第一章 出会いはメープルシロップがけのホットケーキから ―起動―
もう二度と覚醒することはない、と考えていた意識がはっきりしはじめた時、彼が真っ先に思ったことは単純な疑問だった。
(何故、私はまだ生きている?)
彼の場合『生きている』と表現することのほうが間違いなのだが―そもそも彼には『命』なるものはないはずなので―起動を始めたばかりの擦れた思考は考えた。
(まさか、死後の世界―――――なわけはない、か)
彼はちらっと考え、目の前で起きている現象と照らし合わせ、それはないと判断した。
というより、そんな考えを持つ時点で彼にとっては思考のエラーだ。
(私は起動した)
それが彼の確かな事実だった。
(何の為に?)
そしてその疑問もすぐに解消されるということを、彼は失念していた。
「起きたかい?」
自分を覗き込む男がいた。歳は五十代半ば頃か。ほりの深い輪郭に眼鏡をかけた白髪交じりの男だった。
その男が視界に入り、やっと彼は思い出した。
(そうか)
自分が起動したということはすなわち何者かが自分を、自分の能力を欲しているのだということを。
「貴方がマスターですか?」
彼は目の前の男に確かめた。
「ああ、そうだ」
男は頷いた。
それでもうすっかり、彼は全てを理解した気になってしまった。
(仕事だ)
その事実は単純な驚きを彼にもたらした。まだ自分に使い道があったとは。
だがそうでなくては、この目の前の男は自分を起動させたりはしないだろう。
そんなことを考えていた彼に男が尋ねた。
「動けるかね?」
くだらないことに思考力を割いている場合ではなかった。
彼は反射的に「はい、マスター」と答え、すぐに身体の稼働率を知るべく腕を動かしてみたが、そのあまりの鈍さにすぐに謝ることになった。
「すみません、マスター。身体が正常に稼動するまで、今しばらくかかるようです」
そんな彼の様子に男は驚き、慌てたように言った。
「すぐに動こうとしなくても良い。動ける範囲から着実に行なってくれたまえ」
その聞き慣れない男の口調に彼の思考が止まる。
(…………くれたまえ?)
だが男―もといマスターの指示に従うことが優先される為、そのことを考えるのは後回しにした。
指示された通り、動ける範囲から着実に、そしてできるだけ素早く彼は身体を機能させていく。その結果、五分とたたないうちに上半身を起こすことに成功した。
「どうかね? ずいぶん長いこと眠っていたようだから、身体に不具合が出ていてもおかしくないはずだが」
成る程、この身体の動きの鈍さはそれが原因か。だがそれを前提に考えてみれば、身体の調子は想定内といえるものだ。
「微調整で修正が可能なところばかりです。特にメンテナンスは必要ないと思われます」
彼がそう告げると、マスターの男は顔を綻ばせた。
(笑った?)
この時点で彼は、どうやら今回の『仕事』は以前行なっていた『仕事』とは違うのかもしれない、と予見した。
第一、今までのマスターのなかに目の前の男のように自分に微笑んだり、ましてや「くれたまえ」などと、こちらを気遣うような口調で―使った方は無意識だったのかもしれないが―接してきた者など皆無だったからだ。
「よしよしよし。では君、そうだ名前をつけなくてはいけないな。うぅむ、とりあえず
名前。国枝。それらから考えて彼はマスターに確認した。
「それが今回のコードネームでしょうか」
が、彼の推測は外れた。
「コードネーム? 違う、違う。国枝というのは私の秘書の名字だ。その方が自然でいいかと思ったんだが、まあ、本人が嫌だというなら変えてもいい。
とどのつまり、何でもいいのだよ。君、何か名乗りたい名前でもあるかね?」
何でもいい、とは何事か。そして自分が名乗りたい名前、ときた。
「ありません。国枝でかまいません」
言いながら彼は本格的に(これは今までの仕事とは違うぞ)と思った。
「そうか。では国枝、まずは着替えだ。ここに用意してある」
言われて彼は命じられるままに着替えた。
仕立ての良いスーツに艶のある革靴。よくよく見ればマスターの服装もさりげないが質の良いもので、彼は(もしや、道楽として私を起動させたのか?)と考えた。
ありえない話ではもちろんないのだが、可能性は限りなく低かった。
彼は道楽を目的に造られてはいないし、その目的に叶う容姿でも能力でもなく、なにより彼を起動させるには高額な料金を支払う必要がある。
と、そこまで考えて、ふと彼は疑問を抱いた。
(何故、この人は私を起動できたのだ?)
彼の身体はもちろん、彼の意識を起動させる権限は彼の所有者が握っているはずなのだ。
所有者とマスターはまったく別のものだ。マスターは絶対の指示者であり、所有者とは彼の権限の一切を有する者のことを指す。
そして――――そう、彼はその所有者に破棄を決定されていたはずなのだ。
目覚めることなど、本来ならばありえなかった。
たった一つの、ある可能性を除いては。
「おお、なかなか良いじゃないか。似合っているぞ、国枝」
にこにことそんなことを言ってくるマスターに、彼は―今までならばけしてしなかった行為なのだが―尋ねた。
「確認してもよろしいですか? マスター」
「うん? 何を?」
「私の所有者は、貴方、なのですか?」
自分の声がひどく遠くから聞こえているような錯覚に彼は陥った。まるで夢を見ているような、そんなことは絶対絶対ありえないのだけれど、そんな風に思えた。
そんな彼にマスターのその男は満面の笑みで答えた。
「そうだ! そうだった。言うのを忘れていたな!
私はお前を買った。とんでもないお金を払ってだ。くだんの秘書に呆れられたぞ」
やっぱりそれは夢のようだった。彼は夢など見たことはないけれど、彼にとってはまさに今この瞬間が夢ではないかと疑うような事態だった。
「そうか、そうか。だからあんなことを言っていたのか」
言葉もなく立ち尽くしている彼に、マスターの男は何やら一人で納得し、そして彼の肩をつかんで歩き出した。
彼はそんなマスターに引きずられるようにして歩き出した。
頭の片隅で(道楽目的で、私を使う可能性は)と考えながら―そしてそれはどう考えてみても悪い使用方法しか思いつかなかったが―それでも彼は経験したこともない開放感を噛み締めて、マスターの男に導かれるままに歩いた。
長い廊下を歩き、セキュリティのある頑強な扉をくぐり抜け、建物のフロントと思わしき所まできて、ようやく人と遭遇した。
「西園寺さん、無事起動しましたか。いやぁ、良かったですね」
「ええ、この通り。実に良い物を購入できました」
そんな会話をして、マスターは彼にしばらくここで待つように言うと、受付で手続きをすませてすぐにもどってきた。
「さあ、これでいい」
マスターはそう言ってまた歩き出す。今度は肩をつかまれていなかったが、彼は一緒に歩き出した。
エレベーターホールから上へと上がり、そしてまた幾つかの扉をくぐって、ようやく外が見えた。
大きなガラス窓から見えるのは、長閑な山間。晴れ渡った青い空には、真っ白な雲が浮かんでいた。
思わず足を止めてしまった彼にマスターの男も一緒に立ち止まる。
そして実に満足げにマスターは言った。
「うむ。まったくもって、門出に相応しい日だ」
そして「では、行こうかね」と彼に笑いかけた。
相変わらず彼の頭には『道楽目的でのとんでもない使用方法』がちらついていたが、そのマスターの笑みはそれを払拭するようでもあり、彼は微笑みを返した。
「はい、マスター」
そして彼はその建物を出た。
外には柔らかい風が吹いていた。暖かな日差しが感じられ、彼は(ああ、今は春なのだな)と知った。
彼はついにその建物を出ることになった。長らく彼を縛りつけ、保管し続け、使い続けたその研究施設から。
彼は開放された。
もっとも、また別のものが彼を縛りつけるだろう。だがそうと分かっていてもこの瞬間は紛れもなく解放だった。
彼は目の前の男に感謝した。そして、ほんの少し期待した。
(どうかこのマスターが私を使ってとんでもないことをしませんように)と。
その可能性がどれだけ低いかも承知しながら、彼はマスターの後をついていく。
ロータリーには一台の車が待機していて、運転手は二人を見るなりさっと車からおり、恭しくドアを開けた。そこにマスターは自然に乗りこんだのだが、彼はちょっと躊躇った。
この場合、自分はどうするべきなのかを考えたのだ。
「どうした? まさか、車の存在を忘れているなどということじゃないだろうな」
立ち止まった彼にマスターが訝しげな顔で言った。彼は仕方がなくマスターに聞いた。
「どこに乗ればいいのでしょう。運転手はいるようですので、助手席か、それとも」
するとマスターは難しそうな顔をして、それから溜息を吐いた。
「難儀なヤツだな。そんなもの、私の隣に乗ればよかろう」
彼は急いで反対側へと周り、マスターの隣に困ったような情けない顔で乗り込んだ。
「すみません。このような事態は経験がないもので」
「成程。まあ、確かにそうだろうな」
マスターはまた何やら一人で納得し、それから「むう、さきが思いやられる」と呟いた。
「?」
それが何のことを言っているのか彼にはまったく見当もつかない。ただなんとなく、自分の推測している『とんでもない使用方法』ではないような予感もした。
幸か不幸か、その予感は当たる。
マスターは何の気なしといった風に彼に尋ねた。
「ときに国枝、お前、ホットケーキは焼けるかね?」
彼にはマスターの質問の意図はまったく分からなかった。
(何故、ホットケーキ?)
しかし彼は正直に答えた。
「焼くことは可能かと思います。実際に焼いた経験はありませんが」
マスターはさらに「うぅむ」と唸った。どうも問題が発生しているらしい。
「ホットケーキを焼かねばならないのですか?」
するとマスターは重々しく頷いた。
「まさしくそうだ。私はその為にお前を購入したのだからな」
彼はもう言葉が出てこなかった。
(ホットケーキを焼かせる為に、私を買った?)
彼は頭のなかが真っ白になるという、経験のない状態になっていた。
そんな彼にマスターは何を勘違いしたのだか、力強く言い放った。
「なぁに、大丈夫。何事も練習しさえすれば上手くいく。そう、百枚ほど焼けば、きっとお前だってあのホットケーキを焼けるようになるだろうさ。
心配するな! 私が存分に付き合ってやる!」
彼にはもはやマスターが何を言っているのか理解できなかった。
ただ自分の推測からはとんでもない方向に外れ、『まったく考え付かないような使用方法』へと変わったらしい、ということだけは分かった。
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