第4話  サンキュウ・トゥ・サムシング・エルス


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 今、私の身に起きていることは一体どういうことなのだろう。

 窓の外の月は、あの日と同じようにまるく、満月で、病室の中までほのかに明るく照らしている。

 私は、今の自分の現状と過去(未来?)の志緒梨のことを考えているうちに点滴に入っている薬が効いてきたのか、また意識が朦朧としてきた。しかし、私は目を閉じるのがとても怖かった。それは、今でさえこの身に起きているこの状況を、私はまったく把握してもいないといことだ。そのことで、意識がなくなりまた違う時代に行ってしまうのかもしれない。嫌々、それより目を閉じると、もう二度と覚めないのではという不安でいっぱいだ。私は、目を大きく開き天井に目を向け、二度と閉じないと歯をくいしばり続けながら足掻あがき続けた。

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 ……ンッ? なにか気配が、窓の方へ目をやった私の口から思わず〝へッ〟と気の抜けた声と共に上半身が起き上がる。なんと、朝だった。そこへ、窓のカーテンを閉めに昨夜の看護婦さんが来た。その看護婦さんを見て〝ホッ〟とした。私はまだこの世界にいるんだ。

「看護婦さん、おはようございます。今日もいい天気ですね」

「はい、おはようございます。よく眠れたようね。しかし、もうお昼も過ぎちゃって、今は二時前ですよ。西日が入らないように、私がこうして閉めに来たんですからね」

 私は、昨夜の無意味な努力を誰かに見られた訳ではないが、何か無性に恥ずかし思いとなり、私は下をうつむくしかなかった。

「アッ、そうだ仲村さん、貴方のお見舞いに会社の人たちが朝から何人か別々に来てたわよ。貴方がよく寝てたから、皆さん書置きを書いて、そこのボックスのトレイの上に置いて帰ったみたいよ。アッ、それと、お見舞いの品は冷蔵庫に入れておきましたからね。アッ、そうそう、私ね、勝手に仲村さんって変な人って思っていたけど、無農薬野菜とか健康食品とかで、最近いろんなとこにお店とか出してる、あのアース・フーズっていう会社の課長さんだってね。驚いたわ。貴方、見掛けによらず偉いのね。私も、貴方のお店に野菜とか色々とよく買いに行くのよ」

「アッ、どうも、毎度ありがとうございます」

「今度、行った時は安くして欲しいから、よろしくね。それよりも、貴方の奥さんどうしたの。入院した一昨日と昨日は来ていたけど、十五分もしないで帰っちゃうけど……それに、子供たちも連れてこないなんて、やっぱし何かあるんでしょう。なんかこう、訳ありってことなんでしょう。よく分かるわ。よくあることよね。だから、別に聞きはしないからね……別居でしょう。大変だわね。アラッ!」

 病室の入口に誰か来たのか、看護婦さんは声を掛けた。

「仲村さんのお見舞い?」

「はい、入ってもいいですか?」

 私は、全身に電気のようなものが走った。

カーテンの向こうから聞こえた声は、聞き間違うことのない若い頃の志緒梨の声だ。ど、どうすればいいのか? あれ程一番に逢いたかった志緒梨なのに……でも、今カーテンの向こうにいる彼女は未だ私の気持ちは知らない頃の志緒梨だ。ああ、私はどういう風な顔で彼女と会えばいいのだろう。

「こんにちは、仲村さん起きてる?」

「アッ、はい、起きて、いま、す、よ」

 志緒梨が、カーテンから顔を出したが、私は、若い志緒梨の顔に釘付けとなり、情けないことに返事がぎこちない。

「アラー、残念。午前中にお見舞いに行ったみんなが、仲村さんのバカみたいに大口を開け脳天気に高いびきをかいていたのを、見たって盛り上がっていたから、私も見られるのかな、って思って来たのに……はずれちゃったなっ」

 昨夜はなかったが、誰かがお見舞いに来た時に置いたのだろう、パイプ椅子を彼女は引き寄せてしばらく立っていた。突然に現れた志緒梨は、余りにも若々しくきれいだった。そんな彼女を唯々呆然ただただぼうぜんと私は見ていた。それを見て看護婦さんが、あきれ顔で言葉をはさんだ。

「アラアラ、なんだろうねこの人は、まるで生き別れた恋しい人が突然目の前に現われたみたいな顔をして〝どうぞ〟とか言って座らせてあげたらどうなの? こんな、きれいな人がお見舞いに来てくれているんだから、ねえもう。それじゃあ、仲村さんまた五時になったらお夕食持ってきますからね」

 と言って、看護婦さんは出て行った。

 それを、クスクス笑いながら聞いていた志緒梨は、私に向き直り。

「座ってもいいですか?」

 と訊きながら、私の顔をのぞきこみ笑みを見せた……とてもかわいい、きれいだ。私は返事にうなずくのがやっとだったが、彼女はもう一度微笑みを見せ椅子に腰掛けた。

「仲村さん、体調はどうですか? 会社の方は心配しないで大丈夫ですから。仲村さんがまとめてくれた、伊平屋村いへやそんの商工会の件は新城部長が先方に連絡を取ってくれて、契約は前に仲村さんがまとめてくれていたので、今日から商品の送り出しが始まっています。それと、商工会の金城きんじょうさんという方が〝仲村さんの体調がよくなったら、商品についてもう少し説明が欲しいので、是非ご挨拶がてら伊平屋のほうに来て頂けないか〟と言っていたようですよ」

 私は、一瞬にして思い出された。伊平屋村というのは、沖縄本島の北部の今帰仁町なきじんちょう運天港うんてんこうから一時間足らずの船で行くことの出来る離島だ……そこの、商工会との契約は、私もよく覚えている。どうやら、この頃の時代に私は戻って来たようだ。

「ああ、分かった。よかった。それじゃあ、今のところ上手く行っているんだね?……エッ? アッ、すみません。馴れなれしく言ってしまいました。すみませんでした」

 そうなのだ。この頃の、彼女は九店舗あるショップの総括本部長で、私の直属ではないにしろ上司である。

「アッ仲村さん、いいんです。いいんです。同じ歳ですから、それに……」

「エッ、それに、ってなんですか?」

「エッ、いえ何でもないです」

 それから彼女は、私の入院中会社での出来事をたくさん話してくれた。それは私には、とても懐かしい光景だった。私の記憶では、これから数ヵ月後に彼女は子宮筋腫しきゅうきんしゅで入院をし、私は彼女の入院期間中に仕事の合間に時間さえあれば、このように彼女と色々と話をしていた。しかし、あの頃とお互い立場は逆で、今は私がベットの中にいる。

 彼女は、未だ入院もしていないし、抗癌治療もしていない。そんな、健康そうに楽しそうに笑いながら話をしている志緒梨が、私にとっては、とても眩しいほどにきれいだった。

「アラッ、仲村さんどうしたの?。私の話は退屈たいくつ? 面白くない?……そんな顔して」

「アッ、いえ、貴女が若く、きれいで、なにより元気だから……ッン? アッ、すみません」

「ンッ、もうまた仲村さん意味不明なことを、突拍子もなく言い出すんだから……最近からだけど、仲村さんとメールをし始めて、少しは仲村さんのことわかるかなって思っていたけど、やっぱり私にとって仲村さんは宇宙人、理解不能って感じみたい」

「エッ、メールって携帯電話での? 私たち、ってもうメールのやり取りを?」

「エッ? アー、ひどい。していない、て言うの? もしかして、私とメールを本当はしたくなかった、てことなの? 私が、メールの仕方を分からない、って言ったら仲村さんが〝僕が教えてあげるから、メル友になる?〟って言うから、私も喜んでメールのやり取りをやっていたのに……この二ヶ月の間、仲村さんは嫌々私とメールのやり取りをしていたんだ」

 フーン、そうだったんだ。彼女とは、もうメールのやり取りをしていたんだ。何だかうれしい。

「イイエ、そんなことはないですよ。私も、貴女とメールが出来て、とてもうれしいです」

「ほんと? 本当に私とメールをしてもいいの? でも、何だか今日の仲村さんいつもより変……なにか、おかしい。自分のことをいつもは〝僕〟って言っていたのに……今日の、仲村さんは〝私、わたし〟って言っていて、何だかおじさんっぽい空気を出してるわ。もしかして、それ病気のせい?」

「エッ、大丈夫ですよ。ぼく……ホラ、ぼく、僕は大丈夫ですから」

「ウーン、何かやっぱりどこかおかしい。いつもは、テーゲー(だいたい)が口癖でアバウトな仲村さんが、今日は私くしにご丁寧なお言葉をお使いになられているようですわ。仲村さん、本当に大丈夫?」

「エッ? ええ、大丈夫だよ。ホラ、だいじょうぶサー、って、ネッ」

「本当に、大丈夫だよね。救急車で、此処に運ばれる途中、何所かで頭打ったとかしてないよね? アッ、そうだ。私ね、今日、自分の人生にとって、とても大切なことを、此処に来る前にしてきたんだよ」

「ウン、よかったね。おめでとう」

 私、嫌、これからは頭の中で、ものごとを思い考え、浮かべたりする時も〝私〟ではなく〝僕〟と言うことにしよう。さて、なぜ僕が思わず〝おめでとう〟という言葉が出たのかというと、僕のかすかな未来の記憶だ。

 確か、彼女はこの頃、昨年に離婚届けを出していた筈で、僕とメールをし始めたこの頃に名前を旧姓に戻していたはずだから、思わず出てしまった言葉だった。

「ウン、ありがとう……エッ、何で私にとって嬉しいことって分かったの?」

「だって、あの、ホラ、最近社長は体調もよくないよね? 早く誰かに会社のことを任せたいはずなのに、長男の隆志たかしではまだ頼りにならない。それと次女の婿の新城部長には会社を任せる人じゃあないと思ったから、自然と長女の小那覇おなはさんにって、僕の勝手な結論が出たんだけど……ついでに、印鑑も作るように言われたんじゃあない? もし、そういうことなら改めておめでとう〝仲間志緒梨〟さん」

「あ、ありがとう……その、その通りよ。名前を、小那覇から旧姓の仲間に戻したの。此処に来る前に、役所に行って来たの……仲村さん、すごい推理ね」

 僕はただ記憶をたどっただけ、それはなにも推理でも何でもなかった。それから三十分程して、彼女は会社へ戻って行った。

 私、いや、僕はひとりになり、見るでもなくただぼんやりとベットから天井に目をやっていた。なぜ、僕は改めて時間を戻してまで此処に来たのだろうか? この世界には志緒梨がいたことが、今はとても嬉しい。もし、この世界に彼女が存在していないということならば、僕は年月というか、これから過ごすはずの残された二十年以上という時を僕は果たして過ごしていけるのだろうか? それはとても自信というものがまったくない。

前の世界でさえ、自分の想いを告げることは出来ず、もどかしく生きてはいたが、志緒梨という存在があったからこそ生きてこれたと思う。この世に神という存在があるのだとしたならば、神様に感謝のおもいで一杯だ。僕は、小さい頃から目には見えない、何かの存在を信じて来た。その何者か〝サムシング・エルス〟のはからいに、幾ら感謝をしても足りない程に言葉は言い尽くせない。

 でも、何だろう? 僕に、もう一度この時代にやり直させてくれる理由というのは……何か途轍とてつもないことをさせようとしているのか、それとも、僕が死ぬ間際に〝もっと志緒梨の傍にいたい〟という強い念、僕のマブイというか、意識がなせたことなのか? 幾ら考えても答えは出ず、時間だけ過ぎて行った。

 陽が水平線に傾き、カーテン越しの日差しが弱く感じられ、布を茜色に染める頃に、この時代、まだ別れていない妻が来た。久々に、彼女との対面は頭が真っ白になる程に緊張をするが、別れて後に数回程度しか会っていなかったせいか、僕の記憶の中での彼女と、今、目の前にいる彼女は不思議に余り変りはない。彼女からくる気配は、僕が昔にいたたまれぬ程に味わった〝もうお互い、どうせ修復は不可能だから……〟という感情からか、僕に対して面倒くさい、という顔を押し殺しての無表情な感じ、そのままだ。

 彼女は病室に入り椅子に腰掛け、僕を見るわけでもなく感情のない声で問いかけてきた。

「どうお、体調は?」

「ウ、ウン、大丈夫だよ」

「着替えの下着とかは、昨日来た時にベッド脇のボックスに入れて置いたから」

「ウ、ウン、ありがとう」

「何か欲しいものはある?」

「アッ、ありがとう。お見舞いの品があるから、今は足りてるよ」

「いつ退院するの?」

「まだ聞いてはいないけど、明後日あさってには退院出来ると思う。会社の方も、心配しないで充分体調が整って出てきてもいい、て言っているから……」

「フーン、アッそう……」

 それから無言のまま、息苦しい時が漂い続けた。

 僕には、どっちらかといえば、とても子供たちに早く会いたかった。離婚をした後、子供たちとは年に数回、用がある時にしか会えなかった。それに、大人になる手前のまだ幼さの残る顔がもう一度見たかった。

「アノー、真樹まさき麻美まみはどうしてる?」

「大丈夫よ。あの子たちには、お父さんは何ともないから、て言っておいたから」

 それから、十五分程が経ち、看護婦さんが入って来たので、彼女は席を立った。

「それじゃあ、また明日来るわね」

「いいよ、別に今のところ不自由はしていないから、もし必要なものがあれば連絡するから」

 彼女はうなずき、看護婦さんに会釈えしゃくをして帰って行った。

 緊張していた全身の筋肉がえ重力を一気に感じ、肩を落としてうつむいていると、シャーと音を立て窓のカーテンを看護婦さんが開いた。僕は、何か嫌な予感のような悪寒が全身に走り、ブルッと身震いをした。悪感の震源地に恐るおそる視線を向けると、窓際に蛇が獲物を見つけたかのような目でニヤリとしているあの看護婦さんがいた。

「仲村さん、やっぱりそうなのね? いつからなの? いえね、聞く気はなかったのよ。たまたま聞いちゃったんだけどね。二人の話を聞いていると、仲村さん、貴方は暴力とかふるうような人じゃあないようだから、こうなったのはやっぱりどちらかの浮気? 奥さんの方? それとも、仲村さんあんたの方なの?」

 ッン、話しを聞いていた? この看護婦さんは、いつから病室の入口付近にいたんだろう。

「どうしたの? 大丈夫よ。私は、口が堅いんだから誰にも言わないし、それにね、こう見えても私はバツイチだから、その点人生の先輩なのよ。なんだったら、色々とアドバイスとか、なんかしてあげられるから……ッネ?」

 返事に戸惑い、目が行き場を探し落ち着かない僕に、看護婦さんはにじり寄ってきた。宙を彷徨う僕の目の焦点を、自分に集中させるようにと顔をさらに近ずけてきた。

「仲村さん、もしかして、あの方? 昼間、お見舞いに来ていた、あのホラ、きれいな人……何だっけ、会社のかた……ああ、もうなんでもいいわ。だって、二人はマルトモとかって言っていたわね? それに、彼女は貴方の為に離婚をし、如何いかにも〝今の自分は自由よ〟って感じにね。だから〝仲村さん、貴方の為に、役所に行って来たのよ〟って話していたんじゃない? ネエ、どうなの?」

 ッン、マルトモ? ッン、アッ! アアー、メル友の間違いか……エッ、ってことは、この看護婦さんは昼間の話も聞いていたんだ。余計に、答えずらい。

 思わず視線を右すみに移すと、看護婦さんは両手で僕の顔を無理やり自分の顔に向き直させた。

「仲村さん、早くホラ、私はこう見えても忙しいのよ。早く言わないと……」

 その時、入口からカチャカチャと音を発て、救いの女神が来てくれた。

「仲村さん、お夕食ですよ……アッ! 大城おおしろさん、ここにいたんですか? 婦長が、ずっと大城さんを捜していましたよ」

 若い看護婦さんだった。

 助かった。それにしても、大城と名告なのるこの看護婦さん、いったいいつからいたんだろう。この病室に……病室? まさか、婦長さんたちが幾ら捜しても、見つけられなかったということは、もしやこのカーテンの向こうで聞き耳を立てていた、ってことなのか?。

 看護婦の大城は、楽しみを邪魔され一瞬ムッとした表情を見せたが、多分婦長からの呼び出された訳を思い出したのか〝アッ〟と言葉を洩らし、一歩後ずさりしたのち、急に足早で出て行った。

「すみませんね。大城さん、またご迷惑かけませんでした? アッ、私くし喜屋武きゃんといいます。宜しくお願い致します」

 若いが、大城という看護婦よりしっかりとして見え、何か救われた気持ちになった。

 食事も終え、イヤホンを耳につけテレビのスイッチを入れると、お笑いのバラエティー番組をしていた。出ている芸人さんたちの殆んどが、僕の記憶の中では亡くなっていたり、スキャンダルまみれにブラウン管から姿を消した人たちだった。

 おかげで、出ている人たち一人ひとりが今後どうなるか、自分の記憶をたどりながら見ていて、妙に意味深で笑えた。

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