第14話  雨上がりの花火

                雨上がりの花火



 ……ンッ? 携帯が鳴っている。

 ……ホワット・ア・フール・ビリーブスの曲が、にぎりしめたままの僕の手の中で振動と共に鳴っていた。

「ファィ、仲村です」

「オウ、仲村? 具志堅だけど……ンッ? なんだよ、折角の日曜日、それにG・W(ゴールデンウィーク)なのに……寝てたの?」

「エッ、寝てた? 寝てたって、僕が? 僕が寝てたって言うのか? なあー僕、寝てたの?」

「オイ仲村、何だよー。なに寝ぼけてる。アアー寝てた、寝てたよー。その声は、仲村ー、お前は絶対に寝てた。だから、なにー?」

「イイヤ、駄目なんだよ。僕は寝ちゃあ駄目なんだよ。寝ちゃあ、夢に……夢になっちゃう」

「オーイ、仲村ー、早く目を覚ませー。早くー」

「ウッ、ウン……っで、今、今何時? いま」

「ンー、今かぁー? 今は、お昼の一時三十二分だけど……何で?。もしかして、大事な電話を待っていたとか? 待っていたなら、早くちゃんと目を覚まさないとー」

「アッ、アアー、そうだな。ちゃんと起きないと、いけないな。っで具志堅、何? なんで電話してきたの?」

「イ、イヤー、何でもないんだけど。夕べはごめんなー、飲みに行くのを断ってさー」

「アアー、そのことかー。イイヤ、何でもないよ。だって、絵美ちゃんと一緒だったんだろ? だったらいいってことさー。気にするなー」

「嫌、本当にごめんー。謝るよ。なっ?」

「ウ、ウン分かった。分かったから、もういいよ。だから?」

「オ、オウ、だからなー。これから昨日の埋め合わせに平和通りとか国際通りとか、ブラつかないかなー? って思って……いつものように街を歩き、汗をかいたら、そこの近くの店に入ってビールを飲み歩く……って、なっ、行かないかー?」

「オ、オウ、分かった。それじゃあ仕度するから……アッ、ごめん。りぃ。具志堅、今日は、やっぱパスしてもいいかなあ? なあ、駄目かなあ?」

「エッ、エエー? 駄目だよ。仲村、それは駄目さー。もしかして、昨日の腹いせってかー?」

「い、嫌、そうじゃあないよー。ただ、今日は、めっちゃ、僕にとっては大切な日なんだ。だから……なっ?」

「仲村、なっ、て言われてもー……アアー、そうか? だから、今仲村は、その大事な電話を待っているのかー。ウンウン、分かった。それなら、OKさー。先にそれを言えばいいのに、もったいぶってヤー。って、いうのはもしかして仲間部長のことかー?」

「ウッ、ウン、そっそうだけど……でも、今話したら、なんか消えてなくなりそうって言うか……」

「ウンウン、分かるよー。仲村、その気持ち、僕もこの前感じたばかりだから……ウンウン、今日は仲村ーをそっとしておくから、話せるようになったら、ちゃんと話せよー。僕も、エーミーのことを仲村ーに聞いてもらいたくてさー……じゃあ、また明日電話するからなー、頑張れよー」

「オッ、オウ、分かった。ありがとう。悪りぃなー」

「チケンネーン(かまうことないよ)。いいってことさー。だから、仲村、本当に頑張れよー。それじゃあなー……プツッ」

 僕は、電話を切った後、携帯を耳に当てながら天井をしばらく見ていった……なんだか、やっぱ友達っていいなー。何も言わなくても分かってくれる……ンッ? また携帯が鳴っている。エッ、う、嘘? 志緒梨からだ。

僕はひとつ息を深く吸い込んで、それから電話に出た。

「ハイ、仲村です」

「アッ、志緒梨です」

 ああ、何だろう? なんだか、お互い話し辛い。こんな時、なんて切り出せばいいんだろう。

「アッ、あのーね。今ね。みんなで昼食をとって……それで、今、私独りになったの……それで……それで、仲村さんに電話をしてみたの……駄目?」

「エッ、駄目って? 駄目な訳、ないじゃあないですかー」

「エッ、それっていいって言うこと? なんだか難しい日本語って感じだね……アッ、そういえば、今日、私も可笑しいんですよ。あのね。少しでも眠くなって、ちょっとでも目を閉じようとしたら怖いんです。あのー、笑わないでね? 私、目を閉じてしまい、寝て仕舞い、目を覚ましたら、今朝の仲村さんとのことが、全てが、夢だったなんてことにならないか、心配になっちゃって……目を閉じるのも怖いの。ウフフ、何だか可笑しいでしょ。私、バカみたい」

「エッ、全然だよ。僕なんか………」

 突然、志緒梨は僕の言葉をさえぎった。

「アッ、ごめんなさい。妹たちが戻って来たみたいだから、また時間が空いたら電話するね。仲村さん……今朝のことは夢じゃあないですよね?」

「エエ、今朝のことは夢じゃあないです。それじゃあ、ぃちゃんからの電話待ってるね」

「エッ? エエ、それじゃあまたね……プツッ」

 ああ、幸せって、こんなことをいうのだろうか? 僕の幸せの〝ときめき〟は今? 嫌々、まだまだ先だ。だって、僕は愛しい ぃちゃんを未だこの腕の中で抱き締めてはいないのだから……ウーン、でも今、なんか幸せだー。


 陽は傾き、夕方の五時になった。志緒梨からの連絡はないままに時は過ぎていった。

 僕の借りているアパートは四階建てで、部屋は三階にあって、その階の四戸あるうちの一番奥にある。そして、一階に大家さんが住んでいて、僕は大家さんに屋上の一角を不定期的に野菜が育ち採れた時にだけ分けるという約束を了承りょうしょうしてもらい家庭菜園を楽しんでいる。

 野菜作りは、最初から好きで始めた訳ではなかった。僕の勤めるアース・フーズという会社を通し、農家の人たちや一般の趣味で植物とか家庭菜園を楽しんでいる人たちに、自分自身実践垂範じっせんすいはんしていないと説明も出来ないから、それでは営業としてかなり不利になるからと始めたのが切っ掛けだった。

 おかげで、今はちょっとしたもんだ。なにせ、老人会とか各地域の人たちを集め公民館とか、時に日頃からお世話になっているホームセンタとかのガーデン部門の場所を借りて家庭菜園の説明会を行えるようにも、今のその頃にはなっていた。

 今、この屋上での野菜作りの種類は、トマトに茄子なす、葉物ではねぎ青梗菜ちんげんさいとかが四種類と三色のパプリカに、後はハーブ類が数種類を育てていた。僕にとっての自慢は、季節に関係なく収穫の出来る野菜の育て方だった。

 本来、トマトに茄子は一般的に夏野菜というが、僕のこの小さなプランターの畑の中では、ビニールを使えば真冬にだって取れることだってある。まあ、ここ沖縄だから、ってこともあるんだろうけど、でも僕には自慢だ。っていうより、元々このやり方は、以前この世界に戻る以前具志川の山城さんに教えてもらった方法だった。

 僕は竹で編込んだバスケットに、トマトに茄子、ハーブのバジルと大家さんへの貢物みつぎものに葉野菜を幾つか収穫して、その後水やりをし降りた。本当なら、野菜は朝摘みの方が断然美味いのだが、久しぶりにあの山城さん自慢のイタリア風のグラタンが食べたくなったのが理由で夕摘み野菜となったのだ。

 大家さんに野菜を届けると「いつもすまないねー、これを持って行って、もうウチのオジーは酒を止めなさい、ってお医者さんに言われたから」と島酒を代わりに貰って、自宅のキッチンに戻り、調理に取り掛かった。それから一時間も掛けずにグラタンにピザは出来た。

 ウ~ン、我ながらのいい出来ばえだ。香りもいいのだが、味はどうかな? しかし、やっぱり思いは冷蔵庫へといってしまう。冷たく冷えたビール……ウーンやはり、チーズ系の料理にはアレだよな? でも、気になるのは、志緒梨から連絡が入り、これから来て欲しいって言われたら……やっぱ、飲んだらヤバイし、どうしたもんだろう? その時、携帯が鳴りだした……志緒梨からだった。

「もしもし、待っていましたよ」

 僕は、電話に出ながらベランダに移って行った。

「アッ、ごめんなさいね。遅くなってしまって……今、帰ってきたとこなんです」

「アア、そう、昨日と今日と慣れないことで疲れているんじゃあない?」

「エッ、エエ、実はそうなんです」

「そうかー、今日、出来るのなら逢いに行こうって思っていたんだけど……疲れているんじゃあ仕方ないね」

「ごめんなさい。私も今日は逢いたかった……でも」

「アッ、いいですよ。無理しちゃあ駄目です。だって、明日は部長も出勤ですよね? 明日はまた逢えるのですから、無理しないで下さい、ねっ」

「エッ、エエ、仲村さんありがとう。ごめんなさい、私少しだけ横になります。後でまた電話してもいいですか?」

「エエー、もちろんです。いいですよ、待っていますから電話を下さい。それでは……」

「エエ、仲村さんありがとう……プツッ」

 ウワー、今日は志緒梨に逢えるもんだと思っていたのに、残念。もう、すごく残念だー。仕方ない、埋め合わせはやはりアレにするとするか?……僕は冷蔵庫に直行し、缶ビールを開けて飲んだ。

 プッハー、めっちゃ旨い。どれどれ、今度はグラタンにピザをっと……ウーン、どれも上手く出来上がって、どれも美味しい。


 志緒梨から電話がきたのは、夜も十時を過ぎた頃で、僕はベランダで、ビールから大家さんに頂いた島酒に換えた頃で、ショットグラスにストレートで五杯目を飲んでいた時だった。

「仲村さん、ごめんなさいね」

「エッ、ンー、いいですよ。アッ、でも、なにも部長が謝ることなんてないじゃあないですかー」

「エッ、エエ、ですけど……ただ……」

「アレッ、どうしたんですか? なんだか具合が悪そうな、何処か……ま、まさか ぃちゃん」

「エエ、実は、本当は、仲村さんにも隠しておこうと思っていたんですけど、今日……今日、妹たちと出掛けた先々で、私はトイレばかり探していたんです……って言うのも、余りにも出血が酷くて、一回だけじゃあなくて……あんなに、仲村さんに早く病院へ行くように何度も言われていたのに、私……」

 僕は携帯を握り締めながら、今日酒を飲んだことを悔やんだ。

「いー、嫌、いいんだ。それよりも、どうしようか? これからそこに行くよ」

「イイエ、いいんです。何かあれば、私、母を呼びますから、今は少し落ち着くまで待って下さい。だから、仲村さんは心配しないで……」

「心配するな、て言われても……それは無理です。でしたら、でしたらもう少ししたら、もう一度僕に電話を貰えないですか? 待っていますから……」

「エッ、エエ、すみません。そうします……それじゃあ、また……仲村さん、ごめんなさい……プツッ」

 ああ、どうしよう。なんで僕は酒なんか飲んじゃったんだろう。これからタクシーで、彼女の所に行こうかどうしよう……気ばかり焦るだけで、何もいい案が出てこない。ベランダの外では、また昨夜のように小雨が降りだしていた。


 志緒梨からの電話はこないまま十二時を過ぎ、もうすぐ一時になろうとしていた。

 僕には明日、仕事があるのだが、寝ることも出来ず、ベランダでずっと彼女からの連絡を待っていた。そして、彼女からの電話がきたのは、一時を三十分も過ぎた頃だった。

「もしもし、仲村です……もしもし……」

 僕は、携帯電話の向こうの志緒梨の声に耳を集中して聴いていると、とても苦しそうに荒い息をしている。どうやら話すことも辛いようだ。

「もしもし、ぃちゃん、これから僕はそっちへ行くよ。だから……だから待っていて……」

「だ……駄目……駄目です……こ、これから……両親が……来ることに……なって、いますから……来ちゃあ……駄目……」

 彼女の話す、言葉と言葉の間に荒い吐息が入り一言一言が言い辛そうだ。僕の握る携帯電話にも力が入る。

「それじゃあ、僕はどうすればいいの? 何か僕に出来ることはないの? ねえ聞いてる? ねえもしもし……」

「だい、大丈夫……母が、母が来ますから……大丈夫……仲村さんは、何も……しなくても……いい……私は……心配を……しないでと……伝えたかった……だけだから……だから……ごめんなさい……プツッ」

 彼女からの電話は切れてしまった。僕はどうすれば……それからの僕は、唯々、志緒梨からの連絡を待った。

 しかし、彼女からの連絡もないままに、僕はベランダで昨夜と同じ格好のまま、小雨の降る真っ暗な夜空がしだいに紫に明けていくのを眺めることとなり、それから細めに開けていた目を閉じ、少しだけ仮眠をとった。

 陽が昇り、いつもより早く会社に行き、僕は珈琲を飲みながら志緒梨からの連絡が入らないかと電話の前でずっと待っていたが、何も彼女に関する連絡などは来なかった。

 いつもなら、社長の娘婿の新城に聞けば、何か彼女の情報なり、なんらかのことは聞けた筈だが、生憎あいにくと今はG・Wの期間中の真っ只中ただなか、それも彼は昨日は沖縄市のイベントに出たということで今日は休みだ。この日、出て来たのは経理の嘉数かかずさんに川平と野菜班の石川さんに、ショップ本店の二人、池宮さんと吉田よしださんだけだった。

 僕は、自分のデスクの向かいを見ていた。本当なら、今日は向かいのデスクの持ち主の志緒梨が会社に出て来て、僕の目の前にいるはずなのに……そして、僕に微笑みかけてくれていたははずのに……今日はふたりにとって、とても大切な日になっていたはずなのに……。

僕は営業にも行く気力もなくずっと向かいのデスクをただ眺めていた。そして、十時を過ぎ、社長が出社して来た。

 社長なら何か聞ける筈と思ったが、僕にはどう聞けばいいのかわからずに、ただ社長の動きだけを目で追っていたのだったが、何も社長からはうかがい知ることは出来なかった。

 もしや、本当は彼女の身にはなにごともなく、ただ具合がよくはなく今日は自宅にいるだけなのかもしれない。悲壮感に囚われおちいった僕は、そんな勝手な希望的観測、希薄な思いに一縷いちるの望みに駆られ急いで営業に行くふりをし会社を出た。

 彼女の住んでいるアパートは、会社から車で十五分程度の距離の住宅地にあり、裏に細長くLの形をした公園があり、僕は公園沿いの道路に車を止め、彼女の借りている部屋のベランダ側の窓を見ていた。

 彼女のアパートは三階建てで、造りとしては一階はピロティ(下駄履き)で駐車場になっていて、そこに彼女の車はあった。彼女は三階に住んでいる。僕は一時間程、部屋を監視をしていたが、これといって何も変った様子もなく、そこに長くいるとこの地区の人たちに不審な目で見られるのでは、と気になり立ち去ることにしたが、G・Wということもあり、別に行くあてもなくただ車を走らせていた。

 その日は、何処をどういう道順でハンドルを握り走らせていたのかも記憶も曖昧いに時間を過ごし、落ち着かないまま五時に僕はG・W期間中にかこつけて早めに帰社することとした。事務所に戻ると、日頃五時にはさっさと帰っているはずの経理の嘉数さんがいた。

「アラ、仲村課長、今日は早めのお帰りですね。今、連絡しようと思っていたんですよ」

「何かあったんですか?。僕に連絡って」

「エエー、仲間部長が入院されたんですよ。それで……」

「エッ、本当ですか? それ、いつ連絡があったんですか?」

「会社に連絡があったのはついさっきです。っで、部長は市立病院にいるそうですから……そこに、仕事の件でやり取りもあるので、課長に資料とかを持って来て欲しいって、伝言がありました。それで、課長に連絡をしようと思っていたんですよ」

「アアー、そうなんですか?。分かりました。っで、連絡してきたのは部長本人からなんですか?」

「エエ、そうらしいですよ。電話を受けたのは……」

「そうそう、私です。嘉数さんが他の電話に出ていたので、私が仲間部長からの電話を受けました。確かに仲間部長本人でした。でも、何で? なんで課長がわざわざ那覇市立病院に資料を持って行かないといけないんですか? 資料だけだったら、川平君だって別にいいじゃあないですか? ねえ、課長も折角のG・Wで早く家に帰りたいのにねえ?」

 と、ショップの裏口兼事務所との出入り口から駆け寄って来たのは、僕より一つ年上の吉田さんだった。その言葉には、いくら部長だとしても僕に志緒梨がしていることは、さも迷惑なことだと言っているようだ。

「エエー、なんでー。吉田さん、何で課長が資料を持って行くのには反対で、僕ならいいんですか?」

 缶ジュースを飲んでいた川平が、気にさわったのか異議を訴えてきた。

「僕だって今日は早く帰りたいですよ」

「だろう? 部長も、お前が多分そう言うと思って、俺を指名してきたんだよ。それに、俺は社長に、部長とショップのことで話を進めて欲しい、て言われている案件っていうか、そういう企画があるから、多分それでだよ」

 と三人が分かるようにいったのだが、それは架空の企画だった……でも、それにしても企画って、どれを資料として持って行けばいいんだろう?。

「アッ、課長、ハイこれ、これが部長のいっていた資料です。ハイ、どうぞ」

「アッ、ありがとうございます……じゃ、じゃあ僕は日報を書いたら病院に向かいます」

「ハイ、分かりました。あと、部長に他に何か欲しいものがあるかを聞いておいて下さい。お見舞いは、何がいいかもね」

「ハイ、分かりました。それじゃあね」

 僕は急いで日報を書き上げた。中身の内容は出鱈目でたらめだ。何せ、今日僕は志緒梨のことで頭がいっぱいで、何処へ行って来たかも全然わからないでいたからだ。僕は、嘉数さんから受け取った資料を手に、会社を出た。

 外はもう暮れていた。さいわいなことに、今日は雨が降りそうで降らなかった。まるで〝いかず後家の着物〟だ……止め袖は既婚が着る物で振袖は独身女性の着るもの、いい歳をしてもまだ嫁いでいない女性は、人前での振袖を見せるのは少しはばかれるというもので、振袖振れないは、降りそうで降らないの洒落なのだ。

 車は会社に置いたまま、僕は歩き出した。市立病院は、会社からすぐそこで、歩いても二十分程で着く所にあるはずだ。

 少し歩くと額に汗が浮いてきた。気がつくと僕は早く志緒梨に逢いたいがために結構早足になっていたようだ。でも、それに気づいたとしても僕は、足の速度を変えない……やっぱり、早く志緒梨に逢いたいからだ。なんだか、それ程の傾斜でもない緩やかな坂道なのに、今歩いている道がとてもまどろっこしい。気持ちだけが先に行き、足がそれについて行けず、足がもつれからまりそうだ。愛しい ぃちゃんはこの坂の、あの目の先、遠くに見える白く大きな建物の中にいて、僕を待っているのだから、やはり心は焦る。

 湿った今日の天気が心配だったが、いつしかぱらぱらと雨粒が落ちきた。どうかこのまま病院に着くまでは間に合ってくれと祈りながら更に僕は足を速めた。しかし雨はしだいに粒が大きくなってきたが、本格的に降り出す手前に、どうにかやっと病院の裏口に着いた。そこから建物を周るようにして正面玄関にたどり着いた。だが、思えば目的の志緒梨のいる病室が分からない。僕は、病院の案内カウンターへ行き彼女と僕の関係と身分を証明をし、そして大事な要件だからと言い、彼女の病室を教えてもらった。

 いよいよやっと、これから僕は彼女に逢える。だんだんと彼女がいるだろう病室が近づいて来る。嫌、僕が近づいて行っているんだ……とうとう僕は、彼女の病室の前まで来た。僕の心臓が力強く鼓動ビートを刻み、叩いている。ああ、僕は彼女になんて最初の一言を、言い出せばいいのだろう。ああ、どうしよう、僕はまだ考えもまとまらないでいるのに、今度は勝手に足が彼女の方へと進んで行く。

 病室に入ると、二人部屋のようだ。ドアの近くのベッドには人は誰もいない。奥の窓際のベッドなのだろうか、カーテン越しから声を掛けた。

「こんばんわ~。仲間部長~。いますか~?」

 窓際のカーテンの向こうから〝ウフフ〟と笑う声がした。

「仲村課長さん。私は、此処にいますよ」

 僕は、カーテンを少し開け、覗くように顔だけ差し入れた。

「仲村さん、来てくれたのね。ありがとう。早くここへ来て……さあ早く、此処へ」

 と彼女は手招きをしながら、ベッドの側の椅子に座るように指示した。

「仲村さん、来てくれて本当にありがとう。ウフフ、昨日の今日だからなんて言えばいいのかしら」

「ウン、本当だね。でも、大変だったね。昨日は仲間部長が電話の向こうで苦しそうに荒い息をしていて、僕は何も出来なくて……」

「本当にごめんなさい。私、仲村さんにすごく迷惑をかけてしまって……心配しちゃった?」

「ウッ、ウン、でも安心した。やっと笑ってる仲間部長を見ることが出来たから、それに、コレッ」

 僕は、手に持っていた資料の入っているクリヤーファイルを彼女に見せた。

「ああー、ありがとう。それ、下さい。入院していても、ショップの人たちのお給料の計算をチェックしないといけないから……でも、仲村さん、私のことを、もう部長って呼ぶのはやめて欲しいなー。せめて、ふたりでいる時は……」

「ウン、分かった。それじゃあ、なんて呼ぶ?。仲間さんって、呼ぶ? それとも、志緒梨さんって?」

「もう、仲村さんふざけるんだから……ンー、そうねー……アッ、そう言えば、仲村さん言っていたわよね? 私のこと、ぃちゃんって」

「エッ、言っていたかなー。僕が? ぃちゃんって?」

「そう、私、はっきり聞いたわよ。ぃっちゃんって。ねえ、どうして知っていたの? 私のことを、ぃちゃんって……多分、ウチの家族もその呼び方は忘れてるはずなのに」

「ンー、多分、なかまーぁ、仲間じゃあないね……アッ、そうだ。しおりーぃだ。僕は、志緒梨って言おうとして、多分あの時のどが痛くて、ウン、そうエヘン虫が喉にいたから声がちゃんと出なくて、僕は志緒梨って言ったつもりだったけど、出なくて最後の梨の方の子音の音だけ聞こえたんだはず」

「フーン、そうなんだ……アッ、でも、その後も言っていたよ。言っていたような……もしかして、その時も?」

「ウン、多分ね。それより、なんて呼ぶ? ってことは、ぃちゃんって呼んでもいい? 僕も、ぃちゃんって」

「エッ?……ンー、もし仲村さんが、それでいいって言うなら、それでいいわ」

「ウン、分かった。それじゃあ、呼ぶよ? ぃちゃん……」

「エヘへ、なんだか、恥ずかしい……でも、でも嬉しい。仲村さん、ありがとう」

「僕も、嬉しいなっ……アッ、そうだ、それじゃあ僕の呼び名を ぃちゃんが考えてよ。僕のこと、なんて呼ぶ?」

「エッ、私が中村さんのことを? ウーン」

「いいよ、別に急いで考えなくても……僕はまた明日も来るから、その時までゆっくり考えていてよ。ねっ」

「ウン、分かったわ。そうするね」

 それから、志緒梨は昨夜から今日にかけてのことを話してくれた。内容としては、先ず昨夜、僕との電話を終えた後、両親が来てくれるまで彼女はまだ出血が止まらなかったようで、トイレにいたようだ。その時、余りにもその日の出血が大量だったのか貧血となりそこで意識を失いかけ、そのまま病院へと両親が運んでくれたということだった。その後、彼女の意識が戻ったのは昼後で、今はすっかり気分もよくなった、と彼女は話してくれた。

 目の前の志緒梨は、たまに照れながら話す。その顔には、昨夜倒れて此処に運び込まれたということをまったく感じさせない程に血色もよく見え、僕も安心して彼女の話しを聞いていられた……だが、よくよく考えてみれば、昨夜のことは、すごく大変なことだったと思うのだが……。

「ネエ、仲村さん、ちょっと外に出てみない?」

「エッ、外へ? 外へって、大丈夫なの? 体は、まだ……」

「大丈夫、大丈夫よ。新鮮な空気が吸いたいの……だから、わたし、ひとりで行っても、いいの?」

「だ、駄目だよ。分かった。それじゃあ行こうか?」

 志緒梨は、点滴を左腕に付けたまま、その点滴を掛けたスタンドを僕が引っ張っりながら病室を出て廊下を歩いていると、三階に中庭があることを案内図掲示板で見つけ、僕たちはそこへと向かった。中庭は結構な広さがあり、先程まではかなり雨が降っていたようで中庭はたくさんの水たまりが所々にあった。雨上がりの空には星が雲の切れ間にキラキラと煌めき輝いている。此処は那覇で、市内の灯りで残念なことに、本部もとぶの喜瀬で眺めた夜空に比べると全然物足りなさを感じるのはいなめない。しかし、僕には志緒梨が傍にいてくれるのなら何処だってパラダイスだ。

 僕たちは、広場のちょうど中程にあるベンチに腰を下ろした。周りを見ると、結構人がいて話をしたり、ただ煙草を吸っている者、様々な人たちが集まっていた。

「仲村さん、この場所って結構人がいるのね。いつも、こうなのかしら。それとも、何かあるのかしら?」

「そうだね。あるとしたら、何があるんだろうね?」

 時計を見ると、今は八時四十分だった。志緒梨は、新鮮な空気を頬に受け、気持ちよさそうにしている。風は、五月の沖縄のこの時期独特の湿気を含み夕方以降一時ひとときの間ひんやりとして心地好い涼しい風だ。その風が、彼女の髪をさらさらと撫でていく。

「ぃちゃん、寒くはない? 少し寒いようだけど……」

 彼女は、病院の用意していた入院患者用の薄い部屋着を着ているだけであった。僕は、いつも着ている薄でのジャンパーを脱ぎ、彼女の肩に乗せてあげた。

「アッ、駄目よ。仲村さんだって寒いんだから」

「ウン、大丈夫だよ。僕は長袖のシャツを着てるから……それに、ぃちゃんは病人だし、また風邪をこじらせて、長く此処にいるようになりでもしたら、僕が嫌だから」

「エッ、でも……ウン、仲村さん、ありがとう……暖かい。この匂いが、ウフフ、仲村さんの匂いなのね」

「エッ、臭う? この前、洗ったばかりなのに……」

「ウウーン、洗濯石鹸と、朝、仲村さんが私の側を通り過ぎる時、微かに香る石鹸の匂いがする……私は好きよ」

「エッ、ウンありがとう。もしかして、僕の汗の匂いかなって思って……此処に来る時に、坂道で少し汗をかいちゃったから」

「ウフフ、大丈夫……いい匂いがする」

 志緒梨は、ジャンパーの両肩の襟を両手で引っ張り上げ、顔を埋めて見せた。僕は、何気に恥ずかしい気持ちだ。

「ネエ、仲村さん、あそこを見て……ホラ、あそこよ。もしかして、ハーリー(沖縄の覇龍船はりゅうせん祭り)のお祭りなのかしら?」

 見ると、此処から西の空、安謝あじゃの町辺りの上空の雲が色取りどりに、地上からの明りを映していた。

「ああ、そうか! 今日から那覇ハーリーなんだね」

「そうよね? どうせなら、私、あそこで仲村さんとお祭りに行きたかったな」

「ウン、僕も、ぃちゃんとあそこに行きたかったなー。来年は一緒に行こうね?」

「ウン、それじゃあ約束ね」

「ウン」

 その時、僕たちが見ていた西の空が一瞬光り輝いた。

「ネエ、仲村さん、今の何? まさか……」

「ウン、見えたよ。まさか……」

 花火だ。祭りの、ハーリー会場からの花火が打ち上げられた。先ほどの閃光の後、少しの間が空き会場からかなり距離があるためか後から鈍くドーンと音が聞こえて来た。それに続き、西の空に一斉に光の花が咲き乱れた。

 何色もの光が夜空を彩り、まるで光の乱舞だ。僕たちの口から綺麗だね、と言う言葉だけしか出てこない。

 僕たちのいた、この広場にいた人たちが一斉に西側の手摺に駆け寄り、みんな魅入っている。大きな光が輝き出る度に、オオーという歓声が周りでし、その後、遅れて祭り会場からのドーンと微かな音がしてくる。なんだか奇妙だ。

 それでも、僕の傍では志緒梨が、花火が綺麗だと見ている。そして、僕はそんな彼女の横顔に魅入っている……子供のように大きな花火の光にはしゃぎ、一喜一憂している志緒梨のあどけない横顔が、とても僕には愛おしい。


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