第10話 渦中の女神
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午後三時を過ぎたウイークデーのデパートのレストランや飲食店の建ち並ぶフロアーは、お客もまばらで殆んどいない。僕たちの入ったレストランも
ミート・ソースのスパゲッティを、フォークでクルクルと巻きつけ僕は口に運び、トーストと一緒に食べた。
テーブルの向こう側には、佐和田さんの娘の絵美ちゃんが目を真っ赤にしたまま、同じトースパをスプーンを使いフォークでただクルクルといじっている。食べる気は余りないようだ。まだ先程の余韻が抜けないでいる様子で、ずっとさっきから僕の食べるのを眺めている。
「ネエ、絵美ちゃん、食べないの? 冷めちゃうよ」
僕の目の前の皿の上は、もう既に何もなかった。ミート・ソースをパスタで
「仲村さん、もしよければ、これも食べて貰えますか?」
「エエッ、いいんですか? でも、少しは食べないと……そうだ、僕が食べさせてあげましょうか?」
僕は、冗談で言ったつもりが、彼女は目を閉じて口をアーンと開けた。まるで、親鳥が餌を与えるのを待つ
僕は、スパゲッティを多目にフォークですくい、ソースに絡めるようにクルクルと巻き、彼女の口にそっと押し込んだ。
彼女は、予想以上に入ってきた口の中のものをウッと吐き出しそうになったが、僕が笑みを浮べて「美味しい?」と聞くと、頬をプックリとさせたまま顔を、こっくりとうなずいて見せた。
絵美ちゃんは、口の中のものをどうにか食べ終えて、僕に微笑み返した。
「仲村さん、私すごく幸せです」
「よかった……それじゃあ、もっと幸せにしてあげるね」
「嬉しい……今、私とても幸せです」
「ウン、よかった。それじゃあ、ハイ、アーンして」
僕は、またスパゲッティをフォークに絡めて彼女の口に運んであげた。彼女はエッ? というような顔を見せたが。
「ハイ、幸せだよ……噛みしめて」
と僕が笑って見せたら、絵美ちゃんは、〝幸せ?〟と首をかしげながらも、アーンと口を開き美味しそうに食べた。
そして、それを数回繰り返した。これでもう、彼女は大丈夫だろう。皿の上は殆んど、もうない。これで、彼女も落ち着いて僕と話しが出来そうだ。僕は、手を挙げてウエイトレスに来てもらい、空いた皿を片付けてもらって、アフターの珈琲を二つ頼んで、珈琲が来た。
僕は、そのまま珈琲を一口飲んだ。食後の珈琲は口の中で香りが広がり、疲れた脳を覚醒させてくれる。だが、頭がクリヤーになればなるほど疑問が幾つか浮ぶ。
「絵美ちゃん、少し聞いてもいいかなあ?」
絵美ちゃんは、砂糖をひとさじとクリームを入れてかき混ぜながら、僕に微笑で〝どうぞ〟の合図を送ってきた。
「絵美ちゃん、何でひとまわりも違う、こんなおじさんを、って言うか、絵美ちゃんは僕のことをどう思っているの?」
「ハイ……私、仲村さんのことが……好きなんです」
彼女は、頬をピンクに染め、うつむき気味になり、手はスプーンで珈琲をまだかき混ぜている。
それは、彼女自身の心そのままの行為なのだろう。好きなひとの前で、人にどうしてそのひとが好きなの、って問いたとしても、多分答えなんて、ただ好きだから、それ以外に何があるんだろう? たとえ、珈琲をスプーンでいくらかき混ぜたとしても、それはただの手持ち無沙汰の行為でしかないことなのに……。
「昨日の夜にね。ウチの父が一大決心をしたって、つばさと私を呼んで、話をしてくれたんです。内容はつばさから聞いてますよね? それで、父が人を好きになるのは運命で、歳が幾つ違おうと、そんなのも運命の前では何も問題ではないって……だから、私も仲村さんに対しての、この想いは運命なんだって、その時分かったんです……」
ああ、どうしてこの親子はこんなにもピュアーっていうか、単細胞なんだろう? 僕は、彼女の年上好みは知っていた。しかし、彼女を幸せにするのは僕ではない。彼女を、幸せにする運命のひとは……具志堅なのだから。
そう、僕の大親友の、あの具志堅なのだから。
僕の中の記憶では、今回のイベントの最後の日に具志堅がイベントを見に来て、日頃は行わないイベントの慰労会に彼も参加をして、そこで、僕は彼女を具志堅に引き合わせたのが切っ掛けで、二人はそれから後の三年後に結婚をし男の子と女の子、二人の子が出来、とても幸せな家庭を持つのだ。唯、彼が癌に侵されるまでは……でも、どうしてこう僕の記憶のまま、予定通りにことは行かないものなのだろう。
今日の内に、具志堅に電話をして絶対に今回のイベントには来てもらうようにしなといけないよいうだ。
「仲村さん……仲村さんは、こんな私に想われることって迷惑なのでしょうか?」
「エッ、イイーエ……そんなんじゃあないですけど」
「けどって? それは、やっぱり迷惑なんですか?」
彼女の、顔がまた曇り始めた。僕の、返答しだいではまた大変なことになってしまう。
「イイーエ、どうして、絵美ちゃんは、こんなおじさんの僕を好きになったの? それに、僕は妻帯者で家族までいるんだよ」
「エエ、知っています……でも、仲村さんは近々離婚されるんですよね? この前、川平さんが野菜を納品に来た時に、仲村さんのところは、ほぼ家庭崩壊寸前で離婚も間近だって言ってました」
また、川平だ。アイツが、僕の話をネタにいらないことを吹き込んでいるんだ。
「イエ、まだ離婚なんて、そこまでは来ていないですよ。僕を、好きになるのも、もう少し考え直した方が……いいんじゃあないですか?」
「
彼女の顔が、より曇っていく。大雨になるのも、もう間近なことだろう。
「イイヤ、そうじゃあないんだよ。僕は絵美ちゃんのことは嫌いじゃあないよ」
「ってことは仲村さん、嫌いじゃあないけど、好きでもないってこと?」
「イイヤ、違うって、そうじゃあなくって……好きだよ」
彼女の、曇った顔に晴れ間が差し込んできた。また、頬がピンクに染まりだし、身をモジモジさせ、恥じらいながら言い
「なら……だったら、仲村さん……私のこと……大好きって、言って」
「ウン、分かった。っていうより、絵美ちゃんも僕も、お互いのことは何も知らないよね。だから、今度イベントが終わったら、お酒を飲みに行かない? 飲みながら、お互いの話を聞いて、それから始めてもいいんじゃあない?」
「エッ、イベントが終わってからですか?」
「だって、イベント期間中は、お互い忙しいよね? だから、ふたりデートなんて出来る暇なんてないし、イベントが終わり、それからゆっくりと、ねっ?」
彼女は、僕の言葉にうなずいてくれた。目がまるで夢を見ているようだ。そして、彼女はぽつりとまた言葉を洩らした。
「ふたり? デート?……ふたりだけのデート」
僕が、エレベーターでイベント会場フロアーの、スタッフ専用の入口に戻ってくると、エレベーターのドア横の角に志緒梨が立っていた。
「アラ、お帰りなさい。遅かったですね。仲村課長が、余りにも遅いから待てなくて、私はこれから会社に向かうところです」
「アッ、すみませんでした。先程の件も含め改めて、本当にすみませんでした」
まだ僕の休憩時間は二十分も残っているはずなのに、でも僕は、深々と頭を下げた。彼女は怒っているんだろうか。
恐るおそる視線を彼女に戻すと、志緒梨は横を向いていた。
「なんのことですか? もしかして、貴方が若い女性に
やっぱり、怒っているんだ。
「仲間部長、そうじゃあないんです。それは、ただ佐和田さんの娘さんが一方的に……」
「だから、それが自慢なんでしょう」
「イイエ、違います。彼女を幸せにするのは、僕じゃあなくて、僕の友達の具志堅っていうヤツなんです」
「エッ、なに? それじゃあ、貴方は関係ないって言っているの? でも、何がなんだか仲村さん全然分かりません。私は、その具志堅さんって方も知りませんし」
「アッ、そうですね。でも、本当なんですから……信じて下さい。お願いですから」
志緒梨は、困惑顔になりながら周りを気にした。
「仲村さん、本当に、ほんとーに彼女のことは関係はないんですね? 絶対に、ぜったいですよ」
「もちろんです。絶対に、ぜったいそんなことは、絶対にないです。信じて下さい」
「分かったわ。それじゃあ、仲村さん、これっ……」
っと、僕の目の前に右手の小指を差し出してきた。僕も、彼女の小指に小指を絡ませ、
ふたりの心通わすほんの僅かな時を裂くように〝チーン〟とエレベーターのドアが開く音が鳴り、僕たちの指は離れた。志緒梨は、今着いたエレベーターに乗ろうとしたが、中から志緒梨の知り合いらしき人が降りてきた。
「アッ! 志緒梨さん、今日もきれいですね。もしかして、私を待っていたのですか?」
そんなこと、ある
「アラッ、仲田さん、お久しぶりですね。どうしたんですか? 今回は、仲田さんのところは出店していないようですが」
「エエ、今回はちょっと出店に間に合わなくてね。今日は、志緒梨さんに頑張ってね、てエールを送りに来たんですよ」
「そうですか。それは、どうもありがとうございます。アッ、そうだ。仲田さんは、初めてでしたよね。ウチの営業課長の仲村です。彼は、とてもモテるんですよ。特に若い女の子にね」
と目の
僕は挨拶したくはなかったが、紹介された手前仕方なく。
「どうも、初めまして営業の課長をしている仲村です。宜しくお願いします」
「アッ、そう、よろしく。頑張ってね」
あっさりと受け流されてしまった。僕なんて、眼中にないってことか? まあいいや、こんなヤツ、もともと志緒梨にしても周りの空気を読まないで場違いなことばかり言うから嫌いだと言っていたし……だが、今日の彼女はどことなく彼に話を合せているようだ。もしかして、僕への当てつけなのだろうか。僕は、この場での自分の居場所がなくなり、売り場へと戻ることにした。
裏口を抜け、売り場に戻る途中で、大きなボウルに野菜を詰めて佐和田さんがこっちに向かってやって来る。
多分、会場裏でサンドウィッチの野菜を洗いに行くところなんだろうが、出来れば今は会いたくなかった。
「オウ、息子よ。絵美に聞いたぞ。今度ふたりだけで、デートに行くそうだな。それでな、ちょっ、ちょっとこっちへ来な」
僕の、片腕をひっぱり隅の方へ連れて行こうとする。僕としては、これ以上佐和田さんに関わると余計複雑な方向へ行きそうで、出来ればそこはなんとか逃れたかった。
「佐和田さん、今ですね。ウチの仲間部長がエレベーターのところにいましたよ……今だったら、多分、一人かな……たぶん」
「エッ、本当か? 本当に?」
「エエ、これからなんでも会社に戻るからと、エレベーターを待っていましたよ」
「分かった。息子よ、ありがとうよ」
佐和田さんはボウルを抱えたまま、急いでエレベターホールへと駆けて行った。
これで、志緒梨を鼻持ちならない仲田なんかと二人だけに誰がさせるもんか。出来れば、佐和田さんとも二人だけにはさせないつもりだったが……まあ、ここは緊急的処置としての問題だから仕方ないか。
売り場に戻ると、野菜のコーナーがガラガラで、殆んど物がない。
川平が、僕に気づき駆け寄って来た。
「課長、もう大変だったんすよ。課長がいなくなって、もう何がなにやら……」
本当に、何がなにやら、何を言っているのか分からない。それで、売り場の内側で椅子に腰掛けて足を伸ばし休んでいる中山さんに事情を聞くと、内容はこういうことだった。絵美ちゃんと、僕の騒ぎで人が集まり。それを見た野次馬たちが、更に集まってしまい。そのことが他のフロアーにも伝わって、今日は初日だからと多目に用意していた野菜が一時間で売り切れてしまったとのことだった……でも、なんで人が集まるだけで野菜が売れるのだろう。
「中山さん、どうして、野菜が売り切れる程になったんですか?」
「エッ、それがですね、不思議なんですよ。仲村課長と佐和田さんの娘さんが出て行くのを見たお客さんたちが急に集まって来て、トマトを下さい、て言い始めて、それから他の野菜が次々と売れていったんです。どうしてなんでしょうかね」
僕は、思わず〝ああ、あれか?〟とほくそえんでしまった。それは、絵美ちゃんが目を潤ませ、真っ赤に熟れた美味しそうなトマトを大事そうに胸の前で両手で持っていたから……その時は、僕にも美味しそうに見えた。多分、それを見た周りの人たちも欲しくなったのだろう……なんだか、これもサブリミナル的な効果なんだろうか?。
「仲村さん、お願い……助けてー」
と、つばさちゃんが駆けて来た。
「どうしたの?」
「今ね、とてもしつっこいヤツがいて、〝君たち、姉妹なの? へエーこんなとこにも、とても美しい天使と女神がいるんだ?〟って、なんだかめっちゃ気持ち悪いヤツがいるんだよう。仲村さん、何とかしてよう。早くう、仲村さんお姉ちゃんのフィアンセなんでしょう。フィアンセが助けを求めているんだから」
美しい天使と女神……ンッ? そんな、歯の浮くようなキザなセリフを言う奴なんて、もしかしてアイツなんじゃあないのか、と佐和田さんのサンドウィッチ売り場の方を見ると……やっぱり、いた。アイツだ。貴公子気取りの仲田が、オーバーなリアクションで絵美ちゃんを口説いている様子だ。
僕は、分かったと、つばさちゃんと一緒に絵美ちゃんのところへと行った。
「仲田さん、何をされているんですか?」
「何をって、私はただ……アア、君は確か、志緒梨さんのとこの、課長、だたかな?」
「そうです。課長の仲村です」
「っで、なに? その課長さんが、何か私に用があってのことなんですか? 私は、ただこの娘さんとお話しをしているだけなんですから」
「お客さん、やめてくださいよ。お客さんだからって偉そうに言っているけど、仲村さんは、お姉ちゃんのフィアンセなんだからね。ホラ、仲村さんも何かガツンと言ってやってくださいよ」
「そうだ、そうだよ課長も何か言って下さいよ。なんだったら、バチーンと一発、男だったらかまして下さいよ」
つばさちゃんの言葉に、川平も
流石に、周りの空気を読まない男の、仲田は目の前にあるサンドウィッチを一つ取り。
「私は、このサンドウィッチを買いますから……貴方たちには、関係のないことですよね」
と言ってきた。
僕たちは、仕方なく仲田が代金を支払って、この場を去って行くまでを見守っていたが、一行に出て行く気配がなく「このサンドウィッチの中身の具は何? あれは?」とか色々と絵美ちゃんに質問を繰り返し聞いてくる。それを見ていたつばさちゃんが、しびれを切らし怒り出した。
「お客さん。お宅ねー、買う気はあるんですかー?」
「そうだよー。お客さん、お宅ここにいちゃあ商売の邪魔なんだよー」
川平も、声を荒げる。
っと、そこに野菜を洗いに行っていた佐和田さんが帰って来た。
「オウ、なんだよ。ウチの売り場の前で、って……アアー、この野郎なんだよー。また女をたぶらかす
「エッ、エエー? 此処って、お宅の売り場? ってことは、このお嬢さん方お二人は、お宅の娘さん? 分かりました。これで失礼致します。アッ、これっ」
っと、千円札一枚を置いて退散して行ってしまった。手には何も持たず。
残ったみんなは示し合わせたわけではないが、一斉に「毎度有り難うございました」と声を揃えて見送り、笑いが湧き起こった。っとその時、僕の脇からすうと手が出てきて、声がした。
「なに、何だか
聞き覚えのある声に、まさか、と声の主を見ると具志堅だった。
「オウ、具志堅、なんで? どうしたんだよ。時間的に早いし、それに、今日ここに僕がいるって、何で知ってるんだよ」
「嫌だなー、何言ってんだよ。仲村、仲村が今日からイベントが始まる、ってこの前飲みに行った時に言っていたじゃあないか? その時、僕は休みの日だから行くね、って言ったのに忘れたのかよ」
「アッ、そうだったけ? アッ、でも、いいや。ちょうどいい。今日、飲みに行こう。ナッ? 三人で……」
「僕は、OKだけど、エッ、三人って誰? もう一人は?」
僕は、具志堅に、まあまあとなだめながら、絵美ちゃんにも訊いてみた。
「ネエ、絵美ちゃん。今日、一緒に飲みに行く?」
売り場の中で絵美ちゃんは、頬をピンク色にし目を潤ませながら僕たちにむかい〝ハイ〟とうなずいた。
具志堅を見ると、彼が思わず吐息混じりに呟いた。
「て、天使だ……嫌、め、女神だ……」
口に、締りがなく、ただボーと、絵美ちゃんに見惚れている……コイツも、貴公子かよ!?。
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