第15話  数奇なブラウズ・メモリー

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 志緒梨が入院をしたその日以来、僕は仕事が終われば病院へ行き、志緒梨とふたりの時を過ごすようになった。

 そして、二日目に逢いに行った時に、僕は初めて若い志緒梨の手に触れた。

 その日は、祭りの二日目の夜で、その日も僕たちは花火を昨夜と同じ場所で見ていたが、小雨がパラパラと降る中を傘を差しての花火観賞で、昨夜に比べ雨のせいで音は殆んど聴こえてこなかった。その後、ふたりは病室に戻ったが、志緒梨がまだ外の空気を吸っていたい、と言うので、裏口に面した広い駐車場近くの本館建物に付随ふずいした喫煙所があったことを僕は思い出し、僕たちはそこへ行って話をした。

 僕たちのいるこの喫煙所は、壁がセメントブロックにクリーム色のペンキが塗られているだけの見た目はまるでバス停の待合所のような所で、外ではパラパラだった雨はやがて本降りになり、雨は僕たちの気配も消してくれていた。

 そこで、僕は志緒梨に「手を握っても……いい?」と聞き、彼女も少し照れたように手を差し出してきてくれた。そして、僕は彼女の手を握った。

久々に触れる志緒梨の手は、僕の記憶にはなかった若い彼女の感触ではあったが、志緒梨の手の奥にあるぬくもりは、僕がこの世にいる存在の意味を確かに僕に教えてくれた……志緒梨、やっと僕のもとに還ってきてくれたんだね。〝お帰り、嫌、ただいま志緒梨……僕は、また君の傍にいるよ〟


 志緒梨は、一週間ほど此処、那覇市立病院にいたが、彼女の病名が子宮筋腫との診断が付き、病院を琉球りゅうきゅう大学付属病院へと移ることとなったが、また僕は相変わらず彼女のいる病院へと通い続けた。会社へ帰る前、夕方になれば営業先から直接病院へと……。

 ただ、最初の一週間はよかったが、それからいよいよ本格的に抗癌治療が始まりだした。その頃から、僕たちの顔から笑顔が少しずつ消えていった。彼女にとって、その治療はとても辛かったようで、彼女は「もう駄目、私には耐え切れない」と言い出す回数か増えてゆき、その度にただ彼女の背中をさするか、彼女を抱き締めることしか僕には出来ないでいた。僕は、もう仕事どころではなくなった。彼女の傍にいない時にだって、全てが彼女のことばかりを考えるようになっていた。だが、僕にはもともと彼女の病気は一時的なもので、半年の入院と三年間の定期通院で完治することは知っていたのだが、僕は彼女に逢う度に、彼女の辛そうに堪えているその表情を見るたび、僕が知っていた以前の記憶の全てを忘れ、彼女を何とかしたいという思いに駆られてしまっていた。

 そんな最中さなか、会社からの要請で棚上げにしていた伊平屋行きが決まった。そのことを志緒梨に伝えると彼女は一瞬顔を嫌々というような小さな仕草で顔を横に振って見せたが、自分の中で答えを出したのだろう、僕に笑顔を作り、「伊平屋に行ったとしても、逢えないのはほんの三、四日だから、私のことは大丈夫。気にしないで、頑張ってきて」と僕に言ってくれた。そんな彼女の健気けなげな気持ちは、余計に僕の気持ちを引き止めてしまう。もし、僕がいない間に彼女に何か起きないかと……。

彼女の病状については、それ程の心配はしていなかった。だが、抗癌治療での彼女の精神面でのことが僕には気懸きがかりでどうしようもなかったが、結局、僕は伊平屋へ行くこととなった。

 よくよく僕自身考えてみると、伊平屋行きは仕事だけではなく、もうひとつなし遂げたいことがあったことを思い出した。それは、伊平屋にいる宮里さんに会い、体調には気をつけるように伝えることだった。その思いを胸に、僕は本島北部にある運天港うんてんこうから愛車のEVに営業資料と販売用の品物等を載せ共にフェリーに乗り、伊平屋へとやって来た。着く早々に、僕は商工会の人たちの出迎えを受け、港内の商工会事務所に立ち寄り打ち合わせをし、夕方七時から事務所の隣のホールに島内の農家の人たちを集めてもらって、微生物を使っての野菜の栽培から畜産にまでいたる話を一時間半ほど行ない、後は三十分の質疑応答とした。

 この村の人々は、最初は気乗りのない態度で、ただ時間潰しに僕の話しを聞いていたようだったが、無農薬野菜は今全国的にも持てはやされていて、沖縄本島においても付加価値のあるものだと話を進める頃から真面目まじめに僕の話に聞き入るようになり、三十分の質疑応答の時間を取ったが、倍近くの時間のオーバーとなった。翌日各自の畑や畜舎を視て欲しい希望者を募り、申し込み用紙を手渡すと、我先にと記入して返ってきた。

 そこで、また僕は道案内が欲しいとお願いすると、みんなは話し合って翌日のスケジュールを作ってくれて、明日の僕の予定はそれに添っての行動となり、あとは説明会のしめを主催してくれた商工会職員の金城さんにしてもらった。

 僕は、集まってくれた人たちに配った資料の残りを整理しているところに声を掛けてきた人がいた。

「仲村さん、説明会がとても上手じょうずになったね」

 目を向けると、僕の腰掛けた会議用の長いテーブルの前に、僕の会いたがっていた宮里さんが、にこにこ笑みを浮かべ立っていた。

「ああ、宮里さん、お久しぶりです。お元気そうですね」

 僕は説明会が始まり、宮里さんがいないことに心配をしたが、彼は説明の途中に来てくれたことに僕は気づき安心をし軽く会釈をした。そのおかげで、僕は落ち着いてことを進めることが出来た。

「今日は遅く来れられたようですが、忙しかったのですか」

 僕の問い掛けに、宮里さんはただ笑っているだけだったが、傍にいた職員の金城さんが代わりに答えてくれた。

「仲村さん、この会の大半はいはんは宮里さんが島民たち一人ひとりに声を掛け集めてくれたんですよ。それも、時間ぎりぎりまでね。宮里さん、有難う御座いました。おかげでとてもいい説明会になって、この島の農業もいい方向に行きそうです」

「エッ、そうだったんですか? 宮里さん、知らないこととはいえ、すみませんでした。おかげで本当にいい説明会が出来ました。宮里さん、本当にありがとうございました」

「嫌々、仲村さん、そんなに頭を下げないで、私も仲村さんの説明会を楽しみにしていて、この島の人たちにも聞いてもらいたかったから、しただけのことだから」

「エエ、更に頭が下がりますね。私たち、商工会の職員も、これからはもっと気を張って、頑張って行かないといけないですね」

 僕は壁に掛かった時計を見ると、九時半を過ぎていた。僕の視線に、金城さんが気づきニヤリと笑った。

「仲村さん、今日は大丈夫ですよ。この前は開いている店もなく、一緒に飲めなかったですが、今日は先にお願いをして予約しておきましたから、これから行きましょう。とりあえず、仲村さんは民宿に荷物を置いて来てから、としましょう」

「そうしましょうか。アッ、宮里さんも一緒に行かれるんですよね?」

「アア、もちろん行くよ。仲村さんの話をもっと聞きたいからね」

「それはよかった。金城さん、予約をしてもらった民宿はこの前のとこですよね。僕は、荷物を置いてきますから、先に行っていて下さい」

 それから、僕は急いで資料などを片付け、二人を先に行かせ、愛車のEVに乗り込み携帯を取り出した。

 志緒梨とは、夕方説明会が始まる前に電話で少し話をしていた。今日は彼女の体調もよく、話をしていても安心が出来た。携帯を見ると、志緒梨からメールが届いていた。

 件名〔頑張ってる?〕、本文〔 お疲れ様です。

 仲村さんは今、説明会の真っ最中なんでしょうね?。

 私も一度でいいから、仲村さんが説明会で話しているのを見てみたいな! 多分、すごくカッコウいいんだろうな?。

 説明会に、若い女の子が来ても一回だけなら見てもいいけど、二回は駄目だからね!! 仲村さんには私がいるんだから、忘れないでね!!。

 それじゃあ、仲村さん頑張ってね!……終わったら連絡待ってるね!。〕とあった。

 僕も、早速彼女に返信のメールを打った。

 件名〔今、終わったヨ!!〕、本文〔 今、やっと説明会は終わりました。

 説明会に集まってくれたのは、皆ご老人の方々だけだったから ぃちゃん安心してネ!。

 もし、電話が出来るのなら少しでも話がしたいけど……駄目?〕と送った。

 僕は民宿の駐車場にEVを停め、荷物を置き、宮里さんたちが待っている居酒屋に向い歩いている途中に、志緒梨から電話がきた。

「ごめんね、こんな夜に電話をさせちゃって。どうしても ぃちゃんの声が、聴きたかったから」

「ウン、ありがとう。私も、仲村さんの声が聴きたかった」

「今日は、体の具合はどうお? 調子はいいみたいだね?」

「ウン、少しはいいみたい。仲村さんと電話する以外は、殆んどベッドで横になっていたから……」

 僕たちは、電話で会話を交わしている。僕としても話したいことは沢山ある筈なのに、余り会話にはならならず、お互い沈黙ちんもくの方が多かった。しかし、僕には声が聴こえなくても、電話の向こうに志緒梨がいて僕とひとつの回線を通じ同じ時を過ごしているんだ、ということだけでとても幸せに思えた。

 海沿いの道を、十分程志緒梨と会話をしながら歩いていたら、いつの間にか目的の居酒屋の前に着いてしまい、僕は彼女に飲みに行くとは言えずに、店の前で話を続けて、更に十分、沈黙雑じりの会話をし、お互い「愛してる」と気持ちを伝え、電話を切り僕は店の暖簾のれんをくぐり宮里さんたちの待っているテーブルへと行き、遅れて来たことを謝った上でのお疲れの乾杯をした。

 時間は二時間が経ち、もうすぐ十二時になろうかとしているのに僕は宮里さんとの話しを切り出せずにいた。話というのは、宮里さんに数年もしたら肺癌になるから気をつけて、と忠告をすることなのだが、商工会の金城さんが今飲んでいる会をリードし、余り僕たちに喋らせなかった。テーブルを囲んでいるのは僕たち三人以外に商工会の職員の若い連中と島の若い連中八人も来ていて、これからのこの島の未来についての話に終始してしまったからだった。仕方なく僕は、会もおひらきとなって店を出て、宮里さんが出てくるのを待ち、また明日にでももう一度逢えないか、と伝えると宮里さんはこころよく受けてくれ、僕はもう一件飲みに行こうと金城さんに誘われこの島に数件しかないスナックへと飲みに行き、結構酔って民宿へは何時に帰り、何時に寝たかも分からず朝を迎えた。

 伊平屋二日目の僕は、昨日作って貰ったスケジュールの通りの日程をこなし、陽が落ちる間際迄に八件の農家を視察してまわり、民宿に向かう途中で宮里さんに電話をし、九時に昨夜の居酒屋で待ち合わせをした。僕は民宿でゆっくりお風呂に入り、その後居酒屋へと向かった。

 志緒梨の方は、この日も体の具合は昨日と変らないようで、僕は安心して宮里さんと話しをしに行けたのだが、途中歯磨きセットを忘れ持って来ていなかったことを思い出し、共同売店に立ち寄った。この島の店は殆んどが夜十時までには閉まってしまうのだ。僕は歯磨きセットを棚から探し見つけレジに持って行こうとした時、偶然に一本のウヰスキーのボトルに目がとまった。

 それは、未来で飲んだことのある、〝BROWN’S MEMORY〟だった。僕は、手に取り懐かしく見入って、それもレジを通して買ってしまった。

 僕は、レジ袋に入ったボトルを胸元に抱え、昨夜の居酒屋、〝いちゃりば〟に向った。店の名のいちゃりばというのを僕なりに察すると、沖縄の方言で〝いちゃりば、むるちょうでー〟という言葉があるが、その意味はいちゃりば(会えば)むる(みな)ちょうでー(兄弟)、そう会えば皆兄弟なのだろうか? それとも、ただの会う場という意味なのかも知れない。そのいちゃりばという居酒屋に行くと、宮里さんはもうきていた。

「アッ、宮里さん、早いですね」

「早いねって、仲村さんもう十分は過ぎているよ。でも、私も今着たばかりだから……さあさあ、早く乾杯しようよ」

 腕時計を見ると、九時十六分と針は示していた。僕は、今日も謝りながらの乾杯をした。

「仲村さん、その袋の中身はウヰスキーなの? よく私がウヰスキー好きだって知っていたね。此処でやるために持って来たんだろ? それじゃあ、このビールを空けたらそのボトルの封を開けようか?」

「アッ、でも、此方こちらのお店の人に悪いんじゃあ……」

「大丈夫だよ。大丈夫だけど、もしかして、仲村さんはここで飲む予定じゃあなかったのなら別だけど?」

「イイエ、予定なんて、何も……ただ本当に、この店の人に悪いんじゃあないかなー、って思って」

「仲村さん、そんな心配は要らないよ。この店のよしおは、私の元教え子だから……なあ、よしお、いいだろう?」

 宮里さんは、カウンター越しに中で魚をさばいている、僕と同じくらいの歳の男に声を掛けた。

「エエ、いいですよ。校長先生に言われちゃあ断れないし……その代わり、僕にも飲ませて下さいよ。たまにはウヰスキーもいいですね。それ、なんていう銘柄なんですか?」

 僕は袋からボトルを出し、彼に手渡した。

 彼は受け取り、ウヰスキーのセッティングをするから好みの飲み方は? と聞いてきてきた。僕は迷わずストレートでと答えた。

 すると、宮里さんも「オウ、いいねー。私も先ずは仲村さんと同じ、ストレートで」と言ってきた。僕らの前に最初ショットグラスが来たが、僕はロックグラスに変えて貰った。すると、宮里さんが聞いてきた。

「どうして、ロックグラスがいいのかなっ?」

「ウーン、それはですね。このウヰスキーは、以前飲んだ時、香りがすごくよかったんです。だから、幅の広いグラスだと、飲むとき鼻でも香りを楽しめるからなんですけど」

「ウン、そうか、よしお、私にも仲村さんと同じにしてくれ」

 カウンター内のよしおさんは笑って応え、僕らの前にロックグラスと氷の入ったチェイサーも置いてくれた。

「それじゃあ、校長先生と、エーッと確か仲村さんでしたね? 先ずは、一口付けましょう。なにせ、僕はこのお酒に合うさかなを作りますから、味見をしないとね」

 僕は、よしおさんからボトルを返され封を切り、キャップを開け、それぞれのグラスにウヰスキーを注いだ。結局、三人ロックグラスで、僕と同じようにグラスに鼻を近づけ香りを確認した。

 僕の鼻に戻って来た、あの懐かしい渋さの中に、そこはかと見え隠れする甘い香りが……目を閉じた僕の中には、志緒梨の顔がぼんやりと色んな表情で、僕に何か囁いている。グラスに一口付け、口に含んでみると、志緒梨の顔が、今度は輪郭りんかくをはっきりと見せてくれた。志緒梨の囁く声はやはり聴こえなかったが、昨夜の僕に言ってくれた〝愛している〟だったのだろう……僕も思わずポツリと「僕も、愛してる」と返事を、幻想の志緒梨に返していた。

 自分の予期せぬ声に、我に返り目を開け、傍にいる宮里さんを見ると、宮里さんは未だ目を閉じたままで、一粒頬をつたって雫が落ちるのを僕は見た。

「ウーン、なんだろうね。仲村さん、この酒は……三年前に、先に逝った女房を想い出したよ」

 その言葉を聞いたよしおさんは首をかしげ、怪訝けげんな表情をつくった。

「校長先生、それ本当ですか? 旨い酒だけど、僕には何も……」

「そうか、多分、よしお、お前には想える人はいつも傍にいるから分からないのかもいしれないな。ところで、仲村さんはどうだった?」

「エエ、僕にも見えました。前に一度飲んだ時は、とても悲しそうな顔でした。でも、今日、僕が見た顔は、とても幸せそうで……」

「フーン、それは、どういうことなんだろうね? もしかして、仲村さんは自分の思いが叶った、てことなのかな?」

「エエ、そうなんです。僕は、宮里さんだから話しますけど……」

 と、僕は未来のことははぶき、僕と志緒梨のことを話した。勿論、今の自分の家庭のことについても隠さずに、全てを宮里さんに打明けた。

「そうか、言い難い話をよく私に言ってくれた。仲村さんありがとう。彼女には今大変なことになっていて……ふたりは本当に大変だね。しかし、私は仲村さんに助言めいた、気の利いたことは何も言えないな。何せ、私は三年前に亡くした妻のことしか、女を知らないから……もしも、昔の私なら多分道徳的関知で、頭越あたまごなし態度に仲村さんに言ったんだろうね。〝自分の責任で、一つの家庭を作っておきながら、それを壊すなんて駄目だ。君は自分の家庭に戻るべきだ〟とね。だが、しかし自分の心がない所に帰りなさい、と言うのもね。相手に対しても悪いことだし、お互い不幸な話しだからね。しかし、仲村さん、それは多分運命の悪戯なのかも知らないね。仲村さんは、最初からその人に逢ってさえいれば、片方で不幸を作らないでよかったものをね。ところで、仲村さんは子供たちは好きなのかな?」

「エッ、子供たちって、僕の子供のことですか? 勿論、今でも前と想いは変ってはいないです」

「そうか、それならいいんじゃあないかな。仲村さんは、仲村さんで自分の道を進めば……道とはすなわち運命だ。仲村さん、運命の命って知っているかな? 命とはね。天から与えられた、その人に下されたサダメ、まあ指令みたいなものかな。この世でなし遂げねばならない使命のことだ、と私は思うけど、仲村さんはどう思う?」

 宮里さんはそう言い、僕から目を離しグラスに一口つけ、手元のタバコを深く吸い込み煙をくゆらせた後、また僕を見据みすえ話を始めた。

「まあ少し横道にれたけど、私が言いたいのは、我思うように、我があるがままに生きよ、ということだよ。だが、しかし自分の我は抑えることだよ。もし、我が出てしまって、誰かを不幸にするのは唯の〝我儘わがまま〟というものだからね。頑張って、我がままにを貫きなさい。常に〝to《トゥー》・be《ビー》・natural《ナチュラル》(自然であれ。本来の自分らしく)〟を心にね。子供たちの幸せを願う仲村さんなら、出来るはずだからやってみなさい。思い悩むよりも幸せになることを……先ずは、まわりの幸せからね。そうすれば、おのずと仲村さん自身もその徳を得って幸せになれるはずだから、きっとね」

「そうですね。僕は心に、一つの家庭を壊そうとしてる、と自責の念が常にあって、しかし反省をしているだけでは、前に進めないですから……その時々、自分が出来ることをするべきなんですね?」

「うん、そうだと思う。私はね、仏教の中の因果応報っていうのはね。私に言わせれば、前世とか見えない話は抜きにして、仲村さんが、此れまで如何どう|生きて、その結果が今に至るのだが、しかしね、私が言いたいのは、これからの仲村さんの行ないなんです。これから、仲村さんは如何生きて行くか、そこが大切なんだ、と私は思います。仲村さんが接して来た様々な周りの人の幸せを如何築いて行くかなんですが……しかし、仲村さんは如何思いますか?」

「アッ、嫌え、宮里さん、今日は、ありがとうございました。宮里さんに、僕は話をしてとてもよかったです。こんな、私のような若輩じゃくはいな者に有難いお話を、本当に有り難う御座いました」

「まあまあ、そう重く受け取らないでくれないかな。老人の戯言ざれごとみたいなものだから……それより、仲村さん、私からもお礼を言わせてくれないかな。今日はよく、いい酒を持って来てくれたよ。おかげで懐かしい女房に逢えたような気がする。仲村さん、本当にありがとう。また乾杯しようか?」

「それじゃあ、僕も乾杯に参加してもいいですか? 仲村さんのおかげで、久しぶりに校長先生の宮里節を聞かせてもらいました。最近、校長先生は奥さんを亡くして以来、元気がなかったから……アッ、僕は良いおっとと書いて、良夫よしおっていいます。どうぞ宜しく」

「何を言っているんだよ。酒の味も知らない奴が……良夫、お前は小さい頃から傍にいたたかこのことを泣かすことばっかりしていたから、この酒のさが分からないんだ。じっくり味わって飲むんだぞ……ハイ、乾杯だ」

 良夫さんも交え、三人で乾杯をした。その時、カウンターの奥の厨房から、髪を後ろでに束ねた女の人が顔を出してきた。

「校長先生、いらっしゃいませ。何かまた、私の悪口を言っていませんでした? さっき、私の名前が聞こえて来ましたが」

「オウ、孝子、元気なようだな。お前の悪口じゃあなく、良夫に、これからは浮気をしないように、釘を刺していたとこなんだよ」

「嫌だな、校長先生、あれは若気の至りで、昔ナイチ(内地)に行って、ちょこっとだけ女遊びをしてただけで、今はもう真面目ですよ。未だに、そんな古い話しをしなくても……ネエ、仲村さん」

「イイエ、校長先生、もっとギュウーってしぼってやって下さい。この亭主ひと、この前も観光に来ていた女の子のグループを、キヨシーなんかと数名でナンパしようっとしてたんですよ」

「キヨシーって、良夫のあの悪友の、きよしか? コラッ、良夫、まだしてるんじゃあないか」

「イイーエ、あれは……まあ、もうどうでもいいや、ターカー(孝子)ごめんな。もうしないから……これでいいかなー? 校長先生」

「まあ、今日のところは仲村さんもいることだから、これぐらいにしておくけど、また明日改めてな、それまでは反省をしておきなさい……ンッ? なんだその目は、それじゃあ知らん振りしてあげるから、何か早く美味しいものを出せ。今日は、お前のおごりだ。美味しくなかったら判ってるな。明日、改めてだからな」

 そのことを聞いた良夫さんは、すかさず笑って敬礼のジャスチャーをした。宮里さんは、彼のその仕草に目を押さえて〝駄目だこりゃ〟と嘆いて見せた。すると、孝子さんが声を荒げた。

「校長先生、駄目ですよ。もっとちゃんとガツンと言ってやって下さいよ。もう、こいつときたら、ちょっとやそっとじゃあめげないんですから」

「って、言われてもなー」

 困っている宮里さんに、僕は提案を出した。

「宮里さん、僕にいい考えがありますが、聞きます?」

「ンッ、何かいい妙案か解決策でもあるのかね?」

「エエ、でも宮里さんが、それでいいかは分かりませんが……」

「アア、かく、何でもいいから言ってみてくれんかな」

「分かりました。僕の案は、良夫さんが女遊びをやめるのと引き換えに、宮里さんがさっきからスパスパ吸っている煙草をやめることです……どうですか、この約束は?」

「ムムッ、なんと私に飛び火してきてしまったな……ンー、どうしたもんかなー。このふたりは、私が親代わりに目を掛けている奴等だからなー」

「ネエ、校長先生、私からもお願いします。校長先生には、この前から此処に来る教え子のみんなからも煙草をやめて、て言われていたじゃあないですか? だから、校長先生お願いします」

 宮里さんは、目をつぶり腕を組んで、おもむろにウーンとうなった。そして、二、三分ほどして答えを出した。

「オイ、孝子、これを捨てて来い」

 と、目の前の煙草と使い捨てのライターを、孝子さんに渡した。

「エッ、いいんですか? 校長先生、ウチのひとの為に煙草をやめても……」

「ああ、決めたよ。だから、良夫、お前も今日から私の目の黒い内は約束だからな、いいか、分かったな?」

 それを聞いて良夫さんは、宮里さんの覚悟の堅いことを感じたのか、観念をし約束を誓った。僕としても一安心だ。宮里さんには、どう煙草をやめさせるか思いあぐねていたのだから……。

「お客さん、ありがとう。お客さんのおかげで、二人にやめて欲しかった私の願いが叶っちゃいました。今日は私の奢りだから、何でも言って下さい。どんどんご馳走を出しますから」

 と、僕に孝子さんは笑って見せ、厨房に入って行った。それから、カウンターはご馳走がところ狭しとならび料理も出し尽くした頃に、孝子さんは厨房から出て来て、僕たちと乾杯をした。

「ああ、今日のお酒は特別に美味しい。これも、仲村さんのおかげね。ありがとうございました。これで、やっとウチのヨッシーと校長先生の心配もなくなったしね」

 孝子さんは、心から喜んでいるようだ。しかし、カウンターの中の良夫さんは面白くないようだ。

「オイ、ターカーもう十一時になったから、勇弥ゆうやを迎えに行かないと……此処はいいから、早く迎えに行って来いよ」

「ア、もうこんな時間? ウン、分かった。それじゃあ、校長先生に仲村さん、また後でね」

 孝子さんは、前掛けのまま急いで店を出て行った。それから、男三人の宴は再開し、話は釣り談義となって大いに盛り上がったが、孝子さんが子供を抱きかかえて戻って来た。

「オウ、ユウちゃん、帰ってきたか……うんうん、眠たそうだなー」

「校長先生、せっかく寝ているんですから、起さないで下さいよ」

「いいじゃあないか。なあ孝子、私はユウちゃんが可愛いから……」

「エエ、でも今声を掛けなくてもいいじゃあないですかー……アッ、ほらもうー」

 寝ていた子供の勇弥が目を覚ましたようだ。まだ眠たそうに目をこすりながら宮里さんを見つけ挨拶をした。

「ウーン、校長先生、おはようございます」

 僕は、勇弥がこっちを向いた時にハッとした。彼の鼻筋の右の方と、左の目の下に小さな黒子があったからだ。

 まさか、そんな偶然、こんな所で再会をするなんて……もしかすると、勝手な勘違いかもしれないが、多分、彼は僕が未来で会って、まさに今、僕の目の前にある〝BROWN’S MEMORY〟というウヰスキーを僕に紹介してくれた若者だ。だが、今は母親に抱かれて胸の中で眠そうにしている。未だ五歳になろうかとしている子供だ。

 すると、未来で彼が言っていた「ウチの親父、いつもこの酒を飲み、母を想い出していた」というのは、僕の前にいる良夫さんで、母とは彼を抱いている孝子さんのことなんだ……そうか、浮気性の旦那を気取ってはいても、本当は孝子さんのことを愛しているんだ。今は、まだ良夫さん自身気ずいてはいないかもしれない。

 僕はその時、何故か良夫さんにうらやましさを感じた。誰に後ろ指を指される訳でもなく、いつも愛するひとが傍にいてくれる。それだけで、僕にはこの夫婦は今、幸せの中にいるように思えた。

 そして、このふたりに、今ある時を、この時を……そして、この幸せが想い出として積ることを、僕は心の中でふかく祈った。


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