第3話 意中のひと
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私と志緒梨が出会ったのは……。
彼女は、
それは、僕自身の中にあった劣等感からなのだろうか? 私は自身の勝手な思いから、会社内で楽しそうに
それが、私が入社して一年経った頃には多少ながらもその思いは変わっていった。独断的で他人を受け入れない性格の彼女の親父、ワンマンな社長のせいでいつも彼のいる時は
私が彼女のことを気になりだしたのは入社をし二年目の頃で、私も彼女も四十歳となっての年明け一月の頃だったろうか、携帯電話でのメールのやり取りがきっかけだった。しかし、この頃、メールは私のまわりでは余り浸透してはいなかった。
私が、会社の若い社員連中とメールをしているのを彼女が知り、それでメールを教えて欲しいと彼女に頼まれ、それが切っ掛けで始まった。
お互い、メールのやり取りを重ねるたびに、私は彼女のことが気になり出し、彼女への想いは少しづつふくらみ始めていった。後々に彼女に話を聞けば、彼女の方もその頃から私のことを想い始めていたそうだ。そうとは知らず、お互い二十八年の間、私たちは胸の内を明かさないまま無駄に時を過ごしてしまった。
あの頃、彼女には旦那さんがいた。しかし、三年近くの別居生活を続けていた頃で、子供も二人、その当時は上に小学校五年生の娘と三年生の息子の三人で暮らしていた。
私はというと、私の方も家庭内別居を二年以上続けていた頃で、夫婦間の修復はもう不可能となっていた。子供は、十九歳になる息子は大丈夫だが、十六歳の娘はまだ高校生になったばかりの多感な時期だから、せめて娘が高校を卒業し、私たち両親が離婚をしてもショックを受けない年頃までは今の生活を続けていよう、と私たち夫婦の間では話が着いていた。私は、今話したように
それからの私と志緒梨の間としては、彼女が四十七才になって、社長であった父親が会長となり、彼女が社長に就任し、彼女には七つ離れた弟がいたが、仕事としては未だ任せるには至らないが専務として、私が社長の彼女の片腕となり常務のポストを担いサポートをした。それから、更に月日は経って、彼女は六十歳となり二十五歳から入社していた志緒梨の息子に社長の職を
それは、まるで二十八年間、二人はお互いが悪い魔法にかけられていたかのようで、志緒梨は父親から会社のことを彼女の肩に総ておしつけられ、私は一度築いた家庭を壊したという
その日から、ふたりはお互い二十八年間無駄に過ごした年月を取り戻すかのように片時も何処へ行くにも離れず、いつも傍にいてお互いを感じあい、愛しあった……あの時が、今はとても懐かしい。懐かしい、と言っても少しややこしいが、私の
なんといっても気がかりなことは、私の記憶の未来の志緒梨は、私がいなくなった今、何をしているのだろう……逢いたい。一目でいいから、今どうしているのかだけでも知りたい。
もう志緒梨とは逢えないのでは、という思いから私の目は勝手に
「アッ、はい、どうぞ……開いています」
ドアを開け、部屋の中へ入ると、彼女は鏡の前で腰掛けていたのだが、私だと気づくと顔を崩し微笑みながら立ち上がった。
「丁度、よかった。今いろいろと会社にいた頃のことを想い出していて、仲村さんのことを考えていたのよ。仲村さんには、今まで本当にお世話になりました。仲村さん、ほんとに、本当にありがとうございました」
と言い、深く頭を下げた。私も思わず同じように深々とお辞儀をした。
「私の方こそ……私も、会長にはいろいろとお世話になりました。それに、今は会長である貴女と私が
「ううーん、仲村さん、前にも言ったじゃあありませんか。今迄ずっと、私のことを会長なんて言わないで下さい、と……それに今日からやっと、私には重かった肩書きという
言いにくそうに言葉が詰まる彼女に、私は思わず
「エッ、何です? 私がなにか……」
「エッ、いいえ。何でもないです」
「あっ、あのう、会長……アッ、すみません」
私が会長と言ってしまったことに、彼女は
「アッ、そ、それじゃあ……すみません。な、
「仲村さん、名前の前にすみません、は余分です。それに、今日からはお互い
「私ですか? 何も考えていませんでした……そうですね。とりあえず、家でゴロゴロしながら考えてみます。それより、貴女にそういうお方がおられたんですね? 私は、少しも気がつきませんでした。そうですよね。そういう人がいたから、今まで頑張って来れたんですよね。私だって、そのような心の中で想える意中のひとがいたから……だから、今まで頑張って来れたのですからね」
私の、
彼は妙にニタニタと笑みを浮かべていた。
「仲間さんに仲村さん、おふたりともこちらにいたんですか? 下では、アース・フーズの皆さんが二次会に早く行きたいけど、主人公のおふたりさんがいないから、って騒いでみんなで捜していますよ。早く、一階のロビーに行きましょう。おふたりともゆっくりと二次会で、積もる話もそこですればいいじゃあないですか。さあ、さあ早く」
私は、彼女の方を向き直り〝それじゃあ、行きましょうか?〟と顔で合図を送ったが、彼女はテーブルの上のハンドバッグを手に取って、弱々しく笑みをつくり言葉を
「お二人は、先に行っておいてもらえますか? 私もすぐに行きますから」
と、言って鏡の方へ歩を進めた。
私と新城は、一階ロビーに向かう廊下を歩いた。その途中、新城が話し掛けてきた。
「仲村さん、仲間さんとはどうなっているんですか?」
「ンッ、どうって、何がどうなの?」
「もう、仲村さんとぼけないで下さいよ。僕が、アース・フーズで一緒に仕事をしている頃、忘年会で仲村さん酔った勢いで、僕に言ったじゃあないですか? 〝私、私くし、仲村佳孝は仲間志緒梨さんのことが大好きだ〟って、あれから全然進展もないみたいだし」
「何だ、あのことか……あ、あれはあくまでも酒の上での
「エッ、仲村さん、それ本当なの? その話し、本当にほんとうなの?」
「アア、本当にほんとうさ。だって、今さっき彼女に聞いたばかりだからね」
「アレッ、おかしいなー、社長の
「そのことだったら、彼女の意中の人って、岐阜にいる人らしいから……多分、そのせいで身近には気配を感じられなかったんじゃあないのかな」
新城の方は、腕を組みながら首を傾げ、何が
私の方も、何んだか気になって仕方ない。先程の志緒梨の何か言いかけて、なにか
スマホのベルトに収納されていた小豆大の大きさのワイヤレスのイヤホンを耳に装着し、ディスプレーをタップし開くと「先程の件ですが……」とインデックス・ヴォイスの志緒梨の声が流れた。その後、またディスプレーをタップするとメイン・ヴォイスに「先程、仲村さんにも意中のひとがいるということですが……その人は身近にいるひとなんですか? それだけでも、私にどうか教えてはもらえませんか?……お願い致します」と何か思いつめた志緒梨の緊張気味の声が聴こえてきた。
何を
インデックス・ヴォイスに「先程のお返事です」と入れ、メイン・ヴォイスは「私の想うひとはいつも身近にいて、私はいつもそのひとのことだけを想い続けていました」と口元に持ってきた腕時計型のスマホのマイクに声を記録した。
私が、返事を送ろうと最後にディスプレーの決定ボタンをタップしようとした時、私の脇を志緒梨が無言で通りすぎ、ロビーへと向かって行った。
私は、彼女の後ろ姿を見ながら左腕を彼女の背に向け決定ボタンを右手でタップし、私もロビーへと向かった。
二次会の会場は高台にある結構大きな二階建てのレストランで、なかなか眺めもよさそうなとこだった。その店まるごと一日、貸りきってのブッフェスタイルでの宴だった。
会が始まっての三十分は、一次会と同じようなセレモニーがあり、私も志緒梨も幾つかマイクを向けられたが、傷心の中にいた私は
私は「ありがとう」と言い、二杯目を口に運びながら店内を眺めまわすと、メインフロアーには大勢の人たちがダンスにグラスを持っての談笑をしている。その間の
何を話しているのだろう?……でもいいか、私にはもうどうでもいい、関係のないことなんだ。二杯目のグラスのウヰスキーを飲み干し、バーテンダーにもと強い酒を頼むと、彼は
「お客様、今日のお客様なら、このお酒がいいのかも知れませんね。これは、私の父が好きな銘柄で、よく飲んでいました。親父は飲む度に先に亡くなった母を想い返していました。今日、たまたま仕入れに行った酒屋で見つけて買ってきた物です。お口に
そう言い、彼はキャップの封を切り、新しいグラスに氷を入れ私の前に置き、ボトルからウヰスキーを注ぎ入れた。
「いいの? そんな貴重なお酒を……」
「エエ、どうぞ。お客様のお口に合うのでしたら、どうぞ……お客様の目を見ていたら、一昨年亡くなった親父を想い出してしまいました。失礼ですけど、今のお客様の目と同じ目をしていたな、って……よかったらどうぞ、お召し上がり下さい」
私は、目の前に置かれたグラスを手に取り鼻先にもってきて匂いを
最初は何気なく、氷の冷たさで唯のウヰスキーというふうに思えた。だが、氷で固まっていたそのウヰスキーの想いは、私の口の中で温められ融け、深く渋いバレル《樽》の香りを私の鼻先へと運んできた。香りには、苦味の中に甘いかおりが程よく、ちらちらと時折顔を出す。私はその時、香りに全身が包まれたかのような感覚を覚えた。その上、
「お口に叶ったようですね。お酒はここに置いて
彼はそう言うと、たまった他の客のオーダーに取り掛かった。私はそんな彼の顔を、カウンターの席に座ったまま離れて見ていた。彼は、鼻筋の右と、左の目の下にあまり目立ちはしないが
私は、置かれたウヰスキーのボトルを手に取ってラベルを見ると、〝BROWN'S MEMORY〟とあった。私の憶測なのだが、ブラウンは茶、
ボトルを手にし二口目を口にしようとした時に、右隣の椅子に、今は嫁いで二児の母となった志緒梨の娘の
「ハイ、仲村さん、乾杯……仲村さんも今日は元気ないですね?」
更に、グラスを突き出してきた。
彼女を見ていると、私と知り合った頃の若かった志緒梨に、やはりどこか似ている。小学生の頃から彼女、梨緒を知っているが、その頃はまわりの人たちに男の子と間違われる程にボーイッシュで、母の志緒梨も心配をしていたが、今はりっぱな母親となり幸せにやっているようだ。私も、グラスを突き出し乾杯に応じた。
「仲村さん、お疲れ様でした。大変でしたが、いろいろとありがとうございました。そして、これからも宜しくお願いします」
と言って、二度目の乾杯を、とグラスを出してきた。私は、二度目の乾杯にも応じ、それから彼女の近況を聞き、二人の共通の昔話となった。
「仲村さん、改めてありがとうございました」
「何を改めてなの?」
「これまでは何故か話す機会がなくって、仲村さんに話せなかったのですが、昔、母が入院した時です。その頃は、私たちはいろいろ大変で、どうなるか心配でした。でも、仲村さんがいてくれて、色々と母の面倒を看てくれたから、母もこれまでやって来れたんだと思うんです」
「いいや、いいんだよ。私もしたくてしたことなんだから……でも、君たちも大変だったよね。あの頃は……」
「エエ、正直言って、お母さんとお父さんは三年間の別居の末に離婚したばかりで、それからの母の病気でしたから、私としてはお父さんを失って、その上、お母さんまで失うんじゃあないか、って心細かった。それに、何でお父さんじゃあなくて仲村さんがいつもお母さんの側にいるんだろう、って思っていたの……だけど、私も母になって、今だから分かるんだけど、お母さんの病気は
「梨緒ちゃん、ありがとう。そういうふうに言ってくれて、私も嬉しいよ。あの頃のことは、自分自身出過ぎたことをしたんじゃあないかな、て思っていたから……」
「ところで、仲村さんはどうして再婚をしなかったんですか? 新城の叔父さんや弟の話だと、仲村さんには言い寄って来る人や縁談の話は結構多かったのに、みんな断ったそうですね? それは、ずっと心に想う……意中というひとがいたからなの?」
「意中のひと? それは……エッ! 何でそのことを?」
「此処に来るタクシーの中で、母があまりにも暗い顔してスマホの画面を見ていたから、私無理やり聞いちゃったんです。仲村さん、これだけは教えて? 仲村さんの心の中にいるひとに対しての想いは、って言うか、二十年間その人のことを想い続けていたんですよね?」
「ウーン、答え辛いけど、そんなことかな」
「もう一度聞くけど、仲村さんは二十年間も心を変えず、その人をずっと想い続けているんですよね?」
「ウ、ウン……」
梨緒は、私の答えを聞いてにこっと微笑み、親指を立てて何処へなのかグッドのジェスチャーを送った。
私は、彼女のグッドの行き先を目で追って
私はことが
「何それ? 何かのサイン?」
「エッ、アッ、そう……ホラッ、よくやるでしょう?〝飲んでる?〟って……ネッ?」
「ウ、ウーン?……飲んでる? ってサインねー?」
ちょっと
それから、私はウヰスキーを一杯飲む間に、梨緒は何か取り
「仲村さん、此処のお店のオーナーはね、一哉の小学校からの友達で、今日は特別貸切にしてもらっているんですよ。
「エッ、梨緒ちゃん、私のようなこんなおじいさんと?……旦那さんも来ているんだろ? 折角だから旦那さんと行って来たらいいのに」
だが彼女は、私の返事に気分を害したのか、私に目を吊り上げて見せ、それからバーテンダーに指で合図を送った。
「イイエ、今日は仲村さんと飲みたいんです。だから、これを持って先に行ってもらっていいですか? 私は、少しお化粧を直してから行きますから、ネッ? 宜しくお願いします」
と言って、バーテンダーからシャンパンクーラーに入ったシャンパンと、氷の入ったグラスを二個受け取り、私に押しつけてきた。私は訳も分からなかったが、とりあえずそれを受け取った。すると、彼女は席を立ち、私に向き直り
「仲村さん、宜しくお願いします」
と言って、私を見つめなおし立っている。
彼女と飲むのは嫌ではなかったが、私は仕方なくうなずき渋々立ち上がり二階へと向かう階段の場所を聞き歩き出すと、彼女はまた両の手を重ね深くお辞儀をし私を見送った。
二階へ行くと、壁のネオン管の電飾が幾つか点いていて暗くはなかったが、テラス側から室内に入る月の光のほうが明るく、おかげでこのフロアーに点在するテーブルや椅子につまずかないで間を通って行けた。
テラスへ出ると、広いスペースで、そこには椅子二脚と丸いテーブルの一組だけが
「仲村さん、どうしてここへ?」
私は、なぜか妙にバツが悪かった。
「アー、いえね、梨緒ちゃんがここで飲もうって言うから」
「梨緒が、ですか?」
「エエ、そうです」
ふたりはその後、話がお互い続かず気まずく、私は手摺に両手を乗せ景色を眺めた。
切り立った丘の端、高台の上に建つ、このレストランの下界には、遠くの街の灯りが淡く
「とてもきれいですね」
私がそう呟くと、ハンドバッグをテーブルに置き、志緒梨も私の右側の手摺に近ずいてきて、私と同じに手摺に手をおいて「ええ……」と私の傍で返事をした。
月の光に映しだされた志緒梨の横顔は、息を吹きかければ煙となって消えそうなほどに儚く、
私は、ふたりの間に漂う沈黙に耐え切れずに口を割った。
「梨緒ちゃん遅いですね? 呼びに行って来ましょうか?」
彼女は、遠くを見ていた意識が不意に戻されたような顔になった。
「アッ、そうですね。わたし、私が梨緒に電話をしてみます」
彼女は、イヤフォンを片耳につけ左腕のスマホをタップしながら、娘の梨緒に電話をかけた。
「アッ、梨緒、どうしたの? こんなに仲村さんを待たせて……エッ、そんな失礼な……エッ、そんな……」
彼女は困惑顔で電話を切り、娘からの伝言を伝えた。
「仲村さん、ごめんなさい。ウチの梨緒が、下でビンゴ大会が始まって来れそうもないから〝ウチの母をよろしく〟って言っています。仲村さん、本当にごめんなさい」
私は不自然な笑みを作り許したが、心はまだいた堪れない思いのままだった。丸く輝く月は、
「仲村さん、私の話を聞いて貰えませんか?」
「アッ、はい……どうぞ、話されて下さい」
私は、自分自身に肩すかしを受けながら返事をした。
「あ、ありがとうございます。此処に来る前に、仲村さんから頂いたメールのことなんですが……メールの中にあった意中の人のことを、仲村さんはその方のことをただ好きという程度なんですか? それとも心のそこから愛しているとか? それと……それと、その方は仲村さんの気持ちを知っているのでしょうか?」
彼女は感情を抑え、言葉を選びながら低くゆっくりと喋ってはいるが、声が微かに震えていた。
私に、
「はい、私はその人のことを愛しています。心から……でも、その人は私の気持ちをまったく気づいていません」
私は、考えるのを止めた。心にある人に対する想いを答えとして告げることにした。
「そうですか? 仲村さんの今のお気持ち、私にもよくわかります。私も、仲村さんのように長い間とても身近にいる人に想いを寄せ、その人に気づかれないようにと、ずっと今まで来たのですから」
エッ! 何かおかしい? 確か、彼女の意中の人っていうのは岐阜にいるはずで、身近にはいるはずがない。まさか、最近岐阜へ行ってしまったのだろうか? 最近まで近くにいた奴って誰なんだ? 思い当たるといえば、思い当たる奴は何人かいる。彼女に仕事と
「仲村さん、辛いですよね。それと、とても苦しい……こんな歳になって言うようなことでもないのでしょうが、その人が傍にいたら、今すぐこの想いを伝えたくて息苦しくなり、離れていると逢いたい気持ちに押し潰されそうになる。仲村さん、貴方もそういう感じですか?」
彼女は切なそうな目で私をみたが、また遠くの景色へ言葉を繋いだ。
「どうして、仲村さんはそのお相手の方に、ご自身のそのお気持ちを伝えないのですか? もしかして、仲村さんの中にいる意中のそのお方は誰か他のひとの奥様ということですか? だから、その人には伝えてはいけない、そうなんですか?」
「いいえ、私の心に想うひとは人妻なんかじゃあないです。しかし貴女もその人への想いは、私と同じくらいとても深いのですね……
「エッ、岐阜へ?……やはり一哉が言うように、仲村さんは何か勘違いをされているのですか?」
「エッ、勘違い?……ですか? 私が? 何を、私が勘違いしてると言うんですか?」
「はい、岐阜のことです。私が会いに行く人っていうのは、仲村さんもよくご存知ですよね? 中村さん。貴方と同じ苗字の岐阜バイオで、お仕事をされていた中村さんです。覚えていますよね? 貴方も何度か一緒に食事とか行きましたから」
「エッ、岐阜バイオの中村さん、ってあの女性の中村さんですか?」
「はい、その中村さんです。一哉が、新城さんから〝仲村さんは、お母さんが男の人に逢うために岐阜に行くんだと勝手に思い込んでいるみたいだけど、お母さんはそれでいいの?〟って言うものですから……やっぱり、その様子ですね」
私は、何も言えないまま遠くに見える月に、きらきらと輝きを還す海をただ見つめていた。私の中で今まで暴れていた身を焦がすほどに熱い嵐、その風が一瞬にふっと消え去り、今は身を凍らせるような冷たい風が吹き始めた。まるで私は、ドン・キホーテだ。彼女が逢いたい、て言っていた人を、私は勝手な妄想のままに思い込み、私は嫉妬の嵐の中に勝手に身を送りこんだ。だが、彼女の逢いたがっていた人は女性で、それを知らないで勝手な思い込みで創っていた幻の敵だったんだ。しかし、今はそれも消え去った。それと同時に、私の気力までもすべて一緒に持ち去り、今は
「仲村さん……仲村さん……」
「エッ、アッ、はい、会長の意中の人が、岐阜バイオの中村さん……女性だったんですね?」
ンッ、何を? なにを私は言ってるんだ。
「エーッ、嫌だ仲村さん……私、そんな趣味なんてありません」
「アッ、はい、ごめんなさい。そ、そうですよね。本当にすみません……すみませんでした」
「ンー、もう仲村さん、それに今日からはお互い肩書きはもうなしだ、て約束したじゃあないですか、約束ですからもう言わないでくださいね」
「はい、分かりました。これからは気をつけます」
「だから、もう……仲村さん、丁寧な謙譲語もです」
「アッ、はい、分かりました……アッ、ごめんなさい」
「アッ、ああー……もう、本当に仲村さん不器用なんだから」
やっと彼女が少し笑った。そして、彼女は腕のスマホに表示された時計を見て言った。
「ねえ仲村さん、私にもう少しだけ時間を頂けませんか? 今は十一時五十七分だから……特別な今日という日が終わるまで、その三分間を私に下さい」
「アッ、は、はい」
「今から三分間、私はまだ仲村さんの上司のままでいいかしら?……いい?」
「エッ、ええ、はい」
「では、いいですね? 仲村さん、貴方にこれから私から……仲村佳孝、あなたへ最後の辞令を出します」
「はい」
「今、仲村さんの心の中にある人の名前を教えて下さい。わたしに……教えて……下さい」
「……ッン!?」
私は固まってしまった。完全に凍りついてしまった。先程まで下のフロアーでムーンライト・セレナーデが聴こえていたのに、今は何も耳には入らない。またフリーズしてしまった。
どれだけの時が流れたのだろうか、十分? 二十分? 嫌、今の私には時間という
「嫌、やめて、仲村さんもういいの……もう言わないで、ごめんなさい。私が間違っていました。お願いですからもう言わないで……聞きたくない。もう、仲村さんは、何も言わないでいい……もう、何も聞きたくない」
志緒梨が、私の胸に顔を埋め、両手で耳を塞ぎ震えていた。
『ボーン、ボーン……』
此の階のフロアーの奥で柱時計が鳴り出したが、その時も、私には時間という存在は未だなかった。そして、やがてその柱時計の音は鳴り止んだ。
「私の、心の中にある人は……今、私の腕の中にいます……」
今まで震えていた彼女の震えが止まった。私の胸に頬を預けたまま呟く。
「エッ! いま……今、なんて言ったの?」
私は、彼女の両肩に手を乗せ、彼女の目が見えるほどに軽く押し離し見つめ、改めて告げた。
「今までずっと、私が想い続けていたひとは貴女です。今、目の前にいる志緒梨さん、貴女です」
「嫌え、嘘です! そんなの嘘です!……いいえ、まさかそんなことないです」
「いいえ、私が今までずっと想い続けてきた人は貴女です……聴こえましたか? 十二時を告げる柱時計の音が……もう、十二時を過ぎてしまいました。今、私が貴女に伝えている言葉は、貴女の命令に答えているのではなく、私の心の中にある私の言葉を貴女に伝えているんです。志緒梨さん、貴女を、私はずっと愛していました」
私は、もうやけっぱちだっだ。今日で、もう志緒梨に会えなくなるという思いと、それと彼女が私の胸に跳び込んで来て、自分自身を抑え切れなくなり伝えた言葉であった。
「仲村さん、わたしも……私もです。私も、仲村さんのことをずっと愛していました」
彼女、志緒梨の目に涙が溢れていた。
私の目にも涙があふれこらえきれず、彼女を抱き締めた。彼女のことを想い続けた二十年分の想いをこめて……。
『パーン、パーン』
ンッ……!? 部屋の中、テラスとの出入り口の陰に、いつから隠れていたのか梨緒や一哉に新城たちが手に手にパーティー用のクラッカーを持ち、祝福の言葉と
そんな幸せなふたりを、月は天高く眩しく照らし出していた。
……あの頃が懐かしい
……志緒梨、今なにをしているの?
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