エピローグ


 かしゃかしゃかしゃと金属のボールと泡立て器の擦れる音がする。でもそれは夢でも幻聴でもない。

 西園寺家のお菓子作り専用のキッチンで、美鈴はカウンターに座ってその音を聞いている。

 待っている間にと出されたのは、そろそろ暑くなる季節を考慮した涼しげなアイスジャスミンティー。まったく、相変わらず彼は完璧だ。

「お嬢様、本当によろしかったのですか」

 カウンター越しに自分の手元を覗き込んでいる少女に、その全自動人形オートマチックドールは尋ねた。

「何のこと?」

 頬に手をつき、彼を上目遣いにちらりと見上げる彼女は不敵に笑っている。

「色々です」

「へえ、色々ね。まあ、いいわ」

 そして美鈴はにっこりと微笑むと、きっぱり言った。

「良かったのよ。これで」

「左様でございますか」

「ええ」

 その『色々』のなかには、おそらく先ほど済んだばかりのことも含まれているのだろう。

 だが少女は全てを選びきった。彼女の、その意思で。

 西園寺美鈴は先代の意向に従い西園寺グループの全権を継ぎ、先代の所有していた全自動人形オートマチックドールを我が物として―――――西園寺蓉子殺害計画の首謀者である国枝慶介の処分を決定した。

 件の秘書には先ほどそれを伝えてきたばかりだった。

 彼は驚きと畏怖を持って少女を見ていた。

「今、何と?」

 信じられないというような顔の彼に、美鈴は同じ言葉を繰り返した。

「国枝、貴方をそのまま秘書として雇うと言ったの。

 もちろん、貴方に拒否権がないことは分かっているわね?」

「……………何故」

 戸惑いを隠せない彼に、美鈴は限りなく冷たい視線を送った。

「何故って、おかしなことを言うのね。そんなこと分かりきっているのに」

 すっと細められた少女の目には今までにない鋭利な光があった。

「貴方を使い潰す為。法で罰するなんて生易しいこと、私はしないわ。

 私は貴方を許さない。貴方だって許されるとは思ってはいないでしょうし。

 だから―――――――私は貴方を使い殺すの」

 駒として。西園寺グループの糧として。その身を捧げよ、と。

 長らく先代の秘書として仕えてきたその男は、ぞくりとその身を震わせた。

怖かったのではない。あまりの嬉しさに。

 失われてしまったと思っていた主は健在だったのだと、恍惚に。

「私は貴方を許さないし、逃がさないわ」

 彼女の傍らにいるが、その言葉が嘘ではないという何よりの証拠だった。

 あんなに忌々しかったそれが、逆に今ではそれが彼女の強かさだと思うと彼は嬉しかった。

 そう、この少女ならばその全自動人形オートマチックドールも自分も、上手く使いこなすだろう。

 それこそが我が主。

「――――――はい。御心のままに」

 男は少女の前に膝を折った。

 それがほんの数時間前のこと。

 こうして西園寺正孝が死を宣告されてからの一連の事件は幕を下ろした。

 はずなのだが。どうにもこの件に納得できないものが一人いるようだ。

 無言で卵と牛乳とを泡立て続けているを美鈴は呆れたように見た。

「何もそこまで拗ねなくてもいいじゃない」

「拗ねてはおりません。不服に感じるだけで」

「何が?」

「色々が、です」

 まったく、この人形ときたら目覚めてからずっとこの調子で、今日の出来事はさらに彼の気分を最悪にしたらしい。

「ねえ、いいかげんホットケーキを焼いてちょうだい。最初に命令したのに、こんなのってないわ」

 口を尖らせてそう言う美鈴に、和光は内心で笑ってしまった。再起動した彼に美鈴は開口一番に「ホットケーキを焼きなさい」と命じたのだ。

 この親子ときたら、本当に似すぎるぐらい似ている、と微笑ましく思う。もちろん、顔に出しはしないが。

 だが正直にいえば、この少女と再びこうして向かい合っていることは、彼にとって喜ばしいと言えることではなかった。たとえ、それが彼女の意思だとしても。

 和光は二度と目覚めたくないと思っていたのに。

 あのまま死んで―処分されて―しまえたら、どんなに良かったか。

(それを許す彼女でもないのは、重々承知だが)

 そしてそれ故この少女を愛してしまったのだろうが。

 だからこそ和光は仏頂面を崩すわけにはいかなかった。

 どんなに――――この状況に幸せを感じていても。和光は美鈴を守らなくてはならないのだ。

 いっこうにホットケーキを焼こうとしない和光に、美鈴は堪らず叫んだ。

「ああ、もう! 私だって貴方に聞きたいことも、文句もいっぱいあるんですからね!」

 すると言われた方は不思議そうに―まるで心当たりがないというように―首を傾げた。

「何でしょう?」

 そんな和光に美鈴はびしりと指を突きつけ問い詰める。

「まず、和光! 貴方、かなり初めの段階で国枝のおじ様が犯人だって分かってたんでしょう?

 何で言わなかったのよ?」

 すると優秀なそのはしれっと言った。

「旦那様が心底、国枝様を信頼なさっていたので。気付かせたくありませんでした」

「はいっ?」

 とんでもない答えに美鈴は思わず目を剥いた。だが和光は平然と続ける。

「ただでさえご病気で気が弱られているところに、そんなショックなことを教えるわけにはまいりませんでした。

 旦那様には心安らかに、安静にしていただく必要がありましたので」

 しかしそれを美鈴は遮る。

「じゃあ! 貴方、わざわざ父様が亡くなるのを待ったのは、その為だったの?」

「…………あれは運悪く色々重なってしまっただけです。

 屋敷に襲撃をかけられた時点では金庫のことは知りませんでしたし、そもそも旦那様が危篤だとあの時の電話で知ったぐらいなのですよ」

 そこで美鈴は問いただす事項をもう一つ思い出した。

「あ! そうよ、その所有権証のことも! 隠してたでしょうっ?」

「…………………お嬢様がお尋ねになられませんでしたので」

「屁理屈よ!」

 あえて黙っていたのだろう。腹立たしいことこの上ないったら。

「私は所有権証の保管場所を知りませんでしたから、お嬢様にその存在を知られると旦那様を問い詰められる恐れがありました」

「そうねぇ! 父様が病気だということは隠しておかなきゃあいけなかったものねぇ?」

「そのようなご命令でしたので」

 美鈴は和光をじろりと睨み、腕を組む。

「でもそれって、ずいぶん残酷な話よね。何も知らせないまま、父様の死をいきなり聞かせるつもりだったなんて。

 父様も貴方も、良心ってのは傷まなかったのかしらね?」

「旦那様は悩み苦しんでおいででした」

「ふぅん? 貴方は?」

「私は、その…………それなりに考えはしましたが」

 そう言って和光はまじまじと美鈴を見つめた。

「な、何よ?」

 その視線に思わず顔が赤くなる。そういえば彼から告白もされていたのだっけ。

 恥らった美鈴だったが。

「お嬢様の行動が私の考えより早くて、正直考える余裕がありませんでした。

 むしろ私は貴方に振り回されっぱなしでした」

 その和光の言葉に美鈴の頬の熱は一気に冷めた。

「ええ、そうね。『そうでなかったら良かったと思う程』だものね」

「まったくその通りですね。そうであったなら、私はどれだけ仕事がしやすかったことか」

 淡々とそう口にする和光は相も変わらずのポーカーフェイスで、いったいどこまでが本気なのかだか分からない。

 だが美鈴はつんとすました顔で言ってやった。

「まあいいわ。貴方はこんな私を『愛している』のだそうだし」

「まったく遺憾ですが」

「どういう意味よっ?」

「言葉通りですよ」

 ああ、やっぱり厄介なことには違いないのだ、この人物は。たとえ味方になったって。

 美鈴は拳を握りしめ、和光に再度命じた。

「ああ、もうっ! 早くホットケーキを焼いてったら!」

「………………かしこまりました、お嬢様」

 さすがにこれ以上は引き伸ばせないだろうと和光も観念し、小麦粉を入れて切るように混ぜる。ここでゴムベラに持ち替えて混ぜるのがポイントだ。あまり混ぜすぎてはしっとりと上手く焼けない。

 いよいよホットケーキを焼く気配に美鈴は溜飲を下げる。

 そして思い出したように言った。

「ああ、そうだ。和光のこれなんだけど」

 ちゃらっと振って見せた小さな機械は、あの所有権証と共にあった彼を停止させることのできる代物だ。

 それをあろうことか、美鈴はぽちゃんっと、こともなげにジャスミンティーのなかに沈めた。

「うっかり水に落とした場合って壊れるかしら?」

「………………壊れます。施設に申請すれば新しい装置を購入できます」

「申請するのも面倒だわ。どうせ貴方はこんなもので縛らなくても私の傍にいるもの。

 そうでしょう?」

「はい、もちろんです」

 だいたい和光はこれを盗んで逃げる事だって可能だったのに、そうしなかった全自動人形オートマチックドールだ。

 その理由は、言わずもがな、なのだろう。

「あとは名前なんだけど。国枝って名字、変えてもいいのよ?」

 裏切り者と同じ響きというのは、あまり気持ちの良いものではないだろうと思ってのことだったが。和光は首を振った。

「お嬢様がお許しになるのでしたら、私は『国枝和光』のままでいたいと思います。

 この名前は、旦那様からいただいたものですので」

「そう」

 和光の声には思慕の響きがあって、美鈴は何となく彼と父との最期の別れの時に感じた、羨ましさを思い出した。というより、今は何だが腹さえ立った。

 だって、今の主は美鈴だというのに。

 自分でも拙い嫉妬心だとは思う。だがどうしても悔しくて、美鈴はまた口を尖らせた。

「ねえ、和光、貴方は父様のこと、『愛してた』の?」

 和光はそれに微笑んで答えた。

「お慕いしていたのは確かですね。

 あの方は私に、騙し合い探り合い以外の仕事を与えてくれましたから」

 出来たネタを少し休ませ、バターを溶かしたフライパンの熱を濡れ布巾で調節する。

 そこで美鈴ははっと気がついた。

 彼にお菓子作りを仕込んだのは父だったのだということを。

「ねえ、和光? 貴方、母様のお菓子を父様と試作してたって言ってたわよね?」

「はい。証有権書を確認したお嬢様はもうご存知だと思いますが、私が旦那様に購入されたのはお嬢様にお会いする一ヶ月前でしたので。

 その一ヶ月間で、できうる限り旦那様と試作を試みました」

「ってことは何? 父様は亡くなる前、これでもかってくらいお菓子を食べてたってこと?」

「はい。初めの三日間でホットケーキを百枚ほど焼かされました。あとは一通り試食されて。

 ああ、お嬢様に召し上がっていただいたブラウニーを試食されたのが最後でした」

「何それ! ずるい!」

 美鈴はさらにむくれた。自分はたった一度だけだというのに、あの父はもう何度も何度もホットケーキやらブラウニーを食べていたというわけだ!

「道理で父様が自信満々だったわけだわ! もうすっかり堪能しまくってたってわけね!」

 和光を紹介した時の父のしたり顔を思い出し、美鈴は歯噛みした。

 だが逆に和光は柔らかく言うのだ。

「自分のした仕事をあんなに喜ばれたのは初めてでした。

 この思考を読む能力をあんな風に使うなんて思ってもみませんでしたが、私は初めてこの力に感謝することができました」

 その和光の言葉は美鈴をさらに不機嫌にさせた。

 やはり父とこの全自動人形オートマチックドールの関係は面白くない。それはどちらに嫉妬しているのか、あるいは二人の関係そのものにかは分からないが。

「やっぱりずるいわ! 何でそんなに父様びいきなのよ!」

 あの父が相手では勝てる気がしないではないか!

 ふくれっ面で文句を言う美鈴に、しかし和光も負けてはいない。

「どうも私はお嬢様に関してだけは心が超ド級に狭いようなので。不服に感じることが多いのです。仕方がありません」

「……………まだ言うのね」

「当然です。あの犯罪者を欠片でも喜ばせるなんて私には我慢なりません。

 さらに言えば、こんな私を傍に置くことも正気の沙汰とは思えませんね」

 フライパンにネタを落としながら淡々と言う和光に、美鈴は冷めた目を向けた。

「貴方って本当に優秀で、尚且つとびきりの馬鹿よね」

「お嬢様程ではありませんよ」

 ほほう、皮肉もずいぶんと直接的になってきたではないか。

 引きつる頬を抑えて、美鈴は何度目かの建前を口にした。

「貴方が目覚めた時に言ったでしょ、私は『パティシエ』を迎えにきたって。

 貴方はボディガードでもスパイでもなくって、私専属のパティシエよ」

「ええ。忘れたりしていませんよ。何しろ拳つきでしたから」

「じゃあ、何度も言わせないで。また殴るわよ?」

 微笑む美鈴に和光は黙った。

 そして気泡のできてきたホットケーキをひっくり返し、蓋をして火加減を調節する。

 キッチンにはふんわりと甘い匂いが漂い、温かな空気が二人を包んでいた。

 美鈴はじっと和光の姿を見つめ、小さく呟くように言った。

「貴方が正しいのかもしれないわ。

 でも―――――――貴方は私の剣よ」

 そう、いつだって、突き進むのに必要なのは自分の意思。

 もし和光がいつか狂うのだとしたら。その刃は美鈴が止めてみせよう。

「私は貴方ごと、強くなってみせる」

 闘いはまだまだこれからなのだ。

 しかしこの少女なら、あるいはやり遂げられるかもしれない。

「―――――――かしこまりました、お嬢様」

 和光はただそれだけを言った。けれど美鈴にはそれで十分だった。

 それになにより、フライパンからは実に美味しそうな匂いがしている。

 和光はすでにメープルシロップとバターを用意していて、あとは焼きあがったホットケーキにそれらをのせるだけだ。

「あ、今更だけど、毒味がさきだとか言わないわよね? 言ったら殴る」

「言いません。私がお嬢様に毒を盛るはずがないでしょう」

「前は自分でそう言ったくせに」

 さっとフライパンから皿に移されるホットケーキ。

 もちろん先ほど機械をダイブさせたジャスミンティーは片付けられていて、いつかと同じホットミルクが用意されている。

「どうぞ、お召し上がりください」

 ことりと目の前に置かれたホットケーキは、寸部違わぬ、あの時と同じもの。

 それをナイフで切り分け、一切れ口に運ぶ。

 少女の顔に微笑みが浮かんだ。

 そこにあるのは純粋な――――――幸せだ。

「美味しいわ、和光」

「光栄です」

 それはいつもと同じやり取り。

 完璧な護衛術を持つ、最強のパティシエを手に入れた、とある少女の午後のひと時だった。










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最強パティシエの完璧なる護衛術 丘月文 @okatuki

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