第3話  意中のひと


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私と志緒梨が出会ったのは……。

 彼女は、かつて私は転職を繰り返し続け、そして七度目に入社したアース・フーズという会社の社長の娘で、彼女は三人姉弟の長女だった。最初の頃は、彼女のことを全然気にすることなどなかった。お互い同じ歳だというのに……。

それは、僕自身の中にあった劣等感からなのだろうか? 私は自身の勝手な思いから、会社内で楽しそうにはしゃいで常に笑顔の彼女を見ていたこともあり、どうせ彼女は、何不自由もなくこれまでやってこれたお嬢様なんだろう、と思っていただけだった。

それが、私が入社して一年経った頃には多少ながらもその思いは変わっていった。独断的で他人を受け入れない性格の彼女の親父、ワンマンな社長のせいでいつも彼のいる時は殺伐さつばつとしている社内だったが、その暗鬱あんうつとした空気を浄化しようと彼女は社員の気持ちを少しでも明るくしようと常に笑顔で振る舞っていたのだった。それでも、彼女が朝礼の後、社長室に呼ばれ、彼女では抱えきれないことなどを親父に言われ、たまに泣きそうなほど暗い顔を見る時があっても、私は社長令嬢っていうのも大変だな、ていうくらいにしか思っていなかった。

 私が彼女のことを気になりだしたのは入社をし二年目の頃で、私も彼女も四十歳となっての年明け一月の頃だったろうか、携帯電話でのメールのやり取りがきっかけだった。しかし、この頃、メールは私のまわりでは余り浸透してはいなかった。

 私が、会社の若い社員連中とメールをしているのを彼女が知り、それでメールを教えて欲しいと彼女に頼まれ、それが切っ掛けで始まった。

 お互い、メールのやり取りを重ねるたびに、私は彼女のことが気になり出し、彼女への想いは少しづつふくらみ始めていった。後々に彼女に話を聞けば、彼女の方もその頃から私のことを想い始めていたそうだ。そうとは知らず、お互い二十八年の間、私たちは胸の内を明かさないまま無駄に時を過ごしてしまった。

 あの頃、彼女には旦那さんがいた。しかし、三年近くの別居生活を続けていた頃で、子供も二人、その当時は上に小学校五年生の娘と三年生の息子の三人で暮らしていた。

 私はというと、私の方も家庭内別居を二年以上続けていた頃で、夫婦間の修復はもう不可能となっていた。子供は、十九歳になる息子は大丈夫だが、十六歳の娘はまだ高校生になったばかりの多感な時期だから、せめて娘が高校を卒業し、私たち両親が離婚をしてもショックを受けない年頃までは今の生活を続けていよう、と私たち夫婦の間では話が着いていた。私は、今話したように他人ほかにはいえない事情があって。それが壁となり、結局は私自身が自分の想いを隠したままとなり、会社の誰にも想いを打ち明けることもなく、娘が高校を卒業し落ち着いた頃に、その当時の私たち夫婦の間で約束していた通りに離婚をしたが、その時私は妻に慰謝料のことで話したのだが、妻は夫婦間がおかしくなった頃から少しづつ貯めていたものがあるからいいと言ったが、それでも私はこれからの十年間自分の稼いだ給料の三分の一を毎月送ることとした。そして私は独りとなった。

 それからの私と志緒梨の間としては、彼女が四十七才になって、社長であった父親が会長となり、彼女が社長に就任し、彼女には七つ離れた弟がいたが、仕事としては未だ任せるには至らないが専務として、私が社長の彼女の片腕となり常務のポストを担いサポートをした。それから、更に月日は経って、彼女は六十歳となり二十五歳から入社していた志緒梨の息子に社長の職をゆずった。そして、彼女は会長となり、私は専務に昇格し、定年を迎える六十五歳までの五年間を、今度は若い社長のサポートに努めた。それから、私と志緒梨はめでたく七十歳の年齢を迎え、私たちのため会社を挙げて退職の日に勇退式をしてもらった……そして、その夜、私は志緒梨にやっと二十八年間の想いを告げた。

 それは、まるで二十八年間、二人はお互いが悪い魔法にかけられていたかのようで、志緒梨は父親から会社のことを彼女の肩に総ておしつけられ、私は一度築いた家庭を壊したという自責じせきの念という呪縛じゅばくが解けたかのようだった。

 その日から、ふたりはお互い二十八年間無駄に過ごした年月を取り戻すかのように片時も何処へ行くにも離れず、いつも傍にいてお互いを感じあい、愛しあった……あの時が、今はとても懐かしい。懐かしい、と言っても少しややこしいが、私の推測すいそくなのだが、それは未来のことであって、今の私の記憶の三分の一程はまだ未来ということになる。記憶の中に未来というものがあるというのは、やはりおかしなことだ。

 なんといっても気がかりなことは、私の記憶の未来の志緒梨は、私がいなくなった今、何をしているのだろう……逢いたい。一目でいいから、今どうしているのかだけでも知りたい。

もう志緒梨とは逢えないのでは、という思いから私の目は勝手にうるみだし涙があふれる。病室の窓から煌々こうこうと光り輝く満月を眺めていると、私の意識、想いは過去へといざなわれる……あの日、ふたりの勇退式の夜に、初めて志緒梨の手に触れ、肩を並べて観た月を……あの日は、大きなホテルに、今までふたりがお世話になった会社を通して関係する人たちを集めてもらった。そして、一通り定年退職、勇退式という会も終わり。会社の連中、みんなが二次会へと気を移していた頃、彼女とあうのも、もうこれが最後になるのだろう、と私は思い会場の中を捜してみた。だが、彼女の姿は何処にも見当たらない。会が始まる前に彼女が衣装変えに使っていた部屋を聞き出し、その部屋のドアの前に行きノックをしてみると、彼女はそこにいた。彼女、志緒梨の声がした。

「アッ、はい、どうぞ……開いています」

 ドアを開け、部屋の中へ入ると、彼女は鏡の前で腰掛けていたのだが、私だと気づくと顔を崩し微笑みながら立ち上がった。

「丁度、よかった。今いろいろと会社にいた頃のことを想い出していて、仲村さんのことを考えていたのよ。仲村さんには、今まで本当にお世話になりました。仲村さん、ほんとに、本当にありがとうございました」

 と言い、深く頭を下げた。私も思わず同じように深々とお辞儀をした。

「私の方こそ……私も、会長にはいろいろとお世話になりました。それに、今は会長である貴女と私がひらの頃から今まで、お仕事が出来たことが私の幸せなことでした。私の方こそ本当にありがとうございました」

「ううーん、仲村さん、前にも言ったじゃあありませんか。今迄ずっと、私のことを会長なんて言わないで下さい、と……それに今日からやっと、私には重かった肩書きというよろいも外せるのですから、せめて仲村さんには……」

 言いにくそうに言葉が詰まる彼女に、私は思わずききき返した。

「エッ、何です? 私がなにか……」

「エッ、いいえ。何でもないです」

「あっ、あのう、会長……アッ、すみません」

 私が会長と言ってしまったことに、彼女はまゆをしかめ怒った表情をつくってしまった。

「アッ、そ、それじゃあ……すみません。な、仲間なかまさんは、明日から何をされるのですか?」

「仲村さん、名前の前にすみません、は余分です。それに、今日からはお互い謙譲語けんじょうごのような硬い言葉は止めにしませんか? いいですね。仲村さん?……ウン。それで、明日から何をするかは、いろいろ考えてみたんですけど、私には、これといって趣味とか気の利いたことがなく、今まで仕事と子育てで忙しく、好きな旅行にも行けなかったの。っで、今回は思い切って行ってみようかな、って思っているの。とりあえず、昔を懐かしんで昔行ったことのある福岡と、後はとても会いたい人がいて岐阜辺りにでも、と……ところで、仲村さんは?」

「私ですか? 何も考えていませんでした……そうですね。とりあえず、家でゴロゴロしながら考えてみます。それより、貴女にそういうお方がおられたんですね? 私は、少しも気がつきませんでした。そうですよね。そういう人がいたから、今まで頑張って来れたんですよね。私だって、そのような心の中で想える意中のひとがいたから……だから、今まで頑張って来れたのですからね」

 私の、つぶやきめいた淡い煙りのような言葉をかき消すように私の後ろでドアが開き、アース・フーズに以前勤めていた新城が入って来た。彼も、途中まで一緒にやってきた仲間で、今も彼のおこした会社とは取引もしていた。それに志緒梨にとっては妹の旦那である。

 彼は妙にニタニタと笑みを浮かべていた。

「仲間さんに仲村さん、おふたりともこちらにいたんですか? 下では、アース・フーズの皆さんが二次会に早く行きたいけど、主人公のおふたりさんがいないから、って騒いでみんなで捜していますよ。早く、一階のロビーに行きましょう。おふたりともゆっくりと二次会で、積もる話もそこですればいいじゃあないですか。さあ、さあ早く」

 私は、彼女の方を向き直り〝それじゃあ、行きましょうか?〟と顔で合図を送ったが、彼女はテーブルの上のハンドバッグを手に取って、弱々しく笑みをつくり言葉をいた。

「お二人は、先に行っておいてもらえますか? 私もすぐに行きますから」

 と、言って鏡の方へ歩を進めた。

 私と新城は、一階ロビーに向かう廊下を歩いた。その途中、新城が話し掛けてきた。

「仲村さん、仲間さんとはどうなっているんですか?」

「ンッ、どうって、何がどうなの?」

「もう、仲村さんとぼけないで下さいよ。僕が、アース・フーズで一緒に仕事をしている頃、忘年会で仲村さん酔った勢いで、僕に言ったじゃあないですか? 〝私、私くし、仲村佳孝は仲間志緒梨さんのことが大好きだ〟って、あれから全然進展もないみたいだし」

「何だ、あのことか……あ、あれはあくまでも酒の上での戯言ざれごとだから忘れてくれよ。それに、彼女には意中の人がいたそうだよ」

「エッ、仲村さん、それ本当なの? その話し、本当にほんとうなの?」

「アア、本当にほんとうさ。だって、今さっき彼女に聞いたばかりだからね」

「アレッ、おかしいなー、社長の一哉かずやに聞いても仲間さんにはそれらしい人はいなくて……アイツも、小さい頃から仲村さんが怪しい、ってずっとマークをしていたらしけど、どうなっているんだろう?…‥ンッ、何んかおかしい?」

「そのことだったら、彼女の意中の人って、岐阜にいる人らしいから……多分、そのせいで身近には気配を感じられなかったんじゃあないのかな」

 新城の方は、腕を組みながら首を傾げ、何がに落ちないのか、私に構わず勝手にスタスタと歩いて行ってしまった。

 私の方も、何んだか気になって仕方ない。先程の志緒梨の何か言いかけて、なにか物憂ものうげな表情が……最初は普通に話していたが、途中から急に落ち込んだように、私には見えた。落ち込んで立ち直れそうにないのは、今の私の方だ。二十年以上も彼女のことを想い続けていたのに、最後のさいごに彼女に意中の人がいたなんて、今の最後の最後に知らされて……世の中には、その人にとって最後まで知らないほうが幸せなことだってあるんだ。もう明日からの私の予定は、金の続く限り酒を飲んで、飲んでまわるとするか……そんな傷心にひたっている私の左手の腕時計型のスマホが、振動して着信を知らせてきた。そのスマホのディスプレーは通常の腕時計の四倍程の大きさがあるのだが、その画面を覗くと、志緒梨からのヴォイス・メールが届いていた。

 スマホのベルトに収納されていた小豆大の大きさのワイヤレスのイヤホンを耳に装着し、ディスプレーをタップし開くと「先程の件ですが……」とインデックス・ヴォイスの志緒梨の声が流れた。その後、またディスプレーをタップするとメイン・ヴォイスに「先程、仲村さんにも意中のひとがいるということですが……その人は身近にいるひとなんですか? それだけでも、私にどうか教えてはもらえませんか?……お願い致します」と何か思いつめた志緒梨の緊張気味の声が聴こえてきた。

 何を今更いまさら、そんなことを私に聞いてくるんだろう? 私にとっては面白くもなかったが、メールの返事をするため、ディスプレーを返信モードに切り替え、声を入力した。

 インデックス・ヴォイスに「先程のお返事です」と入れ、メイン・ヴォイスは「私の想うひとはいつも身近にいて、私はいつもそのひとのことだけを想い続けていました」と口元に持ってきた腕時計型のスマホのマイクに声を記録した。

 私が、返事を送ろうと最後にディスプレーの決定ボタンをタップしようとした時、私の脇を志緒梨が無言で通りすぎ、ロビーへと向かって行った。

 私は、彼女の後ろ姿を見ながら左腕を彼女の背に向け決定ボタンを右手でタップし、私もロビーへと向かった。


 二次会の会場は高台にある結構大きな二階建てのレストランで、なかなか眺めもよさそうなとこだった。その店まるごと一日、貸りきってのブッフェスタイルでの宴だった。

 会が始まっての三十分は、一次会と同じようなセレモニーがあり、私も志緒梨も幾つかマイクを向けられたが、傷心の中にいた私はひどいもんで、一次会の一般の専務然とした少しの気の利いたジョーク混じりの可もなく不可もないスピーチとは打って変わって話すたびに所々にとげを混ぜてのその場に集まった人たちを若干引かせながらの挨拶となり、途中からマイクは志緒梨をメインに進んで私たちは本当の意味で退任を終えた。その後、カウンターの方に空いている椅子があるのを見つけ、シャンパンからウヰスキーのロックに変えた。最初の一杯目は味見程度に一口をつけ、後はグイッと飲干し、カウンターの向こうにいるバーテンダーにもっと強そうな酒の銘柄を聞きオーダーした。傷心のせいか、今日はとても酔えそうにない。多分、帰りはタクシーでの自宅ではなく救急車で病院ゆきなだろうが……バーテンダーが、ロックグラスに氷とトゥーフィンガーのウヰスキー、そしてチェイサー(氷の入った水)をセットで私の前に置いてくれた。

 私は「ありがとう」と言い、二杯目を口に運びながら店内を眺めまわすと、メインフロアーには大勢の人たちがダンスにグラスを持っての談笑をしている。その間の隙間すきまの奥の方にも椅子が幾つかあって、そこで笑いながら話しをしている一哉と、少し肩を落としている志緒梨がいた。

 何を話しているのだろう?……でもいいか、私にはもうどうでもいい、関係のないことなんだ。二杯目のグラスのウヰスキーを飲み干し、バーテンダーにもと強い酒を頼むと、彼は観念かんねんしたかのように「分かりました」と言い奥へ行き、彼の手には、私にはまったく見覚えのないラベルのボトルがあり。そのボトルは、ローズ・カラーのラベルに、その奥には琥珀色がカウンター内のスポット・ライトを受けきらきらとたゆとっていて、私の目を魅了した。。

「お客様、今日のお客様なら、このお酒がいいのかも知れませんね。これは、私の父が好きな銘柄で、よく飲んでいました。親父は飲む度に先に亡くなった母を想い返していました。今日、たまたま仕入れに行った酒屋で見つけて買ってきた物です。お口にえばいいのですが……」

 そう言い、彼はキャップの封を切り、新しいグラスに氷を入れ私の前に置き、ボトルからウヰスキーを注ぎ入れた。

「いいの? そんな貴重なお酒を……」

「エエ、どうぞ。お客様のお口に合うのでしたら、どうぞ……お客様の目を見ていたら、一昨年亡くなった親父を想い出してしまいました。失礼ですけど、今のお客様の目と同じ目をしていたな、って……よかったらどうぞ、お召し上がり下さい」

 私は、目の前に置かれたグラスを手に取り鼻先にもってきて匂いをいで、一くち口に含んでみた。

 最初は何気なく、氷の冷たさで唯のウヰスキーというふうに思えた。だが、氷で固まっていたそのウヰスキーの想いは、私の口の中で温められ融け、深く渋いバレル《樽》の香りを私の鼻先へと運んできた。香りには、苦味の中に甘いかおりが程よく、ちらちらと時折顔を出す。私はその時、香りに全身が包まれたかのような感覚を覚えた。その上、まぶたに今はもう手の届かなはずの私の意中のひと、志緒梨の沈んでいる横顔が……思わず閉じていた目を開くと、カウンターの向こうの若いバーテンダーが口元を少し緩め、笑みを見せた。

「お口に叶ったようですね。お酒はここに置いてきます」

 彼はそう言うと、たまった他の客のオーダーに取り掛かった。私はそんな彼の顔を、カウンターの席に座ったまま離れて見ていた。彼は、鼻筋の右と、左の目の下にあまり目立ちはしないが黒子ほくろがポツンとあった。今日の痩身そうしん状態だった私に、彼はお酒本来の飲み方、たしなみというものを思い起こさせてくれた……私は、そのことに彼に敬意をこめ、独り彼に向けグラスを軽くひと振りかかげた。

 私は、置かれたウヰスキーのボトルを手に取ってラベルを見ると、〝BROWN'S MEMORY〟とあった。私の憶測なのだが、ブラウンは茶、琥珀こはく? 最初、透明だった色がバレルの中で琥珀色となってゆく。その時の記憶、メモリー……それは、生まれたての純真無垢の記憶、それは人が様々な境遇にって作っていく想いを色にした、そのように私は感じいる。

 ボトルを手にし二口目を口にしようとした時に、右隣の椅子に、今は嫁いで二児の母となった志緒梨の娘の梨緒りおがグラスを片手に腰を下ろし、私の方にそのグラスを傾けてきた。

「ハイ、仲村さん、乾杯……仲村さんも今日は元気ないですね?」

 更に、グラスを突き出してきた。

 彼女を見ていると、私と知り合った頃の若かった志緒梨に、やはりどこか似ている。小学生の頃から彼女、梨緒を知っているが、その頃はまわりの人たちに男の子と間違われる程にボーイッシュで、母の志緒梨も心配をしていたが、今はりっぱな母親となり幸せにやっているようだ。私も、グラスを突き出し乾杯に応じた。

「仲村さん、お疲れ様でした。大変でしたが、いろいろとありがとうございました。そして、これからも宜しくお願いします」

 と言って、二度目の乾杯を、とグラスを出してきた。私は、二度目の乾杯にも応じ、それから彼女の近況を聞き、二人の共通の昔話となった。

「仲村さん、改めてありがとうございました」

「何を改めてなの?」

「これまでは何故か話す機会がなくって、仲村さんに話せなかったのですが、昔、母が入院した時です。その頃は、私たちはいろいろ大変で、どうなるか心配でした。でも、仲村さんがいてくれて、色々と母の面倒を看てくれたから、母もこれまでやって来れたんだと思うんです」

「いいや、いいんだよ。私もしたくてしたことなんだから……でも、君たちも大変だったよね。あの頃は……」

「エエ、正直言って、お母さんとお父さんは三年間の別居の末に離婚したばかりで、それからの母の病気でしたから、私としてはお父さんを失って、その上、お母さんまで失うんじゃあないか、って心細かった。それに、何でお父さんじゃあなくて仲村さんがいつもお母さんの側にいるんだろう、って思っていたの……だけど、私も母になって、今だから分かるんだけど、お母さんの病気は子宮筋腫しきゅうきんしゅって聞こえは曖昧あいまいな感じだけど、やっぱし癌には違いはないし……それに、その頃は、抗癌治療も大変だったらしいのに頑張れて来れたのも仲村さんが傍にいてくれたからだと思うんです。あの時、私も弟もいつも笑っていたお母さんを見て安心が出来たの……だから、仲村さん、本当にありがとうございました」

「梨緒ちゃん、ありがとう。そういうふうに言ってくれて、私も嬉しいよ。あの頃のことは、自分自身出過ぎたことをしたんじゃあないかな、て思っていたから……」

「ところで、仲村さんはどうして再婚をしなかったんですか? 新城の叔父さんや弟の話だと、仲村さんには言い寄って来る人や縁談の話は結構多かったのに、みんな断ったそうですね? それは、ずっと心に想う……意中というひとがいたからなの?」

「意中のひと? それは……エッ! 何でそのことを?」

「此処に来るタクシーの中で、母があまりにも暗い顔してスマホの画面を見ていたから、私無理やり聞いちゃったんです。仲村さん、これだけは教えて? 仲村さんの心の中にいるひとに対しての想いは、って言うか、二十年間その人のことを想い続けていたんですよね?」

「ウーン、答え辛いけど、そんなことかな」

「もう一度聞くけど、仲村さんは二十年間も心を変えず、その人をずっと想い続けているんですよね?」

「ウ、ウン……」

 梨緒は、私の答えを聞いてにこっと微笑み、親指を立てて何処へなのかグッドのジェスチャーを送った。

 私は、彼女のグッドの行き先を目で追って辿たどって見ると、その先に新城がニコニコしていて、右手でグッドの返事を返しながら左手でまた更に奥にいる一哉の方にもジェスチャーを送っている。一哉も、ニコニコして親指を立てて返事をしている。

 私はことがつかめず、梨緒に訊いてみた。

「何それ? 何かのサイン?」

「エッ、アッ、そう……ホラッ、よくやるでしょう?〝飲んでる?〟って……ネッ?」

「ウ、ウーン?……飲んでる? ってサインねー?」

 ちょっと懐疑的かいぎてきだが、新城の方に目を戻すと、私の視線に気づきニコニコして私にもグッドのサインをしてきた。私は新城にグラスを向け、空いてる左手の親指を立てて、仕方なく返事を返した。

 それから、私はウヰスキーを一杯飲む間に、梨緒は何か取りつくろっているのか、取り留めのない話ばかりをしていたが、途中、私から離れカウンターのすみに先程のバーテンダーを呼び、何やら耳打ちしている様子だった。その後、私の側に再び戻ってきた時に、彼女の腕のスマホに文字メールが届き、彼女はメールを確認してふうと一息を微笑みと共にき、私の方に向き直った。

「仲村さん、此処のお店のオーナーはね、一哉の小学校からの友達で、今日は特別貸切にしてもらっているんですよ。のお店には二階もあって、そこのテラスから観る景色がとてもいい、って評判なの……っで、此処って騒がしいから、そこへ行って眺めのいい景色を観ながら飲み直しませんか?」

「エッ、梨緒ちゃん、私のようなこんなおじいさんと?……旦那さんも来ているんだろ? 折角だから旦那さんと行って来たらいいのに」

 だが彼女は、私の返事に気分を害したのか、私に目を吊り上げて見せ、それからバーテンダーに指で合図を送った。

「イイエ、今日は仲村さんと飲みたいんです。だから、これを持って先に行ってもらっていいですか? 私は、少しお化粧を直してから行きますから、ネッ? 宜しくお願いします」

 と言って、バーテンダーからシャンパンクーラーに入ったシャンパンと、氷の入ったグラスを二個受け取り、私に押しつけてきた。私は訳も分からなかったが、とりあえずそれを受け取った。すると、彼女は席を立ち、私に向き直り慇懃いんぎんな態度で深く頭を下げた。

「仲村さん、宜しくお願いします」

 と言って、私を見つめなおし立っている。

 彼女と飲むのは嫌ではなかったが、私は仕方なくうなずき渋々立ち上がり二階へと向かう階段の場所を聞き歩き出すと、彼女はまた両の手を重ね深くお辞儀をし私を見送った。

 二階へ行くと、壁のネオン管の電飾が幾つか点いていて暗くはなかったが、テラス側から室内に入る月の光のほうが明るく、おかげでこのフロアーに点在するテーブルや椅子につまずかないで間を通って行けた。

 テラスへ出ると、広いスペースで、そこには椅子二脚と丸いテーブルの一組だけが手摺てすりから少し離れた所にぽつんとあった。そこへ、シャンパンクーラーとグラスを置いた時、テラスの奥から先に誰か来ていたのか「アラッ……」っと言う声が聞こえ、振り向いて見ると、そこに月の光で蒼白あおじろくモノトーンの景色の中に、同じく蒼白く照らし出された志緒梨が、小さなハンドバッグを両の手で持って立っていた。

「仲村さん、どうしてここへ?」

 私は、なぜか妙にバツが悪かった。

「アー、いえね、梨緒ちゃんがここで飲もうって言うから」

「梨緒が、ですか?」

「エエ、そうです」

 ふたりはその後、話がお互い続かず気まずく、私は手摺に両手を乗せ景色を眺めた。

 切り立った丘の端、高台の上に建つ、このレストランの下界には、遠くの街の灯りが淡くともり、まるでイルミネーションのような景色が目に映る。その奥には、月光にきらめく海が広がっていた。

「とてもきれいですね」

 私がそう呟くと、ハンドバッグをテーブルに置き、志緒梨も私の右側の手摺に近ずいてきて、私と同じに手摺に手をおいて「ええ……」と私の傍で返事をした。

 月の光に映しだされた志緒梨の横顔は、息を吹きかければ煙となって消えそうなほどに儚く、綺麗きれいだった。だが私の目に映る、彼女のその美しさは余計なほどに嫌味に感じた。彼女の美しさはどうせ私のものではなく、彼女の心の中にある人のものだ、と思うと胸を締めつけられる思いがしていたたまれない。しかし、遠くを見る彼女の表情にも何処か物憂げで痛々しく、不思議となにかを堪えているようにも見える。

 私は、ふたりの間に漂う沈黙に耐え切れずに口を割った。

「梨緒ちゃん遅いですね? 呼びに行って来ましょうか?」

 彼女は、遠くを見ていた意識が不意に戻されたような顔になった。

「アッ、そうですね。わたし、私が梨緒に電話をしてみます」

 彼女は、イヤフォンを片耳につけ左腕のスマホをタップしながら、娘の梨緒に電話をかけた。

「アッ、梨緒、どうしたの? こんなに仲村さんを待たせて……エッ、そんな失礼な……エッ、そんな……」

 彼女は困惑顔で電話を切り、娘からの伝言を伝えた。

「仲村さん、ごめんなさい。ウチの梨緒が、下でビンゴ大会が始まって来れそうもないから〝ウチの母をよろしく〟って言っています。仲村さん、本当にごめんなさい」

 私は不自然な笑みを作り許したが、心はまだいた堪れない思いのままだった。丸く輝く月は、そら高く私たちを照らしている。私の目に映るのは、すべての景色が蒼白く、まるで凍りつき無表情で冷たく孤独感を抱かせ、全ての音さえも私の耳には届かない。その時、テーブルの上、シャンパングラスの中の氷が崩れ、カラーンと音を発てた。その残音、響きは無数の鋭いやいばとなり、凍りついた世界の中にいた私を切り刻む……まずい、とてもまずい。何か話をしなければ……しかし、先に口を開いたのは志緒梨だった。

「仲村さん、私の話を聞いて貰えませんか?」

「アッ、はい……どうぞ、話されて下さい」

 私は、自分自身に肩すかしを受けながら返事をした。

「あ、ありがとうございます。此処に来る前に、仲村さんから頂いたメールのことなんですが……メールの中にあった意中の人のことを、仲村さんはその方のことをただ好きという程度なんですか? それとも心のそこから愛しているとか? それと……それと、その方は仲村さんの気持ちを知っているのでしょうか?」

 彼女は感情を抑え、言葉を選びながら低くゆっくりと喋ってはいるが、声が微かに震えていた。

 私に、今更いまさらどうしてそのようなことを聞いてくるのだろう? そんなにも、彼女は深刻そうに……でも、胸が千切れそうな程に痛く、この場にいるのが辛い私のことを知ってのことなのだろうか? それなら、彼女のしていることはむごい、むごすぎる。心は張り裂けそうだったが、私も感情を抑え言葉を吐いた……しかし、頭の中は真っ白だ。

「はい、私はその人のことを愛しています。心から……でも、その人は私の気持ちをまったく気づいていません」

 私は、考えるのを止めた。心にある人に対する想いを答えとして告げることにした。勿論もちろん、私の心にあるのは志緒梨だけだ。

「そうですか? 仲村さんの今のお気持ち、私にもよくわかります。私も、仲村さんのように長い間とても身近にいる人に想いを寄せ、その人に気づかれないようにと、ずっと今まで来たのですから」

 エッ! 何かおかしい? 確か、彼女の意中の人っていうのは岐阜にいるはずで、身近にはいるはずがない。まさか、最近岐阜へ行ってしまったのだろうか? 最近まで近くにいた奴って誰なんだ? 思い当たるといえば、思い当たる奴は何人かいる。彼女に仕事としょうし馴れなれしくやって来る奴らが……いいや、違う。私の頭にあった奴らは、今日みんな来ていたし……いったい誰なんだ?。

「仲村さん、辛いですよね。それと、とても苦しい……こんな歳になって言うようなことでもないのでしょうが、その人が傍にいたら、今すぐこの想いを伝えたくて息苦しくなり、離れていると逢いたい気持ちに押し潰されそうになる。仲村さん、貴方もそういう感じですか?」

 彼女は切なそうな目で私をみたが、また遠くの景色へ言葉を繋いだ。

「どうして、仲村さんはそのお相手の方に、ご自身のそのお気持ちを伝えないのですか? もしかして、仲村さんの中にいる意中のそのお方は誰か他のひとの奥様ということですか? だから、その人には伝えてはいけない、そうなんですか?」

「いいえ、私の心に想うひとは人妻なんかじゃあないです。しかし貴女もその人への想いは、私と同じくらいとても深いのですね……うらやましいです。でも、近々貴女はその人に逢いに岐阜へ行かれるんですよね? なのにどうして、そんな想いでいるのですか?」

「エッ、岐阜へ?……やはり一哉が言うように、仲村さんは何か勘違いをされているのですか?」

「エッ、勘違い?……ですか? 私が? 何を、私が勘違いしてると言うんですか?」

「はい、岐阜のことです。私が会いに行く人っていうのは、仲村さんもよくご存知ですよね? 中村さん。貴方と同じ苗字の岐阜バイオで、お仕事をされていた中村さんです。覚えていますよね? 貴方も何度か一緒に食事とか行きましたから」

「エッ、岐阜バイオの中村さん、ってあの女性の中村さんですか?」

「はい、その中村さんです。一哉が、新城さんから〝仲村さんは、お母さんが男の人に逢うために岐阜に行くんだと勝手に思い込んでいるみたいだけど、お母さんはそれでいいの?〟って言うものですから……やっぱり、その様子ですね」

 私は、何も言えないまま遠くに見える月に、きらきらと輝きを還す海をただ見つめていた。私の中で今まで暴れていた身を焦がすほどに熱い嵐、その風が一瞬にふっと消え去り、今は身を凍らせるような冷たい風が吹き始めた。まるで私は、ドン・キホーテだ。彼女が逢いたい、て言っていた人を、私は勝手な妄想のままに思い込み、私は嫉妬の嵐の中に勝手に身を送りこんだ。だが、彼女の逢いたがっていた人は女性で、それを知らないで勝手な思い込みで創っていた幻の敵だったんだ。しかし、今はそれも消え去った。それと同時に、私の気力までもすべて一緒に持ち去り、今は腑抜ふぬけのような体で立ちすくむばかりだ。

「仲村さん……仲村さん……」

「エッ、アッ、はい、会長の意中の人が、岐阜バイオの中村さん……女性だったんですね?」

 ンッ、何を? なにを私は言ってるんだ。

「エーッ、嫌だ仲村さん……私、そんな趣味なんてありません」

「アッ、はい、ごめんなさい。そ、そうですよね。本当にすみません……すみませんでした」

「ンー、もう仲村さん、それに今日からはお互い肩書きはもうなしだ、て約束したじゃあないですか、約束ですからもう言わないでくださいね」

「はい、分かりました。これからは気をつけます」

「だから、もう……仲村さん、丁寧な謙譲語もです」

「アッ、はい、分かりました……アッ、ごめんなさい」

「アッ、ああー……もう、本当に仲村さん不器用なんだから」

 やっと彼女が少し笑った。そして、彼女は腕のスマホに表示された時計を見て言った。

「ねえ仲村さん、私にもう少しだけ時間を頂けませんか? 今は十一時五十七分だから……特別な今日という日が終わるまで、その三分間を私に下さい」

「アッ、は、はい」

「今から三分間、私はまだ仲村さんの上司のままでいいかしら?……いい?」

「エッ、ええ、はい」

「では、いいですね? 仲村さん、貴方にこれから私から……仲村佳孝、あなたへ最後の辞令を出します」

「はい」

「今、仲村さんの心の中にある人の名前を教えて下さい。わたしに……教えて……下さい」

「……ッン!?」

 私は固まってしまった。完全に凍りついてしまった。先程まで下のフロアーでムーンライト・セレナーデが聴こえていたのに、今は何も耳には入らない。またフリーズしてしまった。

 どれだけの時が流れたのだろうか、十分? 二十分? 嫌、今の私には時間という概念がいねんがまったくなくなった。今この時が一時間にも、更に言えば永遠にさえ感じられた。しかし、刹那、私の体は突然大きな物理的衝撃を受けた……私がフリーズ中のその最中さなか、私の胸に跳びこんで来るものがあった。

「嫌、やめて、仲村さんもういいの……もう言わないで、ごめんなさい。私が間違っていました。お願いですからもう言わないで……聞きたくない。もう、仲村さんは、何も言わないでいい……もう、何も聞きたくない」

 志緒梨が、私の胸に顔を埋め、両手で耳を塞ぎ震えていた。

『ボーン、ボーン……』

 此の階のフロアーの奥で柱時計が鳴り出したが、その時も、私には時間という存在は未だなかった。そして、やがてその柱時計の音は鳴り止んだ。

「私の、心の中にある人は……今、私の腕の中にいます……」

 今まで震えていた彼女の震えが止まった。私の胸に頬を預けたまま呟く。

「エッ! いま……今、なんて言ったの?」

 私は、彼女の両肩に手を乗せ、彼女の目が見えるほどに軽く押し離し見つめ、改めて告げた。

「今までずっと、私が想い続けていたひとは貴女です。今、目の前にいる志緒梨さん、貴女です」

「嫌え、嘘です! そんなの嘘です!……いいえ、まさかそんなことないです」

「いいえ、私が今までずっと想い続けてきた人は貴女です……聴こえましたか? 十二時を告げる柱時計の音が……もう、十二時を過ぎてしまいました。今、私が貴女に伝えている言葉は、貴女の命令に答えているのではなく、私の心の中にある私の言葉を貴女に伝えているんです。志緒梨さん、貴女を、私はずっと愛していました」

 私は、もうやけっぱちだっだ。今日で、もう志緒梨に会えなくなるという思いと、それと彼女が私の胸に跳び込んで来て、自分自身を抑え切れなくなり伝えた言葉であった。

「仲村さん、わたしも……私もです。私も、仲村さんのことをずっと愛していました」

 彼女、志緒梨の目に涙が溢れていた。

 私の目にも涙があふれこらえきれず、彼女を抱き締めた。彼女のことを想い続けた二十年分の想いをこめて……。

『パーン、パーン』

ンッ……!? 部屋の中、テラスとの出入り口の陰に、いつから隠れていたのか梨緒や一哉に新城たちが手に手にパーティー用のクラッカーを持ち、祝福の言葉と野次やじを口々にしていた。何故かみんな目を潤ませていた。

 そんな幸せなふたりを、月は天高く眩しく照らし出していた。


 ……あの頃が懐かしい

  ……志緒梨、今なにをしているの?

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