!。それに、愛しています!!……どうか、僕の、この想いわかって下さい!!。

 もしかすると、これが僕の最後のメールになるかも知れませン!……ですが、もう僕はこれで本望です!。

 今迄のメールのお付合いを、ありがとうございました!!。〕

 僕は、送信ボタンを押す前に、ビールを一口呑み、ボタンを押し残りのビールを一気に飲み干した。

 もう、これで最後だろう。これで、僕のこの世での存在理由もなくなってしまう。悲愴感に包まれると身も心も冷えびえとしてきて寒い。僕は部屋に入り、まだ仕舞ってはいなかったハンガーに掛けられたままの厚手のハーフ・コートを羽織り、ベランダに戻って、志緒梨からのメールの返事を、絞首刑台の前にたたずむ思いで待っていた。ベランダの外では、まだ小雨が降り続いている。

 僕は、膝にミュウを抱え、寒さをしのいだ。だが、酔い足りなくビールの缶の栓をまた開けた。これで、今日はもう五百ミリ缶六本目だ。

 体は冷えているが心がまだ酔いたい、とビールを求めている。それは、そうだろう、今、僕はギロチン台の上に首を乗せ、振り下ろされるギロチンの刃を待っている心境なのだから……膝の上のミュウが、僕の頬をペロペロと舐め、僕に注意を向けるように催促してくる。

 ミュウを見ると、ミュウは目を深く閉じたり、開いたりを繰り返し僕を見つめている。テレビの動物番組で、猫のそういう仕草は〝僕は君を見てるよ〟っという合図だ、と言っていた。そうかい、ミュウ、お前も僕を見て、勇気づけてくれているのか? でも、今のこの僕は、この世でのなす為の想いは成就じょうじゅしないために、この世に存在する意味をなくし、このまま消えるのかもしれないよ。

 僕は、ミュウに残りのチーズを千切りあげ、ビールをあおるように飲んだ……志緒梨からのメールは、未だこない。

 雨はミストのベールのような霧雨でさらさらと降り続き、ベランダからの景色は何も見えない……僕はこのミストのような雨のように、朝を迎える頃には消えて行くのだろうか?。


 ンッ? 携帯が、携帯のメールの着信音がしている。

 僕が目を覚ますと、雨は上がっていて、太陽が昇っている。もう、朝になっているようだ。僕の膝の上で、ミュウが小さないびきをたてている。僕は、未だこの世にどうやらいるようだ。

 携帯? そうだ。僕は、志緒梨からのメールを待っていたのだ。僕はメールの差出人を見た。やはり、志緒梨からだった。これで、僕の運命も決まるんだ。意を決して、メールを開いた。

 件名〔昨夜は、ごめんね!〕、本文〔昨夜は、仲村さんの返事を待っていましたが、余りにも遅いので、つい眠ってしまいました!。

 仲村さんからのメールのお返事は、先程目が覚めて、今読んだところです!。

 それで、メールでは伝えきれないので、直接電話でお話しがしたいです!。

 仲村さんのご都合のよい時間にメールでご連絡を下さい……出来れば、早めに下さい!!。〕とあった。

 僕が待ちに待った。志緒梨からのメールではあったが、直ぐには返事のメールを送る勇気がなく、一度キッチンに行き珈琲を入れ、ベランダに戻ってきた。

 珈琲を飲み落ち着けようとしたが、イマイチまだ決めきれない……っが、仕方ない。どんなに考えても僕は既に、彼女に自分の気持ちを伝えてしまっていて、言うなればサイはもう既に昨夜の内に投げられていて、僕はその答えを待つ身なのだ。

 僕は、改めて意を決し、彼女にメールを打った。

 件名〔 無し 〕、本文〔おはようございます!……僕は、今起きたところです!。〕っと。これが、僕からのメールの返事で、送信ボタンを押し、珈琲を飲みながら彼女からの返事を待った。

 時間は、もうお昼前の十一時に近かった。今日は日曜日だ。しかし、家の中は誰もいない。妻は、パートの仕事だ。子供たちは、朝からG・Wを外で満喫しているのだろう。

 僕は、少しでも気持ちを落ち着けようと珈琲を少しづつ飲み、マグカップの半分になった頃に、携帯の着信音が鳴り響いた。志緒梨からだ。僕は、電話に出た。

「ハイ、仲村です」

「おはようございます……志緒梨です……」

 少し沈黙があった。何を電話をしてきて、彼女はどうして黙っているんだ。とても息苦しい。胸が絞め付けられるようだ。は、早く何か言って欲しい。この沈黙に僕は押し潰されそうだ。

 志緒梨が、やっと口を開き声を出してきた。その声は、かすかに震えていた。彼女も、僕と同じようにいた堪れないでいるのだろうか。

「仲村さん、昨夜の仲村さんからのメールを、今朝、読みました。それで……仲村さんの気持ちは、それで……それが本当の……ホントの仲村さんの気持ちなんですか?」

「エッ? アッ、ハイ、昨日の僕のメールは、僕の本心って言うか、僕の……僕の、志緒梨さんへの想いです」

「エッ? エエー……もう一度、聞きます。仲村さんが昨夜、メールで……貴方が云っていた意中のひとって……私? 仲村さん貴方は、私のことを本当に……」

「ハッ、ハイ、僕は、志緒梨さんのことが好きです。大好きです……愛しています」

「エッ、エエー……嬉しい……です」

「アッ、ごめんなさい……って、エッ? い、今なんて言いました? 嬉しいって?」

「エエ、嬉しい、って言いました……」

「ほ、本当ですか? 部長、今、本当に、嬉しいって……」

「仲村さん、部長だ、なんて……エエ、本当に、私は嬉しいって言いました。私も、仲村さんのことが好きでいます。もう、隠してはいられない程……仲村さんのことが好きで、好きで……仲村さん、私どうすれば、どうしたら……いいの?」

「どうしたら、いいのって……僕には分からないです。けど、僕はとても嬉しいです。もしよければ、これから逢いませんか? 逢って、ゆっくりとお話しを……」

「イイエ、それが、駄目なんです。これから、私の妹、新城部長の家族がウチに来て、それから、新城さんが今日イベントの当番だから、そこへ行くことになっていて、そこに行かなければいけないんです。ですから、それで……」

「分かりました。では、部長、帰ってきたら、またご連絡をしてもらえますか?」

「仲村さん、もう……今は、もう部長じゃあないわ。これからは……これからは、私のことを名前で呼んでね……名前でね」

「アッ、ハイ……し志緒梨、さん? っで、いいですか? それとも……ぃちゃん?」

「エッ!? 仲村さん。今、今なんて言いました。ぃちゃんって、どうして、それを?……」

 僕は、知っていた。志緒梨が幼い頃に、自分のことをしおりと言えずに、志緒梨の頭のしの方だけ言おうとして、しぃちゃんと言おうとしたが、しかし、幼なかった志緒梨には、〝しぃ〟と言う発音も難しく〝し〟という字が抜けてしまい、物心がつくまで、ずっと自分のことを〝 ぃちゃん〟と呼んでいたことを……それで、この世に戻る前は、僕も彼女のことを ぃちゃんと呼んでいたのだった。

僕にとっても、懐かしい響きの呼び名だった。

「ウ、ウーン、何でもないよ。唯、ただ呼んでみただけだから……ごめんね」

「エッ? いいの……ただ、何だか懐かしくなっちゃたから……なんでだろうね? アッ! ハーイ。アッ、今行くから……仲村さん、ごめんなさい。妹たち家族が来たみたいだから、また連絡するね? それじゃあ、また後でね? なかむらさん! エヘッ、じゃあ……プツッ」

 僕は、途切れた電話の携帯をしばらく耳にあてたままでいた。

 しかし、我に返り、今の自分が余計信じられないでいた。思いっ切り飛び上がりそうだ。何処までも、どこまでも、ずっと高く。体が軽く、フワフワと天にも昇る心持ちだ。幸いなことに、今僕のいる部屋には天井があって、天には逝かずにすむだろう……これからまた後で、彼女、ぃちゃんから電話が入る。

 もう寝ないで僕は待っている。何せ、寝ちゃって起きたら、これが夢だったらってことになたら……なっちゃったりした。もう僕は、僕は……今、僕は夢の中にいるようだ。

 体がフワフワと……もしかして、これは夢?。

 これは夢かも? たぶん、これは……。


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