第一章 出会いはメープルシロップがけのホットケーキから ―全自動人形―
そんなやり取りがあったことなど知るよしもない正孝の娘、
「お久しぶりです、お父様。娘の顔などお忘れになったかと思っていましたが」
対して、冷たい視線を向けられたというのに、その父はご機嫌そのものだった。
「忘れるはずがないだろう、愛しい我が娘! 元気だったか、美鈴!」
ソファーに座っている娘をがばりと抱擁し、じょりじょりと髯を娘の頭に擦りつけるように頬ずりをする。
「元気でしたとも。ですから、さっさと止めてください。髯が気持ち悪いです」
振り払いはしないものの、娘の顔は明らかに嫌がっていた。
というより父親の頬ずりを喜ぶ女子中学生が果たしてどれだけいるものか。ファザコンでもない限り嫌がるのが普通というものだろう。
「久しぶりだというのにこのつれなさ。父は悲しいぞぉ」
そうは言いながらも、離れる正孝の顔はにこやかだ。
娘の行動はどんなものでも頬を緩ませてしまうタチらしい。それが自分に向けられる嫌悪の顔でも可愛くてしかたがないといった親馬鹿ぶりだ。
美鈴はそんな相変わらずな父に溜息を吐いて本題を切り出した。
「いったいどういう風の吹き回しです?
それこそ、私のことなど忘れたかと思われるくらい仕事熱心でしたのに。休日でもない昼中にわざわざ私に会いに来るなんて」
丁寧に問いかけてはいるが所々にトゲがある。だがそれもしかたがないことだろう。
父の顔を見るのは実に一ヶ月ぶりで、母の葬儀後からは片手で数える程度しか会っていないときては、嫌味の一つも言いたくなる。
「うむ。寂しい思いをさせているのは心からすまないと思っておる。だが美鈴、父は片時もお前のことを忘れたことなどないぞ」
「言い訳は結構。それで、ご用件は」
とりつくしまもない、とはまさにこのことだ。
正孝は「うぅむ」と唸り、それから諦めたように机を挟んだ向かいのソファに座った。
「そうだな。今日はお前に話しがあったのだ」
そしてじっと娘を見やると、先ほどの締まりのない顔が嘘のような真剣さで彼女に聞いた。
「美鈴、お前、
ぴくりと娘の眉間が動く。だが彼女はつとめて平静に返事をした。
「母様があんなことになったんですもの。悲しみくれて何がいけないのです」
「いや、悲しむなとはもちろん言っておらん。だが、屋敷に引き篭もってばかりというのもどうか、と言っているのだ」
「何をおっしゃりたいのです? お父様」
まるで毛を逆立てた猫のような娘に、正孝は穏やかに言った。
「なあ、美鈴、私とて蓉子を亡くして哀しくないはずがない。痛みは同じだ。だからこそお前が心配なのだ」
その口調に美鈴は嫌な予感を覚えた。父が「お前のことが心配で」と言ってやらかした過去の数々の騒動が脳裏に浮かんだのだ。
だが哀しいかな、止めようにも今回はどうやら手遅れらしい。
「そこでだ!」
ぱちりと指を鳴らす父と、同時にすっと前に進み出た青年に、美鈴はそれを悟った。
彼のことは父を出迎えた時から気にはなっていた。ただ、あまり詮索しないほうが良いだろうと棚上げしていたことが悔やまれる。
歳は二十代後半頃だろうか、若い感じはしないが、さりとて中年といった風でもない。身長も高いとも低いとも言えず、しいていえばボディガードによくいそうな体型をしていて、顔もごくごく普通。というより平凡を通り越し、どこにでもいそうな顔立ち。髪形もこれまたボディガードがよくするような黒髪のオールバック。はっきり言えば、とても印象に残りにくい青年だった。
実を言えば美鈴の不機嫌の一因は彼にもあった。久々の親子の時間だというのに、無粋にも彼はこのごくプライベートでしか使わないリビングの一室にまで同行しているのである。
ボディガードにしては距離が近すぎるし、だからといって父の親しい知人では絶対ないだろう。何しろここまでの間、彼は一度も口を開いていないのだ。
だが美鈴は、ただ父の後ろを影のようについていく無機質な彼の態度が気に入らなかった。
だというのに、まさかの言葉を父親から聞かされることになる。
「紹介しよう。これは
「……………はい?」
美鈴は一瞬、耳を疑い。そして次は父親の言葉を疑った。
ボディガードというのはまだ分かる。が、兼任する職業が間違ってはいないか?
思い切り不審そうな顔をする娘に正孝は自信満々に胸を張った。
「こう見えて和光の腕は確かだぞ」
いや、どっちの腕のことを言っているのだろう。
「父様、冗談を言っているなら殴りますわよ? そして本気ならこの部屋から出ていきます」
座った目でそう言う娘に正孝は慌てた。
「いやいやいやいや! そう結論を急ぐな。なに、彼の腕を確かめてからでも遅くはなかろう」
「よく分かりました。本気なのね。もういきます」
「待て待て待て。待ってくれ! 私もそうとうの覚悟でこやつを購入したのだ。
もしここでお前に突っ返されたら、慶介を激怒させてしまう」
そこで美鈴は、はたと止まった。
本当に部屋を出ていこうと腰を浮かせかけていたところだったのだけれど。
「購入? 雇った、の間違いでは?」
さらに嫌な予感が強まって美鈴は父親に問いかけた。
すると彼はまるで悪戯をしかけた子供のようにニヤリと笑った。
「いいや、購入であっている。私は考えたのさ。どうしたらお前を守れるのか。
むろん強くなくては駄目だ。そしてお前を元気づけられる者でなくてはならない。
そうして考え抜いた末の結論が彼―――――
美鈴は目を見開いた。
「
美鈴の腰は完全にソファーを離れた。そして彼女は仁王立ちで父親に怒鳴った。
「いくらしたの! 冗談じゃない、返品してきなさい!」
大層な剣幕だった。
それもそのはず、富裕層では浸透しているとはいえ、
愛玩用、護衛用、雑無用、色々な型はあれど、これほど人間そっくりの動作をする物となればそれなりの値段になることは簡単に想像できた。
そんな物をぽんと娘にくれてやるなど正気の沙汰ではない。そもそも娘はそんな物はまったくお望みでないというのに!
しかし父はそんな娘の気持ちをこれっぽっちも解さぬのか、にこにこととんでもない事を言ってくれる。
「あいにくこれは特注品でな。返品不可だ」
あまりの衝撃に美鈴はふらふらとソファーに座り込んだ。
(なお悪い!)
ああ、やはり部屋を出ていくべきだった。こんな話は聞いてはいけなかったのだと、彼女は後悔した。
「なに、先ほども言っただろう。結論を急ぐな、と」
けろりと言う父を美鈴は睨んだ。
「腕を確かめてから、ともおっしゃいましたね」
そしてそのまま美鈴は鋭い視線を青年へと移す。
「判りましたわ。確かめましょう! そして私が失格と判断した場合には!
即刻、お父様にお返しいたします! いいですねっ?」
有無を言わせぬその勢いに正孝は「むぅ、仕方がない」と頷いた。
「よかろう。お前がこの者の腕を良しとしなければ、私が彼を引き取ろう」
そして正孝は青年をじっと見つめると「大丈夫だ。お前にならできる」と言った。
「了解しました」
これまた低くも高くもない、特徴のない声がそう答えた。
(喋ったわ)
思っていた以上に人間そっくりのそれに、美鈴は内心では驚いたが顔には出さなかった。
ここで彼に興味があるような素振りをするのは危険だ。
「それで、腕を確かめるって、どうするのかしら? 警備員のなかで一番強い輪島さんにでも勝ってみせてくれたら、認めてあげても良いけれど」
もしかしたらそれもありえるかもしれない、とは美鈴もちらっと思った。
なにせ目の前の青年は
(でもそうなったらそうなったで、使用人を攻撃するような危険な物はそばに置けない、とか言えばいい)
ようは美鈴が認めなければいいのだ。
だがそんな彼女を嘲笑うかのように、父はしれっとその案を却下してくれた。
「うん? 何を言っておるのだ、美鈴。和光はパティシエだぞ?」
「……………………はい?」
いや、まさかの、そっちの腕前?
だがまて、だいたい
混乱する美鈴を尻目に、青年は「では、しばしお待ちを」と部屋を退出してしまう。
「え? ほ、本当に? 彼が、お菓子を作るの?」
あんなにも滑らかな動作ができるならば、お菓子くらいは作れそうなものだけれど。
駄目だ。彼がお菓子を作る姿なんて美鈴にはとても想像がつかない。
呆然としている娘に父は微笑んで頷いた。
「そうだ。繰り返すが、和光の腕はなかなかだぞ」
そしてどこか寂しそうに、だが本当に愛おしそうに呟く。
「お前はきっと気に入るよ」
それは、そうであってほしいというよりも、そうなることが判っているというような、諦観めいた響きのある声だった。
(父様?)
いったい何を企んでいるのか、そしてどことなく感じる不安は何故なのか。
美鈴は必死で考えをめぐらせたが答えは出ない。
「お待たせいたしました」
その声に美鈴はびくりと背筋を震わせた。
答えの出ないままに、あの青年が銀のお盆を手にもどってきてしまったのだ。
「では、お嬢様」
ごく自然にそう呼ばれ美鈴はむっとしたが、今は目の前の物に集中しなければ、と気を引き締める。
お盆にはご丁寧に覆いがしてあり、いったい何のお菓子を作ってきたのだか見えなかった。
(でもダメよ。どんな素晴しいできの物でも美味しいなんて言ったりしないんだから!)
くっと顎を引いて美鈴は高らかに言った。
「いいわ。確かめようじゃない」
青年はそれに小さく頷くと、さっと覆いをとった。
立ち上るのは、温かな湯気と甘さを含んだバターの香り。美鈴は息を呑んだ。
(どうして、これが)
そこにあったのはシンプルすぎるほどのお菓子だった。
飾りも何もない、バターをのせメープルシロップをかけただけの、二段重ねのホットケーキ。けれどそれは、美鈴に十分すぎる衝撃を与えた。
「まさか、これは」
彼女は父を見、そして青年を見る。
青年はじっとそんな彼女を見つめ、それからそっと頭をたれた。
「どうぞ、お召し上がりください」
美鈴は震える手でナイフを持ってそれを切り分けると、フォークで一切れを突き刺した。
その、あまりにそっくりに見えるホットケーキ。
まさか、そんなことがあるはずがない。そう思いつつ口に入れた、その瞬間。美鈴は、あの夢うつつに聞いた音が夢ではなかったと、そう思ってしまったくらいだった。
ああ、母様が作ったホットケーキだ、と。
そしてそう思ったら、視界が滲んだ。
「っつ――――、んっく、ふ」
甘いメープルシロップとバターが溶け合い、しっとりとした柔らかな生地がそれらを包み、ゆっくりと喉を下りていく。
なんで、どうして、どうやって。色々な疑問があったけれど、その味はただひたすらに懐かしかった。
ぱたぱたと涙が膝に落ちたが、ホットケーキを食べる手は止まらなかった。
青年はそんな美鈴を見るとそっと部屋を出て行った。
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