第17話  時の石

          



 朝、僕は会社に向かう愛車のリーザの中にいた。カーステレオからはヘヤーカット・100(ワンハンドレット)のラヴ・プラス・ワンという曲が軽快なリズムを刻み流れている。志緒梨の家に行くようになって半年が過ぎていた。

 季節はもう初夏へと向かおうとしていて、僕がこの時代に戻って、一年は過ぎていた。僕と志緒梨の間は変らないまま、一週間に一度は不定期に彼女の家に行き、時には泊まったりもするようになっていた。朝の僕たちの挨拶は事務所の裏の倉庫で、他の社員達の目を盗み手を握り合い小鳥のようにくちばしでの口を軽く重ねるキスを交わし、たまに抱き合ったりもした。勿論、僕たちは誰にもふたりの仲がばれないように、と社員のいる間の社内では他人のような接し方をしていたが、こんな幸せが続くなんて、僕には怖いくらいだ。

 そんな中、僕は心の中、彼だけには僕と志緒梨のことを伝えておこうと思っていた。その彼とは、志緒梨の義理の弟で、僕よりは年下ではあるが上司の新城だ。彼は、今まで仕事やプライベートにおいても、色々と僕を信じてやってきた本当の仲間だ。そんな彼にまでも僕はあざむいていたくない、という思いがあったからだ。今夜、彼に全てを打明けようと思っていた。そんな彼ならきっと僕たちのことを理解してもらえると思っていた。

 会社に着き、僕は先に出社していた新城に今夜少し話したいことがあって時間を貰えないか、と訊くと彼はこころよ請合うけあってくれた。

 社内に戻ると志緒梨が、僕の目を確認して倉庫に消えて行くのが見えた。僕は周に目を配りなから彼女の後を追い、彼女の手を握り軽くおはようの接吻をした。彼女に今夜、新城に僕たちのことを話すことを伝えようとしたが、朝礼が始まると壁の向こうで声があった。彼女には、それを伝えられずに僕は朝礼の後いつもの営業へと出掛けた。

 そして夕方となり、新城から僕の携帯に電話が入り、今夜八時に僕の家と彼の家の中間にある居酒屋で待ち合わせをし、そこで僕は彼に志緒梨とのことを話した。

 すると彼は、その話を聞いていて次第に顔が硬い表情になっていくのに、僕は戸惑いを覚えた。僕は、彼ならこの話を聞いて喜んでくれるものだと思っていただけに、僕の心の中では波紋がひろがり始めていた。これも、これから始まるよくないことのきざしではないか、と僕の中の小さな波は絶え間なく揺らぎ続け、これから大きな波がやってくる、と示唆しさしている思いに駆られ落ち着かない。しかし、何故だろう。此処に来る前の世界では、彼は僕と志緒梨が付き合うことを応援をしていた。嫌、応援どころか一策講じ仕組んでもくれた筈なのに……それと、僕の未来の記憶とは異なることがもうひとつあった。

 それは、今朝、いつも行っていた弁当屋さんが店を閉めていて、店戸に貼り紙があって〝身内の不幸により、お店を休ませて貰います〟とあった。僕にはやり過ごすことが出来ずに、向かいのスーパーに行き、弁当屋さんのことを尋ねてみると、昨夜、弁当屋さんのご主人が酒に酔って暗い道路を渡っていて、走ってきたダンプにねられ、即死だったと教えられた。

 弁当屋の主人の死は偶然の不幸だとは思うが、僕の心を不安に掻きたてた。そのようなこともあり、居酒屋の隣の椅子に座る新城の僕の予想に反した表情は、先に述べた通りで、僕はこれから霧の中先の見えないところへと向かって行ってしまうのでは、という恐怖を感じえずにはいられないのだが、まだ僕ひとりというのならまだいい。しかし、もし志緒梨も一緒ということなら、今の僕は彼女を護ってゆけるのか、という思いに途方に暮れる。悲壮の中、もう彼には伝えることもなくただ酒を飲み続けた。

 それからの新城は、僕の話を聞いてはいたが、何も返答もなく一時間だけが過ぎ、僕たちは酔うこともなく別れた。帰る途中コンビニで缶ビールを買い家へと戻り、いつものようにベランダでビールを飲んだのが、胸の中の思いが喉元につかえ幾ら飲んでも酔えず、あれこれ頭に浮かべてみても答えは出ず、心労のまま床に就いて寝た。


 僕は六月の終わりの土曜日に、備瀬の海沿いの駐車場にE・Vを止め、車内で志緒梨に電話で昨夜話した通りに備瀬の玉城さんと酒を飲み、その日は此処で泊まってくると伝えた。今日は、彼女も実家の方に呼ばれていて、そこで食事会をするらしく、話はつかれずにお互い〝いってらしゃい〟と伝え電話を切った。

 玉城さんには、二日前の昼間に久しぶりに此処に来て一緒に飲みながら話をしないかと呼ばれていた。僕の営業の北部周りの金曜の日を今日土曜日に換え、先程まで営業をし終えて着いたところだった。

 僕が来たことに、玉城さんはいつもの場所、木の下で板を組んだ長い椅子に腰掛け僕に手を振り迎えてくれた。

「ナカちゃん、どうしたんだ? 元気がないな? この前の電話だって、ありゃ営業マンの声じゃあなかったぞ」

 それはそうだろう。僕にはとて信じたくないことが起きてしまっていた。

 先週の水曜日の夜に、具志川の山城さんが農協の会合に参加をし、二次会の居酒屋で飲み、その帰りに車の轢き逃げに遭い、亡くなった。その後、轢き逃げの犯人は判ったのだが、逮捕にはならなかった。それは、山城さんを轢いた犯人は同じ居酒屋で一緒に飲んでいた農協職員のあの新垣で、彼は自分が犯した罪に堪え切れなかったのだろう、新垣は事故現場をへこんだボンネットの車で逃げて家に戻り、裏にある、親が管理しているビニールハウスの中で首を吊ったのだが、夜をまたぎ未だくらい明け方に、警官によって発見されたそうだ。

 僕にとって、もう一つの家族だと思っていただけに、それに僕は山城さんには、もう死の影などは付いていないと思っていただけに、山城さんの死は僕から志緒梨の傍で生きて行いける、という希望を奪うのに十分だった。

だが、それでもひとつだが救いとなったことがある。僕が通夜へ行くと、山城さんの奥さんはずっと泣き崩れていて話は余り出来ずに、僕も殆んど泣くのを堪えるのに精一杯だった。しかし、山城さんは生前に生命保険の掛け金を増額していたことで、残された家族はこれ以上の不幸を背負込しょいこむことをまぬがれた。

 そのことを、僕は玉城さんに話をしたのだが、玉城さんは山城さんのことを知らないはずなのに涙を手ぬぐいで拭ぐいながら聞いていた。

「ナカちゃん、そういうことか。そうだったのか。いやー、こんな歳になると涙もろくなってな。ナカちゃんも辛いだろう。今日はその山城さんの為に飲もうじゃあないか。なあ、ナカちゃん顔を上げて。ホラ」

 僕も、いつしか涙を流していたようだ。僕と玉城さんは余り言葉を交わさず酒を飲んでいた。そこへ、仕事終わりのコウさんたちが来た。頭領は今夜村の会合に出ていて、此処には来ないとのことだ。そして、今日は土曜日ということもあり、若い連中はお疲れの乾杯を交わしただけでみんな帰ってしまった。残ったのはコウさんだけとなり、玉城さんは彼にも山城さんのことを話して聞かせた。

「そうなんだ。ナカさん、大変だったね? 俺も、人事じゃあないなー。今度、生命保険入んなくちゃあいけねえな」

「そうだ。浩一、お前も家庭を持ったんだから、いつまでも自分独りのことばかり考えていてはいかんぞ。だが、まあ、浩一は心配ないか」

「玉城のオジー、コウさんは心配ないってどういうこと?」

「ンー、コイツは若い頃は誰も手をつけられんほどの向こう見ずな暴れん坊だったんだが、今は世帯を持って、この通りお悧口りこうになって、だから村の若い奴等もコイツを慕ってついて来てるんだろう」

「それじゃあ、ナカさん、その人の為に改めて乾杯しよう。冥福を祈ってな」

 三人は乾杯をしたが、やはり三人はそれぞれの思いがあったのか、コウさんは家族のことに、玉城さんは先に亡くなったオバーを想いおこしているのだろう。っと、そこへコウさんの娘がいつもの如く迎えに来た。コウさんはその子を手招きし抱き締めた。

「父ちゃん、もう酔っているの?」

「いいや、まだ酔ってなんかないよ。チエは父ちゃんのことが好きか?……ウンウン、お前はいい子だなー。もし父ちゃんに何か遭っても、母ちゃんを大切にしろよ……ウン、約束だからな。それじゃあ帰るか。ナカさんにオジーそう言うことだから、もう今日は先に帰るよ。それじゃあな」

 と言い、娘と手を繋ぎながら帰って行った。

「なあ、ナカちゃんにいい物を遣ろう。これをな……」

 玉城さんはそう言い、てのひらを開いて見せた。玉城さんの手には赤身が掛かった黒っぽい石があった。それを、僕の手の上に移してくれた。

「何なの、この石は?」

「ン? これは〝時の石〟といって、何か自分に迎えたくないことがあったとしても、例え辛いことがあったとしても、時はすべてを忘れさせてくれる。もし堪え切れなくなったら、その石を握っておけばいい。時が過ぎれば、悪かったことでさえいい想い出になる時だってあるだろう」

 僕はその石を強く握り締めた。なんだか心の中が軽くなったような気持ちになった。

「ありがとう、玉城さん。僕これを大事にするよ」

「ウンウン、ナカちゃんもこれを大事にして、いつか必要がなくなったら、今のナカちゃんのように必要としている人に渡してあげなさい」

 僕は、玉城さんの温かさに、また涙が溢れてきた。

「ウンウン……アッ、そうだ、ナカちゃん今年はちゃんと来いよ。去年はあんなに約束をしたのに来れなかったから、まあ去年の理由はワシも聞いて仕方ないと諦めはしたけが、もう来年はないからな」

「海洋博の花火大会のこと? ウン、今年は絶対来るから、マカチョーウケ(まかせておいくれ)」

 僕は、タマシロのオジーも、僕をおいてオバーのところに逝くなんていわないでよ、と冗談が出掛かったが心の底に引っ込めた。もし口に出してしまえば、それが現実になるのではと怖かったから……。


 翌日、僕はお昼ご飯を泊まった玉城さんの家でとり、那覇に向かった。勿論、那覇は志緒梨の家へ行くのが目的で、一日だって彼女から僕は離れていられない。

 僕が、志緒梨の家に着いたのは、夕暮れ間近な時間だった。僕は彼女の家に、玉城さんに貰った備瀬の浅瀬の海で獲れた魚やたこに貝類、そしてアパートの隣のスーパーで買ったビールとソフトドリンクを付け足して、お土産にした。志緒梨は玄関を開けてくれ、おかえり、と優しく僕を迎えてくれたが、子供たちが今いるからハグはまた後でね、というような目配せを僕に送ってきた。僕は軽くうなずきキッチンへと行き、流しで玉城さんからのお土産を水で洗い、調理に一時間程掛けて一気に食卓に並べた。その間子供たちは魚の調理が珍しいのか、僕の傍を離れず見ていた。魚は余り大きくなかったので殆んどは煮付けにし、蛸は塩揉みしてぬめりを取りそのまま切っただけでカルパッチョにした。それと、色々な種類の貝類は、みんな纏めてワイン蒸しにし大皿に盛った。

 志緒梨はというと、昼間干していた洗濯物を取り込んで畳み片付けキッチンへきた頃には、丁度食卓には夕食の準備が整った。

 志緒梨と子供たちは食事としてご飯と一緒に美味しいと食べてくれて、僕は買ってきたビールで軽くツマミ程度に箸を付け、会話をたのしんだ。その中で、三週間後の海洋博の花火を観に行こうと話をすると、みんなは喜んでくれ食卓は花火大会の話に華開き、食べ終わると彼女は食事が魚だったからと直ぐに片付けに入った。

 僕は飲みかけの缶ビールをベランダに移し、真っ赤に染まっていく西の空を見ながら飲んだ。十数分し、志緒梨が僕の背に声を掛けてきた。手には缶ビールを持っていた。

「備瀬の方には、行って正解だったみたいね。仲村さん、少しは元気になったみたい」

「ウン、僕もそう思う。玉城さんに逢って話をしてよかった、と思うよ……アッ、そうだ。これを玉城さんから貰ったんだよ」

 と、ポケットから玉城さんに貰った時の石を志緒梨に見せ、貰った経緯いきさつと玉城さんからの言葉を彼女に告げた。

「そうなの? なら、その石を私にも時々貸してね」

「ウン、そうだね。ぃちゃんも必要だね。その時は、言ってくれたら、いつでもかしてあげるから」

「ウン、ありがとう。私も花火大会はとても楽しみにしている。それに玉城さんて、私まだ会っていないから、どんな人なんだろう」

「エッ、なんて言えばいいんだろなー。エロオジーっていえばいいかなー」

「またそんなことを、仲村さんはそんな玉城さんに色々お世話になっていて、それに本当は大好きなんでしょう? 伊平屋の宮里さんに、具志川の……」

「ウ、ウン、大好きだよ玉城さんも宮里さんも、それに具志川の山城さんだって……」

「ホラ、また、折角玉城さんに元気を貰って来たのに。また涙なんか……そうよ、こんな時こそ、その石を強く握るのよ。ホラ、こんなふうに」

 志緒梨は、僕の時の石を握る手を自分の手で包み、頬をあて唱えはじめた。

「仲村さんの辛い思いが、早く過ぎて行ってしまいますように……仲村さんの辛い……」

 僕も、包んでくれている志緒梨の手に頬を寄せて、涙ながらに「ありがとう」と何度も言い、そんな僕を、彼女は優しく両手で包んでくれた。

 しかし、週が明けての月曜の朝に、僕と志緒梨が倉庫で手を握り合っている時に、事務所から僕に電話が入っている、と嘉数さんが呼んでいた。僕が電話に出ると、相手は伊平屋の商工会の金城さんだった。

「アッ、金城さん、おはようございます。どうしたんですか? こんな早い時間に何かいっ……」

 僕は、金城さんの言葉に凍りついてしまった。それは、宮里さんが亡くなった、との言葉だった。昨日、日曜に小学校で部落の人たちが集まって小さな運動会をしたらしいのだが、久々に宮里さんも浮かれ自分の体調を考えず、子供たちと一緒になりはしゃいだのが原因だったのか、その後家に帰り倒れたらしいが……心筋梗塞しんきんこうそくだった、と金城さんは泣きながら話してくれた。僕は電話を切った後、その場に力無くへたり込んでしまった。そんな僕の異様さに社内のみんなは集まってきて、僕はそのことを告げた。

その話を聞き、志緒梨も愕然がくぜんとした表情を見せたが、すぐに毅然きぜんとし僕を鼓舞こぶした。

「仲村さん、何してるの? 早く、その宮里さんのところに行って……此処にいても、今の貴方では仕事にはならない筈。だから、早く行って」

 僕は急ぎE・Vに乗り、今帰仁なきじん運天港うんてんこうに向かい、フェリーに乗り伊平屋へと渡り、それから真っ先に宮里さんの家に行き、今は何も言わずただ横たわる宮里さんと対面をした。それから僕は三日間、宮里さんの家で過ごした。

 僕には、もう涙は山城さんの時で全て出し尽くしたと思っていたのに、なのに涙は止めどなく出てきのだが、本島に戻り志緒梨に逢った時には、また彼女の胸の中で泣いた……どうして、僕の周りでこんなにも次々と……その時、僕は嫌な思いが胸をかすめ、ハッとして時計を見た。まだ夜の九時前だ。急いで備瀬の玉城さんに、電話を掛けた。

 どうしたんだろう? もう三回はコールしているというのに……まさか!? お願いだから玉城さん、この世にいるのなら、早く電話に出てよ。早く……プツッ。

「オウ、ナカちゃん、どうしたんだ?」

「アッ、玉城さん、何で早く電話を取ってくれないんだよ。もう」

「早くって、言ったって、ワシャー小便をしていたんだよ……っで、ナカちゃん、何か急な用事か?」

「エッ、これと言って用はないんだけど……玉城さんは今、何していたの?」

「ンッ、ワシは、いつものようにみんなで飲んでいたとこだよ。今日は頭領もいるぞ。ナカちゃんも来いよ」

「まさか、行ける訳ないだろう。玉城さんが元気ならいいや。それじゃあ」

「アッ、ちょっ、ちょっとナカちゃん待ってくれ。花火大会は来週だぞ。忘れてはいないよな?」

「アア、花火大会は大丈夫だよ。今度オジーに会わせたい人がいるから、また花火大会の前の日にでも連絡するから、それじゃあ」

「ウンウン、ワシも楽しみにしているからな、それじゃあな……プツッ」

 僕は安心して、安堵の深いため息をいた。傍で見ていた志緒梨が、僕の背中を撫でながら言葉をかけた。

「よかったわね。これで、安心して帰れるわね。今日は疲れてると思うから、早めに帰って眠りに就いた方がいいんじゃあない?」

「嫌、今日、出来るのなら、今日は ぃちゃんの傍にいたいんだ。今日、泊まってっていいかな?」

「ええ、いいわよ。それじゃあ、もうひと缶、ビールを開けましょうか」

「ウン、ぃちゃん、ありがとう」

 そして、僕と志緒梨は缶ビールをベランダで飲みながら、僕が伊平屋に行っての出来事を話した。

 僕の話した話の中で、彼女は一つだけよかったね、と言った。それは、宮里さんの顔がとてもおだやかに優しく笑っているようで、お葬式に来ていた人々が皆「校長先生は、奥さんの傍にいる時は、いつもこんな顔していた」と口々に言っていた、ということを話したことにだった。そして、亡くなった宮里さんの側には大好きだったウヰスキーがあって……宮里さんは、BROWN'S MEMORYを飲みながら先に逝ってしまった奥さんと語り合っていたのだろうか?。


 それから一週間はアッという間に過ぎ、営業先へと向かう車の中から僕は約束通り玉城さんに電話を掛けた……プツッ。

「アッ、もしもし、玉城さん?」

「アレッ、その声はナカさんかい?」

「エッ、アッ、その声はコウさん? どうしてオジーの携帯にコウさんが?」

「アア、ナカさん、今みんなで朝からオジーを捜しているんだ。オジーは海に行くときは、いつも携帯を家に置いて行くんだけど、光男が言うには、夕べからオジーは海に、花火大会の日にナカちゃんが来るから、それまでに海の物を沢山獲ってご馳走するから、て行ったんだと」

 僕は時計を見るとお昼前の十一時だった。

「コウさん、分かった。僕も、これからそこに向かうから、何か遇ったら連絡をくれないか? 急いで行くから」

 僕は電話を切り、EVを走らせながら志緒梨に電話を掛け、今コウさんから聞いたことを伝えた。すると彼女は「焦っては駄目、気を付けて行って来て」と、僕を送ってくれた。

 コウさんからの連絡もないまま、僕は備瀬の海沿いの駐車場手前にさしかかると、部落の人や観光客らしき沢山の人たちが道に溢れていて、車が思うように進まない。僕は、E・Vをどうにか道の脇に止め、人の波をかきわけ、人々の中心へと入って行った。すると、突然僕の前の人々の背中がなくなり、コウさんが少し離れ呆然と立っていた。足元には、体全身が濡れている玉城のオジーが横たわっていた。その周りを、人々が取り囲んでいる。その先頭に僕がいて、その姿にコウさんは気づいた。そして、目を閉じ悲しいことに〝オジーはもうだめなんだ〟と無言に首を横に数回振った。

 僕の全身の力は、全て抜けてしまった。膝から崩れていき、唯のむくろと化した玉城さんの胸にすがりつき、玉城さんの名を叫んだ……。


 僕は胸に圧迫感を覚え、目を開けた。胸の上に、志緒梨が頭を横にうつ伏し、顔を僕に向けていた。

「まだ、寝ててもいいのよ。大変だったわね」

 彼女の目が真っ赤だ。それに、目の周りが浮腫むくんでいる。志緒梨は泣いていたんだ。ンッ? 此処は何処だ。

「ネエ ぃちゃん、此処は何処?」

「ここは、名護の病院よ。仲村さん、気を失っていたのよ。それで、玉城さんのご遺体と一緒に、此処に救急車で運び込まれたの」

「そうか、アレッ? 何で ぃちゃんが此処にいるの?」

「私が、貴方の携帯に電話をしたら浩一さんっていう人が取ってくれて、今仲村さんが気を失って、これから病院に搬送するからって言うから、私急いで来たのよ」

「そうなんだ。迷惑をかけたね。ごめんね」

「ネエ、仲村さん、大丈夫?」

「エッ、なにが?」

「だって、玉城さんはもういなくなったし、貴方が、またどうにかなるんじゃあないかと心配してたけど。それとも……そうかー」

「ンッ、なーに? そうかーって?」

「ウ、ウン、気が抜けたのよね。ずっとずっと玉城さんのことを心配して、気を張っていたから。今は放心状態ってとこね?」

 志緒梨が、胸の上に置いていた手を握り、自分の頬に押しつけた。その刹那、志緒梨の温もりに思わず涙が溢れ出てきた……又だ、また涙が、いつになったら僕のこの雨は已むのだろう。僕の涙は、もう乾くことはないのだろうか? せめて、志緒梨だけでも、僕の傍から離れないでいて欲しい。

 そんな僕の頭を、志緒梨は優しく撫でてくれた。その温もりが深ければふかい程に、僕は志緒梨までも失うのではと、怖くて堪らなかった。


 僕は会社に一週間の休みを志緒梨の口添えもあって取れた。その殆んどを、玉城さんの家に昼間はいて、夜は頭領たちと海沿いの木の下で、玉城さんをしのび飲んだ。その間、コウさんも僕に付き合ってくれ、明日は僕も那覇に帰るという最後の晩に、玉城さんをオバーの許に気持ちよく還し、逝かせて遣ろうと部落のみんなが集まり、玉城さんとの最後の宴をひらき、オジーに最後のさよならをした。

 そして週が明け、僕は日常の生活へと戻る筈だったが、僕がその晩営業を終えて、会社には戻らず、志緒梨に逢いに行くと、志緒梨の顔にはいつも僕に向ける笑みはなかった。僕に逢うなり車の中で、彼女は僕の胸に泣きついてきた。

「 ぃちゃん、どうしたの? 何かあったの?」

 志緒梨は泣くばかりで、僕が何を聞いても答えてはくれなくて、僕には何も仕様がなかった。十分程して、彼女は落ち着いたのか、ぽつりぽつりと何ごとか言葉を言ってはいるが、まるで僕には何を言っているのか最初はわからなかったが、彼女の言っていることの内容が段々と判るほどに、僕はこの世の無情さにいきどおりを覚えた。

 志緒梨が話してくれた内容とは、僕が玉城さんと名残りを惜しんでいた先週、会社に社長宛ての封書が届き、その手紙には『この会社の店舗を見ている女性の部長さんは不倫をしております。果たして人の上に立つ人が、それでいいのでしょうか……ちなみに、その部長さんの不倫のお相手はN課長さんです……』ということのようなものだったが、手紙は二ページに渡り綴られていて、内容的には、とても稚拙ちせつで恥とかを知らないいやしい者の言葉などが詰まっていた。それを、僕も彼女から手渡され読んだ時には怒りよりも、この手紙を志緒梨はどんな思いで読んだのだろうか、と想像はするが、堪え切れぬ思いで一杯となった。

 僕は、志緒梨を手繰たぐり寄せ抱き締めた……僕は、この時代に戻ってきたのは、志緒梨ともっと長く幸せに傍にいたくて、唯それだけの為に来た筈なのに、それだけに神様は僕に代償として苦しみや悲しみなどを、等価交換とし与え、そして求めているのか。

 もう僕は十分堪え切れないほどに味わった。その上、その代償は僕だけではなく、志緒梨にまで……僕は、志緒梨を悲しませたり、苦しませる為に此処に来たのではない。筈なのに……。

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