第12話   僕の知らないとこで・・・

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 まるで頬を撫でるかのようにやさしい涼やかな風が吹いていた。

 酔って火照った顔に、少し冷ややかな潮風は心地好い。酒も既に早い時間にビールから島酒にかわっていて、今は僕と玉城さん二人となり、僕たちは潮騒とお月さんをでていた。

 騒がしい程に賑やかだった宴は、時間も十時を過ぎる頃にはコウさんを残し若い連中は帰って行った。

 久々に見る僕がいるから、まだもう少し酒を呑み話しがしたい、と若い連中は僕を口実に飲んでいたかったようだが、明日の仕事にもさしさわると面倒だから、と頭領の仲村さんが途中早めに帰してしまった。

 頭領の方も本腰を入れて、これからが大人の時間だと意気込んだのだが、一杯目の杯を空にした頃に奥さんが主人の帰りが余りにも遅いからと迎えに来てしまった。もう少しだけ、と散々駄々をごねながらも、奥さんに先導され連れて行かれた。

 コウさんの方も、頭領が帰って三十分も経たない頃に、小学生の娘のちえちゃんが迎えに来て一緒に手を繋ぎ帰ってしまって、今は僕と玉城さんと二人だけになってしまった。

 まるで、祭りの後の静けさに呑まれたかのように、二人の間にも少し冷めた潮風が吹きこみ沈黙が流れた。

 小さな商店も、店のシャッターを下ろしてしまった。更に今、店先の外灯までも消されてしまった。

「ナカちゃん、ウチに行って、もう少し飲もうか?」

「イイエ、そろそろ後もう一杯飲んだらおひらきにしょう。途中で気が付いたんだけど、玉城さん煙草止めたの? 今日は一度も玉城さんが吸っているのを見ていないけど」

「アアー、やめたよ。こうしてナカちゃんとか若い奴等やつら

が、ワシのことに気を遣って話しをしてくれたり、酒を一緒に飲んでくれたりして、有難いことだと思っているんだよ。ワシはオバーを亡くして独りぼっちになって、これは本当に淋しいことなんだって、ワシも残されてやっと気づかされたんだよ。それで、ナカちゃんや周りの人たちに何か少しでもいいことして遣れたらと思ってなっ、考えたんだけど……分からん」

 玉城のオジーは話の途中、自身の中ににわかに起こりのど元につかえていたわだかまりを酒で流し込み、ふうっと大きく息を吐き、話を続けた。

「ナカちゃん、だからなっ、いいことが出来るまでは長生きしていよう、とそれまではみんなに迷惑を掛けないように健康になっていないとなって、思ったんだよ。だが早くオバーのところにも行ってやりたいけど、オバーにはもう少しワシの我儘わがままを許してくれ、とオバーのところに行ったら、今迄してやれなかった分沢山オバー孝行するから、となっ……ン!? そう言えばナカちゃん、何かワシに話したいことがあるとか言っていたなー。どんなことなんだ?」

「イーエ、僕の方はなんでもないですよ。それより、玉城さんは奥さんのことを本当は大事にしていたんだなー、って今日改めて分かった。いつもいつもエロオジー、って言っていて、悪いことしたなー、って思うよ」

「イーヤ、いいんだよ。唯、周りが楽しく笑ってさえくれれば……あのな、ナカちゃん、ワシは思うんだ。人生の中ので大切な人っていうのは、一晩のお月さんのようだとなっ」

「なに? その一晩のお月さんって」

「イヤ何、ただ、お月さんって、東の空に昇り始めは大きく見えるよな? だが、空高く天辺てっぺんの方に来ると、小さく見えるよな? 分かるか?」

「ウン、分かるよ。昇り始めのお月さんは大きく見えて、天辺のお月さんは小さく見えるけど、本当は同じ大きさなんだってことでしょ? もっと分かりやすく言えば、手を伸ばして親指と人差し指の先で五十円玉を押さえて、穴をのぞくとどちらのお月さんも本当は丁度入る大きさなんだってことなんでしょ?」

「そうだ。ナカちゃんは、何処かのフラー達と違ってものを結構知っているから説明する手間がはぶけて助かるよ。っでな、人生で大切な人とは出会って好きになった頃はとてもとても大切で、昇り始めのお月さんのように自分にとっての存在はとても大きいよなっ? でも、いざ自分のモノになりいつも自分の傍にいると、天辺のお月さんのように存在を小さく見てしまうものなんだ。っで、それから沈み行くお月さんも登り始めと同じように大きくなってなっ、人は大切な人を失う頃にその人の存在の大きさに気づくものなんだよ。ワシの言っていることは分かったかなっ?」

「エエ、なんとなくかもしれないけど、分かりました。自分の大切な人っていうか、相手は同じ人で何も変ってはいないけど、自分からの見方によって相手の存在を勝手に小さくしたりするってことなんだよね?」

「そうそう、そういうこと……ナカちゃんは、物分かりがいいから本当に助かるよ。ワシもオバーのことを想うと、出会った頃だとかふたり幸せな時とかだけじゃあなく、今はオバーを悲しませていた頃のことが悔やんでも悔やみ切れないよ。本当に今のワシにとって、その時の存在の方が余りにも大く感じるよ」

「玉城さん、ありがとう。勉強になりました」

「ウンウン、そうか……っで、ナカちゃんとこは何か進展はしたか? もし、前のように戻れるのなら、そうした方がいいんじゃあなのか?」

「イイエ、僕の方は、もう戻る気はないです。女房と同じとこにいると、本当に息が出来なくなってくる程に苦しくなって、何が悪いとかじゃあないけど……」

「それは、大変だなー。それなら、楽にしてあげないとなっ、相手の為にもなっ」

「エエ、分かっています。ウチは娘が高校を卒業して落ち着いてから、僕たち両親の身勝手な言い分を受け入れてくれる迄の約束としていますから。それで、そのことを話し合い、決めてからは不思議と前ほどは苦しくはなくなりました。多分、目標のようなもの、ゴールが出来たからだと思うんです」

「そうか、分かった。ワシの老婆心で聞いたことだから聞き流しておいてくれなっ。それじゃあ、今日は最後の乾杯だ。ホリャなっ?」

 僕は今日、玉城さんのことを心配して来たつもりだったが、逆に玉城さんに僕の方が心配されていたんだ。僕にとっても有難いことだ。此処にも僕を心配してくれている人がいた。僕は、島酒の入ったコップを両手に掲げ、玉城さんに感謝の念いを込め、玉城さんからの乾杯を受けた。

 空にはか細いお月さん、僕が座る側に木々が立ち並び、海と部落を分けている。その間から見える浅瀬の海は穏やか、とても幻想的で心を奪われる。今夜のお月さんは余りにも細く明りも少ないが、そんなか弱い光に海自体がまるで発光しているかのように煌めいている。少し離れたとこに干潮にでもなれば歩いて渡れる岩でできた二メートルほどの小さな離れ小島がある。そこの岩場にマーメイド魚かローレライが僕を誘い歌っているような錯覚を思い起こさせる……。

「……オイ、ナカちゃん」

「エッ!? エッ、何ですか?」

「また、景色に引っ張られたな。心ここにあらずでワシの言っているのも聞こえなかったみたいで……まあいい。ナカちゃん、今年は来いよ」

「来いって、何のこと?」

「ンー、花火だよ。海洋博の花火を今年は観に来い、って言っているんだよ。海洋博の花火を観るのなら、此処が一番の特等席だから。どうだ、一緒に酒でも飲みながら観ないか?」

「ああ、いいですねー、来ます。来て、一緒に観ながらお酒を飲みましょう」

「約束だぞ、絶対来いよ。来年はないからな。老い先短いオジーの頼みだからタガを外すとバチが当たるからな」

「玉城さん、何言ってんですかー。さっき〝ワシは周りのみんなの為に健康で長生きするんだ〟って言っていたじゃあないですかー」

「アアー、そうだった、そうだった。だがな、ナカちゃん約束したからちゃんと来いよ」

「エエ、分かりました。約束ですからね? ハイ、じゃあ約束に乾杯」

 玉城さんは、乾杯に応じて杯を飲み干し、酒を注ぎ足した……まだ飲むつもりらしい。

 花火か、ここから見る花火はキレイだろうなあ。左斜め向こうに海洋博記念公園があって、そこの海から打ち上がる花火を、此処から観るのは本当に最高だろうなー。僕も酒をコップに注いだ。

 海を渡り越え吹いて来る潮風は心地好い。そのまま、星空の下で寝るのもいいな……体のことを心配して玉城さんに逢いに来たのだが、玉城さんはちゃんと自分自身の体のことを考えているし、なにより煙草を止めてくれたので一安心だ。

 その時、潮風の中に声が聞こえた。「心配をしてくれてありがとう……」玉城さんの声ではない。女の人の声だ……もしかして、玉城さんのオバーの声? やっぱり、オバーは玉城さんの傍を心配で離れられずに、今もいるのかもしれない。もしオバーでなければ……あの岩場にいるのは多分人魚ではなく、ローレライのようだ。まあ、いずれにしてもこの幻想的な景色と潮風が酔った僕にみせる幻聴、空耳なのだろう。そうはいっても、思いは何故か、僕に小島の岩へと意識を釘付ける……ン!? なんだか面白い。英語で見惚みとれるとか、釘付けっていうのを確か、ターン・トゥ・ストーンって言うんだったけ?。

 玉城さんは酔ってしまい、いつしか首をコクリコクリとしている。こんなところで寝ちゃうと風邪をひいてしまうのに、僕が声を掛けようとしたら、玉城さんが寝言を言った。

「イーイー分(わ)カトーン。イー、ナマカラヤーニケーイングトゥ心配サンティーシムングトゥヨー。イー、初子はつこーアリガトウ、イー分カトーン、分カトーン……(アアー分かってる。アアー、今からウチに帰るから心配しなくて良いよ。ウン、初子ありがとう、ウン分かってる、分かってる……)」

 ッン? 玉城さんの亡くなった奥さん、オバーの名前は確か初子だった。

 だから? もしかして、玉城さんの傍に今も? もしかして、さっき聴こえてきたのは空耳なんじゃあなく……オバーの声? ローレライなんかじゃあないんだ。




 携帯電話のアラームが鳴っている。まだ暗いが、時間は朝の五時になっている。

 もう起きて、これから一度会社に行き車をかえ、自宅へ戻り風呂に入り着替えてから、イベント会場のMデパートへ向かわなければ……。

 デパートの方の開館は十時だから時間に余裕はあるが、何せここ本部から、会社のある那覇までは高速道路を使っても二時間は掛かるだろうし、それに僕は高速道路より県道が好きだから、いつもの通り県道で戻る予定だ。

 僕は、酒の少し残っている体を起し、外に出て深呼吸をした。朝を迎えようとしている海は、昨夜見た時とは様子を変え、今は真っ暗で潮騒と潮の匂いだけがする。

 僕が寝たとこは、玉城さんが勝手に作った、海沿いの廃材を再利用の掘っ立て小屋で、いつ泊まってもいいように手作りのベットに毛布も置いているが、余り洗ってないのか多少臭う。

 昨夜、宴会をした場所へ行き、自動販売機で缶コーヒーを買い、E・V、僕のもうひとつの愛車のエンジンを起し、ヘッドライトも点け走らせ、那覇に向かった。

 途中、二十四時間開いているエンダー(A&W)でハンバーガーを買い、お腹を満たしながら明るくなった恩納村の海を横目に、ゴーパチ(国道58号線)を走る。

 もう時間は七時になろうとしているのに、今日は週末ともあって道は混むこともなく、偶に大型ダンプが走っているくらいで、難なくスムースに牧港まきみなとまで来た。しかし、そこから信号の度に混むようになったが、無事会社で車を換え、ウチでシャワーを浴び、着替えてデパートに着いた。

 来る途中、小雨がパラパラと降ってきた。夕べ玉城さんが、今日は雨になるなって言っていたことを思い出した。流石は年のこうだな、と感心したものの、僕の頭にはもうひとつ佐和田さんのことで大降りになりそうなぐらいの暗雲がおおっていた。

 佐和田さんに、どう言って説明をしたものかと思案しても答えなど出せないままに、イベントの会場にきてしまった。僕は、何ていえば……。

「アッ、課長、おはようございます」

 見ると、アース・フーズのショップ浦添えらそえ店の池宮いけみやさんだった。僕より十歳程年下で、五十から六十と平均年齢の高いショップの中では、一番若い子だ。

「アッ、池宮さん、おはよう。ンッ、確か池宮さんは、昨日も此処だたんじゃあ?」

「エエ、今日本当は休みだたんですけど、昨夜、仲間部長から電話が着て、今日入る予定の那覇店の国場こくばさんの体調が悪いからって……」

「アアー、そうなんだ。大変だね、折角の休みだったのに、申し訳ないね」

「アッ、いいんですよ。私、もともとお祭りとか、こういうイベントとか好きだから、気にしないで下さい」

「アッそう、ならいいけど。それじゃあ、今日も頑張ろうね」

「おっはようございす。課長、僕も頑張ります。アッ、池宮さん、今日もめっちゃ可愛いですねー。僕が課長の毒牙から池宮さんをお守りますから、ご安心を」

 川平も、来ていたようだ。なんだかまたトラブルメーカーのコイツのせいで、ゴチャゴチャしなければいいけが。

「アッ、そういえば。川平、お前今日は朝、会社に行って、此処の補充の商品取ってくるんじゃあなかったか?」

「ハイ、もう取って来ましたよ。会社に行って……そしたら、仲間部長から電話があって、今日も少し遅くなるって言っていましたよ。またですよ。また。この前、早退してから、もうずっとなんですから。何かあったんですかね」

「ンッ、お前は心配しなくていいから、早く持ってきた商品を並べるから取って来いよ」

「ハイハーイ……」

 川平は、その場を離れて行った。すると、池宮さんが近づいてきて。

「課長、私、川平さんって苦手なんですよー。なんていえばいいか、用もないのに、私の周りをウロウロするし、なんだか川平さんは普通のことを言っているんだと思うですけど、私にはセクハラに感じて、嫌なんですよね」

「ウン、分かった。それじゃあアイツが池宮さんに近づいて来たら、僕の方に来たらいいよ」

「ありがとうございます。今日いっぱい宜しくお願いします」

「アー、何してるんですかー。池宮さん、課長の傍にいちゃあ、何されるか分かんないですよー。この前だって、佐和田さんとこの絵美さんを泣かしたんすからねー」

 川平が、台車に荷物を積んで戻ってきていた。

「エー、課長、そうなんですか? でも、私は課長だったら泣かされてもいいかなー」

「何、言ってんだよー。池宮さんは、旦那さんがいるだろう? 僕は、そんな人は泣かさないし、もともと女の人を泣かしたことなんて……アッ、あれは、偶々たまたまだから」

「って、やっぱり泣かしたんだ? ネエ、課長、どうして泣かしたのですか? アッ、本人だ」

「おはようございます。すみません、仲村さん、ちょっとお話をしたいんですが」

 振り向くと、佐和田さんの娘の絵美ちゃんが立っていた。

「アッ、絵美ちゃん、おはようございます。お話しですか? アッ、ハイ、いいですよ。此処じゃあなんですから、裏の方へ行きましょうか?」

 僕は、絵美ちゃんをいざない、エレベーターホールへの通路に連れて行った。

「ここならいいでしょう。絵美ちゃん、この前はごめんな、さ……」

 僕の言う、言葉をさえぎり、絵美ちゃんが言葉を割ってきた。

「仲村さん、ごめんなさい」

 絵美ちゃんは、頭を深々と下げている。

「え、絵美ちゃん、ど、どう言うこと? ごめんなさいって?」

 顔を上げた絵美ちゃんの目は、ウルウルと今にも泣き出しそうだ。

「え、絵美ちゃん……」

「あ、あのー、仲村さん……私、折角仲村さんとお付合いすることになったのに、本当にごめんなさい。私、仲村さんとは、もうお付合いできないんです」

 何を言っているんだ、絵美ちゃんは……言葉をなくし立ちくすしかなかった僕を、忙しそうに通り過ぎる人たちが、〝また、このふたりは……〟という風な目で行く。その中に、志緒梨がいた。僕の前を通り過ぎる人の波の中にまぎれ、フラッシュモーションのように横切って行ってしまった。志緒梨の、その眼には軽蔑けいべつの感情が見てとれた。

「わたし、私は、仲村さんのお友達の具志堅さんに昨日告白されて、その晩に具志堅さんとお酒を飲みに行って、彼とお付合いすることを受けたんです……だから、仲村さん……ごめんなさい」

「エッ、今、絵美ちゃん、今なんて言ったの? もう一度、もう一度、言ってもらえない?」

「ごめんなさい。本当にごめんなさい。仲村さんが、怒るのも分かります。仲村さんと具志堅さんは、すごく仲のいいお友達って分かっているのに、私、私本当にごめんなさい」

「アハハハ……」

 僕は、今までかまえていた力が抜けてしまい、思わず笑ってしまった。

 今まで僕は、絵美ちゃんと具志堅との仲を如何に取持たせようかとしていて、更に僕と付き合うのは間違いだと気付かせるには、と考えていたのに……それが、本当に気が抜けるほど簡単に僕の思索しさくなどするのを待たず、理想の形になっているようだ。

「仲村さん、大丈夫ですか? ごめんなさい。もしかして、余りの怒りで気がおかしくなったんですか? それなら、本当に謝ります。ごめんなさい」

「嫌々、絵美ちゃん違うよ。違うんだよ。おめでとう、絵美ちゃん……僕は怒ってなんかないよ。僕は、慶んでいるんだ。絵美ちゃん、具志堅をよろしくね。ふたりは、とても似合っているよ。絵美ちゃん、本当におめでとう」

「あ、ありがとうございます」

 信じられないで、きょとんとしている絵美ちゃんに僕は、うんうんと肩をポンポンとかるく叩いて、売り場へ戻った。

 売り場で、僕を待っていたのは白い軽蔑の視線たちだった。先程の、僕と絵美ちゃんのツゥーショットを見ていた志緒梨の視線はより冷ややかだった。

「仲間部長、さっきの僕と絵美ちゃんのことは、なんでもないんですよ。これだけは、信じてもらえないですか? お願いします」

 デパートは開店したてで、並んだ商品の整理をしている志緒梨に、僕はそっと近寄り、そう小声で訴えた。

「アアー、そうなんですね、分かりました。そういうことにしておきましょう。でも仲村課長、貴方一昨日なんでも絵美さんと飲みに行かれたそうですね。裏ではそんなことしておきながらも、よくもそういけしゃあしゃあと」

「アッ、違うんです。ア、アレは……アレは、なにも僕と絵美ちゃん二人だけで行ったわけじゃあなくて、具志堅、僕の友達の具志堅も一緒だたんで、なにも二人だけってわけじゃあないんです」

「アッそう、分かりました。でも、やっぱり絵美さんと飲みに行ったのは確かなようですから」

 志緒梨は、何を言っても否定をするようだ。まるでとりつく島がなく聞き訳がない。っと、そこへ佐和田のおやじがやって来た。相変わらず、だみ声だけど、いつもよりひどい。

「よう、お二人さんおはよう。特に仲村課長さん……って言うより、佐和田家の元婿さんって、言えばいいのかな?」

 と、ヘラヘラしている。志緒梨はおやっと思ったのか、聞き返した。

「おはようございます。佐和田さん、今日はご機嫌ですね。何かいいことでも? それに、ウチの課長の仲村のことを、元婿ってどういうことなんですか」

「イーヤなに、折角おたくの仲村ちゃんをウチの婿にしてやたのに、ウチの絵美がね、他に婿さんを見つけてしまってね。そいで、仲村ちゃんには悪いけど、ねっ仲村ちゃん? さっき、絵美に聞いたけど、絵美におめでとうって言ったんだって? 偉い、仲村ちゃんは男だねー。本当に偉いよ。っでね、本当は仲村ちゃん、泣いているんじゃあないかって思って、なぐさめに来たって訳だよ。昨日の晩は、絵美の婚約者になるヤツと飲んだんだけど、でも仲村ちゃんのことを考えると可哀相で、今晩は、絵美の親父である、この俺が仲村ちゃんの辛い胸の内を聞いてあげようか、と誘いに来たんだよ。どうだ、仲村ちゃん」

 ンッ、新しい婿さんって具志堅のこと? 具志堅は、昨夜、佐和田さんたちと飲みに行ったってこと?。

「佐和田さん、昨夜は具志堅と飲みに行ったんですか?」

「オウ、行ったよ。昨日夕方に、そいつがここに来て、最初は昨日絵美を泣かして申し訳ないって謝って、そのうち絵美と離れて行き、何処へ行ったのかなーって思っていたら帰ってきて……絵美が言うには〝お父さん、話があるから今晩付き合って〟って言うんだよ。そいで、つばさも交えて一緒に飲みに行ったんだよ。っでな、そいで、そいつ具志堅っていうんだけど、そいつから話を聞いたら、絵美のことを絶対幸せにするから僕に下さい、って熱く言うもんだから。俺も、その男気に負けたってわけだ。そういう訳なんだ。ただな、俺は仲村ちゃんのことが不憫ふびんで気になって、それで絵美に仲村ちゃんのことはちゃんとけじめをつけるようにいったんだよ。だけど、本当にありがとう。オメーも本当に男だ。俺も、涙が出ちゃうぜ、この野郎」

「嫌々、いいんですよ。具志堅は僕の大親友だから、僕も本当に嬉しいですよ」

「オウ、ありがとう。今晩は俺が酒をおごってやる。なんだった俺の胸も貸してやる。泣きたかったら、俺の胸で泣きな。アッ、なんだったら、どうだ妹のつばさの方は、つばさのヤツを嫁によっ。って言ってもこればっかりは、つばさに聞かないと、分かんねえか? っていうことで、また今晩な。そんじゃあな」

 と、自分の売り場のサンドウィッチのブースへ戻って行った。

 僕は、志緒梨の方を見ると、彼女は去ってゆく佐和田さんの背中を見送り唖然あぜんとしていた。

「ネッ、僕はなんでもなかったでしょう? 全部が、佐和田さんの思い込みだった、ってことを分かってもらえたでしょう」

「エエ、でも私には何がなんだか……全然、つかめない話で……ただ、仲村さんは絵美さんにふられ……失恋をしたってこと?」

「エッ、エー? そんなんじゃあなく。最初っから僕と絵美ちゃんはなんでもなく。唯、僕は具志堅と絵美ちゃんを一緒にしようとしていただけなんです。分かりましたか」

 彼女の顔を見ると、やっと笑顔が戻り、僕にうなずいた。これで、僕も安心だ。

そこへ、川平が近付いて来た。池宮さんも一緒だ。

「課長、今度は、つばさちゃんと婚約をするんですか?」

 志緒梨が、代わりに笑って答えた。

「馬鹿ね、人はそう簡単にくっ付いたりなんかしないわよ。仲村さんを信じて、ねっ。信じてあげないと」


 今日は土曜日ということもあり、お客の入りは平日に比べなかなかよかった。僕としても、胸のもやもやは一切なく楽しく販売活動に専念出来た。

 もうすぐ十二時になろうかとする頃に、会社から志緒梨に電話があって、今もうひとりの部長の新城が此処へ向かっているから、志緒梨は会社に戻って来るようにとのことで、彼女はそこへ向かい行くところだった。そこで、僕は彼女の背中を追って行き、エレベーターホールで呼び止めた。

「部長、最近どうしたんですか? 体調でも、なにか?」

「アッ、すみません。仲村さんにまで迷惑をかけちゃって」

「イイエ、僕の方は何も迷惑だなんて。それより、どうしたんですか?」

 僕は思い出した。前の世界で彼女がこの頃の、この時季に子宮筋腫で入院をするってことを……。

「部長、自分の体のことをだまそうとしても、駄目ですよ。何かあって、知らない振りをしても、状況は何も変わらないし、かえって、今は何もなかったとしても後になっては取り返しのつかないことに、なんてことだって……」

「そうね、分かったわ。仲村さんだから言っちゃうんだけど……最近、ある意味大変なの。って言うのも、言いにくいんだけど、出血、出血するんです。本当に言い難いんですけど、あそこから……何て言えばいいのかしら、女性自身の……」

 僕は、やっぱり……と知ってはいたが、それでもやはり女性に取ってはとてもナーバスなことだけに口ごもった。

「……アッ、ハア、しゅ、出血、ですね……部長、こんなことしている場合じゃあないですよ。早く病院に行って、診てもらわないと……」

「エエ、分かっているわ。でも、私も行こうと思っていたけど、今、こうしてイベントがあってみんな忙しいから……それが、終わってから、て思っていて……」

「でも、じゃあないですよ。早めに病院に行ってもらって……早く行かなければ、治るものも後々手遅れってことになれば……それに、イベント期間中に、部長に何かあって倒れでもしたら、それこそ、会社の連中に迷惑を掛けることになるんですよ」

「エッ、エエ、分かったわ。私も早めに行くことにするわ。ただ、このイベントが終わるまでは、それまで仲村さん、それまで待ってもらえませんか? お願いです」

 その時、ボタンを押して待っていたエレベーターが着き、ドアが開いた。中から思いがけなく声がした。

「オヤ、マー、志緒梨さん、もしかして私を待っていたんですか? そうでもなければ、これはまた偶然というより、運命ですよねー。あははは……」

 独りよがりの貴公子、仲田だった。何でこんなところでコイツが現れるんだ。本当に空気の読めない独り勝手な登場をしやがる。

「アラ、仲田さん、私はこれから会社に戻るところです」

「アアー、そうなんですかー? 志緒梨さんのいないイベントなんか見ていても面白くもなんともないから、私も帰るとします。ここにいると、また何されるか分かったもんじゃあないですからね」

「そうですか? 仲田さん自宅へ帰られるのでしたら私の会社の途中ですから、お送りしましょうか? 外は雨が降っているようですから」

「エッ、いいですか。イヤー嬉しいですねー。また、志緒梨さんにウチまで送って貰えるなんて……それじゃあ、お願い致しましょうか、お願いします」

 エッ、またって、前にもコイツを送ったことがあるのか? それも、コイツの家まで?コイツの家まで知っているなんて……僕の想いを無視して、志緒梨は僕のにらむ視線をかわすようにエレベーターの中に仲田と消えて行った。

 僕の想いを知りながら、彼女は……僕が今、彼女の恋人か、彼女にとって大切な存在であったのならば、彼女の首に縄を掛けてでも、彼女を病院に連れて行けるのに……今は、そんな何もできない僕の存在を悔やむ……恨みさえ覚える。

 それに彼女は、僕以外の男を自分の車に乗せるなんて……まだ夫婦でも恋人でもない志緒梨に、僕自身の中でにわかに沸き起こった恨みに似た嫉妬……今の僕はもう狂いそうだ。

 それはそうだ。なにせ、僕の記憶の中には、以前僕と志緒梨、ふたりは夫婦で、彼女は僕の妻だったのだから……。


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