第二章 ブレイクタイムにはどっさり胡桃入りブラウニーを ―空回り―


 しかし休憩とはしょせん建前。これでいいのだろう。

 あの苦痛な時間がまた再開されるのかと思うとうんざりはするものの、美鈴は溜息を吐いて割り切った。

 のだが、もどってきた和光が意外なことを口にした。

「お嬢様、本日の勉強ですが、ここで中止にいたしませんか?」

 いったいどういう風の吹き回しだろう。昨日までは全教科みっちりとおこなっていたというのに、今日は国語、英語、数学、の三教科で終わりとは。

「中止って、この後、何か予定でも入ったの?」

 それしか考えられず美鈴が聞くと、彼は「いいえ、特には」と首を振った。

「じゃあ、何で」

 すると彼は驚くべき理由を言った。

「ここ数日間、見守ってまいりましたが、お嬢様はどうも根を詰めすぎるお方のようですので。

 時には気を休めることも必要です。それは、どのような場合であっても」

 それは暗に「余裕がなく見えますよ」と言っているようなものだった。

 美鈴はかっとなって叫んだ。

「貴方がいるから気が休まらないの! 分かるでしょう?」

 自分でも驚くほどのヒステリックな声の響きに、美鈴は和光から視線を逸らした。こんなみっともない真似をすることになるなんて。

 そんな美鈴をじっと見つめ、和光はそっと頭を垂れた。

「分かりました。では、お傍を離れましょう。必要があれば、なんなりとお申し付けください」

 そして彼が部屋を退出する。

 ぱたりと扉の閉じる音がして彼の気配が完全になくなると、美鈴は力なく机に突っ伏した。

(ああ、もう―――――本当に余裕がないったら)

 そんなことなど美鈴はとうに自覚しているのだ。

 だからこそカッとなってあんなことを言ってしまう。

(こんなんじゃ、ダメなのに)

 悔しくて情けなくて涙が出た。ツンっと鼻の奥が痛み、ぐずぐずと思考が崩れていく。

 だが美鈴は歯を食いしばり、それがおさまるのをじっと待った。

(しっかり、しなさい)

 弱っているなどと見抜かれるわけにはいかない。敵は確実にいるのだから。

 それが誰だかまでは分からない。だからこそ、彼女は泣くわけにはいかなかった。

 母の死も、上手くいかない現状も、嘆いたところで変わらない。そんな暇があるならば、策の一つでも考えていたほうがまだ建設的というものだ。

 だから彼女は耐えた。その苦しみを、苛立ちを、痛みを。

 すべては戦う為に。

 彼女は震える手で何度も涙を掃い、ただひたすらその涙がおさまるのを待ち続けた。



 扉の向こうで気配を消しながら、部屋のなかで声を殺して泣く美鈴のそれに和光は立ち尽くした。

(また、泣かせてしまった)

 どうも先ほどの言葉は間違っていたようだ。だが他にどう言えばいいのか、彼には分からなかった。

 しばらくそうしていた和光だが、部屋の前に立ち尽くしたところで何もなりはしないのだと気付いて、のろのろと動き出す。

(どうすればいい)

 今の美鈴は警戒心と猜疑心ですっかり疲弊してしまっている。あんな状態では早晩身体に影響が出てきてしまうだろう。何より、あんな風にして泣かねばならないなんて。

 辛すぎる現状に和光は心を痛めた。

(せめて、誰か一人でも胸のうちを明かせる者がいれば)

 だがそれも無理な話だろう。彼女は意図的にそうした者を排除している。

 ならばその他で彼女を癒せるものはないだろうか。

(私にできることは何だ?)

 だが先ほど彼女が言っていたように、和光が何かをすればするほどあの少女を追い詰めてしまう気がした。

 思わず足を止めて考え込んでしまった和光に、まさに幸運としか言いようがない声がかけられた。

「あら、国枝さん。今日のお勉強はもうお終いですか?」

 美鈴が気を許している数少ない人物、女中頭の春江が気遣わしげにこちらに歩いてきたのだ。

「ええ。お嬢様がお疲れのようで。もっとも、お嬢様はそうは仰らないのですが」

 和光の言葉に、春江は「まあ」と目を見開いた。

「お嬢様は納得されましたの?」

「……………怒らせてしまいました。岸田さん、どうかお嬢様の様子を見てきてはくれませんか? 気落ちしていると思われますので」

 この女中頭があの状態の彼女をほうっておくはずがないし、きっと春江ならば自分と違ってできることも多いはず。

 和光の頼みに春江は「分かりました」と頷き、それからふわりと微笑んだ。

「それにしても、国枝さんはずいぶんとお嬢様に気に入られましたねぇ」

「先ほどはお怒りのご様子でしたが?」

「あら、それが気に入られている証拠ですよ。お嬢様は気を許した人にしかそうした感情を出しませんもの。何より、あんなにも傍に置きたがるなんてよっぽどですわ」

 傍に置きたがるのは当然だろう。何しろ勝負ゲームのことがあるのだから。

 だがそれを知らない春江の目には仲が良いと映るらしい。

(とんだ勘違いだ)

 そう思った和光に、しかし春江は嬉しそうに言った。

「それに、国枝さんはお優しい方ですもの。お嬢様が気に入るのも分かります」

「…………………は」

 何を言われたのだか一瞬判らなかったが、どうやらそれはお世辞などではなく本気のようだった。だから和光は丁寧に訂正した。

「いいえ。優しくはないのです。現に今、お嬢様に退出しろと言われたばかりです」

 自分がもっと彼女に優しくできたのなら、そんな結果にはならなかっただろう。

 けれど春江の微笑みは深くなるばかりだ。

「そうやって気になさるところがお優しいと言っているのですけれど。

 でも、そうですね。このところのお嬢様は無理をしすぎですものね。どうにかして、休息をとっていただかないと」

 やはり春江もそこは気にかかっているようだ。

 考え込んだ春江がふと和光を見つめる。そして何を思いついたのか、ぱっと顔を輝かせた。

「良い考えがあります! 美鈴お嬢様を喜ばせる、とても良い案が」

 それはありがたい。是非ともそれを実行してほしい、と伝えようとした和光に春江が言った。

「でも、それには国枝さんの協力が必要ですわ。お力を貸してはくださいません?」

「もちろん、かまいません」

 自分にできることがあるとは意外だったが、和光は即座にそう返していた。

 あの少女の為になることならば何でもしよう。どんな協力も惜しまない。そう和光は考えていた。

 和光に微笑んで、春江はその『良い案』を提案した。

「………………それは、本当に可能でしょうか?」

 にこにこと実に楽しげにその案を説明する春江とは対照的に、和光は渋い顔だった。

 その案は、失敗する危険性を多分にはらんでいたからだ。

 だが春江は自信たっぷりに言い切った。

「できますとも。国枝さんならば」

 こう言われてしまっては腹をくくるしかない。

「分かりました。では、準備に取り掛かりましょう」

 どうあっても成功させてみせる。静かな決意と共に和光は春江に頷いた。









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